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Walk With God Ministries


10 03月

キリストに似る者となる     フランシス・フランジペン           2020年3月10日 


キリストに似る者となる

 

フランシス・フランジペンIn Christ’s Image より)

 

 

 本日は、私たちの教会の最も中心的なビジョンを話します。それは「キリストに似る者となる」ことです。私たちがキリストに似る者とならないならば、教会の目的はなくなります。神は私たちの古い性質を抑制する「宗教」を与えてくださったのではなく、私たちに新しい性質をくださいました。新しい命、即ちキリストの命そのものをくださったのです。パウロはガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と言っています。

 

 イエス・キリストがあなたのうちに生きておられるかどうか、吟味してみてください。教会におけるすべての訓練(活動、ビジョン、適応、学びなど)の目的は、キリストを私たちのうちに解き放つことにより、キリストが私たちを通して生きることにあるのです。私たちがどれ程キリストの霊をこの世に解き放つか、そのために、自分の動機、自分の思い、自分の信仰をどれ程キリストに明け渡すか、それが教会の成功度のバロメーターであって、人数ではありません。何人がキリストに似る者となるかが、教会の成功を測るポイントです。それによってあなたがリバイブされたかどうかがわかります。リバイブ(生き返る)するのは、あなたの中のキリストの命だからこそです。

 

 パウロがピリピ3章に書いていますが、彼は信仰生活を始めたとき、多くの教会を設立しようと計画した訳ではありません。新約聖書の三分のニを書くつもりも、使徒になる計画もありませんでした。彼の唯一つのパッションは「イエスを知ること」でした。彼はピリピ3:2で犬に気をつけるように警告しています。悪い働き人、肉体だけの割礼の者に気をつけるように言っています。

 一世紀の犬は今のように可愛いペットではなく、ゴミ捨て場をうろつく動物でした。エルサレムの12の門の一つはゴミの門で、その門の外はゲヘナと呼ばれゴミが燃やされていました。犬はそのゴミをあさって生きていたのです。教会にもゴミばかりあさっているクリスチャンがいます。何か悪いことがないかといつも鼻をぴくぴくさせているのです。腐敗したことはないか、不完全なものはないか、何か失敗した者はいないかといつも嗅ぎまわり、それを食べて生きているのです。どうかそのようなクリスチャンにはならないでください。神はあなたのためにもっと良いものを備えていてくださいます。

 ここでパウロは「宗教」ではなく、キリストとの真の関係について話しています。彼は自分の経歴を述べ始めます。「自分はパリサイ人の中のパリサイ人、ベンジャミン族の出、律法に熱心で非難されるところはなかった...」と自分の血筋の良さを書き並べたあと、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」と言い、この「イエスを知りたい!」というパウロの情熱こそが、彼が「神からの約束」を得る推進力となったのです。もしあなたがイエスを知る情熱をもたず、キリストに似た者になることもせず、神からの約束の成就だけを願うならば、それはなかなか成就しません。キリストに似た者になることを人生の最大の目的とすることが必要であるのです。

 この教会はただ「人々」を求めているのではなく「弟子」を求めているのです。

「弟子は師以上には出られません。しかし、十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」(ルカ6:40)」とイエスは言われました。私たち弟子は、師であるイエス・キリストのようになれるのであって、それが私たち教会のゴールです。イエスを知ること、イエスのようになること、そのための情熱を持つこと、それが今日の話のテーマです。

 それはあなたが生きているこの世界でキリストのようになることであって、次の世においてではありません。次の世ではすべての人が完全にされますから、それは難しくありません。でも神は今ここで私たちがキリストに似る者となることを意図されているのです。

 即ち、あなたの仕事場でキリストのようなること、あなたが住んでいる町でキリストのようになることです。もし私たちがそれを目指して進むならば、神の約束がそれに添えて成就されるのを私たちは見るのです。

 

 私たちは神の約束を得ようと進んでいても、なかなかそこに到達出来ないと感じます。それは私たちが「神の約束は他のことと関係なく独立して存在し、成就するものだ」と勘違いしているからです。そうではなく、神の約束は、私たちがイエスとの縦の関係を確立するとき、私たちの心がキリストを知ることを愛しキリスに似る者となりたいと情熱を持って進むときに、その「結果」として、神の選ばれた時に成就されるものです。

 

 世界の国々のことを考えてみましょう。彼らが救われることを私たちは願います。すべてのものは膝をかがめ、すべての口が「イエスは主である」と告白して神を誉め称える時が必ず来ます。イスラム教国であっても、共産国であっても、ヒンズー教国であっても、ある時にすべての人が「イエスは主である」と告白し、それが真理であり、リアリティーなのです。現在と、それが成就するまでの間の期間に、教会はどんどんと今までになかった程キリストに似る者となるのです。この約束が成就されるために、私たちはキリストに似る者にならねばなりません。

