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Walk With God Ministries


19 10月

ミニストリーの三つのタイプ   ネイサン・ショウ          2017年10月19日


ミニストリーの三つのタイプ

 

ネイサン・ショウ(ハート・オブ・デイビッド・ミニストリーズ)

 

 

ベタニヤのマリアは聖書の中で私が一番好きな人物一人です。私は彼女の途方もないイエスへの愛と献身が大好きです。イエスは12弟子に劇的なしるしや不思議を行う権威を与えられました。(マタイ10:1)病人は癒され、悪霊に憑かれた者は解放されました。このような事はマリアに関しては記されておりません。しかし彼女は度々「イエスの足もとにいた」と言うことで、特別に注目されるのです。(ルカ10:39、ヨハネ11:32、12:3)

ヨハネ13章に、イエスが水で弟子の足を洗ったことが書かれています。その一つ前の12章を見ると、マリヤが高価な香油をイエスの足に塗り、髪の毛でぬぐったことがわかります。

ヨハネ12:3「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」

マリヤの行為はその家の空気を変えました。 2種類のパワフルな香りが放たれました。一つはナルドの香りであり、もう一つは崇拝と献身の霊的かぐわしさでした。

イスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人びとに施さなかったのか。」と責めました。彼は高価な香油の値段を正確に知っていました。(これは一年分の給金に相当します)しかし、彼はこれが無駄だということだけで反応したのではありません。マリヤのイエスへの献身と崇拝という霊的香りが、ユダの心を暴露させたのです。

 

ここで二つの霊の統治力がぶつかり合いました。マリアは愛の統治を、ユダは欲の統治を放ったのです。

「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人びとのことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金庫を預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからです。」(ヨハネ12:6)統治力は霊的空気に影響を及ぼしそれを変えていきます。

 

ミニストリーのレベル 

 

最近、私はこの二つの霊的統治力についてメッセージを語りました。すると数日後に、神はそれに関する更に深い洞察を与えてくださいました。神が示してくださったのは次にことです。

この聖書箇所においては、3つの方向に「もの resources」が動いています。

1.      イエスへ:マリヤの高価な香油がイエスの足に注がれた

2.      貧しい者へ:金入れの中の金は貧しい者たちのために使われた

3.      ユダへ:ユダは金入れから金を盗んでいた

この3つのものの流れの方向は、3つの異なるタイプのミニストリーを表しています。

1.      神へのミニストリー「すべてを注ぎ出す献身」

2.      人びとへのミニストリー「人びとの必要を満たす」

3.      自分のためのミニストリー「自分の欲を満たす」

 

教会やミニストリーの働きの多くは、この中の一つに当てはまります。私は公のミニストリーだけを指して言っているのではありません。エペソ4:11にある5つのミニストリーはすべてのクリスチャンが働けるように整えるものです。(エペソ4:12)

 

1.「すべてを注ぎだす献身」は、最も高度なレベルのミニストリーです。それはすべてを神ささげるのです。このレベルのミニストリーは神の意のままになることが必要とされます。神に仕えるとか、神と共に働くとかだけではなく、「神の足もとにすわる」のです。人間の目にそれはとても無駄なことのように見えるかもしれません。

どうしてイエスの足もとにすわってあなたの時間を全部浪費するのでしょうか?

一瞬で一年分の給金を無駄にするのでしょうか?

 

2. 「人びとの必要を満たす」も、非常にパワフルなレベルのミニストリーです。そのためには、時間、お金、エネルギーが用いられ、それによって神の御こころが表わされるのです。人びとは癒され、解放され、変えられ、貧困から抜け出ることができます。福音書の中に記録されている奇蹟の大部分は、この人間の必要に対する直接的なミニストリーです。

3.「自分の欲を満たす」は一番低いレベルのミニストリーです。このミニストリーは「この働きは自分のために何か得になることがあるか?」といつも考えています。「欲」は他人のものを自分のものにするのです。金入れの中のお金は貧しい人たちを助けるためのものでした。クリスチャンの歩みを始めて間もないとき、私たちの動機はしばしば自己中心的でした。しかし成長するにつれて、これは変っていきます。神は私たちの未熟さに対しては恵み深くあられます。しかしただ未熟というだけではなく、ユダは偽り者でもあったのです。

ユダはイエスや他の弟子たちと共に生活していたことを考えてください。神に人生をささげ、もっと学び成長したいと真剣だった人びとが周りに沢山いました。彼の自己中心的な欲には弁解の余地がありません。ユダは敵の策略に負け、遂にはサタンが入るまでになったのです。(ルカ22:3)

