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Walk With God Ministries

17 07月

健全なクリスチャンの誕生 デイビッド・ポウソン           2017年7月17日


健全なクリスチャンの誕生

 

デイビッド・ポウソン(英国聖書教師)

 

私は聖書を何年も詳しく調べてきましたが、初代教会の人びとがクリスチャンになった方法は、現代の人がクリスチャンになる方法とは全く違うことに気がつきました。そこで、私は聖書に書かれている人びとがどのようにクリスチャンになったかを詳しく調べました。

 

又、牧師として、私は多くの問題を抱えるクリスチャンをカンセリングしてきましたが、彼らの問題は、彼らがどのようにボーンアゲインしたかに起因していることが分かりました。その時聖書の書かれている起こるべきことが起こっていなかったのです。正しくボーンアゲインするならば、人びとが抱えるほとんどの問題は消滅するか、或いは小さくなって自分で解決できるようなものとなることが多いのです。

 

以上のことから、私は「Normal Christian Birthクリスチャンのノーマルな生まれ方」という本を著しました。ウオッチマン・ニーの本に「ノーマル・クリスチャン・ライフ(キリスト者の標準)」というものがありますが、私はその本に非常に影響を受けました。「ノーマル」という言葉はそこから取りましたが、それは「聖書が示す正しい標準」という意味です。ノーマルな誕生と平均的な誕生とは違います。今日の平均的なものは新約聖書が示すノーマルではありません。

 

今宣べられている福音は、水増しされた、人びとに受け入れやすくしているものだと思います。天国に行くための保険のようなものになっています。「あなたがもし今晩死ぬならば、あなたは天国に行きますか?それとも地獄に行きますか?」と人びとに訊くのです。そして「もし地獄に行きたくないのなら、この短い祈りを私について言ってください。・・・言えましたね。はい、これが天国行きの切符です。」というように人を導くのです。

あまりにも多くのクリスチャンが初めに通るべきプロセスを通ってきていないので、「ミニマム・クリスチャン=最小限のクリスチャン」になってしまっています。「天国に行くために最小限しなければならないことは何でしょうか?」というように考えるのです。

 

私はある時、ある助産婦に「赤ちゃんが生まれるときにするべき処置を全部書き出してください。」とお願いしました。「まあ、半ページくらいかな」と思っていましたが、彼女はなんと15ページもタイプしてきたのです。私はとても驚きました。そして大切なことを聞きました。「どの時点で『赤ちゃんが生まれた』と言えるのでしょうか?」と。

 

彼女は「誰もわかりません。いろんな意見があります。ある人は赤ちゃんが母親の身体から出た時だと言い、ある人はへその緒を切って結んだとき、母親から離れて生き始めたときと言います。ある人は産声をあげた時だと言います。」と答えました。

ここで言えることは、「誕生」は一瞬を指すのではなく、プロセスだということです。最後に彼女は「要するに、赤ちゃんに対してなすべき処置をすべてして、健康な赤ちゃんになったときに『生まれた』と言うのです。」と言いました。

 

クリスチャンになるために4つ段階

 

私の理解によれば、クリスチャンになる条件は4つあります。

1.神に対して悔い改める

2.イエスを信じる

3.水のバプテスマを受ける

4.聖霊を受ける

 

1.まず「神に対する悔い改め」から話しましょう。

 

これが欠けていることが多いのですが、最も重要なことです。「悔い改め repent」は「後悔 regret」や「自責の念remorse」とは全く違います。私たちは、自分にしてしまったことを後悔するかもしれません。他の人にしてしまったことに自責の念を持つかもしれません。けれども「悔い改め」は私たちが神に対してしてしまったことに対する思いであり、それを心から認識することです。「repent 悔い改め」という言葉は「考え直す」という意味であり、即ち、自分の人生を考え直す、神の視点から自分の人生を考え直すということです。そして、神の視点から自分がどれほど間違っていたかを考えるのです。自分の視点では、あなたは十分に良い人間であり、人生に成功していると見えるかもしれません。でも神の視点で、神があなたに持っておられる計画や目的からどれほどずれているかを見るのです。

一つの例として、イエスがよく言及された罪があります。それは「心配 ・思いわずらい」です。

それが罪だと考える人はほとんどいないのですが、イエスは、それは天の父に対する侮辱であると強い口調で語っておられます。もし私の子どもの学校の校長から、「あなたのお子さんは食べ物や着る物が十分あるだろうかとすごく心配するあまり、勉強が手につかないようです。」という手紙をもらったとしたらどうでしょう。私は「えっ、私の子どもがそんな事を言っているんですか!

何て事でしょう!」と驚くでしょう。それは親の私に恥辱を与えることです。私がちゃんと必要なものを与えない親なので、子どもが不安だというのですから。

 

もし「神が面倒をみてくれないから心配だ。」というならば、私たちはその子どもと同じだとイエスは言われます。神を信頼するならば、あなたは心配しません。心配しているならあなたは神を信頼していません。単純なことです。ですから「思いわずらい」は重大な問題なのです。しかしあなたが悔い改め、考え直すならば、突然「私は神を疑ったりして、神の心を何と傷つけていたのだろう。」とわかるのです。悔い改めは、あなたの考え方から始まるのです。考えを変えて、神の視点から物を見て、自分の人生を神が見られるように見るーーその時初めてあなたは「自分は罪人です。」と言うでしょう。

 

悔い改めの次の段階は、一つひとつの罪を告白することです。例えば、「私は今までいろいろと思いわずらってきました。それがあなたを傷つけていたことがやっとわかりました。」と神に申し上げるのです。

罪の告白は「すべての罪をお赦しください。」というようなおおまかなものではいけません。それは何の役にもたちません。聖書の中の悔い改めは、それがどの罪に対する悔い改めなのかを常に明確に表しています。

 

悔い改めが真実であるならば、次にそれは行動に表れなければなりません。例えば、「悪いと分かったことをやめる」とか、「借金を返す」とか「よくない関係を断ち切る」とかであり、「正しくできるものを正しくする」ことです。ルカ3章でバプテスマのヨハネは、取税人には「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」といい、兵士には「誰からも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」と具体的に示しています。

一つの例をお話しましょう。ある時、いかつい格好をした若者がモーターバイクでやってきて、私と話をしたいと言いました。そして洗礼を受けたいというので、私は「悔い改めとは何か知っていますか?」と訊きました。彼は知らないというので、私は「では家に帰って、イエスに『私の生活の中であなたが嫌いなことがありますか?』と尋ねてください。そしてイエスが示されることがあれば、それを止めてください。」と言いました。3週間後に彼はまたやってきて、私に「ほら!」と言って彼の両手を見せました。

