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Walk With God Ministries

12 12月

主の臨在に浸る(ソーキング)    パム・ワトソン         2017年12月12日


主の臨在に浸る(ソーキング)

 

パム・ワトソン (Pursuit church in Auckland, New Zealand)

 

 

詩編37:7「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」

 

これがソーキング(soaking 浸る)の本質です。私たちが神の臨在の中に浸るとき、それは安息して神を待ち望む姿勢です。このように主を待ち望むことを、以前は「タリイング tarryingじっと留まって待つ」という言葉で表現していましたが、それは主を待ち望んで何時間もそこに留まることでした。しかしそれはほとんどの場合、聖霊に満たされるのを目的とし、聖霊を受ける準備を整えながら、嘆願しながら、長時間待ち続けるというものでした。

幸いなことに、今私たちはイエスと神の御こころをより深く知るようになり、私たちが嘆願するまでもなく主は御霊を私たちに注ぎたいと願っておられることを理解しています。ですから主にソーキングするとは、タリイングのように懸命に神に叫び求めるのではなく、主に安息し信仰によって受け取ることを強調しています。

 

栄光から栄光へと変えられる

 

第二コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

神の臨在に浸るとき(ソーキングする)、私たちは主を仰ぎ見るようになり、それによって主のように変えられていくのです。主の臨在に浸るとき、私たちは主を見るようになります。そのとき私たちは必ず変えられます。私たちは栄光から栄光へと変えられ、主に似た者へと更に変革されるのです。

 

主を待ち望む

 

イザヤ40:31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

 

この有名な聖句は、私たちが神を待ち望むときに何かが起こることを教えています。神という存在が、私たちの上に、そして私たちの中に、現れるのです。それは「私たちの弱さが神の強さと入れ替わること」であり、又、「私たちの足りなさが神の能力と入れ替わること」です。神を待ち望んで時を過ごす時、まさにそれが起こります。

多くの者は毎日の生活の中で、すでにこのことを経験しています。朝、主と時を過ごすとき、私たちの一日は力を受けます。神の臨在にソークするとき、この効果は更に強化されます。

 

神を敬慕する

 

ソーキングとは、また、主を喜び、主を敬慕することです。

雅歌2:3−5「私の愛する方が若者たちに間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」

 

神の臨在にソークするのは、主の陰に座り主の臨在の果実を食べるようなものです。雅歌の花嫁のように、私たちも大喜びでそうすることができます。この箇所はまた、主が私たちを酒宴に伴ってくださる時に何が起こるかも告げています。

 

それはただ主だけに可能なのですが、まず私たちが主の臨在の中に入り座すことから始まります。その時私たちは、自分に対する主の愛のもっと深い領域へと伴われます。それは酒宴の席に喩えられています。これは主に対する私たちの愛が増し加わるだけではなく、主の臨在のぶどう主を飲んだ者の外面にも表れる結果となります。人々が笑い、震え、泣くことも多々あります。そしてそのような経験は「酔う」という言葉で表現されることもあるのです。

 

静まり、そして知りなさい

 

詩編46:10「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)

 

この勧めも又、静まって神の臨在の中にソークするときに、神を知り神を経験することが出来ると教えています。主の前に静まるとき、神の臨在の重さ、栄光を感じることができます。しかしこの境地を求めるとき、困難を覚えることもあります。それは、私たちの肉は非常に活発で落ち着くのにしばらく時間がかかるからです。

しかし私たちの肉体ですることは、霊的な領域に力強い宣言をすることとなります。私たちが神の臨在の中に横たわるとき、それは主に降伏し安息を求める姿勢であり、主はそのような私たちの願いを受け取ってくださいます。

 

ソーキングの時にワーシップミュージックをかけるのは助けになります。音楽は雰囲気を整え、心を開き私たちの霊が神への崇拝に立ち上るようにします。崇拝は聖徒たちの愛の歌であり、ただただ主を愛し敬慕するとき、私たちは主の臨在の豊かさを更に大きく経験するでしょう。

ソーキングは肉を静まらせ、霊を立ち上らせます。その時、身体の中に住む「霊」こそが「真の自分」であることに私たちは気付きます。私たちの霊が主との交わりと敬慕の中に立ち上がり始めると、私たちの肉体は完全に安息し、私たちの霊は目ざめて主から何かを受け取る用意が整うのです。

