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Walk With God Ministries


18 06月

新しい皮袋 リック・ジョイナー           2018年6月18日


新しい皮袋

 

リック・ジョイナー

 

黙示録18:4

それから、私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」

 

この箇所からまずわかることは、神がご自分の民に「この女から離れよ(出て来なさい)」と言われているということは、神の民が今この女のうちにいるということです。又これによって、「この女」が何か他の組織ではなく、まさに偽の不品行な教会を指していることがわかります。「この女から出よ」という神に命令が発せられるときには次の事が起こります。

 

1.この宗教のシステムが崩壊する

2.御使いが現われその栄光が地に満ち、「大バビロンが倒れた。」と宣言する(18:2)

3.天からもう一つの声が「わが民よ。この女から離れなさい。」と宣告する(18:4)

 これら3つを私たちはまだ見ていませんから、「ほとんどではないとしても非常に多くの神の民が未だ偽りの教会にいるが、彼らがそこから離れる時ではまだない」と結論づけていいでしょう。

これは特別主から個人的に示されたり、「神ご自身が造られている町」の一員となるというヴィジョンに従うために「この女」から離れる人を否定するものではありません。しかしながら、まだ離れるように召されていない人たちは、淫婦の教会の中に留まることによって自分の目的のために訓練されているのです。それはどういうことでしょうか?

 

聖書には背信の状態の中に留まることが益となった人々が多くあります。サウル王に仕えたダビデはその一人です。サウロは神と神の道に逆い、ついには主の祭司たちを殺し、忠実に仕えていたダビデをも殺そうとしました。それにもかかわらず、ダビデはサウロに誠実でありつづけました。主は約束された通りにサウロをダビデの手に渡され、どのようにしてもいいと言われました。しかしダビデはサウロに手をあげることを拒みました。サウロは神が選ばれたというよりは民が選んだ王でしたが、それでも神は彼を用いられました。それは主が建てたのではない宗教組織をも主は用いられるのと丁度同じなのです。この理由により、ダビデは「主に油注がれた者」に対して手をあげることはしなかったのです。

 

私たちが好むと好まざるにかかわらず、理解できてもできなくても、神はご自分の選びではない多くの者にも油を注がれ用いられたことが聖書に何度もでてきます。神はまた「大バビロン」とここで呼ばれているものを、地に解き放たれたいくつかの大いなる悪に対して立ち向い戦うために用いられました。

イスラムによる征服を撃退するためにヨーロッパを動員し成功したのは制度化し組織化された教会でした。彼らはまた現代においても共産主義に対して立ち上がりヨーロッパを守りました。今日に至るまで、それは堕胎や性的倒錯等の大いなる悪に対して立ち上がっています。

 

大切なポイントは、ダビデはサウロとその全家に心から仕え、不正や苦しみを受けてさえも忠実であったことです。ダビデを偉大なリーダーに成長させたのはサウロの迫害だったのです。

歴史上、クリスチャンに対する最も激しい迫害は黙示録に書かれているこの偽りの教会によるものでした。聖書で表わされているタイプや型は実際に起こる事実とは完全にはマッチしません。しかしこの聖書の表す型が指し示しているものは明瞭です。

ダビデがサウロ家に心から仕えたように、そして追放されるまで真心から誠意をもって仕えたように、宗教改革者たちもローマカトリック教会を出るつもりは全くありませんでした。必要とされていた変革をもたらそうとしたのですが、彼らも追放されてしまいました。

 

そしてプロテスタント教会もそれと同じ間違いをしたことを私たちは学んできました。それは黙示録に書かれている「偽りの教会」の性質をしばしば現してきたのです。「歴史を知らないものはそれを繰り返す」ということわざの通り、すべての世代が同じ罠に落ちたように思えます。しかしそうではあっても、この権威ある御使いが現れて「倒れた。大バビロンが倒れた。」と叫ぶまでは、神の民に「彼女から離れよ、出よ」という時ではないのです。

 

これに関して考えるべきもう一つの重要な事柄があります。それは、もし神の民がこのような教会から出るように言われるとすれば、彼らはどこに行けと言われるのでしょうか?

