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31 01月

「主を見つめて待つ」祈り(2)  坂 達也 2009年1月31日


主を見つめて待つ」祈り(2)

坂  達 也

この年の初めに当たり、多くの方がなさったように私も断食をしました。その時に感じたことがあります。
それは、断食をしていると段々体力が弱り、特に今回は「考える」頭のエネルギーが不足してくるのを感じました。 

聖書を読んで、参考書を見たりしながら(知らないうちに)深く考えこんでいると、エネルギー不足で段々考えられなくなってしまったのです。そこでやむなく、考えるのを止めて休みました。そして主をぼーっと見上げ何となく主に浸っていると、一つの、それもかなり深い「思いと考え」がすーっと心に入って来ました。その時気がついたことは、自分は全く安らかな気持ちであって、少しも自分自身のエネルギーが使われていない、むしろリフレッシュするような新鮮な力すら感じたのです。

 私はその時、成る程断食のよさの一つはこれだと思いました。今回断食をして主から改めて示されたことは、日頃「自分の考えに死ぬ」「頭で考えるのを止めて、それよりも主に聞け」と自分に言い聞かせていながら、実際にはなかなか自分で考えることを止めていないと言う事実でした。そして、それがいかにエネルギーばかり使う「徒労」であるかと言うことを、今回はっきり肉の形で主から教えられました。


さて、心を静め、総てのことを忘れて主の御前に立つ時に、クリスチャンとして最もすばらしいことの一つが起きます。それは、心の中に愛と喜びが溢れ出てくることです。

1ペテロ1:8、9に「 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」とあります。

「魂が救われている」と言うことは、心の内が、言葉では言い表せないほどすばらしい喜びに満ちあふれている状態です。ですから、これを経験されてないクリスチャンはいないと思いますが、残念なことに、それがいつもそうであるとは限りません。毎日の生活の中で色々なことが起き、しばしば失望したり、怒りがこみ上げてきたり、いらだったりします。

そこで、いつも喜びの中に生きるための秘訣があります。それは、自分の廻りに起こる一切のことが、神が許されて私たちに下さっていると信じて疑わないことです。特にいやなこと、悪いことが起こった時にそう信じて感謝することです。このことを頭の中で理解しておられる方は多いと思いますが、本当に信仰で実行している方は案外少ないのではないでしょうか。第一、この信仰に堅く立っていなければ、どうして総てを安心して主に委ねることなど出来るでしょうか。

朝一番に主の御前に立って、主を喜び、主の愛と喜びのうちに主と共に過ごす時間がいかに大切で、必要なことであるか、この祈りをする方はよくご存知です。この祈りをすることによって、その日一日の総てを主に委ねて、安心して迎える用意が出来ます。
特に、自分には不可能でどうすることも出来ないような厳しい状態にある方にとっては尚更です。そのような試練の一日を「まるで人事のように、鼻歌まじりで」過ごせるようになります。いや、そうなることが目標です。何故なら、私たちが主に一切を委ねたのなら、何が起ころうと総てが「他人事―イエスが私の代わりに生きて、解決して下さる」からです。

「主を見つめて待つ祈り」は、朝とか夜に主と静かな時を持つだけではなく、それを延長して一日中出来るようになることが理想ではないでしょうか。そのやり方は、出来るだけ多くの時間を、たとえそれが瞬間であっても、とにかく主を思い浮かべて、主と交わることです。電車に乗っている時間、車を運転している時間、あるいは人と話している時とか、仕事中でもそうするのです。

特に何か一大事が起こっている最中には(かえってそのような時の方が主を思い浮かべ易いでしょうが)慌てずに本当に「まるで他人事のように、鼻歌まじりで」対応して下さい。相手の言うことに余裕を持って「自分の言いたいことを主張せずに」、人事のように「そうですね。ごもっともですね。」と言いつつ、心の中で「主にお任せしてありますからハレルヤ!」という気持ちを持っていればよいのです。

これが出来るようになれば本当に人生を「主と共に歩く」ようになれますね。人生が楽しくなります。自分で悩むことから開放されるからです。私が持つ人生の最終目標はこれです。私は今は未だ全く至らない者ですが、いつかエノクにならって「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)と書かれているように、私も生きたままで主と共に歩いて天に取られたいのです。

