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Walk With God Ministries


25 04月

神の荘厳さに浸される     グラハム・クック            2015年4月25日


神の荘厳さに浸される

 

グラハム・クック

 

アブラハムの信仰

 

ヘブル11:8「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

この箇所は少し変っていますが、新しい信仰の領域について書かれており、それは神が私たちを導きたいと願っておられることです。言うなれば、アブラハムは地図に記されていない場所に踏み出さねばならなかったのです。どこに行くのかを知らないで、自分の相続財産の地に向かってどのように歩き始めればよいのでしょうか?

北に向かうのですか、南ですか、それとも西ですか、東ですか?

あなたはどこに行くのか知らず、しかも神が絶対にそれを教えないと心に決めておられるとしたら、どうすればよいのでしょうか。神の指示なしに、あなたはどのようにしてその地に辿り着くのでしょうか。

それは神との交わりによってです。神との関係を保つことによってそこに到着するのです。

神はあなたに行き先を告げず、何も言われません。ただ御手をあなたに差し伸べられます。あなたはその御手を握ります。まだどちらに行くのかわかりませんが、自分の手がほんの少し引かれるのを感じた時、それがわかるのです。

 

あなたは主が歩かれるのと同じペースで歩くことを学びます。時として主は走られるので、その時はあなたも走らねばなりません。

神があなたに与えてくださるのは、ご自分との親密な交わりだけであり、それによってあなたは神の導きに対する敏感さを養われるのです。聖霊の導きに敏感になることだけがあなたの頼りです。神はあなたに御手を差し伸べ,あなたはその御手を握って主と交わりながら歩くのです。ですから神との親密な交わりを保つことは、私たちにとって「役に立つ」というようなものではなく、必要不可欠なものなのです。

 

喜んで信頼する

 

現時点で将来のことが全くわからない時、私たちはリスク無しにすべての可能性を探ることができます。これは楽しいプロセスであるはずです。神があなたに行き先を告げずにどこかに行けと言われる時、あなたは「神に信頼すること」を学びます。信頼に関して次のことを知ってください。即ち、信頼は喜びながらせねばならないことです。もしあなたが喜んで信頼しないとすれば、心配しながらするということでしょう。でもそれはつまり、あなたは信頼していないということです。すべての信頼はうれしく喜ばしいものでなければなりません。

神が「わたしを信頼しなさい」と言われるのは、「あなたはわたしにとって最愛の子なのだから、パパを信頼しなさい」と言っておられるのです。パパは信頼に値する方だからです。神はあなたに信頼を教え、恐れ、心配、悩み、パニック等を捨てるようにと言われています。神を信頼するときに心配することなど不可能だからです。心配と信頼は共存できません。この二つが同じスペースに同時に存在することはできません。どちらかが出て行かねばなりません。どちらを追い出すかの選択権はあなたが握っています。

 

「わたしを信頼しなさい」と言われる時、 神は「今はすばらしい時なのだよ。あなたが、もしかの時のために少し残してある心配もすべて捨てなさい。」と言われているのです。

 

夢見る自由

 

どこに行くのか知らないで信頼することは、私たちに夢見る余地を与えます。神は「まわりを見回してごらん。広い土地を見てごらん。何の制限もしないで、自分の周りに壁を作らず、すべてを見てごらんなさい。あなたがすべてのことに実際に手を出すというのではないけれど、のびのびとした雄大さを感じて欲しいのだよ。」と言われるのです。

 

神があなたを山の頂上に連れて行かれるのはそのためです。あなたにすべてのものを見せ、あなたの目の前に広がっている土地の雄大さを見せたいのです。あなたは夢見ることが出来るのです。私たちの人生のいろいろな面で夢見ることはよいことです。サウナに入ると皮膚の毛穴が開くように、夢見ることはあなたの信仰を広げます。物の見方を広げます。あなたを越えた何か大きなものを見て、あなたはのびのびと楽しく愉快な気持になるのです。

 

神の荘厳さに浸される

 

あなたは神の偉大さ、大きさを見ることができます。私たちが神の偉大さを見る時、自分の小ささを感じるのではありません。自分がどれほど大きくなる可能性があるかを感じるべきであるのです。それと逆に、敵が自分の大きさを誇って見せる時、私たちは自分をいなごのように小さく感じます。神はそうではありません。神がご自分の偉大さを見せてくださる時は、あなたも大きくなることを願われているのです。

私たちの所有する領域には二つの次元があります。毎日生活している物質的な世界と超自然的な御国の世界です。ですからあなたは恵みや厚意を両方の次元で受け取らねばなりません。即ちあなたは神から恵みを受け、人からも恵みを受けるのです。

必要なレベルの恵み、厚意を神から受け取るためには、私たちは神と親密になること、そして神を畏れ敬うことにおいて更に高いレベルへと進んで行かねばなりません。あなたの人生の中で、神の荘厳さや偉大さに圧倒され、その中にどっぷり浸される経験がどうしても必要な時が必ずやってきます。

 

私たちがイエスの内に生きるために必要なことの一つは、主の荘厳さと偉大さに気付くことです。人生に戦いが必要である理由の一つはこれです。私たちの戦いはサタンを服従させるのが目的ではありません。サタンの用いる策略は「戦いの焦点はサタンである」と私たちに思わせることですが、決してそれに乗っていけません。戦いは敵が主役ではありません。戦いはイエスの偉大さ、壮大さ、荘厳さを見出して、あなたが主というお方に対する畏敬の念で圧倒されることを目的としています。あなたは、偉大なる王と出会ったことの当然の結果として、敵を征服するのです。戦いは私たちがサタンを服従させることではありません。サタンはあなたに「この私が敵を征服した!」と思わせたいのです。戦いとは主の偉大さを見出すことです。

