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Walk With God Ministries


26 03月

栄光のベールを取り去る ケイティー・バーカー


栄光のベールを取り去る

 

ケイティー・バーカー(Bring The Fire Ministries)

 

 

この2週間、聖霊が私に 「unveiling」という言葉を何度も語られました。そして主は、今は多くのものを覆っていたベールをとりのけて,はっきり物事がわかるようにするシーズンであることを教えてくださいました。「unveiling」とは、「物事を覆っていたベールを取りのけて明らかに現す」という意味です。

 

隠されていた者たちが現れる

 

今までキリストの内に隠されていた者たちが、主によって立ち上がり、光を当てられています。彼らは心が聖く、主に服従する者です。試煉や困難を通るときにも、平安を保ち続けます。彼らの平安と希望は主の内にあるからです。彼らは強い信仰を持ち、主を信頼し、常に主から目を離しません。

彼らは主が忠実に約束を果たしてくださることを知っています。聖霊の導きに素早く従います。主は世界中に隠されていたご自分の民の覆いを取りのけて、この世に現し、彼らは神から召されているデスティニーへと立ち上がります。

彼らはこの時のために隠され調えられてきたのです。この時のために立ち上がり、神の御国を拡大するために自分の影響力の及ぶ範囲を広げ、そこでは物事が御国と一致していくようにします。

 

主ご自身と主の道が更に明らかになる

 

神の民が天的なものだけに目を注ぎ主に服従するので、主はご自分と主の道を更に明らかに示してくださっています。神の民は今まで経験しなかったような革新的で燃え尽くすような神の愛に出会います。

神は更に大きな愛と力を注いでおられます。神の民は神の大いなる不思議と愛の大きさを知り、神の愛によって人々に影響を与えていきます。

主にだけ自分の心を定め、主の道を追い求めます。

 

彼らが神に近づくので、主はさらに彼らに近づいてくださり、ご自身について、また彼らが主にあってどのような者であるかを更に深く示してくださいます。神の完全な愛は恐れを取り除き、更に深い親密さと高いレベルの平安と自由へと神の民を導いています。

ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」

エペソ3:18−19

「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」

 

奥義と真理にかけられた覆いが取り除かれる

 

主は、ご自分が信頼される者や主と同じこころを持つ者たちに奥義と真理を明らかにし啓示されます。私は、主の道の奥義と真理のベールや、人や地域、また国家に対する主のご計画のベールを主が取りのけているのを見ました。

私たちは今、そしてこれからも偉大な啓示が解き放たれる時に生かされているのです。

地上で大いなるシフトが起りました。

今の時代が歴史上に持つ大きな意味を主は明らかにされています。聞く耳や見る目のある者は、今この時に主が何をしておられるのかという偉大な啓示を受け取っています。又主は、主の民を御ことばに引き寄せられて、聖書の新しい啓示を与えられています。私は人々がある聖書箇所を新しい天からの洞察をもって読み、神の御ことばの偉大な真理の明らかな啓示を受け取っているのを見ました。

 

ダニエル2:22

「神は、深くて測りしれないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。」

エレミヤ33:3

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」

 

新たなる任務が明らか示される

 

今は多くの人々への新しい任務を主があらわされ与えられる時です。主は地上における主のご計画を促進されておられるからです。多くの任務とそのための戦略は今までのものとは違います。それは主が主の民を新しい領域に導いておられたり、人々を以前よりももっと引き延ばし広げたりされているからです。今は以前にも増して、神の民が聖霊の導きに服従し信仰をもって一歩外に踏み出す必要があるのです。

主は、今までの任務を忠実に果たした者たちに、今までより大きな権威と影響力のある任務を与えられています。多くの場合、同じような任務を受けた者たちが一致してチームとなるので、御国の影響力が更に増大し進展します。

 

エペソ2:10

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 

不正・不法があらわされる

 

神は正しく義なるお方です。主は個人の不正と共にその国や地方の不正もあきらかにされています。不正をあばくことによって、神は私たちが敵に奪われたものの補償と返済をもたらしています。

キリストのからだの多くの者が今まで大きな敵の妨害にあってきましたが、今主は告発する者を黙らせ、御国の正義をもたらしておられます。更に神は、地上で神の義を行使し実現するように神の民を召しておられます。

また、聖霊が与えた天の命令を宣言し、神の義とまことが勝利するのを見るように神の民を召しておられます。

 

ヤコブ4:12

「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。、、」

ローマ8:33−34

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 

神と一致すべき領域を明らかに示す

 

