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Walk With God Ministries


24 06月

主の臨在の中で一日を生きるには    ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談  2019年6月24日


主の臨在の中で一日を生きるには

 

   ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談(WhiteDove Ministries Webinar #34より抜粋)

 

 

ポール•キース•デイビス( 以降 PK ):ブラッドさん、あなたは主の臨在の中に留まるために毎日をどのように始め、どのように過ごされているのですか?

 

ブラッド・マクレドン:朝起きて私が先ずすることは、主に「あなたは今日、何を(私と一緒に)なさりたいですか?ー私は今日何をすればよいのでしょうか?」とお聞きすることです。それが最初の質問です。それに対する主の答えは、過去数年間ずっと「今日わたしは(あなたと共に)ある人に愛を注ぎたいのです。」でした。私の心は好奇心で一杯になり「それは誰ですか?その人と私は出会うのですか? それは何処でですか?」とお聞きます。そこから主と私との会話、コミュニケ—ションが始まります。

 

それは私が先ず主にお聞きすることから始まるのです。もし、あなたの奥さんがあなたに話をしてくれないと、あなたは疎外されているように感じますね。でも奥さんと話をして仲良くしていると、とてもうれしくて元気が出てきます。私にとって朝一番に主と会話をすると、そこから一日中絶え間なく続くコミュニケーションが始まります。朝起きてすぐに主の御顔を仰ぎ見ないならば、私の頭はすぐに他のことを考え始めてしまい、主との会話をしないままになってしまいます。すると 私は一日の歩みを主と共にできないことになってしまいます。

 

私はキャサリン・クーマンの人生を調べるのが好きなのですが、彼女は「あなたはどのくらいの時間、神に祈るのですか?」と聞かれたとき、「私はいつも祈っています。I pray all the time.」と答えたそうです。そして「そんな時間をどうやって作るのですか?」という問いに対して、彼女は「ショッピングに行くときも、どこに行っても、何をしていても私は異言などで祈っています。」と答えました。ちょっとクレージーに聞こえますが、私たちはこのようなシンプルさを忘れてしまっているのではないでしょうか。このようなシンプルな鍵があなたを主との親しい交わりという栄光の中に入れてくれるのです。

 

PK:祈り方の間違ったモデルがあるのも問題ではないでしょうか。「祈りとは大声で叫ぶものである。」とかです。確かにそういう場合も時にはあるとは思います。でも夫婦の会話でも「朝ごはんを作ってください。」とかは普通に静かに話しますよね。妻が夫に話すように、私たちも主にむかっていつも普通に会話をすればいいのです。私たちはいつも叫び求めるような乞食ではないのですから。

 

ブラッド:私たちが毎日持つべき主との霊的な生活は、そのようなものです。弟子たちがイエスに何か質問するときに始まる会話は、 私たちの祈りの一つの型です。イエスと弟子たちは共に寝て、朝共に起き、話をしながら歩き始めました。祈りは主と共に生きるライフスタイルなのです。

 

PK:これに関する本で一番よいのは、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯 The Practice of The Presence of God」だと思います。それは意図的に主の臨在を常に意識するということで、無言のときも 多いのです。彼は主の臨在に接続されている、即ち常に主がそこにおられることを知り、それを意識して主とつながっているということです。お皿を洗っているときも、床を掃く時も、何をしているときもその意識を持つのです。そのような習慣の力は自分の内に訓練によって養っていくことができます。

 

ブラッド:もし主が語られるならば、それを聞く用意が彼には常に出来ていたということですね。主はいつか語られることを知っている、でも語られても語られなくても、それはどちらでもかまわい、という境地ですね。

 

PK:私たちは「祈りとは即ち、嘆願だ」と間違って考えているところがあります。一日中主に嘆願し続けることはできませんが、一日中コミュニケートしていることは可能です。主はここにおられることを知り常に主を意識していることです。私は御ことばが大好きです。御ことばによって私は天とコミュニケートします。私たちは24/7、主の臨在を意識するようになれると思います。キャサリン・クーマンはそれをしたのですね。

ブラッド:その通りですね。

私は最近ある人からメールをもらったのですが、それは「今は皆が祈り込まねばならない(プレスインする)時だ。」と言う内容でした。しかし「祈り込む」というと、残念なことですが、ともすればそれは密室の祈りに集中し神に嘆願し続けることだと受け取られてしまい、それによって疲れ果ててしまう人が多いのです。私たちはそのようなマインドセットを変えて行かねばなりません。私たちは主のもとに行き、嘆願に嘆願を重ねて、その結果が得られずに疲れ果てて戻る、というような主との関係にあるのではないのです。そのような祈り方をするとき主の御声が聞こえないのは、私たちが聖霊によってではなく、自分自身の意志によって動かされ祈っているからです。主の祈りに「御こころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、私たちは主の御こころを知らねばなりません。

私はこのことをモレビアンフォールのワーシップ・センタ−に始めて行ったときに学びました。私はそこで大声で激しく祈っていました。(私たちは自分が祈っている声を聞くのを楽しむことがありますね。)その時主が「あなたは何をしているのですか?」と言われたのです。それはまるで主は私がずっと祈っていたことなど、全然聞いておられなかったような感じでした。主は「あなたは、わたしが祈ることを祈りたいですか?」と聞かれました。「そんな機会が与えられているのですか? そんなことが出来るのですか?」と私は心底からびっくりしました。私は「はい、したいです。」とお答えしました。するとそれから3時間、主は一言も話されませんでした。(笑)ですから私もそこに黙って座っていたのですが、主はそれを通して 「自分の意志で祈ること」から私を解放してくださったのです。3時間後に主が語られた時に、私はそれをはっきり聞くことができ、その通りに祈りました。そしてその祈りが聞き届けられたことが私にはわかりました。

