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12 5月

カリスマ誌4月号に載ったマイク・ビクル師のメッセージ                    マイク・ビクル      2013年5月12日


カリスマ誌4月号に載ったマイク・ビクル師のメッセージ

 

                   マイク・ビクル

 

過去において人類に与えられた最も力があり、最も重要な開放のメッセージとは神の恵みの福音です。クリスチャン生活はこのすばらしい真理に基づいて確立されております。その真理はキリストが十字架の上で私たちのためにして下さったことと、聖霊が私たちの日常生活で私たちの内でなさることを強調します。パウロが劇的に宣言するように、私たちはキリストにおいて新しく造られたものとなったことが私たちの生活に多大の影響を与えています。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。・・・それは、私たち(私たちの霊)が、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:17-21)

新しく造られた「人」とは私たちの霊の人 spirit man のことを言っています。その新しくされた私たちの霊によって私たちは神の義を持っているのです。(21節)これは私たちの新しい法的な身分(神との関係)を説明しています。―すなわち神は私たちを神との関係においてそのように、新しいものとして見てくれているのです。キリストのうちにあって、すべてのものが私たちの霊に関係して新しくなったのです。それは神が私たちを完全に(神に属する者として)受け入れ、イエスの御名を用いる権威が与えられ、私たちの霊の中に聖霊が内住する(自分の一部として保有する)ことを含んでいます。―これらすべてのことによって、私たちが罪と病気とサタンに抵抗して打ち勝つ日常生活を(神と共に)過ごす、それは、私たちの祈りを通して神の御業が私たちのために放たれるのです。この神との新しい法的関‘係へのシフトによって(私たちがキリストを知る前の)すべての古いものは過ぎ去り、もはや私たちが犯した罪の報いとその罪が拘束する力から解放されたのです。

もし私たちが新しく造り変えられてそのような自由解放を得たのなら何が問題なのでしょうか。不幸なことに、人間のもって生まれた真理をゆがめたがる性癖が邪魔をするのです。特に人間にとって最も基本的で重要な神の救いのめぐみ grace と言う真理ともなれば、そのゆがみの影響は非常に大きなものとなりかねません。端的に言えば、そのゆがみが一つの世代全体を重大な中核的危機に陥れる可能性があります。

 

私たちの時代における危機

 

使徒であるユダは、彼の時代において大きな霊的危機と戦わねばなりませんでした。ユダの書1:3-4にこう書かれています。「 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。」

考えてもみて下さい。これだけ明確なはずのイエスによる十字架の御業がなされているにもかかわらず、イエス・キリストがよみがえられた後の僅か一世代経たないうちに、既に真の「神の恵みのメッセージ」を擁護して戦わねばならない事態が起きていたのです。しかもそれ以来はどの時代においても、この問題が常に戦われて来ました。

ユダ(の書)は、ある人々が気付かれないようにひそかに教会に忍び込んで来ることに対して警告を発していますが、当時そのような人たちは聖書の教えをゆがめているにもかかわらず、その間違った教えがほとんどのリーダーとか教会員に気が付かれなかったのです。彼等は「神の恵みをみだらな放縦に変え」(1:4)てしまい、性的に不純な行いとそれに類する多くのモラルの妥協を許容した結果、多くの信者たちは自分の罪の行いを悔い改ることなく罪の生活を続行したのです。

恐らくこれらの間違った教師たちは表面的には敬虔にふるまったかもしれませんが、彼らの私生活では色々な肉欲の行いをそれなりのゆがめた理屈を付けて正当化し、悔い改めることはしなかったのでしょう。その結果は惨めな荒廃を教会に招きました。信者たちは人気のある教師たちが教える新約聖書の拡大解釈と妥協のライフ・スタイルが許されると結論付けたからです。現実に彼等は、主を信じる者はイエスを心から愛するゆえに主の教えに全面的に従って生きることを要求する新約聖書のメッセージ(例えばヨハネ14:15、21)からは外れてしまっていたのです。

