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Walk With God Ministries


24 04月

イエスと同じ「栄光」               ジョン・キスホルム(カンサスIHOP)              2017年4月24日


イエスと同じ「栄光」

 

ジョン・キスホルム(カンサスIHOP)

 

出エジプト33:18−20

すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

 

 

出エジプト34:5−7

主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代、四代に。」

 

モーセが「あなたの栄光を見せてください」と願ったとき、神は「わたしの栄光とはわたしの善(goodness)である」と言われました。これは私にとって衝撃的な言葉です。神はどのような栄光でも見せることができるにもかかわらず、「わたしの栄光はわたしの善であり、あわれみ深く、情け深いことである」と言われたのです。

 

私は5ヶ月前に急激な痛みに襲われました。

色々な検査をした結果、医師たちは胆のうの切除手術に踏切りました。そればかりか、私の内臓には他に色々な問題が発見され、それらの処置のため手術は予定より長時間にわたりました。

私が目を覚ました時に見たのは大勢の医者や看護士でしたが、その一人が「しばらくは辛いと思います。」と言いました。病室に戻りましたが、気持がひどく動揺し、私は泣き出してしまいました。痛みがあるだけでなく、一体何が起こっているのだろうという不安で一杯だったのです。妻の祈りによって少し落ち着きを取り戻しましたが、まだ心からの平安はありませんでした。

 

朝の3時ごろ、病室に主の臨在が訪れ、私を覆いました。「ああ、来てくださったのですね。本当に気持がいいです。主よ、私の状態はあまり良くないのです。助けてください。でもあなたが来てくださったのですからもう大丈夫ですね。」と私は言いました。主の臨在の中で私は幸福でした。すると主は私に一つの質問をされました。「ジョン、わたしと同じくらい情け深くなりたいですか?」私は出エジプトの箇所がずっと心にありましたので、「勿論です。そうなれたら本当にすばらしいです!」と答え、これは何と麗しい主の招きだろうかと思いました。しかし、続けて主が語られた言葉は厳しいものでした。「ジョン、そうなることを阻んでいる問題があなたにはあるのです。」と主は言って、私の人生の人間関係の中で正しくない点を一つひとつ列挙されたのです。私が不安から正しくない動機で行動したこと、私の忍耐不足が周りの人に与えた悪影響、私の勝手なゴールが主のゴールを邪魔していること等を主は話されました。

そして「ジョン、それは正しいことではありません。 It is not right.」と言われたのです。

朝、医者が病室に来て「あなたは非常に病んでいたのに、それを知らないで過ごしていたのです。」と言いました。胆のうが化膿して、それが肝臓や膵臓に広がっていたので、すべてを清浄し抗生物質で処置せねばならなかったということでした。私の内臓がひどい状態であり、重く病んでいたにもかかわらず、痛みが来るまで私は全く知らなかったのです!

 

主は、それと同じように「正しくないこと」が私の内面に満ちていたにもかかわらず、私がその事に一つも気付いていなかったことを、今示してくださったのです。「あなたは自分で思うよりもずっと病んでいるのです。」と。そして一つひとつの人間関係における私の過ちを指し示し、「ジョン、正しなさい。

直しなさい。」と言われたのです。「わたしと同じように情け深くなるためには、それらが妨害しているからです。」と。

主に自分の間違っているところを指摘されるのが、どれほど苦痛であるのか、どれほど圧倒されることであるかをお伝えする言葉があれば...と思います。主に言い返す言葉はありません。主の見解が正しいのです。主は私の間違いをはっきりと示されました。本当に苦しかったです。聖書には主は愛されるものを訓練される、私たちは息子であるからこそ、御父から訓戒される、とあります。今振り返ってみれば、「主よ、感謝します」と言う事ができますが、その時私は本当に打ちのめされてしまいました。

 

その時主がやさしく「恵み、恵み」と言われたのです。このゼカリヤ4:7の言葉は「心配しなくていい。万事うまくいくよ。」ということではありません。恵みとは神のいのちと力であり、私たちが自分の召しにふさわしい者となり、任務を遂行できるように助けるものです。主は「あなたはこのままではいけない。変らねばならない。でもわたしは助けるよ。」と言われたのです。

 

主は私が修復すべき人間関係を一つひとつ示されました。そのうち二つだけをお話しします。

ここ(カンサスIHOP)で一緒に仕事をしているトレイシーさんとの関係がうまく行かなくなっていました。私は立派なクリスチャンですから、ほとんどは彼女の責任だと思っていました。(笑)今は笑うことが出来ますが、主がそれを示された時は、私は「ああ、何ていう事だ..」と驚き心を刺されました。主は「彼女との関係を正しくしなければいけません。わたしはあの女の人を愛しています。

あなたの彼女の取り扱い方は、わたしにとって『それでよい』とは言えません。

あなたは彼女と働き始めたとき、自分のゴールややり方を押しつけ、あたかも彼女があなたにとって邪魔者であるかのように感じていました。」と言われました。

 

私がトレイシーさんのところに行って謝るのは簡単ではありませんでした。でも私は彼女にすべてを話し、赦しを乞い、主が「わたしはあの女の人を愛している」というパワフルな言葉を告げねばなりません。あなたとうまく行っていない人を主がどれほど愛しておられるかを知るのはとても大切です。そして、私はトレーシーさんと過去2年間のことを泣きながら話しました。

主が「ジョン、わたしは善であり、あわれみ深く、情け深い主です。わたしはあなたを赦します。あなたがわたしと同じくらい情け深くなることを願っています。」と言われました。

 

主が示された事のもう一つは私とヴィンヤード教会との関係でした。12年前に私はヴィンヤードを出たのですが、その去り方を主は「正しくなかった。」と言われました。その教会で問題が起きたとき、私は「自分はあくまでも正しい」という態度で通し、最終的に教会を去り、「それでよかった、自分に落ち度はなかった」と思っていました。しかし、主は「その時のあなたの心の動きをわたしは『それでよい It’s O.K.』とは言えません。主任牧師夫妻に会って謝りなさい。」と言われたのです。

