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Walk With God Ministries

08 12月

UNTIL「・・・までに」 ジェイソン・フーパー             2012年12月8日


UNTIL「・・・までに」

 

ジェイソン・フーパー

 

 

私たちは今、非常に重要な霊的シフトに入ろうとしております。それを皆さんは感じておられるでしょうか?主は、個人的に親密intimateな時を過ごすように、今多くの人をお傍近くに惹きつけておられます。それは主がそのような個人的に親しい関係に入る人たちに、これからより多くのことをお語りになる用意をされているからです。すなわち主は、私たちが主との密かな出会いを持つように招いておられるのです。この招きを感じることによって、多くの人がもう一度主とのコンテンプレーティブな霊的訓練による、施し、祈り(黙想的メディテーションを含む)、それに断食の祈りの生活(マタイ6章)にもどりたいと言う願いを感じています。これらのことを規律正しく行なう自己訓練によって霊的飢え渇きが増し、より多くの啓示による御声(ことば)を聞くことが出来るのです。

イエスは、マタイ6:6とか6:18に書かれているように、私たちが「自分の奥まった部屋で、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」と言われます。「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる」と約束されています。と言っても、報いが目的でそうするのではなく、目的はあくまで主を知ることにあります。しかし、私たちが信仰に充たされ、熱心に主との個人的関係を求める時に、父は「神を知るための知恵と、啓示の御霊」を私たちに与えて下さいます。(エペソ1:17)

今のシーズンは「主についての知識を知る人」から「主ご自身を知る人」に移行する時です。ヨブが「私は今まであなたのことを人が話すのを耳で聞いていましたが、今私はこの目であなたを見ました。」(ヨブ記42:5)と言ったように、私たちも間も無く、教えられた知識ではなく、主ご自身を私たち自身の霊的な目で見るようになりたいものです。

 

 

自分が波となる

 

今年の5月16日水曜日に、私はこの真理にかかわる短い霊的な遭遇を経験しました。この経験が私に今のシーズンがどんな時であるかを教えてくれたのですが、同じような状態にいる多くの方々にとって参考になるかと思い、お分かちさせていただきます。

私は海辺(波打ち際)に立っていました。そして、次に寄せてくる波のためにどんどん沖に引いて行く潮の流れを見ていました。気が付いたことは、その時の引き潮は、自分が予期していたよりもはるかに長い時間を掛けて引いていることでした。どうしてなのかと思い巡らしていると、突然私自身が大きく寄せて来る波(の一部)となって(一緒に浜辺に向かって流されて)いることに気が付きました。

私が浜辺を去ろうとした時、(ずぶ濡れの)私の身体には貝殻とか今まで見たことも無いようなエキゾティックな海の宝の数々が、砂と共に私の身体にまつわりついていることに気が付きました。その後私は、自分が今いるシーズンがどのような「過程の中」にいるかの意味が分り始めたのです。それはある人たちには (

引き潮によって)引き戻されている(pulling back)とか、あるいは遅れを取っていると思えるかもしれませんが、実は「引き込まれている pulling in」のであって、それは次にやって来る波(の一部)として自分が準備されているのだ、と言うことが理解出来たのです。

後退しているとしか思えないような時に、実は自分が次の波の一部として立て上げられ、自分そのものがその波になりつつあると言うことが分ったのです。(聖霊の)風が潮という水(ことば)の上を吹き続ける過程を通して、自分が神のエネルギーを受け取って次の大きな波になって行くことが分ったのです。私はそれを見ていたのです。

 

 

来るべきシフト

 

この引き潮のシーズンはどの位続くのでしょうか。それに対する答えは、先ずそれは主ご自身のご計画次第であること、そして次に私たち自身がどうするかによると言う両面があるように思います。聖霊のアウトポアリングが神によって起こされるタイミングは、起ってみるまで分からないことが多いと思います。しかし、「激しい飢え渇き」が解き放たれることが、天のタイミングの最初に来るしるしであると信じます。