来るべきことに備えて、主は地上の物事を整えておられます。現在起こっている霊的覚醒の一つは、神の御ことばと一致するべき領域の覚醒です。

今は、主が主と一致していない個人、都市、地域、国家を明らかにし、 それらをご自分の御国の基本的計画に一致させておられる時代です。

個々人に対しては、 彼らが主にあるデスティニーに進むのを妨げている部分を、主はあきらかに照らし出しておられます。人を赦さない心、苦々しさ、プライド、恐れ、恥、罪悪感、間違った思考パターン等が、今神の民にはっきりと示されています。

人々が主に服従すると、主はこれらの罪が及ぼす悪影響を打ち破られます。その結果、彼らは新しいレベルの自由と喜びの中を歩き始めます。

教会や団体に対しては、キリストの身体で聖霊の自由な働きを妨げているものを、主は明らかにしておられます。間違った教義、教会の中にある様々な壁、間違った考えが明らかにされています。聖さと主への恐れを取り戻すようにとの召しがあります。

主は、義と主の道と真理のために立ち上がる者、人の意見に支配されず聖霊の導きだけに従う者を起こしておられます。世界中の人々が主の前にへりくだり、地を癒し聖霊の火を送ってくださるようにと主に叫んでいます。

主は今、地域や国家を 一致させています。御国の権威を知り、御こころを地で確立するためにその権威を行使している者たちを主は用い、その地域や国家への主のご計画が成就するようにされています。とりなし手たちも力をもって立ち上がっています。彼らは権威をもって受け取った啓示を語り、悪の要塞が崩され地域のシフトが起こっています。

 

国家のデスティニーを召し出す

 

神が与えたそれぞれの国家のアイデンティティーとデスティニーが再び回復され呼び出されています。とりなし手たちが主の同労者となるので、主は彼らの権威を増し加え更なる啓示を与えられています。とりなし手たちが主が解き放っている任務を担うので、大いなるシフトが国々に起り始めています。

 

詩編2:8「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」

2歴代誌7:14「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」

2コリント7:1「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。」

 

新しい音があらわされる

 

新しい音が天からあらわされています。この音はいろいろな地域の霊的領域をシフトさせます。それは力と権威、覚醒、リバイバル、変革、勝利、一致と愛の音です。この新しい音を持ち運ぶ神の民が起こっていて、様々な地域にそれを解き放っています。

 

神の栄光の覆いが取り去られる

 

「神の栄光が地の上にあらわれる」と主は私に何度も語られました。これから神の栄光を覆っていたものが取り去られ、今までとは違った方法で地の上にますます現れ出ると私は信じます。神の栄光とは神の臨在の目に見える現われです。

とりなし手たちが道備えをし、土台を築き、 御霊が自由に働くことを神の民が許した場所や地域では、神の栄光が現れるようになります。

 

神の民が「神の栄光を持ち運ぶもの」として立ち上がっています。彼らは聖霊の働きが人々に影響を与えるのを助ける器なのです。彼らは精錬の火を喜んで受け、聖霊の火が彼らを通して流れ出る器となったのです。神の火は町々を征服し、イエスの足元にひざまずかせるので、イエスの御名は高く上げられます。

 

ハバクク2:14

「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる。」詩編24:7

「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」 (終り)


19 03月

真の聖さ(Holiness)とは     リック・ジョイナー        2018年3月19日


真の聖さ(Holiness)とは

 

リック・ジョイナー(モーニングスター3月11日礼拝より)

 

ある時、ボブ・ジョーンズ師はサタンのトロフィーが並べてある部屋の夢を見ました。そこにはサタンの戦利品がならんでいました。その一つにダビデの竪琴があり、それはワーシップがサタンによって縛られているということでした。確かに今は真のワーシップではなく、パーフォーマンスになっていたりワーシップをワーシップしていたりすることが往々にしてあると思います。神は真の礼拝者が霊とまことをもって礼拝することを回復されようとしておられます。

 

又、その部屋には「神の聖さ」とかかれたバナーもありました。1800年代の終りから大きなホーリネス・ムーブメントが起りましたが、サタンは素早くそれを抑圧してしまいました。

抑圧されなかった人達もいたと思いますが、多くの場合、真の聖さは律法主義にすりかえられてしまったのです。真の聖さは律法的になることではありません。律法主義は不法を解決する道ではありません。クリスチャンの多くは「聖さ」というと「律法を守ること」と考えてしまい、律法のくびきを負うのです。その結果、教会には批判や裁き、パリサイ主義が満ちてしまいます。詩編には