ですから私はヴィンヤード教会に出かけて行きました。もう10年以上も会っていない人達でした。一体相手はどう思うだろうか、どういう反応をするだろうか、と不安でした。トレイシーさんは私が話したとき、大変情け深く対応してくれたので、勇気づけられてはいましたが、今度はどうか分かりません。主は「わたしはあなたをわたしのようになるように招いています。でもそのためには、わたしにとって『そのままではよくないこと It’s not O.K.』をなくさねばなりません。それが問題であることをあなたは認めねばなりません。わたしは恵みをもってあなたを助けます。」と言われているのです。そして私が主に従って彼らに会ったとき、主はそれをすばらしいものとしてくださいました。

ヨハネ17:22−23「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」

 

「あなたがわたしに下さった栄光」という言葉に私は打たれました。「栄光」とはなんでしょうか。神はイエスにどのような栄光を与えられたのでしょうか。先の出エジプト記の箇所から、私たちはそれが「善、憐れみ深さ、情け深さ、恵みとまこと、人を赦すこと」であると学びました。神はそれと同じ栄光を私たちに与えたいと願っておられるのです。私たちがその栄光をまとって歩むとき、世の人々は私たちを見て「一体何が起こっているのだろう。彼らの関係は何と麗しいのだろう。

どうしてあんなに一致できるのだろう。」と私たちの周りに引き寄せられてくるのです。私たちが主が望まれたように「一つ」になるためには、どのように変らねばならないのでしょうか。

 

「栄光」と言うと、私たちはしるし、不思議、奇蹟の中を歩むことだと思い勝ちです。天使の羽根や金粉が落ちてくることだと思うのです。しかしイエスが願われることは、私たちが善をもって、憐れみ深く、情け深く、人を赦して歩むことであり、それこそが「イエスと同じ栄光」であり、主はそのお手本を示してくださいました。主が私たちを取り扱われるときに、いかに「栄光」に満ちておられるか、即ち、いかに恵み深く、憐れみ深いかを見てください。そのような主を見上げるとき、私たちの心は感動し、変えられます。

プライド、赦さない思い、自分の目標や動機は絶対正しいという思いを、私たちはすぐ抱いてしまいます。その時、主は「私の意見はそれとは違います。」と言われるのです。

私たちはみんな「自分の意見」を持っています。しかし「主の意見」の前ではそれは何の価値もないのです。「主の意見」だけが重要であり、それはほとんどの場合「私の意見」とは劇的に違うのです。

どうか皆さんも自分の人間関係でひずみがあるところを調べてください。そして「主よ、これに関してあなたのご意見、お考えはどうでしょうか?」と尋ねてみてください。主は恵みをもって、あなたを助けてくださいます。

 

「恵み、恵み」と聞くと、ある人々は、「私たちはすでにイエスの血潮で赦されているのだから、何をしても赦されるし、このままで受け入れられている。」と言います。しかし主は「そのままではよくない。It is not OK」と言われます。家族に関していえば、私は結婚して38年ですが、妻はすばらしい人であり、結婚生活は非常にうまく行っています。しかし主は時々私の妻の取り扱い方がよくないと言われました。また子どもが5人いて、互いに愛し合っていますが、彼らとの関係においても私が変るべきところがあると主は言われます。更に、私たちの霊の家族であるアメリカの、そして世界中のキリストのからだの人たちとの関係においても、今こそ「イエスが持っておられるのと同じ栄光」を表して行く時です。

 

「憐れみ深い」というのは、人の間違っているところに目をつぶって「いいよ、いいよ。」ということではありません。聖書はそうは言っていません。でも人を訓戒するときに、どのような心で、どのような言葉、どのような態度でするかが鍵なのです。誰かを訓戒しなければならない時に「情け深くある」ことは、非常に難しいことです。そんな時私たちはイライラし、心の中で「これは絶対悪いことだ、問題はこの人にある、それを伝えねばならない、しかし彼はそれがわからない、もっと大声で言わねばならない、語気を強めねばならない」とエスカートするのです。でも主は「違う!憐れみ深くありなさい!」と言われます。

 

今世界が混乱し、人々の心がすさんでいるとき、私たちは「主の栄光」を表していかねばなりません。主は「わたしが助けます。恵みあれ、恵みあれ。」と言ってくださいます。(終り)


17 04月

家族の祭壇の回復   チェリル・サックス(ブリッジビルダーズ・インターナショナル)      2017年4月17日


家族の祭壇の回復

 

チェリル・サックス(ブリッジビルダーズ・インターナショナル)

 

1992年のアリゾナ州フィニックでのカンファレンスは、私も講師の一人でしたが、「リバイバルをもたらすために私たちは何をすればよいか」というのがテーマでした。私が話し終えて、ステージの後ろに立って主の導きを待っていたとき、主がはっきりと「家族の祭壇が回復される時、リバイバルがアメリカに来る」と語ってくださいました。それはあまりにもシンプルすぎる事だったので、私にはピンと来ませんでした。私は主にもう少し詳しく説明を求めました。その時、ある人がマイクの前に進んで私が今主から聞いた言葉をそのまま言ったのです。「主よ、どうかアメリカに家族の祭壇を回復してください。」私は非常に驚きました。そしてこれが本当にリバイバルの鍵であると確信したのです。

 

「祭壇」とはなんでしょうか? 旧約においては、人々は神を礼拝するために木や石で祭壇を築き、動物の生け贄をささげました。しかし私たちは最早生け贄は必要ではありません。私たちにとって祭壇とは、神を礼拝し賛美を捧げ、神と出会う場所です。ですから「家族の祭壇」とは、家族が共に集り、礼拝し、聖書を読み、祈る時を持つことです。

1800年代から1900代にかけて、アメリカでは毎晩家族が集まって共に主を礼拝し祈ることは普通に行われていました。彼らは互いのため、町のため、国のために祈ったのです。主の臨在が家庭の内に色濃くありました。今私たちが生かされている時代に、この習慣を取り戻すことは非常に大切です。私たちがこれから直面する厳しい時代に備えるために、「家族」は主からの特別の任務を与えられているのです。主は私たちに語り、力と勇気を与え、導いて家族が何をどのようにすれば良いのかを教えてくださり、困難の中でも勝利へと導いてくださいます。

 

