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Walk With God Ministries


30 12月

夢の草原か、悪夢の草原か      リック・ジョイナー   2012年12月31日


夢の草原か、悪夢の草原か

 

リック・ジョイナー

 

(ジョイナー師からの前書き:このヴィジョンはモーニングスタージャーナルの6.2に載せたものです。非常に多くの方がこれを今読み直し、今の世界状況に当てはまると感じておられることを知り、今回「預言の掲示板」に再び載せることにしました。これは1996年4月に発表したものと同じ内容のものです。その当時の解き明かしが今も正しいと思いますので、それも載せました。)

 

私がアメリカの 経済の将来について 祈っていたとき、長い、青々と茂った草原のヴィジョンが与えられました。これは長期間の経済的繁栄を表しているものだと私は感じました。そしてヴィジョンを見た時から現在までは、大体そのようだったと思います。1995年8月に祈っていた時、私はこの草原のヴィジョンを再び見たのですが、その時はもっと細かいところまで詳しく見せられました。長い生い茂る草原が続きますが、そのうちに霧が覆いはじめ、その霧に入ってからほどなくすると非常に険しい崖がありました。その崖の真ん中に細い曲がりくねった急な道があり、それは下るための橋のように見えました。その道は草原と同じように緑の草が生い茂りその草原の道は崖の下まで続いていました。

霧の中を歩いて行った人たちの大半はこの小道を見つけることが出来ず崖から落ちて行きました。死んでしまった人たちもいましたが、崖の下に網があったので多数がそこにひっかかって助かりました。しかしこの網は実は人々を救うためのものではなく、彼らを罠にかけて捕らえるためのものでした。又他の人たちは霧の中に注意深く入り、膝を地につけて歩き小道を捜しました。彼らはそこに小道があることを本能的に知っていたように見えました。小道を探した人の大半はそれを見つけ、膝をついてゆっくり下りていきました。幾人かはパラシュートを持っていましたので、崖から霧の中に飛び降りて行きました。

下まで下りると海があり、4種類の船が港に入っていました。奴隷船、軍艦、豪華客船、そして病院船でしたが、多くが奴隷船でした。次に多かったのは軍艦でした。病院船は5隻しかありませんでしたが、みんなきれいでよく手入れがされた港の中央にあるドックについていました。2隻の豪華客船は港の両端についていました。そのドックには溢れるような物資がおいてありましたが、ドックも船も汚くて手入れがあまりされていませんでした。戦艦はドックにはついておらず、港のなかを動きまわっていました。

 

網の中に落ちた人たちは奴隷船に乗せられました。小道を下りていった人たちの殆どは病院船のほうに行きましたが、豪華客船の方に行く人も多くいました。それらの人の中には捕らえられて奴隷船に乗せられる人もありました。

豪華客船はしっかりと護衛されていて、軍艦のコントロール下にあるようでした。軍艦はときどき奴隷船や豪華客船から取りたい人を取りたいだけ取っていき、それには誰も抵抗できませんでした。

病院船の人も他の船から人々を連れていきました。しかし、彼らは一番弱っている人や重病人、怪我をしている人でもう死ぬに違いない人しか連れていきませんでした。

病院船の乗組員は他の人たちから敬意を表されていました。それは彼らが輝くような武具をつけていたからです。崖からパラシュートでジャンプした人たちは皆病院船かそのドックに着地しました。

 

奴隷船は人で一杯になると出航していきました。行き先を知っているかのように何度も向きを変えながら進んでいきました。軍艦も非常に何度も向きを変えて進んでいくので、次はどちらの方向に進むのか全くわかりませんでした。軍艦が向きを変えた時にそこにいた船は、 攻撃され沈没しました。軍艦同士がぶつかった時は、どちらかが沈没するまで互いに攻撃しあいました。

霧のために多くの船が衝突して沈みました。海はサメが一杯いて、海に落ちた人は直ぐに食い尽くされました。混乱と絶望と恐れが霧のように深く港を覆っていました。霧が深くなると恐れも強くなっていきました。霧がわずかでも薄くなると人々の中に希望が起りはじめるのでした。 前方に開けた海が見えるまでに霧がはれたときには、船はそちらにむかって進み始めるのでした。

病院船だけが行き先を知っているかのように、混乱した港を難なくぬけて開けた海へと進んでいくことができました。そのうちの1、2隻がいつも海に出てゆき、しばらく見えなくなってから又戻ってきました。次には別の病院船が同じように出航していきました。

 ヴィジョンの中で私は病院船の一隻のあとをつけていきました。すると突然私はその船の司令室に立っているかのようでした。沖に出ていくにつれて空は晴れていきました。そして非常に高い高度をジェット機で飛ぶときにしか見たことがないようなきれいな真っ青の空になりました。私はその空に気をとられて海をしばらく見ていませんでしたが、次に海を見たときに、私たちは本当に高い高度を飛んでいるのがわかりました。

 

私たちは宇宙に飛んでいくのかと思ったのですが、やがて全く新しい世界のように見えるところに降下しました。そこには沢山の島があって、それぞれの島には違う文化、風習の人たちがいました。船に乗っていた負傷者は、それぞれ自分自身の文化の島に運ばれました。

この島々は全く平和で、島と島の間には美しい白い橋が架けられていて多くの人がその橋を渡って行き来していました。それぞれの島には偉大な都市のためのものすごく大きな基礎が作られていました。

島はそれぞれ皆違っていましたし、私が今まで見たどの場所とも異なっていましたが、私はどの島でもすぐにリラックスできました。一つ一つの島はパラダイスのようで、全く別の世界にあるように見えましたが、次に行く島も、実際は私が今去った島にとても似ていることが私にはわかりました。

 

ヴィジョンの解釈と考察

草原が尽きる所が見えるということは、私たちの経済的繁栄の終りがもう見えていることを表しています。ヴィジョンの終りの方で見たものは、私が考えたこともないほどに悲惨な状況でした。これからしばらく非常に暗い時代になるでしょう。しかしそれと同時に全く新しい世界が私たちのただ中に建てられていて、それは想像をはるかに超えたすばらしいものなのです。

    自分の人生と信仰の土台を世界経済の上に 建て上げていたのならば、私たちは非常にもろい土台の上に建てていたのです。すべて揺るがされるものは揺らぐ時が来ることを私たちは知っています。その時がくる前に私たちの与えられている時間は、備えをするための時間です。揺るがされることのない唯一のもの、即ち御国の上に私たちの希望と信頼を建て上げようではありませんか。

