WWGM

Walk With God Ministries


30 11月

主の臨在の中で一日を生きるには 坂   達  也 


主の臨在の中で一日を生きるには

 

   ポールキースデイビス & ブラッド・マクレンドン対談 WhiteDove Ministries Webinar #34より抜粋)

 

                                                                                                                                                     坂   達  也 

 

 お二人の対談に入る前に一言前置きをさせていただきます。ヘブル書の4:3に「みわざは創世の初めからもう終わっているのです。」と書かれています。そして続く4:10で「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とも書かれています。

 

 私はこの御言葉は本当に凄い、これが真の「創造者の神」の創造なのだと思うと興奮して身震いがします。

 と言うことは、今これを読んでおられる皆さんの一生も、私自身の一生も、既にこの世が造られるずっと前にその筋書きもシナリオもすべてが造り終えておられるのです。(デステニー)

 と言うのは、最初の人間が造られてから既に6千年(6日間)が経ち、7日目に入った終末の時代に生きる私たちは、自分勝手に自分の考えだけで生きるのを止めて(自分のわざを終えて)一切を神に委ねた、神の安息に入った生き方をしているはずであるからです。

 もう一つ、この世を真に理解するために「最も基本的な真理」を一つだけ挙げなさいと言われれば、私は迷うことなくこう申し上げます。「私たち人間は、創造主の神に頼らなければ、自分たちだけでは、すべてのことにおいて、何も満足にはできないように造られている。」と。私たちはこの真理をはっきり認識しなければならないのです。

 そして最後に付け足すとすれば、私は、今度のコロナウイルスのパンデミックは、特にクリスチャンにとっては、そのためのヘブル書四章のテストであるという気がしてなりません。それでは以降、お二人の対談に入って頂きます。

    ===================

ポール•キース•デイビス(PK):ブラッドさん、あなたは主の臨在の中に留まるために毎日をどのように始め、どのように過ごされているのですか?

 

ブラッド・マクレドン:朝起きて私が先ずすることは、主に「あなたは今日、何をなさりたいですか?」とお聞きすることです。それが最初の質問です。それに対する主の答えは、過去数年間ずっと「今日わたしはある人に愛を注ぎたいのです。」でした。私の心は好奇心で一杯になり「それは誰ですか?その人と私は出会うのですか? それは何処でですか?」とお聞きます。そこから主と私との会話、コミュニケ—ションが始まります。

 

それは私が先ず主にお聞きすることから始まるのです。もし、あなたの奥さんがあなたに話をしてくれないと、あなたは疎外されているように感じますね。でも奥さんと話をして仲良くしていると、とてもうれしくて元気が出てきます。私にとって朝一番に主と会話をすると、そこから一日中絶え間なく続くコミュニケーションが始まります。朝起きてすぐに主の御顔を仰ぎ見ないならば、私の頭はすぐに他のことを考え始めてしまい、主との会話をしないままになってしまいます。すると 私は一日の歩みを主と共にできないことになってしまいます。

私はキャサリン・クーマンの人生を調べるのが好きなのですが、彼女は「あなたはどのくらいの時間、神に祈るのですか?」と聞かれたとき、「私はいつも祈っています。I pray all the time.」と答えたそうです。そして「そんな時間をどうやって作るのですか?」という問いに対して、彼女は「ショッピングに行くときも、どこに行っても、何をしていても私は異言などで祈っています。」と答えました。ちょっとクレージーに聞こえますが、私たちはこのようなシンプルさを忘れてしまっているのではないでしょうか。このようなシンプルな鍵があなたを主との親しい交わりという栄光の中に入れてくれるのです。

 

PK:祈り方の間違ったモデルがあるのも問題ではないでしょうか。「祈りとは大声で叫ぶものである。」とかです。確かにそういう場合も時にはあるとは思います。でも夫婦の会話でも「朝ごはんを作ってください。」とかは普通に静かに話しますよね。妻が夫に話すように、私たちも主にむかっていつも普通に会話をすればいいのです。私たちはいつも叫び求めるような乞食ではないのですから。

 

ブラッド:私たちが毎日持つべき主との霊的な生活は、そのようなものです。弟子たちがイエスに何か質問するときに始まる会話は、 私たちの祈りの一つの型です。イエスと弟子たちは共に寝て、朝共に起き、話をしながら歩き始めました。祈りは主と共に生きるライフスタイルなのです。

 

PK:これに関する本で一番よいのは、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯 The Practice of The Presence of God」だと思います。それは意図的に主の臨在を常に意識するということで、無言のときも 多いのです。彼は主の臨在に接続されている、即ち常に主がそこにおられることを知り、それを意識して主とつながっているということです。お皿を洗っているときも、床を掃く時も、何をしているときもその意識を持つのです。そのような習慣の力は自分の内に訓練によって養っていくことができます。

 

ブラッド:もし主が語られるならば、それを聞く用意が彼には常に出来ていたということですね。主はいつか語られることを知っている、でも語られても語られなくても、それはどちらでもかまわい、という境地ですね。

 

PK:私たちは「祈りとは即ち、嘆願だ」と間違って考えているところがあります。一日中主に嘆願し続けることはできませんが、一日中コミュニケートしていることは可能です。主はここにおられることを知り常に主を意識していることです。私は御ことばが大好きです。御ことばによって私は天とコミュニケートします。私たちは24/7、主の臨在を意識するようになれると思います。キャサリン・クーマンはそれをしたのですね。

 

ブラッド:その通りですね。

私は最近ある人からメールをもらったのですが、それは「今は皆が祈り込まねばならない(プレスインする)時だ。」と言う内容でした。しかし「祈り込む」というと、残念なことですが、ともすればそれは密室の祈りに集中し神に嘆願し続けることだと受け取られてしまい、それによって疲れ果ててしまう人が多いのです。私たちはそのようなマインドセットを変えて行かねばなりません。私たちは主のもとに行き、嘆願に嘆願を重ねて、その結果が得られずに疲れ果てて戻る、というような主との関係にあるのではないのです。そのような祈り方をするとき主の御声が聞こえないのは、私たちが聖霊によってではなく、自分自身の意志によって動かされ祈っているからです。主の祈りに「御こころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、私たちは主の御こころを知らねばなりません。