 

イエスはマリヤの惜しみなく捧げる愛をかばい、「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人びととはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」(ヨハネ12:7−8)と言われました。イエスは弟子たちに、ご自分が死ぬことを数回予告されましたが、彼らには理解できませんでした。マリヤはイエスの死が近いことを悟り、埋葬の日のためにイエスに油を塗ったのです。

マリヤはイエスの足もとにすわったので、主の御心の深い洞察を得ることができました。彼女はイエスが進もうとしておられる道の目的を悟りました。主の深い悲しみと必要をマリヤははっきりと識別したのです。十字架への道は容易いものではありませんでした。高価な香油で主に油をそそぐことのよって、マリヤは主の御こころに直接仕えたのです。

祭司の主要な任務は、神の御こころに仕えることです。ツアドクの子孫たちはこの任務を与えられました。(エゼキエル40:46、44:15、48:11)しかし、私たちは皆、祭司として召されているのです。(1ペテロ2:5、黙示録1:6)人間の必要に対して仕える人は、簡単にバーンアウト(燃え尽き)してしまう可能性があります。人びとの必要は広大であり、その仕事は大変骨が折れることだからです。神の御こころに仕える秘訣を学んだものは、超自然的に支えられます。

 人間の必要に仕えて、神のこころに仕えることをおろそかにする者たちは、敵の策略に落ちやすくなります。ペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエスが最も苦しんでおられる時に寝てしまったのはそれが原因です。(マタイ26:36−46、マルコ14:32−42)

マリヤは神の御こころに仕えることによって霊的空気を変えました。霊の激しい衝突を生み出しました。この衝突はマリヤをひどく傷つけたかもしれません。しかし、イエスは彼女をかばいました。マリヤは主との親密さによってこの衝突の衝撃から、まるで繭の中にいるように守られたのです。12弟子はイエスと共に歩き、しるしや不思議を行う権威を与えられました。マリヤはイエスの足もとにすわりました。

私たちは「しるしや不思議を行うこと」と「イエスの足もとにすわること」のどちらかを選ぶ必要はありません。私たちはどちらにも召されているのです。マリヤは終末の時代のための預言的モデルです。そしてマリヤの預言的モデルによってもたらされるしるしと不思議は、弟子たちが当時行ったしるしと不思議を優に越えるでしょう。神は多くのベタニヤのマリアのような者たちを今の時代に召し出されているのです。あなたはそのお一人でしょうか?(終り)


10 10月

支配権を持つ者     ダッチ・シーツ            2017年10月10日


支配権を持つ者

                                                      ダッチ・シーツ

 

「あなたの世界を支配しているのは一体誰なのか?」

この問いは、 祈る時私たちに与えられている権威を理解するために非常に重要です。ここで、「権威の法則」を祈りに適応する前に、まず「権威とは何か」そして「権威の持つ目的は何であるか」を十分に把握する必要があります。

 「権威」を理解するためには、「誰が支配しているか?」という問いに答えねばなりません。この問いは、世の始めからずっと人間社会のすべての葛藤の中心でした。今も外の世界はあなたを支配しようと毎日攻めてきています。それは仕事や家族、財政、或いは全く別の事かもしれません。いずれにせよ、私たちがまわりの世界に支配されその奴隷となって生きることは、全く神のご計画ではありませんでした。私たちはキリストの統治の下で生活することにより、主のパートナーとして共に地上を治めるように召されているのです。

この法則は「統治」に関するものです。統治とは、「影響を与える、権威を執行する、上位に立つ」という意味です。権威を持って祈るとき、私たちは物事を統治する力でとりなすことができるのです。統治の権威という考えは、聖書全体を通じて表されています。エデンの園以前から、「誰が統治するのか?」という問題が議論されました。ルシファーは、神の上に権威を振るおうとした時この問いを発しました。そしてそれは今日に至るまで、私たちが直面する葛藤、即ち

善か悪か、命が死か、真理か偽りか、というすべての葛藤の発端となってきたのです。

神がサタンに究極的に勝利していることを私たちは知っています。しかし、

私たちが個人的に悪に勝利する機会を、神は今も与えてくださっているのです。それは即ち、私たちが主のパートナーとなって、この地を真理と義で治めることです。私たちはまさに本来その力を与えられて創造されているのであり、イエス・キリストを通してこの世を治める人生を歩むようにと召されているのです。ローマ5:17にある「治めるreign」という言葉は「王や王妃として治める」という意味を持っています。

