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20 1月

創造者の神とは(仮題)      坂  達 也         2016年1月20日


創造者の神とは(仮題)

                        坂  達 也

 

 先週書きました通り、私は今「創造者の神」に関する本を書いておりますが、それをマルコーシュ出版のご好意でハーザー誌に少なくとも最初の部分を今年の1月号から連載させていただいております。ついては私が何を書こうとしているのかを皆様に知っていただくために、今回ハーザー誌とは少し違う元々の原稿の一部を下記の通りご紹介させていただきますのでご高覧ください。この原稿は元々ノン・クリスチャン向けに書き始めたのですが、クリスチャンの皆様にこそ知っていただきたい、それによって信仰の励ましとなると信じます。ぜひこの本の完成のためにお祈り下されば幸いです。

 

序章 宇宙の存在と人間

 

 人間の科学がこの三-四百年の間にめざましく発展して来たことを否定する人はいません。しかしその発展の意味するところを冷静に考えてみたいと思います。

 第一に言えることは、人間の科学研究と称するものの大半は、元々既に存在していた宇宙天体とか、特に地球とそこに生息する動植物がどのように造られているかを先ず理解することに費やされて来たという事実です。しかもこれだけ長時間を掛けた研究調査の結果がどうかと言えば、人間の科学では未だに不明でよく分からない部分がまだまだ多いと言う事実です。

 

 その一例として先ず生物学の分野を覗いてみましょう。植物は、元々人間がいるいないに関係なく、小さな種が地に落ちて、条件さえよければ勝手に芽を出し、成長して行きます。一方動物も、それぞれに特有の生殖機能によって新しい命が生まれ、自分で皆食物を探して食べながら勝手に育って行きます。又人間を例にとれば、我々が寝ていようと起きていようと、意識しようとしまいと、勝手に息をし、勝手に新陳代謝をしながら、生きています。このような事実はどう考えても「奇跡」としか言いようが無いほど実に巧妙に出来ていると思いませんか。なぜなら、人間の科学では、未だに一番下等動物のアメーバすら造れないのですから。

 次に宇宙物理学の部門を取り上げてみます。数年前に、村山斉と言う第一線で活躍されている物理学者が書かれた「宇宙は何でできているのか」と言う著書を読んで驚いたのですが、この宇宙を構成する物質の96%は原子以外のものから出来ていて、未だそれが何で出来ているのか、その正体が不明なのだそうです。但しその正体不明の「もの」に名前だけは付けられていて、「暗黒物質」と呼ばれるものが全体の23%、それに「暗黒エネルギー」と命名されているものが73%あるそうです。(村山斉著「宇宙は何でできているのか―素粒子物理学で解く宇宙の謎―」ページ44-45)

 つまり、この「暗黒何がし」が何であるかは分からなくても、それが「ある」ことだけは分かっているそうです。これが最先端を行く宇宙物理学の現状であるようです。昔、寺田寅彦と言う人が「物理学は、結局世界中にどれだけ分からない事があるかを学ぶ学問である」と言い残したそうですが、よく言えていると思いませんか。

 

 それはともかくとして、私たちの住む宇宙はマクロ的に見れば、想像を絶する程大きいのに、それがミクロ的に見れば、測定不可能な程極小な粒子が無限に集まって構成されていると言うのです。数字で言えば、マクロの世界は、宇宙の大きさが現在観測出来る範囲で10の27乗メートル(1兆X1兆X1千メートル)です。その世界が無限に小さい10のマイナス35乗の極小の色々な種類の粒(素粒子)が組み合わさって出来ていると言われます。私はこのような微に入り、細に入る精密なミクロの世界の仕組みを知れば知る程、そこに高度な知性とデザイン性を認めずにはおられません。しかもそのミクロの世界を構成するすべての素粒子には「意識」があり、「意志」を持つと言うのですから驚嘆せずにはおられないのです。

 

