WWGM

Walk With God Ministries


16 04月

神のあなたへのヴィジョン   ビル・ジョンソン          2018年4月16日


 

神のあなたへのヴィジョン

 

ビル・ジョンソン(ベテル教会説教)

 

 

王として整えられる必要

 

イスラエルの王の歴史はよくご存知だと思います。最初の王はサウロでしたが、それはイスラエルの民が、他の国々のように自分たちにも王を与えてくれるように主に強く願って与えられました。悲劇的なことに、その時イスラエルには王となるべく主に訓練され整えられた人物はまだ存在していませんでしたが、神はその中でもまた最も王にふさわしかったサウロを選ばれ恵みを注がれたのだと私は思います。最初の数年はサウロは優秀で熱意のある良い王であり、へりくだって王として民のためによい働きをしました。しかし、次第に彼は罪を犯し、恵みを失い、サムエルに反抗し、ついに主は彼を見放されました。そして主は彼が在位中にダビデを次の王に選ばれました。しかしダビデが最初に選ばれ油そそがれ日から実際に王となるまでには、かなりの年月が経っておりました。

 

サウロはダビデを激しく嫉妬しました。それはダビデが神のフェイバー(特別の恩顧)を受けており、神の臨在、神の恵み、油注ぎを知っていたからです。聖書には, 神がダビデに「わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。」と言われたことが2回出てきます。(2サムエル7:8、1歴代誌17:7)これは興味があることです。というのは羊飼いは普通羊の後ろからついて行くからです。羊の後ろから歩いていたダビデが王になったのです。即ち、王となるためには自分一人で先を歩くのではなく、まわりの人々の様子、まわりで起こっていることに注意を払い、面倒を見ながら歩かねばならないのです。主はダビデが羊飼いだった時代から彼を取り扱い、主が望まれるような王になるための訓練を始められました。

 

イスラエルの女たちは「サウロは千を打ち、ダビデは万を打った。」と笑いながら繰り返し歌いました。それによってサウロは嫉妬と不信感をダビデに抱き、10年以上もの間、ダビデを殺そうと計りました。サウロは整えられないままに王になり、ダビデは十分に訓練されてから王にされました。つまり、10年以上も殺害される危機を通され続けるならば、あなたは立派なリーダーになるための十分な訓練を受けるのです。ですから主に昇進を願うときは、忘れないでください、そのためのプロセスを通されるということを。

 

イスラエルの民が王を強く望んだとき、それは主の御こころではありませんでした。そのことからある人達は「神ご自身が王であられるから、人間の王を立てることは神の御こころではない。」と結論づけています。しかしそれは真実ではありません。主は信仰の父アブラハムに創世記17:6で次のように言っておられます。

 

「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出てこよう。」

 

主はイスラエルが建国される前から、アブラハムの子孫から国々の王を立てるのがご自分の願いであることを宣言されたのです。

 

真の王とは

 

問題は、この世界が持つ「王のイメージ」は、ほとんどが「自分中心で、自分を満足させることを第一とする王」というものだということです。「自分の長寿、繁栄のためならば人民が苦しみ喘いでも厭わない王」というイメージです。しかしイエスは神の視点での「真の王」はどのような者であるかを示されました。人間が持つ王の認識があまりにも歪んでいたからです。そして神がイエスをこの世に送られ「真の王」の見本を示された目的は、神がクリスチャン全員を王になるべき者として造られたからです。私たちは地上で王になるべき者なのです。

 

私たちは「すべてのクリスチャンは王だ。」と言うのを躊躇する気持があります。それは取りも直さず私たちの持つ「王」のイメージがこの世的なものだからです。しかしイエスこそが「真の王」の完全なお手本であり、主はタオルを手にとって弟子たちの足を洗われた方です。それは仕える者の姿であり、それこそ神がお考えになる「王」の姿なのです。

 