いつもそのように祈らねばならないと言っているのではありません。けれども私たちが天におられる主の御こころを知り、それをこの地で祈ることができるほどに、主との親密な関係に入ることができることを、主は私たちが知ることを願われているのだと思います。

 

PK:教会が失った霊的遺産の一つに、黙想の祈り(contemplative prayer)があると思います。コンテンプレイテイブするとか、メディテイトする(黙想する)というと、人はすぐに「それはニューエイジだ」と決めつけますが、ダビデはニューエイジの出現よりずっと前にメディテイトしていました。私は「メディテイト 黙想」に関する聖句を14箇所見つけました。「神のすばらしさをメディテイトせよ」とか「神のことばをメディテイトせよ」とか「神のご性質をメディテイトせよ」とかですね。問題は私たちが静まってじっとしている訓練ができていないということです。静かに3時間しているというのはとても困難ですね。私は以前よくコンテンプレイトの祈りをしていました。これからも又、したいと思っています。

ピリピ4:6、7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、私たちはすべての心の思い、願いを神に祈ったあと、平安を頂きます。

その平安の中で「主を待ち望む wait upon the Lord」のです。待つことはやさしくありませんね。これは私が経験した霊的訓練の中でもっとも難しいものでした。ディサプリン(しつけ、訓練)ですね。様々なことが頭に浮かんできてしまうのですが、真にこころが静かになると、生きた御ことばによって「知性、意志、感情、想像」というたましいの部分と霊とが切り離されていきます。

終末の教会が持つべき重要な奥義の一つは、コンテンプレイテイブの祈りだと思います。それによって、ヴィジテイション(天からの訪れ)やヴィジョンを受け、神と一致することができるのです。ブラッドさんのモレビアンフォールでの体験は、まさにそのことだと思います。あなたはこころを静め、神と一致したのです。

 

「コンテンプレイテイブな祈りをどのようにすればいいのか」という質問を受けることがあります。それは一人ひとり違うのです。私の場合は、いつもの椅子に座り、出来るだけ何も考えないようにします。どうしても頭の中にいろいろな思いが浮かんでしまうときは、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」とずっと繰り返します。そう言っていると他の事を考えなくてすみ、私の思いもイエスに焦点が合っていきます。これが私のやり方ですが、そうする必要はありません。どういうやり方であってもコンテンプレイトの祈りをすることによって、私たちは霊的力を受けます。これからこの祈りを人びとに教えて行かねばならないと思います。

 

ブラッド:同感です。私たちは神と一致せねばなりません。不思議なことですが、この祈りに入ると、あなたはすでに主に向いているのです。あなたは意識的に主と向きあうことを選びとったわけです。コンテンプレイトの祈りが終ったあと、あなたは「何も起らなかった」と思うかもしれませんが、実際にはあなたはその中でトランスフォームされたのです。その「実」は後になってからあなたの言動の中で表されてきます。祈りの中であなたは主から何も聞かないかもしれませんが、あなたの霊の中に主が何かをインプットしてくださるのです。

 

イエスとの親密な関係を持つことが、今の時代のクリスチャン生活にとって実に「かなめ」となります。これから起ってくる出来事の中で、自分が主とどのような関係にあるのかを、一人ひとりがキチンと認識せねばなりません。即ち、自分と主との個人的な関係をしっかりと持たねばならないのです。

 

PK:これからはどうしてもある「分離」が起ると思います。聖書にも明らかですが、真理があれば偽りもあります。エデンの園には二本の木がありました。カインとアベルは共に主に捧げものをしたかったのですが、一人は自分の業により捧げ、もう一人は啓示により捧げました。イエスは同じ畑に麦と毒麦があると言われました。 毒麦は麦と同じように見えても、その中に命はないのです。今日ここで話したことの中には、「宗教」とか「伝統」にとっては不愉快なことがあると思います。私たちがキリストの霊とそれ以外の霊とを区別する物差しになるものについて話したからです。

第二コリント11章には「別のイエス 」「異なった霊 」「異なった福音 」と言うことばがありますが、「異なった霊」はまことの霊に対して必ず激しく戦いを挑んできます。それは、黙示録で「ニコライ派の教え」と言われているものであり、聖職者が一般信者をコントロールする霊です。一般信徒がヴィジテイションやヴィジョン、啓示を受けて霊的力を持つことを許さない霊です。必ずこの戦いがありますから、私たちはその備えをせねばなりません。キリストの花嫁はその戦いに備えていると思います。

 

ブラッド:戦いが激しいほど、天からのヴィジテイションも頻繁になると思います。戦いが始まり毒麦が勢いを持つ時、御国がすぐそこまで来ていることを私たちは知るのです。その時天の御使いたちがやってきて、大いなる収穫が始まります。それはなんと栄光に満ちた時となることでしょうか。人間の目には恐ろしく暗い日々のように見えるかもしれませんが、私たちが上にあるものに目を留め続け、神の視点から物事を見るならば、歴史上最高にすばらしい時となるのです。(終)