神は家族に計画を持っておられます。リバイバルに関して考える時、私たちはリバイバルのために家族が持つ力を過小評価してしまっています。このカンファレンスでも私は「家族」という言葉を一度も口にしませんでしたし、他の講師からも聞きませんでした。しかし家族は神が定められた最初の制度であり、大切な任務を持っているのです。社会にある「七つの山」の一つである「家庭」は、人々が社会の各分野に出て行き影響力を持てるように調え備える場所です。

 

神は家族を回復させ、家族の中に住まわれ、ご自分の力が家族の中で現れるのを願っておられます。イザヤ56:7に「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」とありますが、普通この「家」とは教会のことだと解釈されています。しかし、教会に集っている人達が家族の祭壇を築いていなければ、どうして教会が祈りの家になれるでしょうか。「共に祈る家族はバラバラにならない。The family that prays together stay stogether.」という古い言葉は今も真理です。皆さんの「家族」がどのような形の家族であっても、神はそこに祭壇を築くようにと導いておられます。マタイ18:20に「ふたりでも三人でも、わたしに名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とあります。私たちの家族の中に主がおられるのは何とすばらしいことでしょうか。家族が共に礼拝し祈るとき、主の臨在をお招きすることができるのです。

家族礼拝により私たちは子どもたちに祈りの大切さを教えることができます。夫婦が祈る姿を子どもが見ることは非常に重要です。これからの時代に子どもたちが直面する問題や誘惑は、私たちの想像を越えるものがあるでしょう。私たちは親として、或いは祖父母、叔母、叔父として、子どものために祈り、子どもと共に祈り、子どもにも祈ることを教えていかねばなりません。一人で住んでいる人も、家族のために、また教会の家族のために祈る祭壇を築けるのです。祈りの活動のために全国を飛び回っている人が、家族の祭壇を築くのを怠っていることがあります。これは敵の策略です。

 

家族の祭壇を築くには、まずみなが集りやすい時間を決めます。それは週に一度1時間でもいいし、毎日15分でもいいのですが、それをキチンと決めて皆で同意します。確かに家族はどこでもいつでも祈れますが、意図的に一定の時を設定することは非常に力があります。私の家族はそれをずっと実行してきましたが、娘が独立して夫婦だけになった時、なんとなくそれをおろそかにしていました。しかし最近また主に示されて、二人で祈るときを持ち始めました。聖書を読んだり、主から教えられたことをシェアしたり、キリスト教の本を一緒に読んだりもします。又、二人で黙って主に聞く時も持ちます。

主に聞くことは非常に大切です。コロラドの牧師がある時、「家族を皆車に乗せてすぐに家を出発しなさい。」と主が言われるのを聞いたので、それに従いました。彼らが家から3時間あまり運転したとき、激しい嵐がコロラドを襲い、彼らの家は押し流されたのです。家が建っていた土地も流されて、もう家を建て直すこともできませんでした。私は彼にそこを案内されたのですが、全く何も残っていませんでした。私が彼に「本当にお気の毒ですね。」と言うと、彼は「とんでもありません。主が語ってくださり、家族が助かりました。私は感謝しています。」と言いました。これからは、主の声を聞くことが生死にかかわる時代に入ると思います。

 

私の友人夫婦は毎週火曜日に子どもたちの家族を招いて一緒に夕食を食べ、その後で家族の祈りの時を持っています。彼らの義理の娘は医者ですが、ある時「私の患者に奇蹟的な癒しが起こるように。それによって彼らの心が神に向くように。」という祈りのリクエストを出しました。家族全員で祈った結果、奇蹟が起り始めたそうです。

家族の祭壇で子どもを祝福することができます。子どもたちが両親の祝福を受けるのはすばらしいことです。ウガンダである牧師が孤児たちのために祝福式をしたとき、子どもたちの列がいくら祈っても短くならないので、よく見てみると一度祝福してもらった子が何度もまた列に並んでいたそうです。それほどに彼らは祝福されることに飢え渇いていたのです。

祭壇はまた癒しの場でもあります。私は「自分の家庭は癒しなど必要のない完全な家庭にする!」と思っていました。私の父親はアルコール中毒者で、家の中には問題が耐えませんでした。夜ベッドに入ってから両親が口論をしているのをいつも聞いていました。ですから、「私は立派なクリスチャンと結婚して、子どもが絶対に両親の言い争いを聞かなくていいようにする」と決意したのです。ですが、残念ながらそういうわけにはいきませんでした。(笑)

 

私はアメリカ南部の出身で、問題があっても目をつぶって出来るだけ穏やかに暮らしたい性格です。しかし夫はボーンアゲインしたユダヤ人ですが、何でもズバズバとはっきりものを言う人です。ですから私たちはいつも口論し、時としてそれはかなり激しいものとなりました。ある時、主人と娘が不在の時、私は娘の部屋のベッドに座り、「主よ、娘に私たちの口論を聞かせたくなかったことをあなたはご存知です。」と言って泣き始めてしまいました。すると主は

「チェリル、完全な家庭などないのです。あなたの今までの間違いや破れを用いて子どもを教えることができるのですよ。あなたの娘が人生の問題にどのように対処すればよいかを教えることができます。」と語ってくださいました。私は「主よ、どのようにですか?」と尋ねました。そして私は主から癒しの方法を教えてもらったのです。

 

もし私たち夫婦が言い争いをしたときは、夫は私に対して「私はあなたの人生を傷つけました。どうか私が癒しの器となれるように助けてください。」と言って謝ります。私は彼を赦し、私も赦しを求めて彼に手をおいて祈ります。するとすぐに私たちの関係は修復されるのです。それまでは喧嘩の後は、二人ともそのままにしておいたので、娘は私たちが仲直りをしたかどうかもわかりませんでした。ですから娘は私たちの口論を聞いて心を痛め、傷つき、その後の私たちの関係がどうなっているかを心配しているわけです。ですから私たちは娘の部屋に行き、「私たちが昨夜口論をしているのを聞きましたね。でも私たちはお互いに謝って赦しあい、神も赦してくださいました。あなたを傷つけ不安にさせたと思いますから、あなたのためにも祈らせてください。」と言い、彼女に手をおいて神の癒しを祈りました。神はどのような家族でも癒してくださいます。

 

 

