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Walk With God Ministries


11 12月

信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって クリスタル G.H.ロウリー


信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって

 

クリスタル GH.ロウリー

 

 

ヘブル11:19「アブラハムは、神が人を死者からよみがえらせることもおできになる、と信じたのです。それで彼は、その信仰によってイサクを死者の中から取り戻したのです。これは象徴的な型です。」(意訳)

 

神の声を知る

 

私たちは、物事に対する考え方・見方を、常識とは違ったやり方に変えて行かねばなりません。自分の生き方・考え方を、この世的、常識的な基準で行うならば、物事をはっきりと「信仰の目で見る」という見方が汚され曇らされます。ですから何であっても私たちが、物事への見方を信仰の目で見るようになれば、その信仰的な考え方が私たちの心と魂の中に取り込まれ、育まれ大きくなって行くのです。

この世が指し示す方法や方策が必ずしもすべて間違っているというわけではありません。しかし、 この世的な観点から物事を見始めるようにしないことが肝要です。すなわち私たちは、「神の声を知る」という土台からスタートせねばなりません。これが人生のすべてにおいて鍵となります。

大抵の場合私たちが「信仰」ついて考えるとき、それは「普通世の中の人々が考えるようなロジック(論理的で、理屈にあったこと)とは異なるだろう」と考えます。 「信仰で一歩踏み出すこととは、クレイジーと思えるような事を神は私たちにさせるのだ」と私たちは思いがちです。

しかし私が強調したいのは、もし自分の思考パターンが変革されれば、神が「せよ」と言われることがすべて通常のことのように思えるようになるのです。それが出発点です。歪められた考え方から出発するのではありません。真理であり純粋であられる神ご自身から出発するのです。ですからそれがロジカルでないことはあり得ないのです。

 

神をどのように喜ばせるか

 

ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」

神に喜ばれるには、神を信じなければなりません。つまり神を信じ信頼することが不可欠です。 信頼することなしにその人と関係を持つ事ができるでしょうか?健全な関係を築くためにはその人を信頼する信仰が必要です。そうでないとよい関係にはなりません。例えば、相手を信頼することなしに健全な結婚生活ができるでしょうか?結婚がうまく行くためには絶対に信頼が必要です。

神と私たちの関係においてもそれは真理です。私たちは神にのみ信頼せねばなりません。もし神への信頼という信仰が100%でなければ、私たちは完全に神を信頼してはいないのです。神が言われることは真理です。神は人のように偽りを言うことは決してありませんから、神のことばは絶対的な真理です。神は私たちの造り主です。私たちがどのように機能するかをご存知です。

神は私たちに何が必要かをご存知です。神は私たちが必要なものはすべてご存知です。神は私たちのすべてをご存知です。製品を作る人がそれを使用するためのマニュアルを作るように、神は私たちを完全に働かせる方法をご存知です。

 

信仰の父

 

アブラハムや彼が辿った信仰の旅路を思うとき、本当に多くのことを教えられます。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。信仰についてより理解し自分のものとしたいならば、私たちは彼の人生から学び彼の信仰を調べてみるべきでしょう。

あなたがアブラハムだったらどうでしょうか。彼は故郷を出て約束の地へ行きました。どこに行くのか知りませんでしたが、出かけたのです。神は彼が多くの国の父となると告げました。

神は彼の子孫は天の星や海辺の砂のようにおびただしくなると言いました。アブラハムに約束された子孫の数は驚くべきものです。しかし、彼は年老い、サラも年を取っていました。彼らには子どもがなく、サラは子を産むには年を取り過ぎていました。アブラハムは一人の子を何十年も待ちました。待っている間にアブラハムは「年寄り」から「すごい年寄り」になってしまいました。お分かりでしょうか?アブラハムはただのお話の中の人物ではなく、実在していた人なのです。そしてついに、アブラハムとサラは約束の子イサクを授かりました。イサクから子孫が生まれました。イサクは賞品であり贈り物でした。彼は神の約束の最初のものでした。多くの子孫を得るために彼は不可欠でした。

 

信頼する決意

 

しかし、神はアブラハムにイサクを生け贄にするように命じられました。何ですって? そんなことがあり得るでしょうか?イサクは約束の子です。イサクが生け贄になったら、空の星や海辺の砂のようにおびただしい数の子孫がどうやって生まれるのでしょうか?イサクにはまだ子がいませんでした。アブラハムとサラにもっと子が生まれるのでしょうか?人間の思いの中にはこのような思いが起り始めることでしょう。

しかし驚くべきことにアブラハムは神に従ったのです。彼は従うことを嫌がりませんでした。私たちはこの話にあまりにも精通しているので、アブラハムがひとりの人間であったことを忘れてしまいそうになります。しかしアブラハムが私たちと同じ人間であったことを知るならば、私たちはここからすばらしいことを学べるのです!