 

広い草原を歩いていたのと同じ調子で霧の中に入って行く人は、まわりの変化に気づかず、滅びるか、又は奴隷になっていきました。すぐに膝まづいた人は下に行く安全な道を見つけましたが、やはり下り坂でした。彼らはずっと膝まづいていかねばなりませんでした。その崖の道は非常に細く険しいので誰も立つことはできませんでした。膝まづくとは祈ることをさしています。霧、即ち混乱を見たならばすぐにそれからの一歩一歩は祈りつつ進まねばなりません。

 

すべての人が崖から下りていき、上って来た人は一人もいなかったということは、世界中が経済的な不況になることを示していると私は思います。これから起こる状況の中で生き残る人も多くいますが、現在の(生活)レベルにとどまることはできないでしょう。私たちの今までの生活水準はクレジットで保たれているものであり未来からお金を借りて成り立っていたものですが、 その未来にすでに来ているのです。借金を返さねばならない時が刻々と迫っています。それによって現在の生活水準は劇的に低下することになるでしょう。

 

奴隷船は銀行だと私は感じました。かつての大恐慌のとき、銀行はあまりにも手を伸ばしすぎたことによって多くが倒産しました。ですから今銀行は次の経済破綻をどうにか乗り越えるでしょうが、しかし彼らに負債のある者たちは(借金を返すまで)銀行の奴隷にならざるを得なくなるでしょう。

軍艦の大きさはまちまちでした。それは色々な異なる勢力・権力を表していると私は感じました。彼らは一致しておらず、他と同じように混乱状態にあり、皆互いに戦っているようにみえました。そして互い同士や他の船を強奪することによって生きていました。これからの時代には、小さな戦争がいたるところで、これと言った理由もないのに勃発すると思います。大きな勢力の道を阻むものは誰であっても困難な目に合うでしょう。

 

豪華客船は酷く汚れていて、奴隷船や軍艦よりはほんの少しだけましかもしれないというくらいに見えました。これからの贅沢は私たちが今考える 贅沢さとは違うことは明らかでした。更に豪華客船は軍艦によって絶えず強奪されており、とても堪え難い辛い場所に見えました。将来はほんの少しの贅沢も攻撃の的になるだけかもしれません。

病院船は教会であることが私には分かりました。船は白く輝き赤い十字架のマークがありました。船はとても美しく輝いていたので、ヴィジョンの中で衝撃的に際立っていました。白色は純粋さを表しています。赤い十字架は、彼らが十字架を負っていることを私に示しました。赤は犠牲の色でもあります。病院船はとても美しく、誰もが乗りたいと願うものでした。教会はこれからの世の中で最もみんなが来たいと思う場所となります。 十字架を背負い、犠牲の生き方を選びとるならば、教会は神から召されたとおりの純粋な清い船になれるのです。これからは、他のための犠牲と奉仕の人生こそがこの世でもっとも望ましいものとなり、本当に栄光ある生き方が出来るところとなるでしょう。

 

病院船に乗っている人たちは、輝く銀色の武具を身に着けていました。彼らが姿を表すときにはいつも衝撃的に際立って見えたので、すべての人は、軍艦ですら、敬意を示しました。これはクリスチャンが神の武具を身に着けることを学ぶならば、全世界の尊敬を受け、それ故に権威を持つようになることを私に示しました。

又病院船のドックは少しも汚れておらず、多くの物資で溢れていました。豪華客船よりもずっと多くの冨がありましたが、その冨は贅沢をするためのものではなく奉仕のために使われていました。病院船とその乗員は皆から大変尊敬されていたので、ドックの物資は山積みにされていて他の人たちが利用するのは自由であったにも拘わらず、それを奪おうとするものは一人もいませんでした。

 

争っている二隻の軍艦の間に病院船が入ると、軍艦は戦うのを止め彼らのうちの負傷者たちを看護船に渡すのでした。出来る限り争いを止めるのがこれら病院船の主な目的の一つのように見えました。

この混乱のただ中で、クリスチャンと彼らの船が示した威厳と決意、目的は驚くべきものでした。私が海に出て行く船の司令室に立ったとき、最高にすばらしい感覚が私を覆いました。それは「自由」という感覚でした。外海に出た途端に私たちは天のような場所に上っていったのです。霧を抜け出したならば、もはや地上を動くのではありませんでした。そして再び下に下りた時、それは一見新しい地球のようでしたが、実は私が出て来た世界のただ中であることがなぜか私には分かりました。

 

私が病院船の上で感じたすばらしい自由、解放感は、私たちが人に仕えるために自分の十字架を取り上げるときにこそ真の平安を見つけるということを表しています。そのようにする時、私たちは天のような場所に住み始めるようになるでしょう。その時私たちは地球を全く違う目で見るようになるのです。神がしておられることを見るのです。このパラダイスの島々はすでに私たちのただ中にあり、ただそれをまだ私たちは見ることができないのだと私ははっきり感じました。

 

世界がものすごい混乱状態に陥るまさにその時(それは多分経済の分野の混乱から始ると思いますが)神は人々の間に橋を架けられ、それが栄光ある未来の土台となるのです。今の時代が終りとは、即ちキリストが君臨される時代の始まりです。黙示録17:15に「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」とあります。 預言的な言葉では、多くの場合、海は大勢の人を表します。崖の下の海がひどい混乱状態にあったということは、この世の王国がそのような状態になろうとしているということです。島々が表しているのは、それと同時に主がご自分の御国の土台を私たちのただ中に築いておられるということです。島々が混乱の海の近くにあったということは、主が地球上に建てようとしておられるタイミングが真近であることを表していると私は感じました。

 

今人々の間に橋が架けられています。橋は行き来するためのものであり、それぞれの島は何かすばらしいものを建て上げていて、それはその文化が生み出す最高のものであり、他の島々に分け与えるものだということが私にははっきり分かりました。そして都市のための新しい土台は、 地球の全く新しい始まりを表していました。今主のために、主の御国のために建てられつつあるものは、崩れることのない来るべき時代のための土台となるのです。(終り)


24 12月

超越した生き方     フランシス フランジペン         2012年12月25日


皆様、2012年のクリスマスを心からお祝い申し上げます。このすばらしい祝日を記念して、今年はフランジペン師のメッセージをお伝えします。

 

