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Walk With God Ministries


16 07月

神からの崇高な召し リック・ジョイナー 2012年7月16日


神からの崇高な召し

リック・ジョイナー

 

私たちがただ人々の後についていくのではなく 、各自主との交わりを持たねばならない理由が 、雅歌に書かれています。雅歌は特に人生の目的を王なるお方の花嫁となることにおいている人たちのために 書かれています。そのような人全員が学ぶべき鍵となる節は、雅歌1:7です。

 

「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

 

もし私たちが仲間の群れの中に入っているだけならば、顔おおい(ベール)はつけたままで、ぼんやり主の栄光を見るだけであり、主の栄光によって変えられることはあまり起こらないのです。私のミニストリーのゴールは人々を私個人の弟子にすることでは決してなく、常に出来る限りすべての人がキリスト・イエスご自身の弟子になるように助けることであるのは、この理由によります。

 

ヨハネ10章からもわかるように、主の声を知っているのは主の羊であって 子供の羊ではありません。私たちが主にあって幼い間、主の声が分かるようになるまでは、他の人たちの後をついて行かねばならないでしょう。しかし、私の願いはまず私のベールが取り除かれることであり、それによって人々のベールをも取り除く助けをしたいことです。私たちがただ単に主イエスの友である人に似るのではなく、主ご自身に似る者と変えられるためには、私たちは主を見る必要があります。

 

ある人の子供達全員が彼の親友に似ていたとしたら、その人はどう思うでしょうか? もしも私たちリーダーが、人々を主にではなく自分の型にはめようとしているとしたら、一体自分は何をしようとしているのかをよく考える必要があります。私たちの人生は人々にとってよいお手本となり得ますし、またそうあるべきです。しかし使徒パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、産みの苦しみをしている。」と言っています。これこそ私たちの目標です。

 

25年前に主から見せられた大収穫のヴィジョンの中で私が非常に励まされたことの一つは「今までに存在した中で最もパワフルなメッセンジャーの世代が起り、彼らはすべて『御国のための宦官』となる」ということでした。これは肉体的な宦官ではなく霊的な宦官を意味しています。肉体的な宦官は花嫁への願望は持ちませんが、自分が仕える王が花嫁を喜ぶのを見て満足する者たちです。彼等は主の宦官となるのです。彼らの願望のすべては、王なる主が花嫁なる教会を喜ぶのを見ることです。彼らは教会が、自分や他の誰かではなく、主ご自身が望まれるものになるのを見るために献身するのです。彼らは花婿の真の友です。

 

聖書の中に「神の孫」がいないのにお気づきでしょうか? すべての人は神にとって一代目の子供です。私たちのミニストリーの究極的な目標は、私たちに何が起ころうとも(死んだり、いなくなっても)私たちが教えた者たちが神を追い求める歩みを一歩たりとも踏み外したりしないことです。彼らが、私たちの教えではなく決して失望させることのない主との関係の上に基礎をおいていれば、彼らは揺るがされることはありません。

 

先述のように、子羊(新し信者)は、羊飼いなるお方を知り主の声を十分知るようになるまでは、他の羊のあとをついていかねばなりません。ですから成長するまでは他の人についていくのは間違いではありません。しかし、真の霊的成熟は、 単に主を信じる人と親しくなるからではなく、主ご自身との親密さの結果として起こるのです。

 

ですから、私は常にどのような成長過程にある人にも理解し受け取れるように書き、又教えるように努めていますが、どのメッセージの中にも使徒パウロが「キリスト・イエスにある神からの崇高な召し the high calling of God in Christ Jesus (ピリピ3:14)」と呼んでいるものを追い求めている者に対する招きの種をも蒔いています。先述のように、ピリピ3章でパウロが「私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と言っているのは、救いとか贖いのことを言っているのではありません。それらのものは彼がキリストの贖いの犠牲を信じたときにすでに受け取っていました。パウロは人生の終盤においてもまだ 崇高な召し(high calling)—それを受け取るクリスチャンは非常に稀ですーに到達したとは思っていました。崇高な召しを確実に知っているものはこの人生で得られる最高の宝です。これこそ私たちがこの人生で究極的に捜し追い求めるべきものです。    (終り)


06 07月

自分の箱から抜け出る   ジョン・ベルト         2012年7月6日


自分の箱から抜け出る

ジョン・ベルト

 

