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Walk With God Ministries

11 10月

ロバート・ダニエルズ夫妻の車と大型トラックとの衝突  坂  達 也    2017年10月11日


ロバート・ダニエルズ夫妻の車と大型トラックとの衝突

 

                 坂  達 也

 

 

 今回の日本旅行でお分ちした一つの奇跡のお話をご紹介します。

 

 これは私たちの教会があるオークランドの街で起こった話です。私たちの教会の牧師ベンジャミン・ロビンソン師の霊の父母といわれるロバート・ダニエルズ夫妻は非常に霊的なご夫婦ですが、その夫婦が約10年前のある日、ロバート師が運転し、その隣に奥様が座り、後ろの席には二人の友人を乗せて街の中を走っていました。四人を乗せた車がある交差点に差し掛かった時、横合いから一台の大型トレーラー・トラックが信号無視で猛烈なスピードで走って来るのに師は気が付かず、あっという間にトラックの横腹に衝突してしまいました。ところが驚いたことに、一瞬にしてロバート師の車はそのトラックを突き抜け、交差点を過ぎたところの安全な道路脇に停車していました。両方の車も人間も全く無傷で無事であったのです。

 彼にその時の様子を聞いてみたのですが、そのとき四人はしばらくの間呆然とし、黙ったまま瞬時のうちに何が起きたのかよく理解できない状態で過ごしたそうです。トラックは何事もなかったかのようにそのまま走り去りました。

 

 これは量子論現象の一つである「瞬間移動」に違いありません。聖書に書かれた例としては使徒8:39があります。ピリポが宦官にバプテズマを授けた後、主の霊が突然ピリポを取り去り、彼は隣町のアゾトに現れました。また、イエスが弟子たちと小舟で一瞬のうちに対岸に移動した話しも同じ瞬間移動の例です。それと、ブルース・アレン師の本で読んだのですが、広大なシベリヤ大陸で4つの教会を牧会していたある牧師は、毎週の聖日礼拝で、それぞれ500キロ以上も離れた場所にある4つの教会を一日で廻ったというお話です。なぜそんなことができるのでしょうか。

 

霊の世界と量子論

 

 この世に存在するあらゆる物質は、すべてその最小の構成物質である原子とか素粒子レベル(ミクロの領域)ではその大きさは無限に小さく、その量子の間隔は驚くほどすけすけで、全く空っぽといってよい程の空洞であるといわれます。原子の直径は10のマイナス10乗メートルといわれますが、その原子が更に小さな原子核とその周りを回る数個の電子で構成されています。その原子核は更に中性子、陽子、クオーク等の素粒子で構成されています。それらの素粒子の大きさは、物理学上で意味をなす最も小さな長さと言われるプランク長10のマイナス35乗メートル、あるいはそれ以下で、実質「大きさも質量もゼロ」として計算されます。しかもニュートリノと言う極微粒子に至っては、宇宙から大量に降り注いでいて、一秒間に何十兆個も人間の身体をするすると通り抜け、他の物質とはほとんど衝突しないそうです。

 

 この極小物質がどれ程小さくまばらに存在しているかを例えてみれば、原子一個の大きさが地球の大きさと仮定すると、その芯にある原子核の大きさは一つの野球場位の大きさに相当し、その原子核を構成する数個の素粒子の大きさは、野球のボール位と言われます。また、原子核の周りを廻っている何個かの電子もボールサイズであるといい、それ等が地球の表面を飛び廻っているーと形容される程、物質を構成する素粒子間の距離は全くのスケスケであると言うのです。

 

 一方人間一人を構成する原子の数は28桁の数字ー凡そ1兆X1,000兆になると言われ、そのミクロ的に見て天文学的に巨大な人間の身体を、一秒に何十兆個の野球のボール大のニュートリノ粒子が通り抜けるとしても、交通整理のための信号など全く必要ない程透け透けの隙間だらけの空間ということになります。

 

 ここで最初によみがえりの身体を持つイエス・キリストがすーっと壁を通り抜けて家の中に入って来られたことを思い出して下さい。実際にどんなに厚い壁であっても量子レベルでは全くのすけすけで、人間の身体が通り抜けるにしても、量子ベースではお互いに触れ合わずにすいすいと通り抜けられるのです。

 

 それではどうして壁とか大理石の表面は堅くて通常では抜けられないのでしょうか。それは物質を構成する原子のほぼ空洞である内部空間は、実は強力な電磁場になっていて、その力が物質に固体性を与えているからであるというのです。(フランク・クロース著「なんにもない無の物理学 P.50」白楊社)

 

 しかし、よみがえりのイエスのように霊的な人間の場合は電磁場間の力を解除することは主の御心によって自由にできると思われます。従ってダニエルズ師たちが乗った車の場合でも、それがピリポの例と同じく主のご計画であったのでしょう、車とトラックの衝突に際しては、主の霊が働いて、素粒子間のスペースに張り詰めている電磁場の力が一時的に解除された。それは壁を通り抜けようとするイエスの身体が、瞬間的にミクロベースのすべての量子がばらばらの状態となり「すり抜け」が可能になったのと同じであったと考えられます。