 

第一ペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

私たちは主と共に治めるようにと選ばれました。権威を持って祈ることを学び、統治の力をもってとりなすのは私たちに与えられている責任です。

 

「自分の内なる世界にどれくらいキリストをお招きしているか」という度合いが、私たちが外の世界に対して持つ権威の大きさを決めます。使徒行伝19章でスケワの息子たち(ユダヤ人の祭司長の7人の息子)が、悪霊につかれている者にイエスの権威を行使しようとしました。彼らは「パウロの宣べ伝えているイエスによって」と言いましたが、悪霊は「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と答えました。息子たちはまず自分の人生をイエスに明け渡すこと無しに、キリストの権威を行使しようとしたのです。彼らの祈りは全く効力がありませんでした。

 

同じようにあなたの人生は、あなたとキリストとの関係の度合いを明確に示すバロメーターです。あなたは平安と喜びの内を歩いていますか?それとも、まわりの未信者と同じように、いつもストレスを感じていますか?家族は祝福されていますか? 祈りの生活をしていますか?それとも祈りの力について話すだけですか?

暗やみや絶望を支配する権威は、あなたの霊的DNAの中に入れられています。あなたは、盗み、殺し、滅ぼそうとする敵に勝利しながら、キリストによって豊かな人生を送るように造られているのです。(ヨハネ10:10)サタンは、神から与えられているあなたの任務を妨害するためなら手段を選びません。敵の計画を見破りそれに打ち勝つのは、あなたの責任です。「私は勝利者だ!」とただ口先で言うだけではなく、権威と力の証しが溢れ出る人生を送らねばなりません。

 

あなたを支配しようとするものに対して、自分の権威を行使することを決意するならば、まず、あなたの心の思い、行動、言葉をよく吟味してください。それらが王の息子、娘としてのアイデンティティーを反映しているかどうか、よく吟味してください。

あなたが自分自身の思い、行動、言葉の上に権威を持つならば、まわりの世界(家庭、仕事、財政等)に対するあなたの権威をも主が大いに祝福してくださることにあなたは驚くでしょう。そして、これこそが究極の目的なのですが、今まで夢にも思わなかったレベルで、あなたは主のパートナーとして機能し始め、世界全体に影響を及ぼすような権威を行使し始めることができるのです。主はただあなたをパートナーにするだけではなく、地上における主の目的を達成するために、あなたというパートナーを必要とされていることを是非知っていただきたいと思います。(終り)

 


02 10月

フレッシュなパン     ハイディ・ベイカー       2017年10月2日


フレッシュなパン

 

ハイディ・ベイカー

 

 

ボブ・ジョーンズ師との出会い

 

 私が預言者であるボブ・ジョーンズ師に会った時のことをお話ししたいと思います。

ある時、 ワシントンDCの空港にいた私のところに、私の夫とボビー・コナー師が来て、「これから預言者の家に連れて行くよ。」と言い、私からパスポートを取りあげたのです。私は腹を立てて「預言者の家になんか行きませんよ。うちに帰ります!」と言いました。私のうちというのはモザンビークです。でも彼らは「いや、あなたは預言者の家に行くんだ。」と言うのです。私は「何で、この人たちは私にこんなことをするんだろう。ひどいことだ。私からパスポートを取り上げるなんて、犯罪だ!私はうちに帰って子どもたちにパンを与えなければならないのに!預言者に会う必要などないわ、神の言うことは自分で聞けるから!」と思いました。本当に行きたくなかったのですが、二人は私の言うことなど気にも留めずに私を車に乗せ、郊外のボブの家に連れていったのです。

 

預言者ならば少しはましな家に住んでいるかと思ったのですが、ボブの家は本当に祖末なものでした。彼は紫色で鷲の絵がついている小さすぎるシャツからお腹を出して私たちを迎えてくれました。これが預言者でしょうか!もうちょっとましな格好をしていてもいいではありませんか!

彼は「やあ!あなた達が来るのは分かっていましたよ。」と言いました。(彼はその日に起こることを主から前もって聞く事が多かったのです。)私はボブのことを話に聞いたことはありましたが、会ったことはありませんでした。彼は「まあ、座ってください。」と言うので、私は古ぼけたソファに座りました。ボブは肘掛け椅子に座って話し始めました。私はワシントンDCから二人の男性に誘拐されて、ここまで連れて来られたのですから、きっと素晴らしい預言があるのだろうと少し期待しました。

ところがボブは「神が言われましたよ。あなたはクッキーを食べなさいって。」と言いました!

