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Walk With God Ministries

17 12月

愛について         坂  達 也            2013年12月17日


愛について

 

                           坂  達 也 

 

聖書全体を通じて一番大切な「神からの命令」あるいは「戒め」は何かと言えば、それは「神を愛する」ことではないでしょうか。申命記6:5に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と書かれています。しかし、イエスご自身が来られて、その戒めにさらにもう一つの戒めを加えて、最も大切な「二つの戒め」とされました。マタイ22:37-40にそれが次のように書かれています。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが(これをもって聖書全体を指す)、この二つの戒めにかかっているのです。」これは神と愛に関する、驚くべきほど究極的なステートメントであると信じます。それでは一体、愛とは具体的に何なのでしょうか。

 

愛とは何か

 

愛の定義は色々言われておりますが、私たちにとって最も関心があるのは聖書が何と言っているかであると思います。そこで真っ先に思い浮かぶのは1ヨハネ4:7−8です。

「 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」

このみ言葉によって「愛は神から出ている」ことと「神は愛である」ことが分ります。すなわち愛とは神ご自身であり、神のみが愛の源です。私たちがイエス・キリストを信じて以来、私たちの内におられる聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれています。(ロマ書5:5)上記のみ言葉でもう一つ重要なポイントは「神を知っています。」ではないかと思います。私たちは神に対し心からの愛があるなら、必然的に神を親密に知る関係に入らずにはおられないはずです。

しかし神を愛するとは、単に心からの愛情とか情愛のリレーションシップを持つことだけではなく「神の律法全体を守ること」が切っても切れない愛の一部であることをクリスチャンははっきり認識する必要があります。そこがこの世一般の愛のコンセプトと異なると私は思います。そのことが下記のみ言葉にあらわれています。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ 14:15)「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ 15:10)

私たちは、イエスご自身がなさったこと、即ち、律法全体を成就されたこと、そしてそのためにこの世に来られたこと(マタイ5:17-19)を、同じように成し遂げることが私たちの最終目標であり、それが父なる神に対する私たちの愛であるのです。それを可能にする唯一の方法は、イエスが「父の愛の中にとどまっている」ように、私たちも「主イエスの中にとどまり、イエスが私たちの中にとどまる」ことであると思います。

以上のことを次のみ言葉がまとめてくれます。「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(2ヨハネ 1:6)

 

第二の戒め

 

又、愛の使徒と呼ばれるヨハネは何よりも「私たちが互いに愛し合うこと」を繰り返し強調しました。

私たちは、神を愛すること(第一の戒め)に関しては、イエスを信じてクリスチャンになり、曲がりなりにも教会に集っている限り、その信仰の程度は別にして、基本的に神を愛していることを周りが認めてくれますから特に問題にはなりません。なぜなら神が霊的存在で、その人と神との直接の係わり合いが肉的によく「見えない」「聞こえない」からです。ところが「第二の戒め」となるとそうは行きません。周りの人にはその人が隣人とか兄弟をどのように愛しているかが一目瞭然ですから、直ぐ批判の対象になります。正直に言って、「自己中心」から抜け切れない私たちにとって、この「他人を愛する」こと程難しいことはこの世の中で他にはないと思います。その他人への愛の実践 love in action がいかに難しいかを自らの経験を通して克服した人の一人は使徒パウロであると思います。そのパウロが書いた「愛」の章と言われる1コリント13章をこれから御一緒に読んでみたいと思います。分り易くするために、この章全体を三つに分けてみます。

 

1コリ13:1-13

1-3節「1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 

そこで先ず、最初の1-4節で気が付くことは、パウロ自身が「異言の賜物」を誰よりも用いたオーソリティーであることです。又、「預言の賜物」についても権威者の一人ですし、彼こそ聖書の「奥義と知識」に最も長けた使徒であると私は信じます。「完全な信仰」についてもそれが言えます。加えてパウロは「自分の持ち物すべてを与えた」人であり、「自らをいけにえとして差し出す=自らの十字架を担いで主の後を追った」人であることでも誰にもひけを取りません。その彼が「そのようなこと(6つの例を挙げ)をいくらしても、もし『愛がないなら』それらの行為は『何の値打ちもない』」と断言しているのですから、これを読んで驚嘆しない人はいないと思います。

特にクリスチャンとして最もうらやましい「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」とまで明言するのですから、どれだけ愛が大切であるかがお分かりになると思います。

 

でも、正直なところ私の場合は、このショッキングな記述を読んだ時に一応の驚きは感じましたが、それ以上の感動とか心が揺さぶられるようなショックを感じないで今まで過ぎて来ました。そして、そんな霊的感覚が麻痺したような自分が、同じ自分の中にいることに気が付いて愕然としたのです。むしろ、その事実の方がより大きなショックでした。「なぜなのか」私は自問しました。又、「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じる」ことはクリスチャンとしてこの上なくうらやましいことです。私もそれを強く願って来ました。しかし、「愛がなければ」と共に、それが単なる「頭の知識でしかなければ」何の役にも立たないと言うことにも気が付かされました。「なぜ自分はそうなってしまったのか」―その答えは「宗教の霊」にやられて来たからです。私の中には、何と大きなプライドが詰まっているかに気が付いたのです。

自ら「パリサイ人中のパリサイ人であった」と告白するパウロが「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じている」ことを掲げて、それが本当に主への愛ではなくて、単に自分のための「知識として知っているのであれば全く何の力もない」ことを喝破しているように思えます。それを経験したパウロであるからこそ、2テモテ3:5で「見えるところは敬虔(信心深そう)であっても、その実(力)を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」と言えるのでありましょう。その点私などは、奥義も知識も信仰もあまりなく、ないゆえに「力のない」のは当然でありながら、それを嘆いて来たのは私のプライドからであることに気が付かされました。