 

主の臨在の中にいる結果

 

多くの場合神からの啓示は、臨在の中でソーキングした結果得られる実です。主は御こころの秘密を私たちに明かすことを喜びとしておられます。

解決すべき私たちの問題を取り扱い、私たちの置かれた状況や問題のために知恵を与えることを喜びとされるのです。

ソーキングで主を待ち望むときに与えられるものの素晴らしさや偉大さは、詩編27で示されています。14節のダビデの宣言でそれは最高潮に達します。

詩編27:14「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」

この詩編でダビデが言っているすべての事への鍵は、主を待ち望むことです。即ち、「1−3節:敵に直面したときの確信と力、4−5節:神の家、神の臨在の中に一生住む願望、6−8節:喜びのいけにえと御顔を求めること、9−13節:敵に対する勝利と神の慈しみを得ること」です。

 

これらすべては神の臨在から流れ出てくるものであり、私たちが神を待ち望むとき、即ち神の臨在の中にソーキングするときに与えられます。

 

イザヤ30:15−17「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』

しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。ひとりのおどしによって千人が逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗やぐらしか残るまい。」

主はここで「救いは主に立ち返り、主に安息することから生まれる」と私たちを励ましておられます。これこそがソーキンングの姿であり、ただ主にのみ可能なことに信頼するのです。主に安息することによって実る実は「静かに落ち着き確信がある」ことです。これが私たちの力の源となります。

残念ながら、私たちの肉は非常に強く支配欲があります。私たちは何かをしたい、したい、したいと思うのです。神の臨在にソーキングするには、何もしないことが必要ですから、それは肉に対する侮辱となります。それ故に人々は葛藤し、神に立ち返り安息することを拒絶します。その結果、人々は敵の攻撃に対して肉では勝利できないことを思い知らされるはめになるのです。

 人々は自分の「馬」は戦い抜くことができると思います。そして自分の努力が失敗に終った時も、主に立ち返るのではなく、以前の2倍の努力をするようになります。その結果、彼らは山の頂の旗ざおのようにポツンと残されるのです。それは、枝を打ち払われた木のように、実が一つもなく枯れ果てたように見えるのです。

イザヤ30:18「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

 

主は何と恵み深いお方でしょうか!

 

彼らは待たなかった故に死んだ旗ざおのようになりました。しかし、主はその時が来るまで待っておられ、彼らを恵みあわれむために立ち上がられました。

そして彼らを救われたのです。主を待つことの方が私たちにとってどれほど優れた道でしょうか!

私たちが待つ者になることを選びとるならば、主は私たちを恵み、あわれんでくださり、そして主の正義を現されて私たちの人生を祝福してくださいます。主を待ち望むことを選びとるとき、それは何と素晴らしい実を実らすことになるのでしょうか。

 

ソーキングは努力するだけの価値を持っています。それは時間を要しますし、自分に死ぬ必要がありますが、その報いは大きいのです。主の臨在への覚醒が増し加わるだけでなく、主の臨在のすべての実や益があなたの人生に解き放たれます。ソーキングは自分の家でいつでも一人で出来ることですが、グループですると

パワフルなものとなります。クリスチャンが集まるとき、グループ全体への油注ぎがあり、神の臨在を見つけるのが容易くなります。

どうかソーキングを始めて、楽しんでください!(終り)


04 12月

二本の木 ウエイド・テイラー(パロウシア・ミニストリーズ)    2017年12月4日


二本の木

 

ウエイド・テイラー(パロウシア・ミニストリーズ)

 

創世記2:9,16−17

「神であられる主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。、、神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。』」

 

主はアダムをテストの環境に置かれました。そしてテストのために、アダムの毎日の生活の真ん中に二本の木を植えられました。 「いのちの木」と「善悪の知識の木」でした。

この二本の木は、その意図と目的において多くの点で異なっていました。アダムは一つの木からは自由に取って食べてもよいと言われましたが、もう一方の木から取って食べることは禁じられました。

