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Walk With God Ministries


31 07月

苦難のさなかをゆくとも   ーー迫害前夜に生きるキリストの弟子          バジレア・シュリンク


苦難のさなかをゆくとも

  ーー迫害前夜に生きるキリストの弟子

 

               バジレア・シュリンク

 

 

 クリスチャンの基本は十字架にあります。パンデミックに見舞われている今の時代は、まさに苦難の最中にあり、マザー・バジレアさんは次のように言われます。

 「激しい迫害や私たちへの絶え間ない攻撃、憎しみに対して、私たちは自分の力で耐えることはできません。苦難に耐える力は、すべてキリストの内にあるのです。もしキリストと一つになっているなら、私たちは勝利を得、パウロと同じようにこう叫ぶことができます。「何ものをも『私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない。』と。(ロマ書8:39)共に主の力によって圧倒的な勝利を得る者となりましょう。」

 

その時代をどのように生きるかは、主が言われます。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23−27)

 

 

罪に打ち勝つ

 

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(1ペテロ5:8、9)

 

 この世での短い人生では、私たちクリスチャンを待ち受けている試練を克服できるかどうかにすべてがかかっています。苦難と迫害という試練に耐えることができるでしょうか。

 その結果が私たちの永遠の運命を決定するでしょう。サタンの狙いは私たちを敗北させ、命の冠を奪い取ることです。サタンの戦略は、私たちの苦しみを恐れる心、卑怯な心、反抗、誤った愛着や人への恐れといった私たちの最も弱いところを攻撃することです。

 迫害が臨む時、私たちがどれほど真剣に自分の罪を取り上げ、どの程度罪と戦い、克服できたかが明らかになることでしょう。もし仔細なこの世の出来事や「今日」の喜びや悲しみに心を奪われて「明日」を忘れたなら、私たちはその結果を刈り取ることになります。「明日」には迫害が訪れます。イエスの贖いを信じ、罪に対して真剣に戦うことによって、前もって自らを備えない限り、だれひとり、この試みに耐え抜くことはできません。

 聖書は私たちに、絡みつく罪を捨てるように(ヘブル書12:1)命じています。それには戦い無くしては打ち勝つことはできません。

 それは私たちが口論好き、支配欲、嫉妬、身勝手、不誠実、欲望を満たしたいといった自分中心の罪をそのままにしておかず、それらを心から憎むときだけに打ち勝てるのです。・・・

 すなわち、キリスト教の知識を知ることよりは、キリストの弟子として生きることが大切です。神の御心とは何でしょうか。それは私たちが聖なる者となることであるのです。(1テサロニケ4:3)

 

 キリストの苦難にあずかる特権

 

 「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(ピリピ1:29)

 

 クリスチャンに対する大きな迫害が近づいています。恐らくその規模は今までになかったほどのものであり、だれをも恐怖に陥れることでしょう。洗脳、強制収容所、投獄、精神病院、拷問、殉教が脳裏に浮かびます。しかし、この苦難はすばらしい秘密があり、その他の苦悩とは全く違ったところがあります。それは「キリストのための苦しみ」であるということです。

 私たちが苦しむのは、ある概念のためでも、あるいは大衆によって偶像化された罪深く、死すべき人間のためでもありません。また私たちは、民衆を惑わし、恐怖政治すら行う支配者のために苦しむのではありません。何千という人たちがそのような指導者に従い、どのような犠牲おもいとわず、命すら惜しいとは思わずに尽くしてきました。そして結局は自分たちがだまされていたことに気がつくのです。

 しかし、クリスチャンである私たちは迫害が訪れても、イエス・キリストのために苦しみ、命すら投げ出す特権が与えられています。イエスはいと高き主であり、賛美を受けるにふさわしく、威厳をもって統べ治められる方です。

 

 このようにして使徒パウロはイエスのために苦しむように召されました。御国のために「選ばれた器」であったパウロについて主が語られました。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使徒行伝9:16)

 初代の殉教者に限らず、現代の殉教者もイエスを信じるだけでなく、主のために苦しむことがどんなにすばらしい名誉であるか気づいています。パウロはイエスのために苦しむことは恵みであり、特権であると考えていました。(フィリピ1:29)殉教者は、大抵この世のものではない喜びに満たされていました。なぜなら、彼らの心はイエスへの愛に燃え、御名のために辱められ、苦しみに遭うことを名誉に思う気持ちに圧倒されたのです。彼らにとってイエスの御名は、あらゆる栄光と力、知恵と美、そして計り知れない愛以外の何ものでもありませんでした。それは常に彼らの心に優しく響く愛の御名であったのです。