天の父は私たちに必要な総てのものを与えて下さいます。それは良いことだけでなく、一見悪いこと、多々の試練も含めてです。私たちが本当に「総て主が下さったもの、甘んじて喜んで受けます。」と思えるようになれば、御言葉にあるように、総てに感謝し、絶えず祈り、総てに喜べるようになります。(1テサロニケ5:16-18)これが「主を見つめて待つ」祈りをお勧めする所以です。

ダビデは詩篇16:11でうたいます。

「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」 (終わり)

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30 01月

荒れ果てた「ゆずりの地」(相続財産)を回復する(2) ポール・キース・デイビス 1月30日


荒れ果てた「ゆずりの地」(相続財産)を回復する(2)

ポール・キース・デイビス


栄光に満ちた領域

今世代において未だかつて経験したことのないレベルの栄光が集会の上に臨むでしょう

イザヤは、大いなる暗闇で天の光が義人の上に輝くと預言していますが、今私たちは歴史上そのシーズンにまさに入ろうとしています。今まで秘められていた御国の奥義を語るとき、私たちは真理の御霊によって輝くのです。イザヤ60:1−3でこう宣言されています。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

終わりのとき、主は主の御民の上に深い臨在や大いなる栄光を くださり、それによって 救いのみ業を国々に証しされます。
恵みにより救われた罪人に、このような召しと責任が与えられるとは、まことに驚きです。ダニエルが預言したように「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。。。。思慮深い人々は悟る」のです。(ダニエル12:10)

この人々は、「私たちの中におられるキリスト、栄光の望み」という奥義を理解する者たちでしょう。この精錬するというプロセスを通してのみ、私たちは自分を破滅させずに地上で主の栄光を現すことができるのです。今通されているプロセスが、自分が整えられ準備されるためであることを正しく理解するならば、主から召されているのだという希望を持つ事ができます。もしそれが理解できないと、失望したり、希望をなくしたり、自分は失格者だと感じてしまうでしょう。

この現実を正しく把握せねばならないもう一つの理由は、21世紀のために備えられているものを受ける鍵を、祈りととりなしのミニストリーが受け取るようになるためです。祈り、賛美、預言的宣言を通して私たちはこの実現のために戦うでしょう。人間の肉的な努力ではなく、私たちの信仰が活性化され、御霊の啓示と神の計画とに一致して語る(宣言する)ことによってそれは達成されるのです。ヨブ22:26−28に書かれています。

「そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。」

最終的に、神の栄光の現れの結果として、教会史上経験したことのないほどの魂の大きな収穫が起こるでしょう。それはアメリカだけにとどまらず、その他の地上の国々へのメッセージとなるでしょう。また、それは人間の組織によって運営されたり支配されるのではなく、聖霊のリーダーシップによって行われるでしょう。

栄光は分別する

コラの反逆は、神の栄光が現れた時に裁かれました。民数記16:19−21に書かれています。
「コラは全会衆を会見の天幕の入り口に集めて、二人に逆らわせようとした。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。主はモーセとアロンに告げて仰せられた。『あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。』」

コラの反逆が神の栄光によって裁かれたと同じに、反逆の種は私たちの中で、個人的にもキリストの身体としても分別されるのです。神の栄光が現れるところでだけ、汚れたものから清いものを分離することができるのです。

この世の圧迫と混乱は、完成され主の御国が現れる準備がこの時代に整うにつれて、ますます大きくなるでしょう。光と闇との対決もまた、悪が増大するにつれ激しくなって行きます。それと同じように光の子たちは、主のあがないの業による救いと希望をこの世に伝えるべく応えなければなりません。

最近私は啓示的な幻でこの現象を見ました。幻で私は地獄の内部の扉が開いて大勢の悪霊が出てくるのを見たのです。その中のいくつかはその特徴で識別することができました。一つはアドルフ・ヒットラーのような容貌であり、もう一つはジョセフ・スターリンのようでした。これらは歴史上の暴君を通して働く悪霊だと信じます。

これらの悪霊どもが人々の前に現れ、今世代では未だなかった暗黒と邪悪の中を歩むようにとある者たちを訓練しているのを、私は見ていました。それはあたかも終わりの時代に関していにしえの預言者たちが語った、暗闇のマントルを受け継ぐようにと選ばれ力を与えられた者たちのようでした。