「いのちの木」は、主がアダムに吹き込まれた霊的いのちと関連していました。アダムが生きるためには、毎日いのちの木から食べる必要がありました。それによってアダムが自分を造られた創造主に完全に拠り頼む生き方が確立されたのです。もう一方の「善悪の知識の木」は、アダムの肉の命と関連していて、神から離れ独立して生きる道を彼に与えるものでした。

 

「いのちの木」の説明はイザヤ53章にあり、イエスがいのちの木であることを明らかに示しています。

イザヤ53:2「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」

 

堕落した人類は、イエスを 「砂漠の地から出る根」と見ました。彼は見とれるような姿もなく慕うような見ばえもありませんでした。イエスの麗しさは内なるものであり、ただ贖いと啓示を通して初めて認識出来る麗しさなのです。

しかし「善悪の知識の木」はそれとは全く違っていました。それは目に慕わしく非常に美味だったのです。つまり、堕落した人間にとって肉のものはすべてにおいて魅力的に映り、霊的なものは好ましくは見えないのです。

 

神のご計画により、 私たちが主から選ばれるためには支払うべき代価があります。主は霊的な麗しさを内に隠されました。ですからそれは主を心から慕う人々にだけ与えられる「霊的な視力」でしか見ることができません。マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とある通りです。神のご計画により、主の麗しさを見るためには決してあきらめない決意が必要です。「選ばれる者」になるために、知識の木から分離するための代価を払うものは、本当にわずかでしかありません。

 

敵は「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言いました。エバは「ものごとを自分で決める」という権利を「食べた」のです。そしてアダムにも与えたので、彼も食べました。人類が「神のように」なり、創造主から離れて自ら統治しようとしたために、私たちはその恐ろしい代価を今日に至るまで払い続けています。

 

アダムとエバの不従順な行動の後に、主がアダムと共に歩くために園に来られました。アダムは主の臨在から隠れました。彼は自分が「裸だった」ので隠れたと言いました。それは着ていたものを失ったのではなく、「栄光(シェカイナ)の覆い」を失ったのです。それは彼が目に見える主の臨在と主の栄光の中に留まるために必要なものでした。

このシェカイナは今や「炎のつるぎ」となり、いのちの木への道を守るものとなりました。主はアダムがいのちの木から取って食べるのを禁じられたのです。その結果、肉体の死のプロセスが始まりました。創世記3:22で主は「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木から取って食べ、永遠に生きないように。」と言われたのです。

 

アダムは霊的には即時に死んで、主の臨在の中に住むことを可能にしていた覆いを失いました。又、少し分かりにくいですが、肉体的にもその日の内に死んだのです。ペテロは「一日は千年のようだ」と言っています。アダムや彼以後のすべての者は、千年以内に死にました。

 

アダムとエバは自分で選びとる権利を「食べ」、それが彼らの一部となりました。主は動物を殺し( 血による最初の贖い)、その動物の皮の衣で二人を覆いました。彼らの罪は赦されましたが、彼らが食べたもの(自分で選び取る権利)は彼らの内に留まりました。

 

私たちは皆、この選ぶ権利をもって生まれてきました。イエスを救い主として受け入れるとき、私たちは罪赦されて新しく造られた者(new creation)となります。しかしこの「自分で選ぶ権利」は私たちの内に留まったままです。私たちはそれをエデンの園で得、主はそれを私たちから取り上げることはなさいません。しかし、私たちはこの自分の人生の権利を自ら差し出すことはできるのです。

 

ヨベルの年に奴隷たちは解放されます。もしそのまま奴隷であることを選ぶならば、彼らは耳を戸口の柱のところできりで刺し通されます。(出エジプト21:6)何年も前のことですが、礼拝中にこのことが私にとってリアルとなり、私は前に出て自分の人生に対する権利を放棄する願いを表しました。そして講壇の端に耳を当て、主に突き刺してくださるようにお願いしました。講壇の端は突然私にとっては戸口の柱となり、私は自分の耳をそこに当てて、主に突き刺してくださるように願ったのです。主は私の人生に対する権利を私から取り上げるのではなく、私が自ら喜んで主に差し出したときに受け取ってくださったのです。

 

