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Walk With God Ministries

23 6月

時は迫っている            坂  達 也 2020年6月23日


時は迫っている

 

                 坂  達 也

 

 先週私は、「終末の日に主だけを見上げる」というメッセージを書きましたが、これに続く格好のメッセージを、たまたま導かれて見つけましたので、今週はそれを載せさせていただきます。

下記のメッセージは2009年11月7日に私自身が書いたものの一部です。

 

時は迫っている

 

                 坂  達 也

 

 「聖書が何を要求しているかを一言で要約せよ」と言われれば、私は躊躇することなく「創造者の父なる神の御声に聞き従え」であると申し上げます。「聞き従うなら祝福を、従わなければのろいを」(申命記11:27,28)が聖書の単純明快な中心テーマの一つであり、それをこの世で最も忠実に(死に至るまで)実行して私たちのために模範を示されたのがイエス・キリストでした。一方従わねばこうなると言う見せしめを、私たちはイスラエルの長い歴史を通して知ることが出来ます。

 

 そのことに気がついている人は本当に幸いです。今の時代、世の終わりが刻々と近づいて来ていますが、それは人間が自分の思いで自分のために生きた時代、云ってみれば「個人の野心の時代」が終焉すると言う意味です。このことは、当然ながら、自分のために生きるのが通常の未信者の世界に当てはめられますが、私はそれ以上にクリスチャンに向かってそれを申し上げたいのです。

 

真のクリスチャンとは

 

 クリスチャンが今最も厳しく反省しなければならないことは、「自分のしたいことをして、何となく自然体で生きている」姿勢です。クリスチャンと云えども放っておけば自然に流されて「個人プレー(自分中心)のかたまり」のまま人間的に生きてしまいます。そのような生き方の正反対が「主の御声に聞き従った毎日」を生きる生き方です。

 そのためには多くの場合、人間が自然に生きる生き方に逆らって生きねばならず、それには大変な信仰による決意と努力が必要です。まさにヨシュア記1:8にある「この律法の書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさなければならない。」の「律法の書」を「御心を知りたいと言う願いと祈り」に置き換えて実行することにあると思います。それは主のご計画にのみ従って生きることをとことん思い詰めることです。

 

そのような願いと思いで日夜を過ごせば、常に主に飢え乾き、主を求める生き方になるはずです。いや、逆に真に飢え乾く人でなければそのような願いと思いは持てないかもしれません。いずれにせよ、それ以外の生き方をしている人は主イエスの後を追っている真のクリスチャンとはいえません。この生き方のためにこそ、私たちはイエスの後を追って自分の(自分に死ぬ)十字架を担いで生きねばならないです。そして、これを実行し本当に主の御声を聞く人だけが主に助けていただいて「死ねる」のであると思います。とどのつまりは、人間関係において「自分に死んで主に生きてもらう」ことをどこまで実行するか、実行できるかの問題ではないでしょうか。

 

 イスラエルの民は、自分たちが直接神の御声を聞いて死ぬといけないから、モーセが聞いてそれを民に話してくれるように頼みましたが(出エジプト20:19)、これはある意味ではていの良い「逃げ」であり、現代のクリスチャンの多くも教会生活を通してそうしているのではないでしょうか。私たちクリスチャンは誰でも主の御声を直接親しく聞く特権があるだけではなく、それを実行する義務があり、重ねて申し上げますが、そうしなければ基本的にクリスチャンとは言えないのです。

 

 今「先を急いでおられる」主は、そのような人だけを求めておられます。なぜなら、そうでない人は使いものにならないからです。主に用いれられるかどうかは、主の御声に忠実に聞き従うかどうかの一点にしぼられます。

 

 しかし「何かする」ことがクリスチャンの究極の目的ではないと反論される方もおられるでしょう。その通りです。私たちは「イエスのようになる」あるいは「イエスを頭とした一つのからだの一部になる」、「イエスの花嫁になる」ことが最終目的です。つまりは「すること」ではなく、「なること」です。

 しかし、その最終ゴールに達するためにこそ、主は私たちを召して修行させます。それが主の御用をすることである訳です。その一番卑近な例が教会形成(あるいは特別な目的を持ったミニストリー=例えば私たちのWWGM)とその運営にあります。

 主は、私たちにそれぞれに役割や、仕事を与え、それを私たちが御心に従って逐次実行する時に成果を挙げさせ、成し遂げさせます。すなわち、「・・・になる」ためには「・・・を実行する」と言うドリルを通して訓練されるのです。(終わり)


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