私はこのことをモレビアンフォールのワーシップ・センタ−に始めて行ったときに学びました。私はそこで大声で激しく祈っていました。(私たちは自分が祈っている声を聞くのを楽しむことがありますね。)その時主が「あなたは何をしているのですか?」と言われたのです。それはまるで主は私がずっと祈っていたことなど、全然聞いておられなかったような感じでした。主は「あなたは、わたしが祈ることを祈りたいですか?」と聞かれました。「そんな機会が与えられているのですか? そんなことが出来るのですか?」と私は心底からびっくりしました。私は「はい、したいです。」とお答えしました。するとそれから3時間、主は一言も話されませんでした。(笑)ですから私もそこに黙って座っていたのですが、主はそれを通して 「自分の意志で祈ること」から私を解放してくださったのです。3時間後に主が語られた時に、私はそれをはっきり聞くことができ、その通りに祈りました。そしてその祈りが聞き届けられたことが私にはわかりました。

いつもそのように祈らねばならないと言っているのではありません。けれども私たちが天におられる主の御こころを知り、それをこの地で祈ることができるほどに、主との親密な関係に入ることができることを、主は私たちが知ることを願われているのだと思います。

 

PK:教会が失った霊的遺産の一つに、黙想の祈り(contemplative prayer)があると思います。コンテンプレイトするとか、メディテイトする(黙想する)というと、人はすぐに「それはニューエイジだ」と決めつけますが、ダビデはニューエイジの出現よりずっと前にメディテイトしていました。私は「メディテイト 黙想」に関する聖句を14箇所見つけました。「神のすばらしさをメディテイトせよ」とか「神のことばをメディテイトせよ」とか「神のご性質をメディテイトせよ」とかですね。問題は私たちが静まってじっとしている訓練ができていないということです。静かに3時間しているというのはとても困難ですね。私は以前よくコンテンプレイトの祈りをしていました。これからも又、したいと思っています。

ピリピ4:6、7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、私たちはすべての心の思い、願いを神に祈ったあと、平安を頂きます。

その平安の中で「主を待ち望む wait upon the Lord」のです。待つことはやさしくありませんね。これは私が経験した霊的訓練の中でもっとも難しいものでした。ディサプリン(しつけ、訓練)ですね。様々なことが頭に浮かんできてしまうのですが、真にこころが静かになると、生きた御ことばによって「知性、意志、感情、想像」というたましいの部分と霊とが切り離されていきます。

終末の教会が持つべき重要な奥義の一つは、コンテンプレイトの祈りだと思います。それによって、ヴィジテイション(天からの訪れ)やヴィジョンを受け、神と一致することができるのです。ブラッドさんのモレビアンフォールでの体験は、まさにそのことだと思います。あなたはこころを静め、神と一致したのです。

「コンテンプレイトな祈りをどのようにすればいいのか」という質問を受けることがあります。それは一人ひとり違うのです。私の場合は、いつもの椅子に座り、出来るだけ何も考えないようにします。どうしても頭の中にいろいろな思いが浮かんでしまうときは、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」とずっと繰り返します。そう言っていると他の事を考えなくてすみ、私の思いもイエスに焦点が合っていきます。これが私のやり方ですが、そうする必要はありません。どういうやり方であってもコンテンプレイトの祈りをすることによって、私たちは霊的力を受けます。これからこの祈りを人びとに教えて行かねばならないと思います。

 

ブラッド:同感です。私たちは神と一致せねばなりません。不思議なことですが、この祈りに入ると、あなたはすでに主に向いているのです。あなたは意識的に主と向きあうことを選びとったわけです。コンテンプレイトの祈りが終ったあと、あなたは「何も起らなかった」と思うかもしれませんが、実際にはあなたはその中でトランスフォームされたのです。その「実」は後になってからあなたの言動の中で表されてきます。祈りの中であなたは主から何も聞かないかもしれませんが、あなたの霊の中に主が何かをインプットしてくださるのです。

 

イエスとの親密な関係を持つことが、今の時代のクリスチャン生活にとって実に「かなめ」となります。これから起ってくる出来事の中で、自分が主とどのような関係にあるのかを、一人ひとりがキチンと認識せねばなりません。即ち、自分と主との個人的な関係をしっかりと持たねばならないのです。

 

PK:これからはどうしてもある「分離」が起ると思います。聖書にも明らかですが、真理があれば偽りもあります。エデンの園には二本の木がありました。カインとアベルは共に主に捧げものをしたかったのですが、一人は自分の業により捧げ、もう一人は啓示により捧げました。イエスは同じ畑に麦と毒麦があると言われました。 毒麦は麦と同じように見えても、その中に命はないのです。今日ここで話したことの中には、「宗教」とか「伝統」にとっては不愉快なことがあると思います。私たちがキリストの霊とそれ以外の霊とを区別する物差しになるものについて話したからです。

第二コリント11章には「別のイエス 」「異なった霊 」「異なった福音 」と言うことばがありますが、「異なった霊」はまことの霊に対して必ず激しく戦いを挑んできます。それは、黙示録で「ニコライ派の教え」と言われているものであり、聖職者が一般信者をコントロールする霊です。一般信徒がヴィジテイションやヴィジョン、啓示を受けて霊的力を持つことを許さない霊です。必ずこの戦いがありますから、私たちはその備えをせねばなりません。キリストの花嫁はその戦いに備えていると思います。

 

ブラッド:戦いが激しいほど、天からのヴィジテイションも頻繁になると思います。戦いが始まり毒麦が勢いを持つ時、御国がすぐそこまで来ていることを私たちは知るのです。その時天の御使いたちがやってきて、大いなる収穫が始まります。それはなんと栄光に満ちた時となることでしょうか。人間の目には恐ろしく暗い日々のように見えるかもしれませんが、私たちが上にあるものに目を留め続け、神の視点から物事を見るならば、歴史上最高にすばらしい時となるのです。(対談終り)

 

訳者注

 この記事は大分前に訳したものですが、昨年WWGMに載せました。私たち夫婦はこのポール・キース・デイビス師とは四年年前に会って、丁度その時は私たちが日本に出発する直前でしたので、日本に行くミッションと守りのお祈りをしていただきました。

 私たちは「主の御臨在と共に歩く」WWGMミニストリーをしておりますが、ご存知のように、クリスチャンになる最大の恩恵・特典は、聖霊なる神が私たちの内に住んで下さるように主がなさることです。全知全能の神がいつも私たちと一緒に住んでいて下さるのですから、毎日主と会話しながら、全てを聞いて毎日を生きることができます。第一一緒に住んでいつも顔を合わせているのですから、会話をしない方がおかしいのです。そして、実際これほど間違いのない人生はありません。もしご興味がおありでしたら、拙書「主を見つめて待つ」「キリストの弟子」をお読みください。坂 達也

