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Walk With God Ministries

11 06月

神は私が呼ぶとき答えて下さる     バジレア·シュリンク


神は私が呼ぶとき答えて下さる

 

             バジレア·シュリンク

 

 

 

 詩篇50:15「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたは私をあがめよう。」

 

 この御言葉は、聖書に示されている終末的様相をますます帯び、多くの苦悩が心をむしばもうとする現代に生きる私たちへの、神からの力強い呼びかけです。

 悩んでいる人は誰でも助けを呼び求めます。子供は母親を呼び求め、大人は自分にとって親しい人を呼び求めます。しかし、その助けを求める叫びが聞かれぬままに消えてしまうことを、しばしば経験するのではないでしょうか。自分を愛してくれる人々や、とても親切で世話好きな人であっても、ほかのことに心をうばわれていて、私たちの叫びが聞こえないことがあるかもしれません。

 あるいはまた、私たちの問題に対して、どうやって助ければよいかわからないこともあるでしょう。

 

 こうした時、主なる神が「わたしを呼び求めなさい!と呼びかけておられるとは、何とすばらしいことでしょう。誰かが「どんな時でも電話をかけてきなさい。相談にのりましょう。私にまかせなさい!と言って助けの手を差し伸べてくれる時、それは私たちにとってどんなに励ましになるでしょう。私たちはその時、あらゆる苦悩と心配事の只中にあっても、安心していられるのです。

 しかしいま、このような呼びかけが天と地を造られたお方、私たちをあがなってくださった主イエス·キリストからなされているのです。主はその愛ゆえに私たちの心が悲しみに満ちていることを、また私たちがあれこれの問題に対処できないでいるのをすべてご存知です。愛に満ちたまなざしで、イエスは私たちの心にあるすべてのことをごらんになります。主お一人が私たちの心をわかって下さるのです。なぜなら、主は苦しみを受けられ、私たちと同じように試みに会われたからです。しかし、それだけではなく、主は、私たちがどのような悩みの中にあっても助けを備えて下さり、すべての問題を解決できる唯一のお方なのです。

 

 

 それでは、イエスという名にはどんな意味があるのでしょうか。イエスとは「神は救いたもう」という意味です。神は助けであり、救いであられます。

  言いかえるならば、主イエスが私たちを助けず、救い出さないことなどあり得ないのです。主のご性質とみわざは、愛と救いによって特徴づけられます。なぜなら、イエスは愛そのものであられるからです。主は、憎しみをもって敵対した人や、主をいやしめ、あざけった人のためにさえも、苦しみに耐えられたお方です。それゆえイエスが私たちを愛して下さっていることを決して疑うことはできません。

 人間の愛は、すべて主イエス·キリストの内にある愛の炎と比較すると、はかない小さな花火でしかありません。イエスが私たちに惜しまず与えて下さるのは、この燃えるような神の愛です。多かれ少なかれ、だれもが悩みの中にある今日、イエスは救いをもたらす神の愛を、かってないほど私たちに体験させたいと願っておられます。

 しかし、主イエスの助けは自動的に受けられるものではありません。イエスは生ける主であられ、その愛を押し付けることはなさいません。主はご自身を呼び求める者にのみ、近づいて下さるのです。それゆえ私たちは、このように主イエスをほめたたえましょう。

 

 主イエス様、

 あなたは「しかり、アーメン」なるお方です。あなたを信じる者はあがない

 を体験します。

 あなたは救い主であられますから、私を罪の鎖から必ず救って下さいます。

 あなたのもとに来る者は決して滅びることはありません。

 「わたしを呼び求めなさい!」と主が招いておられる時、私たちは実際にそ

 うしなければなりません。くり返し起こる災害、殺人、暴力、暴動、戦争の

 脅威、キリスト者に対する迫害といった毎日のニュースの接する時、私たち

 はこれらから思いが離れない、という危険にさらされます。しかしそれで

 は、意気消沈や苦悩、恐れから脱することはできません。イエスを呼び求め

 るとは、いわば「自分自身から飛び出す」ことです。

 

 意気消沈している時、私たちは助けを呼び求めることを始めなければなりま

 せん。そうすることによってのみ、憂うつから脱することができるのです。

 しかし、「主イエス様、あなたはともかくも私を助けてくれるでしよう·

 ···」と祈るだけでは十分ではありません。私たちは確固たる信頼をも

 って、主の御名を呼び求めるべきです。その時何かが起こります。なぜな

 ら、この叫びは神のこころに届くからです。神は助けを求める者はだれで

 も救われる、という驚くべき約束を与えて下さっているのです。

 