 これだけでも分かれば人間の科学は、確かに大変な進歩を遂げているように見えます。しかし一方で、この宇宙全体が元々人間の意志と無関係に存在し活動していることに気が付かされます。それでいて実に不思議なのは、ほとんどの人はそれを当たり前のこととして、我がもの顔で生きているという事実です。この「当たり前のように生きている」こと自体が、少々おかしな話ではないでしょうか。

 人間が自分で造った生き物は一つもなく、本来自分のものと言へるものは、自分自身も含めて何一つ無いのです。とどのつまり、私たちはこの地球という、本来は誰か他人が所有する土地に、どうも勝手に住んでいるのではないかーそれを突き詰めれば、この宇宙全体は一体誰のものなのが問題になって来ます。さらに厳密に言えば、我々人間は地球の上に、たまたま「存在させられ」、誰かの意志で「生かされている」のかもしれないのです。

又、物理学的な見地からこの宇宙を見回してみましょう。私たちの住む大自然はとてつもなく膨大で、しかも微の世界の細部まで実に精巧・精密に出来ているだけでなく、それらが曲がりなりにも調和と秩序を持って共存・生存しているのです。そうであるなら、この宇宙の全存在が「誰かの意志で造られ、生かされている」ものであることを認めないとしたら、一体人間は科学者と言えるのでしょうか ― 正直にぶちまけた話、それが私の昔からの疑問でした。

 

 しかし、誤解しないで下さい。私は宇宙がどうして始まり、どうして出来たかを扱う物理学に昔から興味を持って来て、そのような分野で貢献して来た物理学者には今でも大いに敬意を払っている積もりです。何故なら、後述する量子論のように難解極まりない理論であっても、この「分けの分からない理屈」のお陰で、現代のコンピューターを始めとする多くの最新電子機器が生み出され、世の中がもの凄く便利になったからです。

 就いては、先程、宇宙には未だ正体不明なものが「暗黒物質」を含んで96%もあると書きましたが、誤解がないように、村山博士の次のようなコメントをご覧いただきたいと思います。

 氏は「『宇宙にはまだまだ謎がたくさんある』ということを知っておいてください。20世紀の終わりから21世紀の初めにかけて、これだけ『わからないことがある』とわかったこと自体が、現代物理学の成果であり、大きな前進なのです。」と書いておられます。

 

宇宙は人間が存在出来るようにつくられているー人間原理

 

 村山博士は、氏の著書『宇宙はなぜこんなにうまくできているか』で「宇宙は人間が存在できるようにつくられている」(175頁)と言われます。

 「様々な物理法則をあらためて見直すと、宇宙に人間が生まれるための条件が揃いすぎているように感じるのです。単純な話、たとえば重力の強さがちょっと違うだけで、太陽と地球の距離は今とは異なるでしょう。太陽にちょっと近ければ水は水蒸気になり、ちょっと遠ければ凍ってしまいますから、そこには生命体は生まれません。・・・それ以外にも、定数をちょっと変えるだけで星も生命も生まれなくなる現象は少なくありません。電磁気力や強い力がほんの少し弱かったり強かったりするだけで、この世はまったく違う様相を呈するのです。しかし現実には、どの法則も星や人間が生まれるのに「ちょうどよく」出来ています。・・・これはやはり不思議なことでしょう。どう考えても人間が誕生しない可能性のほうが高いのに、私たちはこうして存在している。偶然にしてはできすぎです。・・・「ではなぜ人間が存在するようにつくられたのか?」という疑問が出てきて当然でしょう。それを説明しようと思ったら、神様を持ち出すのがいちばん手っ取り早くなってしまいます。人知を超えた超越的な存在が、人間をこしらえるためにちょうどよく宇宙の法則を定めたのだーというわけです。そういう考え方も十分あり得ますが、これには科学者の出番はありません。」

 