 

あなたは神の荘厳さの領域に入って行かねばなりません。なぜなら、神の荘厳さに包まれ、自分もすばらしいと感じるほどの驚嘆と畏敬のレベルが、あなたには必要だからです。

 

主の偉大さの中に入る

 

主との親密さは、主の偉大さを促し具現させます。なぜならば私たちのDNAには「あがめる」という機能がはめ込まれているからです。私たちは主との親密さを通して主の偉大さの中に入るのです。主との親密さが私たちの内にある何かを開き、私たちは主の偉大さを賛美し崇め始めます。あなたが主の偉大さを誉め称えれば称えるほど、あなたは急速に御座に近づき、畏敬の念に打たれる場所へと進んでいくのです。

 

その時あなたは、あたかも自分がコンクリートのかたまりになったかのように感じます。手足を動かすことがほとんど出来ません。でもあなたの心は胸の中で広がってゆき、起るはずのない沢山のことが起り始めます。あなたは「こんな状態は生理学的に無理だ」と感じるでしょう。私たちがイエスと会うときに新しい身体が必要なのはこのためです。

 

あなたがそこで、神と共にいると本当に沢山の変化が起り始めます。あなたの頭脳は拡大し、あなたの心は大きくなります。その時あなたは、ただただ主の偉大さと結合しているのです。神があなたをご自分の偉大さへと引き寄せてくださり、あなたの中に主の存在がものすごく鮮明に意識され、自分のこともはっきり分かり、自分が次にどのような者になるのかも分かるのです。自分に関するすべてのマイナスな思いがゼロになり、次にその目盛りが急速にプラスの方に進みはじめ、「まあなんということでしょう!私はこんなことを達成する可能性を持った人間なのだ!」とあなたは叫ぶのです。神の偉大さを感じることが必要です。そしてあなたの偉大さも感じる必要があるのです。

もしあなたがイエスのうちにいて、主の名前の一つがワンダフルだとすれば、あなたは何であるのですか?あなたもワンダフルです。偽りの謙遜はサタンからのものだということが分かるでしょう。真の謙遜とは「イエス無しでは自分はどのような者であるかを知っていること」そして「イエスとならばどのような者になれるかを知っていること」です。それは「まあ、なんということでしょう!」と驚くほどすばらしいのです。

創世記の中でヤコブが神を経験し「この場所は、なんと畏れ多いことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」と言ったのと同じです。これがあなたが地上にいる間に経験すべき神との出会いです。神はあなたに対してもっと多くの計画を持っておられることを知らねばなりません。今のあなたのレベルでなんとか生き延びていくような人生ではありません。イエスにあっては「なんとか生き延びる」などということはありません。そこには常に偉大さと成長だけがあるのです。(終り)


20 04月

愛する人のためのとりなし   トッド・ベントリー      2015年4月20日


愛する人のためのとりなし

 

トッド・ベントリー

 

 

産みの苦しみ

 

イザヤ66:7−9「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起る前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起すと同時に子らを産んだのだ。『わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか。』と主は仰せられる。『わたしは産ませるものなのに、胎を閉ざすだろうか。』とあなたの神は仰せられる。」

魂の産みの苦しみとは、情熱的な深いとりなしの祈りであり、それによって失われている人たちが福音に耳を傾け、イエス・キリストを救い主として受け入れる決断をする霊的空気を作り出す事ができます。

人びとの目をくらませ圧迫する敵の力を実際にはねのけ、福音が彼らの心にしみ込むようにできるのです。効果的な魂の獲得は、このように重荷を負って苦しむ涙の祈りなくしては決して達成できません。

 

「魂を勝ち取るのは私たちの義務であり務めであるのだから」という理由では、私たちは深いとりなしへとは導かれません。しかし「聖霊よ、来てください。どうか主の御心と同じ重荷を与えてください。神の願いを私たちの内に入れてください!聖霊よ、あなたが魂の救いのために砕かれたように私たちをも砕いてください。私たちが魂のために産みの苦しみをするように助けてください。」と叫ぶことはできるのです。

私たちは魂のために神と格闘する者でなければなりません。ヤコブのように「主なる神よ、私はあなたを離しません。あなたが私を祝福してくださるまで私はあなたと格闘します。私に人びとの魂を与えて祝福してください。失われ滅びていく世界が救われ、癒され、解放されますように。私はあなたと格闘します。私の家族が救われるまで。」と言うのです。

使徒パウロは産みの苦しみについてこう言っています。

ガラテヤ4:19「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」

パウロはすでに彼らの魂の救いのために産みの苦しみをしましたが、又更に彼らの中にキリストが形造られるように産みの苦しみをしたのです。

 

パウロがエペソ人への手紙を書いたとき、 彼は深い祈りの心を持っていたことがわかります。エペソ3:14「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。」

パウロは常に「産み出すこと」をし続けました。彼はそのような霊の領域を知っており、神の御心にどのよう触れ、神が望んでおられる誕生をどのように産み出すかを知っていたのです。私たちにもこの姿勢が必要です!

私たちが文字通り神の御思いに圧倒されるような「火」と「油の注ぎ」が与えられることを、私は信じています。私たちを主の前で泣き伏させ叫ばせる恵みが私たちのために用意されているのです。聖霊による魂の救いのために産みの苦しみができる恵みが私たちのためにあるのです。

神は私たちをなまぬるい、居心地の良い状態から連れ出し、聖霊により街に出て行き、失われた魂に福音を語らせることができるのです。そうして私たちは伝道へという熱い思いにゆり動かされるでしょう。

 

産みの苦しみのとりなしによって魂の救いを見るための重要な鍵の一つは、私たちが神の燃える愛に触れ、神の御思いによって砕かれ、とりなしの重荷を与えられることです。私たちは本当に自分を愛するように隣人を愛す必要があります。(マタイ19:19)しかし、第一にすべきことは何でしょうか?

