WWGM

Walk With God Ministries

10 4月

終末の惑わしとは        リック・ジョイナー         2015年4月10日


終末の惑わしとは

 

リック・ジョイナー

 

マタイ24章でイエスが終末のしるしについて語っておられる箇所を見てみましょう。先ず最初に主は「人に惑わされないように気をつけなさい。(マタイ24:4)」と言われました。ですから、最も顕著な終末のしるしは惑わしであると結論づけることができます。続けて主は惑わしの特徴について最も大切なことを話されました。

5節「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。For many will come in My name, saying ‘I am the Christ,‘and will deceive many.」

この箇所を「自分がキリストであると言う者が沢山現れる」と解釈し教える人が多くいますが、イエスがここで言っているのはそういう意味ではありません。「多くの者が『in His name 彼の名によって』現れ、彼、即ちイエスこそが本当にキリストであると言うけれど,それでもなお多くの人たちを惑わすであろう。」と主は警告されているのです。そのような者たちは実際非常に早く現れました。彼らは「イエスはキリストである」と教えつつも教会に律法のくびきを負わせ、信じる者たちをキリストから引き離してしまいました。

 

その後もそのような者が多く出た

 

歴史を通じて、「イエスはキリストである」と教えつつも聖書的ではない教義を混入した者たちが大勢現れました。モルモン教の教祖であるジョセフ・スミスはそのよい例であり、彼の人生を学ぶことは預言的な人にとって同じ過ちを犯さないために特に有益だと思います。

ジョセフ・スミスは著しい預言の賜物を持っていました。彼は1824年のクリスマスに、やがてアメリカに大きな内戦(南北戦争)が起り、それはサウス・キャロライナ州から始まると預言しました。彼はこの戦いの原因も正確に預言しました。その他彼の多くの預言が正しかったことが証明されました。しかし、彼が自分に与えられた啓示を、教義を確立するために用い始めたとき、彼は一線を越えてしまったのです。それは預言の賜物の誤った用い方であり、必ず誤りの結果を生み出します。聖書だけが教義を確立するものであり、預言は絶対にそのために用いてはなりません。

新約時代には預言がキリストのからだを建て上げ、主の御心を啓示し、神の民が備えるべき危機を知らせたことが分かります。よい例はアガボが世界に飢饉が来ることを預言したことや、他の預言者たちが、パウロがエルサレムでどのような迫害に遭うかを知らせたことなどがあります。又、預言は主と主の民との交わりを深めるために用いられることもあります。しかし、預言は教義を確立したり、変更したりすることには決して用いられません。カルトや分派がどのように始まったかを調べてみると、その多くは、ある人が預言的啓示を用いて新しい教義を確立しようとしたことに端を発していることがわかります。教義は書かれた御ことばだけが入れる領域です。真の預言がそのために用いられることは決してありません。

 

多くの人がウイリアム・ブラナムも同じ過ちを犯してしまったと考えています。彼は著しい預言の賜物を持っていて、ある一時期、世界を揺り動かしました。しかし彼はやがて奇妙なことや人びとの益にならないことを教え始めました。私は彼と親しかった人たちから聞いたのですが、彼のミニストリーのマネージャーが自分が信じていた極端な教えを推進するためにブラナムを利用したということです。ブラナムも後になってそれに気付き、深く悔いたそうです。ブラナムをよく知っていた人たちはすべて、彼が本当に謙虚で人の意見を素直に聞く人であったと言っています。それは彼が初代教会以来であろうと思われるような多くの奇蹟を行っていた最中でもそうだったということです。これは惑わしに関するもう一つのよい教訓です。

へりくだりは私たちが持つべき最も大切な徳の一つです。なぜならば「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4:6)」からです。又、人の意見を素直に聞くことは、本当の謙遜の土台となる特徴です。しかしサタンは、私たちを阻むことができない時に、私たちの後ろにまわって背中を押し、私たちが自分の長所で過失を犯すように図るのです。

 

私たちはいくら謙虚と言っても、聞いたことが真理かどうかを調べないほど謙虚であってはなりません。特に自分がそれを教えるならばしっかりと調べなければなりません。教会や同様のミニストリーをしていた多くの人たちが、ブラナムが教えていたことの幾つかに対して異議を表明しました。又、彼らはブラナムを異常に崇拝していた人たちに対してもその間違いを指摘しました。ブラナムをよく知っていた人たちはこの点でも彼が悔いていたと言っています。彼は自分が車の事故で火に包まれて死ぬことを正確に預言しました。そして、それは多くの人たちが彼を崇拝し始めたので、自分がどれほど唯の人間に過ぎないかを主が世に示すためであると言いました。

もし、人びとが自分を過大評価し始めたとき、それをそのままにしておくならば、私たちは重大な過失を犯し、大きな惑わしに人びとを陥れるのです。使徒行伝の中で、パウロとバルナバが奇蹟を起したので人びとが彼らを崇拝しようとした時、彼らは群衆の中に駆け込み着物を裂いて懸命にそれを止めました。誰であっても十字架を真に仰いだ者が、主が受けるべき栄光を自分が受けるのを許すならば、それは最大の不敬行為であり、恐ろしい惑わしの始まりです。

 

ジョセフ・スミスやウイリアム・ブラナン、そしてその他同じように道を逸れた人びとから私たちが最も学ぶべきことは、自分があるミニストリーの中でどれほどの権威を持っていたとしても、私たちはその権威の領域の範囲内にとどまるべきであり、自分がしたいと願う他の領域でも同じように油注がれていると思い込んではならないということです。預言の分野で油注がれていたとしても、教師として油注がれているというわけではないのです。その逆もまた然りです。私たちは自分の召しを越えて活動しようとしている人を見分ける必要があります。主はエペソの教会が「使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことを知っている(黙示録2:2)」と称えています。