「 the beauty of holiness 聖さの麗しさ 」(詩編96:9)という言葉があります。それこそ私たちを解放し、神に造られた形へと変えるものです。

 

ヘブル12:14

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」

 

ローマ6:22−23

「しかし、今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」

 

第一テサロ二ケ4:3—8

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあながたに話し、厳しく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、清潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」

 

第二テサロ二ケ2:13−14

「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主の愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」

 

これらの聖句から分かるように、神のみこころはまず私たちが聖くなることであり、そうでなければ、神を見る事も、 私たちに対する神のヴィジョンも見ることはできません。

 

私たちは「私は十字架を信じたときにすでに救われたのではないですか?」と言います。確かに、私たちはイエスの十字架の御業を信じたときに贖われ永遠の命を受けました。しかし、ピリピ2:12には「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」と書かれています。私たちの救いとは、贖われるだけではなく、聖められること、完全に癒され真の姿に回復され、心が一新されることが含まれるのです。そしてこれらは一瞬に起こるのではなく、徐々に変えられて行くプロセスなのです。あなたはボーンアゲインした瞬間に非の打ち所のない者になりましたか?

赤ちゃんでも生まれたときは、どのような人に成長するかはわかりません。それは成長の過程を始めるときにすぎないからです。私たちもボーンアゲインした時はそれと同じです。

 

伝道者の書8:11

「悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。」

 

神は信じられないほど忍耐強く、恵みに満ちておられ、すべての人が救われるのを願う故に罰を下すのを待ってくださいます。自分の犯している罪がずっと罰されないと、「罪をこのまま犯し続けてもかまわないのだ」いう大きな惑わしに陥ってしまう人が大勢いるのです。しかし、罪には常に大きな代価が伴います。イエスは悔い改めた罪人に対しては驚くべき恵みと憐れみを持っておられましたが、自分の義を主張する者たちには非常に厳しかったことを忘れないでください。ですから私たちも自分の正しさを主張し、人に対して批判的であることは絶対に避けねばなりません。イエスの霊は律法的ではなく、私たちも律法主義に陥ってはなりません。真の聖さは律法的に人を縛るものではなく、解放するものです。

 

神の御前にでるために私たちは完全である必要はありません。かえって神の臨在に入ることによって私たちは完全にされていくのです。私たちは大胆に恵みの御座に近づけるのです。それは良い行ないをした日でも、又非常に悪かった日でも変わりはありません。何故ならば私たちは「自分の義」によってではなく、「イエスの血潮」によって神に近づくからです。しかし主を愛する者は、その愛の故に聖くなることを願い求めます。

 

今日教えられている最悪の教義の一つは、「巨大な恵み」と呼ばれるもので、多くの教会に浸透してしまっています。その教えはまったく聖書の真理とはかけ離れているて「あなたの霊はもうすでに主と共にあり、あなたの身体は死んでいるのだから、その身体を用いてあなたはどんな罪を犯し続けてもいい。」というのです。ある者に至っては「主の祈りの『私たちの罪をもお赦しください』という部分は必要ない。何故なら、十字架の贖いを信じたのならばすべての罪は既に赦されているから。」とさえ言います。彼らは聖書の真理を知らないのです。

 

また、その逆の極端さに陥っている教会もあります。「巨大な恵み」の間違った教えを避けるために「『恵み』という言葉を教会で使ってはならない」と言うのです。とんでもないことです。私たちは神の恵みなしには生きてはいけません。ですから私たちはこのような両極端に陥らないように注意せねばなりません。両極端の溝に落ちないように真ん中の真理を歩いていかねばならないのです。

 

「Aliyah アリヤ」という言葉は、ユダヤ人がイスラエルに帰還することや、エルサレムに上って行くことを指す言葉ですが、それは又、主に従っていくクリスチャン生活を指しています。その道は常に上に上る道だからです。

 

箴言4:18

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」

 

私たちの道はどんどんと輝きを増します。もしだんだん薄暗く憂鬱になっていくならば、どこかで間違った方向に曲がってしまったのです。間違った道がそのまま正しい道にもどることは決してありません。ですから間違ったところまで引き返し、正しい道に戻らねばなりません。それが悔い改めということです。

 