 第二コリント1:20でパウロは「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって、『アーメン。』と言い、神に栄光を帰すのです。」と言っています。「ことごとく」とは、神がイスラエルにした約束、異邦人にした約束、イエスによってもたらされた約束、神があなたにされたすべての約束、これらすべての約束のことです。健全な結婚、子供たちの救い、繁栄、健康など、すべてあなたが神からの約束と信じるものは、「この方において『しかり。』となったのです。もしあなたが約束の成就に到達したいと願うならば、まずイエスにある成就に到達せねばなりません。イエスにあって成就すること、即ち私たちを通してイエスが顕されることが、二番目の祝福の扉、即ち神の約束の成就の扉を開けることになるからです。

 

 人々はあまりにも多くの場合、焦点の合わせ方を間違えます。例えば、「繁栄」ということに焦点を当てます。「神は私を繁栄させてくださる。私が蒔けばそれは何倍にもなって返ってくる、と聖書は約束している。」と言います。でもその人はやがて破産してしまいます。どうしてでしょうか。その人は「信仰」をもって行ったのではないのですか? 聖書の法則に従って行動したのではないのですか? 違います。そのような約束はそれが独立して成就するのではなく、イエスにおいて成就するのです。私たちの人生の中心にイエスがおられるならば、主は光と力を与え、すべてのものをあるべき姿にしてくださり、二義的な約束をも成就してくださいます。「イエスにおいて」「神の約束はことごとく」「しかり」なのです。これは、すごいことではないでしょうか。

 

 あなたはあなたの結婚が、仕事が、家族の救いが、その他すべてのことが巧くいくことを願っています。神はそのすべてをイエスにおいて「Yes!」だと言われるのです。喜びの叫びをあげようではありませんか! 御父は御子をそれほど愛されているのです。イエスはそれほど私たちのために代価を払われたのです。天の銀行にある約束を引き出すためには、私たちは「イエスにおいて」生きねばなりません。イエスの御ことば、命があなたの命となって、神があなたの内側を変えてくださることによって、栄光から栄光へとあなたを内から外へと変革してくださいます。イエスに焦点を当ててください。

 これを真剣に願う人がいますか? 「主よ、私はそれを求めます。」と言いますか? そのような人にはある事が起ります。主はあなたを「イエスのようでなければならない状況」に導かれます。

 前もって警告しておきますよ。何かが起り始めます。戦いが始るのです。確かに「私はイエスのようになりたいと言いました。でも教会という安全な場所でね。でも教会を出た途端、ひどいことが沢山起こりました。」とあなたは言うかもしれません。でもひどいことが起るのはすばらしい事であるのです。それはあなたが前進している証拠です。あなたは「私はそんな風に前進などしたくありません。私は安らかにまどろんでいたいんです。」と言われますか?

 もしあなたが真剣ならば、主はあなたが立ち上がってキリストに似る者になるのを阻止しようとするものとの戦いに勝利できるように油注いでくださいます。この戦いは神の御こころによって戦略的であり、計画、計算されていて、教会という安全な場所で先ず調えられたあなたが、厳しい外の世界に出て行って勝利するように神が備えてくださったものなのです。そこで私たちはイエスのようになるプロセスを拡張していくことができるのです。教会の建物を出てからが実際の生活の場におけるリアルな訓練です。

 

 あなたは将来の伴侶を求めているかもしれません。それは誰だか教えましょう。それはイエスです。「そういうことではなく、本当の誰かを望んでいるのですが….」と言われるかもしれませんね。でも、まずイエスと親しい関係になることがよい伴侶を見つける道です。幸せな結婚がしたい、よい家庭を作りたい、というあなたの願いは、まずイエスとよい関係を結ぶことから始ります。それによって主はあなたに最良の結婚を与えてくださいます。あなたがまわりのものに目を奪われることなく、まずイエスを目指して進むからです。

 