イエスがなされた事はすべて、「真の王」の姿を表すためでした。私たちは「しもべの心で治め、王の心で仕える者」になるべきです。私たち王家の者は天の無限の資源を用いてまわりの人達のために仕えるのです。真の王は自分の国の問題を聞いて「一体誰がこの問題を解決するのだろうか、、、」と思い悩むのではありません。真の王は自分の前に持ち出されたすべての問題に対処し解決する権威と資源を持っています。ですから、誰かが「背中を痛めました。」と言って来たとき、あなたが王であるならば「他の人に解決してもらいなさい」とは言わないのです。イエスはすべての問題に対して「王たる者のすべきこと」を実際にして見せてくださいました。私たちも無限の資源を天から引き出すべきなのです。

 

私はよく「どうか神様の祝福を祈ってください。」と人々から頼まれます。多くはその人のアイデンティティーや目的、デスティニー等に関する祈りですが、この数年それらの祈りに加えて、私はもう一つ「無限の資源があることを知るように」と祈ることにしています。親として子どもたちに出来ることは「あなたが受けた神からの召しを遂行するのに必要な資源は、何でもすべて無限に備えられている」という真理を教えることだと思います。例えば奇蹟をする油注ぎや問題に対処するための知恵の言葉、資金等、すべて必要なものは備えられているのです。要するに「王」は普通の人のように「これは出来ない、それは無理だ」というように限界を設けないのです。

 

王として統治するとは

 

「だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6:33

 

私は「神の考えられる優先順位は一体何なのか」といつも考えてきました。主は「まず第一に」神の国とその義を求めるように言われました。ですから私たちはすべての事柄に関して自分の持つ価値観を、神の価値観に合わせなければなりません。そうすることによって私たちは自分の人生をうまく治めることができるのです。

 「神の義」は「神の国」と同等に並べられていて、ニの次ということではありません。ローマ14:17には「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」とあります。ですから私たちは「神の国、それは義、平和、喜びです。その中でも義をまず第一に求めなさい。」と言われているのだと思います。その理由は、あなたの毎日の言動の中に神の義がどれだけ現されているかが、 あなたが人生を治める権威をどれだけ持つ事ができるかの尺度になるのです。

 

知恵の書である「箴言 Proverbs」という言葉はもともと「治める reign

rule」という語から来ています。ですから「知恵」は私たちに治める能力を与えるものです。神からの悟りは、王(真の王)が人々を助け人々に仕える能力を与えるのです。

 

「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」ローマ5:17−18

 

イエスによって私たちは「いのちにあって支配し治めること」が可能になりました。人生を治めるとは、即ち私たちが自分自身の内なる世界をどのように治めるかにかかっています。社会的にビジネスでどのように成功するかとか、政治的にどのような影響力を持つかとかではありません。それも大切なことですが、最も大切なのは、自分の内なる世界をどのように治めるかなのです。神が私をどのような者と見ておられるかを知る事、イエスの思いを自分の思いとすること、即ち、どのようにお金を用いるか、家族をどのように取り扱うか、人間関係をどのようにするか、ということすべてが重要であり、すべてをイエスの思いでしていくのです。「自分の考えでやりたい」と思う人はどうぞそうして下さい。私は自分の考えで物事を対処するほど愚かではありません。勿論私は自分の考えを持っています。でもそれではうまく行かないことを十分悟りました。

 

自分の心を治める力を失わせる4つのもの

1.罪責感(guilt)

2.恥(shame)

3.後悔(regret)

 4.  苦い思い(bitterness)

 

私たちの肉体も内面で起こっていることに影響を受けることは現在周知の事実となっています。例えば苦々しさを長い間持っていると、それが健康に影響してきます。憎しみや恐れもそうです。3ヨハネ2節に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあるのはそのためです。私は多くの人のために祈ってきましたが、時として後悔が憎しみとおなじ位大きな障害になっていることを発見しました。それは両者ともにその人が過去につながれ縛られているからです。私たちのアイデンティティーは、「神が自分をどう見ておられるか」によらねばなりません。神が見られる姿が私たちの正確な姿です。

ローマ8:35では「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。」と問うて、すべてのことを列挙していますが、38節に「今あるものも、後に来るものも」とあります。又、1コリント3:22には「・・いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたのものです。」とあります。2つの聖書箇所で共に抜かされているのは、「過去」です。過去は私たちのものではないのです。私たちは過去を法的に手にいれる権利はないのです。なぜならばそれはすでに購入されてしまったからです。私たちが過去のことを思い出すとき、その過去はすでにイエスの血潮によって贖われているのですから、もうあなたのものではなく、あなたが思い出す過去の出来事は最早本当の姿ではないのです。過去を後悔する度にあなたは偽りや惑わしに心を開いてしまっているのです。

