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Walk With God Ministries

26 1月

2014年への期待 坂  達 也          2014年1月26日


2014年への期待

 

                 坂  達 也

 

新年を迎えてから今までの三週間に、本年に対する三つの預言を既に御紹介して来ましたが、この辺りで私自身が今特に強く感じていることをお分かちさせていただきたいと思います。と言いますのは、私は昨年秋から今年に掛けてかなり多くの預言を読ませていただきましたが、そのどれよりも強く私の心を打ったのは、はっきりした預言の言葉ではなく、モーニングスター・ジャーナル1月号に載っていたダッドレイ・ホール Dudley Hallと言う方の短いメッセージでした。それでは先ず私が要約したホール師のメッセージをお読みください。

 

「パッションを持つ -ダッドレイ・ホール 

 

御子(キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)

コロサイ人への手紙に書かれている生き方を見て、それが熱狂的passionate な人たちの生き様であるという結論に達しない人はいないと思います。現代のクリスチャンのクリスチャニティーに対するカジュアルな(普段着的な)アプローチは、1世紀に生きたクリスチャンの生き方とは全く別なものであり、新約聖書に書かれていることは今の時代のクリスチャニティーとは無縁のもののように思えます。

他の信者の面倒を見るために自分の家と持ち物を売ったり、自分の首を切り落とす権力を持っている権威者の前に引き出されても、堂々とキリストだけが自分が仕える主であると言い切る大胆さを持つ、あるいは悪辣で卑怯な仕打ちをする敵を愛しその悪行を心から赦すことなど、今の時代には考えられないことです。

現代のクリスチャンは、今のこの世的カルチャーの考え方 value system をほとんどそのまま受け入れてしまっているような生き方をしています。イエスがクリスチャンに与え、期待している生き方は、決してカジュアルで何気なく暮らす unintentional クリスチャンによっては生きることは不可能です。イエスの期待に応えるには情熱 passion が必要です。

 

人間の体内に情熱を起させるのは心から怒りを覚えるか、それとも愛によるか、そのどちらかです。この世の中の不平等に義憤を覚えて革命を起こした人たちはおりますが、聖書には人の怒りは神の義を実現するものではないと書かれていますから(ヤコブ書1:20)イエスに仕えるための燃えるようなエネルギーと動機を与える情熱 passion となるのは愛です。

イエスは、御父の愛に全面的に信頼を持ち、何が起こってもひるむことのない不動の信念によってすべてのことに立ち向かいやり遂げられました。その確信は日頃から御父を深く親密に知る知識から来ています。まさに主を深く知ることは主を愛することであると言う真理です。

 

私たちに主に対する全き信頼が必要な時には、主は、その必要を充たすために、主ご自身を私たちに表して下るので、私たちは、その時私たちに必要な主のお考えと見方=「主の状況展望 perspective 」を得ることが出来るのです。こうして私たちが神によって示される慈愛、うるわしさ、神の望んでおられることを一目でも(霊的に)見ることが出来る時はいつでも、私たちの内に熱烈な情熱が一段と輝き炎え上がるのです。」(要約終り)

 

主にしがみつくヤコブ 

 

私は1月22日の早朝、主の御前に出た時に、前触れもなく突然「ヤコブのように主にしがみついて、主の祝福をいただくまでは主を離しません。」と言う思いがこみ上げて来ました。

そして、天へのはしごを見上げている自分を見ていました。とっさに私は、これこそ今年私がするべきことである、と言う自分の決意を表すものであることが分かり興奮しました。

私たちは皆それぞれに、神からいただきたい賜物を長い間祈り続け、その祝福の約束を信仰で受け取っておりますが、その実現が遅れています。私もそうです。その祝福をいよいよ今年から受け取り始めることは、多くの預言者によって言われております。しかし、唯待っているだけではなく、主にしがみついて受け取るパッションが必要であると言う強い思いが私に与えられたのです。

 

そのために主は、私たちもヤコブと同じように先ず「もものつがいを」はずされる必要があることを語っておられます。もものつがいをはずされたヤコブは、全身全霊で一層主にしがみついて思い切って主と格闘しました。これを見て主は「あなたは勝った」と宣言されたのです。すなわち、自分の肉の力には頼らずに、主にのみすべてを頼る心が出来た時に、私たちはヤコブと同じように戦いに勝つて、主の祝福を受ける用意が整うのではないでしょうか。

