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Walk With God Ministries


03 01月

人生における障害物は私たちの愛の容量を最大にする エリザベス・エンロウ   2018年1月3日


 

2018年を迎えて      坂  達 也

 

皆様明けましておめでとうございます。いよいよ「ニュービギニング」への突入ですね。

 新年最初に私の心に浮かんだみ言葉は2テモテ3章でした。それは私たちクリスチャンこそが、2テモテ3:5にある「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」になり、そして7節で「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たち」になり果てていることでした。そして「そうなってしまっている状態からいよいよ真に脱皮する年であるという強い思いをいただきました。

 すなわち形だけのクリスチャンであること、これを現代風にいい直せば、フェイク・クリスチャンを止めて本物の信仰を持つ信者になれということではないでしょうか。2017年はこの世の中のあらゆる面で「フェイク」な者たちを浮き彫りに暴露して、主はそのような人を私たちへの戒めとして暴かれ始めました。

 

 しかし、それはまさに、パウロが上記の3章1節で「終りの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」といった警告とマッチします。

 そこで本日は下記のメッセージをご紹介し、新年に神が、私たちクリスチャン一人ひとりのために特別に用意される「困難」「試練」にどのように対処してゆけばよいか、それが私たちを「本物」にする、その神の奥義の一端を学んでいただければ幸いです。

 

 

人生における障害物は私たちの愛の容量を最大にする

 

エリザベス・エンロウ

 

私たちの魂が出会う様々なシーズンは厳しい時もありますが、もしそこに神を見出すならば、私たちのうちに何かを生みだすユニークで良いものとなります。夏の日々は暑すぎますし、冬は寒すぎます。季節はそれぞれに素晴らしいところもありますが、またそれなりの試煉や問題があります。それは何故でしょうか。この質問に答えるために夫の言葉を引用したいと思います。

「人生は障害物競走であり、あなたの愛の力を最大限にするために神によってデザインされたものです。」

 

第一のポイント

人生は障害物競走です。人生は楽であるようには作られていません!

ある走者がこれは短距離レースだと思って走りだしたら、実際はハードル・レースを走っていたとしたらどうでしょうか。彼はただ速く走ればいいと思っていたので、ハードルに出会う度に邪魔な物があると感じ、驚き、ショックを受け、いらいらすることでしょう。しかしもし彼がハードル競走のために訓練を積んでいて、ハードルが或る事を予測していたならば、このレースに勝利するために訓練してきたのですから、ハードルを飛び越えることを楽しみながら走ることでしょう。

障害物競走でも同じことが言えます。多くの者がそのために訓練し、障害物が現れるのを予期してそのチャレンジを楽しむのです。障害物競走のコースに置かれた障害物は、それを征服して勝利することがポイントです。人生のシーズンは困難も多いですが、私たちがそれを克服して勝利者になることを教えるという大きな目的を持っています。ですから障害物に出会ったとき不平を言って走るのを止め、疲れて動けなくならないようにしてください。どうか走り続けてください!

 

第二のポイント

あなたが今走っているコースは、あなたのために神によって特別にデザインされたものです。それが苦痛を伴うものであれば、あなたは落胆してしまいそうになるでしょう。苦痛は混乱をもたらし、他のどんなものよりも惑わしへの扉を開いてしまいます。しかしその反面、苦痛は真理を明らかにする力があり、私たちがそのようにとるならば、人生の最高のギフトを与えてくれることもできるのです。苦痛の源は神ではありません。しかし苦痛を止められるのは神しかなく、もし神が止めてくださらなければ、それは私たちが絶望へと転がり落ちる坂道への 戸を開くことになるかもしれません。

 

 

希望の本質は、神が自分には善いことをしてくださるお方であると信じて期待する能力です。希望を失うと、私たちが物事を受けるフィルターが損なわれます。そして自分に対する神の真の御思いが見えなくなり、神に対する悪評を拡大する者として敵に用いられてしまうことにもなりかねません。それだけはしたくありませんね。ですから時として神が非常に苦痛の大きい障害物競走をあなたにデザインしたとしても、それは神があなたの苦痛に無関心であるとか、そこにずっと留まるようにと言っているのではありません。とにかく走り続けてください!

