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19 12月

終末の艱難時代が目前に迫る(2)               坂  達 也        2014年12月19日


 

終末の艱難時代が目前に迫る(2)

 

              坂  達 也

 

未だ(1)をお読みでない方は、ぜひ数日前に載せました(1)から先にお読み下さい。

 

さて、ここで黙示録7:9をご覧ください。「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」と書かれています。ここに出てくる「大群衆」の解釈は色々あるようですが、一つだけ確かなことは、後の7:14で「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって・・・」と説明されていますから、数えきれない程のクリスチャンが大艱難を通ることは間違いありません。

大艱難を通って来たこの大群衆は、白い衣(聖さを表す祭司の衣)を着てしゅろの枝を手に持っていました。しゅろの枝は喜びと勝利を象徴します。ロバに乗ってエルサレムに入場したキリストを群衆がしゅろの枝を持つて喜び迎えたこと(ヨハネ12:13)、そして仮庵の祭りでしゅろの枝などを飾って秋の収穫を祝うことが思い起こされます。この大群衆は異邦人から集められた一大ハーベスト(大収穫=リバイバル)を象徴するのかもわかりません。あるいは14:13で「『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。・・・』」と書かれていますから、もの凄い数の殉教者かもしれません。

 

黙示録ではクリスチャンは原則的には「神の怒りの災害」からは守られますが、中には悪魔/反キリスト軍によって殺される人たちも出てくることがはっきりと書かれております。その例が6:9−11とか14:13です。

6:9には「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。」又、その後6:11で「すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、『彼らと同じく殺されようとするしもべ仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と言い渡された。」と説明されていますから、世の終わりには大勢のクリスチャン殉教者が出ることも間違いありません。

しかし、私たちはそれにひるんではならないのです。なぜならイエスご自身が訓練された初代の使徒、弟子たちは、パウロも含めて、皆キリストの後を追って殉教することを望み、喜んで処刑されて死んで行ったではありませんか。殉教の死を遂げることはクリスチャンにとって最高の栄誉であり喜びであるのです。

 

獣の名の刻印

 

私たちクリスチャンの信仰はこれからいよいよ徹底的に試されます。はっきり申し上げて「なまぬるい信仰」しか持っていない者は、主によってその化けの皮が完全に剥がされる時が来るでしょう。黙示録13:15−17にこう書いてあります。

「・・・その獣の像を拝まない者を皆殺させた。また、・・・すべての人々にその右の手かその額かに刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、誰も買うことも、売ることもできないようにした。」

ご存知のように、ここに出て来る獣とは、世界を統一する程強大な政治権力者であり、その獣がやがて世界中の個人財産を支配し、すべての人に何らかのクレジットシステムの刻印を受けさせ、それがなければ誰も物の売買が出来なくなると考えられます。そして聖書にはこの悪魔の刻印を受ける者はたとえクリスチャンであっても、永遠の地獄の苦しみを受けると明確に書かれています。(14:9−12)これがこの世を支配する悪魔の究極の野望であり、神はこうなることを許されるのです。

現在の世界通貨は曲がりなりにもアメリカのドルがその役目を果たしていますが、アメリカの国力とドルの価値が凋落の一途をたどる現在、既にドルに替わる通貨が現実に検討されておりますから、ここまで発展する可能性は十分にあります。そしてこの事態に至れば、すべてのクリスチャンの信仰は、昔起こった「キリシタンの踏み絵」と同じように、神に付くか悪魔に付くか、白か黒かがはっきり問われるのです。

「私は神をそこそこ信じているので、地獄に行かずに、天国の片隅にさえ入れてもらえるならそれで満足ですよ。」と冗談まじりに言うクリスチャンがこの世の中には大勢いることを私は知っております。残念ですが、そのような信仰のクリスチャンが踏み絵の前に立たされたら、恐らく多くの人が「刻印がなければ食べることも出来ないのなら神様は大目に見て下さるでしょ。」と言って、安易に刻印を受けてしまうのではないでしょうか。そうならないためには、今から真剣に神を畏れ、神だけを頼り、すべてを委ねる信仰の訓練が必要であると信じます。主は天からマナを降らせ、必要に応じて一人分の昼食を何千人分に増やされる神です。

 

勝利を得る者は・・・」

 

数日前のある朝、私は主からいきなり「黙示録を一度何も詮索しないで通読して見なさい。」と言われましたのでそうしました。すると今までは「ここはどう解釈するのか」と言う疑問に引っかかってその疑問のことだけが頭に残って終るのですが、今回通読してみて初めて、黙示録に書かれているメッセージの全体像が見えて来ました。細かい事は抜きにして、主が本気で望んでおられることは、私たちの信仰が「黒ではない、全くピュアーな白になる」ことです。ですから主は私たちが「勝利を得る者」になることをしつこいように言われるのです。

勝利を得る者とは英語で overcomer です。それは敵とその一切の悪に打ち勝つだけではなく、自分の自己中心的な生き方、愛の少なさにも打ち勝つことです。主は黙示録の最初で、七つの教会にそれぞれのメッセージを伝えました。その際に主が指摘する叱責の言葉は、一見非常に厳しいようですが、その実、それを悔い改め忠実に守ろうとする者にとっては、ポジティブな励ましの言葉であることに私は気が付きました。

