WWGM

Walk With God Ministries


28 05月

今月のメッセージ : ペンテコステのお祝いとピアース師の預言に関して      坂  達 也     2013年5月28日


今月のメッセージ : ペンテコステのお祝いとピアース師の預言に関して

 

坂  達 也

 

 

先日ペンテコステ(五旬節 shavuot)の日をお祝いしました。このユダヤ人が祝うshavuotの祭りの由来は、ご存知のように、モーセがシナイ山上でこの日、神から律法を受け取り、又ふもとに立った民は初めて神に直接お目見えしました。従ってこの日は、事実上イスラエルの国が立(律)法国家として正式に誕生した日と言えます。そしてこの日はモーセに率いられた民がエジプトを出た過ぎ越しの日から数えて50日目に当たります。

一方多くの国のクリスチャンは、同じペンテコステ(五旬節)の祭りを「聖霊降誕の日」としてお祝いします。その日はイエス・キリストが復活された日から数えて50日目に、イエスの弟子たちの上に聖霊が降誕した事実(使徒行伝2:1-4)を記念してのお祝いです。その日はキリストの直弟子である使徒たちが、イエスから約束されていた聖霊をいただき、クリスチャンが正式に誕生した日とも言えます。

すなわち、最初はイスラエルの民が神から律法をいただいて旧約の時代が発足し、次にイエス・キリストが来られた後に、キリストの弟子たちが聖霊をいただくことによって新約の時代が発足したと言うことも出来ます。

 

さて、イスラエルの民に律法が渡された後、神はヨシュアにこの律法を「あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされたているすべてのことを守り行なうためである。」(ヨシュア記1:8)と申し渡しました。ここで神はイスラエルの民に「昼も夜も」律法のことを思いながら毎日を行動するようにと言われたのです。そうであれば、神から聖霊を与えられてキリストの弟子となった新約時代の私たちクリスチャンは、ヨシュア記風に言えば、「あなたの心から聖霊を離さず、昼も夜も常に聖霊を思い浮かべ、聖霊と共に歩かねばならない。聖霊の指示するすべてのことを守り行なうためである。」ということにならないでしょうか。

と言うことは、私たちは、もはや単に律法を守りながら自分の肉の力で生きるのではなく、内住の聖霊(キリストの霊=キリスト)に従って自分の人生を聖霊に委ねて生きていただく、あるいは聖霊と共に「よみがえりのいのち」を生きることになるからです。――この二つの生き方の間には天と地ほどの大変な違いがあることに気が付かねばなりません。イエス・キリストの十字架の死とよみがえりによって、律法(旧約の時代)が聖霊(新約の時代)に取って替えられた意義は、まさに前述の通り、クリスチャンにとって、最も基本的なライフスタイルの変革を意味することを私たちはしっかりと自覚する必要があると思います。

 

さてこのshavuotの日にちなんで、先週お伝えしたように、チャック・ピアース師が大変力強いメッセージを教会に向かって手紙として書かれました。そのメッセージの中で師は次のような二つのテーマでの主からの預言を紹介しております。

(1)供給のサウンド(音)を解き放つ時に入れ―ペンテコステが来た!

(2)アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言

そこで今回私はこの二つの預言に関して私自身の理解を申し上げて、それが少しでも皆様の参考になれば幸いです。

 

 

供給のサウンド(音)を解き放つ時に入れ―ペンテコステが来た!

 

そこで先ず(1)における主からの預言を改めて見てみたいと思います。

「わたしは、あなたがたが自らを他人に与えるという賜物を具えてあなたがたを創造した。だから、与えることを差し控えてはならない。差し控えてはならない。今日わたしはあなたのうちに貯蔵してある油田に、わたしが手を伸ばしてその閉じ栓を開けるからだ。あなたの内には蓋を開け放出すべき油田が蓄えられている。もしあなたがそれを喜んで与える気持ちがあるなら、わたしは喜んでその閉じ栓を開けて噴出させよう。あなたが未だ見たことがない、あなた自身が人々に与えるために(神が初めから)秘蔵してあるものを放出させて与える時が来た。あなたが(ふんだんに)与えられるように、あなたをどのようにわたしが造ってあるのかを、あなたにあらわそう。」

 

私はこの預言を読んで大いに興奮しました。なぜなら、ここで主が言われていることが非常に画期的であり、且つ、私たちのクリスチャンとしての経済観念を根本的に変えねばならないほど重要であるからです。そこで何が重要であるかに就いて下記に書いてみたいと思います。

  1.  律法の時代は「自分中心」の時代であったのが、、聖霊の時代に生きる私たちは「他人中心」の時代に入ったこと。この間に主の十字架の御業が行なわれ、主が最初によみがえられたこと(first fruit)が私たちのすべてを変えたのです。
  2.  その「よみがえりの時代」において私たちは、聖霊によって無限の「いのちの供給」がいただけるようになり、自分のことは全く心配する必要がないこと。従って、その聖霊による「無限の供給」を、御国の目的に沿って他人とこの世のために、ふんだんに供給し、それがキリストの御国を立ち上げるための基礎となる経済コンセプトであること。

 