 

第三のポイント

障害物競走の持つ目的は、あなたの愛の力を最大限にのばすことです。即ち、自分がどれほど深く愛されているかを知る能力を最大限にすると共に、自分が受けたその愛を人に与えていく能力を最大限に大きくすることです。自分がそのような愛の能力において成長しているのを見るとき、与えられた障害物競走の困難なシーズンを正しく受け取り、通過するのに成功したことが分かるでしょう。

 

愛よりも大いなる勝利はありません。それは私たちではなく神が定義する「愛」のことです。即ち、寛容で、親切であり、人をねたまず、自慢せず、高慢ではなく、礼儀正しく、利己的でなく、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜び、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ、、、そのような愛です。そして「愛は決して絶える(fail 止む、失敗する)ことがない」のですから、障害を乗り越えて勝利するとき、あなたはこの神の愛を学んだのです。

 

即ち、神の愛はあまりにも完全であるので、私たち自自身の内からは決して出て来ません。あなたの周りのすべての人が「神はあなたを愛していない」とか「神は信頼できない」と言ってあなたを説き伏せようとします。しかし、あなたの痛みや「楽になりたい」という願望を越えた神の優しさを聞き、神の愛にあなたの心の的を射ていただくならば、人に分け与えることができるほどに豊かに神に愛を受けとることができるのです。

 

ヘブル12:1は「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と言っています。

実際の試合の時、 優秀なスポーツマンならば誰でも基本に戻り集中することが大切です。私たちも人生の障害物レースを走るとき、「忍耐し続ける愛」という基本に戻らねばなりません。神を十分に愛してください。自分を十分に愛してください。人々を十分に愛してください。そして走り続けてください!(終り)


18 12月

新しい靴       ボニー・ジョーンズ               2017年12月18日


新しい靴

 

ボニー・ジョーンズ

 

 

フレッシュな油注ぎ

 

今シーズンに私は靴に関する夢を数回見ました。靴は主との歩みを表しています。今は新しいシーズンであり、私たちは今まで歩いたことのない道を歩くのです。主は次のように語ってくださり、私は聞いたことをただそのまま書きました。

比喩的で面白く素晴らしいと思いました。

しかし面白い話ではありますが、私はこの言葉を真剣に真面目に受け取っています。今はキリストのからだが主と共に歩き、他人の召しを羨むのではなく自分の召しを遂行すべき時だと思います。嫉妬やプライドを持つ余裕はありません。主が別の人のためでなく、自分のために備えてくださったコースを完走せねばなりません。この主の御ことばは面白いですがとても重大です。どうか読んで祝福を受けてください。

 

主の話「全員が新しい靴をもらう」

 

すべてのクリスチャンが新しい靴を受け取ります。なぜでしょうか?

古い靴がすり減ったからです。ある人たちは今までどこにも行かずに同じところをぐるぐる回っていました。なぜでしょうか?人生を歩む「目標とその行程表」がないからです。今日、わたしは聞く耳のある者に行進命令を出します。

 

ある者たちは山を登っていましたが、頂上に着くことはありませんでした。なぜでしょうか?

彼らが途中で止めてしまったからです。道が険しくなりあきらめてしまったのです。障害物で先が見えなくなったのです。太陽の光がまぶしく目がくらみました。彼らは神の御子から啓示を受けても、プライドが高かったので自分の計画を捨ててわたしに従うことができなかったのです。それで彼らの靴はすり減りました。ほこりまみれでボロボロになり、底には穴があきました。

 

ある者たちは人生のレースを走り出したけれど止めてしまいました。彼らは死よりも命を選び取る決意が固まらず、すぐ脱げてしまうようなゴム草履(フリップ・フラップ)をひっかけていい加減に歩いていました。彼らは舌にくつわをかけることをせず、何の自制もできませんでした。彼らの足はすぐにくたびれ、道ばたにすわって誰かが水をもってきてくれるのを待っていました。