私たちをご自分の住処としてふさわしい者にしてくださるご計画を、神はノアやアブラハム、モーセや預言者、そして最終的にイエスを通じて教会に示してくださいました。そのプロセスは、もっと上に、もっと神の近くに上っていくことです。私たちがどれほど神に近づくか、どれほど神に似たものになっていくかには、プロセスが必要であるのです。私たちが神の住処になるための7つの段階がモーセの幕屋(神が人々の中に住まわれた最初の場所)の型に示されています。

 

1.門(イエスが門であり、イエスを通ってでなければ入ることができません。

 2.祭壇:十字架による罪の贖い

3.洗盤:聖化

御ことばによって清められます。洗盤については非常に驚くべき点があります。それは女の鏡で造られていて、私たちは身を清め自分の姿を見るように言われています。主は幕屋に関してはすべて細部に至るまでサイズ、デザイン等を指示していますが、洗盤に関してはそれがありません。

そのこと自体が 聖化に対する主のお考えを示しています。「スカートの長さはこうでなくてはならない」とか「化粧をしてはならない」というような規則ではなく、もし私たちが「聖さとは何か」を定義するならば、その途端に聖さの本質を見失うことになるのです。(勿論性的聖さなどの基本的なことは決められていて、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とガラテヤ5:19−21にある通りです。)キルケゴールは「キリスト教の定義は何か?」と訊かれたとき、それには答えず、「もし私がキリスト教を定義してしまうならば、人々はそれを物差しにしてしまい、イエス・キリストご自身に従うことをしなくなるであろう。」と言いました。聖書にはどのような定義にもあてはまらない、どのような定義より大きなものが顕されています。聖さにある定義を与えてしまうならば、律法主義に陥ってしまいます。あなたが「聖化」「聖さ」について知りたければ、イエスを見てください。あなたが聖くありたければ、主の内にとどまってください。イエスはすべての「〜してはならない」を二つの「〜しなさい」で表されました。即ち「神を愛し、人を愛す」ならば、すべての律法を守ることになるのです。

 

4.燭台  :啓示

5.パンの机:交わり

6.香壇  :高揚

7.契約の箱:栄化

 贖いの蓋は裏も表も金で覆われていました。

 

出エジプト25:11−12

「アカシヤ材の箱を作らねばならない。長さはニキュピト、幅は一キュピト半、高さは一キュピト半。これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。」

 

栄光に近づけば近づくほど、私たちは金(神の御性質)でより完全に覆われなければならないのです。私たちの目標は、主の臨在に近づき、神の栄光を仰ぎ見ることによって聖められ、変えられて行くことであり、律法主義によるのではありません。自分の努力ではありません。私たちが努力すべきことは沢山ありますが、聖くなるのは努力によるのではありません。

 

第二コリント3:16−18

「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

私たちの目には多くの覆いがかぶさっていて、それらの覆いによって神の栄光さえ私たちの目には歪められて映ります。覆いが取り除かれなければ、私たちは決して主の栄光を見ることも反映させることもできません。

ある人たちはすべての物事を、過去に教会で受けた傷を通して見ます。古い傷が癒されていないので、物事が歪んで見えるのです。主の姿さえ歪んで見えてしまいます。またある人たちには「理想主義」という覆いが掛かっています。それは「宗教の霊」の一つの現われであり、啓示を受けるのを阻む最大のもので、人間の理想や人間の期待、願望によって覆いがかかるのです。主は私たちが門から至聖所に向かって進んでいく過程を通して、多くの覆いが明らかに示され取り除かれて行くようにしてくださいました。

 

律法主義を喩えるならば、 花婿に打ち叩かれるのを恐れる花嫁がしみもしわもないように自分を懸命に磨くようなものです。それは恐れを動機としています。しかし私たちのあるべき姿は、花婿を情熱的に心から愛するゆえに完全になりたいと願う花嫁です。主への愛故に自分を聖くするのです。ですから、私たちは「神を愛し、人を愛する」ことにおいてますます成長し、それを土台として築き上げられねばなりません。それ以外の土台はすべて歪んだもの、邪道に私たちを陥れます。

クリスチャンは最終的には実際に愛し合うようになるのです。教会の現状を見ると信じられないかもしれませんが、ヨハネ17章にあるイエスの祈りは必ずきかれることを信じますか?イエスは私たちが一つとなるように祈られました。それはただ教義的に一致するというのではなく、イエスが御父と持っておられた一致と同じ一致を私たちが持つように祈られたのです。イエスのこの祈りの成就に参加すること以上にすばらしい目標が私たちにあるでしょうか?