これと同じことが現在の超過度の恵みhyper-graceを説く教師たちに当てはめられます。彼等は神の愛と赦しだけを強調し、主に対する心からの愛と従順の約束を事実上無視しています。彼等は悔い改めることなしに「すべてが赦されている」ことだけを説き、又、いかなる条件も付けずに彼らのいかなる状況においても神の祝福はもらえると説きます。彼らの説くところは「私たちはイエスによってすべてが赦され、どんな状態にあっても神はすべて私たちを祝福して下さる」と言う、実に栄光に満ちたものですが、本当の真理は「主と真の親密な関係の中で生きることを求め、主に全面的に同意し、主のリーダーシップと指示の御言葉に従って生きる」ことにあるのですから、全く違ったものであるのです。

ユダの戒めは、今の「キリストのからだ」に対する深刻な警告であるのです。恵みのメッセージがゆがめられるとその他の霊的生活におけるすべてのことがぼやけてはっきりしなくなります。事実今、この恵みのメッセージを聖書の御言葉に本当に忠実なものとして保持すること以上に重要な問題は他にありません。

 悲しいことに、ある信者たちはこの水増しされた恵みのメッセージが現在霊的に大きな危機を招いていることにすら気が付いていません。そのような人は非常事態にあることに目覚めなければなりません。なぜならこの戦いが、今の時代に生きる人の魂に真の救いがあるかないかの問題そのものに掛かっているからです。ユダの言うように、そのように曲解して教える教師が密かに紛れ込んで来ても、今のテレビとかインターネットの発達した時代ではそれに気が付き難い時代であるからです。現代において、恵みをまげるメッセージをする教師の中には有名な人たちもいて、その人たちは、自分の名声と人気がその人のメッセージに信用性を与えていますが、それは勿論見せ掛けの偽の信用であって、真理に忠実なものではありません。

パウロは後の時代のクリスチャンに次のようなことが起こることを預言しています。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)このような人たちは真理よりも自分たちに都合のいい、自分のしたい罪の行いを正当化してくれるような教えを聞きたがります。一人の有名なテレビ説教者は「私たちが悔い改めねばならないことをイエスが既に十字架の御業でしてくれたので、クリスチャンはもはや悔い改める必要はない」とさえ言っています。その人は明らかに黙示録2:5、16、21-22;3:3、19等でイエスが繰り返し言っている悔い改めの必要性を見逃しています。

 

恵み:愛の力とイエスへの従順

 

数え切れないほどの信者が既にこのゆがめられた恵みのメッセージの満ちてくる潮におぼれて犠牲になっているとすれば、この危機にどのようにして耐えることが出来るのでしょうか。それは先ず、聖書の真理にしっかりと根を下ろし続けることから始まります。それは、私たちが「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ 12:30) と言う神の基本的命令というレンズを通して恵みのメッセージに近づく必要があります。

主は私たちが神を心から愛して欲しいのです。なぜなら神は私たちをそのように愛して下さっているからです。この相互に心から愛する関係が御国における基本であるからです。事実これがまさしく父と御子との関係であり、栄光のミステリーと言われる「三つにいまして一人の神」の関係であるからです。(ヨハネ3:35、5:20、14:31、15:9、17:23、26参照)神の初めからのご計画は、人間を救い出して三位の神の愛の交わりに加えることにあったからです。

恵みのメッセージの中核となるものは、私たちが神と全き愛の関係に入り常に神と共に歩けるような機能を与えることにあるのです。これをイエスは「第一の戒め」と呼ばれました。すなわちマルコ 12:30にある「 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」です。

従って聖霊が最初にすることとは、教会において先ず「第一の戒め」を確立することなのです。と言うことはこれが私たちにとっても最初にすべきことであるのです。第一の戒めに基づかないで恵みを考えることは間違った標的を狙うようなものです。従って恵みのメッセージを第一の戒めを通して見るのでなければ、そこからゆがめられることになるのです。私たちはイエスを彼のやり方で愛さねばならないのです。イエスは第一の戒めを「従順の霊に従って愛すること」と定義されました。(ヨハネ14:15、21、23を見て下さい。)

主の御ことばに従うことを求めないでイエスを愛するということはあり得ません。イエスを愛することとイエスに従うことを求めることは同義語です。彼のすべての命令は彼の愛に基づいています。従って、聖書的恵みのメッセージとは、「私たちが(イエスの)義によって生き、不敬虔(不信心)であることを拒否すること」を教えるものであり、それによって私たちが神を愛していることが表されるのです。テトス2:11-12にこう書いてあります。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、・・・」(新共同訳)