 

 

訳者注

 この記事は大分前に訳したものです。私たち夫婦はこのポール・キース・デイビス師とは数年前に会って、丁度その時は私たちが日本に出発する直前でしたので、日本に行くミッションと守りのお祈りをしていただきました。

 

   ご存知のように、クリスチャンになる最大の恩恵・特典は、聖霊なる神が私たちの内に住んで下さるように主がして下さることです。全知全能の神がいつも私たちと一緒に住んでいて下さるのですから、毎日主と会話しながら、全てを聞いて毎日を生きることができるし、しないのがおかしいのです。主は私たちと毎日会話することを何よりも望んでおられます。

 主と常に会話しながら生きるーこれほど間違いのない人生はありません。

 

 尚、もし上記の文中にある「コンテンプレイテイブの祈り」にご興味がおありでしたら、拙書「主を見つめて待つ」をお読みください。坂 達也


17 06月

「自分の十字架を負う」とは(そのニ) フランシス・フランジペイン 2019年6月17日


「自分の十字架を負う」とは(そのニ)

 

フランシス・フランジペイン(Ministries of Francis Frangipane)

 

真の福音

 

皆さんは「フランシスさん、これは私が聞いた福音とは違いますよ。イエスが私の罪の贖いのために十字架で死んでくださったので、イエスを信じれば私は天国に行けるというのが福音でしょう?」と言われるかもしれません。でもそれでは天国に行くのを先延しにしまっているのです。イエスを信じて新生したとき、あなたは死んで天国にもう行っているのです。その時からあなたは神が与えてくださった「新しいいのち」を生き始めました。それはあなたが自分の十字架を負ったとき、即ち自分に死んだとき、それが起こるのです。あなたの中にイエスが生き始めます。勿論最終的にはあなたの身体も死んで天国に行きますが、自分の十字架を負ったとき、私たちは新しい永遠のいのちを生き始めるのです。

 

ある人は「フランシスさん、自分に死ぬなんで、それはなにか東洋の宗教のようですね。」と言うかもしれません。みなさん、キリスト教は東洋の宗教です。(笑)私たちはそれをアメリカナイズしてしまって、すべての希望を「この世での人生」にだけ託してしまっています。イエスが「わたしについて来なさい。」と言われたとき、それはただ「イスラエルの道をイエスの後について歩いて行く」ということではなく、「イエスのようにこの世界を変える者となりなさい」ということです。「パワフルで素晴らしい天国のいのちを受けて全世界に影響を与える者となれ!」と言われたのです。そうなるためには、自分に死なねばなりません。それはどのような代価を払ってでも神に従うこと、即ち十字架を負うことです。

 

自己憐憫の要塞

 

今教会には「自己憐憫の要塞」という問題があります。自己憐憫は私たちの傷をいつまでもそのままに生かしておきます。自己憐憫はあなたのすべての問題をそのまま甘やかして温存させ、あなたの力を無くし、意気消沈させ、不信仰を正当化し、愛がないことの言い訳けにします。それはあなたを地獄にずっととどめるのです。

一つの経験をお話ししましょう。

私が最初に行ったのは、ハワイのマウイ島の小さな教会で、天井から6つ電灯がぶら下がっていました。ある月曜日の夜、牧師は私たち三人の若者に5分ずつ順番に説教をさせてくれました。最初の人が話し始めたとき、巨大なハワイの蜂が入ってきて大きな羽音で電灯の周りを飛び回りはじめたので、人々は彼の話をよく聞くことができませんでした。私は3番目に話す予定でしたが、「きっと自分が話す時も蜂がうるさくてみんな私の話を聞いてくれないだろう」という心配で一杯になりました。私は「主よ、この蜂をいなくしてください。主よ、どうかお願いします。」と必死で祈り始めました。でも蜂はそのまま飛び回りました。

次の人が話を始めました。私は更に霊的になって、蜂をイエスの御名において縛り始めました。「蜂よ、お前を縛る、ここから出て行け!」(笑)知っている祈りをすべて用いましたが、何も起りませんでした。いよいよ私が話す番になりました。「主よ、蜂をどうにかしてください!」と大真面目で心で叫んだとき、蜂が真上の電灯にぶつかり、私の膝に落ちてきました。そして神が「自分で殺しなさい。」と言われたのです。(笑)

私たちの中にはカウンセリングを受けてどうにか無くしたいような罪がいくつかあります。

「テレビを見すぎている」と内心思っているあなたは「雷がアンテナに落ちてテレビが見えなくなったら、それは神からのしるしだから、テレビを見るのをやめよう」と思っているかもしれません。(笑)でもあなたの人生の多くの問題は、あなた自身で殺さねばならないのです。サムソンが死ぬとき今まで以上の敵を殺したように、あなたが自分を十字架につけるならば、あなたの中の多くの罪を殺すことができるのです。

 

「十字架」が神のちからですが、それは私たちが好むようなものではなく、嫌だと思うようなものです。もしあなたが嫌ではないならば、それは十字架ではありません。何か腹が立つことがあなたの身に起こったならば、それは十字架を負うチャンスなのです。その時、あなたは「赦し」、「もう一マイル歩くこと」によってイエスを表すことができるのであり、そこに神のちからが現れるのです。あなたが気を悪くしないものは十字架ではありません。十字架はあなたが気を悪くし、腹を立てるようにデザインされています。