 

びっこをひくイスラエル-それは私たちの名だ

 

創世記32:24-31に出て来る上記の話は、私たちと非常に深い関係があります。先ず、ヤコブの前に*主イエス・キリストが現れた(聖書には*「ある人」としか書いてありませんが主イエスを代表する御使いであると言われています。)のは、ヤコブがイスラエルの国境を越えてイスラエルに足を踏み入れる直前の出来事であることです。これは、私たちクリスチャンが今イスラエルと言う名の主の御国 kingdom に霊的に入ろうとしていることを表しているように思います。

次に、*主御自身が現われてヤコブと取っ組み合いをしましたが、ヤコブのもものつがいをはずした後に、尚食い下がって離れないヤコブに自分の名前を敢えて言わせました。そしてヤコブと言う名前が意味する「だまして勝とうとするこの世的にずる賢い」という彼の性格を変え、新しいイエスに似た性格を象徴するイスラエルと言う名前を彼に与えました。イスラエルと言う名の意味は「神の皇太子、神が支配する、勝つ、神と共に支配する God’s prince, God rules or prevails 」です。ヤコブは神の御国に入るために「御国の王であるイエスと共に支配する人」と言うすばらしい名前をいただいたのです。又、イスラエルと言う名はイエスの別名の一つでもあります。(イザヤ49:3、ホセヤ11:1、マタイ2:15、16、出エジプト記4:22等)特にイザヤ43:7「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」を見れば、私たちすべての異邦人クリスチャンの名前もイスラエルであると言えると思います。

 

すなわちヤコブはこの時点で主と出会いクリスチャンになったと私は信じます。それだけではなく、私はヤコブは「キリストの弟子」になったと思います。なぜなら、彼はキリストと格闘すること(霊的に執拗に祈り、主と対話すること)を通して、人間的なずる賢い性質から「キリストに似た者」と言う性質に変えられた状態がここに表されていないでしょうか。それは主と密着して個人的な薫陶を得る弟子訓練を受けることによって、成熟したキリスト者となることを象徴していると思うからです。

そして「びっこをひいている」と言うことが重要です。それは肉に死んでいる(ガラテヤ2:20、コロサイ3:3)ことが象徴されているからです。

 

主に対して熱烈な愛を持っにはどうすればよいのか

 

上記の例でヤコブは主キリストに対する愛をどのように持ったのでしょうか。先ず言えることは、主なる神が、ヤコブに個人的に(御使いとして)現われて下さったことです。これは大変なことであると思います。神とは当時さばきの神として恐れられるのが通常であったと想像されますが、その恐ろしいはずの神が自らヤコブの相手をしてくれ、本当に身近に実際に肉の形で彼と取っ組み合いをして下さったのです。ヤコブは最初は恐れを感じたかもしれませんが、そのうちに、その密接なスキンシップによるもみ合いを通して直ぐに恐れが消え、むしろ主のやさしさ、思いやり、情愛の深さを強く肌で感じ始めたと思います。何をしても神に勝てないことはヤコブも最初から分っていたでしょう。しかし、主が相手になってくれて、安心して思い切りもみ合うように励まされ勇気を得たと思うのです。夜明けまでそれが出来て楽しかったと思います。

いや、もっと言えば、熱烈に神が好きになり、このような愛の神なら自分も心から愛せると確信したかも分かりません。私は、神は個人的に知り合える方であり、それも身体ごとぶつかり、もみ合いまでして下さるお方であるのです。そして、そうする時に神の対する親しさが私たちのうちに猛烈に沸いてこない方がおかしいと思います。

 

しかし、愛のパッションと言へば普通、西洋的な猛烈で熱烈な愛と言う印象を受けますが、聖書で強調されているのは、むしろ静かで堅実ないつまでも変わらない steadfast  な愛であり、この忍耐強さの方がより重要であると思います。そこには長期に渡っての「忍耐強さ」「辛抱強さ」が強調されています

