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Walk With God Ministries

18 12月

神殿の建設地 フランシス・フランジペン      2011年12月18日


神殿の建設地

フランシス・フランジペン

 

主の家(教会)を建てるとは、私たちが必要な時に助けてもらうところを作る(見つける)というだけではなく、もっと重要な意味があります。神から最高のものを受けるためには、代価を払う必要があります。主から最高のものを受けたいと望むならば、 自分が一番愛するものを主にささげねばならないのです。

 

2つの神殿

聖書には2つのタイプの神殿のことが書かれています。一つはイスラエルに建てられた石の神殿であり、もう一つは生きたからだで造られるもの、即ち教会です。 第一神殿(ソロモンの神殿)は、神があらかじめ定められた場所に建てられました。 主が石の神殿建設の地を注意深く選ばれたように、 私たちを生きた主の神殿にするために、私たちのこころの地形を主は調べておられます。

 

神殿建設地が定められるために、2つの重要な出来事が用いられました。2つの出来事は長い年月を隔てて起こりましたが、その二つには私たち自身が見習うべき大切なポイントが含まれています。最初の出来事はアブラハムの人生の中に見ることができます。

 

主がアブラハムに息子イサクを与えたので、彼の霊的願いは成就されました。しかし、やがて神への愛と神によって与えられたものへの愛とのどちらかを選択せねばならない時がやってきました。主はアブラハムに息子をつれてモリヤの地に行くように命じました。そこでアブラハムは神が選ばれる山でイサクをささげるように言われたのでした。

 

「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、『あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。』と言った。」(創世記22:4−5)アブラハムの「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。」という最後の言葉に目を留めてください。ここに礼拝をささげる中での信仰の完成を私たちは見ます。アブラハムは信仰によって 二人とも戻ってくることを知りましたが、彼が山にむかって上って行くことができたのは彼の礼拝の態度でした。この物語はよく知られています。 主のみ使いがナイフを手にもったアブラハムを止めて、イサクの命は助けられました。しかしながら、ご自分のしもべからこのような従順を要求されるのは、神の計画であり、目的であったのです。アブラハムの神への愛は試みられ、真実であることが証しされました。

 

それと同じように、主の家の一部となるために私たちがまず持つべき心構えは、礼拝するこころです。私たちは 自分が最も愛するものを神に喜んでささげねばなりません。もし牧師であるならば、それは自分のミニストリーや教会に関する個人的な夢を、主に明け渡すことかもしれません。もしとりなし手であるならば、ローカルな祈りのグループでのリーダー役を手放し、人々が更に大きなキリストのからだの中に組み入れられるようにすることかもしれません。

 

すべての人は死ぬときは究極的にすべてのものを神に明け渡すのです。キリストの家を建てるために召されている者たちは、彼らが最も愛するものや成就させたいと願っていることを、全能の主に明け渡すことによってそれを成し遂げます。それは肉的な死と似ています 。人間的にそれを取り戻す希望は捨て去り、神にのみ依り頼むのです。 アブラハムは彼が一番愛するもの、イサク(彼はアブラハムの霊的成就の具現でした)を神にささげました。彼は自分の持つ夢のすべてを、自らの手で築いた祭壇の上に置いたのでした。

 

アブラハムは、全能の神にとって死はなんの妨げにもならないことを知り、神が約束を成就してくださると、こころから信頼(することに)したのです。同じように、主の家を建てるために主が用いられるのは、自分の一番愛するものを神に喜んで明け渡す人々です。主にすべてを明け渡して主を礼拝する人々のこころの中に、主はご自分の家を建てられるのです。

 

 

全額を支払う

霊的な神殿の「DNA 遺伝子」を示す第二の出来事は、ダビデ王の人生に起こりました。彼はエルサレムを見下ろす山の上に立っていました。彼の罪により、主の裁きが国に下りました。主はダビデの悔い改めを受け入れ、オルナンの打ち場に主のための祭壇を築くように言われました。オルナンは全焼のいけにえのために自分の牛やたきぎをただでダビデに差し出しましたが、ダビデはそれを受け取りませんでした。そして「私に打ち場の地所を下さい。そこに主のための祭壇を建てたいのです。十分な金額で、それを私に売って下さい。神罰が民に及ばないようにするためです.....私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。」(第一歴代誌21:22—24)と言いました。ダビデの態度はまさに神が私たちに求めておられる心構えの良い模範です。

 

私たちが「ありのままで」キリストのもとに来て救われるのはよいのですが、救われた後に主の神殿として建て上げられるためには代価を払わねばならないのです。私たちが神に仕えるのであれば、全心と代価全額(full heart and full price)をもって仕えようではありませんか。

 

ここで更に、オルナンがユダヤ人ではなくエブス人であったことを考えてみましょう。先の戦いでオルナンの民はその地からダビデによって追い出されました。しかしオルナンはその地に留まっていたのです。ダビデ王はオルナンの土地を戦勝品として取り上げることもできたにも拘わらず、全額を払って買い取ったのです。

 

愛する皆さん、ダビデの態度は、 アメリカの典型的なキリスト教と全く正反対です。私たちの多くは、近道を探したり、ヴィジョンも献身もないままでうろうろしています。神への近道を探すことは止めましょう。 他人のものを主にささげるのも止めましょう。むしろ全額を支払おうではありませんか。

ダビデが祭壇を築き、神殿を建てると定めたのは、まさにこの打ち場でした。

 

深い洞察

時がすぎ、ダビデは他の人々と同じように死にました。ダビデの神殿のヴィジョンを完成したのは息子のソロモンでした。神殿の建設地について聖書が語っていることに耳を傾けてください。

 

「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」(第二歴代誌3:1)

驚くべきことに、ダビデがそこに立ち、代価を払わずにいけにえをささげることを拒否した場所はモリヤ山であり、それは6世紀前にアブラハムがイサクを神にささげたのと同じ場所でした。

 

愛する皆さん、聖書は、キリストが地上に戻られる前に主の家の山は建てられ、すべての国々の人々がそこにやってくることを私たちに保証しています。(イザヤ2:2) 自分の最も愛するものを神の祭壇の上にささげる礼拝者として私たちが召されていることを、しっかりと受け止めようではありませんか。そうです、私たちの人生の中に、私たちの時代に、主の家が再建されるのを見るために、全額を支払おうではありませんか。

 

祈り:主イエスよ、あなたにすべてささげることを私は願います。代価を払わないいけにえや、借り物の贈り物をささげたことを、どうかお赦しください。主よ、私があなたのために何ができるかではなく、あなたが私をどのような者としてくださるかが、一番大切な問題であることを知っています。私のすべてをあなたに明け渡します。私の人生の材質があなたの家を建てる建材としてふさわしいものでありますように。私のイサクを祭壇に持っていくための信仰と礼拝のこころをどうかお与えください。イエスの御名によって祈ります。アーメン(終わり)

(“When the Many Are One”からの抜粋)

 


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