皆さん、私はその時まで人生の三分の一を断食をして過ごしていたのです。神からフェイバー(特別な厚意)を頂くための手段として私が知っていたのは断食をすることだけだったからです。私は断食を信じていますし、今も断食をします。どうか私がもう断食をしないなんて勘違いをしないでください。でもそれまでの私の断食の仕方は、御父の心を理解していないものでした。ですから神が預言者の口を通して「クッキーを食べなさい。」と言われた言葉は、信じられないくらいにすばらしい響きを持っていました。

まず第一に、モザンビークの私のうちにはクッキーなどありませんでした。クッキーは超贅沢品でした。それは必需品ではありません。空腹のときにまず一番に買うものではありません。クッキーはお菓子です。貧しい人に与えるものではありません。彼らにはパンとかお米や豆を与えます。クッキーを与えるなんて思いもよりません。

ボブが「神があなたにクッキーを食べなさいと言われたよ。」と言ったまさにその時、ドアをノックする人がありました。その人は「やあ、ボブさん、神様があなたのところにクッキーを届けるようにと言われたので、持ってきました。」と言うのです!焼きたてのクッキーでした!ボブは「へへへ...ありがとう。」とそれを受け取り、その人は中に入りもせずに帰っていきました。

その時も私は断食中でした。ボブは「さあ、クッキーをお食べなさい。」とすすめてくれます。私は「これはサタンの誘惑か...」と思いました。「私は断食をしている..このクッキーはカロリーも高いし...」と思い巡らしながら、小声で異言で祈っていました。でもクッキーに抵抗することができませんでした。そして預言者に聞き従うべきだという気持になり、クッキーを取り一口食べました。それはナッツの入ったチョコレートクッキーでまだ暖かかったのです。そして私はベイビーのように泣き始めました。ボブは「もっと食べなさい。」とすすめました。

その時聖霊が私に迫りました。「あなたは孤児ではありません!わたしのフェイバーを得るために飢える必要はありません!わたしのフェイバーはあなたの上にあります。わたしは甘い(sweet)のです。わたしはおいしい(good)のです。常に有り余るだけあるのです。」この言葉はずっと以前に神が私に語ってくださった言葉でした。「わたしが十字架で死んだから、あなたは有り余るほど十分なものを持っているのです。」

ボブは私を見て笑い、「主は言われますよ。もう一つ食べなさいと。」と言いました。私は「主よ、どうしてあなたは私に二つもクッキーを食べるように言われるのですか!」と叫びました。「それは贅沢すぎです。とんでもないことです。この預言者は行き過ぎです。クッキーを二つも食べるなんて...」と。でもボブは「さあ、もう一つ食べなさい。」と言うのです。

私は二つ目のクッキーを食べました。私は泣き崩れました。御父の心がわかったからです。神が私をどのように思っておられるのか、どれほど私を愛しておられるのか、どれほどスイートな方か、どれほどフレッシュでおいしい(good)方かを。

主は私をモザンビークから呼び寄せ、夫とボビーに私を誘拐させ、預言者の家に連れてきてくださるほど親切な方です。そしてクッキー二つで私の人生を変革されました。私はその日完全に変えられ、何百万人もの人に肉の食糧を与えるだけではなく、霊的食物も与えることができるようにしてくださったのです。

あなたは自分が神のものであることを理解せねばなりません。そして神はあなたが想像する以上に善き方であり、麗しい方です。あなたが主を深く知るならば、人に主を分け与えたくなるのです。でも主がどのような方であり自分がどのような者であるかが分からないと、外に出て行くことができません。自分がどなたの者であるかを知るときに、すべてが変わります。

 

カビだらけのパンの話

 

私がモザンビークの家にいたとき、主がはっきり「家の中にパンがありますか?」と聞かれました。私はどこかに袋に入ったパンがあったことを思い出しました。暑い地であり、パンはすぐにカビが生えます。見つけたパンは信じられない状態になっていました。それは虹色のパンでした!青、ピンク、黄色、オレンジ、というあらゆる色のカビで覆われていたのです!暑い家の中に何日も忘れられていて、怪物のように恐ろしいものになっていました。主が「それを教会に持っていきない。」と真面目に言われるのを聞きました。私は「はい。分かりました。」と答えましたが、続けて「何か他のものも持っていってもいいでしょうか?」とお聞きしました。(私と主は友達ですから、このように話をするのです。)主は「いいですよ。」と言われました。そこで、私は友人に電話をして「2千個のパンを買ってきてくれますか?」と頼みました。教会にはいつも二千人くらい集まってきていたのです。その友人は私と22年も一緒に働いていたので、少しも驚かずに「勿論いいですよ。」と言ってくれました。大きなトラックもありました。私たちはいつもそのように人びとに食糧を与えているのです。