 私たちには少しばかりの苦難、少しばかりの戦いが必要です。小説でも「葛藤がない話は退屈」でしょう? 私たちの中には「退屈な筋書き」の人生を送っている者があるのではないでしょうか。でも大丈夫です。あなたがキリストに似る者になりたいと真剣になったときには、主は必ず葛藤、戦いを送ってくださり、あなたがキリストのようにならねばならない状況の中に置いてくださいます。キリストに似る者になればなるほど、神の約束はあなたの傍に引寄せられてきます。神はあなたの心の願いを与えてくださるようになります。戦いの中にあってもあなたが主を喜ぶとき、あなたが聖なる手をあげて祈るとき、神に愛を捧げるとき、生け贄を喜んで捧げるとき、神は祝福を与えてくださるのです。神の力があなた近づいてきます。あなたがキリストに近づくからです。私たちの教会のDNAは、イエスに従う者です。イエスのように変えられる者です。今日、私たちは神からイエスのようになるチャンスと力を頂いているのです。特権です。

 

 質問します。あなたは他の誰かでその人のようになりたいと思う人がありますか? 考えてみてください。政治家ですか? 映画俳優ですか? 私はイエスのようになりたいです。あなたもそう思われるならば、あなたはその決心をせねばなりません。「主よ、これが私の生き方です、私はこのために生まれました。」と決意してください。イエスのようになること以外は、すべて死の世界なのです。私たちの魂のすべてがイエスにむかって「Yes!」というならば、キリストの御性質が増え広がって行きます。すべての人がこの決断をすることが、私の願いです。「私は真にイエスに倣う者になりたいです。今までは、それ以下のことを神としていたことを心から悔い改めます。」と告白してください。

 

 イエスを離れて私たちは何もできないのです。徳を高めることも、力を得ることも、神の約束を手に入れることもできません。ある人は他の人がしていることを真似てそれらを得ようとします。しかしイエスを内に持たないではそれは不可能です。朝イエスと共に目をさまし、夜イエスと共に床につく、私の潜在意識までもがイエスの思いで一杯になるように、私の目が健全でからだ全体が少しも暗いところがなく明るいようにと願います。

 

 祈りましょう。「父よ、私たち一人ひとりが、イエスのようになることに熱心になりますように。私たちの人生のすべての面をあなたが取り仕切ってくださいますように。父よ、私たちがイエスに似る者となることをお願いいたします。キリストのような心の態度で回りにいるすべての人に接することができますように。自分はいつもそうではないことを告白いたします。あなたや私の心を満足させるような態度ではないことを告白いたします。キリストのような心をすべての面において与えてください。父よ、私たちがイエスを顕す者となれますように。アーメン 」(終り)


03 03月

「コロナ・ウイルスの終焉が近づいていると、主は言われる。」とショーン・ボルツ師は預言する                   坂  達 也


コロナ・ウイルスの終焉が近づいていると、

   主は言われる。」とショーン・ボルツ師は預言する

 

                  坂  達 也

 

 在ロスアンゼルスの預言者ショーン・ボルツ師が、世界中で今猛威を奮い、広大の一途にあると思われている真っ只中で、突然「主が、コロナ・ウイルスの終焉が近づいていることをはっきりと語って下さった。」と発表しました。これは驚くべき、全く信じられないような朗報です。

 

 すなわち、ピークは未だ全く見えない、増大一方の潮の流れが「間もなく峠を過ぎて、引き潮になると思います。」とボルツ師は言われるのです。

 これはたまたま、私が遅い昼食を食べながら FOX NEWS を見ている時に入って来たニュースでした。

 

 今世界中で91,000人がこの病気に罹り、既に3,000人以上の死者が出ております。しかも、この話を私が聞いている最中に、私(坂)の家族(息子の嫁)から電話があり、私たちの住むニューヨーク郊外のハーツデール市に隣接した直ぐ隣町のスカーツデール市に住むユダヤ人の弁護士(50歳の男性)が通常のインフルエンザ症状からコロナウイルス陽性反応が出て収容された、それで、その人の働いていた、かなり大きな事務所ビルデイング全体が、目下大規模な消毒作業中との情報が(同じビルで働いている嫁の友人から)入ったのですから私は、いよいよ来たかと覚悟しました。

 

 ボルツ師の話を続けます。「私はカトリックを含む全てのクリスチャンの祈りに神が応えて下さったことを信じます。神はプランをお持ちです。多くの神の声が聞こえるクリスチャンの中には、ペンス副大統領、元知事であったマイク・ハカビー、それにジャスチン・バイバー、クリス・プラット、デンゼル・ワシントン、オプラ・ウィンフリーさんたちがいることを紹介し、そして先週金曜日には、南アフリカで行われたExpression 58 の創始者牧師が、ベテル教会のビル・ジョンソン師とベテル教会のワーシップリーダーの一人 Sean Feucht (今回の選挙でカリフォルニア州の第三地区から国会議員に立候補する)さんと並んで舞台に立ってメッセージをしたことを分かち合いました。彼らはベテルでの新しい歌「God of revival 」を歌っている最中に、私(ボルツ師)は神からコロナウイルスの台頭が終わることを明確に聞いた。」と言います。