アブラハムはひとりの人間にすぎませんでした。しかし、約束のものを取り去られるという事態に直面したときでも、彼はなお従ったのです。これがほとんどの人が信仰の崖からころげ落ちてしますポイントです。しかしアブラハムは堅く心に決めていました。彼は神に信頼することを、すでに堅く決意していたのです。彼は神が自分にとってすべての源であることを知っていました。これは本当にパワフルなお話です!

 

神のタイミングは完全

 

アブラハムがイサクに刀を振り下ろそうとしたとき、雄羊が丁度その時にあらわれました!神のタイミングは常に完全です。神を信じる信仰によって、神の完全なタイミングに働いていただくならば、私たちは完全な状況を生み出す結果が得られるのです。雄羊が生け贄としてささげられ、イサクは祭壇で殺されることはありませんでした。

もしアブラハムが友人たちからアドバイスを受けていたならば、どうだったであろうかと想像します。もしアブラハムが当時の専門家からアドバイスを受けたならば、多分確実に神に従うことと反対のことを言われたと思います。

アブラハムの友人たちやアドバイザーたちからのすべてのアドバイスは、この世が「良いアドバイス」と呼ぶものであったことでしょう。それは心配してくれる友人たちや専門家が良かれと思って与えてくれたアドバイスでしたが、「違う出発点」からのものだったのです。それは神の声を知ることに基づいていないのです。

 

この世の常識で生きるというベースラインを神のライフラインに変える

 

詩編101:6に「私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。」とあります。もし私たちが誰かからアドバイスを受けたいならば、その人が真実で全き人であることを100%確信せねばなりません。その場合でさえ、神の声を知ることを土台にせねばなりません。それが私たちのベースラインです。それが私たちのライフラインです。

確かにアブラハムは神の声を聞いて知っていたのです。彼は神を絶対的に信頼していました。アブラハムは一生神と共に歩み、神を信頼し、信仰によって生きたことにより、自分の考えを変革できたのです。彼はロジカルと言われるこの世のベースラインを退けて、神の声に従うことがロジカルな最高の基準と受け入れたのです。信仰する対象は何でもいい、誰でもいいと言う訳ではありません。私の言う信仰とは神への絶対的信仰です。

絶対に神への信仰によってのみ生きると決意したとき、私たちは自分の考えを変革するのです。御ことばと神の声を自分の人生に注ぎ込むとき、それは生き生きと盛んになり成長します。信仰が人生の中に常に蒔かれ成長するならば、それはロジカルなものとなるのです。信仰は約束のものへのライフラインとなり、私たちは「信仰がそれをロジカルなもの、最も理にかなっている考えとしてくれた。」ということができるようになるのです。(終り)


03 12月

「ただ一度のまなざしで」 フランシス・フランジペイン 2018年12月3日


「ただ一度のまなざしで」

 

フランシス・フランジペイン

 

 

雅歌6:10「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか。」

人間は単に「宗教」を信じれば満足するようには創造されておりません。

自分の魂の奥底にある強い渇望を満たすためには「宗教」は不十分であることが、はっきりわかる時がくるのです。「宗教」は私たちを満足させないばかりか、イエスをも満足させません。キリストは私たちを実際に個人的に知りたいと思っておられることが聖書に書かれています。

 

マタイ7:22−23

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 

あなたは「でも、主はちゃんと私たちを知っておられます!」というでしょう。勿論、主は全知であられますから、すべてをご存知です。しかし主は愛ゆえに、

主と常に一つに結び合わされた花嫁として私たちを知ることを願い求めておられるのです。主は私たちをご自分の血潮の代価で買い取られたのですから、私たちの魂、私たちの秘密、私たちの夢を所有する権利を持っておられます。主は誰も見ていないときのありのままの私を求めておられます。しかし、力づくでそれをしようとはされません。それは愛の方法ではないからです。