そして「爪を咬むのをやめたよ!」と言ったのです。私は「そうか。じゃ洗礼式をしよう。」と言いました。聖書はそれを「悔い改めにふさわしい実」と呼んでいます。彼のとった行動は、彼がイエスの視点で物事を考え、悔い改め、それに従って行動したことを証明したのです。それで私は彼に洗礼を授けました。

 

勿論、悔い改めがそれで終りということではありません。それは悔い改めのプロセスの始まりと言ってもよいでしょう。クリスチャンの人生は悔い改めの人生です。それはイエスに近づけば近づくほど、自分の汚れをもっと感じるからです。けれども正しい悔い改めをもって始める事がとても重要なのです。

 

バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。神の御国が近づいたから。」と述べました。イエスが宣教を始めたときも「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。ペテロがペンテコステの日に説教をした時も、彼の最初の言葉は「悔い改めなさい。」でした。常に「あなたの人生を神の視点から考え直しなさい。そしてあなたが心から自分の個々の罪から救われたいのか考えなさい。」という言葉から始まるのです。「救われる」といっても「何から救われたいのか」が分からなければ意味がありません。それはただのむなしい言葉になってしまいます。イエスは私たちを個々の罪から救うために来てくださったのであり、私たちは本気で罪を捨てる気持がなければなりません。

 

往々にして人びとは「イエスを信じるにはどうすればよいのか」は教えられますが、「どのように悔い改めをするか」を導かれていないのです。イエスが嫌われることを辞める/捨てることなしに、クリスチャンになってしまうのです。クリスチャンが最初に悔い改めから始めないならば、その出発は常に大きな荷物を負って生活することになるのです。生まれたときにへその緒が切られていないようなものです。ある意味でサタンの王国にまだ繋がっているのです。

 

2.イエスを信じること。

 

(1)先ず、事実を信じなければなりません。信仰は感情的なものではなく、歴史上起こったある事柄を信じることです。即ち、「イエスが生まれ、自分は神の子だと言われ、それ故に殺され、神が3日後によみがえらされた。天に戻られ、今も私たちのために祈っておられる」という出来事が真実であることを信じるのです。

(2)次にイエスを信じねばなりません。これはBelieve Jesus ではなくてBelieve in Jesus でなければなりません。イエスが神の子であると信じるだけでは、あなたの毎日の生活は全く変わりません。イエスに真に信頼している証しがなければなりません。例えば、私を本当に信じる人は(believe in me) 私の運転する車に安心して乗るでしょう。私にお金を安心して託すでしょう。

私が先ごろ手術を受けたとき、私はその医師を信頼して契約書に署名をしました。医師の持つ手術の能力を信じるだけではなく、自分の身体を託すほどに信じるのです。それはリスクを伴うことであり、あなたが本当にその人を信じているかどうかを証明することです。「私は信者です。私はクリスチャンです。」というだけでは、何の意味もありません。教会に来て使徒信条を唱えるだけで、主を信じる行動の証しがない人が沢山います。信仰は行動で表れるのです。

 

3.次に水のバプテスマについて話したいと思います。

 

旧約聖書にはバプテスマのことは書かれていません。祭司や民には定められた清めの儀式はありましたが、バプテスマはバプテスマのヨハネから始まりました。そしてイエスも人びとにバプテスマを受けるように教えられ、使徒たちもそれを教え実行しました。当時は今よりもバプテスマの意味が重視されていました。新約聖書にはバプテスマに関する箇所が31あります。私はメソジストの牧師でしたので、当初幼児洗礼を授けていました。しかし聖書を詳しく学んだとき、「自分は一体何をしていたのだろうか」と思いました。それ以来幼児洗礼はしなくなりました。一番の理由はバプテスマの本当の意味を幼児に当てはめることができなかったからです。

バプテスマは「清め」と「古い自分の埋葬」を意味します。ですから滴礼ではなく、浸礼が本来の姿です。

ある時、サタンの入れ墨のある人が洗礼を受けたいと思いましたが、シャツが水にぬれるとその入れ墨が透けて見えるのでどうしようか、と戸惑っていました。整形外科に言って相談しましたが、焼き切るとひどい傷になるし、皮膚の移植は非常に費用がかかり、保険が効かないと言われました。彼は思い切ってそのままで洗礼を受けることにし、スイミング・プールで洗礼を受けることにしました。

多くのクリスチャンがプールのまわりに集りました。彼が洗礼を受けて水からあがると、サタンの入れ墨は消えてなくなっていたのです!このすばらしい出来事は、バプテスマの意味をよく示しています。過去を洗い去り、公に死んだ古い自分のお葬式をするのです。それはただの象徴ではなく、実際に霊的にすばらしいことを神がしてくださり、私たちに新たな出発をさせてくださるのです。

 

イエスはバプテスマを強調されました。「すべての国の人びとを弟子にしてバプテスマを授けよ」と言われました。ペテロは最初の説教で「悔い改めなさい。そしてそれぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言いました。まず悔い改めをし、バプテスマで清められ古い自分に死んだときに、私たちは救われるのです。バプテスマの持つ深くて重大な意味を知らされることによって、その人は本当に新しい出発ができるのです。サタンに対して「おまえは私の葬式を見ただろう。おまえは最早私に対する何の権威もない。」と言うことができるのです。これはロ—マ6章に詳しく書かれています。

バプテスマは全身を清めるものです。しかし、この汚れた世を歩いたときに足が汚れるので毎日足を洗う必要があります。しかしバプテスマはもう必要ではありません。それは一度でよいのです。

 

4.次に聖霊を受けることをお話ししましょう。

 

聖霊を受けると、聖霊が次のことをしてくださいます。

 

(1)一つは聖霊の助けなしには決して出来ないことをさせてくださるのが聖霊の賜物です。

それは知恵のことば、知識のことば、信仰、癒し、奇蹟、預言、霊の見分け、異言、異言の解き明かしです。御霊の賜物は教会を建て上げ伝道するために必要です。人びとは福音を聞くだけではなく、見る必要があるからです。神は御ことばを目に見えるしるしでそれが真実であることを確証したいと願っておられます。

 

(2)二つ目は、御霊の実と呼ばれ、これは9つの味がする果物です。一つの果実ですが9つの味がするのです。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。最初の3つは神とのよい関係、次の3つは人びととのよい関係、最後の3つは自分とのよい関係を示します。それはすばらしい実であり、実にイエスの御性質そのものです。これは能力ではなく、性質です。この9つはクリスチャンの人生に同時に表れます。9つのうち2、3の性質を生まれつき備えている人はいます。とても寛容な人とか、とても親切な人とかはおります。しかし、この9つすべての性格を兼ね備えている人は聖霊を受けた人にしかおりません。9つの味のするこの実は、最初はつぼみとして現れ、次に花、そして小さな実となり、長い期間かかって大きくなり成熟するのです。成熟したクリスチャンは、成熟した実になっています。

 