超越した生き方

フランシス フランジペン

私がクリスチャンの究極の目的(デスティニー)は「キリストに似た者になること」であると言いますと、ほとんどの人は確かにうなずいてくれるのですが、その人たちの大半は、それが私たちクリスチャンの生きる真の理由であると本当には信じていないことが私にはよく分ります。なぜなら、もし本当に信じているなら、彼らはもっと違った計画を立てて生きて来たでしょうし、もっと真剣に自分自身が変えられることを求めたはずです。

クリスチャンが自分の人生目標(デスティニー)について考える時、先ず思いつくことは、神のために何かしたい―神からいただいた自分のユニークな賜物を生かして、ミニストリーでよい働きをして神に貢献したい―と言うことではないかと思います。しかし、私たちに与えられた賜物とか召しに生きることが、クリスチャンの生きる中核の目的ではないのです。主のために「何かをする」ことではなく、主に対して私たちが「どのような人間になるか」の方がより重要な課題であり、それは、私たちの心を主に明け渡し、私たち自身を放棄することに他なりません。この神に対して私たちの魂を意識的に明け渡す時に、私たちは自分の真のデスティニーに一歩前進し、近づいて行くのです。

確かに私たちは人生において、それぞれの責任と仕事が与えられ、皆それぞれ違った人生を歩んでいます。しかし、そのような表面的なことを越えた私たちの人格の奥深いところで、もっと重要なことがなされなければならないのです。私は66歳になります。私の人生で私は色々な仕事をして神に仕えて来ました。チャーチ・プランテイングとか、霊の訓練学校とか、あるいはコンピューターのセールスマンを含む様々な仕事をして来ましたが、私は自分の本来の人生の目的とその時々の召しを混同したことはありません。

悲しい事実ですが、ミニストリーで大変パワーフルな賜物と召しを与えられ、天そのものを地上に持ち込むかと思えるような、クリスチャンの心を魅惑する働きをした優秀なリーダーたちが数多くおりますが、そのような人々の中には後で最も恥ずかしい罪を密かに犯していたことが明るみに出されてショックを受けることをしばしば経験しました。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

それは、自分の賜物と召しを追うことを第一とし、自分の内面の人格形成を高めることを二義的に考えて疎かにした結果であると思います。そのような人は悪魔の惑わしに堕ちる危険性を常に持っています。真の命は、自分の召しを求めることから来るのではなく、「召される主」ご自身を求めることから与えられ、増し加わって行きます。主が愛しておられる皆さん、「神は人をご自分のイメージimage にかたどり、神に似せてlikeness 創造された。」(創世記1:27、英語訳よりの意訳)とありますが、神のイメージとはキリストです。そのキリストのイメージに似るようになることが私たちの存在目的です。私たちは群集が拍手してくれるパフォーマンスを必要としてはいません。キリストのイメージを追い求める時にこそ、私たちは人生の意味を自分のものとすることが出来るのです。(終り)


15 12月

指輪の話 ジュリー・ジョイナー Dec. 15, 2012


指輪の話

 

ジュリー・ジョイナー

(2012年11月3日モーニングスター・女性カンファレンスでのメッセージから抜粋)

 

15年前ほども前になりますが、私にとってとても意味深い出来事がありました。私は主の花嫁であることを、主がとてもパワフルな方法で教えて下さったのです。

その時私は友人とロンドンに旅行していました。ある朝早く起きて、友人と二人でポートベラ・マーケットに買い物に出かけました。娘のために指輪を探すのが目的でした。 アンティークでかわいい指輪がいいと思いました。いろいろと見て回っているうちに、 とてもすばらしいダイヤモンドの指輪に目がとまりました。「すばらしい指輪ですね。ちょっとはめてみてもいいですか?」と店員にことわってはめてみると、本当に美しい指輪でした。そして値段を見てみると、高価で私にはとても買う事はできないと思い、指輪をもとの場所にもどしました。

それから2時間あまり、その指輪のことが頭から離れませんでした。最初は「絶対にあんな高価なものは買えない。」という思いでしたが、そのうちに、「絶対買えないってことはないかもしれないわ。」となり、次には「もしかして買えるかもしれない。」というように変っていきました。私の頭はそのような思いでぐるぐる回っていました。

 私はもともと宝石類にはあまり興味がない方です。今している真珠のネックレスは母の形見で、母の思い出に身につけているものです。他にはあまり宝石は身につけていません。ですからこの指輪をこのように真剣に自分のために買うことを考えるということは、私にとっては普通ではなく、簡単なことではありませんでした。でも何故かこの指輪のことが頭から離れず忘れることができなかったのです。

 

翌日私たちは、イギリスの戴冠式につかわれる宝石類の陳列を見に行きました。それは大層立派なものでしたから、あの指輪はそれにくらべればそう大げさなものではない、買ってもいいかもしれない、 主人もこの前モーターバイクを買ったし、と思いました。(笑) そこで私は家にいる主人に電話をして「ちょっと妙な話なんだけど、この指輪をどうしても買わなくてはならないという気持ちがするのよ。私を呼んでいるような気がするの。買ってもいいかしら?」とたずねました。主人は「私はそこにいないからわからない。あなたが決めればいいよ。」と言ってくれました。私は数日あの指輪のことばかり考えていました。 高価な指輪を自分のために買うのは崖から飛び降りるような気持ちでした。

 

私たちは小さなホテルに泊まっていたのですが、トイレは部屋にはなく、廊下の突き当たりにありました。その日の夜中に私がトイレに行くために廊下を歩いていると、主が私に語られました。「あなたの手を見てごらんなさい。」と。それで私は自分の両手を見てみました。右手の指には私が高校を卒業したときに両親からもらった指輪がありました。小さなダイヤモンドが幾つかついているもので、 とても大事で大好きだったので、 もらってからずっとはめていました。そして左手の指には結婚記念日に主人がくれた指輪をしていました。結婚した時主人は指輪を買うお金がなく、ずっと後になってくれたものです。私たちの5人の子供に因んで5つの小さなダイヤモンドがついています。