主がまず私たちを愛してくださった故に私たちは愛するのです。主がまず永遠の愛を誓ってくださった故に、私たちも誓うのです。キリストと共に生きる私たちの人生(愛によってキリストと私たちが一つとなる人生)だけが唯一キリストを満足させる教会のデスティニーです。終末の時代に私たちを支えるのは、キリストと一つになること以外何もないのです。

 

神は愛です

 

私は主を恐れることを知っていますし、それが真の知識の初めであることも知っています。そして主を恐れることを喜びとしています。しかしヨハネが言っているように、私たちは皆、神が私たちに持っておられる愛を知り、また信じる必要があります。

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

 

パトモス島でイエスの足元に倒れて死者のようになった使徒が、後に「愛には恐れがありません。(第一ヨハネ4:18)」と言っていることを考えてみましょう。「聖なる恐れ」は私たちを罪から遠ざけ、義しく歩むための強い力になることを主は知っておられます。

しかし主に近づくためには、私たちは神への恐れ以上のものを知る必要があるのです。私たちは「私たちに対する神の愛」を知らねばなりません。第一ヨハネ4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」とあります。私たちはこの「恐れを締め出す神の全き愛」を知らねばならないのです。この愛だけがキリストの花嫁をデスティニーへと導くことができるのです。

 

神の御こころ

 

今この文を読んで、「神を求めキリストに近づきたい」という思いがあなたの心に沸いてきたかもしれません。そのような思いが起こり、「主の臨在を求めよう」とあなたが感じたその時、キリストのこころの中にも何かが起こるのです。

主は「私の妹、花嫁よ。あなたの一度のまなざしであなたは私の心を奪った。(雅歌4:9)」と言われます。

あなたが 主を見るとき(それがほんの一瞬、「主と共にいたい」と願っただけであっても)、主の胸はときめき高鳴るのです。これが、「主と共にいたい」という私たちの願いに対するキリストの応答なのです。

イエスはただ悪を滅ぼすために地上に帰って来られるのではありません。主は花嫁のために来られるのです。終末における私たちの務めは、単に携挙や艱難ために備えをするだけではなく、キリストご自身をお迎えする備えをすることです!

黙示録19:7「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」

 

お分かりでしょうか、私たちの準備はキリストのためなのです。花嫁は、どんなことが世界を襲うのかという恐れでおののいてはなりません。花嫁はこの世に来られる方への愛で満ち溢れているのです!私たちは単なるデイトではなく結婚のために整えられているのです!イエス・キリストにとって花嫁(教会)ほど重要なものは他には何一つありません。主が死なれたのは花嫁のためであり、生きてとりなしをされているのも花嫁のためなのです。

主の愛は私たちを完全に贖う力を持っています。私たちが果たすべき最も尊い務めは、私たちの一瞬のまなざしにさえ胸をときめかせてくださる主に、全てを臆することなく投げ出しお委ねすることです。

 

(祈り)主よ、告白いたします。私は忙しさのために集中できず、私がしなければならないことにだけ心を騒がせていました。実際あなたのために働くことをさえ、あなたの御臨在に留まることの代わりにしていました。私の魂を愛する主よ、悔い改めます。あなたが私を知っておられるように、私もあなたを知ることを願います。主よ、御そばにまいります。(終り)


05 11月

コイノニアの重要さ(2) リック・ジョイナー   2018年11月6日


コイノニアの重要さ(2)


リック・ジョイナー

スモールグループで一番大切なのは、皆がこの集りの頭は主イエスであると認識し、主の導きを信じ委ね、主が自由に働ける環境をつくることです。勿論一応リーダーは立てますし、初めはリーダーの役目も大きいですが、次第に目立たなくてよいようになります。
ぎこちない沈黙が続くときもあるかもしれませんが、それもすべて主に委ねるのです。往々にして、ぎこちない沈黙の後に主が大きく働いてくださるのを皆さんも経験なさったことがあるでしょう。ですから沈黙が来たならば、皆が自分に静まり、主に期待するすばらしい時だと思ってください。主に委ねることを皆が会得すれば、「今日の集会は主がすべて導いてくださった。」と感じるような集会へと成長していきます。