愛の章と言われる1コリント13章には愛の定義が書かれていますが、その中でも「寛容であること(英語では patience=忍耐)」「すべてを我慢すること」「すべてを耐え忍ぶこと」が強調されていると言っても差し支えないでしょう。これらが最も重要な愛の特質であると私には思えます。少なくとも主イエス・キリストから感じられる愛はこのようなものです。キリストほど私たちのために苦しみを耐え忍び、忍耐された方は他におられません。従って私たちクリスチャンが一番積まねばならない徳は「忍耐」です。そのためには時間が必要です。忍耐強さだけは性急・気短では得られるものではないからです。

 

神はなぜ時を遅らせるのか

 

今、暗くて長いトンネルを通っている最中の方は大勢おられます。と言うより、暗さと長さの程度の差はあれ、トンネルとか荒野を通されないクリスチャンはいないと思います。神は最も正確な預言者でありながら、時には、その預言された時を敢えて「遅らす、 delay される」方であると思います。すなわち、神はすべてを見通されている方でありながら、その時を敢えて遅らせる場合があるのです。なぜでしょうか。私はそこに預言の目的があるからであると思います。

預言の重要な目的の一つは、私たちを励ますためです。(1コリント14:3)ですから多くの預言者は「今は何々のシーズン」と言う言い方で時がはっきりしているようでしていない預言をします。いつ「主が帰って来られるか」の期日は誰でも知りたいでしょうが、はっきりした時は聖書には書かれていません。その理由は、もし書いてあれば、極端な言い方をすれば、私たちはクリスチャンとして努力すべきことを止めてしまう可能性があるからです。

私たちがオレゴン州に住んでいた頃、子供を連れて車でカリフォルニア州によくバケーションに行きました。その道程が長いことは分っていても子供たちは「後どのくらい?」と何度も聞きます。目的地に近づくに従ってその質問の間隔は短くなります。それに対して私たちは色々な言い方で子供が希望をもって辛抱できるように励ましの答えを与えて納得させようとしました。―そんな経験を持たれた方は大勢おられると思います。つまり預言は「もう少しの辛抱だ、頑張れ」と言う神からの励ましのメッセージでもある訳です。

 

時が遅れるのは私たちの責任

 

私たちクリスチャンの最終目標は「イエス・キリストに似た者になること」、別な言い方をすれば、私たちが神の愛を受けて「愛の人間になること」というこの一言に尽きると思います。しかし、私たちが本当に「神の愛」の人間になることとは「霊的に成熟する」ことを意味します。霊的に成熟するためには長い時間を掛けて「寝かせる」必要があることを私たちは知っております。そのよい例がワインです。本当によいワインを造るには、先ず自然の形でよく熟したぶどうからワインを醸造しますが、その一応完成したとも言えるワインを、尚も理想的な環境の下で寝かせれば寝かすほど深いこくのあるワインに成熟して行きます。中には何十年、何百年も掛けたワインから、とても美味で値段が付けられないほどすばらしいものが出てくると言われます。

私たちの内にはぐくまれる「神の愛」はこの高価で絶妙に成熟した「味」のワインに例えることが出来ないでしょうか。クリスチャンとは、私たち自身が、どこを切っても完全に漬かった「神の愛」の香ばしい香りを放つ漬け物になっていなければなりません。それは一夜漬けでは決して出来ないのです。と言うことは、私たちクリスチャンを成熟させるプロセスにおいて、神の時間表が遅れる一端の責任は、私たち自身の気短さ、性急さにあることを私たちは十二分に心得なければならないと思います。主は私たちを心から愛するがゆえに、少々時間を遅らせても、私たちの霊的成熟が充分に熟すまで待たれる愛の神です。

 

今年、神は素早くことを運ばれる

 

しかし、主はなさるとなれば、今年は事を思いの他素早くなさることが充分に考えられます。すなわち、今までとは違うテンポで事を運ばれる可能性が高いですから、常に主を見上げて、いつでも受けて立てるだけの心の準備をしている必要があります。

そのことを私たちは新年早々、既に経験しつつあります。と申しますのは、私たちの息子夫婦とその子供(孫)が仕事の関係でこの2月初旬にニューヨークからサンフランシスコに移住することになりました。ついては私たち夫婦もニューヨークを間もなく出ることになりますが、ハワイに戻るのかサンフランシスコに移るのかは、今のところ未定です。又、日本を訪れることも祈っております。詳しくは後日御報告しますが、取り急ぎ私たちの家族のためにお祈りいただけますようお願い申し上げます。(終り)


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