これからの時代は、信仰と祈りで生きることが必要ですが、家族の祭壇において

「神は必要を必ず満たしてくださる」という真理を学び体験していくことができます。天の通貨はドルではなく、信仰です。私たちは金銭ではなく信仰によって神からすべてのものを与えていただく信仰を子どもたちに教えていかねばなりません。

私たち夫婦がミニストリーを始めた頃、食べ物を始めとしてすべて必要なお金は必ず神が与えてくださるという信仰で生活し始めました。ですから娘も私たちと同じように神にすべての必要を拠り頼む信仰を持たねばなりませんでした。例えば学費とかイースターのドレス、ミッション旅行の費用とかです。私たちが神に不可能はないことを教えていくことによって、娘は自分のデスティニーに必要な信仰を与えられ調えられていきました。娘は祈りの祭壇で経験した神の力を、友達にも教えはじめました。彼女は地域の教会のすべてのユースパスターに連絡をして700人ほどのユースを集め、祈りの会を開き、フィリピンの人身売買の犠牲になっている女性のために祈る働きもするようになりました。

 

また家族の祭壇で、主の守りを祈ることができます。家族の周りを主に囲んでいただくのです。私は詩編91編を家族のために祈りました。また、主は出エジプト12:13「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトを打つとき、あなたがたに滅びのわざわいは起こらない。」を示してくださいました。今私たちは霊的に自分の家(自分の結婚、子ども等々)の門柱とかもいにイエスの血を塗らねばなりません。

 

又、家族の祭壇は霊的戦いの場でもあります。ある牧師が「家族の断食 family

fast」について話してくれました。彼の家族で何か危機的なことが起こったときは「家族の断食」を何度もしたそうですが、その中の一つの例を彼は話してくれました。

彼の妹夫妻と二人の子どもはある街に住んでいたのですが、夫が職をなくしました。夫は仕事が見つらずにとても落ち込んでしまいました。そこで彼らはとにかく親戚のいる別の街に移ることに決め、妻と子どもだけが先に引っ越して、夫が来るのを待っていました。ところがいくら待っても夫は来ることはなく、電話もなかったのです。妻は二人の子どもを抱えてお金もなく途方にくれました。周りの人は「夫はあなたを捨てたのだから離婚をするように」勧めました。しかし牧師夫妻の家族全員は、皆で断食をすることにしたのです。牧師夫妻と妹、そして彼らのティーンエイジャーの子どもたち、祖父母、兄弟、姉妹、叔父、叔母、姪、甥、従兄弟など、全員が家族で断食をしました。

そして、その後しばらくして夫は戻ってきたのです。彼は違う女の人と関係を持ち、妻に戻るつもりはありませんでした。彼は自分のした事を非常に恥じていましたが、家族のもとに戻ってきたのです。すばらしいことに彼は夫として、又父親としての立派なお手本のような人になり、地域の子どもたちの野球のコーチとしても活躍したのです。壊されたかけた家族が全く変えられました。これは家族の断食に神が応答してくださったのだと信じます。

 

又、家族の祭壇は国のリバイバルのために祈る場所でもあります。アメリカの全家庭がリバイバルのために毎日祈るならば、どんな事が起こるだろうかと思います。神はきっとものすごいことをしてくださると信じます。そして又、どこかでリバイバルが始まるだけではなく、神は私たちをリバイバルのために用いてくださると思います。私たちの家庭が神の栄光の倉になるのです。私はアメリカ中の家の祭壇で火が燃えているヴィジョンを見ました。レビ記6:12に「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。」とあります。また私は、家の祭壇の火が他の家の火と一つになるのを見ました。

 

私たちの家の祭壇でリバイバルの火を燃やし続けたとき、娘がその火を受けました。彼女は家が祈る子どもたちで満ちているヴィジョンを見たのですが、それが現実になり、学校の帰りや土曜日に大勢の子どもたちが家に来て、神に祈ったのです。ある日娘は「お母さん、私は百万人の子どもがワシントンDCで集会しているヴィジョンを見たのよ。」と言いました。しばらくしてからルー・イングル師と出会ったときに、彼が同じヴィジョンを持っていることが分かり、娘はそのために学生担当として働くことになったのです。そして2008年に「The Call D.C.」が実現しました。

 

しかし、このような家の祭壇を持たない子どもたちも沢山おります。私たち教会は一つの神の家族として、彼らのために教会に祭壇を築かねばなりません。そして彼らが信仰を確立し、自分のデスティニーにむかって調えられ進んでいけるようにせねばなりません。(終り)


10 04月

あなたの収斂(コンバージェンス)の時      ランス・ウオルナウ    2017年4月10日


あなたの収斂(コンバージェンス)の時

 

ランス・ウオルナウ

 

  「収斂・収束(コンバージェンス convergence)」とは暫次集合することであり、複数の事が次第に一点に集まってくることを表しますが、教会では5年ほど前から使われるようになりました。「デスティニー」は90年代からずっと用いられていますが、それに加えて「収斂」という言葉が使われ始めました。自分のデスティニーに到達するためには、幾つかの事がそれに向かって集まってくる必要があるのです。

 

収斂とは、 生まれる前からあなたのために用意されていた仕事と出会い、そこであなたの能力を100%発揮できる時を人生の中で迎えることです。

収斂とは、神があなたの人生のために書かれた台本の中を歩み、永遠のキリストの相続の実を実らせるよう神があなたに与えられた任務に人生の焦点を定める時のことです。

あなたが救われた後でするべき最も重要な事は、収斂の時を目指すことです。あなたはキリストの弟子になることを目指していますが、それは即ち、クリスチャンとして収斂の時を目指すことに他なりません。

 

クリスチャンの収斂について30年間研究をした有名な神学校の教授がいます。彼は自分の学生たちの入学時から卒業、そしてミニストリーに入ってからも追跡調査をしました。卒業時に「自分は確かに神の御こころ、神の召しの中を歩んでいると思う」と答えた学生は、驚くべきことにわずか20%でした。私にとって最大の関心事は、クリスチャンはどうしたら収斂に到達できるのか、又、到達できない理由はなにか、を知ることです。残り80%の人たちが自分の召しをはっきりと知り、そこに到達するためのクラスがあったらいいと思いませんか?