 

私ならば、おいしいチーズケーキを食べ過ぎて幸せな気分で死ぬことを選びます。(笑)でもどういう死に方をするかは自分で選ぶことはできません。神があなたのために特別な死に方を選んでくださいます。もしあなたが生来恐がりならば、十字架はあなたを大胆にします。人前で話すのが苦手ならば、話せるようになります。話好きならば、黙す祈りのミニストリーを下さるでしょう。(笑)パウロは大胆でしたが恐れることを学びました。彼はパリサイ人として多くの知識を持っていましたが、神は彼を異邦人に送り、自分の知識に頼るのではなく神に頼ることを教えました。ペテロは漁師で学問はありませんでしたが、知識としるしを求めるユダヤ人へのミニストリーを与えられました。神はあなたを自分に頼るのではなく、完全にイエスに拠り頼む者へと変えてくださるのです。

時には断食をする必要があります。断食と祈りの奥義を学ばねばなりません。睡眠時間をけずって朝早く起きて祈ることも必要です。私たちは「古い自分」を喜ばせてばかりいてはいけないのです。

 

私は夜生まれたので、いまだにその習慣があり早朝に起きるのが非常に苦手です。(笑)でもあなたの町を変えたいならば、早朝の祈りの戦いが必要であり、それがあなたが負うべき十字架です。朝5時にあなたの枕は雲のようで、毛布はベルベットのように心地よく感じます。目覚ましが鳴ると、あなたの手だけが起きて、「あと5分」のボタンを押します。そして「今朝はシャワーはなしですませよう。」とつぶやきます。(笑)でもあなたは5分後に起きねばなりません。あなたの十字架を負うのです。

 

自分の町のための祈り

 

ある時、私の町の6つの教会の牧師たちが一緒に祈る機会があり、それは本当にすばらしい時となりました。お互いに競い合っていたような思いが打ち破られて、一致して祈ることができました。そしてそのような祈り会を毎週火曜日の朝6時半からしようと皆で決めました。神の臨在がすばらしかったので、それが決まって私は本当にうれしく思いました。次の火曜日に私が行くと、他には誰も来なかったのです!その教会の牧師さえも来なくて、「玄関マットの下に鍵があります」というノートだけがありました。私は中に入りましたが、暖房や電気をつけるスイッチの場所さえ分かりませんでした。アイオア州の一月は凍るような寒さでした。私は気を害し腹が立ちました。私は一人で祈り始めましたが、最初の20分は「兄弟の告発者」のような祈りでした。(笑)次の20分は神に文句を言いました。「『わたしを信じた者をわたしは失望させない』とあなたは言われましたが、でも今、私は本当に失望していますよ。先週はすばらしい祈り会だったのに、今日は私一人です。どうしてあなたは後の5人を起こす恵みを与えてくださらなかったのですか?

一人だけ起こす、それも私を起こす恵みしかなかったのですか?」勿論、この態度は決して誇るべきものではありませんが、私は本当に腹を立てていたのです。(笑)

このように暗く冷たい教会で一人で神に文句を言ってやっと少し落ち着いたとき、主が語られました。「わたしが呼んだ時にどうして誰も答えなかったのか。わたしは破れ口に立つ者をさがしていたのだ。」突然、私は神がこの町のために私を召しておられることを悟りました。私は「主よ、私は祈りの勇士ではありません。何時間も祈ることなど出来ません。」と申しあげました。主は「わたしが求めるのは、ただわたしに応答し、そして破れ口に立つことだけだ。破れ口(gap)とは『町の現状』と『わたしの力が変えた町の姿』との間にあるスペースだ。だからあなたがそのスペースに立ってとりなしてほしい。」

その時、早朝に起きて一人だけで祈ることを嫌っていた私の弱さは、神の油注ぎによって消えて行ったのです。その時始まったことが、現在は何千という町での祈りのムーブメントとなっているのです!

教団教派を越えて自分の町のために牧師たちが一つになって祈っています。私が一人で祈った一月の寒い朝、私が主に「はい」と応答して十字架を負った時、それは始まったのです。それ以来、他の町に出かけていないかぎり、私は火曜日の朝の牧師の祈り会に出席しています。また、水曜日の朝6時半には市長の部屋での政治家と牧師たちの祈り会もしています。すべては私一人が他に誰もいない時に神の召しに応答したことから始まったのであり、その時に神の力が来たのです。

 

十字架を負う素晴らしさ

 

あなたが一人で傷ついたとき、その傷口から流れるのは「神への礼拝」でしょうか、それとも「苦々しさや恨み」でしょうか。誰でも切られ傷つく時があります。その時あなたから流れるものは「愛」でしょうか、それとも「神に対する怒り」でしょうか。あなたが置かれている状況の中で十字架を負う道を選びとるならば、自分の力で出来ることを遥かに越えたすばらしいことを神はしてくださいます。

ある時私は、ある大きな教会の牧師からメッセージの依頼の電話を受けました。一回の謝礼は6千ドル(60万円)ということでした。私は「あなたの町では教会の牧師たちの祈り会をしていますか?」と聞きますと、「残念ながらまだしていない」ということでした。神は私に「牧師たちの祈り会のない町には行かないように」とはっきり幻で示されていたので、私はその旨伝えてお断りをしました。断ってから少し残念な気もしました。というのは、当時の私の牧師としての給料は1年で6千ドルで、子供が5人いて赤貧の生活をしていました。それが一日で6千ドルというのですから、本当にすごいことだったのです。「バックスライドして気を変えた時のために、電話番号をもらっておけばよかった。」という思いも横切ったのです。(笑)

しかし3、4ヶ月経ってから同じ牧師から電話があり、「驚かれると思いますが、この町の牧師たちに電話をして祈り会を始める事が出来たんです!今はいろんな教派の12人の牧師が集まって祈っているのですよ!