1.重い荷をおろす

今のシーズンに神は 「自分の箱から抜け出す」新しい方法で物事を行うように、教えておられます。「あなたの」やり方にだけに固執して固まってしまわないで、神のやり方を学びしっかりと受け取ってください。それはどういうことでしょうか? それは物事をこの世が考えるようには考えないということであり、又、この世が「正常・普通・ノーマル」と呼ぶものをそのまま受容しないということです。私たちは、自分の召しを妨げるものがあるならば、何であってもそれを捨て去ることをいとわないフレッシュな福音のメンタリティーが必要なのです。

神はご自分の召しに喜んで応答する人々を求めておられるのです。取税人マタイや他の弟子のことを考えてみてください。イエスは「わたしについて来なさい。」と言われましたが、その時イエスに従った人々がどのような犠牲を払ったのか、という詳細を私たちは知る事はできません。

 

マタイ11:28−30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

この召しに応答した者だけが発見できる隠された宝があります。マタイにとってそれは、この世のシステムの中で取税人(退屈な仕事)として働いていたことからの解放でした。神は私たちを福音の冒険の人生へと招いておられるのです。それは私たちの想像をはるかに越えたすばらしいものです。私たちが神の招きに応答したとき、神は人生のすべての重荷を取り去ってくださいます。マタイは大きな重荷を負っていたと私は思います。退屈だけれどいろんな心労があったことでしょう。彼が主に従うことを選んだとき、今までのすべてのものを後にしました。イエスの負いやすいくびきを受け取ったとき、彼の重荷は過去のものとなりました。重荷の代わりに イエスのそばで 神の栄光を経験することを選んだのです。

 

つまるところ「私たちは何のためにここにいるのか?」という問に行き着きます。何か意味があるのでしょうか? 私たちはここで天に宝を積み上げているのでしょうか? それとも地上での報いを求めているのでしょうか? イエスが「わたしについて来なさい。」と言われているのに、尚も私たちは自分の栄誉を求めているのでしょうか? 主は重荷を取り去ってくださり、すばらしい喜びといのちと平安へと導いてくださいました。福音は今も変らず「良き知らせ」です。それをあなたは常に心に感じていますか?

 

2. 天の戦略を用いる時

私たちは今、神が典型的な方法とは違う、かえってそれに反するような新しい戦略を、私たちのために解放しようと願っておられる時に生きています。ものごとの成果をあげることができるやり方があるのです。 多くの者は、何回も同じことを繰り返し同じ結果を見るという宗教的なパターンにはまってしまっていて、 新しく新鮮な違ったものを学んでいません。このように宗教の型にはまってしまった者は、冒険や新しいこと、違った方法を恐れ、自分たちの平安を保つために他の人たちをも抑えつけてしまっているのです。不幸は仲間を求めるのです。「恐れ」が持つ大きな特徴の一つは、「支配、コントロール」です。恐れを持つ人は自分のために物事を安全に守るために自分で物事をすべてコントロールせねばなりません。 主に信頼し物事を委ねることができず、それらを自分の手中の支配下におさめておきたいのです。

 

箴言3:5−6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

 

主に信頼することを学ぶならば、私たちは物事に対して新鮮な捉え方をすることができるようになります。自分の小さな箱の中にいた私たちは、主を信頼することを学ぶと、箱から這い出て、箱の中の暗闇ではなく青空と日の光を見るようになります。 神が見られるのと同じように私たちが物事を見るようになるときに、それが起こるのです。神は私たち一人ひとりのために、命を解き放ち神の愛と臨在を持ち運ぶものとするブループリントを持っておられます。主に古い場所から出してくださるようにとお願いしてください。自分の考えがもしかして間違っていないかどうか、よく考えてください。あなたの考えは、もしかしてこの世で受け入れられている人間的なものでしょうか? 神はもっとよい道を持っておられるのでしょうか? そうならば、天からの新鮮なブループリントを得るために何かを捨てる必要がありますか? それを喜んで捨てる用意がありますか?

