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Walk With God Ministries

31 8月

愛の順序(その二) ベンジャミン・ロビンソン          2015年8月31日


愛の順序(その二)

 

ベンジャミン・ロビンソン

 

二番目の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ですが、この順序も私たちはいつも間違えてしまいます。ほとんどの人は「あなたは隣人を愛するように自分自身を愛せよ。」を実行しているのです。

 

どのように違うのかを考えてみましょう。もし「隣人をあなた自身のように愛する」ならば、あなたは自分が自分をどのように愛しているかを知らねばなりません。そしてあなたは「私の隣人もこのような愛を経験するべきだ。」と考えるのです。そしてあなたは「自分が自分を愛した愛を隣人にも経験して欲しい」という願いの故に、その隣人を愛するのです。即ち、あなたは神からの愛を溢れるほどに受けて、その有り余った余剰の愛を隣人に分け与えたいと願い、それを隣人に降り注ぐのです。隣人から何か見返りを得るためではありません。主から有り余る程いただいた愛を注ぐだけです。

 

しかしほとんどの人は愛があり余っているからではなく、愛の欠乏から隣人を愛します。あなたは「私は愛が必要だ。あの人の所にいって愛を示そう。そうすれば彼は私を愛してくれるだろう。」と思うのです。「私は妻から愛が欲しい、だから彼女の車を洗おう。」とか、「私は自分の説教がすばらしかったと言って欲しい。だからAさんをランチに誘おう。」という具合にです。これはあなたが「あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛している」証拠なのです。

 

そして、もしあなたの隣人が、あなたが示した愛に対して望んでいたような反応、対応をしてくれない場合は、腹が立つのです。腹が立つのは、あなたが愛の余剰からではなく、愛の欠乏から愛していた証拠と言えます。私はこの事に関して神から示されました。

 

私が妻に愛を示す時はいつも、彼女から大きな反応を期待するのです。「ワーッ、すごい!ありがとう!!あなたは最高の夫よ。すばらしいわ!」と言って欲しいのです。でも10回のうち9回は、そうではありません。妻はただ「あ、そう。」と言うだけです。昨日私たちは教会のユースキャンプで山の方に行っていたのですが、彼女の車が汚れていて、ガソリンもなくなっているのに気がつきました。私はわざわざ遠くまでガソリンを入れに行き、水がなかったのでペーパータオルとガラス磨きで、窓だけではなくほこりだらけの車全体を汗だくになってきれいにしました。一時間掛かりましたが、車はピカピカになりました。

私は「自分はなんてすばらしい夫なのだろう。主よ、あなたの愛を妻に示させて下さってありがとうございます、、、」と誇らしく思いました。妻はきっと大喜びをするだろうと確信しました。

 

キャンプに戻り妻に車を返しました。「何か車が変ったことに気がつかないかい?」と聞くと「ソナタ(車種)のままだけど」というのです。「車をきれいにしたんだけど、、、」と言うと、妻は「あら、そう、ありがとう。ところで娘が泳ぎに行きたいのだけど、連れてってくれる?」とすぐに話を変えてしまいました。

 

「おや、これは私が期待した反応とは違うぞ、一時間も掛けてきれいにしたのに、、」と私は思いました。私は「主よ、私の心に平安がありません。心がまっすぐではありません。」と主に申し上げました。私が妻のために何かをした時はいつも、「こんなすばらしいことをしたよ!」とラッパを吹きならしたいのです。「お皿を洗ったよ!パッパカ パー」と言う風に。ところが、よくよく考えてみると、妻は私のために毎日数えくれないほどのことをしてくれていますが、ラッパは吹きならしません。どうして私はラッパを吹かねばならないのでしょうか?

そこで私は気がつきました。私は妻を愛しているから愛するのではなく、妻に愛してもらいたいから愛しているのだということに。心に平安がなかったのは、私が愛の余剰からではなく愛の欠乏から行動していたという証拠でした。

「私はあなたからの見返りの愛は必要ではありません。私は神から愛されて愛が溢れ出ているので、その愛を注ぐ対象を求めているのです。」という思いで妻を愛することができたならば、妻がそれに気がつかなくてもいいのです。神が惜しみなく私に与えてくださった愛を与えることが出来ることで私は満ち足りるはずです。

 

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ー 考えてみたら、私は自分の車を少なくとも週に1、2回は洗っています。自分のためにそうする時に、私はラッパを吹きならしません。鏡の前で自分にむかって「あなたはなんてすばらしいんだ!」とは言いません。車をきれいにすることが好きだからするまでのことです。ですから、妻のためにした時にどうしてラッパをふく必要があるのでしょうか?自分を愛するように妻を愛しただけなのですから。

 