また、ハイヒールで歩こうとした者たちがいました。彼らはすぐに足が痛くなり、驚いてすぐ靴を脱いでしまいました。彼らのゴールは自分を高くして人々に感銘を与えることでしたが、歩き続けることが出来ませんでした。彼らは少しずつ背が伸びるのを待つべきだったのですが、プライドの故に早く高くなりすぎたのです。高ぶりは滅びに先立ちます。彼らも道ばたに座り、リフレッシュされるのを待っていました。

ある者たちは小さすぎる運動靴と締め付けすぎた紐で走り始めました。彼らの足は豆が出来て痛くなりました。なぜでしょうか。もっと大きな靴が必要だったのです。成長するスペースが必要でした。彼らは謙遜で臆病で、ものを言うのを恐れていました。口にくつわをはめ、痛みをこらえて走り続けました。そして傷つき渇いてレースを終え、それなりのよい報いを受け取りました。

 

すべての者は、今日、新しい靴を受け、新しい任務を与えられます。彼らはそれを受け取るでしょうか、拒むでしょうか?今まで通りに歩くでしょうか、それともわたしのあとを歩き始めるでしょうか?

選択権は彼らにありますが、わたしはすべての者に新しい靴を差し出しています。平和の靴や愛の靴、彼らが想像したこともないほどの高みに連れていく靴です。啓示の靴、奇蹟の靴、繁栄の靴、成熟の靴です。

 

誰がわたしについてきますか? 誰がわたしと一緒に歩きますか?

さあ、来なさい、今日から一緒に歩き始めましょう。あなたが求めさえすれば靴は無償で与えられます。わたしに従って来なさい。

 

新しい歩み

 

わたしの子どもたちはこの道を歩いたことがありません。それは今が新しい時であり、新しいシーズンであり、彼らが過去にしてきたことは今のシーズンには役に立たないからです。わたしは創造しようとしています。新しい音や歌、新しい内臓や身体の部分を創造しています。ワーシップと讃美の家を造っています。男性や女性のグループの親しい交わりを造り出しています。わたしは新しい仕事の機会を造り、新鮮な香りを漂わせてます。

 

わたしの子どもたちは疲れたりつまずいたりしません。やすらかに歩きその荷は軽いでしょう。彼らは困難にぶつかるでしょうか?

確かに困難はあるでしょう。彼らは社会を変革させていく者であり、世はそれを喜ばないからです。彼らはわたしの名の故に糾弾、罵倒されますが、決して動かされません。それはわたしが彼らと共に歩いているからであり、人びとはわたしを動かすことは出来ないからです。

 

新しいアイデンティティー

 

現在、アイデンティティーの危機が起こっていますが、わたしの子どもたちにはそのような危機はありません。彼らが新しい靴を受け取り、わたしのうちに歩み始めるならば、自分が何者であるか、どのような位置を占めているのかと疑う者は一人もいないでしょう。なぜでしょうか?

キリストのからだの中にアイデンティティー泥棒がいなくなるからです。嫉妬、プライド、恨みは道ばたに捨て去られました。それを捨てなければ新しい靴は支給されません。捨てるのが困難な者もいましたが、ある者たちは素早く脱ぎ捨てました。

 

すべての者は疲れて痛んだ足を足湯で癒してもらいました。次に彼らの足を柔らかく滑らかにして新しい靴を履く準備をするために新しい油が塗られました。

靴は一人ひとりのためのオーダーメイドでした。同じものは一つもありません。わたしは一つひとつ彼らの任務にあわせて選びました。ある者は短距離を全速力で走り、ある者は山に登り、ある者は長距離を走るのです。ある者たちはハイヒールで歩くことさえ学び、新しい高みに上げられるでしょう。(以上が主からの言葉です)

 

結論:今は 新しい歩み、主にある新しいアイデンティティーの新しい日です。過去のことを振り返ることはもうできません。私たちは後ろ向きにレースを走る事はしません。ゴールを目指して人生のレースを走り、倦み疲れてはなりません。私たちは測り直され、サイズを合わせ、清められ、フレッシュな油を注がれました。私たちの旅路は今始まったのです。主の後に従い、信仰の一致をもって共に聖霊の橋を渡ろうではありませんか。(終り)