 イエスが彼らにとって最も大切なはじめの愛であったからこそ、近年の殉教者は、かっての殉教者がそうであったようにイエスのために喜んで苦しみ、すべてを神に献げることができたのです。迫害が始まる以前から彼らは、いやしめ、屈辱、失望、窮乏、誤解、侮辱、拒絶、自己否定、犠牲そして最終的には十字架というイエスの道を選んだのです。イエスを愛する人々は、以前から真の弟子としてイエスと同じ道を歩むことを選択し、迫害が訪れる時までには備えられていました。彼らは苦しみによって試された者であり、イエスへの愛に燃えていました。自分の十字架をイエスと共に負えば負うほど、彼らはイエスに強く結びつけられ、イエスへの愛はいっそう強く燃え上がったのです。

 イエスはこの上なく私たちを愛し、私たちが御自分の愛にこたえるのを待っておられます。私たちが主を愛し、主の歩まれた道を選び、自らの十字架を負って御自分に従うよう、主は呼びかけておられます。(続く)


22 07月


十字架の向こう側

 

ボブ·ジョーンズ(Bob and Bonnie Ministry )

 

(これは1995年のボブ·ジョーンズのスピーチです。彼は2014年に天に召されました。このお話は何度読んでも面白いので、改めてご紹介します。)

 

最後のバッター「恵み」

 

10年前(1985年)の5月21日、それは、ペンテコステの日でしたが、主が野球の試合のヴィジョンを与えてくださいました。

試合は、悪魔のチームと神のチームとの対戦でした。9回の裏で両チームともそれまで得点がなく、神のチームが9回の裏の攻撃を始める時でした。主が最初のバッターを送られました。その名は「愛」でした。サタンが投球し、「愛」がバットを振りました。愛は常に神を喜ばせ、決して失敗しないのです。(Love never

fails)それはヒットとなり、愛は一塁に走って行きました。主は次のバッターを送られました。それは愛と共に働く「信仰」でした。サタンが投球し信仰がバットを振り、ヒットとなりました。信仰は神を喜ばせ、愛と共に働くのです。信仰も決してしくじることはありません。主は次のバッターを送られました。それは「知恵」という名でした。サタンが投球しましたが、知恵はバットを振りませんでした。サタンは次つぎに球を投げましたが、知恵はよく球を見たのでフォアボールとなりました。神の知恵はサタンが投げる悪球に引っかからないのです。

 

神は今、このように愛、信仰、知恵を私たちの人生に働かせ、私たちを成長させようとしておられるのです。3塁に愛、2塁に信仰、1塁に知恵と、満塁になったとき、主は次のバッターを送られました。「わたしはいま最強のものを送る」と主は言われました。それは今まで見たことのないピンチヒッターで、その名は「恵みGrace」でした。サタンが投球し、恵みがバットを振りました。バットが折れるようなものすごいヒットとなりました。しかし「嘘つき」が外野にいてそれを阻止しようとしました。嘘つきのハエは空中にいるのです。教会の中でサタンは悪いうわさやゴシップをはびこらせ、神の栄光を隠していました。「嘘つき」は「まかしておけ!絶対取るぞ!」と叫びましたが、球は彼のグローブを通り抜け、ホームランになりました。4人の走者は全部ホームインして神のチームの勝利となりました。「4」は聖霊のナンバーです。聖霊の働きがこれから強くなるのです。

 

ゼカリヤ4:7「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運びだそう。」

 

「愛」「信仰」「知恵」は人間の働きです。それは私たちをあるところまでは導いてくれますが、ホームインさせるのは 神の「恵み」なのです。

 

ダビデの油そそぎ

 

詩編89:20「わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。」

 

今主は、多くのダビデのような者を見いだして油を注ぎ、恵みを解き放ってくださいます。先ずすべての土台である「愛」が心から主を求める者たちに与えられていると信じます。そして「信仰」が強くされ、サタンに惑わされることのない「知恵」が与えられてきました。

 

教会は今まで「神と一緒に(with God)」ではなく「神のために(for God)」一生懸命働いてきました。今こそ私たちが「神と一緒に」働く時です。モーセではありませんが「神が共に行かないならば私はどこにも行かない、何もしない」と決意する時です。今まで私たちは「神の手」を求めて「下さい、下さい、下さい!」と言ってきました。でも神は「そうではなくて、わたしの心を求めなさい」と言われるのです。ダビデは神の心を持っていましたね。「わたしの心を捜し求めなさい。わたしの心の内を捜し求めなさい。」と主は言われます。

 

神の心に何があるかご存知でしょうか?