主が言われました。「あなたの手を見てごらんなさい。右手の指輪はあなたが両親から受けたもののシンボルです。それはすばらしく良いもの、美しいものです。左手の指輪はあなたが夫から受けたものを表しています。それも又すばらしいものです。でもこの指輪はわたしがあなたに与えるものであり、わたしがあなたの人生にあたえるもののシンボルです。それはあなたが両親から受けたものや夫から受けたものとは別のものであり、区別されるべきものなのです。そしてあなたがこの指輪を人生のすべての日にはめていることは、とても重要なのです。わたしのあなたへの愛、ただあなたへの愛がどれほど大きく、どれほど偉大であるかを、指輪を見ることによっていつも忘れないでいることが、あなたにとってとても大切です。」主の言葉を聞いて、私は深く感動しました。そしてこの指輪を買ってもいい、否、買わねばならないと決心したのでした。次の日、私からの連絡を受けて宝石屋が指輪を持って来てくれました。「一つの指輪を買うのにこれほど考える人はいませんよ。」と言っていました。

私はこの出来事により、 私たちがどのような所に立つ者になることを主が望んでおられるかに関する新たな思い、新たな理解、新たな洞察を得たのです。私はまだまだそのような者にはなっておりませんが、主は私をそこへ今日も導いておられます。毎日この指輪を見ることによって私はそれを忘れないでいることができます。この指輪は他の2つよりも大きくて、大きなダイヤモンドのまわりに12の小さなダイヤモンドがついているのです。

 

私は多くの人々に出会う機会がありますが、殆どの女性は自分の価値を計るのに、自分の人生の中の男性、即ち父親とか夫、が自分をどのように評価しているかを基準にしていて、いつもそれを気にしています。でも主は、このような思いから私たちを完全に解放したいと願っておられます。もしあなたがこのことについて考えたことがないのでしたら、一度じっくりと考えてみることをおすすめします。 主は私たちがそのような基準で自分を評価するようには全く計画されていなかったのです。

私たちの多くは、自分は人の役に立っているというよりは、人のお荷物になっているのではないか、と感じています。多くの者は、自分は計りにかけられて「足らない」と言われたように感じているのです。でも主は、そのような私たちの理解、思いを完全に変えたいと切に願っておられます。私がロンドン旅行から帰ってから、ずっと主は私に語ってくださっています。少し前に主は「あなたは女王です」と私に言ってくださいました。ボブ・ジョーンズ師は毎朝鏡を見て、「私はまことに美しい」と言うそうですから、彼がそう言えるのなら私も「私は女王だ」と宣言できるのではないかと思うのです。(笑)私たちは自分を卑下するような思いから解放してくださいと主にお願いせねばなりません。

 

私は人からよくこんな質問をされます。(皆さんは絶対しないでくださいね。)「ジュディーさん、リック・ジョイナーさんと結婚しているというのはどんな感じなんですか?」(笑) リック・ジョイナーは確かに素敵で私は彼を心から愛しています。彼はすばらしく驚くべき人だと思います。結婚して35年たちました。でも彼は神様ではないのです。(笑)彼は主ではありませんし、私の主でもありません。これはとてもシンプルなことですが、これを悟るのに私は随分長くかかったのです。というのは、私が彼と結婚したのは19歳の時でした。私は彼にどこまでもついて行こうとしましたし、彼が私のすべての必要を満たしてくれることを期待しました。彼を私の主としてしまっていたのです。それで私は自分と主との関係を深めるという努力をしませんでした。

そのような主人との関係は少しの間はうまく行きました。でもやがてうまく行かなくなったのです。うまく行くようには始めから計画されていないからであり、神が私たちのために備えられた道ではないからです。主は私をそのような場所からもっと前進させたかったのです。

 

主は第2コリント6:18で、「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。」と言われています。また、ホセヤ2:16では「その日、—主の御告げ。—あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。」とあります。

主はこのお言葉通りに私たちの父となり、私たちの夫となりたいと思っておられます。私たちの人生の中で、実際にそうなりたいと願っておられるのです。主はあなたの夫になりたいのであって、バアルにはなりたくないのです。私は夢の中でバアルを見たことがあります。それは本当にいやーな姿をしていました。夢の中で私はバアルに殺されそうになりましたが、一人の人が来て私のために命をささげ、バアルの霊と戦ってくれました。その人の姿はイエスのようではありませんでしたが、私にはそれがイエス様だとわかりました。イエス様は私がバアルの霊に打ち勝つように命を捧げてくださったのです。

 

バアルの霊はあなたをさげすみ、あなたを押しつぶそうとします。そしてあなたが自分を計りにかけて「自分は足らない者だ」と言うようにするのです。

みなさんの今までの人生がどうようなものであったか私はわかりません。一人ひとり違う人生を歩んできたと思います。酷い父親だったけれど、夫はすばらしい人かもしれません。やさしい父親だったけれど、夫は酷い人かもしれません。あるいは酷い父親で酷い夫かもしれないし、すばらしい父親ですばらしい夫かもしれません。或いは父親がなかったかもしれませんし、夫がいないかもしれません。

でも、そういうことはまったく関係ないのです。すべてのことに対する解決、答えはみな同じです。すべての傷の癒しがあり、傷に塗るギルアデの乳香があるのです。あなたは癒されて前に進むことができるのです。過去のことはもう終ったのです。

神が私たちの父であり、夫であることを知ればいいのです。神は絶対にあなたを虐待しません。神はすべてにおいて完全なすばらしいお方です。このことを神はあなたにしっかりと知ってほしいと切に望んでおられます。(終)

 


08 12月

UNTIL「・・・までに」 ジェイソン・フーパー             2012年12月8日


UNTIL「・・・までに」

 

ジェイソン・フーパー

 

 

私たちは今、非常に重要な霊的シフトに入ろうとしております。それを皆さんは感じておられるでしょうか?主は、個人的に親密intimateな時を過ごすように、今多くの人をお傍近くに惹きつけておられます。それは主がそのような個人的に親しい関係に入る人たちに、これからより多くのことをお語りになる用意をされているからです。すなわち主は、私たちが主との密かな出会いを持つように招いておられるのです。この招きを感じることによって、多くの人がもう一度主とのコンテンプレーティブな霊的訓練による、施し、祈り(黙想的メディテーションを含む)、それに断食の祈りの生活(マタイ6章)にもどりたいと言う願いを感じています。これらのことを規律正しく行なう自己訓練によって霊的飢え渇きが増し、より多くの啓示による御声(ことば)を聞くことが出来るのです。

イエスは、マタイ6:6とか6:18に書かれているように、私たちが「自分の奥まった部屋で、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」と言われます。「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる」と約束されています。と言っても、報いが目的でそうするのではなく、目的はあくまで主を知ることにあります。しかし、私たちが信仰に充たされ、熱心に主との個人的関係を求める時に、父は「神を知るための知恵と、啓示の御霊」を私たちに与えて下さいます。(エペソ1:17)