しかしその後も私は一度ならず、「主よ、これは正しくありません。This is not right.」と不平を言いました。その時主はいつも、「あなたにはそれを言う権利(rights)はないのだよ。すべてそれを放棄したのだから。」と言われます。長い年月をかけて、私は「主が一番よく知っておられる」ことを学んできました。このような理解は一日で与えられるわけではありませんが、無条件で自分の人生を主にお委ねすることが、私にとって最善の結果となることが分かってきました。

自ら進んで人生に対する権利を無条件に主に明け渡し、自分の人生全ての上に完全な権威を主に持って頂き、「愛で仕える奴隷」になる決意をしたクリスチャンは本当にわずかです。王国には3つの要素が必要です。即ち、「領地、統治者、統治される者たち」です。主は王であられますが、自ら主に統治されることを願った者たちだけを統治されるのです。

 

私がその決意をした時、主はもはやただ「救い主イエス」とか「油注がれたキリスト・イエス、癒し主、御霊を下さる方」とかではなくなりました。主は私が完全に自分の人生を捧げ、私のすべて、私の持ち物すべてを支配される「主イエス・キリスト」となられました。主は私を「主と共に働き、主と個人的関係を持つ者」へと連れ戻してくださいました。エデンの園で失われたものを回復させてくださったのです。

シェカイナは、無条件で自らを主に明け渡した者たちにこれから完全に回復されます。

主に完全に贖われイエスを主とした者たちを通して、主のシェカイナが真昼の太陽のように輝き出るまで、主は私たちに試煉を与え、私たちの中の不純物を取り去られるのです。

 

第二テサロ二ケ1:10「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者のーーそうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。——感嘆の的となられます。」

イザヤ60:1−3「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光の上に歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

 

私たちは主の栄光が現れるのを見ようとしています。しかしまず、私たちは自分の人生に対する権利を放棄せねばなりません。それによって主イエス・キリストが栄光の中に来られ、私たちを通して主の命を生きることができるからです。(終り)


27 11月

神の知恵がもたらす安らぎ    ラナ・ヴァウサー         2017年11月27日


神の知恵がもたらす安らぎ

 

ラナ・ヴァウサー

 

今主は、疲れた者たちに知恵を与えておられます。

キリストのからだの 多くの者が、神の約束の明確な成就がないので非常に倦み疲れ落胆していることを、主が教えてくださいました。

 

思いがけない事が起り、約束が揺り動かされ危うくされて、多くの人が深い疲労感の中にいます。彼らは次つぎに困難が襲ってきたときも、頑張って希望を持ち、頑張って立ち上がり、頑張って信じ続けるために今まで戦ってきたのです。しかし今、多くの人が混乱し、頭がぐるぐる回り、疑いの思いが沸き起こっているのを主が見せてくださいました。

 

疲れた者のための知恵

 

このように疲れて混乱している人たちに対する主の御こころの思いを、私は非常に強く感じました。主が「疲れた者のために知恵が与えられる」とはっきり言われるのを私は聞きました。今人々が置かれている状況に必要な神の知恵、洞察、明瞭さ、識別、励ましを主は解き放たれています。

「主はどこに導かれるのか、何を言われているのか、行く手に何があるのか」という問いに関する更に深いレベルの啓示が与えられて、それが疲れた者たちの心を癒し、疲労を癒します。

 

主が言われました。

「このシーズン、疲れた者の多くは打たれ、傷つき、打ち叩かれたが、彼らは忠実であり続けました。彼らはわたしとの親密な関係を保ち、彼らの心は絶えずわたしに寄り添い、わたしにむかって開いていました。彼らは他のものに心を向けず、純粋にわたしを求めつづけ、わたしを礼拝し、わたしの前にひれ伏しました。彼らの心はわたしにむかってこう叫びました。

『主よ、私にはなぜこうなのかは理解できません。でもあなたを愛します!あなたの御こころがなりますように、御こころがなりますように、私のいのちはあなたのものです。』と。

わたしは彼らの叫びを聞きました、讃美のいけにえを聞きました。

疲れた者たちが落胆や激しい戦い、痛みの中にあってもわたしに従順であるのを見て、わたしの心は動かされました。わたしの麗しい者たちよ、わたしは今日あなたに言います、『重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