ここで、私は5月22日から23日にかけて次のような、ピアース師への預言の「理解」の啓示を主から受けたことをご報告致します。

 3. 御国に生きるクリスチャンである私たちは、今は未だこの世で生きているのですから、御国に対して献金をすると共に、この世の税金を払い、この世の人々を援助しなければならない。そのことが師の二番目の預言である「アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言」と関係していることです。

 4. 御国の献金システムは一般的に旧約の時代の律法に定められた「十一献金」が基本ですが、新約の時代では「十一献金」はあくまで最低線の数字を示したものに過ぎず、本来、新約の時代では「制限なく与える」―それも多ければ多いほど望ましい―と言うのが主イエスのお考えであること。ピアース師はそれを上記(1)の預言でうながしていると思います。又、十一献金以上の献金と人助けをすることが「呼び水」となって、神が私たちの中に蓄えておられる無制限な油田の閉じ栓を開けて下さること、それによって「無限の供給」が噴出するのです。

 5. ついては私はマラキ書3章に導かれました。(皆さん、ぜひ三章全体をこの際改めてお読みいただきたいと思います)特に3:8―10で「 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

私は今まで何十回とこの聖句を読みましたが、今回初めて開眼されたように思いました。大概のクリスチャンは十一献金をしていないこと。一般的に「献金」だけでなく「税金」も出来るだけ払わないで済ませたいと言うのが、現代人のメンタリティーとなっていること(特にアメリカでは)。しかし「御国の経済」の考え方は全く逆で、クリスチャンこそ率先して献金と税金を多く払うべきであり、払わねば〔損する〕こと。なぜなら、それによって神の無尽蔵なリソースを引き出すことが出来るからです。その無尽蔵な財源を使って、膨大な借金をなくし、国の財政を立て直し、これからの国とその民の繁栄を実現する。これこそ無尽蔵な神のリソースを持つクリスチャンの仕事であること。「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」と、主が言われる意味はここにあることに気が付いたのです。十一献金の責任を少なくともクリヤーしてそれ以上にもっと多くの献金をすることの重要性を改めて認識しました。

 6. 信仰によって無尽蔵なリソースを引き出せるクリスチャンは、本来ものすごくリッチであるのですから、人に借りを作ったり、人に払うべきものを払はないでケチるような人であるなら、その人は信仰がないと言うことになります。そしてそのような人は全くキリストに似つかわしくないので、神を代表してミニストリーをするにはふさわしくない、と言うことになります。

 

 

アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言に関して

 

次にピアース師の二つ目の預言である(2)アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言に関して私の理解をお伝えします。

先ずピアース師の一行が2005年6月にFederal Reserve System(アメリカ連邦準備制度理事会)の発祥の地であるジョージア州ジェーキル・アイランドに導かれて訪ねた際に主から与えられた預言に関してです。その時の主の預言は下記の通りです。

「サタンは一つの計画を持っている。しかしわたしがあなたたちを今回ここへ招集し、わたしはこの国の経済(政策)の心を正しくシフトすることが出来るようにする。この国にいるわたしの民を捕らえている膨大な借金と税務制度を逆転させる戦略を与えよう。ここにあなた方を招聘したのはこの地で一つの政府(機関・機能)である連邦準備制度が形成されたからだ。この政府機関は違法でつくられ、世界中の政府を支配して来た。あなたがたはわたしの(王国)の政府で成熟して来ているので、この地で民衆の政府機関のコースを変えてシフトさせるべく天からの布告を宣言することが出来る。わたしはあなたを呼び集め今解き放つrelease必要のあることをあなたを通して解き放つ。」と言うものです。

 

ご存知のように、アメリカのフェデラル・リザーブ・システムとはアメリカ政府直接の政府機関ではありません。にもかかわらずアメリカ政府はこの私的な金融機関を使って、日銀のような国の金融を統制するセントラル・バンクの機能を任せています。ちょうど百年前に出来たこのシステムは、ほとんどのことが秘密にされていて、昔から多くの陰謀説が飛び交っていますが、はっきりしたことは一般には知らされていないようです。従って、もしピアース師の主からの預言がすべて正しいとすれば、上記の記述が真相であり、神はこのシステムをこれから変えようとしておられると言われるのですから、アメリカにとって、いや、世界の多くの国々にとって、この預言は最大の祝福のニュースではないかと思います。

 

又、アメリカの非常に複雑な税法制度に関しても、詳しいことは私自身が知識不足のため残念ながらこの預言が指す意味をはっきりとは理解できません。従って私が申し上げられることは、神は勿論すべてをご存知で、この国の金融と税制を改革することをピアース師に宣言させているのですから、私は預言を信じ、神の介入を期待してよいと思っております。(終り)


18 05月

チャック・ピアース師の預言 ー 先週に続く      2013年5月18日


チャック・ピアース師の預言 ー 先回に続く

 

2013年5月5日、テキサスのコーリンス(ピアース師の教会)にて、アン・テイト、チャック・ピアース、キース・ピアース、ルアン・スクイヤー、バーバラ・ウエントローブに与えられた預言

 

ドアが開かれるシーズン

 