 

あなたの真のアイデンティティー

 

アイデンティティーのシフトはここから始まります。あなたは現在と未来は持っていても、最早、過去は買い取られていてあなたのものではありません。それはイエスの血潮で覆われ、あなたを悩まし損なう権威もなく声も持ちません。すでに買い取られているからです!もうあなたのものではありません!キリストにある私たちのアイデンティティーはここから始まります!自分の人生を治めることを会得するのは、このレンズを通して自分を見ることから始まります。今より以前のことは、すべてイエスの血潮で覆われ主の所有物となり、もはやあなたの不利に働くことはなく、かえって益となるように主が用いてくださるのです。一旦あなたが罪赦されたならば、罪に向けられるすべての攻撃は、最早あなたではなく暗闇の権力(あなたに悪影響を与えたもの)に向けられるのです。

 

過去の後悔、苦い思いという問題があります。主の祈りの中に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」があります。私たちの「赦され続ける必要」と、私たちが「赦し続ける責任」とが関連づけられ、「一息の文」をなしているのです。両者は切り離すことはできません。皆さんの中には想像もできないほど酷い仕打ちを人からうけた方がおられると思います。でも考えてみてください。「完全なる神」に対して犯す私の罪は「不完全な人間」に対して犯された誰の罪よりもずっと重く大きいのです。神は私を赦されました。それによって「赦しの基準」が定められました!ですから「確かに私は自分の人生を治めている」と言うためには、私はその赦しの水準を保ち続けねばならないのです。

 

金銭に支配されない

 

 あなたが人生を治めるならば、お金に支配されるのではなくお金を支配するのです。もしお金にコントロールされるならば、それは自分が仕える主人になってしまいます。

聖書には、アナニアとサッピラが人々を欺こうとした事件が書かれています。ここから学ぶべきことは、あなたがお金をコントロールしている間は、あなたの好きなように用いる特権と責任を持っていると言う事です。彼らはお金を人々から歓心を買うために用い、それが全額だと偽りました。今私の手にあるお金は兵士であり、それを持っている私は将軍です。私はこれを宣教師に上げてもいいし、ホームレスに食べさせてもいいし、妻にハンドバッグを買ってもいいのです。私がお金を治め支配しコントロールするのです。決して逆ではありません。

たましいを素早く貧しくするのは、お金の奴隷になることは私たちのたましいをあっと言う間に貧しくします。

 

経済の王国を治めるための4つのことを申し上げます。

1.豊かに与えること

2.満足すること( 足りないものがあっても喜びを奪われない決意)

3.物を購入する時の知恵(安物買いをしない等)

4.賢明な投資

 

 

神の国に生きる人生

 

自分の人生を治めるとは、家族や友人の意見に左右されたりコントロールされないことです。人生の成功とは、人々を愛し助けることに成功することです。

 

たとえば、近所の人が来て「あなたのお子さんたちのあなた(親)に対する態度はうちの子どもと違ってすばらしいわ。どのように育てたんですか?」と言ったとします。彼らはイエスのことを知りたいと言って聞いたきたのではなく、あなたが住んでいる御国のことを知りたいのです。彼らははっきりそうは問いませんでしたが、実際はそれが彼らの質問なのです。そうであれば、あなたは彼らが主の麗しさを味わい見る機会を与えることができるのです。

皆さんは全員、自分の人生を治めるように神によってデザインされたのです。

神はすべての者に賜物を与え、人々の先頭に立ち、お金を、借りるのではなく、貸す者とされるのです。もし今そのようでない人も、本当はそれがあなたの受け取るべき分であることを知ってください。私たちの思いを神が実際に備えてくださっているものに合わせていかねばなりません。

あなたは人生に君臨するようにデザインされているからです!王なるお方が人となってくださったが故に、人が王になれるようになったのです!(終り)