(3)以上が聖霊が個人に対してしてくださることですが、それだけではありません。聖霊はあなたを神のコミュニティーに溶け込ませてくれます。神は個人ではなく、家族を持つことを望まれていますが、私たちは個々に異なる性格を持ち、考え方も違います。異なる人びとを一緒にして家族にしようと思っても無理です。しかし聖霊は「御霊の交わり」をつくり出してくださるのです。あなたの内におられる聖霊と同じ霊を持つ人と出会うとき、一瞬にして親密な一致を感じます。私は世界中で、そのような経験をしています。肌の色や教派が違っても、両者の中におられる聖霊が二人を引き寄せているのがわかるのです。

そのように同じ御霊を持つ人びとは集められてキリストのからだという麗しい集合体となるのです。御霊なしに教会を一致させようとするならば、それは失敗に終ります。一致は人間の努力では達成できないからです。聖霊だけがキリストのからだを一つにできるのです。

 

(4)それではどのように聖霊を受ければいいのでしょうか。

イエスはルカ11:11で「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょうか。」と言われました。ですから第一に「天の父に求めるask Him」ことが大切です。ここで「求める」というギリシャ語は一度だけではなく「得られるまで求め続ける」ことを表す時制です。

ルカ11:5−8で、イエスは真夜中に尋ねて来た旅人のために友人にパンを求める人の喩え話をしておられます。彼はパンをもらえるまで頼み続けました。この人は自分のためではなく、旅人のためにパンを頼んだことに注意してください。聖霊は自分のためではなく、人に仕えるために頂くものです。

 

「聖霊がなくては、私は何一つできない。」と心から悟るならば、必死で聖霊を求める思いが与えられるのです。そして9節にあるように「求めなさい。(求め続けなさい。)そうすれば与えられます。」という約束が私たちにはあるのです。(終り)


10 07月

心の井戸の水を汲む   ペリー・ストーン         2017年7月10日


心の井戸の水を汲む

 

ペリー・ストーン(ペリー・ストーン・ミニストリーズ)

 

ヨハネ4:11「彼女は言った。『先生。あなたは汲むものを持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこからお入れになるのですか。』」

ヨハネ4:23、24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

新約の礼拝に関する教えは、イエスによってヤコブの井戸で最初に与えられました。ヤコブは全イスラエル部族の父祖であり、彼はスカルの地で井戸を掘りました。イエスは旅の疲れをおぼえ、この井戸の傍らに腰をおろされました。

 

井戸から水を汲むためには、何か入れ物が必要でした。当時の井戸の上には石の蓋が置かれていました。小動物が夜中に井戸に落ちて死ぬならば、水が汚されるからです。他にも木の葉とか枝が入って井戸の中で腐ることもあります。ですから水を清く保つために蓋がしてあったのです。

このことから示されることがあります。アメリカで「ワーシップ」と呼ばれるものがありますが、実際にはそれはワーシップではないことがあるのです。

まことの「ワーシップ」は、人が心から主を礼拝し、それを口で言い表すものでなければなりません。「私は心の中で主をワーシップしながら、静かにしています。あまり何も言わないし手を上げたりもしませんが、心の中でワーシップしているのです。」と言う人がいます。

 

しかしマタイ12:34に「・・・心に満ちていることを口が話すのです。」と書かれているように、もし神への賛美や礼拝があなたの心にないならば、それを外に表すことはできません。神の臨在や愛が心に、即ちあなたの井戸の中にないならば、それは水のない井戸です。あなたの心の中にあるものが口から言葉を出させるのです。

 

ヨハネ7:37、38でイエスは「だれでも乾いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。私たちの中には井戸があり、それは生ける水で満ちているはずです。乾いた人はその水を飲むことができますし、身体が汚れていれば清めることができます。ヨハネ伝では、水は聖霊を表すだけではなく、人の心の奥底の霊から溢れ出るワーシップも表しています。ですからあなたは内なる井戸の水が常に清いように守らねばなりません。

 

あなたの心にあるワーシップは、口に出して表さなければワーシップとはならないのです。教会やクリスチャンテレビを見ると、すばらしい説教やすばらしいワーシップがありますが、会衆はただ座ってそれを聞いて楽しんでいるだけです。手を上げている人もなく、ワーシップしている人もいません。誰かが楽しませてくれるのを見ているだけなのです。それは「ワーシップをする」と言えるかもしれませんが、実はそうではないのです。あなたの口から音が出てこなくては、あなたはワーシップしたことにはなりません。

 

ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)では、カンターと呼ばれる歌い手がいて、聖書を読むときは、ただ読むだけではなく、節をつけて歌います。詩編はダビデや幕屋の歌い手などによって書かれましたが、それは朗読するのではなく、歌うべきものであり、詩編はイスラエルの賛美歌なのです。エペソ5:19には「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。

 

今ご自分で私の言うとおりにやってみてください。お腹の上の左右のあばら骨がぶつかるところにある横隔膜の下に指を4本縦に少し強く当ててください。そして「ハレルヤ!主を賛美します イエス様ありがとう」と言ってみてください。筋肉はほとんど動かないのが分かると思います。次に同じ言葉で歌ってみてください。横隔膜が動くでしょう。あなたが賛美を単に言うとき、それはただ「習慣的に」言うこともできます。イエスはパリサイ人についてマルコ7:6で「この民は、口先(lips)ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と言われました。礼拝後に何を食べようかと考えながら、口では主への賛美を言うことができるのです。しかし歌うときにあなたの身体の中心で横隔膜が動き、あなたの中の何かが動き、賛美が心から出てくるのです。

 

残念ながら多くの人は、自分の中にある井戸の蓋をしたままでいます。蓋は動物やゴミ等の井戸水を汚すものが入らないようにするものですが、その井戸から水を汲みたい時は蓋を取り除かねばなりません。水を汲むのを遮っているものを取り払うのです。信じる者の腹の奥から、即ち霊から、生ける水の川が流れると主は言われました。井戸から水を汲むためには、バケツを深く入れて外に水を汲み出さねばなりません。私の霊にあるワーシップはそれを口に出す時に奥深いところから上がってくるのです。

 

会衆が皆大きな声でワーシップをしているとき、霊的空気が変るのを感じると思います。例えば私の周りに50人ほどの兄弟姉妹がいるとします。私一人がワーシップをするならば、一本の川が私から流れ出ます。周りの人たちが一緒にワーシップするならば、その一人ひとりから川が流れ出し、それが集まって非常に大きな川の流れとなります。そしてその賛美は天の御座に立ち上っていきます。エゼキエル47:1−5でエゼキエルは、神殿の敷居の下から流れ出る水の幻を語っています。1千キュピト行くと足首までの深さとなり、更に1千キュピト行くと膝まで、次の1千キュピトで腰に達し、更に1千キュピト行くと水に囲まれて浮かんで泳げるほどになったのです。

 