この教授と親しく交わる時が与えられましたが、彼はクリスチャンとしての最も崇高な召しは、牧師の召しだという考えを持っていました。しかし私の考えは違います。フルタイムミニストリー、献身、は牧師や教職者に限らないと思います。それはすべて、収斂を達成したクリスチャンができることです。すべての分野において頂点に立つクリスチャンはフルタイムミニストリーをすることができるのです。社会の各分野で最高の能力を発揮して大きな影響力を持ち、神の御国を拡大することができるのです。義人が社会で力を持つとき、それは教会に勢力をもたらすことができるのです。

 

収斂の5つの要素

 

1.神の主権。(あなたの性別、人種、国籍、家族、家庭環境、才能、性格、生まれた時代、生まれた場所はすべて神が定められた。)あなたは神のご計画のもとに生まれ、神に従って生きる時に勝利の人生を送ることができる。まず自分が置かれているところを調べる。(あなたはすでに神の恵み、特別の愛顧、フェイバーを受けていることが分かるでしょう。)それは神が備えられたあなたの収斂への要素の一つです。

2.霊的形成。これはあなたが主に出会い、あなたの人生に主が介入されたときから始まります。これが収斂への要素の一つであり、神が書かれた台本に従って人生を進み始める第一歩です。

3.賜物の発見とその育成。何かを始めて失敗したとしたら、それは苦手なことを教えてくれる大切な経験です。いろいろと試してみることによって、あなたが得意なこと、上手にできることを発見します。才能を見出し、技術を磨くことが収斂のためには大切な要素です。

4.人間としての成熟。自分はよい仕事ができると思ってもその道が開かれず、思うように次の段階に行けないと感じる時がありますし、結婚、子育て、両親の世話等々も起こってきます。経済的困難も経験するでしょう。そのような時期を信仰をもって耐え忍ぶとき、神に用いられる器へと成長していきます。

 

収斂に辿りつくのを妨げる最大のものは、様々な反対や妨害であり、誰もが経験することですが、収斂のためにはそれを乗り越えねばなりません。もしあなたが途中で負けてあきらめたり止めてしまうならば、神はまた一からやり直さねばならないのです。

聖書のすべての人物は恥や迫害、妨害を忍耐して乗り越えたのです。イエスは昇天する前に「大きな妨害」に合いました。それは十字架であり、人々から見捨てられることでした。しかし主は「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに(ヘブル12:2)」すべてを耐えられたのです。

 

5.習得した技

アップルの創設者であるスティーブ・ジョブ氏は、大学を中退してから、カリグラフィー(習字、文字を秀麗に書く技法)に興味を持ち、それだけを何年も習っていました。それでどうやって生計を立てるのか全くわかりませんでしたが、兎に角、自分が好きなことの技を磨いたのです。そして彼がコンピューターを作り始めたとき、それは多くの書体を用いることができるユニークなものとなりました。アップルはグラフィック・アーティストが最も好むコンピューターとなり、IBMと並んだのですが、それは彼がカリグラフィーの技を習得していたからです。後になって彼は言っています。「いろいろな要素がどのように結ばれて収斂するのか、それはわかりません。ただ自分の情熱を注ぎたいことに全部注いでいくのです。」と。

 

もしあなたがいろいろ始めてもすぐに飽きて止めてしまうならば、収斂に行き着くことはできません。それではあなたが持つ賜物、才能の可能性を最大限に発揮できないからです。一時非常に熱心になったかと思うと直ぐに冷めてしまう人もあります。しかし収斂にまで到達する人は、その事を続けます。上達し進歩して行く間には、必ず「あまり進歩が見えない退屈な時期」にぶつかりますが、その時期を通りすぎると、突然又上昇する時が来ます。何万時間ものコツコツした努力の中で最高の技は磨かれるのです。

このような段階を通るうちに、あなたは「これこそ私がするべきことだ。これが神からの召しだ」という収斂の時を迎えます。

 

ヨセフの人生は収斂のよい例です。彼は逆境に何度も遭いました。エジプトに売られた時に彼は農業と言語を習得しましたが、それは神が彼を後の昇格のために整えておられたのです。ヨセフはそれを知りませんでした。自分は本来あるべき神のご計画から逸れている、自分のいる場所はここではない、と思っていました。しかし、これは非常に重要なことですが、ヨセフはどのような逆境にあっても神の臨在を喜ぶことを知っていたのです。創世記39章には何度も「主がヨセフとともにおられた」と書かれています。それは即ち、彼が苦々しさ、失望、皮肉、混乱等の否定的な思いによって神の油注ぎを遮断してしまう霊的環境が自分に入り込むのを決して許さなかったということです。彼は油注ぎをしっかりと護ったのです。

彼は必ず父の家に帰ることを願い、又信じていましたから、エジプトで自分の身に起こっていることは全く理屈にあっていませんでした。しかしヨセフがデスティニーに向かって整えられていくプロセスを見れば、彼が経験したすべての逆境の意味が私たちには理解できます。

ヨセフの「用意が整った」時、パロの夢を解き明かすチャンスが来ました。神の彼への最高の召しは父ヤコブの牧場ではなかったのです。もしヨセフが父の家に戻っていたならば、兄達との再会場面は惨劇となっていたことでしょう。神のご計画は家に帰りたいというヨセフの祈りを否むことだったのです。

 

ヒットラーの台頭によりイギリスが困難を極めていた時、ウインストン・チャーチルは65歳でしたが、「私が生まれたのは、この時のためであった。私の全てのデスティニーはこの時のためであった。」と言ってエネルギーに満ちて総指揮をとったのです。

収斂の時に来たとき、あなたは力に満ちるのであり、それは年齢とは関係がありません。永遠があなたのために計画したことを収斂のときに実現できるので、あなたはいのちに満ちあふれるのです。

 

収斂の時に与えられた仕事は、神の目的を担う、神の重荷を共に負うことであり、あなたは神のためにそれを成し遂げる最高の栄誉と喜びを受けます。あなたは情熱を持ち、あなたがそれまでに鍛えた技が100%用いられるので生き生きするのです。

 