それはまず神を愛することです。(マルコ12:30)それが私たちへの最大の召しです。即ちイエス・キリストを知ること。そしてイエスとの交わりにより私たちは愛の心を持ち、失われた魂に対する愛と憐れみに突き動かされてその救い見るに至るのです。

そうであれば私たちは単に責任とか義務とかで働きはしないでしょう。イエスが「これはわたしの仕事だから」と言って人びとにミニストリーをされたことは一度もありませんでした。人びとへの大きな愛の故に主は人びとに手を差し伸べられたのです。

 

家族の救いとリバイバルの約束

 

使徒16:31「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』といった。」

出エジプト12:3「イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。」

一頭の羊が家族全員の解放に十分だったのです。

このような産みの苦しみの祈りの戦いがサタンの力を打ち砕くことができます。

次に、縛り、そして解き放つミニストリー(the ministry of binding and loosing) により、人びとを盲目にして福音を拒ませている惑わしの力を押しのける助けが出来ます。サタンが不信者の心と思いをどのように縛っているかを次の箇所から見てみましょう。

第二コリント4:3−4「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人びとのばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」

エペソ2:2「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」

あなたの家族をキリストの下に来させないようにとの指令を受けて働いている悪霊の力があり、又、あなたの家族が真理を見ないようにしている力があるのです。私たちが彼らのために祈るのはこのためです。これはただ神に「どうかジミーやスーを救ってください」とお願いするのではなく、私たちがサタンの力に対する権威を行使し、彼らの名前を呼んで呼び出すのです。私たちは霊において敵の要塞に対して権威を持ち、獄の戸を開けて捕われ人を解放しなければなりません。

 

イザヤ61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ・・・」

この聖書箇所で、神は「わたし」という言葉を何度も使っています。主の霊は「わたし」の上にあり、それは捕われ人を釈放し囚人を釈放するためなのです。神が私たちに「掴め」と言われたものを、神に願い続けるのを止めるべき時があると思います。神が与える魂の収穫を阻止している敵がいることを、はっきり認識すべき時があるのです。

私たちは霊において立ち上がり、「ジョーよ、スーよ、私はあなた達をイエスの御名において解放する。暗やみにいる者たちよ、出て来なさい。ジョーを縛っているサタンよ、お前に命ずる、彼を解き放って彼の霊の目が見えるようにせよ。私は霊でジョーを掴み彼の霊の目を開く。ラザロよ、出て来なさい!」と言わねばなりません。私たちが権威を持ち、失われた魂に対する神の御思いを心に抱き、涙を流して産みの苦しみをして祈りの戦いをする時に、私たちは大いなる収穫を見ることができるのです。

 

リバイバルの鍵

 

私たちはリバイバルをもたらした力強い伝道集会のことを度々考えます。例えばビリー・グルハム伝道集会のことを考えてみてください。長年にわたって何十万何百万もの人びとが彼や又その他の伝道集会でイエス・キリストを信じる決心をしました。

しかし、人びとがあまり知らないことですが、多くの場合、伝道集会をする都市で開くときには、少なくとも一人か二人のとりなし手がその街に前もって遣わされます。彼らは部屋に閉じ籠って日夜深いとりなしをします。そのような魂を産み出す苦しみをすることによって、霊的領域で魂を解放し収穫を産み出すのです。

言葉を代えれば、彼らは先ず密やかに霊的領域で魂を勝ち取る戦いに勝利するのです。そして次に伝道集会において、目に見える形で勝利が起きます。それは人びとがイエス・キリストを信じる決断ができるように解放されたからです!

彼らの祈りはリバイバル集会で聖霊の火を大きく燃え上がらせます。

 

中国のリバイバルの鍵

 

以前私は中国の教会のビデオを見たのですが、クリスチャンたちが地下教会で午前4時に集まっていました。彼らは友人や家族が救われるために激しい産みの苦しみの祈りをしていたのです。その光景は本当に驚きでした。 彼らは神のヴイジョンと御思いに浸され、激しく深い産みの苦しみの祈りに入っていました。魂を産み出すプロセスは燃えつくすような情熱です。彼らは失われた魂に対する大きな重荷を霊的に孕んでいたので、そのようなとりなしの祈りに入っていたのです。

彼らの身体は震え、涙が頬を伝っていました。それは魂の救いのための産みの苦しみでした。中国のクリスチャンがそのようなとりなしの祈りをするのは、彼らの心に魂の救いのための熱いヴィジョンが燃えているからだということは明らかです。それこそが毎日2万5千人が救われている理由であったのです!

 

あなたは見るものを手にいれる

 

「心の目を開いてください」という歌は中国地下教会のクリスチャンにとっては現実です。彼らはまず自分の心の目で収穫を見、そして今リバイバルが起っているのです。皆さんはうらやましいという思いに駆られませんか?私はうらやましいです。中国が偉大な収穫を産み出しているように、もし私たちがそのための代価を喜んで支払うならば、ここ北米でもそれは起るります。

 

救われていない人と一つになる

 

救われていない人に対する神の本当の御思いについて、もう一つのことがあります。イエスが最も偉大なとりなし手となり、最も偉大な祭司となり、そして永遠にとりなしの働きをするためには、(ヘブル4:14、5:1−10)主は私たちがどのような状態なのかを理解し、その私たちと一つにならねばなりませんでした。ですから、主は天の栄光を捨て人間の肉体をとった神となりました。何という変り方でしょうか!