 

 しかしすべての物質が非常にすけすけな空洞でできているという理由だけでは「なぜ瞬間移動が起きるか」という疑問に対する完全な説明にはなりません。なぜなら「瞬間」と言えば「時間の速さ」が問題となるからです。

 

この宇宙の外側には時間と空間がないのでは

 

 これに対する答えとして、私は最近松原隆彦理学博士が書かれた著書「宇宙はどうして始ったのか」(光文社新書)を読んで、博士が「時間と空間は一体のものであり、時間というのは空間と同じように宇宙の中でしか意味を持っていない・・・宇宙の始まりとともに時間が出現したのであれば、宇宙が始る前に何があったのかを問うことは無意味になる。・・・宇宙の始まりに原因があるとすれば、それは時間や空間を超越したところにある。・・」といわれるのです。(P.178ー181)

 また、郡(こおり) 和範 博士は著書「宇宙はどのような時空でできているのか」(ベレ出版)の中で「宇宙の始まりの前には時間も空間もないといえるかもしれない」といっています。確かにこの質問に対して、物理学者は、今のところ実験による証明ができないゆえに、はっきりとは答えてはいないようです。しかし多くの人たちが肯定的で、その可能性を認めているように見受けます。そこで私自身の考えを申し上げたいと思います。

 

霊の世界が一方に流れる時間と三次元空間とその距離に

           とらわれない自由な空間であるとすれば

 

 私は霊の世界/領域においては、まるで無いに等しい自由な「時間」と「空間」が存在すると信じます。といいますのは、私たちが日常する思考とか夢、意識、想像を考えてみてください。その中では、まるで自由自在の長さと方向性にとらわれのない時間、それに距離のない空間の中で、あっちに飛んだりこっちに飛んで物語が繰広げられることを経験しないでしょうか。それに、私たちが見る夢はどんなに長い夢であっても、それは一瞬でしかないということを聞いたことがないでしょうか。

 私たち人間は、永遠に霊と魂で生きているのであって、肉体はこの世にいる間だけの仮の住まいです。従って霊と魂は時と空間で縛られていないと思います。

 

 そうであればロバート・ダニエルズ師たちが経験した時間感覚を超越した(ゼロ時間の)「瞬間移動」という奇跡は、神が私たちに備えられ、必要に応じて私たちがこの世で利用できる「便利な手段」の一つであると思います。私は冗談ではなく、いつか、ミニストリーで日米往復を瞬間移動で旅行することを願っております。

 

 さて最後に、前述の松原博士は、著書「目に見える世界は幻想か?」(光文社)の中で、「なぜこの世は存在するのだろう。・・・だが、なぜ世界が「ない」のではなくて「ある」のか。こんな複雑な世界があるよりも、何もない方がよほど自然な気もするが、なぜかこの世界は存在している。そこに必然性があったのか、それとも偶然そうなったのか。」という問いを発しています。皆さんはどう思われますか。

 

 私はこの質問はとても深い、むしろ哲学的とさえいえるよい質問であるという気がします。「目に見える世界は幻想か?」ー クリスチャンの私たちにとっては特に「永遠のいのちで生きる霊の世界」こそが実の世界で、この世は一時的に「主のようになるための霊的訓練」という目的で送られて来ている「仮の人生」を今過ごしているのではないでしょうか。

 尚、目に見えるこの世のすべては、あたかも天で制作された物語を、天から光を投影してこの世と言う三次元世界のスクリーンに描き出される映画である、あるいはホログラフィーと形容する科学者もいます。なるほど、この世の物質の99%近くが光でできているといわれますから、私たちはまさに上から光として投影される影として動きまわっているのかもしれません。(終り)


10 10月

支配権を持つ者     ダッチ・シーツ            2017年10月10日


支配権を持つ者

                                                      ダッチ・シーツ

 

「あなたの世界を支配しているのは一体誰なのか?」

この問いは、 祈る時私たちに与えられている権威を理解するために非常に重要です。ここで、「権威の法則」を祈りに適応する前に、まず「権威とは何か」そして「権威の持つ目的は何であるか」を十分に把握する必要があります。

 「権威」を理解するためには、「誰が支配しているか?」という問いに答えねばなりません。この問いは、世の始めからずっと人間社会のすべての葛藤の中心でした。今も外の世界はあなたを支配しようと毎日攻めてきています。それは仕事や家族、財政、或いは全く別の事かもしれません。いずれにせよ、私たちがまわりの世界に支配されその奴隷となって生きることは、全く神のご計画ではありませんでした。私たちはキリストの統治の下で生活することにより、主のパートナーとして共に地上を治めるように召されているのです。

この法則は「統治」に関するものです。統治とは、「影響を与える、権威を執行する、上位に立つ」という意味です。権威を持って祈るとき、私たちは物事を統治する力でとりなすことができるのです。統治の権威という考えは、聖書全体を通じて表されています。エデンの園以前から、「誰が統治するのか?」という問題が議論されました。ルシファーは、神の上に権威を振るおうとした時この問いを発しました。そしてそれは今日に至るまで、私たちが直面する葛藤、即ち