とても祝福されています! 是非、話に来てくれませんか?」と頼まれました。私は喜んで承諾しました。最初に断ったとき、それは十字架を負うことでした。自分を否んで貧しいままでいること、弱いままでいること、小さい者のままでいること、自分で物事を動かそうとしないで神に従い委ねることは、即ち十字架です。しかしその時、神にしかできないことが起来ます。十字架には神の力が附随しているからです。

イエスが十字架にかかったとき、そばに残ったのは、一人の弟子と4人の女性だけでした。多くの癒し、奇蹟を行ない、群衆に取り巻かれていたイエスは、今惨めな姿となっていました。十字架は敗北のように見えます。しかし、それは神の力への道だったのです。十字架こそ神の力です。

 

旧約聖書の人物たちも「十字架」とは呼ばれてはいませんが、それぞれに十字架を負いました。アブラハムは26年間神の約束を信じて待ち続けねばなりませんでした。ヨセフは兄弟たちに売られ、エジプトの牢獄で忘れ去られて過ごさねばなりませんでした。騙して長子の権利を奪ったヤコブは、今度は長年ラバンから騙され続けるという苦しみに遭いました。十字架はヤコブの歪んだ性格を擁護したり正当化するのではなく、憎むようにさせたのです。神がヤコブを既に十字架にかけて殺したので、エソウはヤコブを殺す必要はなく、二人は抱き合うことができました。十字架は私たちの中の古いものを殺すのです。

イエスはこのような旧約時代の人々が負ったものをはっきり「十字架」という言葉で表しました。そしてご自分の弟子たちに「自分の十字架を日々負ってわたしに従いなさい。」と言われたのです。自分には関係のないことと思わないで、あなたに示される十字架を日々負うのです。

ペテロはイエスが十字架を負うのを止めようとしました。(マタイ16:22)イエスが苦しみに遭うならば、自分たちも苦しみに遭うことを知っていたからです。しかし、そのペテロも最後には次にように言っています。

 

第一ペテロ4:12「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試煉を、何か思いがけないことが起こったように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」

 

イエスはご自分には何の罪もないのに、人々の罪過ためにいけにえとしてご自分をささげられました。

そして「父よ、彼らをお赦しください。」と言われ、私たちに向かって「わたしに従いなさい。」と招かれました。私たちも誰かに傷つけられたとき、それに腹を立てるのではなく、相手の罪過のためにいけにえとなることができるのです。そして「砕かれて痛められるとき」私たちから香りが立ち上ります。私たちはこのように言うことができます。「主よ、私は赦します。」「主よ、もう一方の頬をむけ・・・・もう一マイル歩きます。」「主よ、あなたに似る者とさせてください。」

 

勿論、私たちはイエスのように「人の罪のために死ぬこと」は出来ません。私たちがイエスの代わりに十字架を負うのではありません。そうではなく、イエスのいのちが私たちを通して生きてくださり、贖いの代価となってくださるのです。自分の十字架につけることによって、私たちはイエスに生きていただくことができます。そのとき天国が開き、地獄のシンボルであった十字架が天国のシンボルに変わります。死が勝利に飲まれるのです!

パウロは「イエスの苦しみにあずかる the fellowship of His suffering(ピリピ3:10)」と言いました。神の目的に向かってイエスと共に苦しむ時にこそ、イエスとの真の交わりがあるのです。(終り)


10 06月

「自分の十字架を負う」とは(その一) フランシス・フランジペイン 2019年6月10日


「自分の十字架を負う」とは(その一)

 

フランシス・フランジペインMinistries of Francis Frangipane)

 

 

 

キリストの再臨の時までに私たちは様々のメッセージを聞くことでしょう。信仰や愛について、又預言的油注ぎ,新しいぶどう酒、聖なる笑い等々、色々な人が様々なことを教えるでしょう。でもある一つのことが無視されているように私は思います。それは十字架の弟子となることです。

十字架はキリスト教の中心に位置するものです。私たちの信仰のシンボルです。十字架は教会の上にも、聖書のカバーにも、その他すべてのキリスト教主義の病院、施設、団体のシンボルになっています。しかし、「十字架を負う」というテーマのワーシップソングを最後に歌ったのは、いつだったでしょうか。そして十字架を負う弟子になることの素晴らしさを語るメッセージを聞いたのはいつのことだったでしょうか。

アメリカでは特にだと思いますが、クリスチャンは甘やかされるのが好きです。牧師はまるで「あなたをもっと心地よくするためには、何が御入り用ですか?」「何か読み物がいりますか?」「お休みになるのに枕をお持ちしましょうか?」と言うスチュワーデスのようです。

 