天の栄光と力を捨て、神の子として地上に下りて来られました。私たちと同じ肉体をとり、私たちと同じように試みに会いました。しかし、罪を犯しませんでした。(ヘブル4:15)主はその時、そして今も、私たちがどのような苦しみを通っているかを知っておられます。

主は私たちの人間的な状態と一つになり、私たちがどれほど惨めで助けを必要としているかを御覧になりました。実にイエスは私たちと一つになられたので、私たちの大祭司、とりなし手となることができたのです。(ヘブル4:13−16、5:1−10参照)

従って私たちも救われていない人たちと一つになる必要があります。以前自分が盲目で暗やみの中を歩んでいた人生が、どのようなものであったかを思い出す必要があるのかもしれません。そうすれば、失われた魂がイエス・キリストを見出すのがどれほど急を要する事であるかを感じ、彼らの救いのための情熱をもっと持てるでしょう。神は私たちが人びとの救われるのを強く望む熱い心で心動かされるのを願っておられます。

私たちが聖霊によって導かれると、失われた人たちの苦しみと実際に一つとなり、私たちの心や感情までも引き込まれるようになります。そうなる時に、私たちは魂の救いのために産みの苦しみを耐え忍び、更に深いとりなしへと進んで行けるのです。

 

あなたは無名のヒーローです

 

産みの苦しみの働きはもっと広い範囲でも行われています。歴史に残るリバイバルの中には、失われた魂のために人びとが産みの苦しみへと動かされた故に起ったものが多くあります。

ジョナサン・エドワーズが「神の怒りの手にある罪人」という有名な説教をしたとき、神の御霊が力強く注がれました。神があまりにも大きい聖さと力を顕されたので、長老たちは教会の柱にしがみついて「主よ、お救いください。地獄にすべり落ちそうです。」と叫んだ程でした。

この話を聞いて私たちは、彼の偉大な説教に焦点をあて、それが聖霊の偉大な力であると考えがちです。しかしこの聖霊の偉大な動きのための道備えをしたのは「とりなしの祈り」だったのです!

その教会の全員が前日の夜通し熱心な祈りをしていました。私たちが歴史を見るときに、神の人たちが祈りによって人びとの魂を救いに導いたことがわかります。今も無名のヒーロー達が人に知られることなく魂の救いのために産みの苦しみをしていることを私は知っています。

真剣に失われた魂のために祈っているほとんどの人たちは、人に認められることや見返りを求めてそうしているのではありません。しかし、主はその人たちのために、天に永遠の報いを用意しておられることは確かであると、私は申し上げたいのです。(マタイ6:6)(終り)


10 04月

終末の惑わしとは        リック・ジョイナー         2015年4月10日


終末の惑わしとは

 

リック・ジョイナー

 

マタイ24章でイエスが終末のしるしについて語っておられる箇所を見てみましょう。先ず最初に主は「人に惑わされないように気をつけなさい。(マタイ24:4)」と言われました。ですから、最も顕著な終末のしるしは惑わしであると結論づけることができます。続けて主は惑わしの特徴について最も大切なことを話されました。

5節「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。For many will come in My name, saying ‘I am the Christ,‘and will deceive many.」

この箇所を「自分がキリストであると言う者が沢山現れる」と解釈し教える人が多くいますが、イエスがここで言っているのはそういう意味ではありません。「多くの者が『in His name 彼の名によって』現れ、彼、即ちイエスこそが本当にキリストであると言うけれど,それでもなお多くの人たちを惑わすであろう。」と主は警告されているのです。そのような者たちは実際非常に早く現れました。彼らは「イエスはキリストである」と教えつつも教会に律法のくびきを負わせ、信じる者たちをキリストから引き離してしまいました。

 

その後もそのような者が多く出た

 

歴史を通じて、「イエスはキリストである」と教えつつも聖書的ではない教義を混入した者たちが大勢現れました。モルモン教の教祖であるジョセフ・スミスはそのよい例であり、彼の人生を学ぶことは預言的な人にとって同じ過ちを犯さないために特に有益だと思います。

ジョセフ・スミスは著しい預言の賜物を持っていました。彼は1824年のクリスマスに、やがてアメリカに大きな内戦(南北戦争)が起り、それはサウス・キャロライナ州から始まると預言しました。彼はこの戦いの原因も正確に預言しました。その他彼の多くの預言が正しかったことが証明されました。しかし、彼が自分に与えられた啓示を、教義を確立するために用い始めたとき、彼は一線を越えてしまったのです。それは預言の賜物の誤った用い方であり、必ず誤りの結果を生み出します。聖書だけが教義を確立するものであり、預言は絶対にそのために用いてはなりません。

新約時代には預言がキリストのからだを建て上げ、主の御心を啓示し、神の民が備えるべき危機を知らせたことが分かります。よい例はアガボが世界に飢饉が来ることを預言したことや、他の預言者たちが、パウロがエルサレムでどのような迫害に遭うかを知らせたことなどがあります。又、預言は主と主の民との交わりを深めるために用いられることもあります。しかし、預言は教義を確立したり、変更したりすることには決して用いられません。カルトや分派がどのように始まったかを調べてみると、その多くは、ある人が預言的啓示を用いて新しい教義を確立しようとしたことに端を発していることがわかります。教義は書かれた御ことばだけが入れる領域です。真の預言がそのために用いられることは決してありません。

 

