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Walk With God Ministries

20 6月

輝く聖さ    フランシス・フランジペイン           2017年6月20日


輝く聖さ

 

フランシス・フランジペイン

 

 

キリストが私たちの内に入られた瞬間から、私たちは聖いもの(holy)、神のために選り分けられたものとなりました。この種の「聖さholiness」は、神殿で用いられる器具が持つ「聖さ」と同じであり、それは主のために用いられる故に聖いのです。器具自体にはなんの徳もありません。材質が変化したのでもありません。主に仕えるという意味において、キリスト教は「聖い」と言えるでしょう。しかし私たちが追い求める聖さは、ただ「選り分たれている」というだけではなく、そのような者として成熟し完成することです。私たちが求めるのは、天の御父の臨在が自分を通して映しだされるような聖さです。私たちは御父のご性質とその素晴らしいいのちの両方を追い求めているのです。

 

真の聖さは、私たちの内に聖霊のいのちを実際に生み出すものですから、聖霊がどのようなお方であるかをまずはっきりと知る必要があります。神の御霊は愛であり、宗教ではありません。神はいのちであり、儀式ではありません。聖霊は、私たちが異言を語ったり証しできるようにするだけではありません。聖霊は私たちをイエスの御前、イエスの臨在へと導いてくださるのです。そこにおいて私たちはイエス・キリストと結び合わされ交わることによって聖さを受けとるのです。

繰り返しますが、私たちが求める聖さとは、一連の規則や律法を守るということではなく、キリストご自身が持っておられる素晴らしいいのちです。聖霊は私たちの内に働いて、私たちがもっと人を愛したいという新たな願いを起こさせるだけではなく、まさにキリストご自身の愛を私たちに分与してくださるのです。私たちは普通に言うところの「イエスを信じる信仰」以上のものを持ち始めます。私たちは、実にイエスが持たれる信仰のレベルと質をもって、イエスと同じように信じ始めるのです。私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神です。小さな止まり木に満足気に心地よく座っていた私たちを揺すぶり振り落としてもらいましょう。そうすれば私たちは大きなおののきと大きな喜び、深い礼拝と聖なる畏れをもって、ご自分の意志と目的のために私たちを引き寄せてくださった神のリアリティーへと近づくことができるのです。

 

第1コリント3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とあります。神の御霊が私たちのうちに住んでおられるのです。これに照らし合わせて、古からの「人とは何者なのか?」という問いかけを再び考えてみようではありませんか。私たちは自分が他の人々にどのように映っているかは分かっています。でも、もし神が本当に私たちの内におられるならば、天使や悪霊にはどのように映っているのでしょうか? 霊の世界で私たちはどのような光を放っているのでしょうか?

私たちの周りはどのような色の輝きがあるのでしょうか?

目に見えない霊の世界に向かって、「見て心せよ。神の子が今ここに来た。」と布告するのはどのような栄光の輝きなのでしょうか?

考えてみて下さい。初めに創造主はご自分の姿に似せて人を造ろうと思われたましたが、そのお方の御霊があなたの内に、今、おられるのです。

 

「聖さ」とは光に満ちたからだ

 

聖くなるためには制限があります。条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。光と闇に、罪と義に、自分と神に、同時に仕えることはできません。光があなたの内にあります。しかし闇も又、あるのです。私たちの世界は暗やみの世界です。私たちの先祖は暗やみの子らでした。私たちの肉の思いは、いまだに暗やみが活躍する舞台になっています。選択を迫られる世界で私たちは光を選び取らねばなりません。「光の大人として完全に成熟したいならば、誠実で二心のない者でなければならない」とイエスが教えられた理由がここにあります。「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全(純真 誠実 二心がない)なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と主は言われました。

 

もしあなたが自分の意志と思いを神に集中するならば、あなたの全身は光で満ち、あなたの内におられる神の栄光を完全に表すことができるのです。しかし、もしあなたに二心があり、罪や悪の思いに留まり続けるならば、あなたの光は徐々に暗くなり、遂には暗やみで満ちてしまいます。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。

 

自分の救いに関して何もせず、神を求めず、神に従うことを拒否するならば、あなたは闇の中にいるのです。「まあ、いつか自分は何となくそれなりに良くなっていくだろう」というような、当ての無い希望で自分を慰めるのをやめてください。決意という武具で身を固めてください!

もしあなたの光が闇の中に埋もれているとしたら、その闇はどんなにか恐ろしいことでしょう。光の子たちよ、あなたがたは闇を憎まねばなりません!闇は地獄の実体です。それは神の存在しない世界なのです!

 

しかし、私たちの望みは闇ではなく光です。あなたの足は義人の道を歩いています。その道はますます輝きを増して真昼のようになるのです。ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この節は「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、私たちのからだはあかりが輝くように栄光で輝くのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのです。

霊的に成熟した者、あるいは神の聖者のためには、光と栄光に輝く衣が用意されているのです。それは変貌の山でイエスが着ていた衣と同じものです!それは永遠の中でだけまとう輝きではなく、今ここで、即ち「曲がった邪悪な世代のただ中で」「世の光として輝く」ことです。(ピリピ 2:15、16)

 

エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」

今、あなたは光のこどもです。これは単なる比喩ではありません。神の栄光があなたの内とあなたの周りにあるのです。それが霊的なリアリティーです!

ではあなたのうちにまだ残っている暗やみはどうなるのでしょうか? パウロを続けて言っています。

エペソ5:11、13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい...けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」

 

あなたの暗やみを隠さないで、明るみに出してください。暗やみの言い訳をしないで、告白してください。憎んでください。断ち切ってください。なぜならば、暗やみがそのまま闇の中に留まっている限り、それはあなたを支配するからです。しかし暗やみを光の中に持ち出すならば、それは光となります。今まで隠していた罪を持って神の恵みの御座に大胆に進み告白するならば、神はすべての罪からあなたをきよめてくださるのです。(第一ヨハネ1:9)あなたがもし再び罪を犯すならば、また悔い改めてください。あなたの中で罪の習慣がなくなるまで何度でも悔い改めてください。

 

昔鉱山の山元がしたように、あなたは神の御国でしっかりと自分の領域に杭を打ち、あなたが権利を有する天国の純金を守る備えをせねばなりません。(黙示3:18参照)

そしてあなたが恵みの御座の前にずっと留まり続ける時、炉の上の熱い石炭のように、何か永遠なるものがあなたの中で輝き始めます。そしてあなたが全能の神と時を過ごすとき、神の臨在の聖なる火が、あなたの今までの人生の木やわら、草を焼き尽くすでしょう。イエスが持っておられたような力があなたの一番奥深い部分に宿るでしょう。天使たちは畏敬の念をもって見守り、あなたの金は精錬され、あなたの衣は光となり、あなたの人生は聖くなります。(終り)


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