これが起こっているときに、私ははっきりとした声が「光の子たちも同じように応答せねばならない。」というのを聞きました。この戒めと共に、終わりの時の対決のために整えられた天使たちが天から下ってくるのが見えました。彼らもまた、啓示と力のマントルの中を歩む人々を訪れて訓練する任務を与えられていたのです。

光と闇の対決

義と平安と喜びが特徴である主の御国は、勝利を勝ち取るキリストのからだのうちでますます大きくなりますが、暗闇もそれと平行して大きくなります。この世にいる間、私たちはこの世の霊に属さないようにと戒められています。闇が深くなればなるほど光は明るく輝くのです。

神の御霊の働きに自分を委ねた者たちは、義において成長しますし、また、次のことが起こります。
「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」マタイ13:43

過去数百年の教会の歴史の中で、数知れない霊的ブレイクスルーがあり、それによって次の世代は変えられてきました。神はマルチン・ルターを用い、義人は信仰で生きるという真理を確立するために、彼にブレイクスルーの油注ぎを与えました。

ルターに続いて、ジョン・ウェスレーやその他の人々がブレイクスルーの油注ぎを受け、聖化のメッセージをしたので、クリスチャン生活のあるべき姿に関しての今日の理解を変えました。次にはウィリアム・J・シーモアとアズサストリートのアウトポアリングによるブレイクスルーを経験しました。その次にはウィリアム・ブランハムと後の雨のアルトポアリングによるブレイクスルーがありました。

現在私たちは、主がされたのと同じ業を、キリストの身体のメンバーが息子、娘として現すようになる、もっともすばらしいブレイクスルーがまさに始まろうとしている地点に立っています。これからの数年はびこるであろう暗闇
25 01月

荒れ果てた「ゆずりの地」(相続財産)を回復する ポール/キース/デイビス  1月25日


荒れ果てた「ゆずりの地」(相続財産)を回復する(1)

ポール/キース/デイビス


新しい年への啓示を願っていたときに私に与えられたものは、新たな預言的約束ではなく、すでに与えられている約束を達成せよという主からの訓戒でした。

確かに私たちに一番必要なのは、今の世に対する新しい約束ではなく、すでに与えられている預言の言葉が実現することです。今までに多くの言葉が語られましたが、成就したものはほとんどありません。しかし、それが変ろうとするシーズンに今や入ろうとしています。
エゼキエル12:22−23に次にように書かれています。

「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。』と言っているあのことわざは、どういうことなのか。それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する。』と彼らに告げよ。」

今年目指すべき目標を主に求めたとき、これからのシーズンに成就すべき事柄として、過去にすでに与えられ用意されているいくつかの啓示的メッセージが、はっきり示されました。その多くのものは、 ゆずりの地(相続財産)を回復することと、先人によって導入されたけれどもその時代には十分には用いられなかった偉大な「マントル」に関することでした。

12月(2008年)に私たちのミニストリー(white Dove Ministries)は「癒しの声の回復」というカンファレンスを行いました。ゲストスピーカーはリック・ジョイナー、ビル・ジョンソン、それにトム・デイビスでした。最近のもっとも重要なカンファレンスの一つだったと思います。

かつてわが国に訪れた啓示と力のマントルを回復する力が、今の私たちに整えられた故に、このテーマが強調されたのだと思います。1940年代、50年代に訪れた「癒しの声」のリバイバルは、教会史上最高のものの一つでしたが、残念ながらそれは失われてしまいました。預言者イザヤが当時叫んだ問いは、今も我々に問いかけられているのです。「誰が破れ口に立って『返せ!』と言うのか?」と。

「これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もない。あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。」イザヤ42:22−23

本年の前半、私たちはこの召しを達成するために大きく前進するという預言的約束をにぎって、これを強調していくつもりです。
この目標に向かい共に協調して進んでいける人が数人でもいるならば、来年の今頃にははっきりした進歩が見られるはずです。人間的には2009年はテストと試練の年になるでしょうが、同時に神の民のレムナントがきよい心と正しい動機で主を求めて前進する年ともなるでしょう。

荒廃したゆずりの地を回復する

興味深いことに、先の時代の目覚ましい出来事の多くは、荒れ地で起こりました。1960年代に数多くの主の訪れや啓示がアリゾナの砂漠でおこり、それらは現在私たちが直面している状況に直接適用できるものでした。