ホセア10:12に「恵みの業をもたらす(義の)種を蒔け(そして主から)愛の実りを刈り入れよ。」(新共同訳、但し、括弧内は訳者が挿入したものーそうすれば説教者が用いた英語訳に近い。英語訳は)「Sow righteousness for yourselves, reap the fruit of unfailing love」です。義(righteousness)とは正しい関係にあることです。義に種を蒔くとは、人間関係に種を蒔くことに他なりません。しかし私たちはその種を刈り取ってしまうのです。あなたは種ではなく収穫を刈り取るべきです。私はKさんに優しい言葉をかけて種を蒔きます。「Kさん、あなたの髪はすてきですね。」と。するとKさんは「ありがとう。あなたの髪もすてきよ。」と言ってくれるかもしれません。私は神から愛を受けて、その愛という種を蒔くのです。そうすることによって私は変らない愛(unfailing love)を神から受けるのです。それは相手の人からではないかもしれません。もしも私があなたに100回良い事をしても、あなたは何も私にお返しはしないかもしれませんが、神は必ず変らない愛を与えてくださいます。すなわち、相手(あなた)が愛を私に返さないからと言って、私はあなたに腹を立てる必要はないのです。もし腹を立てるならば、それは私が神への信仰を失ったからです。ヨセフの人生を見てください。彼は様々な困難な目に会ってもその困難をもたらした相手に腹を立てずに神を信じ続けました。牢獄の中でも信仰を保ち、正しい態度で人に接しました。彼はすべての人に義の種を蒔いたにもかかわらず裏切られました。しかし彼は態度を変えなかったのです。彼には神から受けた愛の余剰があったのです。もし今あなたが困難にあっているならば、今できることは義の種を蒔くことです。

 

妻の父親は、彼女が11歳のときに家族を捨てて出て行きました。妻が26歳の時、神が妻に父親を捜しなさいと言われました。彼女は「主よ、それは反対ではありませんか。父が私を捨てたのです。彼が私を捜しにくるべきです。」と言いました。しかし主は「違います。あなたはイエスの歩んだ道を歩むのです。イエスがあなたに罪を犯したのではなく、あなたがイエスに罪を犯しましたが、イエスはあなたを捜しに来てくださったでしょう。さあ、あなたのお父さんを捜し出し、和解をしなさい。」と言われました。あなたがある人間関係で痛みを持ったならば、癒しもまたその人間関係の修復から来るのです。

 

つながる愛

 

ですから4つのことはすべてつながっています。あなたはまず神から愛を受けます。そしてその愛で神を心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛すことができます。あなたは神が与えてくださる愛で自分を愛することを学び、その愛の余剰で(神はいつも有り余る愛を私たちに下さいます)自分を愛するように隣人を愛することができるのです。これが順序です。

 

よく聞いてください。あなたが神から与えられた有り余る愛の余剰で隣人を愛する時、その人は神の愛を生まれて初めて受けたのかもしれません。そしてその人は神を愛することを学び、自分を愛することを学び、神から受けた余剰の愛で次に他の人を愛することが出来るのです。

 

神からの愛を受けるというと、私たちは祈りの部屋に入ってワーシップ・ミュージックを流し、「ああ、主よ、私は今あなたの愛を受けるためにここにおります。」と言うことだと考えてしまいます。しかし、神の愛を経験する最高の方法は、人々の中に入り、自分をオープンにして人々があなたを愛することを許すことです。

 

祈り ー「主よ、今あなたの愛を私たちに顕してください。すべての壁を打ち砕だいて、人々と交わることができますように。ある者は主が自分に失望しておられると信じ込んでいます。自分は主にとって十分な人間ではないと信じ込んでいます。ある人たちはまだ園の茂みに隠れています。あなたが来られる足音を聞いて隠れるのです。そしてあなたの愛を感じないと言って泣き出します。

主よ、今日私たちが隠れていた所から出て行けるようにして下さいと祈ります。自分が痛みの中にある時も、人々の中に入ることができますように。癒しは一人になった時に起るのではなく、人々との交わりの中で起ることを教えて下さい。あなたの愛を反射するものとして下さい。今まで無私の愛で愛することが少なかったことを告白致します。多くの場合私は自己中心でありました。しかし、主よ、今私は兄弟姉妹の前で決意します。私はあなたが私を愛して下さったような無私の愛で人々を愛すために、あなたの愛を受け取り、あなたに拠り頼みます。見返りを求めないで与えることを、惜しみなく受けたように惜しみなく与えるように。私たちは教会として、この心を受け取ります。傷つくことを恐れないでお互いに心を開き、まことのぶどうの木につながって、あなたが計画されたような教会となりますように。あなたの祝福がすべての人にありますように。主の御名によって祈ります。アーメン」(終り)


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