主は言われます。わたしの目はあなたを見張っている。これからわたしはあなたの進むべき道にあなたを導くが、あなたがよくわかるようにその道に光を照らしてある。わたしは見張って来たので、あなたがして来たことでわたしが見逃したものは何もない。これからはわたしがあなたを一歩一歩わたしの計画に基づいて導こう。わたしはあなたが今まで行ったことのないところへ導き始める。わたしの声があなたに向かって語るので、今まで曲がりくねっていたあなたの進む道は真っ直ぐになり始める。あなたはその真っ直ぐな道を探しなさい、その道には四倍の油が注がれていてあなたには四倍に倍増した報いが戻って来る。わたしの目があなたに注がれている。あなたが進む背後からわたしの声をあなたが聞こえるようにするので、わたしの指示する声を聞いてわたしの指示するステップを踏み出しなさい。

 

 あなたが力尽きると、そこに一つのドアが現れる。そのドアに「開け」と命令しなさい。そのドアの向こう側に(あなたに必要な)体力、精神力と神のパワーを見つけることができる。あなたの信仰が尽きる時にドアが現われ、そのドアに「開け」と命じるとあなたはそこに(新たな)信仰と神のパワーを見つけることが出来る。あなたの健康が尽きる時、そこにドアが現われる。癒し主の神がそこにおられる、その癒しのドアに「開け」命じてドアが開くとあなたは癒しを得られる。

今は、私たちと血縁関係にある贖い主が私たちの前に現れるすべてのドアを開いて私たちのために必要なものをすべて取り戻してくれるシーズンです。

 主は言われる。なぜあなたはドアの取っ手といつまでも戦っているのか。確かに敵は注意をそらす目的で取っ手をつけたが、よく見なさい。あなたが単にドアを押せばあなたの前のドアは開くのです。わたしは祭司職の衣装を変えることによって至聖所に祭司が入ることが出来るようにした神ではないか。そうです。わたしはあなたの前にあるドアを既に開けた神である。だからどのドアでもプッシュして開けなさい。そして中に入りなさい。なぜならわたしは、あなたがたがわたしの御座の前に来れる新しい方法であなたがたを歓迎しているのです。だから今日、あなたをわなにかけようとする妨害に気をそらされないで、手を上げてドアをわたしの聖なる名によって押し開き、あなたの前に開かれたものを見なさい。

 あなた方はその取っ手をどうすればよいのかとか、どうなっているのか、どうしていいのか分らない等の質問をするのをやめて、とにかくドアを押して開き、わたしがあなたに授けるものを取るために中に入りなさい。主は言われます。もはや質問する時ではない。あなたへの答えがあなたの行く手に待っている。

 

私は今朝、主がこう言われているのを感じました。今はわたしが開けようとしているドアを閉める時ではない。今は(わたしを)待たねばならない時、と言うのは神があなたのために幾つかのドアを開けようとしているからだ。もしあなたが忍耐をもってわたしを待つならそのドアを通る道を与えよう。今はわたしが開けようとしているドアを閉める時ではない。なぜなら今あなたは新しいシーズンに入ったのであり、前のシーズンにはそのドアは閉められ鍵が掛かっていて、あなたはそのドアをわたしが開けることを望まなかったからだ。いや、一つのドアだけではない、多くのドアがあなたのために開けられようとしている。

神は言われる。敵に気をそらされないで、ただ一つの(わたしの示す)方向だけを見なさい。わたしはあなたが(霊的に)敏感になるようにしむけ、あなたの内に夢とビジョンが見えるようにしよう。たとえそれがドアが閉まっていた過去の夢とかビジョンであってもわたしを見つめなさい。わたしがそれへのドアを開くから。新しいシーズンに入ったのだからあなたが歩いて通る多くのドアをわたしはあなたのために開く。(5月5日の預言の終り)

 

[訳者より]

 

次に、5月16日に書かれたチャック・ピアース師から教会に宛てられた手紙の一部をご紹介します。それには、

1)供給のサウンド(音)を解き放つ時に入れ―ペンテコステが来た!

(2)アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言

 

の二つが含まれています。

 

 

(1)供給のサウンド(音)を解き放つ時に入れ―ペンテコステが来た!

 

今週は過ぎ越しの祭りから50日目に当たるペンテコステのお祝いの週です。ペンテコステは喜びをもって与える時です。もし皆さんが先週の私たちの礼拝に来られていたら、聖霊が私に次のように語られたのを聞かれたはずです。

「わたしは、あなたがたが自らを他人に与えるという賜物を具えてあなたがたを創造した。だから、与えることを差し控えてはならない。差し控えてはならない。今日わたしはあなたのうちに貯蔵してある油田に、わたしが手を伸ばしてその閉じ栓を開けるからだ。あなたの内には蓋を開け放出すべき油田が蓄えられている。もしあなたがそれを喜んで与える気持ちがあるなら、わたしは喜んでその閉じ栓を開けて噴出させよう。あなたが未だ見たことがない、あなた自身が人々に与えるために(神が初めから)秘蔵してあるものを放出させて与える時が来た。あなたが(ふんだんに)与えられるように、あなたをどのようにわたしが造ってあるのかを、あなたにあらわそう。」

 

これは非常にパワフルな御言葉です。これから主は私たちを導き、私たちが与えたいと望み想像するだけのものを私たちが(本当に)与えることが出来るようにして下さるのです。それは小切手を切ったりキャッシュで献金するという今までの与え方を遥かに超えた、新しいクリエイティブな与え方によってです。それこそ私たちには考えられないような多様性diversity を持たれる創造者の神を反映した与え方によってです。

 

    XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX

 

次にご紹介するのは最近、アメリカ政府の屋台骨を揺るがしかねないほどの大きな問題となりつつあるアメリカ税務局 IRS の逸脱したに行為に関する預言です。[昨日5月15日にこのアメリカ税務局のヘッドがこのスキャンダルの責任を取って辞任しました。]

 

 

(2)アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言!