今のシーズンは「主についての知識を知る人」から「主ご自身を知る人」に移行する時です。ヨブが「私は今まであなたのことを人が話すのを耳で聞いていましたが、今私はこの目であなたを見ました。」(ヨブ記42:5)と言ったように、私たちも間も無く、教えられた知識ではなく、主ご自身を私たち自身の霊的な目で見るようになりたいものです。

 

 

自分が波となる

 

今年の5月16日水曜日に、私はこの真理にかかわる短い霊的な遭遇を経験しました。この経験が私に今のシーズンがどんな時であるかを教えてくれたのですが、同じような状態にいる多くの方々にとって参考になるかと思い、お分かちさせていただきます。

私は海辺(波打ち際)に立っていました。そして、次に寄せてくる波のためにどんどん沖に引いて行く潮の流れを見ていました。気が付いたことは、その時の引き潮は、自分が予期していたよりもはるかに長い時間を掛けて引いていることでした。どうしてなのかと思い巡らしていると、突然私自身が大きく寄せて来る波(の一部)となって(一緒に浜辺に向かって流されて)いることに気が付きました。

私が浜辺を去ろうとした時、(ずぶ濡れの)私の身体には貝殻とか今まで見たことも無いようなエキゾティックな海の宝の数々が、砂と共に私の身体にまつわりついていることに気が付きました。その後私は、自分が今いるシーズンがどのような「過程の中」にいるかの意味が分り始めたのです。それはある人たちには (

引き潮によって)引き戻されている(pulling back)とか、あるいは遅れを取っていると思えるかもしれませんが、実は「引き込まれている pulling in」のであって、それは次にやって来る波(の一部)として自分が準備されているのだ、と言うことが理解出来たのです。

後退しているとしか思えないような時に、実は自分が次の波の一部として立て上げられ、自分そのものがその波になりつつあると言うことが分ったのです。(聖霊の)風が潮という水(ことば)の上を吹き続ける過程を通して、自分が神のエネルギーを受け取って次の大きな波になって行くことが分ったのです。私はそれを見ていたのです。

 

 

来るべきシフト

 

この引き潮のシーズンはどの位続くのでしょうか。それに対する答えは、先ずそれは主ご自身のご計画次第であること、そして次に私たち自身がどうするかによると言う両面があるように思います。聖霊のアウトポアリングが神によって起こされるタイミングは、起ってみるまで分からないことが多いと思います。しかし、「激しい飢え渇き」が解き放たれることが、天のタイミングの最初に来るしるしであると信じます。

アパー・ルームに集まった飢え乾いた弟子たちは、どれ程聖霊のアウトポアリングを待てばよいのかは分りませんでした。イエスは彼らに、父からの約束(聖霊)を送ると約束をしましたが、「いと高き所から力を着せられる『までは until』エルサレムにとどまっていなさい」と言われたのです。

次に霊の潮(アウトポアリング)が来るターニング・ポイントを知るよい方法は上記で述べた『までは until』にあります。この「これこれが起るまで」と言うのが次のシフトが起るブレーキングポイントです。

私たちの上に次に来る(波に例えられる)シフトは、物凄い打ち破り(ブレーク・スルー)と祝福をもたらしてくれるでしょう。私たちは皆それを必要として待っていますが、思い出して下さい。ダビデの場合、神が彼の敵軍を打ち破る前に、彼は要塞にもどって主に伺いました。(2サムエル5:17-20)

 

 

要塞にもどる

 

打ち破りは、私たちが誰も見ていない所で個人的に神を求め、デボーションの時間を持つ時に起ります。(ゼカリヤ9:11-12、ミカ書2:13)

主が打ち破られ開かれる時に私たちは打ち破って出ます。イエスはこの真理をご自身の生涯の中で見せてくれました。主はご自身が次の重要なステージとなるミニストリーに入られる前に、荒野で40日間の断食をされ、密かにその隠れたところで非常に多くの時間を父と過ごされました。この備えが大きな霊の力となり、偉大な奇跡の力と権威を民衆に示す結果を生み出したのです。(ルカ4:14)私たちが自分自身を犠牲にし、隠れた場所で断食とコンテンプレィテイブな祈りを通して自分自身を父に捧げるというデボーションの生き方をすることによって、この世における私たちの目的をより大きく果たすことが出来ます。これは毎日の生活の中で、聖霊に導かれて退くという「引き潮の時」を持つことに私たちが賛同することを意味します。父なる「神のとりで」に戻ることによって、私たちは戦場で失った力を回復し、必要なよりよい打ち破りの力を主から得るのです。

ダビデは戦場においてではなく、要塞に退いて「打ち破りの神」と時を過ごしました。主が私たちの要塞(とりで)です。(ナホム書1:7)

ゼカリヤ書 9:12は、いみじくも「 希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる。」(新共同訳)と言っています。

 

 

大きな希望への門

 

私たちの多くは、「神の約束を得るためにこんな所を通る必要はない」と思えるようなところに自分は引き戻された(ている)と感じる時があると思います。しかし実際にはそのように引き戻された場所でこそ、神の約束を受け継いで自分のものとするための準備がなされるのです。ある人たちにはそこは(何も無い)荒野のように感じるでしょう。しかし、そのような主の引き戻しに充分私たちが応える時に、私たちは新しい主を経験し始めます。主は私たちのトラブルだらけの「谷間」に、私たちのための大きな望みの門を設置されます。(ホセア2:14-23)神から与えられたデスティニーに到達するためには、私たちが「荒野の経験」を、その意味と目的を正しく理解して正しく過ごすことが非常に重要なのです。それはちょうどイスラエルのために「目の前に立ち塞がっている壁が崩れ落ちる」ことに似ています。その壁の向こうに、神と神が私たちのために用意しているものが見え始める、そしてそれは今までとは全く違った見方で見えて来ます。

 

深みに漕ぎ出せ

 

今年の初めに、主はルカ5:1-11から語って下さいました。ペテロたちはその前夜、夜通し魚釣りに出掛けましたが何も取れずに帰って来ました。岸辺で網を洗っていると、イエスがペテロの船に乗って来られ、陸から少し漕ぎ出すように言われました。そしてそこから群集に教えられました。「話が終わると、シモン(ペテロ)に『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。』と言われた。するとペテロが答えて『先生。私たちは夜通し働きましたが何一つ取れませんでした。でもおことばとおり、網をおろしてみましょう。』そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の船にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」(ルカ5:4-6)