 尚、私のこの2冊の本は残念ながら目下在庫が無くなってしまいましたので、下記の方法でオンラインでご購読の上お読み頂ければ幸いです。 ついては、私たちが親しくしていただいているリーハイバレー・ジャパニーズ・ミニストリー(代表者 ロイド・美代牧師;もう既にご存知の方も多いと思いますが、多くの英語の書籍を日本語に訳して出版されたり、ユーチューブにも多くの情報を載せておられ、私たちのミニストリーよりはるかに大きく活躍されておられます。詳しくはぜひlehighvalleyjm@gmail.comをご覧下さい。)

 そのリーハイバレーを通して、この春から、私の2冊の本を電子書籍として、いつでもどこからでも読めるようにして頂きました。従って、インターネットに接続して、下記のページにログインし、このオンラインクラスに入学して(登録無料)アカウントを作っていただいた後で、私のコースを購入することができます。https://lvjm.teachable.com/courses 宜しくお願いします。(終わり)


16 10月

リバイバルの前には、先ず悔い改めがなされねばならない    フランシス・フランジパン    2020年10月17日


リバイバルの前には、先ず悔い改めがなされねばならない

 

                  フランシス・フランジパン

 

 

 真のリバイバルは、ただ起こるものではありません。主が人々を訪問される前には、その前に人間の心の中が整わなければなりません。

 

わたしたちは救いを心から求めなければならない

 

 今日の教会ミニストリーでは、心の中で、罪を悔い改めようともしないで、神に助けを求めて叫ばなかった人々を救い出そうとして、前に出て来てもらい、祈ることがあまりにも多いように見受けます。その結果は,教会でそのように祈られた人々は、限られた救済を受けることができても,すぐに罪と抑圧に陥ってしまいます。

 解放を成功させる鍵は、解放を宣べ伝える前に、その人が解放される準備ができていて、解放されたいと思っているかどうかを見極めることです。その人たちは、本当に悔い改める気持ちを持っているでしょうか。偶像を捨てたでしょうか?彼らの心は真に神の方に向いているのでしょうか?

 

 個人としての私たちに対する神様のパターンは、教会として、あるいは一つの都市に対する神様のパターンと同じです。主は、私たちが助けを求めて叫ぶまで、私たちを救い出さなかったように、私たちの教会と都市のための戦いは、相当数の私たちが祈りの中で神に向かって叫ばない限り、勝利することはできません。都市全体の教会を祈りに導くキリストの目的は、全能者が応答できるような適切な心の態度を、先ず提供することです。聖書によると,救いとは,ある人が自分の現状を嫌悪して神に助けを求めて泣き叫ぶようになったときに始まったプロセスの最終段階です。

 

救出・解放者たち

 

旧約聖書は、救出とリバイバルのための神のパターンを明らかにしています。彼らはイスラエルの圧政者を打ち負かすために、神によって油注がれ、力を与えられた人たちでした。彼らは神によって特別に遣わされたのですが、彼らの到着はイスラエルの悔い改めと同期していました。悔い改めがなければ、救いはありません。

 この旧約聖書のリニューワルのパターンの本質は、現代の私たちにも適用できます。祈りと悔い改めが深く広く浸透している都市では、リバイバルが起こるのを目にすることができますが、実際にそれを起こす「解放の為の働き人」を目にすることはできないかもしれません。

 繰り返しになりますが、イスラエルのモデルを見てみると、国全体の罪が敗北をもたらし、外国の力による支配をもたらしたのです。そして彼らは異なる神々を崇拝するようになり、その結果、イスラエルはあからさまに神の律法を無視したので、経済的、文化的、物理的に国家が崩壊しました。かつては神の祝福を享受していた人々が、今では絶望と惨めさがこの地に満ちてしまいした。

 このような苦しみの中で、人々は神に向かって泣き、深く悔い改めたので、主は救出のための解放者を起こされ彼らの元に送られたのです。こうして悔い改めたイスラエルは、外からの圧政者に勝利しました。そして真の礼拝が確立されると、国家の平和と繁栄が続きました。

 

 リバイバルへの道のりは、予定表に従って設定されたものではなかったことに注意しなければなりません。裁きがいつまで続くのか、どれ程の悔い改めがいつ神の心を動かすのか、誰も予想することはできません。裁きにかかる時間は、常に私たちが予想しているよりも長くなるでしょう。決定的な要因は、心から罪を認め、真摯に神に立ち返ることです。それが起こる時、その土地の癒しが続きました。

 ネヘミヤは、民族の解放に先立つ悔い改めのパターンについて語っています。彼は祈りました。「そこで,あなたは彼らを敵の手に渡され,敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると,あなたは天からこれを聞き入れ,あなたの大いなる憐れみによって,彼らに救う者たちを与えられ、彼らを敵の手から救ってくださいました」ネヘミヤ9:27

 

 私たちはこのプロセスを決して急いではなりませんし、私たちの祈りがすぐに神の介入を発動させない場合でも、挫折してはいけません。主は,国家が反逆の重圧の下で真に砕かれるのを待っておられます。しかし、私たちの真にへりくだった「執り成しの祈り」が,全能者に対する国民的な応答となる時に、その祈りこそが、私たちの最初のフルーツとなるのです。

 時には霊的な活動が活発になることもしばしばあるかもしれませんが、「民族的なリバイバル」が起こる前には、神に向かって「一致して叫ぶ民族」が存在しなければなりません。この期間は「苦難の時」と呼ばれ、国民が何年も主に向かって叫び続けなければ「民族的リバイバル」は完成しません。

人の不幸、神の心

 イスラエルがより深く罪に陥っている時には、神はイスラエルの罪の重荷と結果が彼らの魂を謙虚にするのを待っておられました。しかし、主はイスラエルの悲しみを無視されたのではありませんでした。彼らが反抗していた時でさえ、主は彼らの苦しみを感じておられました。主が「・・・イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった」(士師記10:16)とき、主は彼らに救う者たちを遣わされました。イスラエルの惨めさと絶望は、彼らが神様のところに戻るために準備されたものであったのです。

 出エジプト記のモーセと主の出会いにも、このパターンが見られます。(出エジプト記3:7-8 参照)