 

教会に着くと、主が「さあ、みんなにあのカビだらけのパンを与えなさい」と言われました。私は「わかりました。」と答えました。ここで説明をしたいのですが、普通大勢のお腹のすいた人達にパンを配るときは、みんな興奮して大騒ぎになります。ある人たちは2時間も歩いて教会に来ますから大変お腹が空いています。でも主が「レインボー色のパン」を配れと言われたので、前列の人にそれを渡して「無料です!好きなだけ取ってください!」と言いました。子どもも親もカビだらけのパンを見て驚いて顔をしかめました。みんないつもお腹を空かしている人達です。でも誰もそれを取ろうとはしませんでした。

触るのも嫌だという顔をしていました。でも私は「後ろの方まで全部の人が好きなだけ取れるように回してください!」と言いました。

しばらくしてパンの袋は人びとの間を一巡して、戻ってきました。下に落ちたもの以外は全部残ったままでした。食べた人は誰もいなかったのです。何故でしょうか?それは古いパンで、人びとを病気にするものだったからですね。

いのちがないパンでした。人びとは空腹であったにもかかわらず、そのパンは食べることができないことが分かったのです!そのパンは人びとを満足させませんでした。それは確かに無料でしたが、誰一人として一口も食べた人はいなかったのです。

次に私は新しく買ったパンを見せて、「ここにもっとパンがあります。フレッシュです。今日のパンです。昨日のでも、先週のものでもありません。今日の朝焼いたパンです。どうぞ好きなだけ取ってください。」と言いました。

子どもたちは喜んで声を上げました。母親たちは服やバッグの中に幾つも詰め込みました。「今好きなだけ食べてもいいですよ。」と言うと、みんな食べ始めました。しばらくして「余ったものは前に持ってきてください。」と言うと、不思議なことにパンは余っていて、それは礼拝後に町の飢えている人たちに配ることができました。

 

主は今日この集会に、御臨在をもって私たちを訪れてくださいました。主の臨在というフレッシュなパンを、飢えて死にそうな世界に持ち運んで行くのが、私たちの役目です。今日私は祈りながらどのようなことを皆さんにお話しすればよいか主にお聞きしました。そして主はフレッシュなパンを豊かに与えてくださいました。本当に感謝しています。この真理をどうか決して忘れないでください。古いカビだらけのパンを欲しい人はいないのです。昨日のパンを欲しい人はいません。人びとはフレッシュなパンを必死に求めています。主は私たちがフレッシュなパンを分け与えるように召しておられるのです。

 

第2コリント1:20−22「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって、『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」

 

神は私たち全員に油を注がれ、私たちに確認の印(持ち主のしるし)を押して、「これはわたしにものだ!」と言ってくださるのです。あなたは神に所有していただきたいですか?あなた方は神の息子、娘です。あなたは王子、王女です。しかし、それと同時に神の奴隷です。「ご主人様、私はあなたの家から出て行きたくありません。一生あなたに仕えたいです。どうか私の耳に穴をあけてください。

私のいのちはもう私のものではありません。」と願う生涯の奴隷となりたいですか?(申命記15:16、17参照)イエスのものとなり、イエスに所有されることほど自由なことはありません。主はあなたに焼き印を押して「わたしはあなたを所有している!あなたを愛している。あなたはわたしの家族だ。」と言われています。もしあなたが主の家族ならば、もうカビの生えたパンなど食べる必要はありません。「パンは足りるだろうか?」と心配する必要もなく、パンを取られないように人と争う必要もありません。神は私たちのために一人子を下さったほどのお方です。

「あなたのためのフレッシュなパンはいつも十分にあるよ。」と言われます。すべて神からの約束は「しかり、アーメン」です。あきらめなければ、必ず勝利するのです。

 

