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14 5月

清い心とオープン・ヴィジョン(霊で見る目) フランシス・フランジペン    5月15日


清い心とオープン・ヴィジョン(霊で見る目)

 

フランシス・フランジペン

 

霊的なものを感知するには、心の清さpurityが基礎、土台となります。人生の中で何を見るか、又それをどのように見るかを決定するものは、私たちが内で何を思考しているかという内部思考に根ざしているのです。もし私たちが神の御国に関する オープン・ヴィジョン(霊的な目で見るヴィジョン)を鮮明に見たいのならば、清い心を持つ事が第一の 条件となります。 

 

神の御座で 啓示を受ける

 

黙示録には驚くべきことが書かれています。「御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。(黙示録4:6、8)」 ここでこれらの生き物に関してあれこれ推測するのが今の私たちの目的ではありません。私たちの目標は、神を意識しながら神の御前で生きることによって得られる清い心を持つことです。私たちは神の御座で起こっている事柄を(霊の目で見える)オープン・ヴィジョンを求めているのです。

 

これらの「生き物」は多くのことを表していると思いますが、一つのことは確かだと思います。即ち、 ヨハネは、からだが目で満ちている六つの翼を持つ、気味の悪い生き物を見ているのではないということです。ヨハネが見たのは深い真理を象徴している姿でした。多くの「目」とは、(霊の領域に)開かれていてすべてを包括的に見るヴィジョン(目)を表し、それは神の御前にいることによって可能になります。

 

このことを知ってください。主がおられるところには主の御座もあるのです。もしあなたが主と出会ったことがあるならば、それはあなたの霊が主の御座にいるからです。あなたが霊的に生まれ変わったとき、あなたは上から生まれたのです。(ヨハネ3:3)今のこの時も、 あなたの霊は聖霊を通して、キリスト・イエスとともに天のところにすわっているのです。(エペソ2:6 )主の臨在があるところにはオープン・ヴィジョン(霊の目で見るヴィジョン)もあるのです。

 

これらの「生き物」は、人が神の臨在の中で生きるときに発見する生き方のシンボルです。主にあって私たちの目は考えることができるのです。それらの目は、 識別と理解をもち合わせてものを見ることができます。キリストの思いが私たちの視覚(ヴィジョン)と一つに融合して、私たちの狭い認知力によっては見ることが不可能なものを、「前と後ろを同時に見るように」はっきり顕してくれるのです。私たちのヴィジョンはまた「御座の中央」からも来ます。私たちは離れたところにある霊的真理を見るだけではなく、神ご自身の深みまで及び、探ることができるほどお傍近くに居るのです。(第一コリント2:10)

 

しかし、それと同時に神のおそば近くに居ることは、私たちに「内側の目」、即ち自分の行動の動機を監視する目、罪から自分を護衛する内なる目、を与えます。私たちの霊の目で見るヴィジョンが開けば開くほど、私たちに神の聖さがますます見えるようになります。そして、私たちの人生のほんの小さな罪が重大な罪に見えてきます。主の御前に居ると、私たちは清く生きるようにと迫られるのです。

 

神の御座の前で「生き物」は、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者(黙示録4:8)」と絶え間なく叫んでいます。昼も夜も神は聖であられます。私たちの霊の目が開かれるとき、私たちの口からは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という言葉だけが出てきます。

 

まことのイスラエル人は霊で見ることができる

 

イエスはナタナエルのことを「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。(ヨハネ1:47)」と言われました。イエスがこのように感嘆したこの若い弟子はどのような人物だったのでしょうか? この若者の心の中には狡猾さや偽りがなかったのです。私たちもこのような清さを持ちたいものです!ナタナエルは「内側の目」を持っていました。彼は自己欺瞞に陥らないように自分を護っていました。私たちは内なる真理をしっかり握っていれば、外にある真理を認知することができます。ですから、ナタナエルはイエスを見てこう宣言しました。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。(49節)」

 