 主なる神は自分の民の苦難を見、彼らの叫びを聞き、彼らの苦しみを知っておられることに注目してください。神は人間の苦難から決して遠く離れておられません。事実、神は私たちの社会の悲惨さを背負っておられるのです。私たちの苦しみが神を苦しめ、私たちの苦しみが神の悲しみとなるのです。

 出エジプト記のテキストに戻りますが、神が聞いたのは単に彼らの祈りだけではなく、彼らの叫びを聞いたことにも注目してください。必要なものについて祈ることと、必要なもののために泣くこととは全く別のことです。神が慰めるのは嘆く者たちに対してです。

 

 私は1970年、カリスマ的刷新の時にキリストの救いの恵みに与りました。この神の動きは、100万人の母親たちの「昼も夜も」絶え間ない叫びの中から始まったのです。それは、自分の子供が麻薬に手を出したり、反抗的になったりしていることに深く悩んでいた母親(と父親)の絶え間ない叫びから生まれました。彼らの祈りは宗教的な規律ではなく、彼らの存在の中心となるものでした。彼らの絶え間ない執り成しの涙と泣き叫びが神の前に勝り、神は彼らの子供たちを救い出してくださいました。

 

 私たちの時代にリバイバルを遅らせているのは、おそらく、私たちが悩んでいても、社会の状況に悩まされているわけではなく、悲しんでいても、まだ泣いているわけではないからでしょう。

 まだ少数派ではありますが、これらの執り成し者たちは自分たちの街の苦悩を魂に宿しています。彼らは虐げられている人々の叫びを聞き,生まれてもいない人と生まれてきた人の苦しみを知っています。神は彼らの祈りに応える準備ができています。彼らの苦悩の胎から、神は救いをもたらされるのです。

 祈る教会は、「執り成し」に捧げる時間とか期間を制限してはなりません。神は季節だけではなく、祈りの生活を求めておられます。

  これらすべてがリバイバルとどのように関係しているのでしょうか。霊的なリニューワルは、私たちの都市と国家のための唯一の解決策であるからです。それは、神に助けを求めて絶え間なく叫ぶすべての人への神の答えです。

 主よ、魂の救いの代わりに一時しのぎの助けを求めたり、あなたの完全な御心の代わりに近道を求めたりすることをお赦しください。主よ、私たちは、あなたの心が苦しんでいる人々の真の叫びを拒むことができないことを知っています。だから、私たちは今日、あなたに叫びます。あなたの臨在の雨を私たちに送り返してください。慰めと無関心を求める私たちの欲望から私たちを清めてください。あなたがあなたの誠実さを尊び、私たちの土地に復興をもたらすことができる場所に私たちを連れて来てください!あなたの栄光のために、私たちは祈ります。あなたの栄光のために祈ります アーメン(終わり)


27 09月

私を変えた3つのみ言葉(その2) ジャック・ディア   2020年9月27日


私を変えた3つのみ言葉(その2)

 

ジャック・ディア

 

 

2つ目のみ言葉と祈り

 

このように私は、「神への情熱」を持つための実践的な道を見出しました。次に私が出会った二つ目の祈りは、ヨハネ15:15にあるイエスの言葉「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。...わたしはあなたがたを友と呼びました。」によります。

このみ言葉によって衝撃を受けたのは40代の時でしたが、すでに私は友情に関しては知り尽くしていました。というのは、私の育った家には愛というものがほとんどなかったので、家の外に愛を求めるしか道がなかったからです。それで私は小さいときから必ず一人か二人は親友を持っていたのです。

 

本当の友情がどう言うものであるか、お話ししましょう。「その人のために何かをしてあげるのが友情」では決してありません。「その人に忠誠を尽くすのが友情」ということですらありません。友情とは、その人と一緒にいるときに私が感じる喜びです。友情とはその人から愛されていると感じる時に自分の重要性、存在価値を感じることです。

そしてこの友情こそ、ずっと神が私たちに求めてこられたものです。アブラハムやダビデ、ヨセフ、ダニエルの話を読んでみてください。このような友情こそを神は求めておられたのです。神は人々が「神を喜び楽しみ、又神も自分を喜び楽しんでいてくださると感じること」をずっと願っておられたです。

そしてイエスはそのことを公言されました。「わたしのあなたたちへの愛を感じてほしい。わたしを喜び楽しんでほしい。」と言われたのです。

 

マイク・ビクルが再び、私の前に現われて言いました。「ヨハネがイエスの一番の親友だったことを知ってますね。」と。私はちょっと考えてから答えました。「ああ、本当にそうですね。ヨハネの福音書を数えきれないほど何回も読み研究してきたけど、ヨハネがイエスのベストフレンドであったことは確かですね。」

 

他の福音書の筆者たちはヨハネを「使徒ヨハネ」と呼んでいますが、ヨハネは自分が書いた福音書で自らを「イエスが愛された弟子」と呼んでいます。自分のアイデンティティーを「神に愛されている者」と言うことをどう思いますか?

「自分がどのような立場や地位のものか」とか、「どれほど豊かであるか」とかではなく、「神に愛されていること」を自分のアイデンティティーにするのです。

ヨハネは自分の真のアイデンティティーを「神が愛されている者」としたのです!ヨハネは主イエスのベストフレンドであり、それはヨハネの福音書全体を通して見ることができます。例えば最後の晩餐のことを見てみましょう。

 

イエスは弟子たちが周りに座っていたとき、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」と爆弾宣言をされました。皆は「それは一体誰だろう?」と心の中で思いまどいました。

彼らは多分ペテロが何か言うかを待っていたでしょう。ペテロはいつも最初に口を開くのですが、このときは何も言いませんでした。そしてみんなは「ヨハネならイエスに聞くことができるだろう。」と思ったのです。そこでペテロはヨハネ(イエスが愛しておられた者)に「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」と言いました。ヨハネはイエスにそれを訊ねるのを恐れないと知っていたからです。

あなたはベストフレンドになら何でも恐れずに聞けますね。ヨハネはどこに座っていましたか?イエスのすぐ横でした。ですからヨハネはイエスに向いて「主よ、それは誰ですか?誰があなたを裏切るのですか?」と訊ねたのです。

イエスは「ヨハネ、それはわたしがこのパン切れを浸してから与える者だよ。」と言われ、それをユダに与えられました。そこでヨハネはベテロに「それはユダだよ。」と教えました。簡単なことです。それがベストフレンドということです。ベストフレンドなら何でも訊けるのです。