新しいぶどう酒をいれる新しい皮袋はどこにあるのでしょうか?確かに、使徒職やチャーチプランティングやホームチャーチ・ムーブメント等に関する新約聖書の型によって、幾つかの素晴らしい教会が生み出されましたし、それは人々が離れた教会よりはより優れたものだったかもしれません。しかし期待されたような「新しい皮袋」の域には到達していません。

 

1987年に私は来るべき魂の収穫の大規模なヴィジョンを見せられ、二つの収穫の大波が来るのを見ました。一つ目の波はこのヴィジョンを見てから2年後に起り始め、その後20年間ほど、キリスト教史上最大の魂の救いが続きました。

ヴィジョンの中で、 この最初の波はやがて引いていきました。それは海の波が浜辺に最大限に打ち寄せたあと引いて行くのと同じでした。次に私が見たのは、次の波がくるまでの間、霊的に比較的静かな時がくることでしたが、それは次に来ようとしている更に大きな波を迎えるために必要な時間であり、それが10年ほど続きました。

しかし今、次の大きな波が近づきつつあるのを示す幾つものしるしが起り始めています。その波を迎える用意が私たちは出来ているでしょうか?

 

更に大きな魂の収穫が始まろうとしていますから、私たちはそれを取り入れる多くの網を捜し始めねばなりません。これらの網から新しい皮袋となる教会が出現するのが期待できます。すべての霊的過渡期に起こるように、これらの教会は様々な種類の人々のニードに合わせることはできないと思います。今までの形式で教職者の階級的システムがある教会に慣れ親しんだ人々にとっては面食らうようなものになる可能性が高いのです。私たちはイエスを真に教会の頭とする教会とはどのようなものであるかを考える必要があります。

 

主が初代教会を建てられた方法を見てみるならば、それはどちらかというとキッチリしていない形で始まっています。少し時間がたち成長してきたときに、自然な形の中にも少し骨組みができてきましたが、それはそれ以後人間がいろいろと考え出した形式や型よりも、神ご自身が造り上げておられたように見えます。

 

信仰生活において追求すべきことの基本は、人が建てるものではなく神が建てておられるものに参加することです。事実ほとんどすべての歴史上の神のムーブは、人間が想像し期待していたものとは完全に違っていました。それは神のムーブを真に願い求めて祈っていた人においてもそうでした。

 

主はまだ私を天に上げてやがて来る主の教会の構造の完全な姿を見せてくださってはいませんが、幾つかの点は見せてくださいました。私が見たのは非常にパワフルであるけれども比較的小さな教会の姿でした。

80人から120人ほどが最適なサイズのようでした。その教会は適応性があり、必要に対処するのが早く、臨機に富んでいます。そして人数がどんどん増えると、それは新しい小さなユニットに分かれて、適応性や機敏さを保ちます。

 

しかし大きな教会やメガチャーチがなくなるというわけではありません。私は別の時に「真理の要塞」となっている大きい教会を見せられました。それは主の軍隊の基地のようでした。しかし、すべての教会の鍵となるポイントは、それが人ではなく主によって導かれているということです。

勿論主は人を用いられます。しかし宗教的支配者によって課せられる規則や教義や方法に導かれるのと聖霊によって導かれるのには違いがあります。

今早急に必要とされるのはこれからの収穫を入れても破れない「網(複数)」です。調査によれば、キリストを信じた人で実際に教会に繋がるのは5%にすぎないということです。一世紀にはキリストを信じた人の「すべてが」教会に加えられたのです。

5%という低い数字は、教会で語られるメッセージも確かに理由の一つかもしれません。しかし最大の原因は、教会があまりにも堅苦しく古くさくて、新しい信者には溶け込めにくく、更には彼らが「命を捧げた主」を教会の中に見出せないことに関係していると思います。黙示録3:20にイエスがご自分の教会の戸の外に立ち、主のために戸を開く人があるかどうかみておられるという、考えさせられる言葉があります。

 

今まさに歴史上最大の出来事、そして最大の魂の収穫が起ころうとしています。今まで教会に属していなかった新しい信者は比較的弟子訓練をするのが簡単です。しかしある時点で今まで堅苦しい「古い皮袋」の教会生活をしていた人たちも加えられてくるでしょう。「この二つのグループを一緒にしたら大変なことになるから別々に分けておいたほうがよい」と私たちは考えるかもしれません。しかし彼らはお互いに大いに助け合える可能性があるのです。どのようにしてでしょうか?