神は私のためにボブ・ジョーンズ師を用い、非常に深くパワフルな真理を教えてくださいました。「クッキーを食べなさい。」と言ってくださったのです。神はケチな方ではありません。あなたのヴィジョンを聞いて「なんてこった。そんな大それたことをわたしに願うなんて。一体どうすればいいんだろう...国をトランスフォームするって!?そんな事は出来るはずないだろう....」と顔をしかめる方ではないのです!ですからどうかイエスを人びとに分け与えてください。それであなたの食べる分がなくなることは絶対にありません。「あの人がもらったら、私の分がなくなる」と考えるのは孤児の霊です。

 

第2コリント2:14「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとってはいのちから出ていのちに至らせるかおりです。」

あなたはキリストの香りです! 拒む人にとっては死の香りであり、信じる人にとってはいのちの香りです。あなたはただ常にキリストの香りであればよいのです。12節には「このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。」とあります。どうか大胆であってください。大胆に語り、大胆にフレッシュなパンを人々に分け与えてください。(終り)


25 09月

御ことばを歌う       ジュリー・マイヤー           2017年9月25日


御ことばを歌う

 

ジュリー・マイヤー (IHOPカンサス)

 

 

今日は、主の歌を歌うこと、そしてそれによって預言を解き放つことをお話したいと思います。非常に多くの方から預言的な“主の歌”についての質問を受けますが、誰にでもできる簡単なことによって、ワーシップの中で主の声を聞くことができます。

この方法は、主婦であっても仕事をしている人でも簡単にできます。家の中でも車を運転している時でも、バックミュージックが何もなくても出来るのです。

1コリント14:1に「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」とあります。私は「主の御こころを知りたい!主が今語っておられることを知りたい!」と心から思うことが度々あります。

 例えばあなたが教会の賛美チームに入っていて、日曜礼拝のとき急に主の歌を歌い預言しようと思っても、それには少し無理があります。私たちは毎日の生活の中で主に向かって主の歌を歌い、預言していなければならないのです。

主の歌や預言は、あなたが一人でいる時、まわりに誰もいない時、即ちあなたと神だけのときにしていることが、他のときにも自然に溢れ出すことだと思います。ですから、私はいつも聖書の御ことばを私のこころに向かって歌っています。ダビデは「新しい歌を主に向かって歌え」と何度も繰り返し言っています。

ダビデの生涯を学ぶならば,彼が大きな危機に直面したときや窮地に追いやられたとき、彼が何をしたかを知ることができるでしょう。彼は主に新しい歌を歌ったのです!新しい歌を歌うことがダビデを助けたとすれば、それはあなたや私をも助けるはずだと私は思います。あなたは困難に直面したとき、イエスの愛を確信できないことがありますか?もしあなたが、「私は神に愛されている、私は絶対に神のお気に入りだ」と信じられないでいるとすれば、あなたが誰かに「神はあなたを愛しています」と言ってもあまり説得力はないでしょう。

 

「私は神に愛されている」と確信するのは、主から愛の言葉を聞くことから始まります。そしてそれは神の御ことばを知り、主との関係を私たちのうちに築くことから始まります。御ことばは神から私たちへのラブレターです。その愛の御ことばを私たちが心に本当に受け取るために最も素晴らしい方法があります。それは御ことばを歌うことです。

私たちは歌を歌うとき、よく憶えることができます。何年も前におばあさんから教わった童謡を沢山憶えているのはそのためです。音楽や歌には、私たちが心を開き、心に主の愛が書き記され、主の癒しを受け取れるようにする力があるのです。

 

私は今までの人生で、とても大変で苦しい時がしばしばありました。とても主の愛を感じることなど出来ない、そのように考えることも出来ない、と思いました。そのような時、私は私のこころに向かって歌い始めるのです。

「私は弱いけれども、美しい

傷ついているけれど、美しい

私が弱いとき、神よ、あなたは愛してくださる

傷ついているけれど、あなたは私の味方

忙しい朝でも、今、あなたの目は私に注がれている」(雅歌1:5参照)

 

私たちが歌い始めると、それが上手でも下手でも、神は大層喜んでくださいます。みんなシャワーの中ではオペラ歌手のように歌えますよね。あなたが御ことばを歌い出すと、神があなたに対して持っておられる感情がそこに注がれ始めます。

そしてそれは「御ことばは(即ち神は)あなたのことをどう言っているか」を明らかに示してくれます。そして、自分に対して持っていた否定的な思いは、御ことばの真理に変えられていき、あなたは神がどれほどあなたを愛しておられるかを確信できるようになるのです。