Bonnie Jones
The Prophetic Ministry of Bob and Bonnie Jones
Email:

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Website: www.didyoulearntolove.org


12 12月

主の臨在に浸る(ソーキング)    パム・ワトソン         2017年12月12日


主の臨在に浸る(ソーキング)

 

パム・ワトソン (Pursuit church in Auckland, New Zealand)

 

 

詩編37:7「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」

 

これがソーキング(soaking 浸る)の本質です。私たちが神の臨在の中に浸るとき、それは安息して神を待ち望む姿勢です。このように主を待ち望むことを、以前は「タリイング tarryingじっと留まって待つ」という言葉で表現していましたが、それは主を待ち望んで何時間もそこに留まることでした。しかしそれはほとんどの場合、聖霊に満たされるのを目的とし、聖霊を受ける準備を整えながら、嘆願しながら、長時間待ち続けるというものでした。

幸いなことに、今私たちはイエスと神の御こころをより深く知るようになり、私たちが嘆願するまでもなく主は御霊を私たちに注ぎたいと願っておられることを理解しています。ですから主にソーキングするとは、タリイングのように懸命に神に叫び求めるのではなく、主に安息し信仰によって受け取ることを強調しています。

 

栄光から栄光へと変えられる

 

第二コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

神の臨在に浸るとき(ソーキングする)、私たちは主を仰ぎ見るようになり、それによって主のように変えられていくのです。主の臨在に浸るとき、私たちは主を見るようになります。そのとき私たちは必ず変えられます。私たちは栄光から栄光へと変えられ、主に似た者へと更に変革されるのです。

 

主を待ち望む

 

イザヤ40:31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

 

この有名な聖句は、私たちが神を待ち望むときに何かが起こることを教えています。神という存在が、私たちの上に、そして私たちの中に、現れるのです。それは「私たちの弱さが神の強さと入れ替わること」であり、又、「私たちの足りなさが神の能力と入れ替わること」です。神を待ち望んで時を過ごす時、まさにそれが起こります。

多くの者は毎日の生活の中で、すでにこのことを経験しています。朝、主と時を過ごすとき、私たちの一日は力を受けます。神の臨在にソークするとき、この効果は更に強化されます。

 

神を敬慕する

 

ソーキングとは、また、主を喜び、主を敬慕することです。

雅歌2:3−5「私の愛する方が若者たちに間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」

 

神の臨在にソークするのは、主の陰に座り主の臨在の果実を食べるようなものです。雅歌の花嫁のように、私たちも大喜びでそうすることができます。この箇所はまた、主が私たちを酒宴に伴ってくださる時に何が起こるかも告げています。

 

それはただ主だけに可能なのですが、まず私たちが主の臨在の中に入り座すことから始まります。その時私たちは、自分に対する主の愛のもっと深い領域へと伴われます。それは酒宴の席に喩えられています。これは主に対する私たちの愛が増し加わるだけではなく、主の臨在のぶどう主を飲んだ者の外面にも表れる結果となります。人々が笑い、震え、泣くことも多々あります。そしてそのような経験は「酔う」という言葉で表現されることもあるのです。

 

静まり、そして知りなさい

 

詩編46:10「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)

 

この勧めも又、静まって神の臨在の中にソークするときに、神を知り神を経験することが出来ると教えています。主の前に静まるとき、神の臨在の重さ、栄光を感じることができます。しかしこの境地を求めるとき、困難を覚えることもあります。それは、私たちの肉は非常に活発で落ち着くのにしばらく時間がかかるからです。

しかし私たちの肉体ですることは、霊的な領域に力強い宣言をすることとなります。私たちが神の臨在の中に横たわるとき、それは主に降伏し安息を求める姿勢であり、主はそのような私たちの願いを受け取ってくださいます。

 

ソーキングの時にワーシップミュージックをかけるのは助けになります。音楽は雰囲気を整え、心を開き私たちの霊が神への崇拝に立ち上るようにします。崇拝は聖徒たちの愛の歌であり、ただただ主を愛し敬慕するとき、私たちは主の臨在の豊かさを更に大きく経験するでしょう。