これからの数年に渡って、教会生活に新たな要素が生まれてくるでしょう。それは主の顕在(主が私たちの五感で分かるように現れてくださること)です。再び一世紀のようになり、すべての人が主がなされる偉大な業を見て絶えず畏敬と驚きの念を持つのです。一世紀の教会の新しい信者たちのほとんどは、当時の堅苦しいユダヤ教から出て来た人たちでしたが、驚くほど早く変革されていきました。

しかしそれはすべての人ではありませんでした。ユダヤ教の形式に固執した人々は一世紀の教会の問題となりました。それと同じように組織された教会から出て来た人たちは新しい教会において少しばかり問題となることが予想されます。しかし、主の民の真ん中におられるイエス・キリストのいのちと力はその問題を簡単に克服できるでしょう。(終り)

 

 

 


04 06月

聖霊により内側から生きる ジョン・ベルト     2018年6月4日


聖霊により内側から生きる

 

ジョン・ベルト(Overflow Global Ministries)

 

 

私がクリスチャンになった頃、非常に強調されていた教えの一つに、「本当に聖霊によるものか、それとも自分の肉によるものかの違いを知る」というものがありました。

 

私たちの3つの要素

 

この問題に取り組むとき、私たちは、聖霊に関してだけではなく、私たちの持つ霊、魂、身体についても考えねばなりません。信仰生活の初期にこれを学んだことは、私にとって大きな助けとなりました。魂に起因する言動と霊に起因するものとの相違に焦点を当てて学ぶことは、両者を識別するために非常に役立ちました。

 

「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているのでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」 1コリント2:11−12

 

私たちは霊的な生き物です。私たちが御霊によって生まれた時、それまで神から離れて死んでいた私たちの霊は生き返ります。キリストにあって、私たちは「霊の人」となり神に生きる者とされます。私たちの霊は聖霊が私たちと交わる領域です。

私たちの霊は真の義と聖さをもって神に似るものとして造られたので、神は私たちの霊と交わってくださるのです。

「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」と、エペソ4:23−24にある通りです。

 

異言を伴う聖霊のバプテスマ(1コリント14:14)を経験した人は、その人の内にある霊の言語が解き放たれたのです。これは人間の知性や能力では理解できない天的な言語です。

一方「魂」とは私たちの知性、意志、感情です。魂は、ある意味において、「霊」(内なる人/新しく造られた者)と「肉」の間に捕えられているといえましょう。それは私たちがものごとを選択・決断するためのセンターです。私たちの「魂」と「思考」は、神の御ことば(洗濯石けん)と聖霊(純粋な水)によってイエスが持つ真理を十分に知りって訓練されることを通して、主の似姿へと変えられて行く必要があるのです。

 

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ12:2

 

私たちの「霊」はすでに主の似姿に造られていますが、「魂」は変革される必要があります。あなたが自分の魂を聖霊とまことによる生き方に委ねるとき、あなたの魂は霊的に変革されます。「肉」は私たちを形作っている重要な部分であり、決して悪ではありませんが、 この世的なものに対して 敏感であり、 目に見える物質的世界に向いて生きている部分です。

 

皆さんは、次のような説明を聞いたことがあるかもしれません。

1.私たちの霊は神を意識する Our spirit is God-conscious
 2.私たちの魂は自分を意識する(自意識)Our soul is self-conscious

3.私たちの身体は物質的世界を意識する Our body is world-conscious

 

内側からの変革

 

私たちの肉の身体は霊に敵対します。それは生まれつき悪であるわけではないのですが、多くの場合、神が私たちの内や神の目的のために働こうとされる時、真っ向から歯向かいます。しかし、私たちの身体は生ける供え物として神に捧げられるべきものなのですから、身体を用いて神に栄光を捧げることが私たちにはできるのです。