 

この問題に関して、私(ピアース師)は少なくとも2012年5月3日、オハイオ州の教会での預言、2012年5月28日シカゴの聖会での預言、2013年2月21日ニュージャジー州の教会での預言、2010年1月25日テキサス州での預言、それに2005年6月に私たちが訪ねたFederal Reserve System(アメリカ連邦準備制度理事会)の発祥の地であるジョージア州ジェーキル・アイランドでの祈りとそこで与えられた預言と、過去数年にわたって主にうかがい、主からの預言をいただいて来ました。従って、これがアメリカにとって大変重要な問題になることは分っておりました。

 

 

その預言の主なものとして、2012年5月3日の主の預言をご紹介します。主は「・・・風向きは変わった。・・・わたしは来てあなたがたが抱えて来た重荷から開放しよう。・・・そこでわたしの民が捕らわれ支配されて来た敵の支配から解放される。・・・わたしの仮庵、会堂、教会、集会で前のシーズンになされていたことは覆される。・・・聞こえて来るサウンド・音を聞け。この国の税務制度の構造上の改革がやって来る。この国の税務制度を違法的に変えようとする試みが頭をもたげているが、わたしは頭をもたげたウジヤ王を死に追いやったように、わたしの教会を、しばらくした後に、違法的方法で支配しようとする動きを破壊するであろう。」と言われました。

 

 続いて、2012年5月28日シカゴでのカンファレンスに向かう時に私(ピアース師)はこの国に関わる重要な一つの夢を見ました。それはシカゴが私たちの大統領の出身地であるからです。夢の中で、主は私をシカゴ市の地下にある下水構造システムに連れて行かれました。そこではネズミの会議が行なわれていて、彼等は下水のシステムに関しては法的決定が出来る権威を持っていました。彼等は相当長い時間を掛けて何かの企みの相談をしていましたが、議長のネズミが私がいるのを見つけて他のネズミに私を追い出すように命令し、ネズミたちが私に襲い掛かるところで夢は終わりました。

主はこの夢の意味を「このシカゴの町の心臓部の深いところで、この国そのものに影響する一つの陰謀が巧まれつつあるので、わたしはあなたをシカゴに連れて来た。それはこの国に起っていることについて天の法令を宣告させるためである」と言われました。ネズミたちは御国の前進を阻止する企みをしていたのです。ネズミたちは司法権をもっており、近い将来において、神の人たちと神の動きを妨害するための陰謀を協議していたのでした。それはアメリカの税法制度と国の負債額を利用して神の国の前進を妨げる企みで、違法と不正な戦略により神の人たちを縛ろうとするものでした。しかしこれらの陰謀は、あばかれ阻止されるので御国の促進は阻まれないと説明されました。地獄の会議は聖霊により、イエスの血潮によって明るみに出されるのです。今となっては大統領もその違法的やり方が行われたことを認め、それに同意しないと言っています。

 

そこで最初に触れましたが、2005年6月にFederal Reserve System(アメリカ連邦準備制度理事会)の発祥の地であるジョージア州ジェーキル・アイランドを訪ねた際の預言です。主は言われました。「サタンは一つの計画を持っている。しかしわたしがあなたたちを今回ここへ招集し、わたしはこの国の経済(政策)の心を正しくシフトすることが出来るようにする。この国にいるわたしの民を捕らえている膨大な借金と税務制度を逆転させる戦略を与えよう。ここにあなた方を招聘したのはこの地で一つの政府(機関・機能)である連邦準備制度が形成されたからだ。この政府機関は違法でつくられ、世界中の政府を支配して来た。あなたがたはわたしの(王国)の政府で成熟して来ているので、この地で民衆の政府機関のコースを変えてシフトさせるべく天からの布告を宣言することが出来る。わたしはあなたを呼び集め今解き放つrelease必要のあることをあなたを通して解き放つ。」

 

アメリカのIRS 税務局と Federal Reserve System 連邦準備制度理事会を支える屋台骨pillars は今揺れるであろう。わたしはサムソンを任命したようにあなたがたを任命する。但しあなたがたはサムソンより聡いので誘惑されて力を抜き取られるようなことにはならない。わたしはあなたがたを任命して、わたしの将来の建物として建てつつある「わたしの建物」を、敵が違法の建て方で支配しようとしているその間違った現在の屋台骨を壊すのだ。その屋台骨を押して引き倒すべく押しなさい。あなたたちが押せば状況は一変する。

 

今それが起りつつあるのです。(終り)

 

 