 

 ボルツ師は続いて、「その潮は間もなく、二週間か、あるいは2ヶ月かは分からないにせよ、峠を迎え、やがて引き潮に変わる。」と言い、しかも詩篇56:9を引用したのです。

 「それで私(ダビデ王)が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。」

 しかし筆者の坂は、これに10節と11節を加えて読むと一層良く分かると思い、これを加えて下記に引用してみます。

 「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。神にあって私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。・・・」

 このダビデ王のことばこそ、世界中で恐れられているコロナ・ウイルスに対する「クリスチャンが取るべき信仰の態度」ではないでしょうか。

 

 ボルツ師は続けます。「二つのワクチンが出て来るのを、私はビジョンで見ました。一つはイスラエルから、もう一つはアジアの国の一つからでした。しかもこれらのワクチンは素早く現れるでしょう。」

 そして「次の火曜日にはシンデイー・ジェイコブ師がリードする世界の祈りの日として祈祷会が行われ、その日の昼食時にトランプ大統領の個人的牧師であるポーラ・ホワイトーケイン師が加わって祈る」ことを紹介しました。

 

 最後にボルツ師は言います。「中国でのコロナウイルス発生の地、武漢市から来た牧師の一人から、武漢市とは、そこに多くのミッショナリーが集まって、リバイバルが起こることを、この100年の間、熱心に祈って来た土地であることを聞いた」ことを紹介するとともに、最近のW.H.O.の報告によれば、世界中でコロナウイルスが広がる中で、この武漢市地区では逆に、最近ウイルスの発生が減少していると言われていることを報告しています。

 これは、本当にそのミッショナリーの人たちの長い間の祈りが聞かれている証拠ではないでしょうか。

 

 以上ですが、私(坂)としては、先週までにご紹介して来たボブ・ジョーンズ師とか、リック・ジョイナー師だけではなく、他の多くの預言者の皆さんが一様に預言されて来た「最後のアウェクニングとリバイバルが、今年2020年から始まる」ということばが、いよいよ現実となりつつあることをひしひしと実感している次第です。

 日本にもそのアウエークニングが間もなく起こり始めることを期待し、心からお祈りさせていただきます。(終わり)

 


13 01月

プレイズとワーシップの相違点   ボブ•ソージ    2020年1月13日


プレイズとワーシップの相違点

 

ボブソージBob Sorge Ministry)

 

 

プレイズとワーシップの幾つかの相違点を明確に把握することは、私たちの助けになると思います。多くの場合、この二つは違う領域で機能します。しかし、時にはこれらを区別することがほとんど不可能なこともありますし、同じ礼拝の中でこの二つが別々の人々によって同時に行われることもあります。

 

私たちが手を上げて主の御前で踊るとき、プレイズをしているのでしょうか、それともワーシップをしているのでしょうか? それはどちらでもあり得るのです。というのはプレイズとワーシップの外面的な姿は、多くの場合、全く同じだからです。

 

プレイズとワーシップを切り離すのは、魂と霊を切りはなすほどに難しいことです。魂と霊は人間の持つ二つの異なる面ということは確かですが、その違いをはっきり区別するのは簡単ではありません。自分の内に一つの感情が生じたとき、それが「霊由来のもの」、あるいは「魂由来のもの」と決めつけることが私たちにできるでしょうか? 魂と霊を見分けるほど鋭いものはただ一つだけであり、それは神のことばです。(ヘブル4:12)私たちは自分自身の内にあるものの違いさえも判断できないのです! 同じようにプレイズとワーシップは二つの違うものですが、切り分けられないことがよくあるのです。

 

祈り、感謝、プレイズ、ワーシップという4つ表現は、非常に深く関わっています。これらの4つは互いに互いの領域と重なって存在しているからです。

プレイズとワーシップの違いは、ほとんど「仮に違いがあると想定するならば」と言ってもいいほどです。しかし、この仮説ともいえる相違点を調べることによって、私たちはワーシップのエッセンスをもっとよく理解することができると思います。

 

1.まず第一に、神は私たちのプレイズを必要とされません。私たちに「神をプレイズする必要」があるのです。神は私たちに「プレイズせよ」と命じておられますが、それは「神がそれを喜ばれるから」とかではなく、それが私たちのうちに良い変化をもたらすからです。私たちが神と正しい関係となり、神の御前にへりくだるためのプロセスの中でプレイズは必要なステップなのです。

 