これは確かに大変な収穫でした。しかし、ペテロたちの人生がこの出来事によって過激的に変えられたことに比べれば、比較にもなりません。11節で「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨ててイエスに従った。」とあります。彼らは一切を捨ててイエスの後を追ったのです。一体何が起ったのでしょうか。ペテロは主が言われることに喜んで従いその通りにすると、その前まで願っていた大漁の収穫(ハーベスト)がその通りに起ったのです。(イザヤ1:19)その瞬間に彼の以前の願いが新しい願いに置き換えられたのです。

 

主イエスに他のことは一切忘れ、集中して従う時に(デボーション)、主が私たちの心をとらえ、この弟子たちのように、私たちもすべてを捨てて心から主に従えるようになるのです。ここにおいてエレミヤ29:13に書かれている「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」が実現します。

私は、ペテロを招いた同じ招きをもって主が私たちを今招いておられると信じます。あなたは詩篇42:7「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。」すなわち、神の深い心があなたを招いておられるのを今(のシーズン)、感じることが出来ますか。あなたの霊が、奥深いところで、あなたが次の呼吸をすることよりも、主を望んでいることを感じられるでしょうか。私の友人である皆さん、主(の深いところ)に入って行って下さい。その場所で、あなたの今までの荒野が実り多い果樹園に変えられます。

 

 

魚をキャッチする

 

「私たちの網をおろす」ことの意味を幾つか考えることが出来ます。第一に、それによって収穫をキャッチすることが人間的努力によるのではなく、主と主のことばを信頼し( trust)、すべてを主に委ねて休息する( rest )ことです。第二に、おろすのは、私たちの持つ一切の警戒心をおろすことです。そして主に私たちの心の深いところまでおりて来ていただくことです。私たちが主を心から喜ぶ時に、主ご自身が私たちに最も必要な謙虚さと、心から進んですること、そして主への全き従順を私たちにもたらしてくれます。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4)

「喜ぶ」とはしなやかで、やわらかく、女性の心のようにこまやかさがあります。それは心から喜びに満ち、すすんで主がなされたい御心のままにかたちどられ変えられることを受け入れることです。英語の desire と言うことばは de がofを、

Sire が father を意味しますから「父の御心(望まれること)のままに」です。エレミヤ18:1-11にあるように、父なる陶器師が私たちという粘土から、主人に一番寵愛されて用いられるような栄誉ある器に、きよめてかたち造られる transformまで (until )、 私たちをろくろの上で造り変えて下るのです。そうすることによって私たちは「主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(2テモテ2:21)この過程を経て、主の心に望まれることが私たちの心の望みとなるのです。

イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われた通り、まさに父そのものを表しておられます。ペテロはその日に御父を見たのです。彼の見た父は、大勢の自分の息子、娘たちが祝福され繁栄する姿を見て喜ばれる父であり、又喜んでご自身の御国を子にお与えになられた父でした。(詩篇35:27、ルカ12:32)

私たちにとって彼が「魚をキャッチしたこと」は単に食料の資源を得たこと以上の意味があると信じます。それは彼が、資源のある場所を示す「啓示を得た」ことです。ペテロは主から啓示をいただいたのです。だからこそ魚が彼のものとなりました。彼が主の言われるままに深みに漕ぎ出し、網をおろしたのは、彼がイエスのことばに応えて、信仰による選択をした結果でした。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ書 10:17、新共同訳)とありますが、ここでは、神のRhema の言葉のことを言っています。あるいは、神が話された啓示の御ことばです。ペテロはその日、「ことば」ご自身が話されることばを聞き、それがつまり、イエスの啓示を受けたことなのです。

 

 

今の時期は自己満足に陥って安閑としている時ではない

 

今年の5月24日の朝方のことですが、目が覚めると共にイザヤ32:15にある「上から霊が私たちに注がれ・・・(る時までは)」という御言葉が私の霊に響いて来ました。(訳者注:この文章を英語聖書では冒頭にuntilを付けて「時までは」と訳していますが、日本語訳にはそれがありません。そこで(る時までは)を括弧して上記のように付け加えました。従ってこの15節は、後日聖霊がイスラエルに降りる「聖霊降誕」の結果、主が再臨され、千年王国が始まり、18節の「安らかな憩いのに住む」ようになる「その時までは」イスラエルの国は滅びる・・・という意味でこの聖句をこのメッセージの筆者は引用しています。)

 

この32章でイザヤは、その当時国が置かれている危機的な状況をいち早く察知して、そのためにすべてを捨てて主にとりなし、嘆願すべき「時、シーズン」であるのに、全くそれに気が付かない「のんきな」女たち(とりなし手)の「自己満足に陥って安閑としているのん気さcomplacency」の結果として、イスラエルの国は滅亡の始まりが一年後に来ることを預言しています。それはとりなすはずのとりなし手(女たち)が周囲で起っている多くの不正が横行しているという憂慮すべき事態に目を向けず、主の御声に耳を傾けない鈍い心が原因でありました。

今の私たちの住む時代はそれと同じ状態で、クリスチャンが自己満足に陥って安閑とし、周りに起っていることの意味を察知して主に真剣にとりなしていないのです。今はそのような「のんきな時」ではありません。

私たちは又、雅歌5:2-8に出てくるおとめのようであってはなりません。待ちに待った主が訪ねて来られ、戸口にその御声を聞いた時、彼女は自分の都合で主の要請に即座にはお応えしませんでした。その躊躇している間に主は立ち去られたのですが、おとめは後で大変後悔しました。私たちはいつも聞き耳を立て、主がドアをノックされる時は何をさておいてもすぐにドアを開けねばならないのです。

 

 

私たちは主からの約束を受けたパートナーである

 

私たちは主に対して、約束されたものを受け取るという責任があります。主はご自身の弟子の500人以上の前に、よみがえりの姿を現されました。しかし、主が命令されたように待つことによって確かに約束の聖霊を受けたのは120人しかおりませんでした。彼らだけが上からの力(聖霊)を受け取るまで(until)「約束を受け取るパートナー」として待つことをコミットしたのです。500人以上の弟子のうち、何人がアパー・ルームに来たのか、その数は書かれていません。しかし残った人数が120人であったことは書かれています。もし一度はアパー・ルームに来ても何かの都合で去った人たちに、今聞けば、恐らくその人たちは雅歌のおとめと同じように大きな後悔の念を漏らすでしょう。