でも聖書は十字架こそ神の力だと言っています。リアルな神のリアルな力は十字架にあるのです。今朝は神の目的のために私たちの命を捨てることについてお話したいと思います。十字架は従順のための代価を象徴しています。どのような代価を払っても神に従うということです。十字架を見るとき「イエスはどこまで従い通したか」が分かります。そしてイエスは「あなたも私のあとに従いなさい。」と言ったのです。

今のクリスチャンは神によって救われたいと思っています。彼らはカウンセリングや祈りを繰り返ししてもらいます。それは即ち「このままの私でいられるように、変ることから救ってください。」と言っているのです。「あの人を赦すことから救ってください。(赦したくありません。)」「この必要のために自分を捧げることから救ってください。(自分を捧げたくありません。)」と言うのです。

自分は変わりたくないのです。あなたの都市や国が変革されるのを見たいのであれば、あなたが変わらねばなりません。あなたが変るためにはあなたの心が変えられなければなりません。それは即ち十字架の弟子になることです。

イエスはご自分の十字架について話される前に「弟子たちが各々自分の十字架を負う」ことを話されました。「わたしに従いたいならば、又わたしのように生きる力を得たいならば、十字架を負いなさい。」と言われたのです。「あなたの人生を変え、世界を変革させるためには、自分の古い命を捨て、古い生き方を捨てねばならない。」と主は言われました。ただ否むだけではなく、十字架にかけねばならないのです。

 

「十字架」と聞くと、それは私たちにとってまるでペンダントやイヤリングというアクセサリーのようです。でも皆さん、一世紀には十字架は地獄のシンボルでした。天国のシンボルではありません。十字架はローマ帝国のテロリズムのシンボルでした。十字架上の死体は鳥や犬がその肉を食べるままに放置されたのです。町の近くの人通りの多いところにさらされ、ローマに対して反逆しないようにという戒めとして用いたのです。

ですからイエスが「あなた方も自分の十字架を負いなさい」と言われたとき、弟子たちは全く意味がわかりませんでした。十字架を通してのみ得られる王国、力、栄光を悟れなかったのです。神の御国への近道はありません。十字架こそがその道です。パウロはピリピ3:10で「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。」と言っています。「キリストの苦しみ」にあずかることなしに、栄光への道はありません。

 

「十字架を負う」というと、「自分の身に起きた惨めな辛いことをがまんして耐えて行くこと」だと解釈されがちですが、そうではありません。自分でそれを選びとって進んで背負うということです。イエスはヨハネ10:18で「だれも、わたしからいのちを取るのではありません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」と言っています。啓示により、その十字架を負うことによって栄光へと導かれることを知るのです。十字架は神への従順の代価です。

 

「古い人を十字架につける」と言うとき、それはあなたの夫のことではありませんよ。横にいる夫をつつかないでくださいね。(笑)古い人とはあなたの中にある古い性質です。神はあなたの古い人を癒したり、改善したりしたくはありません。神はあなたを「もっと良くしたい」のではなく、「もっと死んでほしい」のです。そしてあなたの人生に真のイエスを表したいのです。イエスは「罪を否みなさい。」とは言わず「自分を否みなさい。」と言っているのです。「自己を否む」とは「自分と完全に縁を切る」ということです。罪は自己に付着していますから、自己を否むことなしに罪からの解放はありません。

古い自己は決して良くなることはありません。古い自己を改善しようとすると宗教的になるだけです。古い自分を十字架につけて、神の新しい性質をそのかわりに生きていただくのです。私が十字架につく度に、私が死んでイエスが生きるのです。これが十字架の力です。地獄のシンボルであった十字架は、イエスが担がれた故に地上の天国のシンボルに変ったのです。あなたが神の召しに従い十字架につき、古い人を殺すならば、それはあなたにとって地獄の体験ですが、そこにイエスのいのちが現われて、天国に変ります。

 

第二コリント4:7「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでなかことが明らかにされるためです。」

 

自分から出る力というものがあります。人をコントロールし操縦する力もあります。広告や宣伝はその力を使っています。しかしパウロはそのように自分から出る力ではなく「神の力」を求めているのです。神の力を完全に与えるために、神は私たちを「完全に弱く」する必要があります。パウロは弱くされた体験を証しています。

第二コリント4:8−12「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たち身において明らかに示されるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」

 

「イエスのいのち」こそ私が求めるものです。代用品はいりません。「イエスのように見えるけれど、フランシスのように考える」のはご免なのです。パウロは苦しみ、途方にくれ、迫害され、倒された経験を語っていますが、それはパウロを弱めるための神の業であるのです。それによってパウロの力ではなく、神の力が働くようにされたのです。天はあなたを弱め、殺すように計画しています。あなたが働けなくなったとき、神が働かれます。モーセが雄弁さをなくし、どもるようになったときに神は彼を用いることができました。それが十字架の業です。

 

アメリカは発明の国で、すべてのものを発明します。この世は、すべてのアイデア、機械、道具、プログラム、技術、スタイル等々で満ちています。神はそのすべてを滅ばされるのです。礼拝に神が来なくて臨在がないとき、はたして私たちはそれに気がつくでしょうか。神はアメリカのやり方、即ち「ああしよう、こうしよう、こうすればいいんじゃないか」と人間的に知恵をしぼって新しいプログラムや方法を取り入れることをすべて取り除き、「新しいいのち」を与えようとしておられます。それは即ち「古いいのち」が終ることを意味します。

パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」と言っています。パウロが苦しみや迫害に会ったとき、イエスがしたように自分のいのちを捨てて、イエスのいのちが明らかに現れるようにしたのです。パウロに襲った苦難を神はすべて益とされました。(続く)


03 06月

神との真の結びつき(そのニ) ショーン・ボルツ   2019年6月3日  


神との真の結びつき(そのニ)

 

ショーン・ボルツ(Bolz Ministries)

 

 

 

キリストのマインドを持つとは

 

15年ほど前から広く知られるようになったある神経生物学的真理があります。それは、「もし二人の人が素晴らしいことや真理、信仰に一致すると、二人の脳の中で細胞が輝き燃え活発になり、同時に反応した神経細胞(ニューロン)はまるで繋がっているかのように呼応する。そして一方が言うことに対して、もう一方の人は『そうだ、それは真実だ、それが真理だ』と認識反応できるようになる。」というものです。

 

一体どういうことでしょうか。それは私の脳の神経細胞の分布がもう一人の人の脳のように造られ配置されるということです。あなたの思考がもう一人の人のようになってくるというのです。ですからあるグループの中で人々が一緒に時を過ごしていると、彼らの文化やアイディア、物の捉え方を生み出し、みんなの脳の配線が同じようになって行くのです。

 

それは指紋のように一人ひとり違うものではなく、みんなの脳の中は同じような配線になるのです。ですからクリスチャンの脳はみんな同じアイディアを分かち合うように配線されています。それは神経細胞が一緒に反応するので、同じように造られ配線されるからです。

 

すごいですよね!それは即ち聖霊からイエスの深い思いを教えてもらって、あなたはイエスと同じマインドを持つことができるのですよ。私たちは自分の霊の中に実際にキリストのマインドを持つことができるのです。私たちもイエスのように考え、御父とイエスと一つになるようにと訓練されているのです。すごいではありませんか。

 

神経学的に二人が一致したときに出されるエネルギーは、一人だけの時よりも40~60%くらい多いのです。ですから数人が一つのアイデアで一致したときには、すばらしい力が出るのです。

第一コリント2:16「いったい『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心(mind of Christ)があるのです。」

 

私たちが「キリストの心(mind))を持ち、キリストと同じように物事を捉え考えることができるとは何とすばらしいことでしょうか。神経学的にこの真理を理解するならば、あなたは神と同じようなマインドを持つことをもっと求めるようになるでしょう。

 

ソロモンが求めたもの

 

神はソロモンに現れて、何を望むかと訊かれました。彼は富を願わず、立派な王になることさえ願いませんでした。ソロモンが願ったのは「Shama」でした。この言葉は通常「知恵の心、善悪を判断する心」と理解されています。しかしユダヤ人には「Shama」がどれほど重要であるかが分かるのです。それは「神がプロセスする(物事を受け止め考え処理する)のと同じようにプロセスする能力」という意味です。今、私たちはスポーツやビジネスで能力のある人の教室に通ったり、オンラインのクラスを取ったり、彼らの著書を買ったりして、莫大なお金を使って彼らのプロセスを学び成功の秘訣を知ろうとします。

 

しかし、私たちはお金を払わずに神のプロセスを学ぶことができます。そして神はご自分のようにプロセスしたいと願う者がいることを本当に喜ばれます。それは神は人間をそのようにもともと創造してくださったからです。

 神がソロモンの願いを非常に喜ばれたことは聖書からわかります。知恵の心と判断の心に加えて、神は彼に王たちの中で一番の富と誉れを与える約束をしてくださいました。

世界中の人がソロモンの心・マインドがどのように物事をプロセスをするかを見るためにやってきました。彼を見るとき、それはまるで神を見ているようだったのです。

 

ダニエルと友人たち

 

ダニエルとその友人たちのことを考えてみましょう。彼らは知識とあらゆる文学を悟る力と知恵を与えられていました。ダニエルはすべての幻と夢を解くことができました。それは神の御霊からきていたのであり、学問とか経験、教育から得たものではありませんでした。彼らは 神から直接与えられる知識や知恵(madda)を与えられ、 神のように考える能力を受けたのです。

 

ニューエイジ思想の人たちはこのために莫大なお金を使っています。しかし「神の知識と知恵」を得る道は、イエスの十字架の業を通して聖霊によって私たちに自由に与えられています。私たちは神と一つになり、 今までとは違う道を選びとり考え方を変えることによって、神にある人生を歩むことができるのです。

私たちがキリストのマインドで生き始め、神と一つになるならば、人々がイエスの言葉を聞くためにイエスの回りに集まったように人々は私たちの言葉を求めて集まってくるようになるでしょう。そしてあなたは職場や家族、社会の中で好意を持たれ、人々は「どうしてそんなことができるのですか? そんなことは学校では学ばなかったでしょうに。」と言うのです。

あなたは他の人よりもよいアイデアで貢献できるので、いろいろなチャンスを与えられます。あなたは神の知恵と知識の霊で満たされ、世界はあなたに、教育、政治、平和、国際問題等に関する多くの質問をするようになるでしょう。

人間の知恵と知識は、たとえそれがすばらしいものであっても限界があります。でも神は独特の計画、独特の考えを持っておられるので、常に素晴らしいユニークなものを与えてくださるのです。

 