 

「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ローマ6:13

 

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」ローマ8:14

 

これは、私たちが御霊によって生きる必要があることを教えています。内なる人(霊の人、キリストにある新しく造られた者)に真理と啓示をもたらすのは聖霊です。神が生き生きと働かれるのは私たちの霊においてであり、魂の中ではありません。

私たちが聖霊に委ねて聖霊と共に生き、霊的波長を聖霊に合わせるならば、私たちの魂はその影響を受けることができます。

 

コロサイ1:27「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

 

この神による変革が進んでいくのは、内側からのものです。しかし生まれつきの欲望で生きる者は外側から影響を受けるのであり、それは即ち肉がすべての行動を支配し、魂を肉の思いに従っていきるように訓練さえもしてしまうのです。

これを理解するならば、私たちが内側から生きねばならない必要性を知ることができます。聖霊(即ち、私たちに内におられる神、私たちの内なるキリスト、油注がれたお方)は、そのいのちを内側から外側へと働かされるのです。このような生き方は、霊を魂へ、そして身体へと働かせることができ、私たちが肉体的身体を通して神に栄光を与えることをも可能にします。

 

神を喜ばせること

 

「霊はすでに主の似姿に造られているが、魂は変革される必要がある」

信仰がなくては神を喜ばすことはできません。信仰があなたの肉や魂から生まれることは絶対ありません。信仰は新しく造られた者から来るのです。即ちあなたの霊が神との関係を回復することによって生かされ、神の御ことばが内で生き生きと生き始めるのです。

あなたの内なる宮において、あなたは神に生きるものとされたのです。御霊に敏感になることを学ぶと、私たちは肉の思いではなく信仰による人生を見出すことができるのです。神が私たちを召されている人生とは、信仰に満たされたものであり、聖霊のリアリティーが常に伴う人生です。

 

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

                                                                                         2コリント5:17

 

私たちがこのように生きる霊的領域に目ざめるとき、神が私たちを通して働いてくださる無限の可能性が生まれます。それは私たちは御霊によって生まれたので神のご性質が内側にあり、いつでもそれを手にすることができるからです。もはや神に「ここに来てください」とお願いする必要はありません。神はすでにあなたの内におられるからです。

神は私たちの霊を目ざめさせ、聖霊を下さり、ご自分の聖なる御性質を私たちに分与して下さる約束をもって私たちの魂を訓練してくださるのです。

 

2ペテロ1:4「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

 

神は救われて間もない者を通しても奇蹟を起こすことができます。それはもう何十年も救われている者と同じです。なぜならば神は「新しく造られた者」であれば誰でも用いることが出来るからです。あなたは生きているか、死んでいてまだ神を知らないかのどちらかなのです。もしあなたが生きているのなら、神があなたを通して出来ることには限りがないのです。

救われたばかりの者と長年神に忠実であった者との相違は、後者が(ほとんどすべての場合)より多くの変革を経て来たことです。

 

明らかに、変化や変革が起こるスピードはその人の選択に掛かっています。どれだけ主に委ねる人生を送っているかが、成長の度合いを決めます。たとえ偉大な油注ぎを受けている人であっても、人生のある部分、ある領域を神に完全には明け渡し委ねていないこともあり得るのです。

油注ぎを受けていても、それがさまざまな自己防衛や愚かさ、未熟さと混ざり合っている可能性があるのです。奇蹟を起こせるからと言って簡単にその人に惹き付けられてはなりません。

 

王の代理人となる

 

私たちは神の王国を具現し、世に現していく神の代理人となりたいのであり、自らが注目されることを自分の利益を望んではいません。

 

霊のものと肉のものを見分けるとき、そこにもし自己保存や自己防衛がいつも存在するならば、多分肉の問題があると考えてください。すべてが自分を中心としているならば何かが間違っているのです。