ソーキングは肉を静まらせ、霊を立ち上らせます。その時、身体の中に住む「霊」こそが「真の自分」であることに私たちは気付きます。私たちの霊が主との交わりと敬慕の中に立ち上がり始めると、私たちの肉体は完全に安息し、私たちの霊は目ざめて主から何かを受け取る用意が整うのです。

 

主の臨在の中にいる結果

 

多くの場合神からの啓示は、臨在の中でソーキングした結果得られる実です。主は御こころの秘密を私たちに明かすことを喜びとしておられます。

解決すべき私たちの問題を取り扱い、私たちの置かれた状況や問題のために知恵を与えることを喜びとされるのです。

ソーキングで主を待ち望むときに与えられるものの素晴らしさや偉大さは、詩編27で示されています。14節のダビデの宣言でそれは最高潮に達します。

詩編27:14「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」

この詩編でダビデが言っているすべての事への鍵は、主を待ち望むことです。即ち、「1−3節:敵に直面したときの確信と力、4−5節:神の家、神の臨在の中に一生住む願望、6−8節:喜びのいけにえと御顔を求めること、9−13節:敵に対する勝利と神の慈しみを得ること」です。

 

これらすべては神の臨在から流れ出てくるものであり、私たちが神を待ち望むとき、即ち神の臨在の中にソーキングするときに与えられます。

 

イザヤ30:15−17「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』

しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。ひとりのおどしによって千人が逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗やぐらしか残るまい。」

主はここで「救いは主に立ち返り、主に安息することから生まれる」と私たちを励ましておられます。これこそがソーキンングの姿であり、ただ主にのみ可能なことに信頼するのです。主に安息することによって実る実は「静かに落ち着き確信がある」ことです。これが私たちの力の源となります。

残念ながら、私たちの肉は非常に強く支配欲があります。私たちは何かをしたい、したい、したいと思うのです。神の臨在にソーキングするには、何もしないことが必要ですから、それは肉に対する侮辱となります。それ故に人々は葛藤し、神に立ち返り安息することを拒絶します。その結果、人々は敵の攻撃に対して肉では勝利できないことを思い知らされるはめになるのです。

 人々は自分の「馬」は戦い抜くことができると思います。そして自分の努力が失敗に終った時も、主に立ち返るのではなく、以前の2倍の努力をするようになります。その結果、彼らは山の頂の旗ざおのようにポツンと残されるのです。それは、枝を打ち払われた木のように、実が一つもなく枯れ果てたように見えるのです。

イザヤ30:18「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

 

主は何と恵み深いお方でしょうか!

 

彼らは待たなかった故に死んだ旗ざおのようになりました。しかし、主はその時が来るまで待っておられ、彼らを恵みあわれむために立ち上がられました。

そして彼らを救われたのです。主を待つことの方が私たちにとってどれほど優れた道でしょうか!

私たちが待つ者になることを選びとるならば、主は私たちを恵み、あわれんでくださり、そして主の正義を現されて私たちの人生を祝福してくださいます。主を待ち望むことを選びとるとき、それは何と素晴らしい実を実らすことになるのでしょうか。

 

ソーキングは努力するだけの価値を持っています。それは時間を要しますし、自分に死ぬ必要がありますが、その報いは大きいのです。主の臨在への覚醒が増し加わるだけでなく、主の臨在のすべての実や益があなたの人生に解き放たれます。ソーキングは自分の家でいつでも一人で出来ることですが、グループですると

パワフルなものとなります。クリスチャンが集まるとき、グループ全体への油注ぎがあり、神の臨在を見つけるのが容易くなります。

どうかソーキングを始めて、楽しんでください!(終り)


04 12月

二本の木 ウエイド・テイラー(パロウシア・ミニストリーズ)    2017年12月4日


二本の木

 

ウエイド・テイラー(パロウシア・ミニストリーズ)

 

創世記2:9,16−17

「神であられる主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。、、神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。』」

 

主はアダムをテストの環境に置かれました。そしてテストのために、アダムの毎日の生活の真ん中に二本の木を植えられました。 「いのちの木」と「善悪の知識の木」でした。

この二本の木は、その意図と目的において多くの点で異なっていました。アダムは一つの木からは自由に取って食べてもよいと言われましたが、もう一方の木から取って食べることは禁じられました。