善か悪か、命が死か、真理か偽りか、というすべての葛藤の発端となってきたのです。

神がサタンに究極的に勝利していることを私たちは知っています。しかし、

私たちが個人的に悪に勝利する機会を、神は今も与えてくださっているのです。それは即ち、私たちが主のパートナーとなって、この地を真理と義で治めることです。私たちはまさに本来その力を与えられて創造されているのであり、イエス・キリストを通してこの世を治める人生を歩むようにと召されているのです。ローマ5:17にある「治めるreign」という言葉は「王や王妃として治める」という意味を持っています。

 

第一ペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

私たちは主と共に治めるようにと選ばれました。権威を持って祈ることを学び、統治の力をもってとりなすのは私たちに与えられている責任です。

 

「自分の内なる世界にどれくらいキリストをお招きしているか」という度合いが、私たちが外の世界に対して持つ権威の大きさを決めます。使徒行伝19章でスケワの息子たち(ユダヤ人の祭司長の7人の息子)が、悪霊につかれている者にイエスの権威を行使しようとしました。彼らは「パウロの宣べ伝えているイエスによって」と言いましたが、悪霊は「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と答えました。息子たちはまず自分の人生をイエスに明け渡すこと無しに、キリストの権威を行使しようとしたのです。彼らの祈りは全く効力がありませんでした。

 

同じようにあなたの人生は、あなたとキリストとの関係の度合いを明確に示すバロメーターです。あなたは平安と喜びの内を歩いていますか?それとも、まわりの未信者と同じように、いつもストレスを感じていますか?家族は祝福されていますか? 祈りの生活をしていますか?それとも祈りの力について話すだけですか?

暗やみや絶望を支配する権威は、あなたの霊的DNAの中に入れられています。あなたは、盗み、殺し、滅ぼそうとする敵に勝利しながら、キリストによって豊かな人生を送るように造られているのです。(ヨハネ10:10)サタンは、神から与えられているあなたの任務を妨害するためなら手段を選びません。敵の計画を見破りそれに打ち勝つのは、あなたの責任です。「私は勝利者だ!」とただ口先で言うだけではなく、権威と力の証しが溢れ出る人生を送らねばなりません。

 

あなたを支配しようとするものに対して、自分の権威を行使することを決意するならば、まず、あなたの心の思い、行動、言葉をよく吟味してください。それらが王の息子、娘としてのアイデンティティーを反映しているかどうか、よく吟味してください。

あなたが自分自身の思い、行動、言葉の上に権威を持つならば、まわりの世界(家庭、仕事、財政等)に対するあなたの権威をも主が大いに祝福してくださることにあなたは驚くでしょう。そして、これこそが究極の目的なのですが、今まで夢にも思わなかったレベルで、あなたは主のパートナーとして機能し始め、世界全体に影響を及ぼすような権威を行使し始めることができるのです。主はただあなたをパートナーにするだけではなく、地上における主の目的を達成するために、あなたというパートナーを必要とされていることを是非知っていただきたいと思います。(終り)

 


02 10月

フレッシュなパン     ハイディ・ベイカー       2017年10月2日


フレッシュなパン

 

ハイディ・ベイカー

 

 

ボブ・ジョーンズ師との出会い

 

 私が預言者であるボブ・ジョーンズ師に会った時のことをお話ししたいと思います。

ある時、 ワシントンDCの空港にいた私のところに、私の夫とボビー・コナー師が来て、「これから預言者の家に連れて行くよ。」と言い、私からパスポートを取りあげたのです。私は腹を立てて「預言者の家になんか行きませんよ。うちに帰ります!」と言いました。私のうちというのはモザンビークです。でも彼らは「いや、あなたは預言者の家に行くんだ。」と言うのです。私は「何で、この人たちは私にこんなことをするんだろう。ひどいことだ。私からパスポートを取り上げるなんて、犯罪だ!私はうちに帰って子どもたちにパンを与えなければならないのに!預言者に会う必要などないわ、神の言うことは自分で聞けるから!」と思いました。本当に行きたくなかったのですが、二人は私の言うことなど気にも留めずに私を車に乗せ、郊外のボブの家に連れていったのです。

 

預言者ならば少しはましな家に住んでいるかと思ったのですが、ボブの家は本当に祖末なものでした。彼は紫色で鷲の絵がついている小さすぎるシャツからお腹を出して私たちを迎えてくれました。これが預言者でしょうか!もうちょっとましな格好をしていてもいいではありませんか!

彼は「やあ!あなた達が来るのは分かっていましたよ。」と言いました。(彼はその日に起こることを主から前もって聞く事が多かったのです。)私はボブのことを話に聞いたことはありましたが、会ったことはありませんでした。彼は「まあ、座ってください。」と言うので、私は古ぼけたソファに座りました。ボブは肘掛け椅子に座って話し始めました。私はワシントンDCから二人の男性に誘拐されて、ここまで連れて来られたのですから、きっと素晴らしい預言があるのだろうと少し期待しました。

ところがボブは「神が言われましたよ。あなたはクッキーを食べなさいって。」と言いました!