もし不信心であることを否定しなくてよいと言うような恵みの教えを聞くなら、それは聖書的な恵みのメッセージではなく、ゆがめられたものであるのです。

 

法的立場と現実の状況

 

第一の戒めを通して恵みのメッセージを正しく見ますと、神と私たちの法的関係(立場)と私たちが実際に生きている現実の状態―それはイエスがなさったことへの私たちからの応答ですが―との間にある差を理解し始めることが出来ます。この差には鍵となる重要な違いがあるのですが、それに加えて、「過度の恵み」の主張者たちが自分に都合よく見逃している要素が見えてきます。

私たちの法的関係はイエスが十字架で確立されたことであるのですが、私たちの現実の状態は、イエスが私たちのために確立されたことに対する私たちの反応としてイエスが私たちに要求されるものであるのです。私たちの法的立場は、私たちがイエスの義を保持する者として神の前に立てることです。それは2コリント5:21に書かれている通りです。「 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(新共同訳)

この義を得ること、これ以上によい立場は存在しません。私たちがよみがえりのからだに変えられることによって得る義でさえイエスの義以上の立場は得られないのです。それは(神である)キリストご自身の義をいただくからです。しかもその義は私たちが生まれ変わった(ボーンアゲイン)その日に一瞬にして受け取ることが出来るのです。

一方、私たちの現に生きている状態は、私たちが自分の成熟するプロセスの進歩に従って義を得てゆく、すなわち、それは私たちのマインド(魂)が新しくされるrenewにつれて、私たちの行いと感情が聖霊によってトランスフォームされていくのです。

福音Gospelとは、神の義を受け取ることに関する良い知らせgood newsと言う意味で、三つの時間のテンスを持ちます。

 

1.Justification 法的身分の確立(無罪証明):神によって私たちの霊が義とされる―過去形

2.Sanctification(魂の浄化・聖め)現在の状態:現世において魂がきよめられる―現在形

3. Glorification(神の栄光の完成)永遠の生命:私たちに霊の身体が与えられる―未来形

 

私たちの救いの1/3は霊の救いによって達成されます。しかし、他の2/3である魂と身体の救いは未だ(経験的に)達成されていません。すべてのキリストを信じる者は自分の霊が救われたこと(恵み)により既に法的身分(神との関係)は確立されていますが、この世の実生活では、完全に救われた状態から見ればかなり低い救いの状態で生活しています。

救いの恵みについて多くの人が誤解している理由は、これらの真実(霊による法的身分と現世において魂がきよめられねばならないこと等)の違いを誤解しているところにその原因があります。多くの人は、イエスが私たちの法的身分のために(十字架上で)なさったことと、今この世で生きる私たちがそのイエスに応える義務があることとを混同しているのです。

イエスが既になされた十字架の御業による完全な救いの恵みが、私たち人間のために常に贈り物として備えられています。しかし私たちの日常生活で、私たちがイエスが望まれるように正しく生きるためには常に聖霊の助けによって、私たち自身が変えられる(トランスフォーム、心と思いの一新)恵みの力が必要です。ヤコブは、私たちが心からへりくだって神からもっと多くの恵みを受けて毎日を歩むことの必要性をヤコブ書4:6で「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」と言っています。

ヤコブはボーンアゲインした信者にこれを呼び掛けています。信者は霊においては既に最高の恵みを得ているのでそれ以上の恵みを法的身分としては受けることは出来ませんが、日常生活を神聖に生きるために罪で汚れた魂が浄化されるための恵みを受けることが出来るのです。(ロマ書12:2)

 

イエスによる八福の教え(マタイ5:3-10)

 

私たちの日常生活において私たちを変える恵みをもっと経験したいと願う人は、この世に生きた最も偉大な恵みの教師であるイエスが言われたことに従わねばなりません。神の祝福(の計画)に協力(参加)する私たち信者の役割に関する最も包括的な教えが、マタイ5-7章にある「山上の垂訓」に記されております。特にマタイ5:3-10に書かれている、「イエスの八福の教え」によって、「毎日の生活を私たちがどのように生きればよいか」についての聖書的な恵みの理解を得ることが出来ます。