神はあまたの被造物からありあまる賛美を受けておられるので、私やあなたが賛美することを拒んだとしても問題はありません。しかし御父はワーシップをする者、ワーシッパーを心から求めておられます!(ヨハネ4:23)ここで、神が求めておられるのは「礼拝 ワーシップ」ではなく、「礼拝者 ワーシッパー」であることに注意してください。神は私たちのワーシップを必要とされるのではなく、ワーシッパーとしてのライフスタイルと思考態度を身につけた者たちを熱心に求めておられるのです。

 

2.2番目に、プレイズをする時は、主と自分との距離があまり近くない場合もありますが、ワーシップのときは主との親しい交わりがあります。プレイズをするとき、その人の心が神の近くにある必要はありません。私は飲んでどんちゃん騒ぎをしながら神を賛美し始めた男たちの話を聞いたことがあります。

 

ワーシップはそれとは違い、私たちを神のこころに引き寄せます。神との関係はワーシップには必須です。なぜならば、ワーシップは一方通行ではなく両者の間を行き来きして、受け取ったり与えたりするものだからです。プレイズは一方通行で上に上っていくことができますが、ワーシップには親密な交わりと communion が伴うのです。

 

3.次に、プレイズをすると、それは常に目に見えたり聞こえたりします。しかし、ワーシップは傍目には分からないことがあります。ワーシップがプレイズと同じようにはっきり傍目に分かることもありますが、いつもそうではありません。

 

ワーシップをしている人が主の御前に謙虚に自分をすべて注ぎ出すとき、まるで死んでいるかのように見えることもあり(黙示録4:10、11に出てくる長老の姿を参考)ですからワーシップをしているかどうかを外見で見分けるのは難しい場合もあります。賛美は目で見えるので、賛美をしているかどうかを判断することはできるかもしれません。しかし本当にワーシップをしているかどうかを判断できるのは、ただ一人のお方、神だけです。

 

4.4番目に、プレイズはその目的においてほとんど水平方向のものですが、ワーシップは縦の関係に動くものです。私たちがプレイズするとき、水平に多くのことが起こります。互いに主のことを語ったり、互いに主への賛美を宣言したりします。しかしワーシップはもっと個人的なものであり、三位一体の神にもっと集中してかかわっていくものです。ワーシップには少しは横の要素もありますが、それが主となるものではありません。

 

プレイズは多くの場合、ワーシップに入る準備になります。完全にワーシップに入る前にプレイズをまずするようにと、神が教えてくださることがよくあります。それは、自分の内なるすべてをもって主を賛美することを会得するならば、そこからすばらしいワーシッパーへになって行くのがたやすくなるからです。

 

しかしながら、私たちが賛美するとき抑制されていて解放されていないならば、ワーシップにおいても縛られていることになるでしょう。ですから心からのプレイズはワーシップへの入り口と考えていいでしょう。多くの場合ワーシップよりもプレイズのほうが始めやすいでしょう。ですから、もしワーシップへ入るのに困難な時は、プレイズから始めればワーシップがもっと楽に流れ出すでしょう。私たちはプレイズに入るようにと歌い始め、そしてワーシップに入るためにプレイズをするーしかし歌うことが必ずプレイズに入っていくという保証はなく、又プレイズをすることが必ずワーシップへ入っていくという保証もありません。

 

5.この点に関しては例外がありますが、一般的に言うと、ワーシップは通常ゆっくりした歌によって行われ、プレイズは早めの歌によって行われます。

 ゆっくりしたテンポがいつもワーシップを表して、早いテンポはプレイズだということではありません。そうではなく、ゆっくり目の歌のムードがよりワーシップにつながりやすく、早めの歌がプレイズの性質にもっとよりそいやすいということです。

 勿論、時として例外はありますが、このように考えることは、私たちがプレイズとワーシップの違いを理解するのに役立つと思います。実際のところ、ある歌がプレイズのためかワーシップのためかを見極める最良の方法は、テンポが早いか遅いかではなく、歌詞の内容を見ることです。

 

しかしながら、私たちは次のことを忘れてはなりません。音楽はワーシップの一つの道具にすぎないのです。ある人は「私はワーシップをこのように強調することには全く興味がありません。私は歌うことが好きではないからです。」と言うかもしれません。歌を歌うのが楽しいとかいうことは全くワーシップとは関係ありません。音痴の人も沢山いますが、彼らもすばらしいワーシッパーになり得るのです。