皆さん、私はその時まで人生の三分の一を断食をして過ごしていたのです。神からフェイバー(特別な厚意)を頂くための手段として私が知っていたのは断食をすることだけだったからです。私は断食を信じていますし、今も断食をします。どうか私がもう断食をしないなんて勘違いをしないでください。でもそれまでの私の断食の仕方は、御父の心を理解していないものでした。ですから神が預言者の口を通して「クッキーを食べなさい。」と言われた言葉は、信じられないくらいにすばらしい響きを持っていました。

まず第一に、モザンビークの私のうちにはクッキーなどありませんでした。クッキーは超贅沢品でした。それは必需品ではありません。空腹のときにまず一番に買うものではありません。クッキーはお菓子です。貧しい人に与えるものではありません。彼らにはパンとかお米や豆を与えます。クッキーを与えるなんて思いもよりません。

ボブが「神があなたにクッキーを食べなさいと言われたよ。」と言ったまさにその時、ドアをノックする人がありました。その人は「やあ、ボブさん、神様があなたのところにクッキーを届けるようにと言われたので、持ってきました。」と言うのです!焼きたてのクッキーでした!ボブは「へへへ...ありがとう。」とそれを受け取り、その人は中に入りもせずに帰っていきました。

その時も私は断食中でした。ボブは「さあ、クッキーをお食べなさい。」とすすめてくれます。私は「これはサタンの誘惑か...」と思いました。「私は断食をしている..このクッキーはカロリーも高いし...」と思い巡らしながら、小声で異言で祈っていました。でもクッキーに抵抗することができませんでした。そして預言者に聞き従うべきだという気持になり、クッキーを取り一口食べました。それはナッツの入ったチョコレートクッキーでまだ暖かかったのです。そして私はベイビーのように泣き始めました。ボブは「もっと食べなさい。」とすすめました。

その時聖霊が私に迫りました。「あなたは孤児ではありません!わたしのフェイバーを得るために飢える必要はありません!わたしのフェイバーはあなたの上にあります。わたしは甘い(sweet)のです。わたしはおいしい(good)のです。常に有り余るだけあるのです。」この言葉はずっと以前に神が私に語ってくださった言葉でした。「わたしが十字架で死んだから、あなたは有り余るほど十分なものを持っているのです。」

ボブは私を見て笑い、「主は言われますよ。もう一つ食べなさいと。」と言いました。私は「主よ、どうしてあなたは私に二つもクッキーを食べるように言われるのですか!」と叫びました。「それは贅沢すぎです。とんでもないことです。この預言者は行き過ぎです。クッキーを二つも食べるなんて...」と。でもボブは「さあ、もう一つ食べなさい。」と言うのです。

私は二つ目のクッキーを食べました。私は泣き崩れました。御父の心がわかったからです。神が私をどのように思っておられるのか、どれほど私を愛しておられるのか、どれほどスイートな方か、どれほどフレッシュでおいしい(good)方かを。

主は私をモザンビークから呼び寄せ、夫とボビーに私を誘拐させ、預言者の家に連れてきてくださるほど親切な方です。そしてクッキー二つで私の人生を変革されました。私はその日完全に変えられ、何百万人もの人に肉の食糧を与えるだけではなく、霊的食物も与えることができるようにしてくださったのです。

あなたは自分が神のものであることを理解せねばなりません。そして神はあなたが想像する以上に善き方であり、麗しい方です。あなたが主を深く知るならば、人に主を分け与えたくなるのです。でも主がどのような方であり自分がどのような者であるかが分からないと、外に出て行くことができません。自分がどなたの者であるかを知るときに、すべてが変わります。

 

カビだらけのパンの話

 

私がモザンビークの家にいたとき、主がはっきり「家の中にパンがありますか?」と聞かれました。私はどこかに袋に入ったパンがあったことを思い出しました。暑い地であり、パンはすぐにカビが生えます。見つけたパンは信じられない状態になっていました。それは虹色のパンでした!青、ピンク、黄色、オレンジ、というあらゆる色のカビで覆われていたのです!暑い家の中に何日も忘れられていて、怪物のように恐ろしいものになっていました。主が「それを教会に持っていきない。」と真面目に言われるのを聞きました。私は「はい。分かりました。」と答えましたが、続けて「何か他のものも持っていってもいいでしょうか?」とお聞きしました。(私と主は友達ですから、このように話をするのです。)主は「いいですよ。」と言われました。そこで、私は友人に電話をして「2千個のパンを買ってきてくれますか?」と頼みました。教会にはいつも二千人くらい集まってきていたのです。その友人は私と22年も一緒に働いていたので、少しも驚かずに「勿論いいですよ。」と言ってくれました。大きなトラックもありました。私たちはいつもそのように人びとに食糧を与えているのです。

 