それは人々の魂です。神は人々の魂を求めておられるのです。イエスは私たちに救いを与えるためにこの世に来てくださいました。そして私たちの長兄として進んで十字架にかかってくださったのです。イエスのいけにえの代価で私たちは贖われたのです。

 

御父は今もこの世を愛するゆえに、今度は「あなた」をこの世に与えようとしておられます。私たちは皆、十字架の向こう側に行かねばならないのです。十字架のこちら側にいた時、あなたは手をのばして「主よ、下さい、下さい!

欲しいです!」と言いました。でも十字架のむこう側に行ったならば、聖なる御霊が復活の力をもってあなたの内に働き始めます。そしてあなたはキリストの性質を持つ、キリストに似た者となっていくのですその時、十字架のもとに来る人たちに必要なものをあなたが与えることが出来るのです。その時、あなたは「受ける者」から「与える者」にかわることが出来るのです。

 

主はみなさんに「成長しなさい!大人になりなさい!」と言っておられます。私たちが愛、信仰、知恵を身につけるならば、神は恵みを注いでくださるのです。その時に決して試合に負けることはありません!

 

聖霊を招き入れる

 

聖霊はずっと教会の扉を叩いておられます。人々は「聖霊よ、あなたを尊ぶと言っているグループの中で、あなたが本当に働かれるのを見たならば、私たちの教会にあなたをお迎えしてもいいかもしれませんね。でもまずその人たちが変えられるのを見たいのですよ。」と言います。

私はそれが起ころうとしていると信じます。聖霊に満たされた人々の中で主にある真の愛の交わりが具現化されていくのです。そのようにペンテコステが又現われるとき、それを見た人々は聖霊に心を開くようになります。

 

聖霊があなたに語るのを聞いてください。そうすれば私たちが語るときに、神の言葉を語るようになるのです。

私たちの口から出る言葉も神の言葉と同じように、創造の力を持つようになります。詩編115:16には「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」と書かれています。そして今主は私たちが地を主にお返しするのを待っておられます。「わたしが再び地で働く許可を人々が与えるのをわたしは待っている」と主は言われます。(サタンは私たちの許可を必要としません。彼はどこにでも勝手に無断で入っていく盗人です。)すべてのとりなしの祈り、回心の祈りは、神の介入を許可し招き入れるものです。

 

聖霊は教会の扉を叩いて「入れてください。もし入れてくれれば、わたしはあなたの教会の主となります。そして一人の方、即ちイエス·キリストを顕します。」と言っておられるのです。イエスが教会に来られると、一人の方、即ち御父を顕されます。御父は70年前、非常に嘆かれました。それは進化論が人々に受け入れられ、「人類の父は猿だ」と人々が信じ始めた時でした。進化論が「あなたの父は猿だ」と言ったので多くのクリスチャンも混乱しました。御父はバビロン捕囚のときにされたように70年を区切られました。バビロンは「混乱」という意味ですね。御父は70年間、姿を現されませんでした。今、70年が経ち、御父は再び来てくださいます。私のお父さんは猿ではなく、全能なる神です!私は自分が誰かを知っていますし、御父が誰であるかも知っています。家族なのです。

ずっと前に私は神の御心の真ん中は家族であることを発見しました。御父は家族を大切にする方です。御父が来られるとき家族を大切にされます。ご自分の子供たちがお互いの悪口を言ったり、ゴシップをするのを非常に嫌われます。

 

火のバプテスマ

 

御父は新しい土台を造られます。聖なる霊は愛です。あなたが愛に成長するならば、あなたは聖さにも成長するのです。ローマ1:4に「聖い霊(spirit of

holiness)」とあります。私はどうすれば聖い霊が得られるかを主に訊ねましたが、それは聖霊のバプテスマを受けるのと同じでした。即ち、信仰によって受けるのであり、そしてそれは愛が私のうちで働くときに成長するのです。主は愛という土台を築かれておられ、それは決して壊されることはありません。

 

選ばれる者となる

 

イザヤ48:10に「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩み·苦しみの炉であなたを試みた。」とあるように、主はこの10年間、私たちを試煉という熱い炉で練られました。

 

マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。For many are called, but few are chosen. とあるように、すべてのクリスチャンは招待されて、熱い炉に入れられるのです。ある者たちは3週間で、「もう十分だ、ここから出よう。これは思っていたより熱いぞ。私の大事なもの、まだ手放したくないものがどんどん燃えてしまう!」と言って途中で炉から出てしまうのです。人は自分が捧げた分に応じて受けます。ダビデは10年間苦難の炉に中に入っていました。あなたが炉に留まり続けるときあなたは「選ばれる」のです。