 

私たちは、最も大きな神の霊の大波が押し寄せて来るのを待ち構えているという歴史に残る場所に今立っているのです。主が私たちのドアをノックされ、ドアを開けた人と主は霊の深いところで食事をされます。私たちは聖霊の風がその上を吹いた「水」(御ことば)となったイエスと一体となることにより、次に来る大きな波そのものとなろうではありませんか。

私たちは今その“Until….”と言う線を越えようとしています。「ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が実りの多い果樹園となり、それが森とみなされるようになる・・・」(イザヤ32:15-18)その時が迫って来ています。 (終り)

 

筆者紹介:JASON HOOPER-ジェイソン・フーパー師は、預言的リバイバリストの一人であり、教師です。その健全な聖書的教えと、主から与えられる預言的啓示と、そして、神の力をデモンストレーションすることを通して、神の御国が解き放たれるのを実現することを熱心に教えています。彼のミニストリーの焦点は、信者を備え励まして神の力の証し人として立てることにあり、又信者を、神と親密な友人関係に入ることを励まし、その立場から主の心を伝えるメッセンジャーとして立て上げることに焦点を置いています。

ジェイソン師は近年、モーニングスター・フェローシップ・チャーチの牧会チームの主要メンバーの一人として奉仕して来ましたが、今はアラバマ州のフォーレイに、ティナ夫人と、三人の男子ジョシュア、カレブ、サミュエルと共に住んでいます。

 

上記のメッセージは、「モーニングスター・ジャーナル誌」がしばらく休刊しておりましたが、今回イー・ジャーナル誌として再出発し、その復刊最初の12月号の中に書かれていた記事の一つです。

 


01 12月

神はアメリカのクリスチャンの失敗を世界に示しておられる       坂 達也          2012年12月2日


神はアメリカのクリスチャンの失敗を世界に示しておられる

 

坂 達也

 

 

今回のアメリカの大統領選挙とその結果を見せることによって、神はアメリカのクリスチャンが持つ信仰の体質を露にし、さらに抜本的に信仰の本質そのものを問われたように思います。これはアメリカのクリスチャンだけの問題ではなく、全世界のクリスチャンに対する警告と戒めに他ならないと思います。

 

 

クリスチャンは指導者のために祈ることを忘れている

 

すべて造られたものは創造者の神の支配下にありますが、こと地球に関しては、その支配を神は人間に委ねたと言う基本的事実を忘れてはならないと思います。(創世記1:28)しかしそれはあくまで、人間が神のエイジェントとして管理責任を持っているということであって、総責任者はあくまで創造者の神ご自身です。そこで人間は、神の子供として、常に神に頼って、神の知恵で管理支配を実行するように造られているというのが聖書的事実(真理)です。

 

地球上におけるすべての管理責任を直接的には人間に任せている以上、神は、人間を無視して勝手に直接支配をなさいません。しかし人間自身の持つ能力と知恵は不完全で限られていますから、万能の神の知恵が絶対に必要です。それを承知の神は、人間に「上に立つ管理責任者に神の知恵が与えられるように、わたしに祈れ」と命令しています。そしてこの命令を知っているのは、聖書を信じるクリスチャンだけですから、クリスチャンにはそうする大きな責任があります。従って、これをわきまえたクリスチャンが祈れば祈るほど、神は「人間の許可と要請を受けて」責任管理者たちにそれぞれ一番よい、必要な「神の知恵」を自由に与えることが出来るのです。

 

 このことはクリスチャンが一応過半数を占めるアメリカにおいてだけ適用される「祈り」では勿論ありません。むしろ、日本のようにクリスチャンが全体の5%以下の国では、「この祈り」が、より一層必要かつ重要です。なぜなら、管理責任者がクリスチャンでなくとも、神はこの祈りを聞いて下さるからです。この人間の祈りに応えて神が指導者に知恵を与える「システム」は、被造物の管理責任において神と人間がうまく連携プレイ出来る、実にすばらしい神の知恵であると思います。

すなわち、僅か数パーセントであっても、クリスチャンが総意で「上に立つ責任者に神の知恵を与えて欲しい」と真剣に祈れば、神は喜んでその祈りに応え、クリスチャンでない政治家であっても神の知恵を授けることをなさるはずです。近来、世界中で偉大な指導者、政治家が出て来ない理由は、クリスチャンが「上に立つ人のために祈る」ことをしなくなったからではないでしょうか。

日本でも間も無く重要な選挙が行なわれます。神は、日本の僅かなクリスチャンが日本国のために今真剣に祈ることを期待しておられると信じます。クリスチャンが一致して祈り、投票し、その結果を感謝して、更に祈り続ければ、日本の国(の政治)は大きく変わると信じて疑いません。

 

 

アメリカのクリスチャンがしたこと

 

今回の大統領選挙で、神はアメリカのクリスチャン(教会)をテストされたと思います。クリスチャン有権者は、二人の候補者のどちらかに投票するか、或いは棄権するかの三つの選択肢がありました。一方の候補者である現役の大統領オバマ氏は、反キリスト、クリスチャン迫害者で、堕胎、同性結婚に賛成するという、聖書的には全くの「悪しき者」―リック・ジョイナー師が言う歴史上最悪の大統領です。しかもこの四年間の政治経済の実績は決して良くありません。それに対抗する共和党候補のロムニー氏は、異端と言われるモルモン教徒ですが、モラル的には神の基本的信条である同性結婚、堕胎に反対しています。神を愛し、聖書的な生き方をしようとしている人です。しかも今一番必要な経済に経験豊かなビジネスマンです。(この評価は個人差があるでしょうが)そして最後の選択肢は両者を共に嫌って棄権するかです。

 

日本のクリスチャンの皆さんは、もし投票するとすれば、どちらに投票しますか。恐らく「うーん」と考え込まれるかもしれません。アメリカの多くのクリスチャンがそうでした。結果的に見れば、今回の選挙で二千五百万人のエバンジェリカル・クリスチャンがオバマ氏に投票したと推定され、その上棄権した人が何百万人もいたと言うのです。従って今回はアメリカのクリスチャンの考え方と態度によって、事前の予想に反してオバマ再選が決まったと言えます。その大きな理由は、ロムニー氏がモルモン教徒であることに原因していると考えられます。それを嫌って、オバマを選んだか、あるいは投票を棄権したのではないでしょうか。

