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Walk With God Ministries

30 12月

溢れるように与える祝福 坂 達也  12月31日


溢れるように与える祝福    

 

坂 達也

 

 

聖書的に言えば、私たちクリスチャンは皆「神の子ども」と言われます。しかし、同じ「子ども」と言っても「幼い子ども」もあれば、「成長した息子」もあります。聖書のギリシャ原語とか、英語の聖書では、その差が理解できるような単語で使い分けられていますが、日本語の聖書の場合は、どちらも通常「神の子ども」あるいは「男の子」と訳されていて、幼いのか、大人なのかの区別がもう一つはっきりしません。

 

勿論、神にとっても人間にとっても、年齢に関係なく「親子の関係」を表す場合には私たちは「子(ども)」でよい訳です。しかし神は、私たちが霊的に幼い子どもから大人に成長することを人間の親以上に重要視し、私たちの成長を、最後まで責任を持って見守り、指導されます。それは「私たちがみな、信仰の一致と、神の御子に関する知識の一致に達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)

 

このことを最近特に感じ、自分自身も反省させられていることがあります。それは「十一献金」についてです。クリスチャンが「十一献金」をすることは、言うまでもなく大変重要なことです。そのことを厳しく義務付ける教会もあれば、あまり言わない教会もありますが、いずれにしてもお金が絡むことですから、言い方に余程気をつける必要があります。

  

しかし「十一献金」は教会でやかましく言われるからするのではないことを、クリスチャンははっきりわきまえていなければなりません。端的に言えば、献金をするのは神ご自身とその御国に対してであって、その人の属する教会の必要を充たす、あるいは信徒としての責任からする、しないと言う考え方はあくまで二義的なことです。私は献金が、クリスチャンとして、その人の神への愛と信仰の度合いを表す最も重要で基本的な尺度であると信じます。従って「十一献金」が出来ない人は、大人で成熟したクリスチャンとは絶対に言えません。本当にこの世の中はお金がものを言う世界であり、神様もそのように見ておられます。

 

私は若い頃収入が良かった頃でも月々の十一献金が出来なくて、年末に慌てて帳尻を合わせたことが多かったのですが、それでも曲がりなりにこの「義務」は守って来ました。このことを主は喜んで下さり、私たち夫婦はビジネスがうまく行かなくなった時も、ミニストリーに専念することを決意し、神にすべてを委ね頼るようになってからは特に、神は私たちを豊かに祝福し、必要はすべて充たされて来ました。

 

従って子どもたちにも友人のクリスチャンに対しても「十一献金」がいかに重要であるかを機会ある毎に強調して来ました。しかし、ある時気がつかされたことは、私の考え方・メンタリティーは、間違っているとは言えませんが、必ずしも「成熟したクリスチャン」としての考え方とは違うと言うことでした。

 

神様への献金は義務からするのではなく、神様を愛し、すべて神様が与えてくださっていることを感謝する気持ち、信仰のほとばしりからするべきであると言うことです。

確かに旧約聖書では少なくとも6箇所で「十一献金」の教えを見ることが出来ます。しかし、新約聖書では「収入の十分の一を献金すればよい」とはどこにも書いてありません。なぜかと言えば、新約の目標は私たちイエス・キリストを心から信じる者はイエスのようになることであるからです。旧約的な見方からすれば、言ってみれば幼い子どもに例えられ、十一献金がしなければならない責任・義務であると言ってもよいかも分かりません。しかし、私たちは新約の時代に生きている(正確には神の中で生かされている)のですから、最早幼い子どもの考えではなく、成熟した大人の考え方に変えられ、レベル・アップされていなければなりません。真のクリスチャンになることとは、私たち全員が神のご性質に似た「キリストのからだ」の一部になることであり、それは霊的に成熟した大人になって、キリストと完全に一体になることを意味します。

 

そのためには、私たちは人間的メンタリティーから脱して神のメンタリティーにならなければなりません。神はすべてにおいて無尽蔵の財源を持ち、それをふんだんに与える方です。キリストは神でありながら、ご自分を私たちに与えられました。けちな根性は毛頭ありません。まさにパウロが言うように「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)であるのです。しかし人間はなかなかそうなれないのです。

 

 

貧困の霊

 

私たちには二人の子どもがいますが、一人は私たちやもう一人の子どもにも最近とてもよく気を遣って、必要と思えばおしげなく与える子どもに成長しておりますが、もう一人の方は未だそこまでになっていません。そうすると私はどうしても比較してしまいます。その結果は、私自身が全く人間的な父親の域を出ていないことに気がつかされました。

 

私たち地元のミニストリーを一緒にしている二人の男性が生活に追われっぱなしで、「十一献金」が出来ていないので、それを行なえば神は豊かに与えて下さることを、私の経験の証を交えて折に触れ強調して来ました。しかし、二人ともとてもよく祈ってはいるのですが、一向に十分な献金もしていないようですし、経済的に豊かになりません。

 

そこで今回、私が主から示されたことは、私が十一献金を勧めるその気持ちの中には、十一献金をしないから経済的に恵まれないのだと言う批判的な感情があり、その人を「裁いている」と言うことでした。そしてそのこと自体、私自身が貧困の霊に取りつかれていることに他ならないと主から示されたのです。深く反省しております。

 

 

確かに、自分の蒔いた種は刈り取らねばならないと言う霊の法則は厳然と存在しています。そして、神はご自身が聖く、その上、無限に溢れるような愛をもっておられる方ですから、愛をもって正しく適切に懲らしめも裁きもなさるのであって、私たち人間が人を批判したり、相手に報復したり、裁いてはならないのです。そうすれば、勿論自らに裁きを招くことになるからです。

 

私たちは神の子どもとして神の膨大な財産の相続人であり、現在でも無限の財宝を惜しみなく与えてくださる天の父がいるのですから、全く無制限の財源があるのと同じです。従ってその信仰さえあれば、経済的に恵まれない人を助ける必要がある時には、出来るだけ出し惜しみせず豊かに与え、愛を持って親身になって神にとりなすべきです。そのような態度と行動が、相手の人と、自分の貧困の霊を打ち破ることが出来るのです。

 

 

 

神はすべて無制限に祝福出来る方であり、それを望んでおられるのですから、その神にのみ信頼すれば一切の面倒を見ていただけます。これは私たちが神のチルドレン(幼い子ども)であるからです。しかし、それ以上に、私たちは霊的な成熟した大人として、神に負けないぐらいふんだんに、人に、あるいは神が示すミニストリーに与え続ける時に、それがものすごい力となって神の与えるミニストリーの手足となり、同時に自分にも有り余るほど返って来るのです。これが神の経済原則であり、重要で大きな神のビジネス(御国の企業)に参加することになるのです。

 

新しい年2011年から翌年の2012年に向かって、世界経済、特にアメリカの経済が大変な試練の時を迎える、真っ暗な暗闇に突入することが多くの人によって予測、預言されています。しかし、世の中が悪くなり、厳しい状態になればなるほど、神の子どもとして、こんな絶好のチャンスはありません。新しい年に、神の経済原則を忠実に守る成熟した大人のクリスチャンになることを決意し、神に聞いて忠実に実行すれば、その人は神に豊かに祝福されるだけでなく、暗闇の中で神の栄光を輝かせる御国のトーチ・ベアラーとして、又、御国の企業家として、大いに活躍出来るのです。これこそ主が私たちに期待するところではないでしょうか。

新しい年に皆様のお働きに大いに期待しております。 (終わり)   


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