この最後の預言については私の「今月のメッセージ」にて少しご説明させていただきます。

                                  坂 達也


12 05月

カリスマ誌4月号に載ったマイク・ビクル師のメッセージ                    マイク・ビクル      2013年5月12日


カリスマ誌4月号に載ったマイク・ビクル師のメッセージ

 

                   マイク・ビクル

 

過去において人類に与えられた最も力があり、最も重要な開放のメッセージとは神の恵みの福音です。クリスチャン生活はこのすばらしい真理に基づいて確立されております。その真理はキリストが十字架の上で私たちのためにして下さったことと、聖霊が私たちの日常生活で私たちの内でなさることを強調します。パウロが劇的に宣言するように、私たちはキリストにおいて新しく造られたものとなったことが私たちの生活に多大の影響を与えています。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。・・・それは、私たち(私たちの霊)が、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:17-21)

新しく造られた「人」とは私たちの霊の人 spirit man のことを言っています。その新しくされた私たちの霊によって私たちは神の義を持っているのです。(21節)これは私たちの新しい法的な身分(神との関係)を説明しています。―すなわち神は私たちを神との関係においてそのように、新しいものとして見てくれているのです。キリストのうちにあって、すべてのものが私たちの霊に関係して新しくなったのです。それは神が私たちを完全に(神に属する者として)受け入れ、イエスの御名を用いる権威が与えられ、私たちの霊の中に聖霊が内住する(自分の一部として保有する)ことを含んでいます。―これらすべてのことによって、私たちが罪と病気とサタンに抵抗して打ち勝つ日常生活を(神と共に)過ごす、それは、私たちの祈りを通して神の御業が私たちのために放たれるのです。この神との新しい法的関‘係へのシフトによって(私たちがキリストを知る前の)すべての古いものは過ぎ去り、もはや私たちが犯した罪の報いとその罪が拘束する力から解放されたのです。

もし私たちが新しく造り変えられてそのような自由解放を得たのなら何が問題なのでしょうか。不幸なことに、人間のもって生まれた真理をゆがめたがる性癖が邪魔をするのです。特に人間にとって最も基本的で重要な神の救いのめぐみ grace と言う真理ともなれば、そのゆがみの影響は非常に大きなものとなりかねません。端的に言えば、そのゆがみが一つの世代全体を重大な中核的危機に陥れる可能性があります。

 

私たちの時代における危機

 

使徒であるユダは、彼の時代において大きな霊的危機と戦わねばなりませんでした。ユダの書1:3-4にこう書かれています。「 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。」

考えてもみて下さい。これだけ明確なはずのイエスによる十字架の御業がなされているにもかかわらず、イエス・キリストがよみがえられた後の僅か一世代経たないうちに、既に真の「神の恵みのメッセージ」を擁護して戦わねばならない事態が起きていたのです。しかもそれ以来はどの時代においても、この問題が常に戦われて来ました。

ユダ(の書)は、ある人々が気付かれないようにひそかに教会に忍び込んで来ることに対して警告を発していますが、当時そのような人たちは聖書の教えをゆがめているにもかかわらず、その間違った教えがほとんどのリーダーとか教会員に気が付かれなかったのです。彼等は「神の恵みをみだらな放縦に変え」(1:4)てしまい、性的に不純な行いとそれに類する多くのモラルの妥協を許容した結果、多くの信者たちは自分の罪の行いを悔い改ることなく罪の生活を続行したのです。

恐らくこれらの間違った教師たちは表面的には敬虔にふるまったかもしれませんが、彼らの私生活では色々な肉欲の行いをそれなりのゆがめた理屈を付けて正当化し、悔い改めることはしなかったのでしょう。その結果は惨めな荒廃を教会に招きました。信者たちは人気のある教師たちが教える新約聖書の拡大解釈と妥協のライフ・スタイルが許されると結論付けたからです。現実に彼等は、主を信じる者はイエスを心から愛するゆえに主の教えに全面的に従って生きることを要求する新約聖書のメッセージ(例えばヨハネ14:15、21)からは外れてしまっていたのです。

これと同じことが現在の超過度の恵みhyper-graceを説く教師たちに当てはめられます。彼等は神の愛と赦しだけを強調し、主に対する心からの愛と従順の約束を事実上無視しています。彼等は悔い改めることなしに「すべてが赦されている」ことだけを説き、又、いかなる条件も付けずに彼らのいかなる状況においても神の祝福はもらえると説きます。彼らの説くところは「私たちはイエスによってすべてが赦され、どんな状態にあっても神はすべて私たちを祝福して下さる」と言う、実に栄光に満ちたものですが、本当の真理は「主と真の親密な関係の中で生きることを求め、主に全面的に同意し、主のリーダーシップと指示の御言葉に従って生きる」ことにあるのですから、全く違ったものであるのです。

ユダの戒めは、今の「キリストのからだ」に対する深刻な警告であるのです。恵みのメッセージがゆがめられるとその他の霊的生活におけるすべてのことがぼやけてはっきりしなくなります。事実今、この恵みのメッセージを聖書の御言葉に本当に忠実なものとして保持すること以上に重要な問題は他にありません。

