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Walk With God Ministries

25 4月

神の荘厳さに浸される     グラハム・クック            2015年4月25日


神の荘厳さに浸される

 

グラハム・クック

 

アブラハムの信仰

 

ヘブル11:8「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

この箇所は少し変っていますが、新しい信仰の領域について書かれており、それは神が私たちを導きたいと願っておられることです。言うなれば、アブラハムは地図に記されていない場所に踏み出さねばならなかったのです。どこに行くのかを知らないで、自分の相続財産の地に向かってどのように歩き始めればよいのでしょうか?

北に向かうのですか、南ですか、それとも西ですか、東ですか?

あなたはどこに行くのか知らず、しかも神が絶対にそれを教えないと心に決めておられるとしたら、どうすればよいのでしょうか。神の指示なしに、あなたはどのようにしてその地に辿り着くのでしょうか。

それは神との交わりによってです。神との関係を保つことによってそこに到着するのです。

神はあなたに行き先を告げず、何も言われません。ただ御手をあなたに差し伸べられます。あなたはその御手を握ります。まだどちらに行くのかわかりませんが、自分の手がほんの少し引かれるのを感じた時、それがわかるのです。

 

あなたは主が歩かれるのと同じペースで歩くことを学びます。時として主は走られるので、その時はあなたも走らねばなりません。

神があなたに与えてくださるのは、ご自分との親密な交わりだけであり、それによってあなたは神の導きに対する敏感さを養われるのです。聖霊の導きに敏感になることだけがあなたの頼りです。神はあなたに御手を差し伸べ,あなたはその御手を握って主と交わりながら歩くのです。ですから神との親密な交わりを保つことは、私たちにとって「役に立つ」というようなものではなく、必要不可欠なものなのです。

 

喜んで信頼する

 

現時点で将来のことが全くわからない時、私たちはリスク無しにすべての可能性を探ることができます。これは楽しいプロセスであるはずです。神があなたに行き先を告げずにどこかに行けと言われる時、あなたは「神に信頼すること」を学びます。信頼に関して次のことを知ってください。即ち、信頼は喜びながらせねばならないことです。もしあなたが喜んで信頼しないとすれば、心配しながらするということでしょう。でもそれはつまり、あなたは信頼していないということです。すべての信頼はうれしく喜ばしいものでなければなりません。

神が「わたしを信頼しなさい」と言われるのは、「あなたはわたしにとって最愛の子なのだから、パパを信頼しなさい」と言っておられるのです。パパは信頼に値する方だからです。神はあなたに信頼を教え、恐れ、心配、悩み、パニック等を捨てるようにと言われています。神を信頼するときに心配することなど不可能だからです。心配と信頼は共存できません。この二つが同じスペースに同時に存在することはできません。どちらかが出て行かねばなりません。どちらを追い出すかの選択権はあなたが握っています。

 

「わたしを信頼しなさい」と言われる時、 神は「今はすばらしい時なのだよ。あなたが、もしかの時のために少し残してある心配もすべて捨てなさい。」と言われているのです。

 

夢見る自由

 

どこに行くのか知らないで信頼することは、私たちに夢見る余地を与えます。神は「まわりを見回してごらん。広い土地を見てごらん。何の制限もしないで、自分の周りに壁を作らず、すべてを見てごらんなさい。あなたがすべてのことに実際に手を出すというのではないけれど、のびのびとした雄大さを感じて欲しいのだよ。」と言われるのです。

 

神があなたを山の頂上に連れて行かれるのはそのためです。あなたにすべてのものを見せ、あなたの目の前に広がっている土地の雄大さを見せたいのです。あなたは夢見ることが出来るのです。私たちの人生のいろいろな面で夢見ることはよいことです。サウナに入ると皮膚の毛穴が開くように、夢見ることはあなたの信仰を広げます。物の見方を広げます。あなたを越えた何か大きなものを見て、あなたはのびのびと楽しく愉快な気持になるのです。

 

神の荘厳さに浸される

 

あなたは神の偉大さ、大きさを見ることができます。私たちが神の偉大さを見る時、自分の小ささを感じるのではありません。自分がどれほど大きくなる可能性があるかを感じるべきであるのです。それと逆に、敵が自分の大きさを誇って見せる時、私たちは自分をいなごのように小さく感じます。神はそうではありません。神がご自分の偉大さを見せてくださる時は、あなたも大きくなることを願われているのです。