水かさが足首までの時を「アブラハムの時代」だと私は思います。アブラハムは信仰で約束の地を歩きまわりました。(創世記13:14−17)それから千年後にはダビデ王の時代となりました。ダビデは戦士であり、様々な敵を打ち破り進軍していきました。信仰で歩くだけではなく、戦いに勝利したのです。それからまた千年後は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々にバプテスマを授けました。洗礼を受ける者は水の中に腰まで入ります。ヨハネは天の御国が近づいたから罪を悔い改めるように語りました。水の清めによる新生です。

 

そして今私たちはエゼキエルが見た「水かさが増し、泳げるほどの水の川」の時代に住んでいるのです。先に進めば進むほど水かさがまして、立っていることができず、泳ぐようになります。今私たちはヨエル2:28の時代、即ち「すべての者に霊が注がれる時」にいます。それはまた、イエスがヨハネ4:23で言われた「霊とまことによって神を礼拝せねばならない時」なのです。サマリヤやエルサレムの山ではなく、私たち一人ひとりが聖霊の宮であり、私たちが行くところ何処にでも神を持ち運ぶことができるのです。しかし私たちの腹の奥にある水を汲み出すためには、賛美を言葉に出すだけではなく、横隔膜を広げて井戸の蓋を取って、歌う必要があります。今の終りの時には「詩と賛美と霊の歌を持って主にむかって心から歌う」ことが非常に大切なのです。

 

このようにワーシップに関する啓示はヤコブの井戸においてなされました。イエスはサマリヤの女に「あなたは知らないで礼拝しています。

 You worship what you do not know.(あなたは知らないものを礼拝しています)」と言われますが、私たちはそうであってはなりません。私たちは神を知り、口先だけではなく霊とまことをもって礼拝しようではありませんか。(終り)


07 07月

トランプ大統領の試練とアメリカの政治情勢     坂   達  也    2017年7月7日


トランプ大統領の試練とアメリカの政治情勢

 

                坂   達  也

 

国外で発揮されるトランプ大統領の実力とリーダーシップ

 

G20の会議がドイツで始まりました。それに先駆けて、トランプ大統領の最初に立ち寄ったポーランドでの演説は、格調の高い、世界のリーダーシップを握るにふさわしい実力者である事が如実に顕われておりました。ウオール・ストリート・ジャーナル誌は「アメリカ・ファーストよりも大きく、それを超えた、世界の方向性を決める(defining )スピーチであった」と評価し、多くの人がレーガン大統領の歴史的演説に匹敵すると賞賛しました。ポーランドは折から、洪水のようにボートで入って来る難民を一切受け入れないと宣言し、難民を受け入れ過ぎて困惑するドイツとは対照的です。このG20では、トランプ大統領がこの数十年世界に蔓延した無責任なグローバリズムに対決する強い姿勢を示すと共に、アメリカはヨーロッパNATO 各国だけでなく、北朝鮮問題を含む世界的視野で、その強い連携責任を果たすためのリーダーシップを取ることを明確に宣言しました。

それが、プーチン大統領との会談でも表れていたようです。両大統領の会談は2時間を超え、最初はトランプがプーチンのアメリカ大統領選挙への介入とシリヤ問題を厳しく問いつめた後、二人は積極的に問題解決への道をポジティブに話し合い、二人の相性はとてもよかったとチラソン国務長官が報告しています。

一方アメリカのリベラルなメディアは、すかさずトランプ大統領を「レイシスト・民族差別主義者(白人優先イスラム軽視)」と非難しました。

 

トランプ大統領が直面するアメリカ国内の問題

 

アメリカの政治環境と国民のモラルは、左右二派に分かれた対立がいよいよ激しくなり、トランプ大統領が目指す内外の政策は全面的に立ち往生する事態となっております。その大きな原因は二つあります。一つは昨年の選挙に負けたデモクラット民主党が、二大政党が協力して成り立つ民主主義政治への責任を全く果たしていないことです。そして二番目の問題は、リベラルなメディアが常識を逸脱して、報道すべき報道を拒否し、人心を惑わし煽るフェイクニュースだけを流すことによって、アメリカ国民だけではなく、世界を惑わし、攪乱するという前代未聞の事態になっていることです。私はこれは悪質極まりない「テロ行為」と呼んではばかりません。

 

今回、私は日本の皆様に緊急のとりなしのお祈りを要請させていただきたいという一念で、緊急事態のアメリカの現状をお伝えさせていただきます。

 

民主党(デモクラット)と「陰の政府」の暗躍

 

「陰の政府」とは最近アメリカで DEEP STATEと呼ばれていますが、オバマ前大統領があやつり暗躍する陰の政府を指しているようです。オバマ氏が雇い、その後引き続き現職で残っている相当な人数の政府要員を陰であやつりながら、オバマ氏はあらゆる手段を尽くしてトランプ大統領を妨害(というより、彼の後を受け継いだトランプ大統領が成功しないように)しようとしています。それが最近露骨になって来たのです。特に民主党議員への働きかけが目立ちます。その一つの理由は、政権が変わった後の民主党にはリーダーが全くいないということが曝き出され、民主党からの政策的提案は皆無に等しく、彼らのして来た事と言えば、共和党のすべての政策に闇雲に反対することであり、トランプ大統領を弾劾することだけに全精力を集中して来ました。

 

しかしながら、このような民主党に対する国民の審判の目は厳しく、トランプ政権になった後に行われた5回の国会議員の補欠選挙で、その5議席とも共和党議員が選ばれたという結果が出ています。

 

トランプ大統領のツイート問題

 

この動きに協調しているのが大手のリベラルなメディアです。彼らはますます過激的に反トランプ色を強くしていますが、大統領弾劾のための理由として、最近ではトランプ大統領自身が毎日のようにするツイートを指して(特にリベラルなメデイアをこき下ろすツイートに対し)医学的根拠が全くないにもかかわらず、「大統領は精神異常者で、大統領としての資格は無い」として、25人の民主党議員が議会にトランプ大統領弾劾提案をしようとしております。確かにトランプ大統領のツイートは前例のない程多く、内容は激しく率直すぎる、一国の大統領らしくないと言う非難は当っているかもしれません。しかし、これだけ大手メディアが寄ってたかって大統領をこき下ろすことだけしか報道しないのであれば、大統領としてはツイートによって国民に直接訴えるしかないというのは無理からぬ事情といえます。特に最近暴露されたCNNニュース局の内部で「上司が報道者へ、大統領を誹謗するためのフェイクニュースだけを毎日手を変え品を変えて流せ」という指示をしている現場を隠しカメラで撮った映像が公表されたのです。それは呆れてものが言えない程ひどいものでした。それを知った大統領が痛烈に批判したツイートを立て続けに発表したことに対して、今度はそれを逆手に取って大統領に「精神異常者」というレッテルを張り、それを弾劾理由とするという卑劣極まりない話なのです。