09 04月

信仰の試煉 ( 二 ) ジャッキー・ポリンジャー     2018年4月9日


信仰の試煉 ( 二 )

 

ジャッキー・ポリンジャー(3月25日カンサスIHOPにて)

 

(香港 St Stephen’s Society創設者 1966年から何万人もの麻薬中毒者を救出 著書に「追龍伝愛」マルコーシュ社あり)

 

 

そしてつぎに主は、人々を麻薬中毒から奇蹟的に解放され始めました。最初の人は私の護衛としてギャングから送られて来た人でした。私の部屋が荒らされたので(それは私が6年間も何から何までお世話をした人によってでしたが)ココという2万人の上に立つギャング・リーダーが私のために送ったのです。私は「ありがとうございます。でもイエス様が守ってくださいますから、大丈夫です。帰ってください。」と言ったのですが、彼はそのまま私のそばで護衛となりました。私は彼がアヘン中毒であることを見ぬいていましたが、彼は知りませんでした。

 

ある時、彼が私の集会の外に立っていたので、中に入らないかと誘いました。(集会に参加していたのは私一人で、あとは御父とイエスと聖霊でした。)彼は私と一緒に「Keep me oil in my lamp keep me burning ー我が灯火のために油をそそぎたまえ」を歌い出し、なんと祈り始めたのです!それは私が聞いたこともないようなすごい祈りでした。聖霊が彼に臨み、彼は異言で30分祈りました。そして 彼が麻薬中毒から解放されたのが分かりました。

 

私は彼に「あなたはボーンアゲインしましたよ。もう悪い仲間と一緒にいないようにね。 日曜日の礼拝にいらっしゃいね。5人の集会ですよ。私とあなたと御父と主イエスと聖霊とのね。」と言いました。

日曜日に彼はやってきて「神様を讃美します!オピウムデン(アヘンを吸うための場所)に行ったら、ただでアヘンをくれると言われんだけど、自分がクリスチャンになったことを思い出したから、ひざまずいてみんなに讃美歌を歌ってあげたんだよ。アヘンを吸わなかったんだ。神様はすばらしい!」と言いました。私は「駄目よ。あなたはオピウムデンなんかに行って主を試みてはいけなかったのよ。」と叱ると、彼は「でもオピウムデンは私の住まいですから。」と言うのです。オピウムデンに住みながらイエスとの新しい生活を始めることができるでしょうか。ー そこで私は彼のために住まいを捜しましたが、アパートはどこも一ヶ月分の前払いが条件でしたので、彼も私もそのお金がなく諦めざるを得ませんでした。仕方なく、私は彼を自分のアパートに住まわせました。

 

彼の友達は「もし彼の中毒が癒されたというなら、私もイエスを信じてあなたの家に住みます。」と言いました。彼らにとって「クリスチャンになること」と「ジャッキーの家に住むこと」はセットになっていたのです。救われた者には聖霊を受けるように勧め、全ての者は異言を受けました。救われると、彼らは私と一緒に10日間一日中異言で祈り、 麻薬中毒から解放されて行きました。

 

そのように救われ中毒から癒された人々の数がどんどん増していきましたが、その一方で去って行く人も大勢出て来ました。調子よくやっている、と思っていると、去って行ってしまうのです。貧しい人たちはそのようなのです。私たちが決してしてはならないことの一つに、彼らの中にリーダーを立てることです。彼らの中に「あなたのミニストリーを将来担う者」を捜そうとしてはいけないのです。彼らはただ愛されねばならないのです。ただ彼らの世話をし、彼らが間違い失敗してもそれを許容してあげねばなりません。なぜならばイエスは彼らのために死なれ、又私のために死んでくださったのですから。

 

ですから私のミニストリーは発展しませんでした。人々は来ては又去って行きます。奇蹟は起こりますが、成長するには時間がかかるのです。主は「耐え忍べ」と言われます。

そのうちに幾人かが残るようになりました。最初は四人、そして五人と段々に増えていき、政府が補助を出してくれるようになりました。また香港のクリスチャンが来て一緒に礼拝するようになりました。カリズマの教会が他にはなかったからです。そして気がつくと数百人になっていました。それは何か特別なことをしたからではありません。それが教会なのか、フェローシップなのかも決めたわけではありません。ただ「そうなっていた」のです。