 

今御父は、苦難の炉の中から多くの白い石を取り出しておられるのを私は見ます。主はこれらの白い石で土台を築かれます。それは祭司の土台であり、純粋な神の言葉、義と愛で築かれる土台です。

 

火のパプテスマとは聖さの霊であると主が言われました。聖さの霊があなたの生活の中で働き始めると、神の火があなたを燃やし尽くし始めます。私が罪を犯したとき、私は御父から逃げませんでした。かえって私は御父にむかって走っていったのです。そして主が言われることはすべて従いました。もしあなたの足が汚れたならば、天のお父さんのところに走って行き、主の足を掴んでください。神の火があなたの罪をも焼き尽くしてくれるでしょう。(終り)


08 07月

時間   TIME        フランソワ フェネロン


時間   TIME  

               フランソワ フェネロン

 

  時間の使い方は、人生のさまざまな季節に応じて変化しますが、どの瞬間にも当てはまる原則があります。それは「時間を無駄にしてはならない。」です。

 

 どの季節にも、神があなたに課したさまざまな仕事があり、あなたは自分の時間をどう使ったかを神に報告する(義務)があります。創造者の神は、あなたの人生のどの時間(瞬間)も「目的のない」ものとして見ることを望まれません。つまり神は、あなたが神から離れて時間を過ごすことを望んではおられないのです。

 

  重要なことは、神があなたにどのように時間を使って欲しいと願っているかを知ることです。このことは、勤勉さや学校教育、優れた知性によって学ぶのではなく、その人の、純粋でまっすぐな心で、常に神に注目し、神に思いを馳せることによって学ぶのです。

 

 また、自分が何かしたいと思うことが、自己愛(自分中心)からの発想であることに気づいたら、すぐにそれを捨てる。ーー それは「何もしないで時間を過ごす」時を含み、また、間違っていると分かっていることをしているのであれば「時間を無駄にしている」ことになる、加えて、一見「良い」ことをしていると思えても、それが神からのものでなければ、やはり「時間を無駄にして」いることになるのです。

 

  あなたは、神の指示を得るために、常に「神の霊」に頼らなければなりません。 神が何を望んでおられるのかはっきりしない時は、もう一度、神に尋ねてみましょう。そして、あなたに対するその時の神の御心をはっきり理解した時、神の御心をする際に神が下さるものすごい力で前進しましょう。自分が神から離れていくのを感じたら、神に心を戻しましょう。

 

  自分自身を救い主の手に委ね、いつも意識して神が望むことをしようとしているなら、あなたは本当に祝福されているのです。ですから、いつも神があなたに何を求めているかを、決して飽きずに尋ねる習慣をつけましょう。

  それぞれの時間に与えられている責任をその都度果たしてゆく、 神はそのためにあなたを準備しています。あなたがすべき唯一のことは、あなたの気性(例えば怒りっぽいとか)、強い意思・意見、その時の心配事など、あなたの様々な肉的な反応のすべてを、完全に神に委ねることです。 また、その時の自分の外的な仕事量に圧倒されてはいけません。

 

  すべての行動において、「神を称える」ことを求めてください。なぜなら、自分の仕事に個人的に没頭する時、自分の全思考がその仕事を中心に回ってしまう危険があるからです。そのような時には、つい仕事で興奮しすぎたり、落ち込みすぎたりします。

 

  他の人と一緒にいる時間は、あなたにとって非常に危険な時です。そのような時こそ、あなたは神の前に留まることを学ばなければなりません。 あなたと他人との会話の中には、しばしば微妙なものが隠されているからです。

  他の人と過ごす時間にこそ、神があなたを用いて、彼らによい影響を与えるお話しをされることが多いのです。 覚えておいて欲しいのは、あなたの言葉は、大きな善をもたらすこともあれば、大きな害をもたらすこともあるということです。

  さて、何もしなくてよい「空き時間」は楽しいものです。しかし、その時にこそ、日頃あまりできない、神との親密な時間を過ごす秘訣を学ぶために、自分の霊的な力を増進する貴重なチャンスでもあるのです。 主をよく知っている人は、そのような空いている時間を楽しみに待っています。(終わり)

筆者・坂 達也の後書き:

 この文章は1テサロニケ5:17にある「絶えず祈りなさい」をいみじくも説明してくれています。本当に私たちは、文字通り「絶えず祈る」=主と霊的交信・実行をする必要があるのです。