 

3. 「しかり。」というハーモニーの経験

第二コリント1:20−22 「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン。』と言い、神の栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」

 

私たちが神のご計画に参加するとき、それが私たちのための主のベスト( 最善)であるという証印として主からの「しかり。」を受けるのです。「良いこと good」は「最善のこと best」の 敵です。自分の人生のための神からの最善の計画を私たちが発見するとき、 私たちを承認してくださる主の声を聞くという更にすばらしい経験をします。私たちが聖霊と一致し調和を保つとき、聖霊は神が承認しておられる啓示の中へと私たちを導いてくださいます。イエスは神の承認の声を受け取られました。それはイエスが神の御子であったからではなく、主が父の御心の願いに一致して歩まれていたからです。父の承認の声がさらに明瞭になる、的確で優れたときがあります。それは私たちが父の声と願いとに全く一致するときに起こります。

 

4.ふたつのものの合計

先月のある日のこと、私は自分の息子がなんとすばらしく形造られているかと驚嘆しながらながめていました。その時、彼は「ふたつのものの合計」であるという考えが浮かびました。ふたりが一致するときに力があります。一人のときの能力は限られていますが、私たちが神の思いと心に一緒になるとき、私たちが達成できることは無限となります。イエスが「ふたりでも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」と言われたのはこの理由です。使徒行伝を見ると、弟子たちはふたり一組になってでかけました。神はご自分の力が解放されるように 一致し一つになる人びとを求めておられるのです。私たちが同じ思い、同じ心となるときに、神はとてつもなくすばらしいことがお出来になるのです。バベルの塔の話を見るとき、神は彼らに出来ないことはないと言われました。

 

創世記11:6「主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』」

 

彼らは同じ言葉を話し一致して、サタンの力によって働いていました。私たちが聖霊の力で一致して働いたならば、どれほど不可能なことがなくなるでしょうか?

 

5. 敬う霊

第一ペテロ2:17「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」

聖書はすべての人を敬いなさいと言っています。もしこれは信仰を持たない人をも含むとすれば、信仰を持つ人を私たちはどれほど敬うべきでしょうか。

人を敬うとはどういうことでしょうか? 神は私たちすべてに、人を敬う機会を与えてくださいます。ダビデはサウロの上着のすそを切り取った時、罪の責めを感じました。そして心を痛めました。あなたは誰かの悪口を言った時(その人が間違ったことをしたとしても) 心が痛みましたか? 私たちは蒔いたものを刈り取るのです。もし風を蒔けば、つむじ風を刈り取るのです。私たちの口は人々を祝福するためのものであり、人々をのろうためのものではないのです。

 

あなたは「あの人は悔い改めるべきだ。」と思っているかもしれません。人々を悔い改めに導くのは神の慈愛だということをご存知でしょうか? 神の慈愛を人々の人生の上に祈ってみてください。人々のうわさ話をするのではなく、彼らの上に神の愛、慈愛、憐れみが注がれるように願ってください。それとも、私たちは自分の苦々しい思いの故に、人が変えられるのを望んでいないのでしょうか。

 

多くの場合、人々は他人のために祈るよりはうわさ話をするほうを好みます。 祈祷会が「うわさ話の会」になってしまっているものもあります。人々は自分の意見を吐き出す場所を探しているのです。もしこのようなことが起こっているのを見たならば、その場ですぐにはっきりと言わねばなりません。その人がいない時にネガティブなことを言うならば、その人を暴露し辱めることであり、それは裏切り行為なのです。

 

神はこのようなことを喜んではおられません。人を敬うこころを持つようにしてください。人を辱めることを言う人を避けるようにしてください。自分を清く保ってください。そして神の愛と慈愛がそれらの人に降り注がれるように祈ってください。密室で人を敬うとき、神はあなたを公の場で敬われます。あなたの言葉が塩で味付けされているようにしてください。塩は清めるものです。ものを保存し、癒し、回復させます。

神は忠実なお方です!(終り)

 

John Belt
Overflow Global Ministries
Email: office@overflowglobal.com


01 07月

ニューヨーク移転のお知らせ ー 写真追加   2012年7月1日


ニューヨーク移転のお知らせ ー 写真追加

先回の記事に下記の写真を追加させていただきます。最初のものは私たちの初孫の入浴姿です。

 

 

 

 

 

 

 

次に私たちの家族で撮った写真です。ソファに座っているのがホノルルから参加した娘と私たちで、床に座っているのが息子夫婦と孫と彼らの愛犬です。その下の写真は私たちの住むことになるアパートの入り口辺りを撮ったものです。