多くの人がウイリアム・ブラナムも同じ過ちを犯してしまったと考えています。彼は著しい預言の賜物を持っていて、ある一時期、世界を揺り動かしました。しかし彼はやがて奇妙なことや人びとの益にならないことを教え始めました。私は彼と親しかった人たちから聞いたのですが、彼のミニストリーのマネージャーが自分が信じていた極端な教えを推進するためにブラナムを利用したということです。ブラナムも後になってそれに気付き、深く悔いたそうです。ブラナムをよく知っていた人たちはすべて、彼が本当に謙虚で人の意見を素直に聞く人であったと言っています。それは彼が初代教会以来であろうと思われるような多くの奇蹟を行っていた最中でもそうだったということです。これは惑わしに関するもう一つのよい教訓です。

へりくだりは私たちが持つべき最も大切な徳の一つです。なぜならば「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4:6)」からです。又、人の意見を素直に聞くことは、本当の謙遜の土台となる特徴です。しかしサタンは、私たちを阻むことができない時に、私たちの後ろにまわって背中を押し、私たちが自分の長所で過失を犯すように図るのです。

 

私たちはいくら謙虚と言っても、聞いたことが真理かどうかを調べないほど謙虚であってはなりません。特に自分がそれを教えるならばしっかりと調べなければなりません。教会や同様のミニストリーをしていた多くの人たちが、ブラナムが教えていたことの幾つかに対して異議を表明しました。又、彼らはブラナムを異常に崇拝していた人たちに対してもその間違いを指摘しました。ブラナムをよく知っていた人たちはこの点でも彼が悔いていたと言っています。彼は自分が車の事故で火に包まれて死ぬことを正確に預言しました。そして、それは多くの人たちが彼を崇拝し始めたので、自分がどれほど唯の人間に過ぎないかを主が世に示すためであると言いました。

もし、人びとが自分を過大評価し始めたとき、それをそのままにしておくならば、私たちは重大な過失を犯し、大きな惑わしに人びとを陥れるのです。使徒行伝の中で、パウロとバルナバが奇蹟を起したので人びとが彼らを崇拝しようとした時、彼らは群衆の中に駆け込み着物を裂いて懸命にそれを止めました。誰であっても十字架を真に仰いだ者が、主が受けるべき栄光を自分が受けるのを許すならば、それは最大の不敬行為であり、恐ろしい惑わしの始まりです。

 

ジョセフ・スミスやウイリアム・ブラナン、そしてその他同じように道を逸れた人びとから私たちが最も学ぶべきことは、自分があるミニストリーの中でどれほどの権威を持っていたとしても、私たちはその権威の領域の範囲内にとどまるべきであり、自分がしたいと願う他の領域でも同じように油注がれていると思い込んではならないということです。預言の分野で油注がれていたとしても、教師として油注がれているというわけではないのです。その逆もまた然りです。私たちは自分の召しを越えて活動しようとしている人を見分ける必要があります。主はエペソの教会が「使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことを知っている(黙示録2:2)」と称えています。

 

もし私たちが使徒ではない人を使徒として受け入れるならば、真の使徒職を軽視し、自分の霊的通貨の価値が下がるのを許し、自分を惑わしの危険に曝しているのです。今日、ほとんどすべてのリーダーが自分は使徒だと言っています。その中には家庭集会を導く力もない人もいます。そして私たちはどうして教会がこうも弱々しく惑わしや愚かなことに翻弄されているのかと訝しがるのです。

一方、ユダの手紙にある「不平を鳴らす者 fault-finders(あら探しをする人)と言われる人たちが多くいます。啓示のシンボルではそういう人たちはしばしば動物のサイで表されます。サイは二番目に大きな動物ですが、視力が弱く、よく見えないものを片っ端から攻撃します。あら探しをする人たちは大抵教会が進むべき方向に対するヴィジョンがなく、理解が浅く、偏った見解を持っています。彼らは自分に同意しない人を攻撃し、分裂を引き起こし、キリストのからだに大きなダメージを与えます。彼らも又惑わす者たちです。

カルトを見張っている人たちが、彼らの見張っているものに似てくるのに皆さんは気がつかれましたか?私たちは自分の見ているもののイメージに変えられていくのです。ですから私たちは何よりも主の栄光を仰ぎ見るべきなのです。カルトを調べてその情報を与えてくれる人たちがいるのは感謝ですが、カルト研究に一番情熱を注ぐことは、私としては賛成できません。私たちは敵の策略を知るべきですが、黙示録2:24には「サタンの深いところを知っている人たち」に対する警告が書かれています。私としては、惑わしや偽りに関する研究に力を入れている人たちの意見をあまり信用しません。カルトについて正確で有益な知識を持っている人たちは、ほとんどの場合、そのグループに手を差し伸べてミニストリーをする目的で研究しています。それはパウロがピリピ1:9で「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり...」と言っている通りです。

 

神の御こころでないものが惑わし

 

実際のところ、あるグループの人びとを正しく識別し理解するためには、その人たちへの愛がなくては不可能です。愛以外のものはすべて私たちの知識と識別の両方を歪めてしまいます。

私があるグループの人たちにミニストリーをしている人の識別を信用して、そのグループの欠点を捜すだけの人の言うことを信用しないのは、この理由によります。

私たちは聖書に基礎をおいていない教えをすぐに鵜呑みにするときに惑わされます。又ある真理が、自分が思っていたのと完全に一致しない方法で示された時にそれを認められないほどにパラノイドや高慢である時も惑わされるのです。パリサイ人たちは、メサイアの到来を誰よりも持ち望んでいたにもかかわらず、主が来られたときに認識することが出来なかったばかりか、主に最も敵対する者となってしまいました。これは実に最悪の惑わしではないでしょうか。これと同じ霊が今多くのクリスチャンの中で働いているのに気がついておられますか?彼らは主が今日しておられることを猛烈に攻撃しているのです。