 これは大変重要なコメントをされていると私は信じます。なぜなら、私がこの本を書いた最大の理由が、ヤーウエーなる神 God が真の創造者であることを私は聖書を引用し、それが物理学者を中心とした科学者の皆さんによっていつか裏付けしていただけると信じるからです。事実、現代の量子力学がもうその域に近づきつつあると私は確信します。と言うより創造者の神自身が人間に、特に多くの分野におられる科学者の皆さんに今、知識として明らかにされるように思います。

 

 又、参考文献の一つとして、イギリスの天文物理学者 John Gribbin による「宇宙で唯一 Alone in the  Universe 」をお薦めします。著者は、その序文で「それが神の手によるものかどうかは別にして、地球に住む私たちだけが、この宇宙で最も技術的に進んだ文明を持ち、宇宙の発祥とその特質を理解する上での唯一の証人であることを意味しています。・・・銀河系にある何千億個の星の中で、唯一地球だけが、高い知能の文明の保持者であり、その意味で地球は特別の惑星である理由を私はこの本で述べたいと思います。」と書いています。

 確かにこれだけ観測技術が発達した現在でも、未だに地球のように高等生物が棲息していると思われる他の星は見つかっていません。

 聖書には、この宇宙を創造したのはすべて人間のためであり、人間は将来神の住む高次元の「霊の領域」で、永遠に神の子として、神と共に住むことが最終目標であると書かれており、それについて詳しくお伝えするのが本書の目的です。

 

進化論について

 

  世の中には科学的マインドを持ち、頭が切れ、ものを深く考えることの出来る人たちが大勢います。それにもかかわらず、なぜ総ての生き物は原生動物のアメーバの様なものから何億年もかかって今の生き物に進化したと言う「創造者抜きの進化論」を信じている人が多いのでしょうか。

 ダーウイン以降発展して来た「進化論」を、私は科学的考察でないと言っているのではありません。何故なら「創造者はいない」「元々創造されたものはない」と言うことを、結論ではなく、あくまでも前提として「進化論」が出発して来たように私は思うからです。その前提で「創造者の神がいない」ことを懸命に論証しようとしている点、それは立派な「科学的態度」であることを私は認めたいと思います。同じことが物理学者にも言えます。多くの優秀な宇宙とか素粒子を専攻されている物理学者が「創造者抜きで」元々何もないところから自然発生的に宇宙が出来、人間が生まれた可能性を真摯に研究され続けておられることに私は頭が下がりますし、心から敬意を表します。

 ところで進化論の定義そのものも「進化」していることに私は気が付きました。ダーウインの「種の起源」が発評されてから既に150年以上経ちますが、フリー百科事典ウィキペディアによれば、「現代的な進化論は単一の理論ではない。それは適応、種分化、遺伝的浮動など進化の様々な現象を説明し予測する多くの理論の総称である。生物で言う進化には、進歩する、前進する、より良くなるなどの意味はない。」と書かれていることにご留意下さい。もっともこの「ウィキペディア」の定義そのものもどんどん変わって来ていることにも私は気が付きました。

 もう一つだけ申し上げれば、科学には全くの素人ですが、私は昔から 一つの疑問を持って来ました。それは「自然の成り行きだけでは、無秩序(カオス)から秩序は決して生まれない。」と言う真理(エントロピーの法則)と進化論が相容れないのではないかと言う疑問です。

 

この宇宙には「知性」と「デザイン性」がある

 

 私は、この宇宙の全ての存在と構成に「知性」と「デザイン性」を認めざるを得ません。そうであれば正直なところ、知性は知性を持つ者が存在することを示し、デザインはデザイナーによって考案されていると素直に思いたいのです。