あなたが犯した間違いは、二度とそれを犯さないための訓練となり、神はそれをも用いてくださいます。神は過去の間違いを贖ってくださり、あなたを用いてくださいます。あなたが自分はもう資格がないと思うことも、神は贖ってくださり、次のシーズンのために用いてくださるのです。

 

 

 

研究によると、収斂は西欧においては50歳をすぎてから起ります。そして最大に機能し貢献するのは、60歳から70歳の間ですが、もし健康であるならば、70歳から80歳が最高に働ける期間となるのです。

 

あなたの人生のすべての要素が、ある時突然一つに収斂し、神の目的のために最高に用いられる時が来て、あなたの人生は意味あるものとなります。

私の祈りは、皆さん一人ひとりがそのような時を迎えられることです。(終り)


03 04月

神のフェイバーが増し加わる ビル・ジョンソン(ベテル教会)      2017年4月3日


神のフェイバーが増し加わる

 

ビル・ジョンソン(ベテル教会)

 

 

「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。」(出エジプト17:11、12)

 

 この話は、身体の姿勢が霊的な力を受けることを表しています。つまり地上で私たちがすることと霊的に起こることが関連していることを示しています。モーセが手を上げている間はイスラエルが優勢でありました。彼が疲れた時には、アロンとフルが両側からモーセの手を支えたので、イスラエルはアマレクを打ち破ることができました。

西欧の教会では信仰生活を内面的なものと捉えて、外面的な要素をおろそかにする傾向が強くなってしまっています。例えば「私の気持は十分へりくだっているから、別にひざまずかなくてもいいのではないか」とか「私の気持はとてもうれしいから、踊る必要はない」とか「信仰を心に持っているから、それを実際に試す必要はない」とか考え、すべてのことを心の中だけですませてしまうのです。しかし、私たちは心の中にあるものを外面に出す必要があるのです。私が妻を心で愛しているから「愛している」と口で言う必要はないのでしょうか?愛を行動で表現する必要はないのでしょうか?私の家庭ではそれは通用しません。心の中は言葉や行動で示す必要があります。それはなぜでしょうか。聖書によれば、私たちの言動は直接的に天で起こることと関連しているからです。

 

次の話はダニエル10章です。ここには私たちが祈るときに目に見えない世界がどのように動くかが書かれています。

ダニエル10:2「そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。」

10:10、11「ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。それから彼は私に言った。『神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣われたのだ。』彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。」

2節に「私は、ごちそうも食べず I ate no pleasant (desirable) food」とあります。このpleasant あるいは desirable とは「好ましい、望ましい」という意味です。次に11節の「神に愛されている人ダニエルよ」という「愛されている」という言葉は、まさに pleasant, desirableと同じ原語が使われています。ダニエルは「好ましく望ましい」食べ物を食べなかった故に、神にとって非常に「好ましく望ましい」者となりました。

「神の愛 love」と「神の特別の恵み、顧み favor」には違いがあります。あなたへの神の愛は四六時中、永遠に変ることがありません。神の愛は、あなたが生まれた時から一定で増えたり減ったりしません。それは完全であり、永遠で絶対的なすばらしい愛です。しかしフェイバーは違います。それは当初恵みとしてあなたが何をしなくても与えられます。しかしその後は私たちがどのように主に仕えて行くかによるのです。「フェイバーを買う」というのは正確な表現ではありませんが、犠牲を伴って得られるものです。フエィバーが増し加えられるのは、すでに与えられているフェイバーをどのように管理していくかによります。

ダニエルはイスラエルに定められている計画の重要性を知り、自分に与えられているすべての「望ましいもの」を捨てて神を求めることを決意し、3週間断食と祈りをしました。その時天使は「神に愛されている人、ダニエルよ。O Daniel, man greatly beloved (desirable)」と言いました。これは増し加えられた特別なフェイバーを意味しています。自分に望ましいものを否み、自分が当然受けるべきものを断念できる人は霊的に成熟している人です。

 

クリスマスプレゼントのためのお金が十分に無い時、親は自分のものは買わないでも子どもたちに何か買おうとします。「大人」はそうします。しかし5歳の子どもは自分の権利を主張します。私たちの霊的年齢は「権利をどれだけ主張するか」によって露見します。皆さんは食べる権利がありますから、食べていいのです。しかし時として私たちは天とパートナーになるのです。

 

「ダニエル断食」をしたことがありますが、拷問でした。全く食べない方が楽だと思いました。通常私のお皿に肉、ポテト、ブロッコリ、人参がのっていたとすると、私はまず人参から始めて、次にブロッコリ、バターを一杯つけたポテト、そしてフィナーレに肉を食べます。少しずつ順繰りに食べるのではなく、好きではないものからやっつけていき、好きなものへと移り、最後に肉を大いに楽しむのです。ですから肉のない食事はグランドフィナーレがなく、失望に終り、非常に惨めです。(笑)

でも主が断食をするように招いておられるならば、私は従います。私たちが地上で神に徹底的に身体をも従わせるとき、神は応答してくださるのです。両手を上げたりひざまずくことは、勿論人に見せるための演技ではありません。ダニエルの断食に対して主が直接的に言及したことは書かれておりませんが、ダニエルの人生に対する神のフェイバーが増し加わったことは確かです。神は「ダニエル、あなたは自分の望ましいものを否んだ故に、わたしにとって非常に望ましい者となった」と言われたのだと私は思います。

ダニエル10:12−13「彼は私に言った。『恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシャの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシャの王たちのところに残しておき、終りの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。』」

この箇所は、「祈りに対する神の応答が届くまでには霊的な闘争が巻き起こるけれども、最終的には答えが届けられること」を表しています。ダニエルは21日間祈っていましたが、一日目にすでに天使は答えをもって出発していたのです。「ペルシャの君」とは、ペルシャを支配している暗やみの力を持つ者のことです。この話は霊的闘争について語っており、私たちが忍耐をもって祈り続ける必要性を教えてくれます。神は最初の日からすでに答えを送ってくださっているのですから、私たちが祈り続けるのは神を説得するためではなく、自分が変えられ、周りの霊的状況が変えられるためであるのです。私たちは祈り、断食しても答えが来ないことがあります。しかしダニエルの姿を見たとき、祈り続ける重要性を疑うことはできません。