私は若い時、いろいろな家庭集会を経験してきました。毎日のようにどこかのグループに出席していましたが、とてもわくわくと楽しく、行くのが待ち遠しくてなりませんでした。集会にいつも主が来てくださったからです。そしてものすごい主の業が起り始めました。確かにきれいごとではない、厄介なことも起りました。議論、口論も起りましたが、愛し合う気持には変わりがありませんでした。問題を通して皆が成長していったのです。ですから問題が起こっても、落胆しないでください。高校時代によく喧嘩をしましたが、喧嘩の後は、驚くべきことですが、喧嘩の相手ととても仲良しになりました。霊的にも同じです。かつてうまが合わなかった人が、あなたにとって影響力のある大切な人になっていくのです。

リバイバルの目的

私たちはエリエゼルの油注ぎが必要であり、その油注ぎが今与えられようとしています。エリエゼルのミニストリーとは、人々(イエスの花嫁になる人たち)にイエス(花婿)の素晴らしさを伝え、主を更に深く愛するように導くことです。(WWGM
2018年9月5日「エリエゼルの役目」を御覧ください)

使徒たちは、「死から復活したイエス・キリスト」を伝えたのであって、「教会について」とか、「ミニストリーについて」とかを話したのではありません。まことのリバイバルは私たちがリバイブされて主を愛することです。
私たちが主を深く愛することに焦点を当てるならば、 他のことはすべてその「実」として必ず自然に生まれて来るのです。決してその逆ではありません。

もし人為的に「コイノニアを作ること」が私たちの焦点になるならば、それは決して成功しません。私たちは交わりや教会を崇め始めてしまうのです。私たちは神ご自身ではなく、神に関する何かを簡単に崇めるようになってしまうのです。そうであってはなりません。私たちはただ神を愛し、讃え、礼拝するのです。その時他のものは自然に生まれてきます。

私がクリスチャンになって間もなく、若い牧師のヴィジョンを見ました。彼は主を心から愛し主だけを見つめていました。群衆が彼の周りに集まってきました。彼は振り向いて群衆に目を向けました。すると群衆は散っていきました。彼がまた主の方を向くと群衆が集まってきました。群衆の方を向くと群衆は散っていきました。彼が群衆に焦点を当てると彼らは散っていったのです。彼はやっと気がつきました。

このヴィジョンが教えているように、私たちは主の住まいを用意して、主を愛し主に仕えることを第一とせねばなりません。主はご自分の住まいを求めておられるのです。もしあなたが5、6人のスモールグループを持っておられるならば、そこを主の住まいとすることができるのです。主のための最もすばらしい住まいを作ることができるのです!
十字架につかれるまであと一週間しかない時、主は何をされたでしょうか。弟子たちに集中講義をするのではなく、ラザロの家に行き、マリアやマルタと時をすごされたのです。彼らは偉大な使徒になったわけではありません。主は彼らの家に行くことを愛されたのです。あなたも主が行きたいと思われる家をつくりたいとは思いませんか?
競争をしようではありませんか。主が一番愛される家をつくるのは誰でしょうか?

30年前に私はボブ・ワイナー氏やジョン・エリオット氏とラジオ番組をしていたのですが、その時聖霊が注がれ、次のように言われました。「来るべき魂の収穫のための網は、アメリカに50万のホームグループのリーダーが生まれることです。彼らは効果的に人々を主に導き、バプテスマを授け、解放し、癒し、健全な教義を教え、キリストのからだの中での自分の役目を知らせ、それに向かって成長させるリーダーです。アメリカのリバイバルはこのようなホームグループから起こります。」

使徒パウロの目指すことを見てください。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」パウロはいつもこのように考えていたのです。誰に会ってもその人が神とどのくらいの関係を持っているかを察知して、その人が次のステップに進むのを助けたのです。まだ主を知らない人には主を紹介し、聖霊のバプテスマを知らない人にはそれを教えたのです。すべての人がキリストにある成熟へと進むようにとパウロは常に考え行動していました。スモールグループのリーダーもそのような心構えを持たねばなりません。王なる主の子どもたちの成長を委ねられているのです。