 

私は日本の政治情勢が必ずしも最上とはいえないことを知っておりますが、もし皆さんが今のアメリカの実情を知られたら、これが文明最新国のアメリカでまかり通っているとは「信じられない」とおっしゃると思います。今のアメリカのリベラルなメディアではジャーナリズムのモラルなどひとかけらもありません。何故そうなるかと言えば、大手メディアは視聴率が上がる事だけを目標にし(広告収入に影響しますので)、反トランプのニュースだけを聞きたい見たいリベラルな民衆が50%近くいるので、その人たち相手の視聴率を上げるフェイクニュースだけを流せと上司が指示するからです。

そこでご参考迄に、それ以前の6月に起こった主な事件をご報告します。

 

世界中に暴虐と殺人が氾濫する

 

その一つは、民主党と共和党両院議員による恒例の慈善野球試合の前日に、一人の白人が折から練習中の球場に来て、そこにいるのが共和党議員であることを確めた上で、ハイ・パワー銃で50発近くを乱射し、一人の共和党議員が重傷を負い、数人が負傷、そして犯人は、5分後に駆けつけた警官により射殺されるという惨事が起きました。今世界中において、ISIS以外に、これに似た殺人事件が続発しております。日本も例外ではありません。これは悪魔の断末魔的仕業としか言いようがありません。クリスチャンが聖霊の臨在による栄光の環境をつくり出す事ができるとすれば、その逆に、悪魔は暴虐と殺人の殺伐とした環境つくりができることを今如実に実証していないでしょうか。

 

元 FBI 長官コーメー氏の議会喚問証言

 

次に大きな話題となったのは、トランプ大統領が免職処分した元FBI長官コーメー氏の議会喚問証言です。この議会証言が行われたのは6月8日でしたが、その前から大手メディアの報道は今迄に増して反トランプ攻撃が過激化し、まるで気違い沙汰の様相を呈していました。もはや、フェイク・ニュースかどうかの問題を通り越し、自分が好むニュースだけを報道する、そこには報道者の中立性などは微塵もないのです。多くの場合アナウンサーの顔と声がひきつり、トランプ大統領に対する憎しみを隠そうともしません。ある信用できるレポートによれば、現在のアメリカのメデイアは80%が反トランプ報道であると言われます。

 

そこで今回のコーメー氏喚問でさらけ出された最も重大な証言は、彼が「機密にすべき情報」を他人に漏らし「リーク」したことを自ら認めたことでした。しかもそのリークの目的が、元FBI長官で(コーメー氏曰く)「最高に尊敬できる親友である」ロバート・ミューラー氏が折から取り沙汰されていた大統領のロシアゲート疑惑を調査する特別勧告審査官に任命されるように裏から手回しをした」という意味の供述をしたのです。そして事実ミューラー氏はその通りに任命されました。これこそ裏の政府( DEEP STATE ) の仕業であると信じます。

 

私は今これだけ「リーク」が問題になっている最中に、事もあろうにそれを取り締まる立場にいる FBIの長官自身がリークしたこと、しかも彼はあまりそれを「重大な過失罪」として認識していないことに気が付いて愕然としました。そうであるならリークは今回だけであるはずはなく、今後はそれが追跡されて当然と思います。

尚、「ロシアゲート」とは、昨年の大統領選挙でロシヤがトランプ側と結託して妨害介入したという疑惑問題ですが、最近の民主党はこれを大事件として執拗に煽り立て世界をかく乱しております。その目標はひとえにトランプ大統領を弾劾impeachすることにあり、そのためなら僅かなことでもすべて弾劾の理由にこじつけようとしています。しかし実際には、トランプ大統領が明言しているように、今のところトランプ政権のロシア介入の証拠は一つも出て来ていない、そしてコーメー氏自身も大統領介入への疑惑調査は全く行われていなかったと今回証言しているのです。

 

ここで、参考迄にリック・ジョイナー師の意見をご紹介します。師は「今回のコーメー証言はソープ・オペラを見ているようなもので、結論をいえば、コーメーは自らの墓穴を掘り、トランプが勝利したことは明白です。コーメーはいよいよトラブルに落ち込みました。彼は一度は『絶対にリークしたことはない』と宣誓しておきながら、今回、友人に『リークした』と打ち明けたのですから、これはまさしく偽証罪に問われます。

又、民主党はといえば、今回のコーメー証言から徹底的に『あら』をしぼり出し、それを材料にしゃにむに『トランプ弾劾』にもって行こうとしています。悲しいことに彼らには今それしかできないのです。しかしそのことに、やっと心ある民主党員も民衆も気が付き始めました。一方共和党はどうかといえば、民主党と同じ程、問題だらけです。正直なところ、ここに至ってはアメリカの二大政党政治そのものが、それを修繕すこともできない程完全に崩壊してしまったと思います。

トランプ大統領は、今国内だけでなく世界中から憎まれ攻撃の的になっていますが、彼は窮地に立たされれば立たされる程、神が彼を救出し、彼の実力と名声は逆に上がる一方です。そうとしか考えられません。そして今回もそうなるでしょう。それは彼が神の特別の好意を受けていて、神からのデスティニーと目的を持っているからです。アメリカの歴史を見て下さい。彼以上にメディアと民衆から嫌われてた大統領がいるとすれば、それは暗殺される前迄のリンカーン大統領です。リンカーンを嫌った人たちは、彼が殺されてやっと彼がどれ程偉大なことを成し遂げたかに気が付いたのです。トランプ大統領は同じように、これからも嫌われ、やることなすことに妨害され続け、大統領として本当に自分がしたい仕事ができるようになるまでには一年かかるでしょう。

 

ところで私は今回の証言台でのコーメーの言動からは好ましい印象は全く感じられませんでした。なぜでしょうか。それは彼が証言した事柄の他に、人に言えないようなもっと深い大きな事実を隠しているからだと思います。オバマ大統領の任命した人たちで未だに政府職に残っている人が大勢います。コーメーはその人たちが隠していること、絶対に明るみに出せない陰謀、あるいは知られたくないわいろ=多大な闇の資金を使った悪事が予想以上に大きいことを知っているからであると思います。そうでなければ、ここ迄執拗にトランプ大統領を弾劾し失脚させようと焦る理由は他に考えられません。これらのことはすべて明るみに出されねばなりません。間もなくそれが始まり、前政権下の悪事がどんどん暴かれると思います。それがトランプ大統領の召命であると私は信じます。

 

いずれにせよ、これだけ徹底して議会審議が妨害遅延され、又、メディアに反対攻撃されながらも、トランプ大統領がこの4−5ヶ月の間に、政治・経済・軍事・外交面で成し遂げたことはめざましいものがあります。ほとんどのメディアはそれを報道しませんから、残念ながら世界の人々は知らされていないのです。