特に重要な教えは、5:6に書かれている「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」でありましょう。ここにおいてイエスは、私たちが日常生活において神に対しより多くの義を解き放って下さるように求める必要性を強調しています。しかしそれは既にフルにいただいている法的な身分への義に飢え渇くのではなく、私たちが持つ(古いままの)自分の性質とか人格(魂の部分)が変えられるための義が働く力を求めて飢え渇くと言う意味です。

一方、信者たちの中には、毎日の生活で自分の義が増してゆくことに飢え渇かない(関心がない)人たちがおります。それよりも彼らの関心は、救いを失わずに今までのような罪の生活をどこまですることが出来るか、そのためにイエスと話さねばならない最低の限度ぎりぎりを知りたいと願っています。

想像してみてください。今結婚式の誓いを済ませたばかりの二人が「一人となって」式場の中央廊下を手を組んで歩きながら、新郎が小声で新婦にこんな質問をします。「これからはあなたと離婚しないですむ範囲で、どの程度まで他の女性と付き合うことが出来るでしょうか。」あるいは「離婚しないですむために、あなたとは毎週どのぐらい話をしなければいけないのでしょうか。」大変な傷を新婦に負わせた挙句に、その新郎が「ところで、我々は今結婚証明書にサインしたのだから、あなたのすべての持ち物は私も共有する法的権利が出来た」と言い加えたとすればどうでしょうか。勿論新婦は、夫が彼女を全面的に心から愛しているのではないこと、結婚した理由は夫婦であることの最低の条件を充たし、尚かつ法的に問題とならない最低条件で結婚することに関心があることが分っったのです。

ある人たちは、「恵みと言うものは上記のたとえで描かれるように、神に対する真心からの愛がなくてもよい」と言うように教えているのです。それよりも紙の上で(理屈的に)必要条件を充たしているかどうかにより関心があるのです。元々の神の意図は、「神と私たちが互いに愛し合う愛の関係に入ること」であるにもかかわらずです。悲しいことに、恵みのメッセージを第一の戒めと切り離して考える時に、この間違いが起きがちです。

 

神の恵みをどのように受け取るか

 

恵みは決して濫用されるべきではありません。しかし現代のキリスト教会が危機に陥っていることが証明するように、それが起りえるのです。神は人間に、神との個人的関係に入り、神の御言葉に従うかそれとも従わないかを決める選択肢を許しておられます。―すなわち従えば、恵みによって真の自由を得る特典が得られます。従わなければ得られません。それ故にパウロがコリントの信者に「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(2コリント 6:1)と言っています。

恵みの福音は主に二つの点で間違って理解されています。一つ目は、「神の愛を私たちが努力して何かをすることによって得られる」と説明することによるものであり、二つ目は、「神の愛に応えるために、私たちは神を真に心から愛すること」を人々に薦めようとしないことによってです。

聖書的な恵みのメッセージの実は、神の愛を賜物として受けることと従う霊を同時に併せ持つことに対して確信が深まることです。もしこの二つのうちの一つの要素が欠けているのであれば真のメッセージではありません。ですから神の恵みを無駄に受け取ることとは、その恵みによって神の愛に対して確信が持てないか、あるいはイエスのリーダーシップに(すべてを)心から応じる(委ねる)決意をするだけの確信が持てないか、そのような神の恵みの受け取り方をすることです。どちらの場合でも私たちの霊的生活に大きな被害をもたらします。

一世紀の使徒ユダのように、私たちは真実な(本当の)恵みを語らないことに対しては真剣に戦わねばなりません。私たちの国の若者の魂が今、天秤にかけられています。しかし、良いニュースは、聖霊が今この霊的危機に光を当てきわだたせて見せており、聖書に書かれている真の恵みのメッセージを回復させて下さろうとしていることです。聖霊がキリスト教会に力を放ち、教会が第一の戒めを第一とする教会になることを、完全に用意が整った花嫁(黙示録19:7)を迎えに来られるイエスの再臨の前に確立することが確かであることです。(終り)


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