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19 3月

真の聖さ(Holiness)とは     リック・ジョイナー        2018年3月19日


真の聖さ(Holiness)とは

 

リック・ジョイナー(モーニングスター3月11日礼拝より)

 

ある時、ボブ・ジョーンズ師はサタンのトロフィーが並べてある部屋の夢を見ました。そこにはサタンの戦利品がならんでいました。その一つにダビデの竪琴があり、それはワーシップがサタンによって縛られているということでした。確かに今は真のワーシップではなく、パーフォーマンスになっていたりワーシップをワーシップしていたりすることが往々にしてあると思います。神は真の礼拝者が霊とまことをもって礼拝することを回復されようとしておられます。

 

又、その部屋には「神の聖さ」とかかれたバナーもありました。1800年代の終りから大きなホーリネス・ムーブメントが起りましたが、サタンは素早くそれを抑圧してしまいました。

抑圧されなかった人達もいたと思いますが、多くの場合、真の聖さは律法主義にすりかえられてしまったのです。真の聖さは律法的になることではありません。律法主義は不法を解決する道ではありません。クリスチャンの多くは「聖さ」というと「律法を守ること」と考えてしまい、律法のくびきを負うのです。その結果、教会には批判や裁き、パリサイ主義が満ちてしまいます。詩編には

「 the beauty of holiness 聖さの麗しさ 」(詩編96:9)という言葉があります。それこそ私たちを解放し、神に造られた形へと変えるものです。

 

ヘブル12:14

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」

 

ローマ6:22−23

「しかし、今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」

 

第一テサロ二ケ4:3—8

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあながたに話し、厳しく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、清潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」

 

第二テサロ二ケ2:13−14

「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主の愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」

 

これらの聖句から分かるように、神のみこころはまず私たちが聖くなることであり、そうでなければ、神を見る事も、 私たちに対する神のヴィジョンも見ることはできません。

 

私たちは「私は十字架を信じたときにすでに救われたのではないですか?」と言います。確かに、私たちはイエスの十字架の御業を信じたときに贖われ永遠の命を受けました。しかし、ピリピ2:12には「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」と書かれています。私たちの救いとは、贖われるだけではなく、聖められること、完全に癒され真の姿に回復され、心が一新されることが含まれるのです。そしてこれらは一瞬に起こるのではなく、徐々に変えられて行くプロセスなのです。あなたはボーンアゲインした瞬間に非の打ち所のない者になりましたか?

赤ちゃんでも生まれたときは、どのような人に成長するかはわかりません。それは成長の過程を始めるときにすぎないからです。私たちもボーンアゲインした時はそれと同じです。

 

伝道者の書8:11

「悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。」

 

神は信じられないほど忍耐強く、恵みに満ちておられ、すべての人が救われるのを願う故に罰を下すのを待ってくださいます。自分の犯している罪がずっと罰されないと、「罪をこのまま犯し続けてもかまわないのだ」いう大きな惑わしに陥ってしまう人が大勢いるのです。しかし、罪には常に大きな代価が伴います。イエスは悔い改めた罪人に対しては驚くべき恵みと憐れみを持っておられましたが、自分の義を主張する者たちには非常に厳しかったことを忘れないでください。ですから私たちも自分の正しさを主張し、人に対して批判的であることは絶対に避けねばなりません。イエスの霊は律法的ではなく、私たちも律法主義に陥ってはなりません。真の聖さは律法的に人を縛るものではなく、解放するものです。

 

神の御前にでるために私たちは完全である必要はありません。かえって神の臨在に入ることによって私たちは完全にされていくのです。私たちは大胆に恵みの御座に近づけるのです。それは良い行ないをした日でも、又非常に悪かった日でも変わりはありません。何故ならば私たちは「自分の義」によってではなく、「イエスの血潮」によって神に近づくからです。しかし主を愛する者は、その愛の故に聖くなることを願い求めます。

 

今日教えられている最悪の教義の一つは、「巨大な恵み」と呼ばれるもので、多くの教会に浸透してしまっています。その教えはまったく聖書の真理とはかけ離れているて「あなたの霊はもうすでに主と共にあり、あなたの身体は死んでいるのだから、その身体を用いてあなたはどんな罪を犯し続けてもいい。」というのです。ある者に至っては「主の祈りの『私たちの罪をもお赦しください』という部分は必要ない。何故なら、十字架の贖いを信じたのならばすべての罪は既に赦されているから。」とさえ言います。彼らは聖書の真理を知らないのです。

 

また、その逆の極端さに陥っている教会もあります。「巨大な恵み」の間違った教えを避けるために「『恵み』という言葉を教会で使ってはならない」と言うのです。とんでもないことです。私たちは神の恵みなしには生きてはいけません。ですから私たちはこのような両極端に陥らないように注意せねばなりません。両極端の溝に落ちないように真ん中の真理を歩いていかねばならないのです。

 

「Aliyah アリヤ」という言葉は、ユダヤ人がイスラエルに帰還することや、エルサレムに上って行くことを指す言葉ですが、それは又、主に従っていくクリスチャン生活を指しています。その道は常に上に上る道だからです。

 

箴言4:18

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」

 

私たちの道はどんどんと輝きを増します。もしだんだん薄暗く憂鬱になっていくならば、どこかで間違った方向に曲がってしまったのです。間違った道がそのまま正しい道にもどることは決してありません。ですから間違ったところまで引き返し、正しい道に戻らねばなりません。それが悔い改めということです。