教会に着くと、主が「さあ、みんなにあのカビだらけのパンを与えなさい」と言われました。私は「わかりました。」と答えました。ここで説明をしたいのですが、普通大勢のお腹のすいた人達にパンを配るときは、みんな興奮して大騒ぎになります。ある人たちは2時間も歩いて教会に来ますから大変お腹が空いています。でも主が「レインボー色のパン」を配れと言われたので、前列の人にそれを渡して「無料です!好きなだけ取ってください!」と言いました。子どもも親もカビだらけのパンを見て驚いて顔をしかめました。みんないつもお腹を空かしている人達です。でも誰もそれを取ろうとはしませんでした。

触るのも嫌だという顔をしていました。でも私は「後ろの方まで全部の人が好きなだけ取れるように回してください!」と言いました。

しばらくしてパンの袋は人びとの間を一巡して、戻ってきました。下に落ちたもの以外は全部残ったままでした。食べた人は誰もいなかったのです。何故でしょうか?それは古いパンで、人びとを病気にするものだったからですね。

いのちがないパンでした。人びとは空腹であったにもかかわらず、そのパンは食べることができないことが分かったのです!そのパンは人びとを満足させませんでした。それは確かに無料でしたが、誰一人として一口も食べた人はいなかったのです。

次に私は新しく買ったパンを見せて、「ここにもっとパンがあります。フレッシュです。今日のパンです。昨日のでも、先週のものでもありません。今日の朝焼いたパンです。どうぞ好きなだけ取ってください。」と言いました。

子どもたちは喜んで声を上げました。母親たちは服やバッグの中に幾つも詰め込みました。「今好きなだけ食べてもいいですよ。」と言うと、みんな食べ始めました。しばらくして「余ったものは前に持ってきてください。」と言うと、不思議なことにパンは余っていて、それは礼拝後に町の飢えている人たちに配ることができました。

 

主は今日この集会に、御臨在をもって私たちを訪れてくださいました。主の臨在というフレッシュなパンを、飢えて死にそうな世界に持ち運んで行くのが、私たちの役目です。今日私は祈りながらどのようなことを皆さんにお話しすればよいか主にお聞きしました。そして主はフレッシュなパンを豊かに与えてくださいました。本当に感謝しています。この真理をどうか決して忘れないでください。古いカビだらけのパンを欲しい人はいないのです。昨日のパンを欲しい人はいません。人びとはフレッシュなパンを必死に求めています。主は私たちがフレッシュなパンを分け与えるように召しておられるのです。

 

第2コリント1:20−22「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって、『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」

 

神は私たち全員に油を注がれ、私たちに確認の印(持ち主のしるし)を押して、「これはわたしにものだ!」と言ってくださるのです。あなたは神に所有していただきたいですか?あなた方は神の息子、娘です。あなたは王子、王女です。しかし、それと同時に神の奴隷です。「ご主人様、私はあなたの家から出て行きたくありません。一生あなたに仕えたいです。どうか私の耳に穴をあけてください。

私のいのちはもう私のものではありません。」と願う生涯の奴隷となりたいですか?(申命記15:16、17参照)イエスのものとなり、イエスに所有されることほど自由なことはありません。主はあなたに焼き印を押して「わたしはあなたを所有している!あなたを愛している。あなたはわたしの家族だ。」と言われています。もしあなたが主の家族ならば、もうカビの生えたパンなど食べる必要はありません。「パンは足りるだろうか?」と心配する必要もなく、パンを取られないように人と争う必要もありません。神は私たちのために一人子を下さったほどのお方です。

「あなたのためのフレッシュなパンはいつも十分にあるよ。」と言われます。すべて神からの約束は「しかり、アーメン」です。あきらめなければ、必ず勝利するのです。

 

神は私のためにボブ・ジョーンズ師を用い、非常に深くパワフルな真理を教えてくださいました。「クッキーを食べなさい。」と言ってくださったのです。神はケチな方ではありません。あなたのヴィジョンを聞いて「なんてこった。そんな大それたことをわたしに願うなんて。一体どうすればいいんだろう...国をトランスフォームするって!?そんな事は出来るはずないだろう....」と顔をしかめる方ではないのです!ですからどうかイエスを人びとに分け与えてください。それであなたの食べる分がなくなることは絶対にありません。「あの人がもらったら、私の分がなくなる」と考えるのは孤児の霊です。

 

第2コリント2:14「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとってはいのちから出ていのちに至らせるかおりです。」

あなたはキリストの香りです! 拒む人にとっては死の香りであり、信じる人にとってはいのちの香りです。あなたはただ常にキリストの香りであればよいのです。12節には「このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。」とあります。どうか大胆であってください。大胆に語り、大胆にフレッシュなパンを人々に分け与えてください。(終り)


26 09月

裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た   坂  達 也  2017年9月26日


裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た

 

                    坂  達 也

 

 三週間にわたる今回の日本旅行を終えた感想をご報告します。一言で申し上げれば、今はイザヤ書60:1−3の時代に入っているという実感でした。

 

 「起きよ。光を放て。あなた(クリスチャン)の光が来て、主の

  栄光があなたの上に輝いているからだ。

  見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。

  しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。

  国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。・・・」

 

 2節に「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。」とありますが、それはアメリカだけではなく、日本もそうなって来たことを今回強く感じました。そして世界中にそのやみが急速にひろがりつつあります。