「いのちの木」は、主がアダムに吹き込まれた霊的いのちと関連していました。アダムが生きるためには、毎日いのちの木から食べる必要がありました。それによってアダムが自分を造られた創造主に完全に拠り頼む生き方が確立されたのです。もう一方の「善悪の知識の木」は、アダムの肉の命と関連していて、神から離れ独立して生きる道を彼に与えるものでした。

 

「いのちの木」の説明はイザヤ53章にあり、イエスがいのちの木であることを明らかに示しています。

イザヤ53:2「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」

 

堕落した人類は、イエスを 「砂漠の地から出る根」と見ました。彼は見とれるような姿もなく慕うような見ばえもありませんでした。イエスの麗しさは内なるものであり、ただ贖いと啓示を通して初めて認識出来る麗しさなのです。

しかし「善悪の知識の木」はそれとは全く違っていました。それは目に慕わしく非常に美味だったのです。つまり、堕落した人間にとって肉のものはすべてにおいて魅力的に映り、霊的なものは好ましくは見えないのです。

 

神のご計画により、 私たちが主から選ばれるためには支払うべき代価があります。主は霊的な麗しさを内に隠されました。ですからそれは主を心から慕う人々にだけ与えられる「霊的な視力」でしか見ることができません。マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とある通りです。神のご計画により、主の麗しさを見るためには決してあきらめない決意が必要です。「選ばれる者」になるために、知識の木から分離するための代価を払うものは、本当にわずかでしかありません。

 

敵は「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言いました。エバは「ものごとを自分で決める」という権利を「食べた」のです。そしてアダムにも与えたので、彼も食べました。人類が「神のように」なり、創造主から離れて自ら統治しようとしたために、私たちはその恐ろしい代価を今日に至るまで払い続けています。

 

アダムとエバの不従順な行動の後に、主がアダムと共に歩くために園に来られました。アダムは主の臨在から隠れました。彼は自分が「裸だった」ので隠れたと言いました。それは着ていたものを失ったのではなく、「栄光(シェカイナ)の覆い」を失ったのです。それは彼が目に見える主の臨在と主の栄光の中に留まるために必要なものでした。

このシェカイナは今や「炎のつるぎ」となり、いのちの木への道を守るものとなりました。主はアダムがいのちの木から取って食べるのを禁じられたのです。その結果、肉体の死のプロセスが始まりました。創世記3:22で主は「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木から取って食べ、永遠に生きないように。」と言われたのです。

 

アダムは霊的には即時に死んで、主の臨在の中に住むことを可能にしていた覆いを失いました。又、少し分かりにくいですが、肉体的にもその日の内に死んだのです。ペテロは「一日は千年のようだ」と言っています。アダムや彼以後のすべての者は、千年以内に死にました。

 

アダムとエバは自分で選びとる権利を「食べ」、それが彼らの一部となりました。主は動物を殺し( 血による最初の贖い)、その動物の皮の衣で二人を覆いました。彼らの罪は赦されましたが、彼らが食べたもの(自分で選び取る権利)は彼らの内に留まりました。

 

私たちは皆、この選ぶ権利をもって生まれてきました。イエスを救い主として受け入れるとき、私たちは罪赦されて新しく造られた者(new creation)となります。しかしこの「自分で選ぶ権利」は私たちの内に留まったままです。私たちはそれをエデンの園で得、主はそれを私たちから取り上げることはなさいません。しかし、私たちはこの自分の人生の権利を自ら差し出すことはできるのです。

 

ヨベルの年に奴隷たちは解放されます。もしそのまま奴隷であることを選ぶならば、彼らは耳を戸口の柱のところできりで刺し通されます。(出エジプト21:6)何年も前のことですが、礼拝中にこのことが私にとってリアルとなり、私は前に出て自分の人生に対する権利を放棄する願いを表しました。そして講壇の端に耳を当て、主に突き刺してくださるようにお願いしました。講壇の端は突然私にとっては戸口の柱となり、私は自分の耳をそこに当てて、主に突き刺してくださるように願ったのです。主は私の人生に対する権利を私から取り上げるのではなく、私が自ら喜んで主に差し出したときに受け取ってくださったのです。