 悲しいことに、ある信者たちはこの水増しされた恵みのメッセージが現在霊的に大きな危機を招いていることにすら気が付いていません。そのような人は非常事態にあることに目覚めなければなりません。なぜならこの戦いが、今の時代に生きる人の魂に真の救いがあるかないかの問題そのものに掛かっているからです。ユダの言うように、そのように曲解して教える教師が密かに紛れ込んで来ても、今のテレビとかインターネットの発達した時代ではそれに気が付き難い時代であるからです。現代において、恵みをまげるメッセージをする教師の中には有名な人たちもいて、その人たちは、自分の名声と人気がその人のメッセージに信用性を与えていますが、それは勿論見せ掛けの偽の信用であって、真理に忠実なものではありません。

パウロは後の時代のクリスチャンに次のようなことが起こることを預言しています。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)このような人たちは真理よりも自分たちに都合のいい、自分のしたい罪の行いを正当化してくれるような教えを聞きたがります。一人の有名なテレビ説教者は「私たちが悔い改めねばならないことをイエスが既に十字架の御業でしてくれたので、クリスチャンはもはや悔い改める必要はない」とさえ言っています。その人は明らかに黙示録2:5、16、21-22;3:3、19等でイエスが繰り返し言っている悔い改めの必要性を見逃しています。

 

恵み:愛の力とイエスへの従順

 

数え切れないほどの信者が既にこのゆがめられた恵みのメッセージの満ちてくる潮におぼれて犠牲になっているとすれば、この危機にどのようにして耐えることが出来るのでしょうか。それは先ず、聖書の真理にしっかりと根を下ろし続けることから始まります。それは、私たちが「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ 12:30) と言う神の基本的命令というレンズを通して恵みのメッセージに近づく必要があります。

主は私たちが神を心から愛して欲しいのです。なぜなら神は私たちをそのように愛して下さっているからです。この相互に心から愛する関係が御国における基本であるからです。事実これがまさしく父と御子との関係であり、栄光のミステリーと言われる「三つにいまして一人の神」の関係であるからです。(ヨハネ3:35、5:20、14:31、15:9、17:23、26参照)神の初めからのご計画は、人間を救い出して三位の神の愛の交わりに加えることにあったからです。

恵みのメッセージの中核となるものは、私たちが神と全き愛の関係に入り常に神と共に歩けるような機能を与えることにあるのです。これをイエスは「第一の戒め」と呼ばれました。すなわちマルコ 12:30にある「 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」です。

従って聖霊が最初にすることとは、教会において先ず「第一の戒め」を確立することなのです。と言うことはこれが私たちにとっても最初にすべきことであるのです。第一の戒めに基づかないで恵みを考えることは間違った標的を狙うようなものです。従って恵みのメッセージを第一の戒めを通して見るのでなければ、そこからゆがめられることになるのです。私たちはイエスを彼のやり方で愛さねばならないのです。イエスは第一の戒めを「従順の霊に従って愛すること」と定義されました。(ヨハネ14:15、21、23を見て下さい。)

主の御ことばに従うことを求めないでイエスを愛するということはあり得ません。イエスを愛することとイエスに従うことを求めることは同義語です。彼のすべての命令は彼の愛に基づいています。従って、聖書的恵みのメッセージとは、「私たちが(イエスの)義によって生き、不敬虔(不信心)であることを拒否すること」を教えるものであり、それによって私たちが神を愛していることが表されるのです。テトス2:11-12にこう書いてあります。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、・・・」(新共同訳)

もし不信心であることを否定しなくてよいと言うような恵みの教えを聞くなら、それは聖書的な恵みのメッセージではなく、ゆがめられたものであるのです。

 

法的立場と現実の状況

 

第一の戒めを通して恵みのメッセージを正しく見ますと、神と私たちの法的関係(立場)と私たちが実際に生きている現実の状態―それはイエスがなさったことへの私たちからの応答ですが―との間にある差を理解し始めることが出来ます。この差には鍵となる重要な違いがあるのですが、それに加えて、「過度の恵み」の主張者たちが自分に都合よく見逃している要素が見えてきます。

私たちの法的関係はイエスが十字架で確立されたことであるのですが、私たちの現実の状態は、イエスが私たちのために確立されたことに対する私たちの反応としてイエスが私たちに要求されるものであるのです。私たちの法的立場は、私たちがイエスの義を保持する者として神の前に立てることです。それは2コリント5:21に書かれている通りです。「 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(新共同訳)

この義を得ること、これ以上によい立場は存在しません。私たちがよみがえりのからだに変えられることによって得る義でさえイエスの義以上の立場は得られないのです。それは(神である)キリストご自身の義をいただくからです。しかもその義は私たちが生まれ変わった(ボーンアゲイン)その日に一瞬にして受け取ることが出来るのです。

一方、私たちの現に生きている状態は、私たちが自分の成熟するプロセスの進歩に従って義を得てゆく、すなわち、それは私たちのマインド(魂)が新しくされるrenewにつれて、私たちの行いと感情が聖霊によってトランスフォームされていくのです。

福音Gospelとは、神の義を受け取ることに関する良い知らせgood newsと言う意味で、三つの時間のテンスを持ちます。

 

1.Justification 法的身分の確立(無罪証明):神によって私たちの霊が義とされる―過去形

2.Sanctification(魂の浄化・聖め)現在の状態:現世において魂がきよめられる―現在形

3. Glorification(神の栄光の完成)永遠の生命:私たちに霊の身体が与えられる―未来形

 