 

祈り:どうか主を仰ぎ見、主の栄光を見ることができますように。主が私たちのヴィジョンとなりますように。あなたの身丈にまで成長し、あなたが私たちを通して御業をされますように。真の聖さがどれほど麗しいものかという啓示をお与えください。あなたは私たちがそのように聖い者となる目的をもって私たちを造られました。どうかそのヴィジョンを私たちに与え、そのヴィジョンを自分のものとすることができますように。人を裁いたり批判的に見ることなく、人から「あのような人になりたい」と言われるように歩めますように。神を愛し人を愛することを人々に伝染していく者となりますように。イエスの御名においてお願いいたします。アーメン」(終り)


12 03月

解放と福音   ケン・フィッシュ(Kingdom Fire Ministries)    2018年3月13日


解放と福音

 

ケン・フィッシュ(Kingdom Fire Ministries)  

 

以下は去る3月8日モーニングスター・ミニストリーにて行われた「預言的な見方 Prophetic Perspectives」という学びのプログラムのビデオから要約したメッセージです。

現代の教会では悪霊の追い出しということが、あまり行われていません。問題のある人をどこかに幽閉しておくというようなことも以前はありました。悪霊からの解放にオープンな教会であっても、実際にどうように対処すれはよいのかが分からないことが多いのです。追い出しに際しては、劇的な場面もあります。私は別に劇的なことを求めたことはありませんが、実際悪霊はいろいろな現れ方をし、憑かれた人はそれによって大声を出したり、あばれたりしますから、それを避けて上品に追い出しをすることはできない場合が多いのです。 私がこのようなミニストリーを始めたのは、新約聖書の中には癒しと共に多くの悪霊からの解放が書かれているのを発見したからです。私は2色のハイライターを用意して、すべての癒しと悪霊からの解放を色分けしました。それによってある箇所では両方が同時に起こっていることが分かりました。確かに悪霊の追い出しは特に新約聖書に多くありますが、旧約の中にもあります。従って旧約の時代には起こらなかったというのは間違った理解です。 この色分けの作業をした後、私は神に祈り始めました。「どうして現在の教会の中に癒し、解放があまり見られないのでしょうか?」 私はペンテコステ系の教会に通っていて、そこでは確かに聖霊の賜物の教義は教えていましたが、実際に劇的な癒しや解放は見たことがありませんでした。私にはそれが奇妙なことに思えました。 私は数ヶ月の間そのことを祈りました。するとある時、教会のある婦人が袋にはいった沢山のカセットテープを私に差し出し「ご興味があるかもしれないと思って持ってきました。」と言いました。それはジョン・ウインバー師のテープでしたが、それによって私は彼のミニストリーを知ることできたのです。その後私は11年ほど彼と一緒に働く機会が与えられ、自分でもそのようなミニストリーが出来るようになりました。ジョンから「悪霊追い出しのミニストリーをすると言うと、あまり教会から招かれませんよ。」と言われていたので、そのように宣伝したことはないのですが、いつの間にか多くの教会から解放のミニストリー をする要請を受けるようになり、何千という人のために解放の祈りをし、また教えをするようになりました。神はそのミニストリーに油を注いでくださり、今まで30年以上も続いています。

解放のミニストリーに対する私の考え方

悪霊は人々の中にいるべきではありません。クリスチャンの中にも、またノンクリスチャンの中にもいるべきではありません。ですからうむを云わせずに追い出さねばなりません。悪霊は反抗的であり、居座り、人々の生活に問題を起こします。しかし、イエスが来られたとき「天(神)の御国は近づいた。」と言われました。これが主の福音「よい知らせ」であることは皆さんよく知っておられますが、実は「福音・ゴスペル」という言葉はローマの軍隊用語であったのです。当時「福音の進軍」と云えば、新しい皇帝が反抗的な地域を服従させるために軍事行動をとることを意味しました。マルコ1:15でイエスは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。この言葉は当時の人には「わたしは王である。わたしは今からわたしの統治に服従しないものに対して戦いを挑み征服する。」と理解されたのです。従ってイエスが御国の福音のメッセージを伝えることは、悪霊の追い出しや心身の癒しが始まることを宣言されたことであったのです。それはとりも直さず神のサタンに対する「戦線布告」に他なりません。サタンは人間を堕落させるのに成功しましたが、今神が反撃を始められたーこれは戦いを意味しています。 人々は「イエスは柔和で優しい方、戦いなど好まれない」というように思い勝ちです。勿論私たちは人々に対しては優しく接しますが、悪霊に対してイエスは容赦せず「ここから出て行け!」と命令されました。悪霊どもは「まだ時ではありません!」と言って金切り声を上げました。それは彼らには「福音」の意味や神の権威がわかったからです。解放のミニストリーをしたいと思う人は、そのような戦闘的な激しさを持つことが必要です。そこにいるべきではないもの(悪霊)に対して退去するように命じ、妥協の余地は全くありません。神が指揮者であり、私たちは働き手です。私たちは御国を持ち運び、それに反抗する者をすべて立ち退かさねばならないのです。