(以上がジョイナー師のコメントです。)

 

北朝鮮の核兵器保有の危険性

 

ジョイナー師は続いて、この数ヶ月くり返し北朝鮮の核兵器の脅威について述べていますが、最近、下記の記事をフェイスブックに載せて、それを更に強調しています。

「The Sun、 a new UK news Corp.)・・・その筋の上級専門家(Mr. Lewis )

 

によれば、北朝鮮は既にアメリカに到達するための大陸横断用核弾道ミサイルを打ち上げる技術において、僅か後一歩のところ迄来ていると言う。

北朝鮮は既に近い将来使用するICBMの頭に取り付けるコンパクトな核弾頭は開発済であると信じられ、その最後のハードルは、弾道ミサイルが打ち上げられた後で、大気圏に再突入する際に起こる強烈な空気摩擦によるショック、激しい振動、並びに急激な超加熱に耐えるだけのものを造り上げる技術の開発を残すだけとなった。その開発において、既に昨年地下グラウンド・テストに成功しており、最近の数ヶ月で最後の仕上げを急いでいると言われる。その報道とは別に、最近テストされた四つの新兵器の内の一つは、超精度を誇る短距離誘導ミサイルで、それはグアム島の米軍施設に迄届く(訳者注:勿論日本にも)と言われる。又、対軍艦用のクルーズ・ミサイルも既にテスト済という。」

 

北朝鮮のサテライトは EMP 攻撃に理想的な手段となり得る

 

続いてジョイナー師は下記の記事を引用して、次の事態が現実に起こり得ると声を大にして警告します。

「『北朝鮮は現在、地球の周りを周回する複数の人工衛星を持っていると言われ、そのサテライトを利用して、EMP ( Electric Magnetic Pulse ) 爆弾をアメリカ上空で落とす可能性が強くなって来た・・・』と書いた Oli Smith の記事(5月27日)を紹介します。

 

この EMP爆弾による被害とは、低レベルのEMP爆弾によっては、すべてのエレトロニックス・システム(コンピューター等)が少なくとも一時的にとまります。又大きな爆弾ならば、すべての電気とエレクトロニックス関係の器具、パルス(音響、波動、電波)のいかなる機器電源も損なわれ、飛行機、船舶、自動車、すべての乗り物は止まり、上水下水システムも停止=事実上食料生産も含む通常の文化生活ができなくなります。但し、この爆弾による被害は上記の電気、エレクトロニックス機器に被害が及ぶだけで、その他の人体、動植物、物体には影響がないのです。しかし通常の生活が完全に麻痺しますから、最悪の場合一年以内にほとんどの人間は死に絶える可能性がある、と言われます。

 

そこで、このような被爆を受けた後に生き延びるためには19世紀以前の生活様式(即ち電気器具やコンピューターの無い生活)に戻らねばならない。これが映画・小説の世界ではなく現実にいつでも起こり得る世の中になったのです。北朝鮮は他国をこの爆弾で攻撃できる用意ができているといい、彼らがアメリカ本土を全滅する核戦力を持つのは時間の問題と脅迫するのはあながち嘘ではないのです。

そこで考えねばならないことは、第二次大戦前に、イギリスがドイツのナチが台頭し始めた最初の頃に攻撃しておけば、被害は最小限に留めることができたはず、それをしなかったがために第二次大戦という大変な被害を世界が受けることになったという事実があることです。この教訓は今こそ当てはまります。北朝鮮に対して今の段階で敏速に手を打たないと、ナチと同じように手遅れとなり多大な犠牲を払うことになりかねないのです。」以上がリック師の警告です。

 

とりなしの祈りのお願い

 

そこで、最後に私自身が申し上げる事があるとすれば、私たちがクリスチャンであり、クリスチャンこそは「祈り」という最高の武器を持っているという事実です。神は私たちが信仰で主に祈る事を待っておられます。そして御存知のように私たちの正しい信仰の祈りは絶対に聞かれるのです。

 

悪魔がどのようにあがいても、又、闇が深くなればなる程、私たちが信仰で祈れることによって、必ず勝利するという「証し」ができることを私たちは忘れてはならないと思います。悪魔は「うそ」をならべて「惑わし」「威嚇」「恐れさす」ことしかできません。一方、「信仰」と「真実」と「祈り」を持つクリスチャンは、何一つ恐れる必要がありません。なぜなら勝敗は既に十字架に着かれたキリスト・イエスによって圧倒的勝利が決まっているからです。

 

今、世の中が前代未聞の荒廃と真っ暗な闇の中に突入しつつあるように見えるとすれば、私は興奮します。なぜなら、いよいよ、それは私たちの前途に「前代未聞」の圧倒的「勝利のリバイバル」が近づいて来ている前兆であると信じて止まないからです。現代を生きるクリスチャンは、その「主による大勝利」の証人となるべく、最後の時代の働き手として訓練され生かされて来ているのではありませんか。どうぞ日本の皆様の力強い圧倒的な「とりなしの祈り」を期待しています。(終り)


03 07月

過去で未来を縛られるな       グラハム・クック        2017年7月3日


 

過去で未来を縛られるな

 

グラハム・クック

 

神は私たちの人生の地を一掃し、神の約束と将来の計画のためのスペースを作りたいと願っておられます。神は私たちの過去を癒し、未来に生きるようにしたいのです。しかし時として、私たちは過去の痛みが残っていて将来にむかって進むことができません。

 

私たちは全員、例外なく、人生の苦しみや痛み、失望を味わってきました。ある人たちにとっては、不幸な子ども時代かもしれません。ある人にとっては、最近起こったことかもしれません。どちらにせよ、又

大小にかかわらず、それらの傷は私たちの毎日の生活に影響を与えています。それは未来を曇らせ、私たちが神を天の父として受け入れて神の約束に生きることを不可能にするのです。

ですから過去の傷は去らねばならず、癒されねばならないのです!