私たちの救いの1/3は霊の救いによって達成されます。しかし、他の2/3である魂と身体の救いは未だ(経験的に)達成されていません。すべてのキリストを信じる者は自分の霊が救われたこと(恵み)により既に法的身分(神との関係)は確立されていますが、この世の実生活では、完全に救われた状態から見ればかなり低い救いの状態で生活しています。

救いの恵みについて多くの人が誤解している理由は、これらの真実(霊による法的身分と現世において魂がきよめられねばならないこと等)の違いを誤解しているところにその原因があります。多くの人は、イエスが私たちの法的身分のために(十字架上で)なさったことと、今この世で生きる私たちがそのイエスに応える義務があることとを混同しているのです。

イエスが既になされた十字架の御業による完全な救いの恵みが、私たち人間のために常に贈り物として備えられています。しかし私たちの日常生活で、私たちがイエスが望まれるように正しく生きるためには常に聖霊の助けによって、私たち自身が変えられる(トランスフォーム、心と思いの一新)恵みの力が必要です。ヤコブは、私たちが心からへりくだって神からもっと多くの恵みを受けて毎日を歩むことの必要性をヤコブ書4:6で「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」と言っています。

ヤコブはボーンアゲインした信者にこれを呼び掛けています。信者は霊においては既に最高の恵みを得ているのでそれ以上の恵みを法的身分としては受けることは出来ませんが、日常生活を神聖に生きるために罪で汚れた魂が浄化されるための恵みを受けることが出来るのです。(ロマ書12:2)

 

イエスによる八福の教え(マタイ5:3-10)

 

私たちの日常生活において私たちを変える恵みをもっと経験したいと願う人は、この世に生きた最も偉大な恵みの教師であるイエスが言われたことに従わねばなりません。神の祝福(の計画)に協力(参加)する私たち信者の役割に関する最も包括的な教えが、マタイ5-7章にある「山上の垂訓」に記されております。特にマタイ5:3-10に書かれている、「イエスの八福の教え」によって、「毎日の生活を私たちがどのように生きればよいか」についての聖書的な恵みの理解を得ることが出来ます。

特に重要な教えは、5:6に書かれている「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」でありましょう。ここにおいてイエスは、私たちが日常生活において神に対しより多くの義を解き放って下さるように求める必要性を強調しています。しかしそれは既にフルにいただいている法的な身分への義に飢え渇くのではなく、私たちが持つ(古いままの)自分の性質とか人格(魂の部分)が変えられるための義が働く力を求めて飢え渇くと言う意味です。

一方、信者たちの中には、毎日の生活で自分の義が増してゆくことに飢え渇かない(関心がない)人たちがおります。それよりも彼らの関心は、救いを失わずに今までのような罪の生活をどこまですることが出来るか、そのためにイエスと話さねばならない最低の限度ぎりぎりを知りたいと願っています。

想像してみてください。今結婚式の誓いを済ませたばかりの二人が「一人となって」式場の中央廊下を手を組んで歩きながら、新郎が小声で新婦にこんな質問をします。「これからはあなたと離婚しないですむ範囲で、どの程度まで他の女性と付き合うことが出来るでしょうか。」あるいは「離婚しないですむために、あなたとは毎週どのぐらい話をしなければいけないのでしょうか。」大変な傷を新婦に負わせた挙句に、その新郎が「ところで、我々は今結婚証明書にサインしたのだから、あなたのすべての持ち物は私も共有する法的権利が出来た」と言い加えたとすればどうでしょうか。勿論新婦は、夫が彼女を全面的に心から愛しているのではないこと、結婚した理由は夫婦であることの最低の条件を充たし、尚かつ法的に問題とならない最低条件で結婚することに関心があることが分っったのです。

ある人たちは、「恵みと言うものは上記のたとえで描かれるように、神に対する真心からの愛がなくてもよい」と言うように教えているのです。それよりも紙の上で(理屈的に)必要条件を充たしているかどうかにより関心があるのです。元々の神の意図は、「神と私たちが互いに愛し合う愛の関係に入ること」であるにもかかわらずです。悲しいことに、恵みのメッセージを第一の戒めと切り離して考える時に、この間違いが起きがちです。

 

神の恵みをどのように受け取るか

 

恵みは決して濫用されるべきではありません。しかし現代のキリスト教会が危機に陥っていることが証明するように、それが起りえるのです。神は人間に、神との個人的関係に入り、神の御言葉に従うかそれとも従わないかを決める選択肢を許しておられます。―すなわち従えば、恵みによって真の自由を得る特典が得られます。従わなければ得られません。それ故にパウロがコリントの信者に「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(2コリント 6:1)と言っています。

恵みの福音は主に二つの点で間違って理解されています。一つ目は、「神の愛を私たちが努力して何かをすることによって得られる」と説明することによるものであり、二つ目は、「神の愛に応えるために、私たちは神を真に心から愛すること」を人々に薦めようとしないことによってです。