イエスはナタナエルに言いました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。まことにまことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(50—51節)」ナタナエルが清くまっすぐな心を持っていたので、必ずオープン・ヴィジョン(霊の世界を見る目)が 与えられることを、主は知っておられたのです。オープン・ヴィジョンは清い心の当然の結果です。罪と戦う人たち、偽りを憎む人たち、聖さの中を歩むことを熱心に追い求める人たち、あなたがたの努力は神を見るための準備です。あなたがたは天が開くのを見るでしょう。

 

私たちは自分の心が鈍っているので、今の世が霊的に盲目であることを、残念だけれど仕方がないこととして受け取ってしまっています。しかし本当はそうではないのです。旧約の中での罪に対する神の裁きの一つは、天が「青銅」になることでした(申命記28:23)。ほとんどのクリスチャンは、このように天は閉ざされているものと考えています。オープン・ヴィジョン(霊に開かれた目)で天の領域で起こっていることを見たり、自分の心の中を見たりする人はほとんどありません。かたくなな心にとって、天はいつも「青銅」です。しかし、主は「あなたがたは天が開けるのをみて、神の御使いを見るであろう」と約束されたのです!

 

神は私たちが真の霊的ヴィジョンを持つことを望んでおられます。聖霊が教会の中で生き生きと働いておられる一つのしるしは「青年は幻を見、老人は夢を見る(使徒行伝2:17)」ことです。天にある神の御国とこの地の御国とは繋がっているのです。

 

「超自然的なことは一世紀にだけ起こったことであり、現在は『見るところによってではなく、信仰によって歩む(第二コリント5:7)』べきである。」と考える人たちもいます。確かに次の一歩で何が起こるのかがわからない時でも、信仰によってその一歩を 踏む出すことが私たちにはしばしばあります。しかし私たちは内におられる主(の御心)を感知しているのです! それは盲目的信頼ではありません。すでに(過去の経験からはっきり分かる)証明済みの確信と、状況を霊の目で見ることによる信頼です!信仰によって歩むことと霊的なヴィジョンを見ることは、どちらか一つだけしか選べないものではありません。パウロは「信仰によって歩む」と述べているほんの少し前に、「私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く(永遠な)ものだからです。(同4:18)」とも言っています。パウロは霊的な領域の啓示を受けていました。彼は天で彼のために用意されていて彼がやがて来るのを待っている、永遠に生きる霊の身体を見ていました(同5:1、4)。彼は「この人が、、、、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(同12:3−4)」と言っています。

 

パウロの霊的感知についてあれこれ考えるのもいいですが、彼が新約聖書の三分の一をキリストのオープン・ヴィジョンによって(キリストを霊の目で見つめながら)書いたことは事実なのです。彼はどのようにそれらのことを見たのでしょうか? 彼は「顔のおおいを取りのけられて鏡のように主の栄光を反映させながら、、、(同3:18)」と言ったすぐ後で、「恥ずべき隠された事を捨て(同4:2)」と言っています。そして少し後に「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。(同7:1)」と続けています。彼の清められた心、完成された聖さから、神の栄光を見る目のオープン・ヴィジョンが与えられたのです。

 

忘れないでください。私たちは「体験」を追い求めているのではなく、清い心を追い求めているのです。ヴィジョンを追いかけているのではありません。聖さを求めているのです。初代教会においては、霊的領域の出来事は当然起こるべき現象として考えられていたと同じように、彼らの心の清さは当然そうあるべきこととして考えられていました。ですからヴィジョンを追い求めるような愚かな人たちのようにはならないでください。あなたは清められること、聖化を求めるべきであり、あなたの準備が整ったときに、それが神の御心ならば、主は超自然的な方法であなたに語られるでしょう(使徒行伝2:17−18)。イエスとの「霊的体験」をどうにかして持とうとしないでください。清い心を持つことを求め、キリストが毎日あなたを吟味し調べ、汚れを取り去ってくださるように願ってください。主が御ことばをもってあなたを洗い、主の聖さによって懲戒されるとき、主はあなたを御臨在へと引き寄せてくださるでしょう。主はあなたの目を「外のものへも、内のものへも」(霊的に見えるように)開いてくださるでしょう。(終わり)


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