神がそうであられるように、あなたも健やかで欠けたところのない者となることこそが神の意図されることです。私たちは癒されつつ生きることを学ばねばなりません。あなたの人生における神の癒しのプロセスと神が意図されるところを知らねばなりません。何回か癒される経験を経たとき、私たちが「傷を受ける」のは、癒される喜びを経験するためであったことがわかるのです。

 

私たちが皆、御父のすばらしさを十分に経験することを私は願います。何故ならば神は私たちを本当に愛して止まないお方なのですから、私たちはそれを味わい知る必要があるのです。もしあなたが今、何らかの痛みに直面していたり、行き詰まりを感じているならば、

あなたが今いるその場所で神に触れてもらってください。神はあなたをリフレッシュし、新しくしたいと待っておられます。神はあなたの痛み、心配、悲しみ」を、「喜び、平安、健やかさ」に取り替えてくださいます。

そのような御父の癒しを受け取りたいと思われるならば、次の主の言葉を黙想してください。あなたを癒し、輝かしい未来へと招きたいという神の願いに耳を傾けてください。

 

「愛する者よ、リフレッシュの霊があなたに伴いますから

、あなたの身体、知性、感情、霊をその霊に委ねなさい。喜びと笑いの場所へと帰りなさい。そうすれば、わたしはあなたの人生の乾いた味気なさを克服し、新鮮さを与えるでしょう。」

 

「わたし自身をあなたに与えます。あなたに特別な恵みを与えます。来てわたしの寵愛、喜び、笑い、幸せに帰りなさい。来てわたしの慈しみ、親切、憐れみに浴しなさい。わたしのすべてはあなたのためです!わたしという存在はすべてあなたのためです。わたしの持つものはすべてあなたのためです。わたしの心はあなたに向いています。」

 

「わたしは耳を傾けています。わたしに話しなさい。あなたの心の奥底を話しなさい。あなたの恐れや心配をわたしに話しなさい。わたしはあなたと共にいます。わたしはあなたの味方です。わたしの関心をひくのに小さすぎるものは一つもありません。あなたの人生のすべてのことはわたしと繋がっています。それはあなたがわたしのものだからです。あなたはわたしの所有物です。ですからわたしの川でくつろぎなさい。」

「わたしは、あなたが勝利者の人生を歩むための偉大な信頼と信仰

へと導く確信を与える計画があります。わたしはあなたの内側を完全に変えることによって、わたしがあなたの内側に強さと力と尊厳をもって住まおうとしています。」

 

「わたしはあなたの内側を、恐れから愛に、心配から平安に、惨めさから笑いに、倦み疲れからリフレッシュされた状態に変えます。あなたは、わたしと同じように考え、わたしが見るように見、わたしが信じるように信じて、わたしと同じようになる自分を見出すでしょう。あなたは変革されるので、この世があなたを見る目が変えられるでしょう。ですから愛する者よ、安息し平安を保ちなさい。」

今日、あなたが神の癒しにふれられますように!(終り)


29 06月

主のご臨在と共に生きるには    坂   達 也       2017年6月29日


主のご臨在と共に生きる

 

                                                坂     達  也

 

   私たちはこの二年間、田の字型の四連棟住宅の一角に住んでおりますが、その左隣にはアンデイーとジュデイーという共に81歳になる一組の老夫婦が住んでいます。私たちが引っ越して来て最初にお会いした時、彼らは、隣にクリスチャンが引っ越して来ることをずっと祈っていたと言い、私たちが隣人になったことを大変喜んでくれました。それ以来親しくして来た人たちです。夫のアンデイーさんは元バプテスト系の牧師でしたが、10年程前から心臓疾患による歩行困難が進み、この一年半程は近くの療養所に入っておりました。そしてジュデイー夫人がほとんど毎日そこに出掛けて、夫に付き添うという生活を送っておりました。

先週の木曜日の朝、ジュデイー夫人から電話があり、アンデイーがこの二日間食事も取らなくなったことを報告してくれました。そこで私たちは何が起こっているのかを察し、その日の午後一番に彼が入っている病院付属の療養所に駆けつけました。私たちが病室を訪ねると、彼はいつもと違って顔の血色もよく、のどかな高いびきで寝ていて、私は吃驚し嬉しくなりました。どう見ても死期を迎えた人には見えません。そこで私が祈り始めるといびきが止み、彼は細目を開けて私を見ましたが、又すやすやとやさしいいびきに戻って行きました。

 

そして二日後の日曜日の朝(6月25日)でしたが、私が主の御前に出た時、直ちに、いつに無い豊かな主のご臨在につつまれました。そこで私は、そのすばらしい愛と平安にひたることができたことを主に心から感謝しました。

 

祈りの後しばらくして、礼拝に出掛ける準備をしていますと、玄関のベルが鳴り、ドアーを開けると、そこにジュデイー夫人が立っていて、ご主人が前日の午後に昇天したことを伝えてくれたのです。

 

そこで私は、その朝の祈りで、いきなり濃い主のご臨在を感じた理由を理解することができました。主が私に「アンデイーは無事、わたしの元にもどって来て今ここに、わたしの側にいるよ。今は全くすべての痛みとか拘束から解放され、すっかり喜んでいる。その喜びを分かち合いなさい。」とおっしゃっておられるような気がしたのです。そして教会の礼拝に出た後も、その日終日私は、絶えず主の臨在を感じて喜びに満ちて過ごしました。

 

その日の礼拝メッセージの中でベンジャミン牧師が、ロマ書12:1

*「・・私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。・・」*

を引用した時、私はすかさず、神が喜ばれる真の*「霊的な礼拝」*とは、

 

「いつも主の栄光を見上げて、主の御顔を拝し」

「聖霊のご臨在と共に毎日を生きる」

 

ことであることにハッと気が付いたのです。それは、私たちが生きる毎日の生活のすべてが「霊的な礼拝」でなければならない、そのためには、私たちが自分をいつも

 

「神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげる」*

 

ことが前提となることです。それ以外のメッセージはあり得ないという確信を持ちました。

 

実は私はその前の週に、今の私たちは、ニューヨーク移転の日取りが決まらない事や、私が書こうとしている本の原稿も思うように進展しないことを含め、どこを向いても八方ふさがりであるように思えたとき、私は分かっていながらも、一瞬強い焦りを覚え、上を向いて大きなため息をついたのです。

 

私自身「主を見つめて待つ」というモットーをいつも自分に言い聞かせておりますが、自分のしたいことが「待たされる」時ほど「自分に死ぬ」ことの必要性を感じることが他にあるでしょうか。皆様の中にもそのような経験をされた方があるいは大勢おられると思います。私は「すべてを主に委ねて生きること」の難しさを過去に数えきれない程感じて来ました。しかし主は、その度に、私たちのミニストリーに Walk With God Ministries =「主と共に歩く」という名前を付けて下さったことを思い起こさせて下さり、それが励みとなりました。この世で生きる私たちの人生とは、まさに「信仰の霊的訓練」に尽きることを今回も改めて教えられると共に、その人生を主が聖霊を通して共に生きてくださる愛と恵みに心から感謝した次第です。

 

モーセから学ぶ主の「ご臨在」の大切さ

 

聖霊のご臨在がどれ程すばらしく、また重要なものであるかは、先ず旧約聖書から学ぶことができます。出エジプト記33:7に、モーセが率いるイスラエルの民が荒野を旅行中に宿営するときに、モーセは「会見の幕屋」(新共同訳によれば「臨在の天幕」)という天幕を必ず宿営から離れた所に張り、誰でも主にお伺いを立てたい者ははそこに行けるようにしました。特にモーセがそこに行く時は、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセがその幕屋に入る迄見送りました。彼がその天幕に入ると雲の柱が降りて来て、その入り口に立ち、その中で、主はモーセと語ります。すべての民は、外に立つ雲の柱を仰ぎ見て伏し拝んだと書いてあります。