 

又、そのような「実」が実ったから私たちが「成功した」というのではありません。成功とはただ「主の御こころを行うこと」です。

ヤコブ1:2「私の兄弟たち。さまざまな試煉(suffering)に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」

 

私たちの試煉、苦しみとは何でしょうか。それは「主イエスの私たち人間への御こころを知り主の苦しみを共に負うこと」です。

ローマ5:3−5「そればかりではなく、艱難(suffering)さえも喜んでいます。それは艱難は忍耐を生み出し、忍耐が煉られた品性を生み出し、煉られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 

イエスは罪深い者のために死んでくださいました。そして主は罪深い者たちを愛するという特権を私たちに与えてくださいました。そしてほんの少しだけましになり、愛され成長して行く人たちと共に住むようにしてくださいました。

最後に皆さんを励ますために祈りたいと思います。あなたはあなたのレースを走り始めましたか?

パウロはレースを終えたとき、2テモテ4:7で「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言いました。

競争相手を気にすること、性的誘惑、友人たちの承認を必要とすること、その場所に留まって結婚相手を見つけたい願望等々、これらはすべてあなたが踏み出すのを阻む敵となります。しかし、神は良い物を一つでもあなたに拒むことなどあるでしょうか。あなたの友達が得るものをあなたは得られないことがあるでしょうか。ーー確かにあります。でもあなたはそれよりもっと素晴らしいものを手に入れるのです。あなたは永遠の天国の喜び、あなたが愛したすべての人々という喜びがあなたを待っているのです。それはイエスが「ご自分の前に置かれた喜び」のために十字架の道を歩まれたのと同じなのです。

 

あなたがレースを走るように祝福します。あなたのために備えられたレースです。あなたはそのために創造主によって心をこめて特別に造られたのです。ある人々にはあなたを通してだけ、主の愛、主の御こころが伝えられるように定められたのです。

成功するとか数が増えるということなど考えることから解放されるように祈ります。「ミニストリー」という名のつく仕事をしている人を羨む必要はありません。そのようなものはどうでもいいのです。地上で私たちは何かの「ミニストリー」を始めるためではなく、「隣人を愛する」ため生きているからです。その中からミニストリーが生まれてくることはあるかもしれません。

あなたが忍耐をもって走るように祝福します。

あなたのための主からのヴィジョンを達成していないと思って失望する必要はありません。主の御名によってすることはすべて、決して無駄になることはないことを知ってください。そしてかならず収穫があります。他の人が収穫するかもしれませんが、かならず収穫があるのです。「収穫までにあと4ヶ月ある」と言ってはいけません。「自分は蒔くだけだ」という人たちに言います。収穫を始めてください。他の人が労苦して蒔いた場所で刈り取られるのを待っている人達が必ずいるからです。いつも収穫をしている人達に言います。蒔いてください。忍耐をもって、愛し難い人を愛してください。その人にあなたが望むような変化がすぐに見られない時には、聖霊があなたに対してどれほど忍耐強かったか、あなたが間違いを犯すのを許容し、なおも愛し続けられたかを、思い起こさせてくださいますように。

若い人達を祝福します。訓練を始めてください。ある親たちはティーンエイジャーのスマホの使用を制限する訓練を始めています。若者たちが遣わされる場所はスマホが使えないかもしれないからです。外部からとの通信、励まし、慰めがない地で、神にだけ拠り頼み、神からの承認を得るための訓練です。レースを走る者はだれでも厳しい訓練を必要とします。

 

長年労苦してきたにも拘わらず、その実を見ることが出来ない人に言います。最大の努力をしたのに望んだことが実らなかった人たちを主は祝したいのです。神の召しを頂いたけれど、もう機会を失ったと思っている年配の方、よい知らせがあります。遅すぎることなどありません。子どもや孫が大きくなって暇ができた人達は、都会の貧しい人達のお世話をする絶好の時です。主はあなたに長寿を与え、あなたはカレブのようにまだ壮健なのです。今こそあなたの相続地を受ける時です。

失望している人、意気消沈している人に言います。忍耐は徳を生みだし、希望を生み出します。あなたがお世話をした人が裏切り、あなたが祈った人があなたを失望させたとき、私はあなたに言います。「よくやった、よくやった」と。愛は多くの罪を覆います。愛だけが重要なのです。

「自分の働きは無駄だった、失敗だった」と言う人があるかもしれません。しかし私は言います。「よくやった!よくやった!すばらしい!」と。あなたは走っているのですから!