アパー・ルームに集まった飢え乾いた弟子たちは、どれ程聖霊のアウトポアリングを待てばよいのかは分りませんでした。イエスは彼らに、父からの約束(聖霊)を送ると約束をしましたが、「いと高き所から力を着せられる『までは until』エルサレムにとどまっていなさい」と言われたのです。

次に霊の潮(アウトポアリング)が来るターニング・ポイントを知るよい方法は上記で述べた『までは until』にあります。この「これこれが起るまで」と言うのが次のシフトが起るブレーキングポイントです。

私たちの上に次に来る(波に例えられる)シフトは、物凄い打ち破り(ブレーク・スルー)と祝福をもたらしてくれるでしょう。私たちは皆それを必要として待っていますが、思い出して下さい。ダビデの場合、神が彼の敵軍を打ち破る前に、彼は要塞にもどって主に伺いました。(2サムエル5:17-20)

 

 

要塞にもどる

 

打ち破りは、私たちが誰も見ていない所で個人的に神を求め、デボーションの時間を持つ時に起ります。(ゼカリヤ9:11-12、ミカ書2:13)

主が打ち破られ開かれる時に私たちは打ち破って出ます。イエスはこの真理をご自身の生涯の中で見せてくれました。主はご自身が次の重要なステージとなるミニストリーに入られる前に、荒野で40日間の断食をされ、密かにその隠れたところで非常に多くの時間を父と過ごされました。この備えが大きな霊の力となり、偉大な奇跡の力と権威を民衆に示す結果を生み出したのです。(ルカ4:14)私たちが自分自身を犠牲にし、隠れた場所で断食とコンテンプレィテイブな祈りを通して自分自身を父に捧げるというデボーションの生き方をすることによって、この世における私たちの目的をより大きく果たすことが出来ます。これは毎日の生活の中で、聖霊に導かれて退くという「引き潮の時」を持つことに私たちが賛同することを意味します。父なる「神のとりで」に戻ることによって、私たちは戦場で失った力を回復し、必要なよりよい打ち破りの力を主から得るのです。

ダビデは戦場においてではなく、要塞に退いて「打ち破りの神」と時を過ごしました。主が私たちの要塞(とりで)です。(ナホム書1:7)

ゼカリヤ書 9:12は、いみじくも「 希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる。」(新共同訳)と言っています。

 

 

大きな希望への門

 

私たちの多くは、「神の約束を得るためにこんな所を通る必要はない」と思えるようなところに自分は引き戻された(ている)と感じる時があると思います。しかし実際にはそのように引き戻された場所でこそ、神の約束を受け継いで自分のものとするための準備がなされるのです。ある人たちにはそこは(何も無い)荒野のように感じるでしょう。しかし、そのような主の引き戻しに充分私たちが応える時に、私たちは新しい主を経験し始めます。主は私たちのトラブルだらけの「谷間」に、私たちのための大きな望みの門を設置されます。(ホセア2:14-23)神から与えられたデスティニーに到達するためには、私たちが「荒野の経験」を、その意味と目的を正しく理解して正しく過ごすことが非常に重要なのです。それはちょうどイスラエルのために「目の前に立ち塞がっている壁が崩れ落ちる」ことに似ています。その壁の向こうに、神と神が私たちのために用意しているものが見え始める、そしてそれは今までとは全く違った見方で見えて来ます。

 

深みに漕ぎ出せ

 

今年の初めに、主はルカ5:1-11から語って下さいました。ペテロたちはその前夜、夜通し魚釣りに出掛けましたが何も取れずに帰って来ました。岸辺で網を洗っていると、イエスがペテロの船に乗って来られ、陸から少し漕ぎ出すように言われました。そしてそこから群集に教えられました。「話が終わると、シモン(ペテロ)に『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。』と言われた。するとペテロが答えて『先生。私たちは夜通し働きましたが何一つ取れませんでした。でもおことばとおり、網をおろしてみましょう。』そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の船にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」(ルカ5:4-6)