私たちには荒野のシーズンが少し残されていますが、義人にとっては、実は非常にすばらしい時なのです。荒れ果てたゆずりの地を回復するようにと私たちを整えるために新しい指令が出されたのです。それはイザヤ49:8が文字通り成就される時になるのです。

「主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。』」

主は我々の手を取り我々を見守り、民の契約となり国々の光となって地を回復し、荒れ果てたゆずりの地を人々が相続できるように、私たちを整えていてくださったのです。

完成への踏み石

この一年で我々が約束の地を完全に勝ち取るでしょうという預言ができるなら本当にすばらしいでしょうが、そうではなく、今年は準備期間が完了し、ヨルダン川を渡る命令を受けとるシーズンであるという方が正確でしょう。ヨシュアも川のこちら側で次のリーダーになる指令を受けたのです。

これからのシーズンには、多くの人が、先人のマントルを着ることをゆるされて任務の指令を受けるでしょう。現在、先の時代の偉大な御霊のアウトポアリングにおいてリーダーとなった霊的な父や母を敬うことが強調されています。彼らは多大な困難を乗り越えてその時代に神の御国を顕したパイオニアたちです。

確かに彼らの中には間違いを犯して失敗した人もいましたが、彼らが土台を築いてくれた故に、私たちは次の大きなアウトポアリングを打ち上げることができるのです。
我々のミニストリーでは、A.A.アレン、アレクサンダードーウイ、ジョンGレイク、ウイリアムブランハム等の癒しのリバイバリストを敬う重要性を強調しています。

この人たちの中には20世紀に最も汚名を着せられた人もいましたが、人々の魂の救いと奇跡のために非常に目覚ましく用いられた人たちです。我々の敵は、先人の欠点や弱さを極端に強調することによって、彼らの証しを効果的に台無しにすることに成功しました。
しかしそれでも、主は彼らのパイオニアとしてのよい働きを認識する人々を用意されました。そして未完成の命令を前進させるように私たちを準備されたのです。

代価を支払う

霊的賜物はカリバリの十字架で贖われた超自然的な恵みの結果です。しかしながら、個人の霊的成長はそれぞれが自分で高価な値で主から買わねばなりません。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」黙示録3:18

我々が栄光から栄光へと進んでいくことは常に主の御心でした。しかし残念なことに、教会は、歴史的に見てそれを果たす責任をとって来ませんでした。子どもたちは親がいた場所よりも 高いレベルから出発するべきです。それが聖書全体を通じての伝統と遺産の原則です。

「善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」箴言13:22

私たちは再 び ゆずりの地が荒れ果てているのを認めて、今の世代が所有できるようにする機会を与えられています。私たちの前の時代に紹介された 啓示と力のマントルは私たちも手に入れることができます。私たちはどのような代価を払っても神にあるこの場所に到達する必要があるのです。この啓示の重要な点は、この目的のために私たちの前に備えられた「開かれた扉」があることを強調することです。

これからのシーズンにこのマントルを分与するために主の御霊がある人たちを訪れることを、主はいくつかの啓示を通してはっきりと現されました。間もなくリーダーとなる人々の多くは、今は人に知られていない人たちです。しかし彼らは天では知られており、大切な啓示と力を受けるために用意されているのです。

ですから、この預言的約束は、私たちがこのゆずりの地のために必死で戦うようにさせるためのものです。私たちは、エリヤの上にあった油注ぎをエリシャがつかんで受けたように、主の御霊の注ぎを私たちが受けるべくしっかりと主の御前に立つことが肝要です。


最近私は荒れ果てたゆずりの地に関する啓示を主からいただきました。その幻の中で、私は自分が砂漠地帯の山がある場所にいて、大きな価値のある宝を見つけようとして考古学的な発掘をしていました。

すると、昔のリーダーたちによって始められたもので、今日完成すべき啓示が書かれている多くの古い本を掘り出しました。私はこれらの本が金銀よりも価値のあるものと考えました。古いものや比較的新しいものもありましたが、私はそれらを完成することによってすべての私たちがすべき仕事、役目、約束が完成されることが分かりました。
この啓示は、先の世代の人たちによって始められた仕事を私たちが受け継ぐ機会と責任について語っています。ヨシュアがモーセの仕事を完成させたように、私たちも成就されていない約束の完成を担うのです。