 

私たちをご自分の住処としてふさわしい者にしてくださるご計画を、神はノアやアブラハム、モーセや預言者、そして最終的にイエスを通じて教会に示してくださいました。そのプロセスは、もっと上に、もっと神の近くに上っていくことです。私たちがどれほど神に近づくか、どれほど神に似たものになっていくかには、プロセスが必要であるのです。私たちが神の住処になるための7つの段階がモーセの幕屋(神が人々の中に住まわれた最初の場所)の型に示されています。

 

1.門(イエスが門であり、イエスを通ってでなければ入ることができません。

 2.祭壇:十字架による罪の贖い

3.洗盤:聖化

御ことばによって清められます。洗盤については非常に驚くべき点があります。それは女の鏡で造られていて、私たちは身を清め自分の姿を見るように言われています。主は幕屋に関してはすべて細部に至るまでサイズ、デザイン等を指示していますが、洗盤に関してはそれがありません。

そのこと自体が 聖化に対する主のお考えを示しています。「スカートの長さはこうでなくてはならない」とか「化粧をしてはならない」というような規則ではなく、もし私たちが「聖さとは何か」を定義するならば、その途端に聖さの本質を見失うことになるのです。(勿論性的聖さなどの基本的なことは決められていて、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とガラテヤ5:19−21にある通りです。)キルケゴールは「キリスト教の定義は何か?」と訊かれたとき、それには答えず、「もし私がキリスト教を定義してしまうならば、人々はそれを物差しにしてしまい、イエス・キリストご自身に従うことをしなくなるであろう。」と言いました。聖書にはどのような定義にもあてはまらない、どのような定義より大きなものが顕されています。聖さにある定義を与えてしまうならば、律法主義に陥ってしまいます。あなたが「聖化」「聖さ」について知りたければ、イエスを見てください。あなたが聖くありたければ、主の内にとどまってください。イエスはすべての「〜してはならない」を二つの「〜しなさい」で表されました。即ち「神を愛し、人を愛す」ならば、すべての律法を守ることになるのです。

 

4.燭台  :啓示

5.パンの机:交わり

6.香壇  :高揚

7.契約の箱:栄化

 贖いの蓋は裏も表も金で覆われていました。

 

出エジプト25:11−12

「アカシヤ材の箱を作らねばならない。長さはニキュピト、幅は一キュピト半、高さは一キュピト半。これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。」

 

栄光に近づけば近づくほど、私たちは金(神の御性質)でより完全に覆われなければならないのです。私たちの目標は、主の臨在に近づき、神の栄光を仰ぎ見ることによって聖められ、変えられて行くことであり、律法主義によるのではありません。自分の努力ではありません。私たちが努力すべきことは沢山ありますが、聖くなるのは努力によるのではありません。

 

第二コリント3:16−18

「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

私たちの目には多くの覆いがかぶさっていて、それらの覆いによって神の栄光さえ私たちの目には歪められて映ります。覆いが取り除かれなければ、私たちは決して主の栄光を見ることも反映させることもできません。

ある人たちはすべての物事を、過去に教会で受けた傷を通して見ます。古い傷が癒されていないので、物事が歪んで見えるのです。主の姿さえ歪んで見えてしまいます。またある人たちには「理想主義」という覆いが掛かっています。それは「宗教の霊」の一つの現われであり、啓示を受けるのを阻む最大のもので、人間の理想や人間の期待、願望によって覆いがかかるのです。主は私たちが門から至聖所に向かって進んでいく過程を通して、多くの覆いが明らかに示され取り除かれて行くようにしてくださいました。

 

律法主義を喩えるならば、 花婿に打ち叩かれるのを恐れる花嫁がしみもしわもないように自分を懸命に磨くようなものです。それは恐れを動機としています。しかし私たちのあるべき姿は、花婿を情熱的に心から愛するゆえに完全になりたいと願う花嫁です。主への愛故に自分を聖くするのです。ですから、私たちは「神を愛し、人を愛する」ことにおいてますます成長し、それを土台として築き上げられねばなりません。それ以外の土台はすべて歪んだもの、邪道に私たちを陥れます。

クリスチャンは最終的には実際に愛し合うようになるのです。教会の現状を見ると信じられないかもしれませんが、ヨハネ17章にあるイエスの祈りは必ずきかれることを信じますか?イエスは私たちが一つとなるように祈られました。それはただ教義的に一致するというのではなく、イエスが御父と持っておられた一致と同じ一致を私たちが持つように祈られたのです。イエスのこの祈りの成就に参加すること以上にすばらしい目標が私たちにあるでしょうか?

 

祈り:どうか主を仰ぎ見、主の栄光を見ることができますように。主が私たちのヴィジョンとなりますように。あなたの身丈にまで成長し、あなたが私たちを通して御業をされますように。真の聖さがどれほど麗しいものかという啓示をお与えください。あなたは私たちがそのように聖い者となる目的をもって私たちを造られました。どうかそのヴィジョンを私たちに与え、そのヴィジョンを自分のものとすることができますように。人を裁いたり批判的に見ることなく、人から「あのような人になりたい」と言われるように歩めますように。神を愛し人を愛することを人々に伝染していく者となりますように。イエスの御名においてお願いいたします。アーメン」(終り)


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