大勢の人がイエスを王にしようとしてやって来たとき、主は去っていかれました。神が私たちの人生の中心におられるならば、すべてのことは神を中心にして起り、それがまさに私たちが望むことなのです。(終り)


28 05月

尊ぶことの重要性 マイケル・バン・ヴリメン        2018年 5月28日


尊ぶことの重要性

 

マイケル・バン・ヴリメン

 

 

神の御国で尊ぶこと

 

 私が神の御国で「敬い尊ぶこと」が持つ重要性について学び始めたのは数年前のことでした。それまでは、クリスチャンとして人生で何を尊ぶべきかについてはあまり考えたことはありませんでした。尊ぶことに関する聖句で思い浮かんだのは、出エジプト20:12とエペソ6:2−3くらいでしたが、そこには父と母とを敬うべきことが書かれていました。

 

ある時から私は神の国について更に深く考察を始め、クリスチャンとして真に生きる道を教えている牧師たちの説教をもっと聞くようになりました。するとそこには尊ぶことに関する教えが非常に多いことに私は気付きました。

 

私はネビル・ジョンソンやブルース・アレンの説教を聞きましたが、彼らは自分が敬い尊ぶことがそのまま自分の人生にも現れてくることや、自分が尊ぶことを私たちは自然に追い求めるようになることを教えていました。私はまたジャスティン・アブラハムの説教も聞きましたが、彼は尊ぶことを通していのちが流れ出ること、そして尊ぶことが天国の通貨であることを教えてくれました。ローマ13:7には「敬わなければならない人を敬いなさい。」とあります。

 

聖書には尊ぶことに関する 箇所は多くあり、尊ぶことが主にとってどれほど重要なことであるかを示しています。それに関して神の御こころをよく表しているのは1サムエル2:30です。

 

「それゆえ、—イスラエルの神、主の御告げだーあなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、—主の御告げだー絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶものを尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」

 

私たちは自分が価値を認めるものを尊ぶ

 

私たちは、自分が価値を認めないものを尊んだり理解しようとはしません。単純なことです。伴侶や子どもという神からの贈り物を、私たちがもし尊ぶならば、彼らとの時間を多く持ちもっとその贈り物を理解しようとするでしょう。

 

尊ぶことは、私たちのこころや願いを表し、それは目に見えるかたちで表面に現れるものです。それは誰の目にも明らかになります。それは私たちの主との関係においても同じです。私たちが主との関係に価値を置き尊ぶならば、主の御こころを理解したいと願うでしょうし、主と時間を共に過ごすことでしょう。確かに命は尊ぶことから流れ出ると私は思います。

 

数年前のことですが、 私たち夫婦に主がなされた一つの事に関して私は少しばかり悩み苦しんでいました。それは、私たちの家でパワフルな神の超自然的現象が起り始めたのですが、私にはそれを受け入れる用意が出来ていなかったので、しばらくの間悩み続けることになったのです。それは妻のゴーダナが2011年11月11日に主からパワフルな霊の分与(インパーテーション)を受けたのが始まりでした。

その日から妻は祈ったりとりなしをするとき、必ず霊の領域に引き入れられるようになったのですが、私は全くそれについていけませんでした。この事を通して私はあることに気付かされました。それは超自然的癒しや奇蹟をテレビ等で見る時は、「本当にすばらしい!よかった!」と興奮して喜べるのですが、それが自分の家の中で家族しかいないときに起こると、それを受け入れるのには調整期間が必要であるということです。

 

ですから神の力が妻に臨み部屋の中で天使たちが動いていても、私はそれをほんの微かにしか感じることができませんでした。私は「これはおかしい!私にも天使がはっきりと見えてもいいはずなのに、見えない!」と思いました。そしてその不満を主に2年近くもぶつけていました。「主よ、なぜ私には霊的に起こっていることが見えないのですか?」と。

 

「わたしのしていることに参加しなさい。」

 

ある日、寝室に入って行くと妻が祈っており、部屋は神の臨在で満ち天使たちが動いているのを感じました。私は思わず叫びました。「姿を見せてください!私は彼女の夫なんですから!」私がそう言うや否や、輝く青い閃光が部屋にさし込み、私と犬とはびっくりして飛び上がりました。しかしそれでも天使たちは私には姿を現しませんでした。