恵みと真理が主の栄光を呼び覚ます

砂漠は恵みとまことによって主の訪れと分与が確立されるところです。

「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。」詩編57:7−11

私たちに今与えられている機会は、荒野の経験の最後の部分を私たちが喜んで受ける事によって、次に来ることに対して私たちが完全に整えられることです。シェキナの栄光は会見の幕屋の上にくだり、モーセは神と顔と顔を合わせて長時間会うという特権を与えられました。

イスラエルはまだ約束の地には入らず荒野にとどまっていましたが、そこで約束の地を勝ち取るための備えをしていました。今日もそれと同じなのです。これからのシーズンは正しい人たちの間に神と神の栄光が顕れる時となるでしょう。

義人たちが栄光を受けるでしょう。神の栄光のしるしが人々の上にとどまり、彼らは父の御国で太陽のように輝くでしょう。(続く)


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21 01月

新大統領バラク・オバマとジョージ・ブッシュ  坂 達也  1月21日


新大統領バラク・オバマとジョージ・ブッシュ

本日アメリカの44代大統領にバラク・オバマ氏が就任しました。黒人で初の大統領に選ばれると言う、アメリカにとっては歴史的な日です。
 私はオバマ新大統領が、アブラハム・リンカーン大統領を彼の大統領職の模範として尊敬していることに大変興味を覚えます。その一つの顕れは、リンカーンに見習ってオバマ氏が選挙の宿敵であったクリントン夫人を内閣に迎え、共和党の対抗馬であった経験豊富なマッケイン氏にも謙虚に意見を乞うべく既に新しい親密な関係に入り、又一人の有能な共和党の現職大臣をそのまま民主党内閣に留まってもらうと言う超党派で適材適所の人事を進めていることにあります。

リンカーン大統領は能力のある人材のためなら、自らの個人的感情と意見を犠牲にしても起用し、奴隷解放、国が割れての南北戦争と言う国家的危機を、正義と真実を貫くことによって救ったクリスチャン政治家として知られています。
まさに今、アメリカの経済が80年来最悪の非常事態に陥った最中に就任したオバマ大統領が、敬虔なクリスチャンとして極度の苦労を耐え抜いたリンカーン大統領の信念と叡智に見習おうとしていることは、彼に大きな期待を寄せるアメリカ国民、特に私たちクリスチャンに大きな希望の光を与えてくれるものと信じます。ぜひ彼の為にお祈り下さる様お願いいたします。

さて、オバマ新大統領の歴史的就任式については、既に世界の報道陣が大きく取り扱っておりますから私が何も申し上げる必要はありませんが、本日の就任式の実況をテレビで見ながら少なからぬ感銘を受けたのは、新大統領にバトンを渡してワシントンを静かに飛び立って、故郷のテキサス州に帰ったジョージ・ブッシュ前大統領夫妻についてです。

五日ほど前にブッシュ大統領は、ホワイトハウスで約200人と言う少ない関係者を前にして13分間の短い最後のお別れ演説をしました。その中で彼は「この八年間で色々な難局を迎えた時、私はその都度自分が最も正しいと信じた決断をした。それが確かにセット・バックになったこともあった。そのような私の決定は皆さんが賛成しないことも多くあったでしょう。しかし、少なくとも私は非常に難しい決断を誠意を以って国民のベスト・インテレストのために果敢に決意し、それを実行して来た。私は、アメリカ国民が少なくとも私を自分の信条(道義)に常に忠実であった者として記憶されることを願っている。」と言うことを話しました。

彼が忠実であったと言う信条とは、クリスチャンの信条(プリンシプルズ)です。ですから彼は、自分が最も人気の無い(支持率最低時22%)大統領の一人であったことを重々承知の上で、しかし全く悪びれずに、最後の機会に堂々と自分のしたことを擁護し、8年間の国民の支持に心から感謝の意を表したのです。短い彼の演説には、彼がクリスチャンであることがにじみ出ていました。それは格調の高い心の温まる、むしろ、すがすがしいものでありました。(この演説直後の世論調査では22%が36%に回復)それが今日の新大統領の就任式を通しての彼の応対にも出ておりました。彼のしたことは受け入れない人でも、彼の誠実でフレンドリーな人となりを評価する人は少なからずおります。

ローラ・ブッシュ夫人が大分前にインタビューを受けた時、世間からこれだけ非難を受け、人気が落ちると言う試練を受けてそれに耐えられるか、と言う質問に対し、「自分たちはしっかりしています。二人とも十分に耐えられる強い人間です。」とにこやかに語ったことを憶えています。言葉には表しませんが、彼女の態度には、神の御心を行っていると信じる者にしかない、主に守られている強い信仰と平安が感じられました。