神が答えをすでに送られているのに、サタンの妨害によってそれが私たちに届かない場合がどのくらいあるのでしょうか。勿論神は全能の方がですが、神は私たちのためにサタンの妨害をも用いられます。そして最終的にはそれによって更なる神の栄光が現れるのです。サタンはチェスのゲームの駒であり、神は自由に動かすことができるのです。天使と悪霊との戦いはありますが、神がサタンと戦うのではありません。ですから私たちは両手を高く上げ、またひざまずいて私たちの内側を身体をもって表さねばなりません。心の中の感情を外に表すのです。天で霊的戦いが起こっているときに、私たちはそれに影響を与え加勢することができるのです。

モーセは偉大な神の人でしたが、私たちに与えられている聖霊を内には持っていませんでした。バプテスマのヨハネは女から生まれた者の中で一番優れた人でしたが、天の御国の一番小さい者でも、彼よりは偉大です。それは私たちが誇ることではなく、私たちには更に責任が与えられているということです。多く与えられた者にはもっと要求されるのです。

 

教会のリーダーたちが、4月2日から7日間の断食をするように示されたと私は今朝告げられました。(私は今週海外に行っておりましたので、知りませんでした)私はこのメッセージを用意しておりましたので、これは本当に神の御こころだと確信いたしました。私たちは自分に望ましいものを否んで、神の望ましい者とされ、神からのフェイバーを増し加えていただきたいと思います。今私たち教会は非常に神から愛され恵まれておりますから、私が何か問題があると思っているわけではありません。しかし、今の教会は10年前に私たちが祈り求めた地点に来ています。これから神がしてくださろうとしている将来にむかって、神のフェイバーをますます頂くために、新しいブレイクスルーがそこまで来ていると感じています。そのために心を合わせて神を求めようではありませんか。(終り)


27 03月

天が開かれる時    リック・ジョイナー             2017年3月27日


天が開かれる時

 

リック・ジョイナー

 

 

私たちクリスチャンは普通の目に見える世界にいるよりも霊の世界にいる方が一番自然であるべきです。そのようになるために基本的なことを今日はお話したいと思います。イエスは地上におられたとき「わたし、即ち『神』はどのように生きるか」を示されたのではなく、『私たち普通の人間』がどのように生きるべきか」の見本を示されたのです。この時代が終る時には、すべてのクリスチャンが主のように生きていると私は信じます。「神の栄光が神の民の上の現れる」という預言はそのことを言っていると思います。

 

創世記28章に聖書で初めて「神の家」のことが書かれています。神の家とは建物ではなくて、私たちが神の家、神殿です。神の家がどうあるべきか、ということがこの箇所に書かれています。12節に「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」とあります。神の使いというのはメッセンジャーという言葉で、ここは天使ではなくて私たちクリスチャンのことを言っていると思います。

16節「ヤコブは眠りからさめて『まことに主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。』と言った。彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天に門だ。』」

 

神のメッセンジャーとしての私たちの第一の務めは、ヤコブのはしごであるイエスを上り下りすることです。ナタナエルがイエスの知識の言葉に驚嘆した時、イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:51)と言われました。私たちは啓示によりイエスの真の姿が分かり天の領域に上ります。私たちは常に天に上り、天のリアリティーを地に持ち帰るべきなのです。イエスがされたすべての業は、主が御父のされることを見て、それを天から受けて地の上に現したのです。大勢の人を養ったとき、主は地上の必要を天の供給源で満たしたのです。天には欠乏ということはありません。

 

「神の家」は天への門でなければなりません。まず日曜の礼拝でこれを経験し始めたいと思いますが、目標は一週間それを持ち続けることです。行くところのすべてに天を持ち運ぶのです。天は死んでから行くだけのところではありません。天を地にもたらすのが私たちの務めです。

 

地上には数カ所、特別に神に祝福されていて、ヴィジョンや夢を受けやすい天に近い場所があります。ヤコブはこここそ神の家だ、天の門だ、といいました。しかし新約聖書の時代ではそれは場所というだけではなく、私たちのことであり、私たちが天の門となり「開かれた天」を持ち運ぶ者となれます。私たちが行くところはどこででも天を開くことができるのです。

 

聖書には、開かれた天に関する箇所がいくつかあります。

 

エペソ1:3「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

私たちは天にある祝福を地上に持ち帰るのです。イエスは天の御国の福音を持ってこの地に来られました。私たちも天と地との間の橋を造り始め、またその橋にならねばなりません。

 

エペソ2:5−6「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、、、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

これはただの教義ではありません。何でもまず頭で理解するのは悪いことではありませんが、私たちはそれを心で信じなければなりません。イエスは私たちが真理によって聖められるようにと祈られました。それは私たちが変えられるということです。教義として頭で信じるのではなく、その真理が私たちの人生のリアリティーにならねばなりません。「イエスと共にすわる」とは、イエスの権威をもって生きるということです。主は私たちをそのように召してくださっているのです。ここにいる皆さんすべてが、イエスのした業、そして更に偉大な業をすることができるのです。私たちは誰でもその人が望むだけ神に近づくことができるのです。

 

創世記28:18−22「翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所をベテルと呼んだ。..それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。』」

 

どうしてここでヤコブは十一献金をすると言っているのでしょうか。十一献金は、開いた天のもとで生きることと密接な関係があるのです。ある人達はそれは律法であり、律法主義だと言いますが、違うのです。アブラハムも行ないました。ヤコブも行ないました。最初の収穫物を神に捧げるのは基本的なことであるのです。それによって与えられる祝福を知れば、十一献金をしないことは馬鹿げています。弁解をする人は「私はすべてを主に捧げています。」というのですが、それはつまり何も捧げないということです。私が知っている人で、経済的に絶えず苦労をしている人は十一献金をしていません。忠実に十一献金をしている人でそのような苦労をしている人を私は知りません。私たちのミニストリーでは十一献金を信じない人をリーダーにはしません。必ずいろいろな問題が起こってくるからです。

 