悪霊からの解放と癒しとの関係

この二つは繋がっていますが、同じものではありません。悪霊はそれ自身が意志を持っていて人の中に入り、取り憑いた人の身体をつかって自分の願望を満たそうとします。癒しは身体やこころの病んだところを正常にもどすことです。 マタイ17:18に「そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。」とあるように、まず悪霊から解放しないと癒しが起こらないこともあります。

一つの興味ある例をお話しします。 オーストラリアで3年ほど前に経験したことです。私は福音派的な教会でメッセージをしたのですが、集会が終りかけたとき、牧師が一人の女性を連れてきて、「どうか祈ってください。精神病を患っています。」と言いました。彼女は3回にわたって入院していたのですが、一回は10年も入っていたそうで、もう25年もショック療法を含めて様々な治療を受けて来たということでした。

私はイエスに「一体彼女に何が起こっているのでしょうか?」と訊ねました。すると主は「母親の中絶について彼女に訊きなさい。」と言われたので「それは変な質問です。そんなことを訊くことは失礼だと思います。」と私は主に答えました。しかし主は「わたしは『母親の中絶のことを訊きなさい』と言ったではありませんか。」と繰り返されました。「主よ、それは全くこの場所にはふさわしい質問ではありません。できません。」と私は答えました。三度目に主は強い口調で「母親の中絶のことを訊きなさい!」と命じられました。私はとうとう「主よ、分かりました。」と言って、女性に「すみません。こんなことを本当は訊きたくないのですが、でも訊かねばならないような気がするのです。もしかしてあなたのお母さんは中絶をしたことがありますか?」と言いました。 彼女は非常に怯えて驚いたように「どうして知っているのですか?!それは極秘のはずです。知っているのは母親と中絶された姉と、私と私の娘の4人だけです。そしてみんな頭がおかしいのです!」と言いました。 私は聖霊の力により「ああ、分かりました。それが理由ですね。中絶されたお姉さんの血が地の中から叫んでいるのに、皆さんはそれを覆い隠そうとしていたのです。」と言って、彼女の額の真ん中に指を2本当て「イエスの御名によってあなたと家族が殺人の罪を隠していたことを赦します。」と宣言しました。

すると彼女は激しく震え床にうずくまり、口から泡を吹き始めました。悪霊が彼女の口を通して金切り声を上げ始め、それは90秒も続いたのです。その声は上のほうに上っていき途絶えました。その女性は床に倒れていましたが、15分ほどすると立ち上がり、「いなくなったわ。私の頭にずっといたものがいなくなった!いなくなった!」と叫びました。 彼女は3人の精神科医にかかっていたのですが、3日後には3人共がもう治療の必要はないと判断しました。彼女の場合は悪霊からの解放が、そのまま癒しとなりました。このように劇的な解放を私は数えきれないくらい経験してきました。

最後に、解放と癒しのミニストリーをしたいと願う人にまず知っていただきたいことは、パウロが1コリント12章でいう九つの聖霊の(預言的)賜物がすべて必要であることです。私の場合は30年の経験からこのミニストリーのためのモデル的な手引書を作りました。それに沿ってミニストリーを行えば80%のケースで成功することができますが、しかし後の20%は、どうしてもその都度主に直接預言的啓示をいただく必要があります。従ってこのミニストリーには聖霊とパートナーとなって進めることが絶対に不可欠であることを強調します。

次に重要なことはどんな場合でも「イエスは必ず勝利する」という確信を持つことです。どのように大きく邪悪な霊であったとしても、イエスの御名に勝てるものはありません。それをあなたがしっかりと信じることなしに悪霊と対決するならば、悪霊はそれを見破り、そこにつけこんできます。そのような確信と権威を持つためには学びと訓練が必要です。解放のミニストリーにより、今まで希望がなかった人々に希望を与え、癒しを与えることができるのです。終末の教会の最も重要な役割は、私たち教会が悪魔と悪霊に打ち勝つことです。このミニストリーが回復されていくことを私は心から願っています。(終り)