ルカ7章で、イエスの足に油を注いだ女はワーシッパーの最たるものです。回りには何も楽器の演奏はなく彼女も歌を歌いませんでしたが、彼女は最も注目され賞賛されるべきワーシッパーでした。ワーシップは音楽的な活動ではなく心の働き a function of the heart であるからです。

 

6.プレイズとワーシップの相違点の最後ですが、プレイズをするとき、私たちは時に非常に積極的に煽る必要があります。そうすることによって私たちの肉と魂をかき立てて主を賛美することが必要な時も多いからです。

しかしワーシップはそれとは違うレベルで機能するようです。ワーシップは、プレイズと同じようには人間的な努力によって効果があるわけではなく、ワーシップは神の臨在の中に静かに無心にひたるという様なものだと言われます。私たちの霊は喜んでワーシップをしたいのですが、私たちの肉は弱く気が進まなくてしぶるのです。プレイズは肉を通して表現されるので、肉をふるいたたせる必要があります。しかしワーシップは霊の機能なので、必要なのは肉をふるいたたせることではなく、霊のドアの鍵をあけ、霊を解放することにあるのです。

 

以上のような説明で、ワーシップがプレイズよりも優っているとか崇高だと言っているわけではありません。両者ともに同じように重要であり、すべてのクリスチャンの人生やすべての教会にとって重要な役割を果たします。

 

もし私たちが「プレイズよりもワーシップの方がより好ましい、重要だ」と考えるならば、礼拝の中で常にプレイズからワーシップへと早く進んでいかねば、とあせる気持ちが働くでしょう。しかし、しばらくはプレイズに留まっていたり、最高のプレイズを頂点として終わるというのが一番適切な場合もあります。

又、ある人たちは歌詞は誰に向けて書かれているかにあまりにも注意を払いすぎます。即ち「この歌は自分に向けられているのか?それとも私の回りの人にか? それとも神にか?」という風にです。神に向かって語りかける歌が、神について語っている歌より優れているとかふさわしいということはありません。

 

神にとって重要なのは、その歌が一人称で書かれているか、二人称か、三人称かということではなく、私たちが神との麗しい交わりに入ることです。私たちはあまりにも自分の内側ばかりみて「今私はプレイズしているのだろうか?それともワーシップしているのだろうか?」と心配するようなことに陥らないようにしましょう。あなたの焦点を方法や技法にとらわれないで、主への愛を表して主を喜ばせることに集中しようではありませんか。

 

ある人たちは、プレイズは神殿の「外庭」であり、ワーシップは「内庭」だという間違った考えを持っています。プレイズとワーシップの間にはっきりした境を設けるのは不自然で人為的なことです。

 

例えば、プレイズの時に起る身体の動きはワーシップの中でも行われます。私が両手をあげているとき、プレイズをしているのでしょうか?それともワーシップをしているのでしょうか? どちらの可能性もありますし、もしかして両方しているかもしれません。ダンスはプレイズの形だと考えるのが普通ですが、ある時私は主の御前に力をつくしてワーシップの表現として踊ったときのことを覚えています。

叫ぶ、手を叩く、歌う、、確かにこれらはプレイズの外面的な姿ですが、これらもワーシップでも用いることができます。しかし、全く外面的には何の表現がなくてもワーシップをしている場合もあります。

 

 プレイズとワーシップはどちらが高尚なのでしょうか? その答えは、「その時に聖霊が導かれている方が一番すばらしく高尚である。」です。

 

ヨハネ4:23−24

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(終り)


30 12月

ニネベの断食      フランシス•フランジペイン             2019年12月30日


 

ニネベの断食

 

フランシスフランジペイン(Ministries of Francis Frangipane)

 

 

 断食には色々なタイプがあります。あなたがもし長期の断食をしたことがあるならば、それが人生を変革するような経験であることがおわかりでしょう。罪を示されたニネベの王は、その国の貴族や民衆と共に、食物と水を完全に断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、ニネベを滅ぼされませんでした。ニネベの人々は、「断食を伴う祈りがどれほど神の心を動かすか」という見本となったのです。(ヨナ3、ルカ11:32)

断食はリバイバルを活気づけるパワフルな道具ともなりますが、又ただの宗教的な慣習に堕ちてしまい、何の霊的意味も持たなくなることもあります。パリサイ人は週に二回断食をしましたが、それは人々から見てもらうためでした。パリサイ人の断食は宗教的プライドであり、全く霊的価値のないものでした。

 

真の断食とは

 

断食の根本的目的は、私たちが霊的目的地に素早く到達するのを助けることにあり、断食が 「fast (早い)」と呼ばれるのはそれが理由なのです。イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちの飢え渇きは、自分や家族、教会、町、国家の上に義が満ちることを求める飢え乾きです。断食は私たちをその目的地に速く到着させるのです。