 

しかしその後も私は一度ならず、「主よ、これは正しくありません。This is not right.」と不平を言いました。その時主はいつも、「あなたにはそれを言う権利(rights)はないのだよ。すべてそれを放棄したのだから。」と言われます。長い年月をかけて、私は「主が一番よく知っておられる」ことを学んできました。このような理解は一日で与えられるわけではありませんが、無条件で自分の人生を主にお委ねすることが、私にとって最善の結果となることが分かってきました。

自ら進んで人生に対する権利を無条件に主に明け渡し、自分の人生全ての上に完全な権威を主に持って頂き、「愛で仕える奴隷」になる決意をしたクリスチャンは本当にわずかです。王国には3つの要素が必要です。即ち、「領地、統治者、統治される者たち」です。主は王であられますが、自ら主に統治されることを願った者たちだけを統治されるのです。

 

私がその決意をした時、主はもはやただ「救い主イエス」とか「油注がれたキリスト・イエス、癒し主、御霊を下さる方」とかではなくなりました。主は私が完全に自分の人生を捧げ、私のすべて、私の持ち物すべてを支配される「主イエス・キリスト」となられました。主は私を「主と共に働き、主と個人的関係を持つ者」へと連れ戻してくださいました。エデンの園で失われたものを回復させてくださったのです。

シェカイナは、無条件で自らを主に明け渡した者たちにこれから完全に回復されます。

主に完全に贖われイエスを主とした者たちを通して、主のシェカイナが真昼の太陽のように輝き出るまで、主は私たちに試煉を与え、私たちの中の不純物を取り去られるのです。

 

第二テサロ二ケ1:10「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者のーーそうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。——感嘆の的となられます。」

イザヤ60:1−3「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光の上に歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

 

私たちは主の栄光が現れるのを見ようとしています。しかしまず、私たちは自分の人生に対する権利を放棄せねばなりません。それによって主イエス・キリストが栄光の中に来られ、私たちを通して主の命を生きることができるからです。(終り)


27 11月

神の知恵がもたらす安らぎ    ラナ・ヴァウサー         2017年11月27日


神の知恵がもたらす安らぎ

 

ラナ・ヴァウサー

 

今主は、疲れた者たちに知恵を与えておられます。

キリストのからだの 多くの者が、神の約束の明確な成就がないので非常に倦み疲れ落胆していることを、主が教えてくださいました。

 

思いがけない事が起り、約束が揺り動かされ危うくされて、多くの人が深い疲労感の中にいます。彼らは次つぎに困難が襲ってきたときも、頑張って希望を持ち、頑張って立ち上がり、頑張って信じ続けるために今まで戦ってきたのです。しかし今、多くの人が混乱し、頭がぐるぐる回り、疑いの思いが沸き起こっているのを主が見せてくださいました。

 

疲れた者のための知恵

 

このように疲れて混乱している人たちに対する主の御こころの思いを、私は非常に強く感じました。主が「疲れた者のために知恵が与えられる」とはっきり言われるのを私は聞きました。今人々が置かれている状況に必要な神の知恵、洞察、明瞭さ、識別、励ましを主は解き放たれています。

「主はどこに導かれるのか、何を言われているのか、行く手に何があるのか」という問いに関する更に深いレベルの啓示が与えられて、それが疲れた者たちの心を癒し、疲労を癒します。

 

主が言われました。

「このシーズン、疲れた者の多くは打たれ、傷つき、打ち叩かれたが、彼らは忠実であり続けました。彼らはわたしとの親密な関係を保ち、彼らの心は絶えずわたしに寄り添い、わたしにむかって開いていました。彼らは他のものに心を向けず、純粋にわたしを求めつづけ、わたしを礼拝し、わたしの前にひれ伏しました。彼らの心はわたしにむかってこう叫びました。

『主よ、私にはなぜこうなのかは理解できません。でもあなたを愛します!あなたの御こころがなりますように、御こころがなりますように、私のいのちはあなたのものです。』と。