 

聖書に書かれているエルサレムに対する最大の裁きの二つ目は、主の訪れを知らなかったことから起りました。神からであるものを神からではないと言うことや、神から遣わされた人を否定するのは重大な過失です。しかし私たちはメッセンジャーをチェックすることを決して怠ってはなりません。

いのちの道の両脇に溝があるのです。もし私たちが今まで聞いたことがないという理由で真理を拒否するならば、私たちは主にではなく恐れという主人に仕えているのです。もしそのように生きているならば、私たちはすでに片側の溝に落ちてしまっているのです。もし私たちがベレアの人のように気高い霊を持たず、新しく聞いた教えが聖書に堅く基礎を置いているかどうか調べずにあまりにも容易に受け入れるならば、私たちはいのちの道のもう片方の溝に落ちているのです。

いのちの道のクリスチャンの歩みは、それら両極端からの攻撃を識別しそれに屈しないための戦いの連続です。いのちの道から逸れないと強く決意しているクリスチャンの中には、過去にどちらかの溝に落ちた経験のある人たちがいます。使徒パウロはその一人です。自分は一度も惑わされたことがないと誇る者は、一度も事故を起していないという理由でタイタニックの船長に選ばれたキャプテン・スミスのようなものです。惑わされた経験を持ち、そこから救われた人の方が、遜りを学び、神からの恵みを受けることができるのです。彼らは自分の知恵に頼らずに主に信頼することを学びます。

 

両極端からの攻撃は私たちの訓練の一つとして主が許されているものです。それによって私たちは知恵と主への信頼において成長します。それは「主が道を示してくださる」という信頼から、「道であるお方への信仰」への成長です。主は道であるばかりか、真理でもあります。私たちが惑わしを避ける一番の道は、惑わしを見分ける知恵を持つだけではなく、主の後に従うことによります。私たちが主を知れば知るほど、更に早く簡単に、それが主からのものではないと見分けることができるのです。

次のことは重要です。惑わしとはただ単に間違った教義を信じるだけではなく、主の御心の中にいないということです。あなたがすべての教義を正確に知っていたとしても、主の中にとどまっていないならば、あなたは惑わされているのです。第一コリント13章で言われているように、私たちがすべての教義を知っていて、神の偉大な奥義を知っていても、愛がなければ何の値うちもないのです。もし私たちが真理を愛するならば、正確で健全な聖書の教義を求めるでしょう。しかし真理の中を歩むというのはそれだけではありません。それは真理であるお方の中にとどまることであるのです。(終り)


05 04月

緊迫するアメリカとイスラエルの関係         坂  達 也     2015年4月5日


緊迫するアメリカとイスラエルの関係

 

           坂  達 也

 

「過去6年間オバマ大統領とイスラエルとの関係は悪化の一途をたどって来ました。私が一月にご報告したように、昨年末の世論調査でアメリカ国民の47.4%はオバマ大統領がイスラエルを見捨てる恐れを持っていることが判明しました。今はその数字がもっと増えていると推測します。このまま行くとオバマ大統領は本当にイスラエルを放棄することを私は恐れます。」とヨエル・ローゼンバーグ氏は三月末に彼のブログで言っております。

 

この懸念は御存知のように、イスラエルのナタニヤーフ首相が米国国会議長ベーナー氏の招待により三月初めに米国議会で演説したことによって更に悪化しました。その後オバマ氏は折からのイスラエル首相の選挙に際し、ナタニヤーフ首相を落選させるべく反対派に資金援助をしたとまで言われ、その選挙結果が予想に反してナタニヤーフ首相の勝利に終わったことによって、この二人の関係は全く相容れない最悪の状態で4月を迎えました。

そしてスイスで開かれていたイランの核開発を阻止する7カ国外相会議で、3月末迄に結論を出すという期限を超えたにもかかわらず、異常としか思われないオバマ大統領の熱意と執拗なねばりによって遂にイランとの枠組み合意に一昨日無理矢理こぎ着けたのです。これに対して昨日の日本経済新聞電子版には「2002年から10年を超える外交交渉が続いてきたイラン核問題で、ようやく合意がまとまった裏には『レガシー(政治的な遺産)』づくりにこだわるオバマ米大統領の執念があった。在任期間が残り2年を切るなか、オバマ氏は野党・共和党の批判と中東諸国の反対を押し切って賭けに出た。」と報道しております。私はこの短い報道はかなり当を得たコメントであると思います。

 

一方これを受けてナタニヤーフ首相はこの枠組み合意に猛反対しており、又米国内でも大統領と共和党主導の国会側との亀裂は増々深まる様相を呈しています。

特に昨年の総選挙で米国議会は上下院共に共和党が過半数を制して以来、大統領は気に入らない議決法案を次々に拒否権を行使して却下するだけでなく(大統領の拒否権発動を無効にするには上院の2/3の票が必要、今はそこまでの共和党議員数はない)かなりの重要事項を国会を通さず独自の裁断で行使し始めました。共和党と多くの国民からは越権行為・憲法違反として大きな非難を浴びつつ、オバマ大統領が独裁者の様相を増々深めて来ていることは否めない事実です。

 

聖書からの警告とオバマ大統領

 

ここでローゼンバーグ氏が指摘する聖書の警告を改めて見てみたいと思います。

先ず創世記12:1−3で、神はイスラエルの父祖アブラハムに対して「わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民としてあなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。・・・あなた(イスラエル)を祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と約束しております。