ブッシュ大統領の不人気の最大の原因は、言うまでも無くアフガニスタン、特にイラク戦争を世界の反対を押し切って強行したことにあります。その結果世界中からくそみそに言われ、それ以来、これは真に乱暴なたとえで申し訳ありませんが、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」で、ブッシュのやることなすこと総て感情的に「憎い」ことになってしまいました。

ブッシュ大統領の真の評価については歴史を待つしかない訳ですが、私はイラク戦争が主の御心であったか、なかったかについては、その判断をクリスチャンである皆様がしていただきたいと思います。但しその前に、下記の記事を(もう一度)お読みいただくことをお勧めします。
(この記事は昨年のイースターに当ブログの「世界のニュース」に掲載したもの)

「イスラム圏に今起っていること」

 ジョエル・C・ローゼンバーグ 2008年イースター更新

(2008年3月24日ワシントンDC)-「私は教会を建てます、そして地獄の門もその教会には打ち勝つことはできないでしょう」とイエスは言われました。(マタイ16:18)

この週末の時事問題に詳しい「ドラッジ・レポート」のトップ記事は、イスラム教からカトリックに改宗した著名なエジプト人の作家に、教皇が洗礼を授けたことでした。 そしてこの記事には、トップ扱いになる理由が充分あったのです。 これはイタリアやイスラムの世界ではとてつもなく大きな話題、特にオサマ・ビン・ラディンが、教皇はイスラムに十字軍を仕掛けていると非難した、その週にこの記事が出て来たのです。 然しながら、この特別な洗礼は、氷山の一角に過ぎません。


2001年9月11日以降、報道機関がアフガニスタン、イラクそして中東について先例のない程多く報道していますが、本流のメディアではほとんど語られていない、大きな話題がひとつあります。 何十万人ものイスラム教徒が福音的キリスト教に改宗しており、広範囲に及ぶ迫害や、まさに現実味を帯びた死の脅威の渦中にありながら、今年彼らは初めてのイースターを祝うのです。

私はアメリカ合衆国と中東で、36名余のアラビア人とイラン人の牧師と福音教会の指導者にインタビューをした後、2005年にこの話題を 初めてリポートし始めました。 然しながら、この3年間私はイラク、ヨルダン、エジプト、ヨルダン川西岸地区、トルコそしてモロッコを旅する機会に恵まれました。 加えて、私は200人を越えるアラブ人、イラン人、クルド人、スーダン人そしてその他牧師やキリスト教の指導者達に会い、インタビューをする光栄にも与りました。 更に多くの資料を入手することで、その傾向がより鮮明になりつつあり、この話題はさらに私達を興奮させております。

聖書の神は中東で、
16 01月

知るべきはただ二つの事 フランシス フランジペン 1月16日


知るべきはただ二つの事

フランシス フランジペン

多くの事柄で私たちの心はいつもいっぱいになっています。多くの本、多くの例話、多くのよい教え―確かにそれらは心に止めて悪いことではなく、「これが真理だ。」と私たちに語りかけてきます。しかし、私は長年主に仕えて来たなかで、次の二つの事だけを求めるようにと主によって導かれました。それは「キリストにある神の御こころを知る」ことと、「キリストの光に照らされた自分自身のこころを知る」ことです。

神の御こころを知ること

長年の間、私は神のこころを知り、人々に対する神の愛の深さを知ることを求めて来ました。私は主の御こころを知り、主が御わざをされるときの動機となる憐れみのこころを知りたいのです。聖書には簡単明瞭に、イエスは人々を愛されたと書かれています。マルコ福音書には、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」とあります。(マルコ6:34)
主にとっては、人々を教えて癒すだけでは十分ではなかったのです。主は彼ら一人一人を個人的に気に懸けてくださいました。彼らが健やかで食物を十分に得ているかどうかすらも、主にとって大切なことだったのです。