しかし棄権した人、あるいは、オバマ再選を選んだ人のどちらのクリスチャンもクリスチャンとして基本的な問題を残したのです。

 

 

プライドから来る偏見とさばく心

 

聖書をよく勉強しているクリスチャンなら「信仰の本質は愛であり、愛は赦すこと、人をさばかないことである」ということを知らない人はいないと思います。しかしそれは、教義上あるいは聖書の「頭の知識」として知っているのであって、実際にそれを心から実行している人は残念ながらかなり少ないと思います。

正直なところ、多くのクリスチャンは「異端」というレッテルを張られた信仰団体に対して、必要以上に神経過敏になっているように見受けます。自分はそうではないと思っていた私自身も、よく考えてみれば、モルモン教に対して偏見を持ち、頭から否定して「さばいていた」のです。そのことを今回ジョイナー師とジョーンズ師の対談から学び、本当に悔い改めました。その「さばいていた偏見」はどこから来ているのかと自問すれば「自分はキリストを信じているから、それ以外の人とは違う」という高慢さから人を見下していることに私は気が付かされたのです。

 

私はクリスチャンであると偉そうな顔をしてはいるが、本当に「キリスト者」と言って恥ずかしくない者になっているのか―と問われれば答えはノーであることに気付いたのです。

多くのクリスチャンはキリストの教えがどれ程厳しいものであるかを本当には自覚していないのです。一つの例を挙げれば、マタイ7:21-23で、イエスが「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われたことです。主は続いて「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 と言われました。「預言をし、悪霊追い出しが出来て、奇跡をたくさん行なった」クリスチャンと言えば、相当年季の入ったリーダー格のクリスチャンではないでしょうか。その人を主は「不法をなす者ども」、すなわちクリスチャンではない者として「わたしから離れて行け。」とおっしゃるのです。

確かにベイビークリスチャンの時は、子どものように唯イエスを救い主と信じれば主は喜ばれます。しかし、十年二十年も経ったクリスチャンが、「業」をすることは憶えても、個人的に親しく主を知る関係に入らず、「キリストのような人格になる」霊的成熟が見られないようでは、上記のように厳しく「不法をなす者」と叱責されるとしたら、そのクリスチャンは果たしてモルモン教徒より上と言えるでしょうか。

愛の神である主は、キリストを救世主として見ていない「間違った教え」に騙されているが、神を愛し、聖書的な生き方をしようとしているモルモン教徒と、一方、キリストを信じると言うだけで、いつまで経っても弟子になろうとしない「なまぬるい」クリスチャンを比べて、本当にどう見ておられるでしょうか。恐らく主にとっては、大同小異、比較にも値しない、どちらも愛しておられ、どちらも同じように真の救いが必要な人たちとしか見ておられないと思います。私はそれに気が付いた時、自分だけはよいと言う高慢な態度に恥じ入りました。

 

アメリカのクリスチャンは、今回の選挙で大半以上が真のクリスチャンではないことがこれで判明したのです。主は敢えてクリスチャンが勝手に判断して投票することを許され、その結果がよく見えるようにされたのであると思います。今回オバマに投票した人、あるいは棄権したアメリカのクリスチャンが、もし皆主に喜ばれる真の成熟したクリスチャンであったとすれば、彼らはオバマに投票しなかったでしょう。又、棄権もしなかったはずです。すなわち、言い換えればかなりの差でロムニーが当選したはずです。

 

 

しかし主は偉大な計画を持っておられる

 

 

私たちの主は「すべてのことを働かせて益としてくださる」神ですから、今回の選挙結果も主はすばらしいご計画の一環として用いてくださると信じます。主は選挙が終わった後に、少なくとも二人の預言者にそのご計画を啓示されました。一人はリック・ジョイナー師、そしてもう一人はGOD TVを創立したアレック夫妻の夫人ウエンディー・アレック師を通してでした。この二人の預言は既にご報告の通りですが、それを要約すれば、

 

1.先ず第一に、主はアメリカのなまぬるいクリスチャンの実態をあばいて知らせ、それがアメリカの凋落の大きな原因の一つであることを示された。

2.神への信仰を基にして建国されたアメリカの背信と神離れは遂に来るところまで来た。もう人間の力では回復可能なティッピング・ポイントを超え、後は神の手に委ねるしかない。すなわち、神による「国全体のリバイバル」を祈り求める以外の方法はない。

3.そのためにはアメリカのクリスチャン(教会)が目覚め、心から悔い改めて主に祈り求めよ、と主は言われる。

4.そして再選したオバマ大統領の改心と救いを祈り、同時に大統領がすべての国政において主からの知恵を得るようにクリスチャンが一致して祈らねばならない。

5.そうすれば神は大統領に必要な知恵を与え、彼を通して国を回復する。

 

と言うことが二人の預言の主旨です。

 

神は曲がりなりにもクリスチャン国であるアメリカを捨てないと信じます。しかしこの国にはもっと厳しい裁きが来るでしょう。しかし、神の裁き(艱難)は、愛する者を懲らしめて立ち直されるために神が与える愛の鞭であることを忘れてはならないと思います。そこに希望があるのです。

リバイバルとは神がアダムを誕生させた最初の計画に返り、それをリバイブ回復させることであると信じます。それは地球上に、神の御心に従って、神の子イエス・キリストとそのからだである教会(私たち神の息子、娘)によって王国を打ち立てることに他なりません。それが私たちの地上でのデスティニーであると信じます。アメリカ合衆国の誕生もその一つの型でありましょう。そして世界にリバイバルを起こし、世界をキリストの王国として成就させる、最後のプロセスがいよいよ始まろうとしています。世界的リバイバルには世界を揺るがす大艱難が伴って来ます。そして真に悔い改めた、そのために準備されたクリスチャンの精鋭戦士だけが神に用いられて主と共に最後の勝利をもたらします。

 

多くの大悪人が、先ず悔い改め、厳しい試練を通して整えられ、大きく神に用いられる例はパウロだけでなく、この世に多く見られます。オバマ大統領もその一人となることを私たちは祈るようにと主が言われます。日本の皆様、アメリカで起こっていることは人事ではありません。ぜひ、アメリカのクリスチャンのために、アメリカのために、オバマ大統領のためにお祈りください。それによって日本にリバイバルが来ると私は信じて疑いません。(終り)

 

〔尚、このメッセージはハーザー誌へ寄稿した文章の原稿です。〕