わたしの麗しい者たちよ、あなたの上に休息が来ます。それによってあなたは元気づき、リフレッシュされ、新たな喜び、期待、将来へのヴィジョンで満たされます。戦いの中で味わった失望、疲労、落胆はあなたから喜び、情熱、将来へのヴィジョンの多くを奪いました。多くの者は敵の攻撃の的となり、わたしが解き放っている約束と打ち破りの種を盗まれていたのに気づかずにいました。

 

あなたは疲れ果ててもう戦うことができないほど弱っていますが、今日、麗しい者よ、わたしはあなたの収穫の時が来ています、と宣言します。敵はあなたが収穫のシーズンに入る前にあなたを疲労困憊させようとしているのです。わたしは今日、あなたに言います。あなたは、約束の種、従順の種、讃美の種、宣言の種が、思ったより早く実を結ぶのを見るのです。』」

 

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨を元気つける。」(箴言3:6−8)

疲れた者の多くが、 疲労や落胆、苦痛を通して主との親密さが増し加わり、主がそれを喜んでおられるという思いで私の心は一杯になりました。彼らは主のご計画の全貌を知ることは自分には出来ないことをますます認め、いのちを捧げ、暗闇の中でもただ主を畏敬と驚嘆の念を持って崇め、主の御声に従って誠実に歩き続けたのです。

 

癒しとリフレッシュが来ます!主が言われました。

「疲れ果てた場所に、今わたしのこころの更に大きな知恵をあなたは持ち運びます。」長い戦いの道のりの中で、 あなたは自分が理解できない場所にいる時さえ主の御こころを求め続け、主の知恵を叫び求めました。主はあなたの叫びを聞かれました。あなたは今、あなたの置かれた状況に対する主の御こころの更に大きな知恵と洞察を持つのです。火の中で、あなたは主の御こころを今まで以上に見出したのです。火の中であなたは主を全く新しく見出し、主はあなたの目と耳をもっと鋭くしました。それによって天の知恵があなたの人生にもたらされ、あなたは人々をも励まし助けることが出来るようになるのです。

 

「幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。その儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠より尊く、あなたの望むどんなものも、これと比べられない。」 箴言3:13−15

 

天の口づけ

 

多くの疲れた者が、神経質になり、「次に何が起こるのだろうか、自分は正しい方向に進んでいるだろうか、自分が聞いたのは本当に神の声だったのか」と心配し恐れているのを私は見ました。それは戦いや思いがけない攻撃によって彼らが混乱しているからです。

主は、あなたの不安な気持、恐れ、緊張感、そしてあなたが「主よ、私はあなたの道を進みたいのです!」と叫んでいるのを知っておられます。

私は「天の口づけを受けなさい。」という言葉を聞き、主のフェイバーの封印が、「指針」と「あなたの心の願い」の上に降りてくるのを見ました。

 

あなたの行く手には天のフェイバーの接吻が来ようとしています!!あなたがまさに主の道を進んでおり、主の御心を聞き、正確に見たのだという確認を、神は非常に美しく深い方法で、大きなファイバーもってしてくださいます。そしてあなたへの約束の言葉が事をなし成就するのを主が見守ってくださっています!

 

麗しい 主イエスへの讃美と敬慕の深い思いがあなたの内からふつふつと涌き上がってきます。主は主の御こころと御ことばの啓示の深みへとあなたを連れていき、あなたは圧倒され、もはや疲れを忘れ去るでしょう。主の心からリフレッシュの泉がわき、あなたの心の疲れた部分を再び生き返らせるのを見るでしょう。

 

主がささやかれました。「疲れた者よ、あなたがわたしに忠実であったことへの報酬を、あなたの目で見る時が来ようとしています。」

どうか、知恵のリフレッシュの川で主とダンスをする用意をしてください!!!!(終り)


20 11月

聖霊があなたのすべての心配を拭いさる    キャサリン・ルオナラ    2017年11月20日


聖霊があなたのすべての心配を拭いさる

 

キャサリン・ルオナラ

 

心配が平安と喜びを奪う

 

最近 一日の休みを与えられ幸いな時をすごしました。毎日ずっとミニストリーをしていたので、とても感謝しました。聖霊と話をしようと散歩にでかけ、あたりを眺めながら会話を楽しんでいました。しかし、聖霊が語り始めたとき私の潜在意識の中はいろいろな心配事で一杯であることに突然気が付かされました。それは私が心配する権利もない事柄に関してだったのです。主が「あなたはそのような事を考えるように造られてはいません。」と言われる声が聞こえました。