しかし私たちは、断食を「自分に課す刑罰」にしてしまってはなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではないのです。断食は実のところ「恵みの賜物」なのであり、主と長時間交わることのできる機会なのです。普段なら食事をして肉体を養う時間を、自分の霊を養うために用いるのです。主ともっと親しくなり、御ことばを読み、暗記し、自分や人のために祈るのです。

 

イザヤ58章には、断食は又、神の愛を人々に示す時でもあると書かれています。

イザヤ58:6−7

「わたしの好む断食は、これではないか。

悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、

しいたげられた者たちを自由の身とし、

すべてのくびきを砕くことではないか。

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、

家のない貧しい人々を家に入れ、

裸の人を見て、これに着せ、

あなたの肉親の世話をすることではないか。」

 

ですからあなたが断食をするときには、不遇な人や傷ついた人を助ける手段を考えてください。食事のための費用を貧しい人々の援助団体に寄付するのも一つの方法です。

 

ニネベの人々

 

ニネベの王に戻りましょう。彼は「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。(ヨナ3:7)」という布告を出し、国民に完全な断食をさせました。

イエスご自身も、ニネベの人々が神の前に真摯に悔い改めた結果起ったことを、「打ち破りの見本」として賞賛されています。

皆さん、今アメリカには打ち破りが必要とされています。そして祈りと断食なしには決して起らない打ち破りがあるのです。私たちもニネベの人々と共に立とうではありませんか。(終り)

 

 

訳者よりの付記         

 

今、打ち破りが必要なのはアメリカだけではありません。クリスチャンであれば誰でも、個人的に主に対する真の愛とその信仰の程が試される時がやってまいりました。そして日本が羊の国になるか、山羊の国になるかも、私たちクリスチャンの信仰に掛かっています。

新年には、主に示された時と方法により、日本とアメリカのために、ぜひ断食を伴うお祈りをしていただくことを切にお願い申し上げます。2020年良いお年をお迎えください。     坂  達也・柚実子


23 12月

権力より愛を選ばれた主 エディー L.ハイヤット            2019年12月23日


権力より愛を選ばれた主

 

エディー L.ハイヤット(Hyatt International Ministries)

 

 

「愛」と「権力」とは水と油のようなもので、混じりあうことはありません。有名な社会学者であるウイラード•ウオーラー氏は、愛と権力には逆相関があることを発見しました。個人的な人間関係において、「愛が増し加わると権力が減少し、権力が増し加わると愛が減少する」という事実に彼は気が付いたのです。

 

彼はこの驚くべき現象を表すために「principle of least interest 最小関心の原則」という言葉を作り出しました。それは即ち、「その関係に最も関心がなく最も気にかけない人が、最も強い権力を持つ」という原則です。

 

これは結婚に問題のある夫婦がカウンセリングを受けるときに明確に現れます。カウンセラーは二人と話すと「愛が少ないのはどちらの方か」をすぐに見分けられるのです。なぜならば、「愛が少ない方の人」は「権力の座」に座って様々な要求を出すからです。本当に愛している方の人は、権力を手放し、結婚を守るために進んで犠牲を払うのです。愛と権力とは、少なくともこの世では、共存しないようなのです。

 

神が人間への愛をこの世に現される時が来たときにご自分の権力を捨てられた理由は、ここにあるのです。パウロはピリピ2:6−7で、キリストが御父と共におられたときの力を捨て、仕える者の姿になったことを書いています。

 

ピリピ:6−7「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」

 

これが神の愛を現すためにこられた救い主が、家畜小屋で生まれ、最初のベッドは飼い葉おけだった理由なのです。そしてこれがキリストが裕福な貴族の家ではなく、貧しい家に生まれた理由です。(ヨセフとマリヤは羊を買う余裕がなかったので、羊の代わりに律法で許されている「山ばと一つがい、或は家ばとのひな二羽」を捧げました。レビ記12:8、ルカ2:22−24)

 

そしてそれは又、イエスがエルサレムやローマのような権力の中心地から遠く離れた小さく名もないナザレで育ったことも説明しています。イエスがヘロデの王座やピラトの権威、或は大祭司の地位に全く興味を示さなかったこともそれは説明しています。イエスは神の愛を現すために来られたのであり、権力を求めながら愛を示すことはできなかったのです。

 

ですからイエスが弟子たちに「権力を求めるのではなく仕える者となるように」と教えられたのは当然のことでした。例えば、ヤコブとヨハネがイエスのもとに来て、御国の2つの権威の座を願ったとき、イエスは彼らの権力への願望を叱責しました。(マタイ20:20−28、マルコ10:35−41)