 

ときどき私は神学者の友人たちにこのように話すことがあるのですが、彼らはいらいらしたように「イエスが他の使徒たちよりヨハネをもっと愛したなんてことはない!」と言います。私は仕方なく「全くあなたの言う通りですね。」と言うのです。

 

 しかし、友情とは愛することだけではありません。愛だけで友情を保つことはできません。あなたの親友のことを考えてみてください。ただ彼らを愛していくだけではなく彼らを信頼していますね。

信頼がなければ親友にはなれません。信頼がなければお互いの心を明け渡すことはできません。私が私の息子スコットを愛した以上の愛で愛した友はいません。しかし私とスコットは友達になることはできませんでした。それは私たちがお互いを信頼することができなかったからです。スコットは22歳で自ら命を断ってしまいました。

イエスがヨハネを信頼していたことは、主の十字架の苦しみの時に見ることができます。天地の主である方は十字架の上からあまねく全地を見渡されましたが、唯一イエスを見捨てなかったのは、母マリアと数人の女性、そしてヨハネだけでした。

私は目を閉じるとイエスがご自分の母親を見下ろしているのが見えるのです。主は母マリヤの顔に浮かんでいる深い苦悩と戸惑いを見ておられました。マリアは天使ガブリエルが告げた偉大な約束と今見ていることとの矛盾をどう理解すればよいのかわからなかったことでしょう。

私には母マリアを見ながらイエスが考えておられたことが分かるのです。「私の弟たちは駄目だ。彼らは私を信じてもいないのだから。他の使徒たちも駄目だ。みんな私を見捨てていった。ヨハネ、ヨハネ、お前だけがわたしにためにいてくれる。」

 

イエスはそしてこう言いました。「お母さん、今からヨハネがあなたの息子です。」次に主はヨハネに「さあ、この人はあなたの母親です。」イエスは地上で最も大切な人を唯一信頼できるベストフレンド、ヨハネに託したのです。

 

マイク・ビクルはこう言いました。「あなたもイエスのベストフレンドの一人になれるように祈ったらいいんですよ。確かにそれは突飛で途方もない祈りですよ。でも神は突飛な神様ですよね。目指すなら最高を目指すべきですよ。」

そこで、私はそのように祈り始めました。「父よ、あなたが主を愛するように私も神の御子を愛せるように、どうか聖霊の助けをお与えください。」という第一の祈りに加えて、「主イエスよ、どうかあなたのベストフレンドの一人になれる恵みを私に与えてください。私もヨハネのようになりたいのです。」と祈りました。

 

3つ目のみ言葉とその祈り

 

この二つが私の人生の切なる祈りとなりましたが、次に今から5年前、私の心は3つ目の祈りにとらえられました。それは詩編27:4です。

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさ(beauty)を仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」

そこで、私は「父よ、今日あなたの麗しさを仰ぎ見る恵みを私にお与えください。」と祈り始めました。

友人の中になにか麗しいものを見る度に、私のその友人に対する愛が増し加わります。ですからもし神の、そしてイエスの中に麗しさを見ることが出来るならば、私の主に対する愛も増し加わると私は考えました。それによって心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することが出来ると思いました。

私の人生の夢は心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することです。でもそれが夢で終ってほしくはないのです。これは私に与えられた課題であり、成就させたいのです。

 

私たちがこの世を去る時に、天に持って行けるものは私の心の中にある神への愛だけです。地上でのミニストリーや私が書いた聖書の解説書や本を天国に持っていくことはできません。それで、私は毎日祈り始めました。「主よ、あなたの麗しさを見せてください。」と。ダビデがこの祈りをしたとき、彼は「主よ、あなたの全知能力に関する新しい真理を見せてください。」とは祈りませんでした。また、「神に関する神学的知識をもっとください」と祈ったのでもありません。彼は神を体験することを願ったのです。

 

トマス・アキナスは「美とは、我々に喜びを与えるものである。」と言いました。又 現代の彼の弟子は「美とは、まぶしくて目がくらむようなものである。」と言いました。ですからダビデの祈りは「主よ、あなたの麗しさ、美しさで私の目がくらむほどにしてください。私の目がくらむような、あなたの愛、あなたの憐れみ、あなたの親切さ、あなたの全知、あなたの知恵、あなたの全能を私が経験できる恵みをどうかお与えください。」と言うものだったのです。

 

5年前、私は教会で24/7の祈りをスタートさせたいと思い、「神の麗しさによって目がくらむとはどういうことか」を巧く説明できるものを捜していました。私は聖書解説書や聖書辞書を調べたり、いろいろな訳の聖書を調べました。

それは私がいつもする方法でした。しかしその日には神は本の中にはご自分の麗しさをひとかけらも潜ませてはおられませんでした。

2時間ほどで、私は本の中に主の麗しさを捜すのをあきらめました。そして書斎から出てゲストルームに行き、ベッドに横になり言いました。「主よ、あなたの麗しさで私の目がくらむまで、絶対ここから起きません。」

私は自分の人生の出来事をあれこれと思い出し、その中に何かまぶしいばかりの神の麗しさの体験があるに違いないと考えました。神の赦しや憐れみ、親切などの記憶をノートに書き出しましたが、「まぶしくて目がくらむ」ほどのものは一つもありませんでした。私は天を見あげて「神よ、何かもっとお出来になるはずです!」と嘆息しました。そう言った途端、スマホがチンと鳴ったので、ポケットから取り出して見ると、それはビデオが送られてきた報らせでした。

私は早速そのビデオを見ました。わずか18秒のものでしたが、私はそれを繰り返し見続けたのです。「あと一回だけ見てまた祈りに戻ろう。」と思うのですが、どうしても又繰り返し見たくなるのでした。そういう自分に可笑しくなってしまうほどでした。止められなくて、何度も何度も何度も見続けたのです。

 

それは生まれて2ヶ月になる私の初孫のレイチェルのビデオでした。寝ているレイチェルに向かって母親のリンデイとその母親のメラニーが「レイチェル、グーグーと言ってごらん!」と話しかけ、レイチェルが笑いながら「グーグー」と言っているビデオでした。