すべては主の御わざであり、栄光は主にあります。地上で私たちに栄光、誉れは必要ありません。いいえ、それはかえって足手まといになるだけです。ハレルヤ!アーメン!(終り)


01 04月

信仰の試煉    ジャッキー・ポリンジャー      2018年4月1日


信仰の試煉

 

ジャッキー・ポリンジャー(3月25日カンサスIHOPにての礼拝メッセージから)

 

 (香港 St Stephen’s Society創設者 1966年から何万人もの麻薬中毒者を救

  出して来た方。 著書に「追龍伝愛」マルコーシュ社があります)

 

ヘブル12:1−2「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座されました。」

 

私たちは皆、レースをしているのだと思います。しかしそれは他の人と競うのではなく、一人ひとりが自分に与えられたレースを走っているのです。あなたはレースを走り始めましたか?

最後まで完走しますか?

ここに「忍耐をもって走り続ける」という言葉があります。そしてイエスとイエスが走ったレースについて書かれています。イエスが見られた「ご自分の前に置かれた喜び」とは、

あなたや私が主と共に永遠に住むことです。主はその喜びの故に十字架を耐え忍ぶことができたのです。

 

ヨハネ4章で主はご自分の地上での働きについて語っておられます。

ヨハネ4:34「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

 

イエスはそのみわざを成し遂げられました。そして息を引き取られるとき「それは完了した。It is finished.」と言われました。

弟子たちはイエスが十字架につくためにエルサレムに行くのを引き止めようとしました。それと同じように常に私たちを引き止めようとする人達がいます。クリスチャンの間で聞かれることばに「燃え尽き burn out」があります。しかし本当はこれはクリスチャンの語彙ではないはずです。もしあなたが「あなたのレース」を「主の燃料」で走っているならば、燃え尽きるはずはありません。勿論あなたが「他の人のレース」を「主の燃料なしで」走っているならば話は別ですが。ですから、

どのような目的で造られたにせよ、どのようなレースを与えられたにせよ、私たちはそのレースを最後まで耐え忍び成し遂げることが可能です。

 

主はルカ13:32で言われました。

「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」

 

ヨシュア14:7−9に、カレブの言葉が記されています。

「主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心の中にあるとおり彼に報告しました。私といっしょに上っていった私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。」

 

年配の方々に申し上げますが、「自分は神の召しを受け取るチャンスを逃かもしれない」と思っている人が沢山いるのではないでしょうか。「誰か他の人が私の召しを受け取ってしまう」と思うのです。でも主がカレブをどのように取り扱われたかを見てみましょう。

ヨシュア14:10−12

「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らをも追い払うことができましょう。」

 

主があなたに約束されたものが何であれ、それを主が他の人に与えることはなく、それはあなたのために取っておかれるのです。あなたは主のご計画のためにそれほどに重要な者だからです。その国、その土地、その人々のためにはあなたが必要なのです。あなたのためにそこは取っておかれているのです。

 

次に若い方々に申し上げます。

エレミヤ12:5

「あなたは徒歩の人達と走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。」

あなたがレースを走るためには訓練が必要です。もし疲れきってあきらめてしまうならば、主があなたのために備えられたものをすべて見ることはできません。主があなたに示す御心をすべて知ることはできないのです。疲れたり、失望したりしてあなたが走るのをやめてしまうからです。

 

ヘブル10:36

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

「忍耐すること」 は今の若者にはとても難しいことです。今香港に若者が奉仕のために来ると、空港について10秒以内に親に連絡をしないと親は怒ります。私の時代はもっと楽でした。香港についてから家族に電話をしたのは、一年後でした。電話使用の予約をしてバスで通信所に行き、2分間電話で話すことができました。家族全員と一言挨拶を交わすのが精一杯でした。だからよかったのです。というのは、私が家を離れて香港に来たとき、私は本当に「家を離れた」からです。私たちが福音のために家を離れる時は、本当に「離れる」ことが必要だったからです。