次にヨエル書3:2で、「わたしは万国の民を集めて・・・その所でわが民・・イスラエルのために彼らをさばく。彼らが・・わたしの地(の一部)を分かち取ったからである。」(口語訳)

その他:エゼキエル書38、39章に出てくるマゴグ・ゴグ(ロシアを含む北方国)とペルシャ(イラン)等の国々がイスラエルに集結され、神のさばきが下ること、又、ゼカリヤ書14:1−2、黙示録16章 ハルマゲドンの戦い

 

上記で神は、イスラエルを祝福する者を祝福し、イスラエルをのろう者をのろうと明言しています。私はアメリカに50年以上住んで来て、アメリカがイスラエルをかばい祝福しない時に、神が何らかの災難をアメリカに下されるのを見て来ましたから、この聖書箇所が真実であることを身に沁みて感じています。

そしてオバマ大統領は、ナタニヤーフ首相再選が決まった時点で、特にパレスチナ問題に対する首相の態度を強く非難し、今までアメリカの歴代大統領がイスラエルを擁護するために国連決議において必要時に拒否権を行使してかばって来たものを、今後は行使しないことを匂わせました。これを称して「アメリカはイスラエルを離婚するのか」と騒がれている通りです。

オバマ氏は、パレスチナ国家を正式に誕生させ、その際にエルサレムを二分し、領土配分でイスラエルの領地を1967年以前の状態に戻すという考え方に賛成しており、本当にそれが国連で採決されれば、まさに上記ヨエル書3:2が実現し、アメリカは神から完全にのろわれることになります。

 

今回アメリカが急いで取り付けたイランとの枠組み合意の影響

 

スイスで大筋が合意されたイランとの交渉妥結案に対して、先ず4月3日発表されたイスラエル首相のステートメントを下記のようにお伝えします。

「私は今イスラエル内閣の会議から帰って来たばかりですが、私たちの内閣は、今回の枠組み提案に全員が強く反対することで一致しました。この提案は私たちの周辺諸国、ひいては世界全体を非常に深刻な危険に曝すだけでなく、イスラエル国家の存続そのものを脅かすものであります。この合意は、イランの核融合施設を含む核施設の一つなりとも閉鎖する提案をしておらず、又今後の技術開発を禁止することも含まれていないのです。

この提案はイランが不正に核開発することを禁止しないばかりか、現在ある施設の全部が温存継続することを許し、その上、今までイランに課せて来た制裁 sanctions のすべてを早急に解除することを約束しております。それによって、数年後にイランは核兵器開発の禁止から完全に解放され、その数ヶ月後には核兵器を手に持って周辺国を超えた世界の国々を侵略することを可能にするもです。

このような合意はイランが核兵器を持つことを阻止するどころか、逆に核爆弾を持たせる道を舗装し助けてやるようなものです。そして中近東各国を核兵器製造競争に追いやり、やがて世界を恐ろしい核戦争に巻き込むことになるでしょう。

二日前にイランの軍司令官が『イスラエルを撲滅することは交渉の余地は全くない non-negotiable イランの最終目標だ。』と宣言しましたが、私はこれに対して『イスラエルの生き残ることこそnon-negotiableなイスラエルの最終目標である』と宣言します。そして、6月30日までに作られる最終契約書には「イスラエル存続の権利」をイランが認めることを明記することを要求します。」

 

一方アメリカ国内での反響はどうかと言えば、今回同意した枠組み案でアメリカは、元々持っていたイランへの要求の最低基準線を強硬なイランの態度によってほとんど骨抜きになるまで、なし崩しに譲歩してしまったと言う疑いを多くの人が持っています。これに対して大統領側はそうではないことを懸命に説明し、防戦を張ろうとしております。それは別途後述します。そして、大統領自身もイスラエルを守る意志を捨てたのではないことを国の内外に強調し始めました。

 

そこで、今真剣に取り沙汰され始めたのが、この大統領主導による「イランとの枠組み同意」を議会が承認するか、否決するかの問題です。議会へは既に先週以前に共和党によって「イランへの更なる制裁 sanctions」法案が提案されておりますが、その採決が「枠組み交渉」の結果が出るまで保留されて来ました。そこでいよいよその採決に入ることになりますが、正直なところ今の時代は何が起こるか一寸先の予測もつきません。採決されないかもしれません。しかし万が一この法案が議会を通れば、当然ながらオバマ氏は大統領拒否権を発動するでしょうから、その後、上院で2/3の多数決でそれを無効に出来るかどうかが今後の焦点となって来ます。事実、共和党議員だけでなく、一部の民主党議員の中にも今回の「枠組み同意」に懸念と不満を持つ人たちが出て来ており、その人たちが加われば、大統領拒否をくつがえす可能性が充分あるとも報道されており、大統領はその議会対策のために本腰を入れ始めました。

もっとも、この「イランへの更なる制裁 sanctions」法案は「イランとの枠組み同意案」を直接否定する法案ではありません。しかし、内容が現行の制裁の上に上乗せするものである以上、もしそれがそのまま通れば、現行の制裁すら解除する「枠組み案」を否定することになることは明らかです。これが論議の焦点となり、議会では何らかの改定案が出される可能性は十分です。従ってアメリカはいよいよ「大統領 対 議会=国民の総意」の対決を見ることになるでしょう。

 

オバマ大統領のアメリカ国民に対する報告

 

毎週土曜日朝に大統領が国民に対してビデオ・メッセージを送りますが、この4月4日のメッセージでは、大統領が妥結したばかりのイランとの交渉内容を下記のように説明しています。