これは確かに大変な収穫でした。しかし、ペテロたちの人生がこの出来事によって過激的に変えられたことに比べれば、比較にもなりません。11節で「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨ててイエスに従った。」とあります。彼らは一切を捨ててイエスの後を追ったのです。一体何が起ったのでしょうか。ペテロは主が言われることに喜んで従いその通りにすると、その前まで願っていた大漁の収穫(ハーベスト)がその通りに起ったのです。(イザヤ1:19)その瞬間に彼の以前の願いが新しい願いに置き換えられたのです。

 

主イエスに他のことは一切忘れ、集中して従う時に(デボーション)、主が私たちの心をとらえ、この弟子たちのように、私たちもすべてを捨てて心から主に従えるようになるのです。ここにおいてエレミヤ29:13に書かれている「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」が実現します。

私は、ペテロを招いた同じ招きをもって主が私たちを今招いておられると信じます。あなたは詩篇42:7「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。」すなわち、神の深い心があなたを招いておられるのを今(のシーズン)、感じることが出来ますか。あなたの霊が、奥深いところで、あなたが次の呼吸をすることよりも、主を望んでいることを感じられるでしょうか。私の友人である皆さん、主(の深いところ)に入って行って下さい。その場所で、あなたの今までの荒野が実り多い果樹園に変えられます。

 

 

魚をキャッチする

 

「私たちの網をおろす」ことの意味を幾つか考えることが出来ます。第一に、それによって収穫をキャッチすることが人間的努力によるのではなく、主と主のことばを信頼し( trust)、すべてを主に委ねて休息する( rest )ことです。第二に、おろすのは、私たちの持つ一切の警戒心をおろすことです。そして主に私たちの心の深いところまでおりて来ていただくことです。私たちが主を心から喜ぶ時に、主ご自身が私たちに最も必要な謙虚さと、心から進んですること、そして主への全き従順を私たちにもたらしてくれます。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4)

「喜ぶ」とはしなやかで、やわらかく、女性の心のようにこまやかさがあります。それは心から喜びに満ち、すすんで主がなされたい御心のままにかたちどられ変えられることを受け入れることです。英語の desire と言うことばは de がofを、

Sire が father を意味しますから「父の御心(望まれること)のままに」です。エレミヤ18:1-11にあるように、父なる陶器師が私たちという粘土から、主人に一番寵愛されて用いられるような栄誉ある器に、きよめてかたち造られる transformまで (until )、 私たちをろくろの上で造り変えて下るのです。そうすることによって私たちは「主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(2テモテ2:21)この過程を経て、主の心に望まれることが私たちの心の望みとなるのです。

イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われた通り、まさに父そのものを表しておられます。ペテロはその日に御父を見たのです。彼の見た父は、大勢の自分の息子、娘たちが祝福され繁栄する姿を見て喜ばれる父であり、又喜んでご自身の御国を子にお与えになられた父でした。(詩篇35:27、ルカ12:32)

私たちにとって彼が「魚をキャッチしたこと」は単に食料の資源を得たこと以上の意味があると信じます。それは彼が、資源のある場所を示す「啓示を得た」ことです。ペテロは主から啓示をいただいたのです。だからこそ魚が彼のものとなりました。彼が主の言われるままに深みに漕ぎ出し、網をおろしたのは、彼がイエスのことばに応えて、信仰による選択をした結果でした。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ書 10:17、新共同訳)とありますが、ここでは、神のRhema の言葉のことを言っています。あるいは、神が話された啓示の御ことばです。ペテロはその日、「ことば」ご自身が話されることばを聞き、それがつまり、イエスの啓示を受けたことなのです。

 

 

今の時期は自己満足に陥って安閑としている時ではない

 

今年の5月24日の朝方のことですが、目が覚めると共にイザヤ32:15にある「上から霊が私たちに注がれ・・・(る時までは)」という御言葉が私の霊に響いて来ました。(訳者注:この文章を英語聖書では冒頭にuntilを付けて「時までは」と訳していますが、日本語訳にはそれがありません。そこで(る時までは)を括弧して上記のように付け加えました。従ってこの15節は、後日聖霊がイスラエルに降りる「聖霊降誕」の結果、主が再臨され、千年王国が始まり、18節の「安らかな憩いのに住む」ようになる「その時までは」イスラエルの国は滅びる・・・という意味でこの聖句をこのメッセージの筆者は引用しています。)