これが自分の弱さから抜け出す方法です。これが傷ついた自分から抜け出す方法です。傷つき弱っているまさにその時、神が自分を燃えるような情熱で愛しておられることを感じ、知るのです!それは一ヶ月後に問題がなくなった時にではなく、問題のさ中に神の愛を受け取り癒されるのです。このように私たちをイエスのあふれる愛にもっとも素早く結び付けるのは、御ことばを歌うことなのです。

 

ここで聖書の言葉を歌う時の3つの段階をお話したいと思います。

私の好きな詩編116:1、2を例として用います。

「私は主を愛する。

主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、

私は生きるかぎり主を呼び求めよう。」

 

まず、この聖句をそのままの言葉で歌います。バックミューックや楽器を演奏しないでも、ただアカぺラで自分で好きなメロディーを付けて歌えばいいのです。子どもをサッカーの試合に連れて行く時や、一日中忙しくしている時にも、この聖句をいつも心に携えていくのです。そしていつも口ずさんでください。そして一週間それを続けてみてください。

次の段階として、同じ聖句を自分自身の歌に変えるのです。御ことばをとり、それを祈り始め、歌い始めると、それはダビデの主に対する熱い想いを受け取り、それが私自身の想いに変っていきます。最早ダビデが昔歌った歌ではなく、今私が歌う歌となり、神が身をかがめて私に耳を傾けてくださる姿を私は思い描くことができます。私は同じ聖句を使って、自分自身の歌に変え、好きなメロディーを付けて歌うのです。

 

「イエス様 愛します

どれほどあなたを愛しているでしょうか

あなたが私の祈りを

すべての叫びを

聞いてくださるからです

あなたはいつも私の歌に耳を傾け

私の叫びに耳を傾けてくださいます

今もあなたは身をかがめて

私の小さなささやきに

耳を傾けておられます」

 

これが次の段階である神の御霊があなたに言われることを聞く鍵となります。同じ聖句を、あたかも神があなたに歌っているかのように歌うのです。これは預言に他なりません。同じ聖句を私の心と魂に、あたかも神が歌っているかのように歌うのです。なぜならば実にそれこそ神がされることだからです。それは御ことばだからです。

「ジュディー

あなたの歌が聞こえますよ

とても麗しい歌声です

わたしは身をかがめて

わたしの耳をあなたの口に近づけ

一言も、一節も聞き逃さないようにしています

わかりますか

あなたの声は美しい

あなたの歌はすばらしい

聞こえます 聞こえます」

 

愛する皆さん、あなたが御ことばを歌い始め、神の預言のことばを自分のこころに歌いかけるならば、それは溢れ出るようになります。教会のワーシップの中で、また家庭集会の中で、それはあなたの心から、口から、溢れ出てきます。ですから今日、一つ聖句を見つけ出して、それを歌い、それを祈りに変え、そしてそれをあなたの心と魂に預言として歌ってください。これは預言をするためのとてもやさしいステップになります。あなたが毎日そのようにするならば、それは日曜の礼拝の時、とても自然で簡単に神のことばを語ることになるからです。(終り)


18 09月

わざをするのは主の御ことば    ワンダ・アルジャー       2017年9月18日


わざをするのは主の御ことば

 

ワンダ・アルジャー(Dove Christian Fellowship)

 

多くの献身的なクリスチャンは、毎日の過密なスケジュールの中で、いつも山積みになっている自分がすべき「良いこと」のすべてをいかにこなしてゆくかに苦心奮闘しています。その結果、その時「最もすべきこと」に集中して十分力を注ぐことが難しくなっていないでしょうか。これは確かにチャレンジです。

 

又、何をするにも、欠乏したエネルギーでやっと仕事をするのではなく、あふれる力で働くすばらしさを私たちは皆知ってはいます。そのために主との深い交わりをする必要があることを分かってはいても、私たちは忙しさを理由に「すべてを巧くやらなければ」というパーフォーマンスの要求を満たすことをつい優先してしまいます。

そのような様々な自分自身の声に駆り立てられるうちに「世の中をよくしたい」という願望と「人から認められたい」という自分自身の思いが勝って、知らないうちに敵の“わな”にかかってしまうのです。

それは、自分がやっていることはこれで良いのだろうかーすなわち、本当に世の中を変えているのだろうかーを私たちは考え始めます。そして自分を人と比較し始め、いつも自分の足りなさを感じるのです。その結果、人に追いつくために頑張るとき、私たちは 恵みと心の平安をだんだん失っていきます。

 