05 03月

私が見た終わりの日のヴィジョン ポール・キース・デイビス(2018年2月24日)


私が見た終わりの日のヴィジョン

 

ポール・キース・デイビス(2018年2月24日)

 

2008年7月31日に私がカナダのアルバータにあるレッド・ディアでカンファレンスの講師として滞在していた時、主は非常に意味のある啓示的な経験を与えてくださいました。それは私が夜の集会の準備のために長時間を過ごした後のことで、午後3時ごろでした。

その時用意していたメッセージは、私が数ヶ月にわたって熱心に調べていた箇所からで、マタイ24:37−39にある主の警告に関するものでした。

 

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべて物をさらってしまうまで、彼らはわからないのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」

午後3時ごろ、主がはっきりと私に語られました。「ノアの日に関して極力理解を深めることがあなたに与えられた任務です。ノアの日を滅ぼしてしまったものを、あなたの世代は征服しそれに打ち勝たねばなりません。」

この時の主の言葉によって、それ以来私は、創世記6章を完全に理解し、これからの時代との関係を知るために情熱を燃やし続けて来ました。

私はレッド・ディアのホテルの部屋のソファに座り、創世記6章が今の時代に何を語ってるいるのかと思いをめぐらしていたのですが、その時突然、啓示的霊的経験をしたのです。

私は一瞬にして霊でフットボール競技場で行われている大伝道集会の中に立っていたのです。競技場に置かれた説教壇から語られるメッセージに人々が熱心に耳を傾けて釘付けになっていることに、私はまず気づきました。次にこれが誰の声かわかりました。それは偉大なビリー・グラハム師が、イエス・キリストの十字架の御業を彼独特の素晴らしい言葉で語っている声でした。

人々の服装が1960年代のもののようだとわかりました。グラハム師が4つの法則を用いて油注がれたメッセージを語り、静まりかえった会場に、彼の声だけが響いていました。すると「いさおなき我を Just As I Am」が歌われ、何百人もの人々が彼の招きに応答して、静かに秩序正しく前に出て行来ました。

その時、幻の中の”声”が、「これから来るものはこのようなものではない!」と言いました。その言葉によって、これから来るリバイバルは、グラハム師が語ったように確固たる福音的油注ぎを持つことは変わらないけれど、それに加えて敬虔なる驚異や罪の自覚を促す聖霊の大きな力を現す違う集会になることを私は知りました。それは第一テサロニケ1:5にあるとおりです。

「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」

その声を聞いた時、私は次に自分が大きな会場の広い祭壇の前に立っているのに気がつきました。そこは簡易ベッドや担架や車椅子に乗った病人で溢れていました。昔のリバイバルの写真でしか見たことがないような重度の病人ばかりなので、私は驚きました。

私の右にいる簡易ベッドに寝た男性の身体はプリッツェル(お菓子)のように曲がりねじれていました。その先にはもう一人の男性が車椅子に座っていましたが、彼の両足は骨の病気でひどく曲がっていました。

彼の横には、男性が担架に横たわっていて、その腹部からは大きな腫瘍が露出していました。私はこの光景を見て、実際のところ、勇気づけられました。それはそこにある空気が信仰の霊で満ちていたからです。これらの人々は神の臨在の中で自分が癒され救われると期待し信じるゆえに集まって来ていたからです。

そのことを私が悟ったその時、後の両開きのドアが突然大きく開き、10人くらいの家族が入って来ました。彼らは悪霊に憑かれていることが誰にでもわかるような10代の少女を一緒に連れて来ました。少女は叫び、罵り、大の男たちをまるで布製の人形のように投げ飛ばしていました。

家族の中の男性が、「この状態をどうにかできる人間が、ここには一人くらいいるだろうね!」と要求するように高飛車に言いました。その言葉で、この家族が神の助けを絶望的に求めていることを私は感じ取りました。彼らはすべて出来る事は試してみたのです。この家族を助けることができるのは、キリストの権威と力だけでした。

家族が通路を歩いて来た時、私は彼らに近づきましたが、大勢のとりなし手を集めたり、祈りと断食をする暇はないことがはっきりわかりました。それはカルメル山で光と闇が戦ったときのようであり、神の恵みと明らかな神の臨在が私たちのうちになければ、この壮烈な事態に対処することはできなかったのです。私はすぐに主がガダラの地で悪霊と対決したときのことを思い出しました。

 