 

この32章でイザヤは、その当時国が置かれている危機的な状況をいち早く察知して、そのためにすべてを捨てて主にとりなし、嘆願すべき「時、シーズン」であるのに、全くそれに気が付かない「のんきな」女たち(とりなし手)の「自己満足に陥って安閑としているのん気さcomplacency」の結果として、イスラエルの国は滅亡の始まりが一年後に来ることを預言しています。それはとりなすはずのとりなし手(女たち)が周囲で起っている多くの不正が横行しているという憂慮すべき事態に目を向けず、主の御声に耳を傾けない鈍い心が原因でありました。

今の私たちの住む時代はそれと同じ状態で、クリスチャンが自己満足に陥って安閑とし、周りに起っていることの意味を察知して主に真剣にとりなしていないのです。今はそのような「のんきな時」ではありません。

私たちは又、雅歌5:2-8に出てくるおとめのようであってはなりません。待ちに待った主が訪ねて来られ、戸口にその御声を聞いた時、彼女は自分の都合で主の要請に即座にはお応えしませんでした。その躊躇している間に主は立ち去られたのですが、おとめは後で大変後悔しました。私たちはいつも聞き耳を立て、主がドアをノックされる時は何をさておいてもすぐにドアを開けねばならないのです。

 

 

私たちは主からの約束を受けたパートナーである

 

私たちは主に対して、約束されたものを受け取るという責任があります。主はご自身の弟子の500人以上の前に、よみがえりの姿を現されました。しかし、主が命令されたように待つことによって確かに約束の聖霊を受けたのは120人しかおりませんでした。彼らだけが上からの力(聖霊)を受け取るまで(until)「約束を受け取るパートナー」として待つことをコミットしたのです。500人以上の弟子のうち、何人がアパー・ルームに来たのか、その数は書かれていません。しかし残った人数が120人であったことは書かれています。もし一度はアパー・ルームに来ても何かの都合で去った人たちに、今聞けば、恐らくその人たちは雅歌のおとめと同じように大きな後悔の念を漏らすでしょう。

 

私たちは、最も大きな神の霊の大波が押し寄せて来るのを待ち構えているという歴史に残る場所に今立っているのです。主が私たちのドアをノックされ、ドアを開けた人と主は霊の深いところで食事をされます。私たちは聖霊の風がその上を吹いた「水」(御ことば)となったイエスと一体となることにより、次に来る大きな波そのものとなろうではありませんか。

私たちは今その“Until….”と言う線を越えようとしています。「ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が実りの多い果樹園となり、それが森とみなされるようになる・・・」(イザヤ32:15-18)その時が迫って来ています。 (終り)

 

筆者紹介:JASON HOOPER-ジェイソン・フーパー師は、預言的リバイバリストの一人であり、教師です。その健全な聖書的教えと、主から与えられる預言的啓示と、そして、神の力をデモンストレーションすることを通して、神の御国が解き放たれるのを実現することを熱心に教えています。彼のミニストリーの焦点は、信者を備え励まして神の力の証し人として立てることにあり、又信者を、神と親密な友人関係に入ることを励まし、その立場から主の心を伝えるメッセンジャーとして立て上げることに焦点を置いています。

ジェイソン師は近年、モーニングスター・フェローシップ・チャーチの牧会チームの主要メンバーの一人として奉仕して来ましたが、今はアラバマ州のフォーレイに、ティナ夫人と、三人の男子ジョシュア、カレブ、サミュエルと共に住んでいます。

 

上記のメッセージは、「モーニングスター・ジャーナル誌」がしばらく休刊しておりましたが、今回イー・ジャーナル誌として再出発し、その復刊最初の12月号の中に書かれていた記事の一つです。

 


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