 先ず異例な天災が世界を襲っていること。局地的豪雨をともなう未曾有の大型台風とかハリケーン、加えて、多発する地震と火山活動によって世界は膨大な被害を被りつつあります。

 一方そのような天災とともに、世界を深いやみの真中に陥しこんだのはテロと言う人災であり、それによる破壊活動も益々激しさを増しています。それは特にアメリカにおける政治の頽廃と、超リベラルなメディヤの挑発による民衆や学生の暴動というテロ行為を引き起こしているだけではありません。北朝鮮による核兵器実験と言う深刻な挑発行為も、世界中の人心を脅かす大きなテロの一つと言えないでしょうか。

 

なぜ神はそれらが一挙に起こることを許しておられるのでしょうか。

 

 その理由を挙げるとすれば、神は敢てこの世をとことん暗くすることによって「クリスチャンが輝き出す」ことを、この世の人々に見せようとされているーということに気が付き、私は今回そのことを旅の後半で強調しました。これからの終末の時代には真にキリストにつながったクリスチャンが台頭して、その人たちがそれぞれ個人的に輝き出すのを見て、神を知らない人々が神の存在に目覚めないでしょうか。それだけではありません。その輝きを増す「力あるクリスチャン」が、その国の政治と経済、社会も変えるのです。その人たちが最終的に終末最後の大リバイバルへの引き金となるでしょう。

 日本の国を御国として立て直すのも、最後のリバイバルを起こすのも、主は日本のクリスチャンに期待しておられます。そのために今最も必要なことは「人間的・宗教的になり下がったクリスチャンとその教会」を抜本的に変革することであると私は痛切に感じたのです。

 私は今回、従来のように教会を訪ねること以上に、個人的に二人三人のクリスチャンの集まりとか、ホーム・チャーチで親密なお交わりをさせていただくことに重きを置きました。なぜなら真のクリスチャンとは、最終的に個人としての主と交わることによってのみ育まれるものであって、マスプロダクションではないからです。(但し、大きな教会では小グループによる弟子訓練が可能です。これには大変な指導力が必要です。)

 私たち夫婦は今回日本で20名近くの新しい「主を真に求める」人たちにお会いすることができ、相互に大変恵まれ励まされました。これからも、個人的にイエスの御声を聞き、聖霊と共に歩むことにご興味のある方はぜひご一報ください。喜んでお会いさせていただきます。

 

 ところで今回日本で、私は初めて「団体としての教会」を離れた、あるいは「離れたいと願っている人々」に対して「クリスチャンの難民」という形容語があるのを知りました。今世界中に難民が溢れているように、日本ではクリスチャンの難民が問題になって久しいことを以前から私は憂いておりました。それは幕末末期に、侍の多くが「浪人」として溢れていたことと似ているような気がします。

 この問題への対策として今回、私は「クリスチャン個人が光り輝く」ことの重要さを改めて認識しました。幾人かでもクリスチャンが輝き出すことによって、逆に輝かないクリスチャンが明るみに出されます。それが刺激となり、やがてクリスチャン全体の霊性の向上を期待したいと思うのです。

 

罪を犯す前のアダムとエバの身体は神の栄光で輝いていた

 

 最初のクリスチャンであった彼らは、裸であったにもかかわらず、身体全体が輝いていて着物を着る必要はありませんでした。しかし、罪を犯すとともに彼らを包む栄光の衣は消え、彼らは自分が裸である事に気付いたのです。そこで神が近づくと彼らは慌てて園の木の茂みに身を隠したことが創世記3:8−10に書かれています。

 

 又、シナイ山で神と40日間向き合った後のモーセの顔があまりにも輝いていたので、民は眩しくてモーセを見られなかったことを思い出して下さい。その後モーセは主に向かって叫んだのです。「私にあなたの栄光を見せて下さい!」(出エジプト 33:1) そしてモーセは神の後ろ姿を見て、さらに霊的に変えられました。これは新約の時代に生きるクリスチャンが最終的になるべき姿の型を示されたのであると信じます。

 又、ルカ9:28、マタイ17:1にこう書かれています。イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登った時に、祈っておられるイエスの御顔が突然変わり、御衣が白く輝き出しました。そこにモーセとエリヤも現れたのです。

 一体何がイエスの身体とかモーセの身体を変えたのでしょうか。

 

聖霊が私たちの細胞を変える

 

2コリント5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれています。

 私たちがイエスを信じて霊的に生まれ変わると、その人は主の十字架の御業により霊的に新しく造られた者となり、その結果として、聖霊が私たちの中に住むようになります。これが抜本的な「新しい創造」の始まりです。これによって先ずその人の心が霊的に変えられるだけでなく、すべての細胞にその人格的変化が記録されるので、例えば、超自然の霊的特質の一つである「神の平安」が身体中の細胞とか臓器にその影響を記録されることが最近の科学によって証明されています。人間の身体のすべての細胞には, その表面に identity receptor 又は Human leukocyte antigens (HLA) ヒト白血球型抗原が存在し、人間が神を信じて霊的感化を受けるとそれがその人の細胞に影響を与え、その人のアイデンテイテイー(人格証明)が変わるのです。

