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Walk With God Ministries

24 6月

思い起こし証しすることの力       ダッチ•シーツ      2014年6月24日 


思い起こし証しすることの力

 

ダッチ•シーツ(2014年6月15日 Golory of Zionにおける礼拝メッセージより抜粋)

 

 

6ヶ月ほど前のことですが、神が「わたしはあなたを一回りぐるっとフルサークルさせて、もう一度もとの所に戻す」と言われました。それを聞いたとき、私はそれが良いことなのか悪いことなのかとっさにはわかりませんでした。私たちが何か間違いをしたので、もう一度振り出しに戻ってやり直さねばならないのか、また荒野をさまようのか、と思ったのです。でもそうではなくそれは良い励ましのことばであることが霊でわかりました。

このことを思い巡らしていると、主は私の霊を天に連れていかれました。そこから私が地上を真下に見下ろしますと、地面に一つのサークルが輪を描いて回っているのが見えました。すると主は、次に私を横からそれが見える位置へと連れていかれました。すると上から見たときは一つの輪に見えたものが、横から見ると新しい輪は同じ高さではなく、螺旋を描いて上がって行き、始めのサークルより高い位置で円を描いていたことがわかりました。フルサークルでぐるっと一回りしているのですが、その高度が違い、それは違うシーズンに入ったことを表していることがわかりました。

 

最近オクラホマでメッセージをしました。その集会の後で一人のメシアニックのラビが私のところに来て訊ねました「あなたはテスティモニー(証し)というヘブル語の言葉の意味を知っていますか?」私は「いえ、知りません。」と答えました。

彼は「テスティモニーという言葉は、『もう一度する』という意味です。神が私たちに昨日してくださったことを覚えて宣言するとき、それと同じパワーが今日ふたたび解放されるのです。」と教えてくれました。

 

このことを聞いてから私はいろいろと考え始めました。彼の言ったことを信じなかったわけではありませんが、それが聖書的であるかどうかをしっかり調べてみることにしました。

その結果、「どうして私たちは過ぎ越しを毎年祝うのか、どうしてペンテコステを毎年祝うのか、過去に起こったことにどうして私たちはいつまでもつながっていなければならないのか、どうして切り離してはいけないのか」、ということが分かってきたのです。

 

リメンバー(過去に起こったことを覚えて証しする)ということばはヘブル語ではzkr

ザカーと言いますが、それは単に過去のことを思い出すことではありません。ただ単に昔起こったことを覚えているということではなく、それによって今日私たちがとらねばならない行動が1含まれているのです。

 

士師記16:28でサムソンは「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。O Lord God, remeber me, I pray!」と叫びました。神がサムソンをリメンバーされた時、サムソンに力が戻りました。神がリメンバーしたとき、もう一度同じことをされたのです。私はこの箇所を今までずっと理解できませんでした。神がサムソンのことを忘れることなどあるでしょうか?

そうではなく、サムソンはもう一度力をください、もう一度してください、と叫んだのです。神はサムソンをリメンバーして力を再び与ました。

 

第一サムエル1:11でハンナは「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心め留め(remember me)..」と祈りました。そして19節にあるように、主は彼女を心に留められ(and the Lord remembered

her)、ハンナはみごもって男の子を産んだのです。

 

最後の晩餐のとき、イエスは弟子たちに「わたしを覚えて、これを行いなさい。(do this in rememberance of Me)」と言われました。「これを行う度ごとにわたしをリメンバーしなさい。」と言われました。パウロは第一コリント11:24−26でこれに言及しています。26節で「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」と言っています。ただ頭で主の死を思い出すのではなく、その事実を今のものとして、その時と同じ十字架の力を宣言して受け取るのです。

 

テスティモニーはそれと同じです。私たちは昨日主がされたことを証し宣言して、それと同じ主の力を今日汲み取るのです。マラキ3:16にある「記憶の書 book of remembrance」はそのためにあるのです。

 

テスティモニーという言葉のヘブル語の語源には「繰り返す、何かを再びする」という意味があります。

ただ思い出し話をするというのではなく、「再び行う」ということです。あなたが証しをするときに、神はあなたをぐるっと一回りフルサークルされてもとに戻し、あなたはその時と同じ力の中に入り、再び同じ御業が起こるのです。

 

ですから福音を語ることは、ロマ書でパウロが言うように「救いを得させる神の力」です。それはただメッセージであるだけではありません。ただ主がされたことを思い出して語るだけではありません。あなたが福音を宣言するとき、十字架の救いの力が再び解き放たれるのです。