 

もし私たちが使徒ではない人を使徒として受け入れるならば、真の使徒職を軽視し、自分の霊的通貨の価値が下がるのを許し、自分を惑わしの危険に曝しているのです。今日、ほとんどすべてのリーダーが自分は使徒だと言っています。その中には家庭集会を導く力もない人もいます。そして私たちはどうして教会がこうも弱々しく惑わしや愚かなことに翻弄されているのかと訝しがるのです。

一方、ユダの手紙にある「不平を鳴らす者 fault-finders(あら探しをする人)と言われる人たちが多くいます。啓示のシンボルではそういう人たちはしばしば動物のサイで表されます。サイは二番目に大きな動物ですが、視力が弱く、よく見えないものを片っ端から攻撃します。あら探しをする人たちは大抵教会が進むべき方向に対するヴィジョンがなく、理解が浅く、偏った見解を持っています。彼らは自分に同意しない人を攻撃し、分裂を引き起こし、キリストのからだに大きなダメージを与えます。彼らも又惑わす者たちです。

カルトを見張っている人たちが、彼らの見張っているものに似てくるのに皆さんは気がつかれましたか?私たちは自分の見ているもののイメージに変えられていくのです。ですから私たちは何よりも主の栄光を仰ぎ見るべきなのです。カルトを調べてその情報を与えてくれる人たちがいるのは感謝ですが、カルト研究に一番情熱を注ぐことは、私としては賛成できません。私たちは敵の策略を知るべきですが、黙示録2:24には「サタンの深いところを知っている人たち」に対する警告が書かれています。私としては、惑わしや偽りに関する研究に力を入れている人たちの意見をあまり信用しません。カルトについて正確で有益な知識を持っている人たちは、ほとんどの場合、そのグループに手を差し伸べてミニストリーをする目的で研究しています。それはパウロがピリピ1:9で「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり...」と言っている通りです。

 

神の御こころでないものが惑わし

 

実際のところ、あるグループの人びとを正しく識別し理解するためには、その人たちへの愛がなくては不可能です。愛以外のものはすべて私たちの知識と識別の両方を歪めてしまいます。

私があるグループの人たちにミニストリーをしている人の識別を信用して、そのグループの欠点を捜すだけの人の言うことを信用しないのは、この理由によります。

私たちは聖書に基礎をおいていない教えをすぐに鵜呑みにするときに惑わされます。又ある真理が、自分が思っていたのと完全に一致しない方法で示された時にそれを認められないほどにパラノイドや高慢である時も惑わされるのです。パリサイ人たちは、メサイアの到来を誰よりも持ち望んでいたにもかかわらず、主が来られたときに認識することが出来なかったばかりか、主に最も敵対する者となってしまいました。これは実に最悪の惑わしではないでしょうか。これと同じ霊が今多くのクリスチャンの中で働いているのに気がついておられますか?彼らは主が今日しておられることを猛烈に攻撃しているのです。

 

聖書に書かれているエルサレムに対する最大の裁きの二つ目は、主の訪れを知らなかったことから起りました。神からであるものを神からではないと言うことや、神から遣わされた人を否定するのは重大な過失です。しかし私たちはメッセンジャーをチェックすることを決して怠ってはなりません。

いのちの道の両脇に溝があるのです。もし私たちが今まで聞いたことがないという理由で真理を拒否するならば、私たちは主にではなく恐れという主人に仕えているのです。もしそのように生きているならば、私たちはすでに片側の溝に落ちてしまっているのです。もし私たちがベレアの人のように気高い霊を持たず、新しく聞いた教えが聖書に堅く基礎を置いているかどうか調べずにあまりにも容易に受け入れるならば、私たちはいのちの道のもう片方の溝に落ちているのです。

いのちの道のクリスチャンの歩みは、それら両極端からの攻撃を識別しそれに屈しないための戦いの連続です。いのちの道から逸れないと強く決意しているクリスチャンの中には、過去にどちらかの溝に落ちた経験のある人たちがいます。使徒パウロはその一人です。自分は一度も惑わされたことがないと誇る者は、一度も事故を起していないという理由でタイタニックの船長に選ばれたキャプテン・スミスのようなものです。惑わされた経験を持ち、そこから救われた人の方が、遜りを学び、神からの恵みを受けることができるのです。彼らは自分の知恵に頼らずに主に信頼することを学びます。

 

両極端からの攻撃は私たちの訓練の一つとして主が許されているものです。それによって私たちは知恵と主への信頼において成長します。それは「主が道を示してくださる」という信頼から、「道であるお方への信仰」への成長です。主は道であるばかりか、真理でもあります。私たちが惑わしを避ける一番の道は、惑わしを見分ける知恵を持つだけではなく、主の後に従うことによります。私たちが主を知れば知るほど、更に早く簡単に、それが主からのものではないと見分けることができるのです。

次のことは重要です。惑わしとはただ単に間違った教義を信じるだけではなく、主の御心の中にいないということです。あなたがすべての教義を正確に知っていたとしても、主の中にとどまっていないならば、あなたは惑わされているのです。第一コリント13章で言われているように、私たちがすべての教義を知っていて、神の偉大な奥義を知っていても、愛がなければ何の値うちもないのです。もし私たちが真理を愛するならば、正確で健全な聖書の教義を求めるでしょう。しかし真理の中を歩むというのはそれだけではありません。それは真理であるお方の中にとどまることであるのです。(終り)


Post a Comment