そして、主は、人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセに語られました。その後、モーセは主に懇願して「主ご自身が、これからの道を、モーセと民と共に行って下さる」という約束を取り付けました。しかし、もし主のご臨在が民と共に行くのでなければ、私たちをここから上らせないでくださいと、モーセは主に念を押したのでした。そしてその後モーセは主に主の栄光を見せて欲しいと改めてお願いしたのです。

 

後にモーセの幕屋が造られたときには、聖所の前の庭には「全焼のいけにえ」を絶やすことなく主にささげる祭壇が設けられました。それが出エジプト記29:42、43に書かれています。下記をご覧下さい。

 

 「これは、主の前、会見の天幕の入り口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことの無い全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会い。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」

 

私たち霊のイスラエルこそが、「代々にわたって絶やすことの無い全焼のいけにえ」であると私は解釈できると思います。

 

 

 

私たちのからだが聖い生きた供え物となるには

 

他人の臓器移植を受けると元の人の性質とか嗜好が移植した人に持ち込まれることが多いそうです。英国である中年の女性が、オートバイ事故で死んだ18歳の男性から心臓と肺の臓器移植を受けた所、その女性は突然今迄無かった嗜好としてビールが飲みたくなり、チキンの唐揚げが食べたくなっただけでなく、モーターバイクに乗りたい強い気持ちになったそうです。これら三つの嗜好は彼女自身が持っていた嗜好ではなく、その臓器の持ち主から移植されて受け継いだものであったというのです。つまり、人間の身体はその人の生きた歴史を生物学的に記録するというのです。

 

又、感情がその人の生理機能に大きく影響を与えることは誰しも経験します。恥ずかしいことをしたとか、急に怒り出した人の顔が赤くなることや、恐ろしさに手が震えたり、あるいはストレスが身体に大きな影響を与えることはよく知られています。それだけではありません。ボーン・アゲインして霊的なトランスフォーメーションを経験をした人は、実際に「神がその人に移り住む」変化が起きるそうです。すなわち、「聖霊がその人の人体の細胞に影響を与え」名実共に2コリント5:17に書かれている「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」が生理学的に起こると、生理人体専門学位を持つ神学博士のジェン・クラーク師は指摘します。

その一例として、クリスチャンになれば、キリストから霊的な平安が与えられ(ヨハネ14:27)日常生活でその平安と愛を多く経験しますが、一方で、多くの人は、クリスチャンになった後でも、昔経験したネガティブな感情から来る古傷がトラウマとなって残っています。これらは、その人が過去に経験した感情が細胞の上に記憶として残した人生記録の一部ですが、私たちは、聖霊の臨在によってその傷を完全に癒すことができると、クラーク師は言われます。

 

話しは変わりますが、私が未だ牧会していた頃に「クリスチャンはよい香りと味の沁み込んだ『聖霊漬け』にならねばならない」とよく言っていたことを覚えています。これも量子学的事実として理解できるのではないでしょうか。それを言えば、もう一つあります。

 

それは10年程前にジェシカ・ジョーンズ師という預言者が書いていたことですが、師は「人間が合唱するとき、よい声か悪い声かは別にして、私たちは皆音声を持って歌います。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と共に、私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったもので、この合わさった声が音の振動を作り、それが天にまで届くのです。私たちすべての人は音から創られました。私たちが話したり歌ったりする言葉には力があります。そして私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があるのです。事実、すべてのものは物体ではありますがそれは音(振動)であるのです。そして、すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、その色が一致するとき白い色になります。白は私たちすべての心、魂、身体が三位一体の神と一致し調和している色なのです。白は義の衣の色でもあります。それはこの世が見るような皮膚の色とは何の関係もありません。音があなたから発せられ、他の人の音と一緒になって天にまで上っていくのを想像してください。そしてこの力が何百万、何千万という人々の力と一緒になり、天にまで広がってゆき、愛、崇拝、感謝、創造の力となっていくのを思い描いてください。その効果はどんなに素晴らしいことでしょうか。天では絶えることのない祈りと天使の働きにより平和があり、すべての民が絶えず喜んでいるので、言葉で表すことが出来ないほどの喜びが満ちているのです。」といわれます。このようにして私たちのからだが神への「聖い生きた供え物になる」ためには、私たちは常に聖霊のご臨在の中で生き、聖霊によって浄められねばなりません。そのことが2コリント3:16−18に書かれています。

 

「人が主に向く(上を見上げる)なら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊(聖霊)です。そして主の御霊があるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

最後に、私たちが「主を見上げて待つ」祈りをする時に経験する最も大事なことといえば、私たちクリスチャンに内在する聖霊の「ご臨在」に出会うことを期待し、それを待ち望むことであると言うことです。すなわち、それは私たちが顔と顔を合わせて主と対面することが霊的に起こることを意味すると私は信じます。それをモーセはシナイ山上での40日間の祈りで経験し、その後下山したとき、彼の顔があまりにも輝いていたので、民がまぶしくて、覆いを掛ける必要があった程でした。私たちもできるだけ多くの時間を割いて主を見上げ、そして聖霊のご臨在に遭遇することが、私たちのからだ全体を主と同じ栄光に輝く主に似た者に変えるのです。それによって、私たちのからだが主への「聖い生きた供え物」となるのではないでしょうか。

 

さて、そこでその「ご臨在の中に入る」のに、どのくらいの時間が掛かるのかと言いますと、グラハム・クック師は普通10−15秒でそうなれるといいます。私の場合はとてもそんなに早くはできません。私がこのコンテンプレイティブ・プレイヤーを始めた頃は祈り始めて一時間も二時間も掛りましたが、今では普通30分以内です。早くそうなれるかなれないかは、どれ程自分が平静で主の平安の中にいるかどうかによります。何かのプレッシャーとか悩み事がある場合はより多くの時間が掛かることを経験しています。それに、普通クリスチャンになれば、聖霊が内在しますが、それだけでは聖霊のご臨在の前に出たことにはなりません。

本物の聖霊の臨在体験とは、例えば、ビル・ジョンソン師が常に願い、命がけで求めて来られた主の栄光に満ち溢れた臨在の体験であると思います。ーそれは、降りて来る「栄光の雲」を待ち望み、その「霊的環境を造ること」にあります。ジョンソン師と彼の教会が主を礼拝する最大の目的がそこにあり、そのような臨在の中でクリスチャンがみな真の礼拝をするとき、癒しはひとりでに起こるといわれます。

しかし、すべての聖霊体験は、クリスチャンがみな、それぞれ個人的に主に飢え乾き、主との顔と顔を合わす交わりに入ることから始まることを忘れないでいただきたいと思います。(終り)


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