私たちの所有する領域には二つの次元があります。毎日生活している物質的な世界と超自然的な御国の世界です。ですからあなたは恵みや厚意を両方の次元で受け取らねばなりません。即ちあなたは神から恵みを受け、人からも恵みを受けるのです。

必要なレベルの恵み、厚意を神から受け取るためには、私たちは神と親密になること、そして神を畏れ敬うことにおいて更に高いレベルへと進んで行かねばなりません。あなたの人生の中で、神の荘厳さや偉大さに圧倒され、その中にどっぷり浸される経験がどうしても必要な時が必ずやってきます。

 

私たちがイエスの内に生きるために必要なことの一つは、主の荘厳さと偉大さに気付くことです。人生に戦いが必要である理由の一つはこれです。私たちの戦いはサタンを服従させるのが目的ではありません。サタンの用いる策略は「戦いの焦点はサタンである」と私たちに思わせることですが、決してそれに乗っていけません。戦いは敵が主役ではありません。戦いはイエスの偉大さ、壮大さ、荘厳さを見出して、あなたが主というお方に対する畏敬の念で圧倒されることを目的としています。あなたは、偉大なる王と出会ったことの当然の結果として、敵を征服するのです。戦いは私たちがサタンを服従させることではありません。サタンはあなたに「この私が敵を征服した!」と思わせたいのです。戦いとは主の偉大さを見出すことです。

 

あなたは神の荘厳さの領域に入って行かねばなりません。なぜなら、神の荘厳さに包まれ、自分もすばらしいと感じるほどの驚嘆と畏敬のレベルが、あなたには必要だからです。

 

主の偉大さの中に入る

 

主との親密さは、主の偉大さを促し具現させます。なぜならば私たちのDNAには「あがめる」という機能がはめ込まれているからです。私たちは主との親密さを通して主の偉大さの中に入るのです。主との親密さが私たちの内にある何かを開き、私たちは主の偉大さを賛美し崇め始めます。あなたが主の偉大さを誉め称えれば称えるほど、あなたは急速に御座に近づき、畏敬の念に打たれる場所へと進んでいくのです。

 

その時あなたは、あたかも自分がコンクリートのかたまりになったかのように感じます。手足を動かすことがほとんど出来ません。でもあなたの心は胸の中で広がってゆき、起るはずのない沢山のことが起り始めます。あなたは「こんな状態は生理学的に無理だ」と感じるでしょう。私たちがイエスと会うときに新しい身体が必要なのはこのためです。

 

あなたがそこで、神と共にいると本当に沢山の変化が起り始めます。あなたの頭脳は拡大し、あなたの心は大きくなります。その時あなたは、ただただ主の偉大さと結合しているのです。神があなたをご自分の偉大さへと引き寄せてくださり、あなたの中に主の存在がものすごく鮮明に意識され、自分のこともはっきり分かり、自分が次にどのような者になるのかも分かるのです。自分に関するすべてのマイナスな思いがゼロになり、次にその目盛りが急速にプラスの方に進みはじめ、「まあなんということでしょう!私はこんなことを達成する可能性を持った人間なのだ!」とあなたは叫ぶのです。神の偉大さを感じることが必要です。そしてあなたの偉大さも感じる必要があるのです。

もしあなたがイエスのうちにいて、主の名前の一つがワンダフルだとすれば、あなたは何であるのですか?あなたもワンダフルです。偽りの謙遜はサタンからのものだということが分かるでしょう。真の謙遜とは「イエス無しでは自分はどのような者であるかを知っていること」そして「イエスとならばどのような者になれるかを知っていること」です。それは「まあ、なんということでしょう!」と驚くほどすばらしいのです。

創世記の中でヤコブが神を経験し「この場所は、なんと畏れ多いことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」と言ったのと同じです。これがあなたが地上にいる間に経験すべき神との出会いです。神はあなたに対してもっと多くの計画を持っておられることを知らねばなりません。今のあなたのレベルでなんとか生き延びていくような人生ではありません。イエスにあっては「なんとか生き延びる」などということはありません。そこには常に偉大さと成長だけがあるのです。(終り)


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