そして私たちが神と一つになるとき、それは私たちの内に愛を溢れさせ、その愛によって物事を別の目で見ることができるようになり、世界に別の解決方法を提供することができるのです!(終り)


03 06月


神との真の結びつき(そのニ)

 

ショーン・ボルツ(Bolz Ministries)

 

 

 

キリストのマインドを持つとは

 

15年ほど前から広く知られるようになったある神経生物学的真理があります。それは、「もし二人の人が素晴らしいことや真理、信仰に一致すると、二人の脳の中で細胞が輝き燃え活発になり、同時に反応した神経細胞(ニューロン)はまるで繋がっているかのように呼応する。そして一方が言うことに対して、もう一方の人は『そうだ、それは真実だ、それが真理だ』と認識反応できるようになる。」というものです。

 

一体どういうことでしょうか。それは私の脳の神経細胞の分布がもう一人の人の脳のように造られ配置されるということです。あなたの思考がもう一人の人のようになってくるというのです。ですからあるグループの中で人々が一緒に時を過ごしていると、彼らの文化やアイディア、物の捉え方を生み出し、みんなの脳の配線が同じようになって行くのです。

 

それは指紋のように一人ひとり違うものではなく、みんなの脳の中は同じような配線になるのです。ですからクリスチャンの脳はみんな同じアイディアを分かち合うように配線されています。それは神経細胞が一緒に反応するので、同じように造られ配線されるからです。

 

すごいですよね!それは即ち聖霊からイエスの深い思いを教えてもらって、あなたはイエスと同じマインドを持つことができるのですよ。私たちは自分の霊の中に実際にキリストのマインドを持つことができるのです。私たちもイエスのように考え、御父とイエスと一つになるようにと訓練されているのです。すごいではありませんか。

神経学的に二人が一致したときに出されるエネルギーは、一人だけの時よりも40~60%くらい多いのです。ですから数人が一つのアイデアで一致したときには、すばらしい力が出るのです。

第一コリント2:16「いったい『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心(mind of Christ)があるのです。」

 

私たちが「キリストの心(mind))を持ち、キリストと同じように物事を捉え考えることができるとは何とすばらしいことでしょうか。神経学的にこの真理を理解するならば、あなたは神と同じようなマインドを持つことをもっと求めるようになるでしょう。

 

ソロモンが求めたもの

 

神はソロモンに現れて、何を望むかと訊かれました。彼は富を願わず、立派な王になることさえ願いませんでした。ソロモンが願ったのは「Shama」でした。この言葉は通常「知恵の心、善悪を判断する心」と理解されています。しかしユダヤ人には「Shama」がどれほど重要であるかが分かるのです。それは「神がプロセスする(物事を受け止め考え処理する)のと同じようにプロセスする能力」という意味です。今、私たちはスポーツやビジネスで能力のある人の教室に通ったり、オンラインのクラスを取ったり、彼らの著書を買ったりして、莫大なお金を使って彼らのプロセスを学び成功の秘訣を知ろうとします。

 

しかし、私たちはお金を払わずに神のプロセスを学ぶことができます。そして神はご自分のようにプロセスしたいと願う者がいることを本当に喜ばれます。それは神は人間をそのようにもともと創造してくださったからです。

 神がソロモンの願いを非常に喜ばれたことは聖書からわかります。知恵の心と判断の心に加えて、神は彼に王たちの中で一番の富と誉れを与える約束をしてくださいました。

世界中の人がソロモンの心・マインドがどのように物事をプロセスをするかを見るためにやってきました。彼を見るとき、それはまるで神を見ているようだったのです。

 

ダニエルと友人たち

 

ダニエルとその友人たちのことを考えてみましょう。彼らは知識とあらゆる文学を悟る力と知恵を与えられていました。ダニエルはすべての幻と夢を解くことができました。それは神の御霊からきていたのであり、学問とか経験、教育から得たものではありませんでした。彼らは 神から直接与えられる知識や知恵(madda)を与えられ、 神のように考える能力を受けたのです。

 

ニューエイジ思想の人たちはこのために莫大なお金を使っています。しかし「神の知識と知恵」を得る道は、イエスの十字架の業を通して聖霊によって私たちに自由に与えられています。私たちは神と一つになり、 今までとは違う道を選びとり考え方を変えることによって、神にある人生を歩むことができるのです。

私たちがキリストのマインドで生き始め、神と一つになるならば、人々がイエスの言葉を聞くためにイエスの回りに集まったように人々は私たちの言葉を求めて集まってくるようになるでしょう。そしてあなたは職場や家族、社会の中で好意を持たれ、人々は「どうしてそんなことができるのですか? そんなことは学校では学ばなかったでしょうに。」と言うのです。

あなたは他の人よりもよいアイデアで貢献できるので、いろいろなチャンスを与えられます。あなたは神の知恵と知識の霊で満たされ、世界はあなたに、教育、政治、平和、国際問題等に関する多くの質問をするようになるでしょう。

人間の知恵と知識は、たとえそれがすばらしいものであっても限界があります。でも神は独特の計画、独特の考えを持っておられるので、常に素晴らしいユニークなものを与えてくださるのです。

 

そして私たちが神と一つになるとき、それは私たちの内に愛を溢れさせ、その愛によって物事を別の目で見ることができるようになり、世界に別の解決方法を提供することができるのです!(終り)


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