又、そのようなパウロであるからこそ、ガラテヤ 5:6で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰(愛によって働く信仰)こそ大切です。」と言えますし、そんな中を通って苦しんだ結果として、彼は愛の大切さを本当に理解した人になったと信じます。

 

他人を愛することの難しさ

 

4-7節「 4愛は寛容(我慢すること)であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

 

さて、この4-7節ですが、ここでもパウロは、驚く程厳しくてリアルな「愛の実像」を描いてくれております。

ここに列記された14の「愛は・・」は、すべて「他人に対する自分の取る態度」が取り扱われていますが、それらは「自己中心」を微塵なりとも許していないことに気が付かされます。他人に対してあくまでも「親切」にし、他人を「ねたまず」人に自分を「自慢せず」「高慢にならない」又、他人に対して「礼儀を欠かず」「自分の利益を求めない」「他人の不正を喜ばずに真理を喜び」「他人を出来る限り信じ」「他人のすべてをよく期待する」―という9つの品性です。そして残りの5つである「忍耐強く寛容で」「すべてを我慢し」「いらだたず」「うらまず」「すべてを(特にどんな迫害とか虐待に会っても)耐え忍ぶ」―ということが真の愛だと言うのです。

ハッキリ言えば、パウロの言っていることは最後の5つだけでなく、14のすべてが「他人を愛するためにはすべての面で忍耐が伴う」の一言に尽きると思います。それは別の言葉で言えば他人の至らなさをすべて赦すこと―それが愛であることを示していないでしょうか。これこそキリストがこの世に生まれてから最後にゴルゴダの丘に到達する間に出会った人たちのあらゆる罪の苦しみを自ら味わった上で、最後に十字架刑と言う極刑の苦しみの中で全人類の罪のために死んで下さった愛ではないでしょうか。

イエスが自らの一生を通して私たちに示されたのが「御霊の実」のすべてであったと思います。それは「愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。この中のどれ一つを取っても厳しく練られた人間としての最高の品性でないものはありません。中でも一番難しいのは他人に対して常に寛容であるための忍耐と自制ではないでしょうか。

長い間主によって「もうしばらく待ちなさい」と言われ続ける中を、希望を失わず、すべてに自制して、じっと耐え忍んで来られたクリスチャンはたくさんおられると思います。しかしそのように何の報いもないと思われるような「高い代価」を払って品性を磨き上げられ、最終的に「キリストの香り」を放つ者となるのがレムナントと呼ばれる人たちではないでしょうか。

これはパウロ自身が通った道であるに違いありません。「・・・すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」と言った後で、パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」と1テサロニケ5:14-19に書いています。そこには本当に自分に死んだ姿しかありません。

そして、これこそがあくまで私たちが霊的にキリストの身丈にまで成熟するための訓練です。そのすべてを私たちに内住される聖霊が愛をもって私たちのために日夜して下さっているのです。特に16節の「いつも喜んでいなさい。」17節の「絶えず祈りなさい。」そして18節にある「すべての事について、感謝しなさい。」こそに、他人を愛するために何事にも「耐え忍ぶ」ことを可能にするパワーが秘められており、それがその「秘訣」であり、聖霊による愛の励ましがあると、私は思います。ボブ・ジョーンズ師が言う珠玉のようなレムナントとはこうして生まれて来るのでしょう。

 

愛は決して絶えることがない

 

8-13節「8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】

 

13:8に「愛は決して絶えることがありません。」と書かれています。多くの英語の聖書は love never fails と訳しております。日本語の訳「愛は決して絶えることがない」は確かに正しい訳には違いありませんが、パウロの言わんとする全貌を伝えてはいないと思います。私はそれ以上のもっと強い意味、すなわち、「偉大な神の愛に宿る限り、私たちがするすべての愛による行いは、神の御心通りに運ばれ、常に完全に成功する、必ず成就する」と言う意味であるからです。あるいは「『預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。』しかし『愛があれば』どんなことでも失敗することはない」と言う意味であるとも言えます。

 

私は「神の愛」を本当に理解するには、神の愛とはこの宇宙に存在する「最高次元」―そこに神が住まれる「神の領域」=それが「愛」の次元=として考えるのが一番ふさわしい説明であるように思います。先回、私は物理学量子論の「超弦理論」が宇宙の仕組み、特に霊の領域の存在(それがあることだけは私たちには分ります)を近い将来科学的に説明出来る可能性があると申し上げましたが、その最高次元がこの神の住まいの次元であると思います。そして、すばらしいことに私たちキリストを愛する者は、将来その次元で主イエス・キリストと共に永遠のいのちで最高の人生を過ごすことが約束されているのです。ですから、私たちがどんな艱難を通されても、それは神がなさっておられるのですから私たちのために必ずよい結果を生み、実ることを知っており、すべての神がなさることに喜び、感謝出来るのです。

 13:9-10では、私たちが今経験していることの大部分が不完全で、一時的、あるいは一部分でしかないと言うことが書かれています。それは三次元の世界の話であり、その「この世」の世界は、神が私たちのために具えられた高次元に住むための準備と訓練の場所であるに過ぎないのです。

 

9私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分でしかないのです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言うみ言葉を通して、今の私たちクリスチャンがどれほど苦労させられ、厳しい忍耐の中を通されていても、それが目的を持った一過性で仮の領域でしかないことを知る時に、私たちは大いに励まされないでしょうか。

 

そして、この章の最後の言葉が13:13節「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】で終わっております。

 

さて次回は、私たちが真に神と愛の関係に入ることを阻止しようとして攻撃してくる悪魔の策略の一つである「宗教の霊」とかその他の悪霊の働きに就いて触れる予定です。(続く)


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