イエスが「わたしの弟子とはこういう者である」と言われている言葉を読んでみてください。「弟子」の次に「しもべ」となり、(しもべとならなければ、私たちは獣のしるしを受けてしまうことでしょう。黙示録は「しもべたち」にむけて書かれています。)次に「神の友」となり、そして「息子、娘」になるのです。弟子から息子へと一足飛びになることはできません。クリスチャンになったものは、自分が成熟の行程のどこにいるかを知る必要があり、それによって次のステップを目指すことができ、リーダーはそのプロセスを助けるのです。これはクリスチャンとして基礎的知識であるはずですが、ほとんどの人は教えられておりません。「ボーンアゲイン」さえすれば、それで到達したのだと考えているのです。でもそれは出発点なのです。そこから成熟のプロセスが始まります。

一人の罪人が悔い改めるとき、天に大いなる喜びが起こります。私たちはそれは人が救われたときだけだと考えがちです。しかし、クリスチャンになってからもずっと持っていた罪を悔い改めるならば、同じように天に大いなる喜びがあるのです。そしてキリストの身たけへと成熟していくクリスチャンを見るとき、御父は大いに喜ばれるのです。あなたの次のステップは何でしょうか。(終り)


28 10月

コイノニアの重要さ(1) リック・ジョイナー


コイノニアの重要さ(1)


リック・ジョイナー

第一ヨハネ1:3「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わり(コイノニア)を持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり(コイノニア)です。」

神とのコイノニア

私たちが互いに真のクリスチャンの交わりを持つには、まず各々が主との親密な交わりを持つことが必要です。ある人が主と親密になることほど、人に伝染しやしいものはありません。すべての人の心の奥底には神のための用意されているスペースがあり、人は霊なる神を礼拝するように造られているのです。すべての人の中に神だけが満たすことのできる渇望があるのです。私たちが主に近づくならば、まわりの人々を引き寄せます。そしてそれが人びとを主に引き寄せる唯一の方法であるべきなのです。

「火事が起こったときにそれを宣伝する必要はない」のです。もしあなたが主に燃えているならば、人々はあなたが燃えるのを見にくるのです。
祭壇の火は主が下してくださいますが(レビ記9:24、第二歴代誌7:1参照)、その火を燃え続けさせるのは私たちの責任です。(レビ記6:13
火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。)本物のリバイバルを人が起こすことは絶対できません。しかし人がそれを燃やし続けることを怠って消してしまうことは起ります。私たちはレビ人として祭壇の火を燃やしつづけるという任務を与えられているのです。

人々とのコイノニアの交わり


私たちはまず2、3人のグループから始めるべきです。2、3人であるならば、真に親密になり堅い絆で結ばれることができます。それを土台にして成長していけます。主イエスは多くの弟子の中から12人を選び、彼らと親しく交わり深い教えを与えました。12人というのは、家庭集会にとってよい人数です。「もっと大きくしなければならない」というプレッシャーを感じる必要はありません。私の経験では25人以上になると、何かが失われてきて本当の親密さを保つのは難しくなります。ですからその時はグループを二つに分けたりして、新しいグループを作らねばなりません。

大切なのは、すべてが組織的、形式的、律法的になされるのではなくて、自然発生的に(オーガニックに)なされるべきことです。勿論、計画や方法はよいことですし、教会の組織も必要になってきます。しかし、まず人と人との親しい交わりであるコイノニアが生まれていなければ、それは空虚なものです。私たちは「組織」としてではなく、「家族」として召されているのです。もし「家族」となるのを無視して「組織」を作ろうとするならば、私たちは基本的な召しを忘れているのであって、それを回復するのは非常に難しくなります。

使徒たちが各地で福音を伝え始めて人々が救われたとき、彼らは新しいクリスチャンをそのままにしてその地を去りました。長老や執事を選んで教会組織をつくることなどしませんでした。それから数ヶ月、或いは数年経ってからその地を訪れたときに、リーダーが必要ならば選んで任命しました。「幾つかの職に人が付かねば教会ではない」というような考えは全くありませんでした。一番重要なのは、そこに集まる人々が、皆主と親しくなり、家族の交わりで親しく愛しあっている、即ちコイノニアの交わりをしていることでした。
そして人数が増えていくならば、コイノニアを土台としたエクレシアの組織として成長していけばよいのです。

もう一つ現在の教会には大きな問題があります。それはメンバーをいつ働き人にするかということです。タイミングが「早すぎる」のと「遅すぎる」という両方の問題です。ルカ10章で、イエスは弟子たちを2人ずつ遣わされました。2人ずつで十分だったのです。指示をして彼らを送りだし、彼らはその任務を十二分に果たすことができ、喜んで帰ってきました。しかし次の11章に行くと、弟子たちがイエスに「祈り方を教えてください」と頼んでいます。彼らは祈り方も知らない前に、病人を直し悪霊を追い出したのです。勿論、いろんな失敗もしでかしたでしょう。でも失敗せずに成長する人はいないのです。まことに教会というのは、きれいごとではないのです。