 

そして、私の思いが常に「心配」という場所に行き着くように設定されていることも知らなかったことに私は気がつきました。私は内なる自分の意識の流れ(誰にもありますが)の潜在意識のレベルで物事を心配する習慣が出来ていたのです。その多くは私が必要とする事に関してで、あの事この事が巧くいくだろうか、何か問題が出て来たらどうしよう、というような心配でした。

 

私は、心が少しリラックス始めると、山積する問題が表面に浮かび上がってきて、それをどう解決しようかと考え始めて随分と頭のエネルギーを使って疲れるのでした。私は心配の中で生きるというわなに落ちてしまっていたのです。

以前は、もし誰かに「あなたは心配性ですか?」と聞かれたならば、私は「違いますよ。」と答えたと思います。私はもともと心配性ではないと思います。実際、私はいつもハッピーな人だと思います。しかし、私の思いは「心配という古い人間のパターン」に常に戻るように設置されていたのです。

 

ほとんどの人は、すべての事に関して「もしも〜これこれのことが起こったら?」と考える傾向があります。その傾向が私の意識下に潜んでいました。聖霊はそれを表面に浮かび上がらせ、私はそのような事を考えるようには造られていないことを優しく思い出させてくださったのです。心配は平安と喜びの盗人です。

 

上にあるものを思う

 

数日後、このような聖霊と私との会話を何も知らない牧師が預言をしてくれました。「神は、何かを心配するためにあなたを造られたのではないと言われる。あなたの思いは、奇蹟や主がこれからなさる(すばらしい)事に留まるべきです。」

 

これは私にぴったりの預言でした。私たちの思いは「どうして? いつこんな事が起こったのですか? もしそうなったら?どうなるんですか?」

というような神への質問ですぐ一杯になってしまい、それらは執拗に私たちの思いの中に現れます。

 

「神は何をなされるのだろうか」と期待することと、「何が起こるのだろうか」と心配しながら生きることとは違います。

もし意識的に「心配な思い」を「神の真理(第二コリント10:5)」に交換しないならば、私たちの思いは後者の方に自然に行き着いてしまうのです。私たちは第一ペテロ5:7で「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と言われています。恐れと思い煩いで心が一杯になるのは、私たちが造られたブループリントにはないことです。

 

恐らくあなたは「聖霊と共に生きる」というのは、奇蹟、御ことばの宣言、力のミニストリーなどの外面的な実に関することだと考えておられたと思います。それらは確かに聖霊との交わりの結果の一部であり、今それがますます現れてきています。しかし、もしあなたが外面的力の中を歩みたいならば、内面も整えねばなりません。聖霊の力は、慰めを与えるために私たちの内部に働き始められるのです。聖霊との個人的な親しい交わりは、外面的な力が生まれる場所なのです。

 

聖霊はあなたを慰め、あなたの考えを変えて解放することによって、あなたがもっとよい事について考える余裕を与えたいのです。あなたは「ただの人間」として考えるようには召されていません。あなたはキリストの心を持っています。(第1コリント2:16)あなたは愛に根ざし神の愛に基礎を置くように召されているのです。(エペソ3:17)この愛を知ることだけが、神の満ち満ちたさまに満たされることです。(エペソ3:19)

「私たちのうちに働く力によって(エペソ3:20)」私たちが願ったり考えたりすることを、神は「豊かに、思いを越えて、溢れるように」してくださることにもう気がつかれましたか?