わたしは彼らの叫びを聞きました、讃美のいけにえを聞きました。

疲れた者たちが落胆や激しい戦い、痛みの中にあってもわたしに従順であるのを見て、わたしの心は動かされました。わたしの麗しい者たちよ、わたしは今日あなたに言います、『重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

わたしの麗しい者たちよ、あなたの上に休息が来ます。それによってあなたは元気づき、リフレッシュされ、新たな喜び、期待、将来へのヴィジョンで満たされます。戦いの中で味わった失望、疲労、落胆はあなたから喜び、情熱、将来へのヴィジョンの多くを奪いました。多くの者は敵の攻撃の的となり、わたしが解き放っている約束と打ち破りの種を盗まれていたのに気づかずにいました。

 

あなたは疲れ果ててもう戦うことができないほど弱っていますが、今日、麗しい者よ、わたしはあなたの収穫の時が来ています、と宣言します。敵はあなたが収穫のシーズンに入る前にあなたを疲労困憊させようとしているのです。わたしは今日、あなたに言います。あなたは、約束の種、従順の種、讃美の種、宣言の種が、思ったより早く実を結ぶのを見るのです。』」

 

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨を元気つける。」(箴言3:6−8)

疲れた者の多くが、 疲労や落胆、苦痛を通して主との親密さが増し加わり、主がそれを喜んでおられるという思いで私の心は一杯になりました。彼らは主のご計画の全貌を知ることは自分には出来ないことをますます認め、いのちを捧げ、暗闇の中でもただ主を畏敬と驚嘆の念を持って崇め、主の御声に従って誠実に歩き続けたのです。

 

癒しとリフレッシュが来ます!主が言われました。

「疲れ果てた場所に、今わたしのこころの更に大きな知恵をあなたは持ち運びます。」長い戦いの道のりの中で、 あなたは自分が理解できない場所にいる時さえ主の御こころを求め続け、主の知恵を叫び求めました。主はあなたの叫びを聞かれました。あなたは今、あなたの置かれた状況に対する主の御こころの更に大きな知恵と洞察を持つのです。火の中で、あなたは主の御こころを今まで以上に見出したのです。火の中であなたは主を全く新しく見出し、主はあなたの目と耳をもっと鋭くしました。それによって天の知恵があなたの人生にもたらされ、あなたは人々をも励まし助けることが出来るようになるのです。

 

「幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。その儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠より尊く、あなたの望むどんなものも、これと比べられない。」 箴言3:13−15

 

天の口づけ

 

多くの疲れた者が、神経質になり、「次に何が起こるのだろうか、自分は正しい方向に進んでいるだろうか、自分が聞いたのは本当に神の声だったのか」と心配し恐れているのを私は見ました。それは戦いや思いがけない攻撃によって彼らが混乱しているからです。

主は、あなたの不安な気持、恐れ、緊張感、そしてあなたが「主よ、私はあなたの道を進みたいのです!」と叫んでいるのを知っておられます。

私は「天の口づけを受けなさい。」という言葉を聞き、主のフェイバーの封印が、「指針」と「あなたの心の願い」の上に降りてくるのを見ました。

 

あなたの行く手には天のフェイバーの接吻が来ようとしています!!あなたがまさに主の道を進んでおり、主の御心を聞き、正確に見たのだという確認を、神は非常に美しく深い方法で、大きなファイバーもってしてくださいます。そしてあなたへの約束の言葉が事をなし成就するのを主が見守ってくださっています!

 

麗しい 主イエスへの讃美と敬慕の深い思いがあなたの内からふつふつと涌き上がってきます。主は主の御こころと御ことばの啓示の深みへとあなたを連れていき、あなたは圧倒され、もはや疲れを忘れ去るでしょう。主の心からリフレッシュの泉がわき、あなたの心の疲れた部分を再び生き返らせるのを見るでしょう。

 

主がささやかれました。「疲れた者よ、あなたがわたしに忠実であったことへの報酬を、あなたの目で見る時が来ようとしています。」

どうか、知恵のリフレッシュの川で主とダンスをする用意をしてください!!!!(終り)


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