 クリスチャンになり霊的感化を受け始めると、それが細胞に生物学的に記録されるのであれば、その人の一生の「伝記」そのものが、その人の「クリスチャンとしての証し」となり、その人の「永遠の身分証明」となるといえないでしょうか。昔、グルーバー師が天国のお黄金の道で知らない人と出会った時に、話さなくてもお互いに相手の人の全貌が分かったと言われた意味がよく分かります。

 

 ここで重要なことは、「聖霊が私たちの中に住む」といっても、それが本当にあなたの中に住み始めた聖霊が生きて自由にあなたと共に活動していればの話であって、そうでなければ輝き出ないと思います。これがクリスチャンの最大の問題であると思います。本当にあなたが常に聖霊と共に歩いていれば、あなたは聖霊の衣をいつも纏っているので、あなたの身体は光り輝き、奇跡がどんどん起こり始めるでしょう。すなわち、私たちの身体は「新しい創造」によって聖霊の臨在が常に活発に活動するとき、私たちは罪のないオリジナルの人間にリバイブされ、身体が輝き出る元々のキャパシティーを持つているのです。

 

 ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この御ことばは「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、神の栄光 GLORY とは「神のすべて」の現れであり、それがフルに顕われるとき、神のいのち、愛と力、神の神聖さと公正さ、慈悲、知恵によって、もの凄い輝きが出る。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのですから。

 そのためには、いつも申し上げますが、2コリント3:16−18の祈りが非常に重要であると私は信じます。「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」この祈りをすればする程、私たちは新しい創造により「主に似たもの」に変革されて行きます。

 

 ここで先日、8月7日のWWGMでご紹介したキャシー・ウオールターズ師の言葉を思い出してください。

「聖霊は、ご自分のために、あなたに働いてほしいとは望んでおられるのではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し『どうか私を通してお働きください』とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちはただ自分を聖霊に明け渡せば、すべて主が事をされるのです。それがピリピ2:13に書かれている「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」の意味です。・・・

 イエスが地上のミニストリーとしてエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかったのです。実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。

   1.御父が「せよ」と言われたことをした

   2.御父が「言え」と言われたことを言った

   3.御父が「行け」という所に行った 」(以上ウオールターズ師引用)

 

 これはまさにヨハネ5:19に書かれていることそのものではありませんか。「・・・子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

 

 イエスは、聖霊を通して、父がいわれることを耳で聞き、目で見て行うことに徹せられたことが上記の御ことばからよく分かります。本当に主がされたことはそれだけであり、それがポイントではないでしょうか。私は最近リッチ・ベラという牧師のお話しをビデオで聞きましたが、彼は驚いたことに「主の御声が聞こえると同時に、それが目で見えるようになった。」というのです。私はそれを聞いて本当にうらやましく思いました。でも私たちが聖霊と忠実に歩むようになるとき、そうなれると信じます。

 

 最後に、もう一度申し上げます。ほとんどのクリスチャンが、ボーンアゲインした自分の内には「聖霊が内住している」ことを頭では理解していていても、現実にはその聖霊と共に生きていないという事実です。

 私も長い間、その聖霊の臨在の実感がなく、なるほど、聖霊は私たちを助けてくれる「ヘルパーさん」と考え、有り難いと思いつつも結局はほとんどの場合、自分で「聖書的に良いこと」を「自分で」選び、それを「自分の方法とタイミング」で行っていたに過ぎないことに気が付かされました。

 ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちも自分のわざではなく、信仰によって神の平安に入ろうではありませんか。(終り)


25 09月

御ことばを歌う       ジュリー・マイヤー           2017年9月25日


御ことばを歌う

 

ジュリー・マイヤー (IHOPカンサス)

 

 

今日は、主の歌を歌うこと、そしてそれによって預言を解き放つことをお話したいと思います。非常に多くの方から預言的な“主の歌”についての質問を受けますが、誰にでもできる簡単なことによって、ワーシップの中で主の声を聞くことができます。

この方法は、主婦であっても仕事をしている人でも簡単にできます。家の中でも車を運転している時でも、バックミュージックが何もなくても出来るのです。

1コリント14:1に「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」とあります。私は「主の御こころを知りたい!主が今語っておられることを知りたい!」と心から思うことが度々あります。

 例えばあなたが教会の賛美チームに入っていて、日曜礼拝のとき急に主の歌を歌い預言しようと思っても、それには少し無理があります。私たちは毎日の生活の中で主に向かって主の歌を歌い、預言していなければならないのです。

主の歌や預言は、あなたが一人でいる時、まわりに誰もいない時、即ちあなたと神だけのときにしていることが、他のときにも自然に溢れ出すことだと思います。ですから、私はいつも聖書の御ことばを私のこころに向かって歌っています。ダビデは「新しい歌を主に向かって歌え」と何度も繰り返し言っています。