私自身も非常に経済的に困窮したことがありました。そしてその理由が明らかになりました。その頃、私は十分の一以上献金していると思っていたのですが、よく計算をしてみると、十分の一に足りていなかったのです。主はこのことに関して私を非常に厳しく訓戒されました。「あなたは十一献金を皆に教える立場にいるのだから、わたしは厳しく訓戒するのだ。」と主は言われました。「教師は格別きびしいさばきを受ける」とヤコブ書に書かれています。

 

献金は人間の心が持つ究極的な偶像と関係しています。偶像というのは、ただあなたが愛するものというのではなく、あなたが神以外に信頼するものということです。

特に経済的必要を強く感じるとき、まず神を第一として初穂を神に捧げるならば、私たちは金銭という偶像を断ち切ることができます。金銭は、私たちの資源としてもっとも価値の低いものです。それは確かに価値があり良い資源ではありますが、私たちが求めるべき最後のものです。ルカ16:11「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」とあります。ですから十一献金をすることは基本なのです。

 

「十一献金だけすればよい」と考えている人もいますが、私たちは常に「与える者 giver」であることが基本的な聖書の教えです。もし私たちが本当に神の愛を持っているならば、与える者となるのです。「与えねばならない」のではなく「与えることができる」ということです。ですからただ十一献金をするだけではなく、神が与えてくださる「与える機会」を逃さないようにせねばなりません。それによってもっと与えられるためにするのではなく、御国の働きのために蒔く者となるのです。

 

「獣の刻印」が経済と関係しているのには理由があります。終末にはすべての蒔かれた種が実って収穫されます。獣の刻印を受けない人は神のしもべです。刻印を受けない結果、彼らの生活は非常に厳しくなるでしょう。しかしそれは最も祝福された人生となるのです。金銭への愛はすべての悪の始めです。アブラハム、イサク、ヤコブなどの父祖は富があり、立派な家に住むこともできましたが、地上が仮の住まいであることを知っていたので、天幕に住んだのです。彼らは天を知っていたのです。この地での人生は霧のようなものだと知っていたのです。一度天を見た人は、この世の富を得たとき、自分の生活水準(level of living)を上げるよりも与える水準 (level of giving) を上げるのです。そして神がなされる業を運ぶ管になることができます。不正の富に忠実な者を神は豊かに祝福してくださるのです。物質的にだけではなく霊的祝福も受けます。5千人を毎日養うことはすばらしいことですが、ハンバーガー1つで毎日5千人を養うことはもっとすばらしいことです。それが本当の富であり権威であり、それこそこれからの時代に必要なことです。

 

マラキ3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。—万軍の主は仰せられる。—

わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 

 

これは聖書の中で神が「わたしをためしてみよ。」と言われている唯一の箇所です。「何ヶ月も十一献金をしてためしたけれど、結果が得られなかった」という人に私は沢山会いましたが、これはためすものではなく、忠実に歩む中で経験して行くことです。私たちは「あふれる豊かさ」で生きるべきなのです。私たちはすべての良い業にあふれるべきなのです。物質的にも霊的にも、あふれる豊かさの中に私たちは生活できるのです。

 

マラキ3:11、12「『わたしはあなたがたのために、いなご*をしかって、あなたがたの土地の産物を滅ばさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。—万軍の主は仰せられる。—すべての国民は、あなたがたをしあわせ者というようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。』と万軍の主は仰せられる。」 [ *むさぼり食うもの】

十分の一を捧げる者に対して、このような祝福を神ご自身が約束していてくださるのです。これはまさに御国そのものです。

 

黙示録4:1、2「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、、、」

 

この「開いた門」は、今も開かれており、今も主は「ここに上れ。」と言われているのです。私たちはそこに上っていくことを求めている者でなければなりません。聖書全体を通じて、天が開いたとき見えるものは「権威ある主」であり、主がどのようなお方であるかを見ることこそ信仰の鍵です。

 

黙示録19:11、12「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」

 

エゼキエル1:1「第三十年四月五日に、私がケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。」(口語訳)

 

天が開かれたとき、私たちは権威に満ちた主を見るのです。天国の様子や、後に起こることなども見るかもしれませんが、主を見ることこそが最もすばらしいことなのです。主と主の栄光を見るとき、私たちは変えられます。

 

また、非常に大切な啓示が与えられるときも天が開きます。使徒行伝10:11には「見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に下りて来た。」とあります。これは異邦人にも福音が開かれることを示す非常に重要な啓示でした。

 

申命記28章は主の御声に聞き従う者が受ける多くの祝福が書き記されていますが、12節にそれらの祝福は「主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。」とあるように、私たちのために天が開いてその倉から祝福が与えられるのです。

 

多くの人が天の倉の幻を見せられています。ある倉の中には足や手などの身体の部分が沢山入っていて、それは手足をなくした人たちに与えるためのものだと説明を受けました。私の友人で指を一本をなくした人がありましたが、主はその指をまた伸ばしてくださいました。2時間くらいかかりましたが、多くの人がそれを見ていました。関節2つ分が元通りになったのです。他にも無くなった手や足が伸びたという話を聞いています。それは天の倉から運ばれてきたのです。最近ある人が見た幻では天使はその倉から身体の部分を運んできているにもかかわらず、人々が祈らないので、届けることができないでいました。天使は私たちの祈りによって動くのです。私たちは求めないから得ていないのです。私たちは天に上って、倉からすべてのものを地に持ってこなくてはなりません。

 

申命記28章1節に「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく(diligently 勤勉に刻苦して) 聞き従い、私が、きょう、あなたの命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。」とあります。この「diligently 勤勉に」という言葉に注目してください。クリスチャンの中には、どうすれば最小限の努力で信仰生活をおくれるか、と考えている人がいます。それは主イエスのされたことではありません。主はすべてにおいて「父の御こころ」をされようとしました。最高の勤勉さをもって主に従うことが、私たちクリスチャンの情熱であるべきです。その時に28章に書かれているすべての祝福があなたを追いかけてくるのです。

 

もし自分の頭の上の天が青銅のように(申命記28:23)感じる方がいるならば、私たちクリスチャンはそのように生きる必要がないことを知ってください。私たちは「開かれた天」を持ち運ぶ者なのです。天の扉はいつも開かれています。神の義を真剣に捜し求め、時間を浪費するのではなく、主を知り主と交わるために時間を捧げる者となろうではありませんか。(終り)


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