 

でも今の若者にはそれはとても難しいことです。友達をみんな連れてくるようなものです。とても有名なクリスチャンの家族の子どもが香港に来たことがあります。彼女の決断方法はすべて「主観的」でした。つまり「神は私に何と言われているか?」と考えるのです。(私の決断方法は「客観的」であり、「御ことばは何と言っているか」を見てから、それが自分の状況にどのように適応するかを考えます。)私がいつまで香港に滞在するのかと訊ねると、彼女は「祈ってから決めさせてください。」と言いました。しかし実のところは友達にEメールやメッセージなどで話して相談しているのです。現代の若者は何でも「友達に相談してから」でないと決断できないのです。

 

貧しい人たちと住むのは大変なことです。私たちのミッションに新しい人が来た時、貧しい人たちはまず一番に「いつまで滞在されますか?」と訊ねます。世界中から人々がやってきて、3週間、3ヶ月、半年というように奉仕をしてくれます。ここにいる人々はひどい人生を送った人ばかりで、叩かれたり、売られたり、強姦されたりして来ました。ですから彼らは「家族」が欲しいのです。自分たちを愛してずっといてくれる人を求めているのであって、「私は香港で3週間貧しい人たちのところで奉仕をしました。」と言うために来る人を求めてはいなのです。

 

私は家族の結婚式はほとんど出席できませんでしたし、両親の死に目にも会うことはできませんでした。でも私は何かを逃したのでしょうか?

確かにこの地上において手に入れなかったものがほんの少しあるでしょう。でも両親はイエスを信じていましたから、私は天国で永遠に彼らと一緒にいられるのです。私たちは地上ですべてを経験しすべてを手に入れる必要はありません。

 

私たちは耐え忍ぶ必要があります。私たちは忍耐が必要です。忍耐の反対は何でしょうか? 忍耐しないことでしょうか?

違います。忍耐の反対は不信仰です。私が香港に行き無法地帯で働き始めたとき、人は私を勇敢だと言いました。でも違うのです。それは私にとってすばらしいことであり、そこに住むのは容易いことでした。そこは6マイル四方に一万人が住んでいました。50年前には電気もなく、警官がいるにはいたのですが、麻薬業者から賄賂をとっているような腐敗した人達でした。前の晩に死んだ人の死体はトイレの横に積まれました。年寄りの女たちの手の甲は、麻薬の針のマークがついていました。それは身体の他の部分の血管は使い果たされていたからです。彼らは若い売春婦を監視していました。ヘロインやオピウム(アヘン)の常用者たちが、狭い汚い道でころがっていました。私は主に「彼らのうち一人の救いのために私の人生が用いられるならそれで十分です。」と申しあげました。

 

ですからその町でそのような人たちに混じって生活するのは、私にとって大変なことではありませんでした。一生そこにいて、他には何も見なくても十分だったのです。私は憂鬱な顔をした宣教師に沢山出会いましたが、理解できませんでした。彼らは「香港の上には霊的暗闇が覆っている。誰も救われてこない。」と言います。彼らには何も起こっていないように見えるのです。でも私は彼らが鬱になるのが理解できませんでした。それは、1コリント15:58に「ですから、私の愛する兄弟よ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」とあるからです。

 

私の働きで何かが起こるのを一つも見ることがなくても、それは全くかまわない、と私は思いました。なぜならば私の働きが無駄になることはないとこの御ことばが語っているからです。現代は何でも数を数える時代です。誰かが千人を救いに導いたならば、その人はあなたよりも優れている、、と考える時代です。でもそれは真実ではありません。主が召されたことに忠実に従うことだけが大切なのです。病人を癒し、貧しい人を愛し、家に人を住まわせることです。その結果どうなるかは、主の御手にあるのです。聖書には「ある者は種を蒔き、ある者は収穫する」という教えが沢山あります。収穫する者が種を蒔く者よりもすぐれているとは書かれていません。収穫をもたらされるのは主です。