このような私たちの内なる力は、宗教的に正しい行動をすることからではなく、本当に知り信じることから来ます。それは私たちの心と思いから始まります。そのためにはパウロが言う「心の一新(ローマ12:2)」という整備が必要なのです。

 

思い煩いを主にゆだねる

 

私たちの思いや考えを変える重要な方法の一つは、自分の思い煩いを主にゆだね、主がそれを必ず取り扱ってくださると信頼することです。第一ペテロ5:7で使われている「ゆだねる cast」という言葉のギリシャ語は「epiroto」で、それは「急な動き、素早く投げること」を意味します。

「もしも〜が起こったら」という心配が起きたときには、常にすぐその思いを投げ捨てて「私の問題ではない。私とは無関係だ。」と宣言することを主は望んでおられるのです。

 

もしあなたの人生に何か恐れや心配のもととなるものがあるならば、それを無視してはいけないと神は言っておられます。それを主のもとに持って行くのです。(ピリピ4:6−7)

素早く、意図的に、投げるように主に渡してしまうのです。その時に感謝をしながらすることが非常に大切です。というのは、それによってあなたが主を信頼していることが分かるからです。感謝をもって主にお願いするとき、あなたは主があなたのために働いてくださるだろうかと心配はしていません。主はそうしてくださることをあなたは知っているのです。それを主に明け渡し、あなたの心配をはね飛ばして主の平安と交換するのです。

 

今週あなたが主と交わるとき、あなたの心配をすべて主に委ね、主があなたの願いに御心のままに答えてくださると信じてください。私たちの地域や国の霊的リーダーのために続けて祈ってください。世界規模のリバイバルのために祈るときにイスラエルや同盟国のことを覚えてください。自然災害、犯罪、テロなどによって被害を受けている人達のために祈ってください。

 

サンクスギビング、クリスマスの季節に当たり、慰め、癒し、助けの必要な人達をどのように助ければよいかを主に訊いてください。(ピリピ4:4−5、第一ペテロ5:7)(終り)


13 11月

主が祈っておられることを祈る   ダッチ・シーツ           2017年11月13日


主が祈っておられることを祈る

 

ダッチ・シーツ

 

 イリノイ州の牧師夫人であるデルブラ・プラット師の言葉を紹介いたします。

「私たちは『大胆に信じることの大切さ』をあまりにも強調する結果、物事を深く考えたり主の御こころを求めることなしに「信仰による宣言」をしてしまい、角笛を吹き、旗をふり始める傾向があります。(訳者注:カリズマ系のクリスチャンに多いですね。)

 

立ち止まってその事に対する主の見解を訊ね、私たちが何を祈り、何をなすことを主が願っておられるのかをお訊きすることをほとんどしないのです。残念なことに、私たちは人から祈りの要請を受けると「いつも通りの慣れた応対」をして、「自分勝手な祈り」をし始めるのです。

 

その結果私たちは、余りにもしばしば「神の祈り」を祈りません。

 

確かに主から啓示と識別が与えられるのを待つのは忍耐を要するかもしれません。「何を祈ればよいのか」、またある場合には「何をするべきなのか」を、

聖霊に導かれつつ聖書を丹念に調べねばならないケースも多々あるのです。

 

このように主の啓示を求めるならば、私たちは主との親密な関係を築くことができます。このプロセス全体を通して私たちの信仰は成長し、心は新しくされます。天国はどのように機能するかという幾つかのパターンを私たちが見始めるからです。私たちは今までよりもっと神と神の取られる方法を知るようになります。」

(引用終り)

 

 今まであなたが主の御心を求めないで多くのことを「自分のやり方」でしてきたことを悔い改めましょう。今日、主と共に静かに時を過ごそうではありませんか。言葉を口から出さずに、ただじっとしていてください。

 

主が今日、あなたに、アメリカのために祈ることを願っておられることがあるかを、尋ねてください。主が言われたことを祈り、また宣言してください。主がある聖書箇所に導かれることもあるでしょう。

 

祈りますー「主よ、あなたからの指示なしに、すぐに祈り、行動したことを赦してください。私はあなたを愛しております。愛の関係は親密さが土台です。今日私はただ黙してあなたとしばらくここに座していたいと思います。もしあなたが私に知らせたいことや、示したいこと、教えたいこと、また私に祈るべきことがありましたら教えてください。」(終り)

 

 

 以上のメッセージは、妻の柚実子が今週のWWGMGMのために選んで訳したものですが、この短いダッチ・シーツ師のメッセージを読んで,私は自分が昔書いた本「主を見つめて待つ」で私が取り上げたテーマであることを思い出しました。そして、このシーツ師のメッセージに、今の教会が最も必要とする「クリスチャンの基本」の一つが説かれていると思ったのです。正直なところ、今の時代は十字架のメッセージが欠けていると最近私は、しきりに思わせられております。