そして主は、各教会に「勝利を得る者は・・・」とくりかえし言われ、勝利する者には、それぞれに違うすばらしい約束をされました。最初の教会エペソの人たちには「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」、次のスミルナの教会には「けっして第二の死によってそこなわれない」、ペルガモの教会には「隠れたマナを与える。」、テアテラの教会には「最後までわたしのわざを守る者には諸国の民を支配する権威を与えよう。」、サルデスの教会には「白い衣を着てわたしとともに歩く。」、フィラデルフィヤの教会には「わたしの神の聖所の柱としよう。・・・新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」、そして最後のラオデキヤの教会へは「わたしと共にわたしの座に着かせよう。」と申し渡されたのです。

この七つの教会へのメッセージは私たち終末の教会全体に宛てられた主からのメッセージであると私は信じます。

 

又、黙示録1:3に「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」と書かれています。この書には、上記の言葉に続いて、他に6カ所で「・・・幸いである。」と言う祝福のことばが出て来ます。

確かにこの黙示録は恐ろしいさばきの書です。しかし何度でもくりかえしますが、神に忠実な者でありたいと心から願う者にとっては、むしろやる気と勇気がいただける、大変大きな祝福の書であるのです。なぜなら、本当に真剣にそれを望む者を神は決して見放しません。必ず助けて下さる神であるからです。

 

ヨシュア記と黙示録

 

モーセの後を継いだヨシュアは、イスラエルの民を引率してヨルダン川を渡り、約束の地に入りました。そして、そこに住む敵と戦って多くを「聖絶」し、その地をイスラエルの各部族に相続地として分け与えました。

一方終末の教会である私たちも、今既に霊的にヨルダン川を渡ったか、あるいは渡る直前に来ております。究極の目標は、この世を、そこに住む住人を含むすべてのものを「聖別」し「永遠のキリストの王国」を打ち立てることにあります。そのために今、私たちはそれぞれが受けた約束の地において敵を完全に「聖絶」する仕事に取り掛かっているのです。

 

一昨日の朝、再び主は私に今度は「ヨシュア記」を読みなさいと言われました。そこで読み進みながら改めて気がつかされたことは、約束の地に入ってすべての事をなさったのは主ご自身であることです。先ず洪水時期のヨルダン川の急流をせき止め、民を渡らせました。次に最初の敵であるエリコの堅固な城壁を崩れ落させ、この町をイスラエルの手に渡しました。又、ギブオンでは太陽を天の真上で丸一日停止させました。これらはすべて前代未聞の神にしか起こせない大奇跡です。そして神ご自身が戦って敵をことごとく民の手に渡されたのです。それによって主は民に「敵を聖絶する」とはどう言うことかを徹底的に教えました。特にエリコに大勝利した後、小さな部落アイで敗れたこと、その敗れた理由を私たちは教訓として肝に銘ずべきです。

 

一方、終末における私たちの戦いもまさにその通りであることが黙示録を見ればよく分かります。私たちは戦いに参加しますが、本当に戦われるのはすべて主ご自身です。それが神のやり方であるのです。この世の中から敵を完全に聖絶・駆逐し、そこに住む主の民を聖別して「真の神の民」となるように聖めるのはすべて神がなさるのです。

そうであれば、私たちは一体何をすればよいのでしょうか。それは「主の御声によく聞き従い、主のすべての命令を守り行う」ことです。(申名命記28:1その他)それが出来なかったゆえに、モーセに率いられてエジプトを出て来た初代のイスラエル人は、荒野を40年間さまよった後に、約束の地を見ることすら出来ずに荒野で死に絶えたのです。そのことがヨシュア記5:6に書かれています。

これは1コリント10:11に「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれていることを私たちは十分にこころすべきです。これは聖書の教えの中の最も重要な教えであることを、私たちは決して忘れてはならないと思います。

最後にもう一つ、主がヨシュアに言われた次のことばも、これからの私たちにとって最も必要とする御言葉です。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)

 

終末の艱難時代を迎える私たちに、主がこの難解と言われる「黙示録」を与えられたことの意味を、今私はひしひしと感じております。大艱難を通らせるという最後の「弟子訓練」(これは最後の総仕上げです)は、「踏み絵を踏むか踏まないか」に代表されるような熾烈な試練を受けるのです。もう一度申し上げます。最後の時代に生きるクリスチャンは人間史上最も恐ろしい経験と試練の中を通されます。しかし、だから、主は言われるのです。「恐れるな。強くあれ。」と。そして「わたしがついているのだから。」と励まされます。

真の神への信仰とは「クリスチャンは主の御声に聞き従ってさえいれば、その結果殺されようが、どんなに苦しめられようが、どう転んでも、絶対に損はない。むしろ苦労の中を通れば通る程、祝福は大きい」というものです。ですから、リック•ジョイナー師が天国で聞いて来たと言われるように、既に天に召されている信仰の先輩たちは皆、この最後の時代に生きる私たちが「うらやましい」と言い、固唾をのんで私たちを見守り、祈ってくれているのです。(終わり)


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