私はそれを見ていたのですが、突然「自分は今神の麗しさを見ている!」という思いが来ました。「11ヶ月前にレイチェルはたった一個の細胞だった」と思いました。その細胞もない以前には彼女は永遠の麗しさである神の思いの中に存在していたのです。そして今このような赤ちゃんとして私の目の前にいるのです。「私は今、まぶしいような麗しさに目もくらむほどだ!」と思いました。これはレイチェルの全人生を形成する時間の中のほんの一時に過ぎませんが、私にとってその18秒間は私の霊を大喜びさせる特別のものでした。

そして私は「声」を聞いたのです。「わたしがあなたを愛する思いは、あなたがレイチェルを愛する思いと全く同じです。」私は泣くじゃくり震えながらビデオを繰り返し見ました。やっと物が言えるようになったとき、私は「ありがとうございます、ありがとうございます。」と何度も言い、再び泣き続けたのです。

 

神は、感謝のない少年だった私を、赤ちゃんがグーグーと言うのに感動し感謝する老人へと造り変えてくださったのです。神はご自分のまばゆい麗しさで私を圧倒してくださったのです。この経験はもう一つの声にも語る機会を与えました。それは人生の多くの場面で私を陥れてきた悪の声でした。その声は「神がそんなことを言うはずはない。お前が勝手につくりあげた偽りだ。お前がレイチェルに対して感じるのと同じように神がお前を愛しているなんて、あり得ない!お前はあまりにも悪すぎる!」と言いました。

でも今回はその暗闇の声を聞いても、私はただ微笑み、その声に影響されることはありませんでした。それは、自分でつくりあげた嘘によって私が感動し泣きじゃくることなどありえないことがわかったからです。[ 訳者注:当時引退してハワイに住んでいた私たちは、初孫が生まれると聞いて、先ず家内の柚実子がソワソワし始め、何はさておいても息子夫婦のいるニューヨークに行くと言い出し、私もいそいそと彼女に付いて行きました。その初孫が生まれた年は、私のカメラはこの孫を追いかけ、とうとう一冊の分厚い写真集の本ができ上りました。そんな経験をなさった方は大勢おられると思います。]

 

皆さん、 神はすべての人にむかって「わたしはあなたを喜び楽しんでいるのですよ。」と告げたいと真に願っておられます。神は私たちに神の愛を毎日体験し感じてほしいのです。もし私たちが、「パーフォーマンス/自分の業」ではなく、「神が御子を愛するように御子を愛すること」に焦点を当てるならば、それは可能だと私は信じます。

 

祈り「父よ、どうか聖霊の助けにより、私たちがあなたのように御子イエスを愛するように、又、御子のベストフレンドになり、あなたの麗しさを仰ぎ見て、あなたの憐れみとあなたの愛を経験できるようにと毎日祈る恵みを与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」(終り)

 

あとがきー坂 達也

 

二十年も前だったでしょうか、私たちがマイク・ビクル師のカンサス・シテイーの集会を訪ねた時に、このデイア師が講師の一人でした。その夜集会が終わって私たちがホテルの部屋に帰ろうとしてエレベーターに飛び乗ると、目の前に講師のデイア師が立っていて、にっこり笑って初めて会う私たちに二言三言親しく話しかけてくれたのですが、その笑顔がとても印象的で今でも忘れません。恐らくその集会で買ったのでしょうか、彼の書いた Surprised By the VOICE of GOD という本が二十年後の今でも私の本棚にあるのを見て懐かしく取り出して見ました。「神のみ声を聞く本」といえば、多くの預言者が書いておりますが、この方の本は技術的な方法論ではなく、むしろ神との親密さが鍵である事を強調していますのでそれをご紹介したいと思います。

 

「聖書でイエス程、御父の御声を聴ける人はいないと思います。それは子イエスが常に愛する御父の言われる事だけは絶対に聞き漏らさないと、24時間常にワクワクしながら待機しているからで、そういう人には父も最も多く語られるといいます。(ヨハネ5:19、20をご覧ください。)するとそれは不公平だ、神は誰のいうことも公平に常に語るべきだと文句をいう人がいますがそれは誤解です。その証拠に「神は豚の前には真珠を投げない」と書かれている通りです。また申命記4:29に『主を慕い求め、主に会う。』とも書かれています。」とデイア師が書いている処に私は線を引いていました。どちらかといえば愛の少ない堅物の私は、理屈抜きにこのジャック・デイアの大ファンです。ー以上ー(終わり)


26 09月

私を変えた3つの御ことば(その1) ジャック・ディア 2020年9月27日


私を変えた3つの御ことば(その1)

 

ジャック・ディア(Surprised by the Power of the Spirit 著者 Wellspring Church 牧師)

 

 (このメッセージは昨年4月に2回に分けてご紹介したジャック・デイア師のメッセージです。訳者注)

 

「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」 (ヨハネ1:17)

 

神は教会を恵みで救われましたが、それ以後ずっと教会は、律法によって自分のアイデンティティーを見出そうとしてきました。神は私たちが喜び楽しむように「ひとりのお方」を与えてくださっているにもかかわらず、私たちは「律法」を守る道を選びとっているのです。

人の心は、放っておけば律法に頼るようにセットされています。私たちは律法に自分の保身・保証を置いているのです。律法を守る道は筋道が決まっています。自分でコントロールがききます。しかし「そのお方」がされることは、予想がつかず、コントロールもできません。

私は17歳のときに恵みにより救われました。それは1965年12月18日のことでしたが、それ以後四半世紀もの間、私の信仰生活のフォーカスは、その完全なるお方にではなく、自分のパーフォーマンス(クリスチャンとしての良き業)に置かれていました。今朝、そのような私がどのように変えられたかをお話ししたいと思います。それは聖書に書かれているたった3つの簡単な祈りの話なのであり、それを皆様にお薦めしたいと思います。

 

神への情熱

 

皆さんは「神への情熱 Passion for God」という言葉を聞いたことがありますか?私は当時38歳で、教会の牧師として成功していました。又私は福音主義神学校の教授でもあり、ヘブル語とギリシャ語を教えていたのですが、この言葉は聞いたことがありませんでした。私が最初にそれを聞いたのは、カンサスシティーのマイク・ビクルという33歳の人からでした。彼はIHOP (International House of Prayer)と呼ばれるムーブメントのリーダーですが、彼ほど世界中の人々に「心をつくし、思いをつくし、力をつくして神を愛すこと」を示し教えた人を他に知りません。