 

権力は、人々に目に見える外面の行動を強要しコントロールしようとします。「愛」は人々の心にやさしく働きかけて内面を変えます。しかし、間違えないでください。この愛は決してめめしい感傷的な愛ではありません。か弱い自己中心的な愛でもありません。この愛は強靭な耐久力を必要とします。この愛は「相手にとって最高なこと」を望み、それを実現させるために「自分の願うことを自ら進んで犠牲にする」のです。この愛(ギリシャ語の新約聖書では「アガペ」です)の究極的な手本はイエス•キリストに見ることができます。

 

権力にまさる愛

 

この例を考えてみてください。ある父親が反抗的な息子に困り果て、何度も叱責し懲らしめていました。ある日、また懲らしめをしようと息子の前に立った父親は、深い悲しみと嘆きに圧倒され、そのまま息子の足もとに崩れ落ち激しく泣き始めてしまいました。息子は驚愕しそのまま無言で立っていました。しかし、その時から彼は変えられたのです。愛を表すシンプルな行動が、権力や強さを示す行動よりもっと効果的であることがあるのです。

 

旧約聖書では、神はご自分の力を現されました。神はシナイ山で雷鳴を轟かせ、海を分け、軍勢を滅ぼし、太陽や月を留めることさえなさいました。しかしながら、神の民はそれでも反抗し続けました。それはまだ神の愛を見ていなかったからです。

 

ここにクリスマスと十字架の意義があります。神がご自分の権力を捨て、人類に神の愛の深さを現してくださったのです。そしてイエスは弟子たちにも同じアガペの愛の中を歩むようにと召されたのです。

 

ヨハネ13:35−35でイエスは言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し(アガペ)合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたががわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

教会と権力

 

教会は初めの200年の間、キリストの愛を世に現し、その影響を全世界に広めて大きな成果をおさめました。教会は大ローマ帝国を軍隊や剣を用いることなく征服したのです。

 

しかしながら、コンスタンチヌスが教会に権力を混ぜ入れ始めたのです。教会は国家の権力を使って宣教活動を広げ始め、それによって「愛」は逃げ去ってしまったのです。キリストの名において恐ろしい暴虐が行われ、中世の教会は権力を得ましたが影響力は失っていきました。

 

宗教改革は、教会が権力から離れてキリストの福音へと戻る運動でした。しかし、今日の教会には「権力、力」を追い求めている者がまだ沢山います。彼らはその点において、キリストよりもコンスタンチヌスにより近い者だと言えましょう。

 

クリスマスに私たちは、神がご自分の権力を捨てて地に来てくださり、人類への愛を現してくださったことをお祝いします。この愛は十字架において頂点に達しました。なぜならばローマの十字架上にかけられている人の姿ほど弱さを表すものはないからです。

 

私たち教会に「クリスマス」が問いかけるチャレンジはこれです。私たちは権力を捨てることにおいてキリストの手本に見習っているでしょうか? 純粋な愛で歩んでいるでしょうか? それとも、コンスタンチヌスのように愛に権力を混ぜ合わせているでしょうか?

 

ピリピ2:5−8でパウロは、私たちがどのような態度や道を取るべきかをはっきりと述べています。

 

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリストイエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまでも従われたのです。」

 

正義は必ずなされる

 

愛は私たちを無抵抗で傷つけられやすくするので、人から利用され傷つけられるのを恐れて「愛によって歩きたくない」という誘惑が来るときが私たちにはあります。そのような時、「正義」は愛には欠くことのできない本質的な要素であることを忘れてはなりません。神は正義の神であり、誰もそれを避けることはできません。

 

ですから、主が再びこられる時、主の権威、力は全面的に現されるのです。次は主は家畜小屋の赤児としてではなく、宇宙の力ある主権者として来られるのです。主の愛を拒んだ者たちにとって、それはうれしいことではありません。ヨハネは人々が山や岩に向かって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:16)」という姿を見たのです。

 

テサロニケの教会が激しい迫害の中にいたとき、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように務めなさい。(1テサロニケ5:15)」とパウロは励ましました。

しかし彼は同じテサロニケのクリスチャンに次のようにも言っているのです。

「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(2テサロニケ1:7−9)」

 

クリスマスにあたり、私たちは全能の神に仕えている者として権力を追い求める必要がないことを忘れないでください。そうではなく、互いに愛を示し、今日神の愛を受け、来るべき神の怒りを受けることのないようにしてください。

(終り)


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