 

その日の夜、主が私に語られました。というよりは、主は今までも語られていたのに私が聞く耳を持っていなかった、と言うべきかもしれません。主は言われました。「わたしはあなたに見せることはできません。わたしがあなたの妻にしていることをあなたは尊んでいないからです。奇跡的なしるしや癒しを通して、すべてはわたしの業であることをあなたに証明しましたが、あなたはまだ疑っています。彼女が祈るときに見るものをあなたも見たいのならば、あなたも彼女と一緒にとりなし、わたしがしていることに参加しなさい。そうすればあなたにも見せてあげましょう。」

 

これは私が主に願うものを受け取るための重要な鍵となるレッスンでした。私は神に仕える人々が力ある超自然的な業をなすときに、いつもそれを理解し認めることができるわけではありません。しかしそのような時にも、主を信頼し、彼らの人生で主がされておられる業を尊ぶことを私は学びました。そして主はそのような私を祝福してくださいました。

 

自分が尊ぶことが自分の人生にそのまま現れてくるのです。それは確かです。御父は喜んで私たちに御国をくださいます。ですから御国で尊ばれることを敬い尊んでください。(終り)


21 05月

神が与えてくださる仲間 ランス・ウオルナウ 2018年5月21日


神が与えてくださる仲間

 

ランス・ウオルナウ

 

人々はいろいろな問題に遭遇すると、指針を求めて神の御声を聞きたいと願いますが、それは簡単なことではありません。しかし私はその鍵の一つになることを見出しました。それは私がワシントンDCでアメリカや世界の政治的動向に注目しているクリスチャンたちと交わりをしていた時に与えられた啓示でした。

 

その時私たちは、一人ひとり自分が見たことや感じたこと、自分の考え等を分かち合っていたのですが、その時皆がある事実に気づいたのです。それはあなたが一緒にいるべき人達(right people)と話をしているならば、神の御霊がその会話の中に介入され、自分が話している内容をもっと明確に鮮明にしてくださるということです。自分一人で会話をすることはできません。あなたは一緒にいるべき人たち(right people)と共にいる必要があるのです。

 

一人ひとりが自分の思っていることを分ちあっている時、聖霊が私たちの内側からそれをさらに鮮明にし、聖霊が何を考えておられるかを皆が分かるようにしてくださるということを皆が感じました。しかしあなたが共にいるべきではない人々(wrong people)の中で話すならば、その会話から神の御こころを見出す霊的環境に入ることはできません。なぜならばあなたは彼らに対して自分の考えを説明し理解してもらい説得するので精一杯になってしまうからです。しかしもしあなたが共にいるべき人達(right people)の中にいるならば、聖霊があなたの言葉に同意することを示してくださる時にはそれが分かるようになります。それは人々があなたの意見になんでも同意するということではなく、彼らがあなたの霊的波長を聖霊の御声に敏感になるように助けてくれるからです。それによってあなたが「これはもしかして神からかもしれない」と感じていた考えやアイデアを分かち合うときに、それが確かに神からであったとあなたがはっきりと感じ取ることが出来るようになるのです。

 

イエスはヨハネ16:12、13で「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導きいれます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」と言われました。あなたの内におられる聖霊は、主があなたにいろいろな手段(思い、アイデア、ささやき)で示されていたことを聞いてそれをあなたに話してくださるのです。

 

私たちの周りにはいろいろな雑音(ニュース、人の意見、自分の魂の声など)が溢れていますが、その中でも神の御霊はあなたに語っておられるのです。この箇所で「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し」とあるように、御霊は「聞いて語る」のです。あなたが他の人々と「心を一つにして」共に集い話し合うとき、あなたの内にいる聖霊はそれを聞いておられ、あなたが話すときに聖霊が共に話してくださるのです。聖霊は神の御こころをあなたの言葉に吹き込んでくださるので、あなたは話しながら自分の口から出る言葉によって神の御こころがはっきりとわかるのです。そして神があなたの人生でされていたことや、あなたの進んでいる方向が神の望まれていることであると確認させてくださいます。それはあなたが話している霊的環境が正しい仲間によって整えられているときに起こるのです。