私はカンサスシティーで彼に会ったのですが、彼が「神への情熱」という言葉を口にした時、私は「えっ、何のことですか?」と聞き返しました。彼は「『神への情熱』ですよ。知ってるでしょう?」と言うので、私は又「何ですか、それは?」と言いました。マイクは再度「神への情熱ですよ、知ってるでしょう?」と言いました。でも私は「何のことかさっぱりわかりません。」と言うしかありませんでした。

私は神学的な環境でずっと学んできたので、「情熱」はよいものではないと教えられてきました。神学校の2年目、ギリシャ語のクラスで、教授が「自由主義者たちは物事を感じる。でも我々は考えるのだ。」と言ったとき、クラス中が拍手喝采して、「そうだ、我々は頭がいいのだ。自由主義のようではない。彼らは皆感情に操られている。我々の敵だ。」と口々に言いました。

ですから、感情は良いものではなく、かえって排除すべきものだと教えられてきたのです。

しかしこの考え方の問題点は、知識、知能を発達させるために心を犠牲にしてしまうことです。マイクは続けました。「神への情熱ですよ。神は私たちが神に従うことよりも、もっと神を愛することを願っておられるのです。私は神を愛する方法を見出しました。」

何ということでしょう、私は四半世紀のあいだ、 感情をほとんど除外する訓練をしてきたのです!例えば「神を愛するとは神に従うことだ。」と私たちは言うのです。でも、愛していない人にでも従うことが出来ることは誰でも知っています。確かにもし私たちが神を愛しているならば、神に従うでしょう。しかし、「愛」とは「従うこと」をもっと越えたものではないでしょうか。

マイクは神への情熱について語り続け、「ああ、私はもっと神への情熱を持ちたい!」と言いました。私は心に中でこう思いました。「今までの人生ではずっと情熱を持たないようにしてきたのに、今突然に変へられるものだろうか。」と。私は非常に問題だらけの家庭に育ちました。ですから何も感じないほうが生きやすかったのです。

マイクは 「それはね、ただ『神への情熱を下さい』と祈ればいいんですよ。」と言いました。私は何かの感情をくださいと祈ることなど考えたこともありませんでした。感情といえば、それをどのようにして押さえるか、それだけが焦点でした。でもマイクは違いました。感情を与えてくださいと祈れと言うのです。

「どこにそんなことが書いてありますか?私は聖書をよく知っています。神学校では原語で聖書を教えていたんですよ。あなたがいうような事はどこに書いてありますか?」マイクはすぐに「ヨハネ17:26ですよ。イエスの大祭司の祈りの最後のところを見てください。」と答えました。

そこで私はその箇所を数えきれないほど読みました。でもわかりませんでした。イエスは「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らのなかにあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」と言われています。

 

私は「主よ、どうしてあなたは御父がどのような方かを私たちに知らせたかったのですか?」と訊ねました。主は次にように答えてくださいました。「父がわたしに対して持っておられる愛を、人々も持つためです。彼らが父と同じようにわたしを愛するようになるためです。そしてわたしが彼らの中にいるためです。」イエス・キリストは御父の横に座って今日もあなたと私のためにそのように祈っていてくださるのです。

ヘブル7:25「....キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

ローマ8:34「...死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」そして御父が御子に持っておられる愛があなたや私の中にあり、主をそのように愛することができるようにと祈っていてくださるのです。クリスチャンの信仰生活のゴールは、ただ服従するだけではなく、それをはるかに越えたものであるのです。

 

信仰生活は「正しいよい業」をはるかに越えたものです。もうお分かりになったと思いますが、私たちの業は十分ということは決してありません。ですから自分の業に希望を託すのは、最初から失敗するに決まっているのです。落ち込むための確実な方法です。しかし一人のお方を喜び楽しむのは、それとは全く違う話ですね。そのお方を喜び楽しむ方法の一つは、御父に「どうか神の御子イエスを、あなたと同じように愛せるようにしてください。」とお願いすることです。

 

マイクは「神を愛することが出来るのは神だけだ。」と言います。勿論そうです。でも私は38歳になるまで誰かがそう言うのを聞いたことがありませんでした。マイクは続けました。「だから『御父よ、どうか私に聖霊を注ぎ、あなたが神の子を愛するように私も愛することができるようにしてください。』と祈ればいいんですよ。」

この祈りを毎日して、自分では絶対に出来なかったことを神にしていただくのです。それは神の恵みと憐れみに他なりません。私たちが持つものは、すべて神の恵みと憐れみによるのです。神はいつも憐れみによって私たちを救い出してくださいます。そして神の憐れみを受ける方法の一つが祈りです。

 

素晴らしい娘や息子はその父親にとって大きな誇りですね。私も子どもの自慢話を始めたら止まりません。子どもたちは私のヒーローですが、御父の右座に座っている方も御父にとってヒーローなのです。ですから私が御父に「あなたのようにイエスを愛する者にしてください。あなたと同じ御子への愛をください。」と祈るならば、それは神の御子を私のヒーローにすることであり、私がいつも話し、いつも自慢し、いつも考えている方にすることです。

皆さんによいお知らせがあります。この祈りは本当に聞かれます。でも皆さんに悪い知らせもあります。それはその効果はとてもゆっくり現われることです。でも絶対にそれは聞かれ、正しい方向へと私たちを導いてくれます。

 

神の憐れみの訓戒

 

この祈りを4、5年続けた頃、私はテキサスから引っ越してカリフォルニア州のアナハイムにあるヴィンヤード・チャーチで働いていました。ある日私は教会に向って運転していたのですが、非常に幸せな気分になって歌を歌っていました。私は歌はうまくないので、車の中で一人の時にしか歌いません。私は自分自身にこう話しかけました。「ジャック、なんか幸せそうだね。どうしてそんなに楽しそうなんだい?」と。というのは私は普段は沈んだ気分のことが多いからです。

 

私はこのよい気持を持続させたいと思い、どうしてこんなに幸せな気分なのかを考えました。そして自分に語りかけました。「そういえば、今まですごく祈る方ではなかったけど、今までより沢山祈ってるよね。それから聖書もよく読んでいるね。それも説教の準備のためじゃなくて、読むのが楽しいから読んでるね。それに今まで大嫌いだった断食もしている。」

「そうか、だからお前はそんなに幸せな気分なんだ!お前は祈ってるし、聖書を読んでるし、断食までしてる。だから幸せなんだ!」と自分を誉めてやりたくなりました。「その調子、その調子!」という風に。