 この話は三十年も前にアーサー・カスタンス氏の本で読んだものですが、氏は、この美しい大自然の中で、生き物が元来どれほどうまく共存しているかに注目しています。

 彼はその一つとして、ワニとワニチドリと言う小さな鳥との共存友好関係を指摘しています。ワニには歯茎に寄生虫がわくそうですが、それに悩まされるようになると、ワニは陸に上がって奇妙な鳴き声を立てます。するとそれが合図なのか、ワニチドリが飛んできてワニの口の前に降り立つ。するとワニは大きな口を開き、鳥が中に入るとやさしく口を閉じる。中に閉じ込められた鳥は寄生虫とか歯の間に挟まった食物と言うご馳走を食べ、終わると口中の壁をこつこつと叩いて仕事が終わったことを知らせます。するとワニは美味しい小鳥をそのまま食べてしまいたいのを我慢して、口を開いて小鳥を出してやるそうです。これは動物同士の相互扶助、共存共栄の例であると言います。

 考えてみれば、これは実に奇異なことではないでしょうか。動物たちの通常「食うか、食われるか」の世界に、このような「共存共栄」が存在すると言うこと事態に、私は誰かが意識してそれぞれ違う動物を造った「デザイン性」を見ない訳にはいかないと思うのです。

 私は、長い間アメリカでも特に大自然が美しいキャスケード山脈に近いオレゴン州に住んでいました。趣味がフライ・フィッシングなので、特に魚については関心が深いのですが、極寒で魚が凍死したと言う話は聞いたことがありません。魚には水が絶対に必要です。実はご存知のようにその水が最高の冷暖房装置の役目を果たしているのです。

 水は外気が氷点下以下に冷えると氷に変化します。しかし、その表面の氷の下では水温が通常摂氏4度以下には下がらないそうです。これによって水中の生き物は、外が零下何十度と言う吹きさらしの厳しい環境であってもそれから保護されます。又,夏になるとかなり暑い日でも,湖には冷たい清流が川から流れ込んで冷やします。水中の魚は温度の冷たい底の方に移動し,自分の好きな温度の深さで快適に過ごせる。どんなに暑い日でも底の方に行けば、最高12度ぐらいまでで、それ以上は暑くなりません。

 これは何とすばらしい仕組みでありましょうか。生き物で水を必要としないものは一つもない。その水がどれほどうまく機能するように造られているか、本当に驚嘆せざるを得ません。上に挙げた二つの例を見ても、この大自然が誰か超人間的な思慮深さを持つ設計者の手によって造られていると思わざるを得ません。

 考えてみて下さい。人間ほど「創造」すること、つまりものを発明したり、創り出すことの好きな動物は他にいません。それに、人間なら誰しも、新緑に輝く野山を歩く時、きれいに晴れ上がった夜空を眺める時、生けられた一輪の清楚な花を閑静な茶室で眺める時、それを美しいと思わない人はいないと思います。詩人とか絵描きだけではない。どんなに忙しいビジネスマンでも「美しさ」を求め、美しいものを愛さない人がいるでしょうか。自分の人生を、家庭を美しく良いものに作り上げて行こうと思わない人はいないと思います。

 その意味で人間は皆、美を愛し、芸術を愛し、人の創作を尊重します。それが証拠に、人間は一枚の絵に何千万円も出したり、小説が何百万部も売れて、その本が面白いからと言って徹夜で読んだりします。そして映画・演劇に、又音楽の演奏会に熱心に通う人が大勢います。総ての動物の中で人間だけがそのような素晴らしい「芸術性」を持っていると言う事自体が、私には大変興味深いことのように思えます。

 何故かと言えば、聖書が言うように、もし人間が「神と言う創造者自身に似せて造られた」神の最高の被造物(作品)であるのなら、我々人間が創造を好むことに何ら不思議はないからです。第一、創造する者でなければ、創造が何であるかすら分からないはずです。まして創造者が存在することが考えられるのも、自分が創造者の端くれであるからではないでしょうか。この事実は、宇宙を造った「創造者」が存在する有力な証拠の一つのように思えてなりません。・・・・以上です。(終り)


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