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29 6月

家族で祈ることの大切さ        坂 達也           2015年6月29日


家族で祈ることの大切さ

 

坂 達也

 

 

 今は既に患難時代に入っていることを、最近ひしひしと感じておられる方は私だけではないと思います。

 そこで皆さんの中で、最近、色々なことで物事がうまく行かない、身体の具合も不調、家庭、或は仕事場で不和、争いごとが絶えない、些細なことから大きなこと迄、どちらを向いても道がふさがれ、障碍に出会う、まるで困難が待ち構えているようだ、悪魔の嫌がらせとしか思えない、と言うような苛立ちを憶えておられる方はおられませんか。

 いや、以上のようなことは患難のうちに入らないことかもかもしれません。ヘブル10:32−34には、一世紀のユダヤ人で真の光であるキリストを知った人たちが、その後どれ程の患難・苦難の中を通されたか、しかし彼らがそれを喜んで耐え忍んだことが書かれています。そのことをヘブル人への手紙の筆者は「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦い耐えた初めのころを思い起こしなさい。」と言います。彼らは人前でそしりと苦しみを受け、自分の財産まで奪われても喜んで忍んだのです。35、36節に「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」と書かれています。

 はっきり申し上げて、クリスチャンがそのような患難を通るー主によって通されるーのは、主の御心であることは聖書の色々なところに書かれています。ロマ書5:3、4には「・・・患難忍耐を生み出し、忍耐が練 られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す・・」とあり、

又、ヤコブ書1:2ー4には「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じる・・・この忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。・・」とありますから、クリスチャンが患難を通ることの意義と目的はここで明白です。

これこそ、私たち終末に生きるレムナント・クリスチャンが覚悟すべき最も重要な信仰の心構えであると信じます。

 

 終末には大リバイバルが来ると言われますが、最後の時は、私たちレムナントが先ず「初めの愛」すなわち「初めの熱烈な主への信仰」に帰り、リバイブされねばならない時ではないでしょうか。その目的は私たちが最終的に主にあって「勝利を得る者」になるためです。

 黙示録2、3と21章には「勝利を得る者 overcomer 」と言うことばが数度出て来ます。1ヨハネ5:4−5がその「勝利者」とはどのようなクリスチャンであるかを説明してくれています。「神によって生まれた者はみな、世に打ち勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に打ち勝つものとはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

 しかしそれをよく知っている悪魔は、終りの時が迫っている今、必死になって私たちの信仰を弱め、挫折させようとしています。主はそれをよくご存知です。主に「見込まれて favor を受けている」方であればあるほど、あなたは徹底的に敵にマークされ、敵はこれでもかこれでもかと攻撃の手を緩めません。

 

 そのような時に、私たちが取るべき最も効果的な「勝利の手段」とは何でしょうか。私にとってそれは、たとえどんな困難に襲われても「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて主に感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16−18)であることを最近改めて発見しました。患難を絶対に恐れてはならないのです。

 クリスチャンとは初めからキリストにあって「圧倒的勝利者」であるからです。だからこそ悪魔はあらゆる手段と機会を用いてあなたを惑わし、恐れさせ、あなたの信仰をゆさぶります。私たちは一度主を信じたら、たとえ死に至るような罠を敵が仕掛けて来ても「死に至る迄忠実でありなさい、そうすればいのちの冠を与えよう」と主は言われます。私はこのところ色々な患難を憶えておりますが、上記1テサロニケのみ言葉を実行して勝利の喜びを経験しております。

 

夫婦で毎日祈る

 

 私たち夫婦は二人暮らしですが、もうかなり前から、就寝前に二人で声を出して、家族のメンバーのため、あるいは、友人で祈りを必要としている人々を憶えて祈ることを日課として来ました。多くの場合は5分とか10分で終わることが多かったのですが、最近ある時に二人で話し合った結果、夕食後の静まった時間に1時間かけて、二人で「激しく」祈ることをコミットし合いました。それを始めて既に2ヶ月以上続いております。一人が言葉で祈る時、一人は異言で祈ります。又、声を強めて二人で異言ではげしく祈ります。主が祈りを次から次へと私たちどちらかに与えて下さるのです。この夫婦の祈りをするようになって(それは上記1テサロニケ5:17「絶えず祈りなさい。」の実行の一部ですが)、二人で一致して祈れば何事でも必ず聞かれると言う下記のマタイに書かれているみ言葉がうそではないことを体験して本当に驚いております。

 

二人三人が心を一つにして祈るなら、

どんな願い事でも主は聞かれる

 

 マタイ18:19、20に「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(新共同訳)と言う非常にパワフルなみ言葉があります。

 

 先日6月8日に掲載したリック・ジョイナー師の「教会を建て上げ治める」(一)で、師は「私はずっと今までこの聖書箇所を『もし,2、3人という少人数でもイエスの名で集まるならば、そこに主が来て下さる。』という様に解釈していました。でも主は『それは違う。』と言われたのです。そして『もし2、3人以上いるならば、わたしはそこにはいかない。わたしは2人か3人以上はいらない。』と主は言われたのです。」と言っておられますが、私はこれはすごいことを言われると思いました。

 なるほど、神は「父と子」それに聖霊を加えて三人で完全な姿を成しておられるのですから、確かにそれ以上要りません。それに気が付かされ、師の言うことにうなずからざるを得ませんでした。そうであるなら主と私たちは「花婿」と「花嫁」の関係にあり、地上で私たち夫婦が一致して主に祈るなら、神と人間の関係の中で最も基本的で最も重要な「三人」の関係ではないでしょうか。

 私たちはこの夫婦の祈りが聞かれることを今現実に体験しており、ぜひとも皆様にお勧めします。親しい二人の兄弟、姉妹でも友人の関係でも勿論よいのです。

 

家族の関係を大事にする

 

 それに加えて、私たちが学ばなければならないことは人間関係であり、その中でも最も重要で特にクリスチャンが絶対におろそかにしてはならないのは、家族の関係です。1テモテ5:8に「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」とパウロは私たちに厳しく警告しています。家族のつながりがいかに大切であるか、私たちが先ず「家族の交わり」を重んじなければならないことがこれでよく分かります。

祈りにおいてもそうですね。

 これに関して最近よいお話に巡り会いました。私たちは以前によくこの方のメッセージを掲載しましたが、ビル・ヨントBill Yount 師の最近のお話の中で、彼は家族が集まって祈ることがいかに重要でいかにパワフルであるかに触れております。彼はたとえ家族の中に未信者がいても、未信者の祈りは聞かれないと思わずに、出来るだけその未信者も祈りの輪に加えて一緒に祈るように薦めています。彼は自分の家族の中の未信者に「あなたの祈りも聞かれるのだから一緒に祈って欲しい」と励まし薦め、実際にその人が家族一同の祈りに加わったそうです。その時、ヨント師はその未信者の上に聖霊がとまられ臨在されているのを見たと言うのです。そしてその人の祈りは実際に聞かれたそうです。

 ヨント師は二人、三人が集まる祈りの効果を同じマタイ18:19を引用すると共に、申命記 32:30にある「一人が千人を追い、二人が万人を追う・・・」と言うみ言葉を引用して、二人が心を合わせたら、あるいは家族が皆で祈ればどれほどパワフルな祈りとなるかを強調しておりました。

 家族で未信者の人がいても、その人を祈りに参加させることは、主が喜ばれるのです。例えば、その未信者本人が本当に困った問題を抱えているような時に、家族の祈りに加わるように励ますことによってその人と一緒に祈り、その祈りが聞かれたとなると、その人が主を信じるよい機会につながらないでしょうか。(終り)


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