その時、私は声を聞きました。「あなたの『イエスへの献身』を喜んではなりません。イエスを喜びなさい。もし自分のイエスへの献身を喜ぶならば、必ずあなたは自己義認に陥ります。」

突然、私の人生のヴィジョンが目の前に映し出されたようでした。自分が山に登っていて、「わあ、すごいなあ、高くまで登ったものだ。すばらしい経験だ。」と言いながら、周りを見渡します。そして「随分高いところまで来たぞ。あそこの人たちより随分高い!」と言うのです。

次の瞬間、私は荒野に移されていました。神が「ジャック、又同じ間違いをしていますね。わたしはあなたに荒野に戻ってほしくないのです。あなたはわたしの息子を愛し始めました。そこに留まっていてほしいのです。」と語られました。

 

神がこのように「あなたの業ではなく、わたしのようにわたしの息子を愛することですよ。」と私に 思い起こさせてくださったのは、実に神の憐れみでした。

 

神は本当に驚くべき素晴らしい方です。神は私たちの心を懸命に守ってくださいます。神は私たちが神を喜び楽しむことを本当に願っておられるのです。神は私の心の中に芽生え成長し始めたばかりのその愛を守り、御手を私の心の上に置いて「もう同じ間違いをしてはなりません。」と言われたのです。(続く)

(尚、文中の下線は訳者によるものです。)


18 09月

「フランシスに会いたいと伝えてほしい。」  フランシス・フランジペン  2020年9月19日


「フランシスに会いたいと伝えてほしい。」

 

            フランシス フランジペン

 

 

 もしサタンが日常の世俗的なことであなたの気を散らすことができなければ、サタンはあなたを圧倒的肉的な気疲れの消耗で疲れ果てさせるでしょう。もし神に自分自身を(霊的に)充電することなくしては、たとえそれが行いとしてどんなに良いことであっても,生命とエネルギーを消耗させてしまうのです。ダニエルは、終末の時代が来ると、敵が「いと高き方の聖徒等を疲れ果てさせることによって滅ぼし尽くそうとする」と語っています。(ダニエル7:25)

 神は、私たち(クリスチャン)が「神の臨在なくして(自分の力で)神の御心を行う」ことを決して意図していませんでした。神の目的を成し遂げる力は、祈りとキリストとの親密な関係 intimacy から得られます。神と非常に近い霊的に親密な関係を保つことによってのみ、私たちは常に高い霊的な美徳を補充することができるのです。

 

よい行いをすることに疲れている

 

 1970年代の初め、私のミニストリーを始めた頃、主は夜明けから正午までの時間を主に奉げるように私を召されました。私はこの時間を祈りと礼拝と御言葉の学びに費やしました。私はしばしば何時間も神を礼拝しながら、神の迸るような愛に満たされつつ神への歌を作曲しました。主の臨在は私の喜びであり,こうして過ごす主との時間は大変有意義であるばかりでなく,私たち二人の間柄に益々親密さを加える大変喜ばしいものとなりました。

 しかし、その主との交わりの結果が実を結ぶようになり、聖霊が私の教会に多くの人々を連れて来てくださいました。より多くの人々が来るようになると、私はそれまで捧げて来た献身の時間の終わりから45分を切り取っていることに気がつきました。時には、人々への働きが夜まで続くこともあり、以前のように早起きをしなくなりました。

 そして教会の成長の問題が、私に残された時間の質を蝕み始めました。教会員が増えるに従って教会業務の拡大、若いリーダーたちの育成、より多くのカウンセリングや伝道が、私に残された限られた時間に押し寄せてきました。もちろん,これらの変化は一夜にして起こったものではありませんでしたが「成功」が増していく数ヶ月と数年の間に,わたしの主への献身の時間は着実に蝕まれていきました。やがて私は自分のミニストリーが大きくなることに気づきましたが、それを維持するための油注ぎが縮小していることにも気付いたのです。

 

 ある日、私のために定期的に祈ってくれている執り成し者から電話がありました。彼は、主が夢の中で、私について語りかけてきたと言いました。私は、主が友人の夢の中に現れて、私のことを話されたことに大変興味をそそられのです。もしかしたら主が、私たちの伝道活動を増やしてくださるのかもしれない、あるいは必要な財政を供給してくださるのかもしれないと期待したのです。しかし、分かったことは、主は,私の教会業務のことには一切触れず、唯一言「フランシスに会いたいと伝えて欲しい 」との伝言であったのです。

 イエスと毎日過ごすという特権をないがしろにすると,わたしたちはどんな重荷を背負い,どんな倦怠感を蓄積していくことになるのでしょうか。わたしは主の前で悔い改めながら泣き、優先順位を再調整しました。もはや朝、主と過ごすと約束した時間に、人に助言をすることはありません。この時間を再び神と過ごすことにしたのです。

  そして、最近増え始めた教会の人数が減ることを覚悟しました。特に朝の時間には、個人的なミニストリーを受けるために来ていた人たちです。以前のように彼らのために同じ時間を過ごすことはできないだろうと思っていましたが、私は神のために決断しなければなりませんでした。

 次の日曜日の朝、私は、私の朝の時間は神に奉献されるはずの時間であったのが、色々な業務でそれが削られ制限されていたことを信徒に告白しました。「どうかお願いします。 」私は言いました。 「電話もカウンセリングもこれからはしません。私は主との時間をもっと過ごす必要があります。」 しかし、次に起こった事は、私に衝撃を与えました。 教会全体が立ち上がって拍手したのです!彼らはもっと神との時間を過ごす指導者を望んでいたのです!彼らは疲れた牧師に疲れていたのでした。

 これからの時代に入ると、私たちの主な活動はキリストに奉仕することになります。確かに、プレッシャーは大きくなるでしょう。また、大きな収穫と霊的活動の時もあるでしょう。どのような状況に置かれていても、私たちは主あっての自分自身を第一に考え、絶えず神の臨在の中にいなければなりません。イエス様との時間を逃すことは、神の臨在の日に神の栄光を逃すことになるからです。

祈り

父なる神様、あなたの足元にひざまずくことが唯一重要かつ必要であったのに、いろいろなことで不安になり、悩んでいたことをお赦しください。私は今、その一番良い部分を選び、あなたとの親密さによって、決して奪われることのないより良いものをすべて、あなたから、感謝して受け取ります。(終わり)


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