 

ですから私は何も起こらないでも幸せでした。「失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)」という約束もあります。「時期がきて」と言うと、「自分が蒔いたところからやがて刈り取る」と思い勝ちですが、多くの場合、私たちは他の人が蒔いた所から刈り取るのです。ある人々はずっと一所にいて「私はずっと蒔いてきたわ。でも何も起こらないから収穫のあるところに行くわ。」と言います。そして飛行機に乗ってリバイバルが起こっている所に行きます。でも申しあげますが、貧しい人は飛行機に乗るお金はありません。多くの人が「神のムーブが今ある所」へと押し掛けて行くのを私は見てきましたが、その間にも人々は飢えています。「あなたが留まって飢えた人に食べさせるならば、神のムーブがそこで起こるでしょう!」と私は叫びたいのです。沢山祈れば地の果てまで福音が届くでしょう、と人は言います。違うのです!あなたが歩いて行かなければ地の果てまで福音は届かないのです。福音はそのようにして私たちにも届けられました。神の一人子が人となってこの世に来られ福音が届けられたのです。実際にそこまで行って歩き、あなたの手で人々に仕えることに代わるものはありません。イエスは私たちのためにそうしてくださったのです。そしてヨハネがイエスは「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」と表したのはそういうことです。神の愛が人となってこの世に来てくださったイエスによって具現されたのです。主は触れ、癒し、人から軽蔑された者に手を差し伸べられました。

 

私は実際に誰も救われず、何も起こらなくてもよかったのです。私は忍耐しました。しかし、それと同時に私は早く起こってほしいと思いました。「忍耐しないこと」が正しいことがあるのです。なぜならばヨハネ14:12でイエスは「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」と言われたからです。「私は一生ここに住んで、何も起こらなくてもいいです。わたしの働きは決して無駄にはならず、私ではなくても誰かがその実を見ることになるからです。でも、私はあなたが約束されたことを早く見たいと切に願っています。なぜならば、そうでないと私の愛する人々が死んでしまうからです。彼らのために主よ、早く来てください。」と私は主に申し上げるのです。これは「早める」言葉です。神の御国を早く来らすための言葉です。主が再び来られるのを早めることばです。霊的に死んだ者たちを、愛し、食べさせ、家に住まわせ、胸に抱くことによって生かし、神の御国がこの地に来るのを早めます。

 

私は異言を香港に行ってからある中国人の夫婦の勧めで受けたのですが、最初は別に何の役にも立たないように思え使っていませんでした。一年後にアメリカから来た人に「異言で話していますか?」と聞かれたので、私が「いいえ。別に何も感じないし、何も変らないようなので。」と答えると、彼は「それは随分失礼なことですね。聖書には『異言はあなたを霊的に高める』とは書いてありますが、『異言は徳が高められたようにあなたが感じる』とは書いてありませんよ。」と言うので、私は異言を用いはじめました。

 

それまでは「主よ、これこれの人たちが今死にかけています。それらの人達に私は福音を語りたいと思いますので、助けてください。」と祈っていました。でも異言で祈り始めると、それが逆になりました。「主よ、あなたは私が語るべき人をご存知です。あなたがすでに整えておられる人のところに私を導いてください。」と祈るようになったのです。一日30分くらい異言で祈るようになってから6週間くらい経ったとき(相変わらず何も感じませんでしたが)本当に私はギャングのリーダー達に出会い始めました。彼らにイエスのことを話すと、彼らは道の真ん中でイエスを信じ、聖霊を受けたのです。「私の中国語が巧くなったのか」と思いましたが、そうではないのです。私が言うことは以前と何も変っていなかったのですが、神が彼らをすでに福音に応答するように用意しておられたのです。伝道とはそういうことであり、すべて主がされるのです。あなたが説得できる人など一人もいません。主が調えられた人のところに、主が私たちを導かれるのです。そして主がそこに現れてくださいます。

あなたが「トマトケチャップ」と言ったとしても、その人は救われるのです。神がすべてをなさるのであり、あなたが誇るべきことは何もないのです。(続く)