「このイランとの枠組み取決めは、最も本源的で、粘り強い外交交渉の結果としてまとめられたものです。それは私たちの望む目標の核心に合致し、イランが核兵器に到達するためのあらゆる道を閉ざす目的に適い、彼らの核開発計画を厳しく制限する内容となっている、よい取決めです。

この取決めは、イランが核爆弾を造るに必要なプルトニウムを得させないようにし、兵器にするために必要な強化ウラニュームを造らせないことを目的としたものです。そしてその材料をストックとして蓄積しないことにイランは同意しています。それに加え、国際的に選ばれた検査官がいつも自由にイランの核開発基地に出入りして検査することを可能にし、もしイランが違反すれば、それが即座に世界に知れ渡るようになっています。もし何か疑わしいと思われる時は直ちに検査出来ます。ですからこの取引はお互いを信用することに基づくものではなく、未だかってなかった程のきびしい検証に基づいているものです。

この取決めは十年以上の長期に渡るものであり、その厳しい制限は未曾有のガラス張り検証によって20年あるいはそれ以上の長期継続が期待出来るプログラムです。しかもイランは「核兵器開発禁止条約Nuclear Non-Proliferation Treaty」 のメンバーとなり、核兵器開発は将来も許可されません。

以上の見返りとして、アメリカを含む国際共通社会は、今までに課せられたイランに対する制裁 sanctions を段階的に解放することに同意します。但しイランが取決めに違反すれば、解かれた制裁は直ちに元に戻されます。それに加え、アメリカ独自のイランに対する種々の制裁もすべて継続して課されます。

多くの重要な細目事項は、6月末までの三ヶ月間に決定される必要があり、すべてが同意されるまでは何も同意されてはいないことを意味します。この間もしイランが後戻りするようであれば、何の取決めも成立しません。

さて私は、これからアメリカ国内において激しい討論をすることになるでしょう。特に、議会Congress を通じてアメリカ国民に今回の取決め内容の主要な部分をすべて詳しく説明する予定です。その際にイランの核問題に対処するには次の三つのオプションしかないことを忘れないでいて下さい。最初のオプションは、イランの核開発施設を爆破することです。しかしそれをしてもイランの核開発を数年遅らせることにしかならず、その間中東にもう一つの戦争を招くことになるでしょう。次のオプションはイランとの交渉を打ち切って制裁 sanctions だけに頼るオプションです。しかしそれはイランが核開発をどんどん進めることを許すことになりよくありません。そこで最後のオプションは、今私が説明した厳しい検証を基にして、平和裏のうちにイランが核兵器を持つことを防ぐことが出来る一番よいオプションです。

大統領として、又アメリカ軍総司令官として、私は今回イランと取り決め同意した「枠組み」を推進する方法がアメリカのためだけでなく同盟国と世界にとっても最良の方法であると堅く信じます。

但しこの枠組みを細部まで取り決めるためにはまだ多くの仕事が残っております。外交交渉とは実に忍耐を必要とする骨の折れる仕事です。そしてそれが成功することを必ずしも保証しません。しかし本日、私たちはイランとの交渉を平和裏に達成する歴史的機会を得ることが出来たと信じ、それをご報告致します。そのために世界の国々(今回交渉に参加した5カ国)が私たちをしっかりと後押ししてくれております。そしてこれからの数ヶ月は、アメリカが今までの世界をリードして来たと言うアメリカにとっての最良の伝統を保持するために一層の働きをしなければならないと信じております。」(以上)

 

スイスで合意した取決めの枠組みに対して、ナタニヤーフ首相とオバマ大統領の見解をご紹介しましたが、両者の見解があまりにも違うことに皆さんは驚かれたと思います。私も驚きました。当然ながら私は、オバマ大統領の言うことが正しいと信じたいです。彼が嘘を言っているとは思えません。しかし、それではなぜイスラエル首相はこの交渉結果に真っ向から反対するのでしょうか。

それはイランと言う国が、こと約束事に関しては過去の実績から見て、全く信用出来ないからであると思います。ですからオバマ氏も断っているように、この大枠取決めをイランが忠実に守るとは考えられず、オバマ氏自身もイランが違反することをまるで前提としているように聞こえます。彼としては表向きあくまで大義名分の正論を唱えて取決めにこぎつけたという「功績」を世界に訴えることによって、米国大統領として自分の残すレガシーとしたいのではないかと言われても致し方ないと思われます。

問題は、オバマ氏の説明は表向き非常によいようですが、抜け穴が非常に多いことです。例えばイランは今まででも国連の監視視察団にすべてを見せることを極力しないようにして来た事実とか、今回最も重要と思われる地下施設には触れていないこととか、実質的にイランが暗に核兵器開発を続行出来る可能性を残しています。つまりイランが全く信用出来ない相手であることを百も承知で取決めを結ぶこと自体が意味がないどころか、かえって隠れ蓑を与えてイランの核兵器開発を許す「悪契約」であると言う疑問の方が大きいと言うことのようです。

ぜひアメリカのために、このイラン問題のためにお祈り下さい。なぜならアメリカが実質このイランとの取決めを推進することによって、イスラエルを不利におとしめることになるからです。その結果アメリカが今の時点で神からのろわれるとなれば、アメリカの力はみるみる衰退して行き、その結果、世界は急速に悪い方に進むことが危ぶまれます。特に日本はアメリカにおぶさっているところが多く、多大の影響を受けるでしょう。(終り)ー 尚、このメッセージは昨年11月22日に私が書いた記事の続きとしてお読み下されば幸いです。