また私は、単なる霊的賜物(それは素晴らしいものであるにしても)では、このようなレベルの闇に打ち勝つには十分ではないことを直観的にはっきり悟りました。それには「私の中におられるキリスト、栄光の望み Christ in me, the hope of glory」が不可欠です。

家族に近づいて行った時、私の霊の目が開かれ、この少女に取り憑いている悪霊が見えました。それは3メートル半ほどの高さがありました。

私は創世記6章から学んだことや、主が来られるのは丁度ノアの日のようであると主が警告されたことを思い出しました。自分が今創世記6章に書かれている霊的領域の生き物を相手にしていることがわかりました。肉においてノアの日を滅ぼしたものに対し、私たちは霊において打ち勝たねばならないのです!

突然、霊的権威に対する今ある理解を超えた権威の領域が私のうちに沸き起こりました。そして私の口から「出て行け!」という言葉が大いなる力と権威を持って発せられました。

その言葉が発せられるやいなや、悪霊は少女を離れ去りました。勿論これは、主の再臨の前、終わりに日に現れる大いなる闇に備えて、私たちがそれに打ち勝つために必要な力を求め現して行く必要を教えるためのデモンストレーションでした。大いなる刈り入れをするために、キリストの花嫁はこのような領域のキリストの権威を知るようにならねばならないのです。

悪霊が少女から去ったとき、すぐに家族全員が聖霊に罪を示され自分たちの人生を主に捧げました。そのとき私はまた声を聞きました。「今までアフリカやインドに追いやられていたものがアメリカにもやって来ます。誰かが早急にわたしと一つとなり権威を持たねばなりません。」

その時私が霊で体験したことは、アフリカやインドでは当たり前に起こる霊的戦いであることを私は知っていました。しかしこれまで霊的暗黒の領域、次元からアメリカを守っていたある制御の力が今や大幅に取り去られたのです。

今までもアメリカの特別な地域や状況のなかでは起こっていましたが、これからはそれがもっと全般的に広がって行くのを私たちは目撃することになるのです。私たちは熾烈なこのチャレンジに立ち向かうための備えを今せねばなりません。このようなレベルの敵の攻撃に対してキリストの花嫁は「キリストの満ち満ちている身たけ」というレベルの成熟度に達し、死と地獄、墓に勝利した主を完全に表現するものとならねばなりません。

 

使徒パウロはエペソ4:11−13で次のように勧告しています。

「こうして、キリスト御自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちが皆、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

 

この勧告によって私たちは過去の御霊の傾注とは違うリバイバルの霊のさらなる顕れを見るようになるでしょう。今まで私たちは、過去に顕された啓示と力のマントが、フレッシュで新しいものと一つになることを熱心に追い求めて来ました。

主はヨシュアに、「わたしは、モーセと共にいたようにあなたと共にいよう」と約束されましたが、ヨシュアの働きはモーセのものとは全く異なっていました。それと同じように、私たちは先の霊的チャンピオン達に注がれていたのと同じ啓示と力の霊を受けるかもしれませんが、働きのタイプは大いに異なるものとなるでしょう。

おもしろいことに、この霊的経験をして間も無く、私はあるカンファレンスでハイディ・ベイカー師と共にミニストリーをすることになりました。私はこの機会に私が受けた啓示を彼女に伝え、彼女がアフリカのモザンビークでミッショナリーとして経験して来た深い闇の世界との対決のいくつかを話して欲しいと頼みました。

彼女は躊躇することなく、悪霊に取り憑かれた人のことや悪霊との戦いのことをいくつか話してくれました。それは西洋のクリスチャンには想像もつかず、またそのような悪霊と対戦する備えもできていなような話でした。

しかし私たちがそのような状態であっても、主は私たちのために扉を開いて、このようなレベルの霊的権威と支配力を持つために初代の使徒たちが支払ったと同じ代価を私たちも支払う機会を与えてくださっているのです。

聖書はこれが終わりの日に起こるミニストリーの一部であることを明らかに預言しています。黙示録は、敵が大いなる怒りを持って地に投げ下ろされる時代のことを示しています。また、天で大きな声がして主の民に次の約束が与えられることも書かれています。

 

黙示録12:10−11

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟の告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に到るまでもいのちを惜しまなかった。」

対決の時が迫っています。私がこのメッセージを語り始めてから、すでに数えきれないほど想像を絶する暗黒と霊的横暴さがニュースで報じられています。一人の預言者がはっきり次にように私たちに訓戒を与えています。

 

イザヤ60:1−3

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(終り)