一人の少年が持っていた5つのパンと2匹の魚は、イエスが奇跡を行うために十分でした。しかしそれは、キリストご自身は疲れ果てていたにも関わらず、群衆のために働くことをいとわなかった故にこそ起きたのです。
考えてみてください。そもそもキリストは弟子たちを休ませるために連れ出したのです。「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」(マルコ6:31)個人的にイエスご自身も祈ることによって力を得ようとしてそこに来ていたのです。
というのは、イエスの先駆けであったバプテスマのヨハネがその週のはじめに、ヘロデの手によって首を切られました。ですからイエスが群衆に食事を与えたのは、主が感情的にも肉体的にも消耗しきっていた時だったのです。イエスはただ一度とか二度とかではなく、弟子たちを通して繰り返し 「人々にパンと魚を配り続けられた。」のです。(マルコ6:41)

その結果、何千人もの男性、女性、子どもたちが全員「食べて満腹した」のでした!(42節)
なんというイエスの御こころでしょうか!奇跡は群衆のために起こりましたが、パンと魚を次々に与え続けるイエスの疲れた御手を支えた(力が与えられたという)奇跡に関しては何も書かれてはいません。主を支え続けたのは、ただ主の聖なる愛だけでした。肉体の力がどんどん弱まる中で、主は人々を助けるために与え続けられたのです。


ですから、もし私がイエスを知ることを求めるならば、この事をまず認識する必要があります:イエスはすべての人を愛されている。特に社会が無視する人たちを。だからイエスが人を助けるためにどれだけの距離を行かれるかを(私は)知らねばなりません。というのは主は私を通してその同じ距離を行かれるからです。確かに私は病気や貧困、人間の苦しみに対する主のお考えを知る必要があります。主の僕として私はこれらのことを知らなければ主のお役に立つ事はできないのです。もし私が実際に主の御こころを行いたいならば、主の御こころを真に知る必要があります。だから学びや祈りの時にはただ知識だけを求めるのではなく、私は神の御こころを訊ね求めるのです。

自分のこころを知る

神の御こころに私がだんだん近づくにつれ、主の臨在の火が私の中で深い清めの業を始められます。主の限りない豊かさの中で、私の貧しさが現れてきます。詩編の著者は書いています。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ち得ようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」詩編24:3−4 もし私たちの心に欺きがあるならば、主の山を見つけることさえできませんし、登ることなどとてもできません。こころが清くないのに、神の聖なる所で仕えることができるでしょうか。心が清い者だけが神を見ることができるのです。

神に向かって登って行くのは、真理の溶鉱炉の中に入って行くことであり、そこでは私たちは魂の中の欺瞞が取り去られます。聖なる場所に住まうためには、たとえ嘘によって自分が救われるときであっても、正直に誠実に生きねばなりません。主の山に登る階段を一段上がるたびに、私たちの魂はもっと高い透明度にさらされ、心の動機が完全に見えるところに押し出されて行きます。私たちは神に向かって登るという神の召しを追い求めるのです。

しかし、私たちの魂は、恐れと暗闇の中にうずくまり隠されていて、偽りと迷妄の世界で息づいています。これが私たちの内なる人であって、神が救おうとしておられる魂です。あなたは、真理だけが解 放することのできる本当の自分自身をすでに発見しましたか? 確かに私たちは清さを求めはしますが、まことの清さに到達するにはここを出発点とせねばなりません。真理の御霊が心の隠された場所を露にすることが必要です 。事実、私たちを清さに導くのは正直さ、誠実さなのです。神よ、真理への情熱を与えて、あなたの聖なる場所に立つことができるようにしてください。

世界中で多くの人たちが、自分は「真理」を知っていると思い込んでいますが、彼らの人生の中に聖さも力も併せ持ってはおりません。真理とは、歴史的に築き上げられた教義以上のものにならねばなりません。神が過去に動かれたときの記念品とかお土産というような宗教的遺物の博物館以上のものでなければならないのです。真理とは、キリストの内に顕された神の御こころを知ることであり、また、神の恵みの光に照らされた自分のこころを知ることです。私たちは人類の一員であり、故に無知で覆われてしまっています。私たちは自分の周りの世界をほとんど知りませんし、いわんや自分の魂の性質など知ってはいません。私たちは神の御こころを探し求めるときに、知らず知らずに自分のこころをも捜しているのです。なぜならば、神を見つけるときにだけ私たちは自分自身をも発見します。というのは、私たちは「主のうちに」あるからです。

しかし、主の御前に自分のこころを注ぎだして主を求めるとき、私はおののきつつダビデ王の祈りを祈るのです。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷つい
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