 

 

 そこで、ご参考になればと思い、私が昔書いた「主を見つめて待つ」という小冊子(2003年発行、2008年再販)の中から、下記の部分(86−88ページ)を引用しますのでご高覧下されば幸いです。(坂 達也)

 

「愛の十字架を生きる」

 

 ブラザー・ローレンスが、何をしていてもいつも主のことをお思い、主を喜ばすこと以外には何もしない、主と絶え間なく会話をしながら、主の臨在と共に生きる、主と二十四時間共に語り合いながら過ごすお話を先程ご紹介しました。霊的になることがこの域に達すれば、「あなたと神の関係はもう一段階深いレベルになります。」とマダム・グイヨンは言いました。

[この婦人は十六世紀のフランスで当時のカトリック教会と論争を引き起こし、ついにはルイ十四世によってバステイーユに投獄されましたが、彼女の書いた「イエスキリストの深淵を経験する」という本は彼女の自伝と並んで、女性が書いた、キリスト教会史上最も影響を与えた本と言われます。私はその本から総て引用しています。]

 

「それは、あなたの人生に対する態度と考え方を、根本的に変えることを意味します。すなわち、それは全面的に自分の存在の権利を放棄し、神に手渡すことです。」とマダム・グイヨンは言っています。

 「具体的に言えば、あなたの身に毎時毎分起こっている出来事の総てが神の御心であり、神の許可なしに起こるものは一つもなこと、総てが神から来て、総てがあなたに必要なことであると心から信じるのです。これを信じられれば、あなたはどんないやなことが起こってもそれを甘受できます。主を本当に知りたいと願うなら、このコミットメントを生涯続ける決心をしてください。一時的な決心では進歩しません。全面的かつ無条件に自己放棄することにあなたは同意しますか。そうすれば、あなたは自らの自由意志を無条件に放棄して、今日からは完全に主の持ち物になるのです。」

 

 この決心は決して生易しいものではありません。又、生易しく考えてはいけないと思います。私はこの本を読んだ時、「待って下さい。私はこれもしたい、あれも今祈って待っています。主よ、それら総てを放棄するんですか。」と思わず心の中で主に訴えました。正直なところ放棄すると考えただけで恐れが出て、ものすごい不安に駆られたのでした。

 それは本当にあなたの必要とするものも、したいことも全部放棄するのであるからです。あなたの望んでいる「霊的になること」すらもです。あなた自身は勿論です。一切を神に差し出すのです。

 

 それでは実際に毎日の生活の中でどうすればよいのかと言えば、マダム・グイヨンは「毎時、毎分、あなたが何かをしたいという思いが来たら、すかさずそれを断念して、その思いに対する主の御心を聞くのです。その時、自分の思いがどれ程よいと思っても、自分からの欲望なら全部ギブ・アップすることです。」と言います。

 この断念し、ギブアップすることを徹底的に行えば、自分には全く無関心になる心境に達するでしょう。しかし、そうすれば、考えられない程すばらしいことが起き始めます。」とマダム・グイヨンは続けます。その結果は「自分から完全に解放され、後は主の御心だけを熱望するようになります。」又、「主があなたを離さなくなります。そして深い深い愛の関係に入ります。」そして「主に総てを放棄した人に対して主は特別の嫉妬を持ちます。その人には主以外のいかなる楽しみも持たせないように主はします。」と言います。

 

 自分を主に完全に放棄する、私はこれが十字架であると信じます。そしてキリストの愛の中に入るのです。自分を放棄してキリストに生きる、これはよみがえりのキリストと一つになることではないでしょうか。

 マダム・グイヨンは続けて言います。

 「あなたは十字架を心から愛するようにならなければなりません。」

 「十字架を愛さずに主を真に愛することは不可能です。」

 「あなたはどれ程迄イエスを飢え乾き望みますか。」

 「神は十字架を下さるか、十字架が神を私たちに下さるのです。」・・・

                            以上です。

最後に、もし私の拙書「主を見つめて待つ」ー霊に目覚め・神の声を聞く方法ーにご興味がおありの方がおられましたらお申し越し下さい。未だ在庫がいくらかありますのでお送りさせていただきます。(坂 達也)


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