私はモーターバイクに乗るのが大好きで、その時に一番主を近く感じます。バイクに乗りながら祈りや執りなしをしますが、ある時、主が「最も完全に一致している教会を見せてあげましょう。」と言われ、バイクに乗った私を山道に導かれました。そこに小さなバステスト教会がありました。私が「主よ、バプテスト教会ですか?」と訊くと、主は「そこではない、その隣です。」と言われました。なんとそこは墓地だったのです。死んだクリスチャンたちは完全に一致していました!主は「あなたが完全に一致している教会を望むならば、それは墓地と同じように死んだ教会です。」と言われました。

使徒たちのことを考えてみてください。主がドナルド・トランプ大統領のような人を12人選んだみたいです。彼らは主と3年半一緒に暮らしましたが、最後の夜に誰が一番偉いかと争いました。でも主は彼らを叱るのではなく、一番偉くなるための道はしもべになることであると教えられたのです。主は彼らの中の「一番偉くなりたい」という情熱を好まれたのだと思います。

「大志 大望 ambition」は決して悪いものではありません。「自己的な大志、野望 selfish ambition」が悪なのです。神は私たちの内に大望を入れられました。神はアダムに「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われました。人は増し加わることを願うように造られているのです。

大志を持つときに、人々はそれを嘲笑するかもしれません。「自分を何様だと思っているのだ。エリヤとでも思っているのか?」と言うかもしれません。その時、あなたは「違いますよ。私が目指すのはもっと高いところです。」と言うべきなのです。私たちは旧約よりも優れた契約をもっているのですから、旧約の彼らが到達した地点は、私たちの出発点なのです。しかし、大切なのは私たちが高い志を持つ理由です。私たちの大志は、人々の中にキリストが成長することです。

しかし私たちの動機が100%純粋ということは不可能です。もしそうならばエノクのようにすでに天に挙げられていることでしょう。でももし自分の動機が100%純粋になるまで待っていたら、あなたはいつまでも何もできないでしょう。

スモールグループの中では、すべての人が何かを与えることができます。歌、教え、預言等です。でも教えというのは「説教」である必要はありません。5分か10分くらいでいいのです。スモールグループは、喩えれば持ち寄りの食事のようなものです。新約聖書には沢山人々が共に食事をすることがでてきます。それと同じように、霊的食事をみんなが持ち寄るのです。多くの場合持ち寄りの食事はとてもすばらしいです。皆が一番得意な料理を心をこめて作ってくるからです。自分が持ってきた料理を人々が食べるのを見て喜び「いかがですか?」と訊ねるのです。それと同じように霊の食事を持ち寄って神の子どもたち(神のプリンスやプリンセス)をお互いに養うのですから、勿論一番良いものを持ってくるのです。

もしあなたが教師として召されているのならば、「最高にすばらしい5分の教え」をしてください。そしてみんなに「もっとほしい!!」と言わせるのです。「短い説教に悪いものはない」とマーク・トウェインは言いました。神の教えはとても短いですね。勿論大きな集会ではもっと詳しく長く話していいのですが、家庭集会やスモールグループでは、全員に自分の持ってきた霊的食物を皆に食べさせるチャンスを与えるべきです。皆さんも自分が分かち合うときに恵まれることをご存知ですね。ですからそのような機会を皆に与えてください。持ち寄りの食事は何を持ってくるように打ち合わせをしなくても不思議にバランスがいいですね。霊的食物の持ち寄りも、聖霊にお委ねするのです。(続く)


21 10月

生きた細胞からなる教会(2) ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)


生きた細胞からなる教会(2)


ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)


12.霊的父親、母親が育つ場


  第一コリント4:15−17「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。そのために、私はあなたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」

  この箇所で用いられている言葉「父、愛する忠実な子」は家族関係の言葉です。現在の教会は父や母ではなく、CEO(最高経営責任者)で運営されています。CEOは勿論ある所では必要とされますが、神の子を養うのはCEOではなく父や母です。確かに家族関係はややこしくなることがあります。しかしそれが本当に生きるということです。よく見てみると聖書全体に霊的な家族を表す言葉がちりばめられています。小グループで私たちは霊的父や母になり子を育てることができます。