 

使徒行伝4章でペテロとヨハネが時の権力者たちと対峙したとき、この真理が現れています。(アメリカや世界中のクリスチャンは今このような状況に置かれています。あなたが御霊によって動けば動くほど、宗教的組織や、報道関係、政治的な権力から圧力をかけられます。神のメッセージを伝えるものたちへの迫害がますます顕著になってきています。世界が、羊とやぎ、麦と毒麦、善と悪とにますます鮮明に区分されてきています。)

 

23節に「釈放されたふたりは、仲間のところに行き」とありますが、これが鍵です。神が与えられ深い関係を築いた仲間のところに行くとき、自分の進むべき方向が示され、そのための力が与えられるのです。そして彼らは「祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告し」、これを聞いた人々はみな「心を一つにして」神に向かって声をあげました。ここに鍵があります。

 

「心を一つにして in one accord」というのはクリスチャンならだれでもいいということではありません。さまざまな偏見やあなたとは異なる考えを持っている人は、たとえクリスチャンであってもあなたが神から聞く霊的環境をつくりだすことはできません。ですからあなたと同じ神からの使命、任務を受けているクリスチャンである必要があります。

 

使徒16の6節ではパウロがアジアで御ことばを語ることを聖霊が禁じており、次の7節ではビテニヤのほうに行くことをイエスの御霊が許されなかったとあります。

神は二つの扉を閉じられたのです。(パウロは宣教に出かけることを恐れてはいませんでした。しかしそこに住む人々に福音を聞く用意ができていないならば、神はその道を閉ざされるのです。あなたの手に神からの福音というギフトがあっても、人々に受け取る用意がないならば、そのギフトを無駄にすることになります。)そして9節に「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡ってきて、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。」とあり、10節には「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだと(私たちは)確信したからである。」とあります。幻を見たのはパウロでしたが、心を一つにしていた仲間の一行(パウロ、シラス、テモテ、ルカ)はそれが神の御こころであることを共に確信したのです。

 

もしあなたが神に「共に働くべき仲間を与えてください」と祈っているならば、それは一人でも二人でもいいのです。大勢である必要は全くありません。2、3人の人が共に語りあうとき、そこに主もいてくださり、そのグループの進むべき道が鮮明に確認、確証されるのです。自分の思いを口から出すとき、あなたの内なる聖霊がそれを聞き、あなたの言葉を用いて語り、それによって皆に神から確証が与えられます。

 

皆さんの中には今神から「開かれた扉」を与えられている人がいると思います。あなたが思ってもいなかった所や、ある扉が開くのを待っていたときに、違う扉が開くかもしれません。そのときにあなたが間違った人達(wrong people)に話すならば、その扉は閉ざされてしまうのです。自分自身が抱く疑いや迷いがそのような人々から増幅されて自分にかえされてくるからです。時として敵はあなたに「今はそれをするタイミングではない」とささやきます。私たちはその敵の言葉に同意一致してしまい、開いた扉に入って行かないのです。ですから正しい人々(right people)に話すことがとても大切です。

 

次に大切なのは恵みの中を歩くことです。パウロは2テモテ2:1で「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。Be strong in the grace that is in Christ Jesus.」と言っています。これはグラハム・クック師のから教えられたことですが、恵みは普通「受ける価値がないのに与えられる恩恵」と説明されますが、聖書はイエスが「恵みとまことに満ちていた」と言っています。イエスは恵みを受ける価値があるお方でしたから、「恵みは受ける価値のない者に与えられるもの」という定義はおかしいのです。そうではなく、恵みとは、神が望まれる自分になるために与えられる力です。私たちが恵みによって強くなるとは、神が自分を見られているように自分を見ることであり、そうなるための力を与える恵みの中(神の臨在の中)で生きることです。神はあなたが完成した姿、新しい創造物のあなたを見ておられます。あなたが神と同じようにその完成した自分の姿が真のリアリティーであると知れば知るほど、あなたは恵みによって強くされます。そして前進し向上していく自分を認め、自分の召しに確信を持つことができるのです。