ダビデの生涯を学ぶならば,彼が大きな危機に直面したときや窮地に追いやられたとき、彼が何をしたかを知ることができるでしょう。彼は主に新しい歌を歌ったのです!新しい歌を歌うことがダビデを助けたとすれば、それはあなたや私をも助けるはずだと私は思います。あなたは困難に直面したとき、イエスの愛を確信できないことがありますか?もしあなたが、「私は神に愛されている、私は絶対に神のお気に入りだ」と信じられないでいるとすれば、あなたが誰かに「神はあなたを愛しています」と言ってもあまり説得力はないでしょう。

 

「私は神に愛されている」と確信するのは、主から愛の言葉を聞くことから始まります。そしてそれは神の御ことばを知り、主との関係を私たちのうちに築くことから始まります。御ことばは神から私たちへのラブレターです。その愛の御ことばを私たちが心に本当に受け取るために最も素晴らしい方法があります。それは御ことばを歌うことです。

私たちは歌を歌うとき、よく憶えることができます。何年も前におばあさんから教わった童謡を沢山憶えているのはそのためです。音楽や歌には、私たちが心を開き、心に主の愛が書き記され、主の癒しを受け取れるようにする力があるのです。

 

私は今までの人生で、とても大変で苦しい時がしばしばありました。とても主の愛を感じることなど出来ない、そのように考えることも出来ない、と思いました。そのような時、私は私のこころに向かって歌い始めるのです。

「私は弱いけれども、美しい

傷ついているけれど、美しい

私が弱いとき、神よ、あなたは愛してくださる

傷ついているけれど、あなたは私の味方

忙しい朝でも、今、あなたの目は私に注がれている」(雅歌1:5参照)

 

私たちが歌い始めると、それが上手でも下手でも、神は大層喜んでくださいます。みんなシャワーの中ではオペラ歌手のように歌えますよね。あなたが御ことばを歌い出すと、神があなたに対して持っておられる感情がそこに注がれ始めます。

そしてそれは「御ことばは(即ち神は)あなたのことをどう言っているか」を明らかに示してくれます。そして、自分に対して持っていた否定的な思いは、御ことばの真理に変えられていき、あなたは神がどれほどあなたを愛しておられるかを確信できるようになるのです。

これが自分の弱さから抜け出す方法です。これが傷ついた自分から抜け出す方法です。傷つき弱っているまさにその時、神が自分を燃えるような情熱で愛しておられることを感じ、知るのです!それは一ヶ月後に問題がなくなった時にではなく、問題のさ中に神の愛を受け取り癒されるのです。このように私たちをイエスのあふれる愛にもっとも素早く結び付けるのは、御ことばを歌うことなのです。

 

ここで聖書の言葉を歌う時の3つの段階をお話したいと思います。

私の好きな詩編116:1、2を例として用います。

「私は主を愛する。

主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、

私は生きるかぎり主を呼び求めよう。」

 

まず、この聖句をそのままの言葉で歌います。バックミューックや楽器を演奏しないでも、ただアカぺラで自分で好きなメロディーを付けて歌えばいいのです。子どもをサッカーの試合に連れて行く時や、一日中忙しくしている時にも、この聖句をいつも心に携えていくのです。そしていつも口ずさんでください。そして一週間それを続けてみてください。

次の段階として、同じ聖句を自分自身の歌に変えるのです。御ことばをとり、それを祈り始め、歌い始めると、それはダビデの主に対する熱い想いを受け取り、それが私自身の想いに変っていきます。最早ダビデが昔歌った歌ではなく、今私が歌う歌となり、神が身をかがめて私に耳を傾けてくださる姿を私は思い描くことができます。私は同じ聖句を使って、自分自身の歌に変え、好きなメロディーを付けて歌うのです。

 

「イエス様 愛します

どれほどあなたを愛しているでしょうか

あなたが私の祈りを

すべての叫びを

聞いてくださるからです

あなたはいつも私の歌に耳を傾け

私の叫びに耳を傾けてくださいます

今もあなたは身をかがめて

私の小さなささやきに

耳を傾けておられます」

 

これが次の段階である神の御霊があなたに言われることを聞く鍵となります。同じ聖句を、あたかも神があなたに歌っているかのように歌うのです。これは預言に他なりません。同じ聖句を私の心と魂に、あたかも神が歌っているかのように歌うのです。なぜならば実にそれこそ神がされることだからです。それは御ことばだからです。

「ジュディー

あなたの歌が聞こえますよ

とても麗しい歌声です

わたしは身をかがめて

わたしの耳をあなたの口に近づけ

一言も、一節も聞き逃さないようにしています

わかりますか

あなたの声は美しい

あなたの歌はすばらしい

聞こえます 聞こえます」

 

愛する皆さん、あなたが御ことばを歌い始め、神の預言のことばを自分のこころに歌いかけるならば、それは溢れ出るようになります。教会のワーシップの中で、また家庭集会の中で、それはあなたの心から、口から、溢れ出てきます。ですから今日、一つ聖句を見つけ出して、それを歌い、それを祈りに変え、そしてそれをあなたの心と魂に預言として歌ってください。これは預言をするためのとてもやさしいステップになります。あなたが毎日そのようにするならば、それは日曜の礼拝の時、とても自然で簡単に神のことばを語ることになるからです。(終り)


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