聖書的な恵みのメッセージの実は、神の愛を賜物として受けることと従う霊を同時に併せ持つことに対して確信が深まることです。もしこの二つのうちの一つの要素が欠けているのであれば真のメッセージではありません。ですから神の恵みを無駄に受け取ることとは、その恵みによって神の愛に対して確信が持てないか、あるいはイエスのリーダーシップに(すべてを)心から応じる(委ねる)決意をするだけの確信が持てないか、そのような神の恵みの受け取り方をすることです。どちらの場合でも私たちの霊的生活に大きな被害をもたらします。

一世紀の使徒ユダのように、私たちは真実な(本当の)恵みを語らないことに対しては真剣に戦わねばなりません。私たちの国の若者の魂が今、天秤にかけられています。しかし、良いニュースは、聖霊が今この霊的危機に光を当てきわだたせて見せており、聖書に書かれている真の恵みのメッセージを回復させて下さろうとしていることです。聖霊がキリスト教会に力を放ち、教会が第一の戒めを第一とする教会になることを、完全に用意が整った花嫁(黙示録19:7)を迎えに来られるイエスの再臨の前に確立することが確かであることです。(終り)


05 05月

「あなたの立っている地面をほぐして砕き、今の場所から飛び出して、前進せよ」        チュック・ピアース    2013年5月5日


「あなたの立っている地面をほぐして砕き、今の場所から飛び出して、前進せよ」        2013年5月5日 

 

 チュック・ピアース

 

 以下の預言は、テキサス州にあるチャック・ピアース師の教会においてピアース師を含む数人の預言者により、去る4月14日に預言された主からの御言葉です。

 

 

「あなたの足は一箇所に長過ぎるほど留まって来た。あまりにも長いので足の下に根が生えており、わたしはそれを今根こそぎ引き抜こうとしています。あなたの足はそこから移るよりも、そこにもっと長く留まろうとして来ました。あなたの敵は、あなたがたの幾人かの足の周りをセメントで固め、あなたをそこに沈めようとさえしました。しかしわたしは言う。わたしの栄光をもって深く下り、あなたの足の根の周りに固まった土を打ち砕く。そして過去にあなたに与えたわたしの言葉と言うハンマーであなたの足の周りを打ち砕いてそこから自由に離れるようにします。そこから離れなさい、出なさい、行きなさい。」と主は言われます。

あなたがたの幾人 some かの足は主が望まれない場所に長い間植え付けられて来ました。それがあまりに長いシーズンなので、あなたの立っている地面にあなたの足型が付く程でした。しかし、主は言われます。「わたしはその場所にあなたを留まらせる意思はなく、今のシーズンにそこから出るようにあなたを召しています。」と。

 「必要ならあなたの足元に火を付け、そしてかって前例がないような新しい方法であなたを動かすので、わたしが望まない場所にあなたを留まらせないとわたしは言って来ました。と言うのは、今のシーズンにわたしがあなたを留まらせたいころは、あなたが『私は主のもの、主よ、あなたは私をどのようにでもして下さい。なぜなら、今のシーズン、私は主を見上げ、あなたにだけ仕える堅い決意をしているからです。』と言う場所にしっかり留まり足型をつけてもらう計画を持っているからです。今こそあなたは、主が望まれる以外のところに立ち留まる意志がないことをはっきり宣言布告しなさい」と主は言われます。と言うのは主は「あなたの足元から、わたしの栄光が間欠泉のように噴き上げるのであなたのものの見方(考え方)がすっかり変わり始める」とおっしゃるからです。主があなたを地上から天の中空へと噴き上げ、「あなたはわたしの手(指図)によってすべてを治める」と主は言われます。

 「わたしがあなたを上空に噴き上げる時、今まであなたを捕らえて来た敵をあなたは見ることが出来るでしょう。知りなさい。あなたの下の深いところで今水が噴き上がる準備がされており、それが吹き上がってきてあなたを空中に押し上げるのを」と主は言われます。

 そして「その間欠泉が噴き上げるのを押さえ、わたしの栄光が吹き上がるのを抑えているのは、(他ならぬ)あなた自身の(習慣となっている)ものの見方、考え方 mindset であり、わたしは今それを打ち砕くために来ている」と言われます。「そのような考え方が、あなたを今まで限られた一つのところにあなたを立ち留まらせ、あなたはわたしが用意している最もよいものを見逃して来た。今のシーズンはそれを打ち破って前進する時であり、わたしがその古い考え方を壊し、あなたが今までに見たこともないものを見えるようにする、今まで経験したことのないことを経験することが出来るようにする」と主は言われます。

「(あなたのために)わたしはそのためのはずみ、勢い momentum を今つけようとしている。これから新しい場所に前進し上ってゆくために必要な一歩一歩のステップをあなたが踏み出せるようにする」と主は言われます。そのために、「わたしはあなたに今まで見たこともないビジョンを与えよう。わたしはあなたが低い一つの場所に留まらせるつもりはない。さあ、わたしのところに上がって来なさい。あなたの人生になければならないものを見せてあげよう。このシーズンが“そうあるべき”シーズンであり、又、あなたの生涯に絶対必要なものがあることを教えよう。そのためにわたしはあなたがたの今までの考え方mindsetを壊し、あなたが踏み入れるところがどこであるか、あなたの将来のためになければならないことが何であるかを理解出来るようにする」と言われます。(以上です。)