 

このメシアニックのラビが言いました。「私たちは今多くの奇跡を見ています。様々な病気をいやされた人々を私たちは街角に遣わしています。彼らがしていいることは、ただそこに立って自分に起こった奇跡を告げ知らせているだけです。彼らが何度も何度も繰り返して神が自分に5年前とか10年前とか20年前にしてくださったことを証しする時、同じ力が流れ始めます。なぜならば、彼らが証しをするときに主はまた同じことをしてくださるからです。主の癒しの力が再び解放されるのです。」

 

ヘブル的な考え方では、時というものは生きているのです。時は孕んでいるのです。彼らにとって時は一直線に進むのではなく螺旋を描いて回るのです。もとに戻るときに前と同じ力を汲むことができるのです。

以前起こった癒しや素晴らしい祈りのムーブメントの話を何度もする時、それは懐かしい話にとどまらず、私たちは宣言しているのです。主が昨日してくださった力を今日解き放つのです。主はイザヤ55:11で「わたしの口から出るわたしが語ることばも、むなしく、わたしのところに帰ってこない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と言っておられます。イエスはヨハネ6:63で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。ことばは生きていて、永遠なのです。

 

第一テモテ1:18に「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」とあります。パウロは預言を忘れるな、と言っているのではなく、それをもう一度宣言することによって預言を通して与えられた神の力が再び解き放たれると言っているのです。

 

ヘブルの学者たちは「時」を螺旋状のものとして捉えています。過ぎ越しからペンテコステまでの50日は、ヘブルの考えかたでは、直線上にあるのではなく、螺旋を描いているのです。ペンテコステ、即ち50日というように数えてもおりません。それは私たちの考え方です。彼らは1週間が7回ある、と捉えています。7日のサイクルが終わると、次にもう一段高いレベルでの7日のサイクルの輪が来る、これを7回、栄光から栄光へと繰り返すのです。そしてその次の日が新しい始まり、ペンテコステです。私たちは7日間の円を描きながら次々と上に上っているのです。7といる完成の数字に達し、私たちは神が備えておられる新しいシーズン、即ちペンテコステの力を受けるのです。私たちは天にまで届くのです。

 

主の聖餐にあずかる度ごとに、あなたは十字架の力を新たに経験します。過ぎ越しから7週を過ごした次の日のペンテコステにはあなたは屋上の部屋で弟子たちが経験したのと同じことを経験し、火があなたに再び下るのです。

 

フルサークルです。主がされたことを証してください。それを今日に持ってくるのです。

出エジプト2:24に「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた(remembered)。」とあります。神はアブラハムを忘れていたのではなく、「わたしはアブラハムに言ったことを思い起こす」と言われたのです。「わたしはアブラハムに語ったことを完全に今日遂行する」と言う意味です。「エジプトもパロもわたしがイスラエルのためにすることを止めることはできない。なぜならば、わたしはアブラハムとの契約をリメンバーしたからだ」と言われたのです。「わたしがリメンバーするとき、わたしが語ったすべてのことは今現実となり起こる」と言われます。

 

神はヤコブにベテルに戻れといわれました(創世記35:1)そこには天に開かれた門があるといわれたのです。そこに行けば、そのような力が今日そこに現れる、そこに戻りその力を汲みなさい、と言われました。時間の中で埋もれていたものがその場所に戻るときにもう一度あふれ出るのです。

 

ネヘミヤは廃墟にもどって宮を立て直すといいました。ネヘミヤ1:8で彼は「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください(remember)。」と祈りました。神がモーセに約束されたことを思い出すならば、それらすべての力が再び解き放たれるのです。すべての過ぎ越しの時に起こったこと、紅海が分かれたこと、それらすべての力が解き放たれるのです。

 

カレブはヘブロンで巨人と戦いました。ヨシュア記14:6で彼はヨシュアに「私は約束されています。」と言いました。神が彼に与えた約束の言葉を思い出しています。45年も前のものです。「私がいくら年老いたとして、私の周りの人が次々に死んでいったとしても、私は死にません。私には主からの約束、契約があるからです。私はその契約の言葉を保っています。それは昨日の言葉ではなく、今日の言葉です。なぜならば私はそれを思い出しているからです。主が私に語ってくださったことを私は今宣言します。それは今の言葉であり今、力がある言葉です。その力は今ここに私のためにあるのです。」と彼は言っています。

 

あなたへの神の契約、約束のことばを思い出して宣言するならば、あなたはその契約の力、約束の力を今日、汲み出すことができるのです。(終り)


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