私自身もこの葛藤を持っていたので、その対処方法を最近主に尋ねました。主がまず言われたことは、「立ち止まって、わたしのいうことに耳を傾けなさい 」でした。主は「心を静まらせる大切さ」を思い出させてくださったのです。それは私や、自己不信と戦っている者、何か不安を抱えている多くの者にとって、主からのレーマ(主が今語っておられることば)を聞くために不可欠なことでした。

「わたしはあなたの内で、そしてあなたを通して働いています。それはわたしがあなた(自身)のパーフォーマンスを要求するからではなく、わたしがあなたと結んだ契約の故に、わたしは(あなたの中であなたを通して)働いているのです。わたしはあなたを召し、わたしの目的のために聖め分ちました。わたしは誠実にあなたへの契約を守ります。あなたが迷ったり横道にそれた時でも、わたしの目的は変わりません。なぜならば、わたしがわたしのことばを語ったからであり、それは必ず成就するのです。

 

自分がどれだけ功績をあげているかと測るのを止めなさい。わたしはあなたの成績をつけてはいません。ただわたしが話したことを行ない、あなたが始めたことを完成することに忠実でありなさい。わたしはあなたのパーフォーマンスではなく、契約の故にあなたをわたしの栄光のために用います。あなたではなく、わたしのことばが業をなしているのです。」と主は言われました。エレミヤ1:12に「わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」とあります。

これは驚くべき約束です! 私たちの成功は、私たちが主のために働くからではなく、神が私たちの内に働いてくださる結果なのです。預言者の中の預言者であられる主は、御ことばを私たちの上に語ってくださったのであり、その御ことばの成就を見ることに情熱を注いでおられるのです。自分で何かを起こそうと頑張り、神の御ことばより先に進んでしまう時、私たちは混乱、無秩序、不安に陥るのです。神が私たちのために設けてくださった恵みの境界線を越えて外に出るならば、そこに平安はありません。

詩編16:5−6「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは私に受ける分を、堅く保ってくださいます。計り綱は、私の好むところに落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」

 

私はミュージシャンなので、「パーフォーマンス」に対する思いは私の身体にしみ込んでいます。始めはいつも「自分の最高の演奏をしよう」という良い意図で始めるのですが、それがいとも簡単に「競争」へと(それは他人との競争だけではなく、自分との競争へも)変化して行くのです。それに「宗教の霊」が加わって、あっという間に私は自分で勝手に決めた到達不可能なレベルに達するために、自分と競争してしまうのです。

従順とパーフォーマンスには違いがあります。従順は主から「言いなさい、やりなさい」と言われたことをそのまますることです。パーフォーマンスは自分が必要と考える何かを得るために、主が言われたことを越えてすることです。

私たちが「もっと」すれば、主は「もっとしてくださる」と思うところに偽りがあるのです。その結果「もっと一生懸命働き、もっと功績を上げるなら、もっと遠くまで、もっと高くまで私は行ける」という人間的な考えにひきずりこまれていくのです。

しかしながら、神の御国においては、「どれだけ速く走るか」とか「どれだけ高く上るか」ではなく、神が自分のために計画されたユニークな青図(ブループリント)にどれだけ忠実に従うかがポイントです。

比較することは私たちを殺します。それは他の人のためのレーンに入ってしまって、自分のユニークな道と目的を見失うことなのです。

 

主は私たち一人ひとりを召してくださいました。そして一人ひとりの上に御ことばを語ってくださいました。私たちが主に「はい」と答えた時から、主は私たちに与えられた主の目的を成就し、主が始められたものを必ず完成するという契約をかわしてくださったのです。何かを起こさせるのは、私たちの努力にかかってはいません。もうパーフォーマンスをするのはおしまいです。私たちはただ従順と安息、そして主がそれぞれに与えられた恵みの計りの中に、どのような時にも留まること、それだけでよいのです。他の人に追いつこうとしてパーフォーマンスをしなくてもよい。ただ主の御ことばに事を成していただく時、主の超自然的な恵みにより、私たちの人生やミニストリーにすばらしい実が実るのです。

あなたが自分の召しや任務を成し遂げるための恵みと安息の場を捜し求めておられるならば、パーフォーマンスや、奮闘を止めてください。立ち止まって主の御声を聞き、あなたのために備えられた道を歩きつづけてください。他の人達が全員走っているとき、主が「あなたは歩きなさい」と言われたとしても、それを忠実に歩む時、あなたは競争に勝つのです。それはあなたへの主の契約があるからです。(終り)


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