  第一ヨハネ2:12−14「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」

  この箇所によると、クリスチャンには3つのレベルがあることがわかります。これは年齢とは全く関係がなく、霊的な成熟度を言っていて、即ち、子ども、若者、父(母)です。

  子どもとは「罪が赦されたことを知り、御父を知っている者」ですから、救われたクリスチャンです。彼らは無邪気でかわいいですが、いつまでもそのままでいるならば問題です。子どもは自己中心で「これは好き、あれは嫌い」と言い、「この教会は自分を食べさせてくれない」と言うのです。
  若者とは「悪い者に打ち勝ち、神のみことばがうちに留まっている者」です。若者は自分で御ことばを食べて勝利することができる者であり、もはや子どもではありませんが、まだ父や母ではありません。

  ではどうすれば父や母になれるのでしょうか。それは子どもを持つことによってなのです。あなたが誰かを導くようになることによってです。それは神が非常に喜ばれることであり、決して難しいことではありません。霊の子ども(1人でも2、3人でも)と毎週、或いは2週間か月に1度会って、彼らが神にあって成長するように助けるだけです。
質問に答え、励ますのです。

  「私には出来ない。」という人が多いのですが、そんなことはありません。私が23歳のときに最初の子どもが生まれ父親となりましたが、赤ちゃんをどう扱えばよいのか全くわかりませんでした。でもやればやれたのです。霊的父や母も同じです。やればやれるのです。

  パウロはテモテを霊の養子とし、「私の愛する忠実な子」と呼びました。又ピレモン11節でオネシモのことを「獄中で生んだわが子オネシモ」と言っています。エリシャはエリヤに父親になってくれるように頼みました。
  そのような関係を結ぶように依頼するのは、子の側からでも親の側からでもよく、又、一年とかの期限を限ってもかまいません。

  神はすべてのクリスチャンが霊的親になることを望んでおられます。それはあなたの年齢に関係ありません。人は誰かが成長するのを助けるときに、自分も一番成長するからです。考えたこともないような質問をされ、それについて調べるとき、あなたも成長するでしょう。「弟子を育てる」のと「霊的父親、母親」になるのとは基本的に同じです。聖書は両方の言葉を使っています。

  私は現在23カ国にある700の教会を導く使徒のリーダーとして働いていますが、その一番土台になっているのは、「神の恵みと恩寵は霊の父親、母親の上にある」という真理です。この私たちのグループは組織ではなく家族です。そしてすべての人を神の召しへと解き放っています。教会が分かれるとき、それは分裂ではなく、教会が増えることなのです。教会の中の誰かが新しい教会を作りたいというならば、あなたは「素晴らしい、教会に子どもが出来た、教会が増える!」と喜ぶのです。その人を縛り付けるのではなく、解放して祝福するのです。

 「私はあなたと生涯一緒に働きます。」などという契約をたててはいけません。私たちが一生持つべき契約の第一はイエスとの契約、次にキリストのからだとの契約、そして妻や夫との契約です。もしあなたが誰かを自分に縛り付けようとするならば、神ご自身がその人をあなたから引き離すでしょう。ですからあなたは自分とは別の働きを始めたい人がいるならば、その人を応援し、祝福し、神から大いに用いられるのを親として喜ぶのです。

アブラハムの祝福を見てみましょう。

 創世記15:5、6「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」


  アブラハムは人間的には信じ難いことを信じ、義と認められました! そして息子を与えられました!
  神はあなたにも子どもを与えたいのです。
  あなたは牧師ではないかもしれません。しかしあなたは小グループのリーダーとして父親、母親になることができるのです!あなたもアブラハムのように神を信じてください。子どもは2人でも3人でもいいのです。

  ガラテヤ3:19でパウロは「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と言っています。あなたの育てた子がまた次に子を生み育てていき、あなたの霊的子孫は増え広がっていきます。これは本当に素晴らしく、また神にとって重要なことであり、永遠の価値を持つ働きです。このために神からの恵み、油注ぎが注がれるように祈りましょう。

第一テサロ二ケ2:7&11&19、20「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。...また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。...私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそが私たちの誉れであり、また喜びなのです。」(終り)


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