 

もしあなたが間違った人々に神から与えられたアイデアを話すならば、彼らは自分の心や思いにあることに焦点を当てるためにあなたの話を逸らしてしまいます。しかし少人数の正しい人たちに話すならば、彼らはあなたが恵みを受けるためのスペースをつくり、それによってあなたのアイデアは更に研ぎすまされ、知恵が与えられ、内なる聖霊からの確認が得られるのです。

 

今は皆さんが「仲間のところに行き」「心を一つにして」神に向かって声を上げる時です!

 

使徒行伝4:31「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(終り)


07 05月

今週は神の御声がよりはっきり聞こえる時 ー その大きなシフトが来る ラナ・ヴァウサー 2018年5月8日


今週は神の御声がよりはっきり聞こえる時 ー

               その大きなシフトが来る

 

ラナ・ヴァウサー

 

 

今週はあなたが主の御声を更にはっきりと聞く週になることをあなたの上に預言いたします。あなたが主の御こころを更にはっきりと聞き、預言の意味を更に明確に聞きとる週になることを預言します。

 

私は一つのヴィジョンを見ました。イエスに近づいている者たちの頭に主がヘッドフォーンをつけ、それによって他の音を遮断し、主が言われていることにもっと集中できるようになるというビジョンでした。

 

主はこのヴィジョンを通して教えてくださいました。あなたが主から鮮明に聞くのを邪魔していた「雑音」は、今週あなたが御声を強く求めるならば、ついに消されて聞こえなくなり、あなたはイエスとイエスが言われていることに聖霊のちからによってもっと集中することができるようになることです。

その意味は、今週あなたは「新しい音」を聞く週になるということです。あなたは主の胸の鼓動の「新しい音」を聞く(聞ける)ようになり、主の啓示の新しい音、主に解放され道を示される新しい音を聞くでしょう。

 

サムエルのように御声に驚かされる

 

 

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように『サムエル。サムエル。』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております。』と申しあげた。」 1サムエル3:10

 

今私のこころにはこの聖書箇所がずっとあります。今週、神の御声に驚かされる心の準備をしてください。予期しない方法で神があなたに呼びかけるのを聞く備えをしてください。あなたが今まで経験したことのない方法で主が話しかけるのを見る備えをし、それが起こった時には「主よ、あなたですか?」と言ってじっと耳を澄ませてください。

 

今まで霊が渦を巻いて、混乱や妨害が起こっていました。しかしあなたが今週強く求めるならば、主の御声を鮮明に聞き、あなたが主に火打石のように決意の顔を向けて(イザヤ50:7参照)力を得るための更なるブレークスルーが起こるであろうことを、主が私に示してくださいました。

今週、新しい音、主の胸の鼓動とそのリズムをもっと正確に聞き取るための備えをしてください。

 

私は「聖霊が音を取り囲む中に踏み込むために準備をしなさい!!」と主が言われるのを聞きました。

 

主はあなたが聞くことを増し加え、あなたのダイアルを合わせて天の波長に合わせ、主のこころのリズムに一致するようにされます。もっと聞くことが今週あなたには可能にされているのです。ぜひ受け取ってください!

 

今週、聞く事に大きなシフトが起ります。注意深く自分が立つべき位置を定め、「聖霊に囲まれた音」の中に踏み込む用意をしてください。そして御霊において起こっていることや、聖霊が今生み出し実現しようとしているものの音をもっとはっきりと聞く備えをしてください。

 

今週、多くの方にとって、あなたが主から聞くことが、主の聖なるパズルの沢山の部分が一緒になって(理解できる)形となること、そしてさらに偉大なブレークスルーがおこること、そして物事の意味がはっきりと分かるようになることです。

そのためにはみなさん、ぜひ秘密の場所に入り、主に「聖霊のヘッドフォーン」をあなたの耳につけていただいて、あなたがはっきりと聞こえるようになってください。(終り)

 


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