 神がご自身の言葉を守られるということを私はくり返し体験してきました。

 主の御名は、「しかり」であり、「アーメン」です。しかしながら、祈り

 が答えられるためには、一つの条件があります。それは主の御名を心から

 呼び求めるということです。そしてこれは、子供でさえ理解し、行えるこ

 とです。

 今日、若い人々の間でも、霊魂や悪魔と接触を持つことがごく普通となっ

 てきています。中にはオカルトの講座さえ提供する学校や大学があります。

 その結果悪魔が勢力をふるってきているのです。これは事実です。イエス

 は生きておられます。しかしサタンもまた、今日私たちが体験しているよ

 うに、現実なのです。だれでもサタンと接触を持つ者は、激しい精神的苦

 悩に陥ります。最初サタンは若者を自分の支配下に入れるために、セック

 スや麻薬を使って舞台裏でこっそりと働いていましたが、今や公然と自分

 自身を現しているのです。

  それゆえ「わたしを呼び求めなさい!」とイエスが招いておられるのは、

 何とすばらしいことでしょう。主はサタンと地獄に打ち勝った勝利者であ

 られます。イエスの御名を求める者はだれでも、あらゆる暗闇の力からの

 開放を体験するでしょう。

 

 

 主の御名のちから(という歌)

  

 1.「主の御名のちからわれはあがめん つみのくさりからわれをはなつ

 2.御名が呼ばわれば、やみは去りて、み国のとびらが われに開かん。

 3.主の御名のちから われはたたえん、地獄の支配を うちくだかれん

 4.主の御名はきょうも わが喜び、こころの悲しみ いやしたもう。

 

  私たちにはこのような主がおられるーーこれは何とはかりしれない恵み

 でしょう。死人の中からよみがえり、御父のもとへ帰られて、今や無数の

 天使たちに礼拝されている主イエスは、それで満足されるはずではないで

 しょうか。しかし、主イエスは私たちをあまりに愛しておられるので、そ

 の愛ゆえに私たちの方へと駆り立てられるのです。主は偉大なる大祭司と

 して、神の御座でたえず私たちのためにとりなしておられ、常に魂を救っ

 ておられます。愛ゆえに主は決して休むことなく、暗黒の力から、次々と

 魂を救い出しておられるのです。ーーーこれは何とはかりしれない恵みで

 しょう。私たちは、イエスのこのあがないの力をたんに一度だけではなく、

 たえず新たに必要としています。

 

  私たちはみな先祖から受け継ぎ、私たちの中に深く根づいている罪深い

 性質の特徴、たとえば神経過敏症、不きげん、肉の欲望、うそをつくこと、

 ねたみ、苦々しい思いといった性質を持ってはいませんか。それはまるで

 泥沼につかっているようなものです。そこでイエスは「今わたしを呼び求

 めなさい!」と招いておられます。もし今あなたが呼び求めず、ただ成り

 行きにまかせるなら、あなたはますます深く沈んでしまい、そしてそれは

 自分の責任となります。···

 

  主を呼び求める時、私たちはイエス·キリストーーー「人の子らにまさ

 って麗しいお方](詩篇45:2)、愛をささげるのに最もふさわしいお方

 との、聖なる交わりに入れられます。それは何と幸いなことでしょう。

 主イエスは贖われた者たちの花婿であり、威厳と栄光をおびてこの地上に

 再び来られる王の王であられます。···この暗い時代に、主を求めるこ

 とができるとは、何とすばらしい神からの贈り物でしょう。···すると

 にわかに私の心は慰めと喜びに満たされます。····以上はバジレア·

 シュリンク師の小冊子から引用しました。

 

 (追記)私、坂 達也は、これこそ、まさにクリスチャンの毎日の生き方

 である「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について、

 感謝しなさい。···」(1テサロニケ4:16、17、18)の意味で

あり、特に「絶えず祈りなさい。」(「主からの御言葉を直接いただく」

の意味するところ)であると信じます。ハレルヤ!(終わり)


05 06月


信仰の言語と量子論と アネット·キャップス

 

                   坂  達 也

 

 

アネットさんは言われます。

 「量子論の仕組みは、あまりにも奇妙で奇抜なため、それを表現する言葉がありません。これが、多くの人が量子物理学に興味を持てない理由の一つです。ほとんどの人にとって、量子物理学は理解できないものなのです。

 

 私たちが住んでいるこのマクロな世界での素粒子の振る舞いの例を見せれば、理解してもらえると思います。しかし、量子ミクロの世界は、私たちが日々観察している自然(マクロ)の世界とは、上下が逆になっているように見えることがあります。

 

 量子物理学を勉強していると、それがとても身近に感じられるようになりました。それは「信仰の言葉」のように聞こえました。私が長年にわたって教えられてきた信仰や告白に関することが、突然、科学的に可能になったのです。イエス様が教えてくださったから信仰で受け入れたことが、まるでイエス様が量子原理の言葉を話しているかのように聞こえたのです。言葉が山を動かすというのは、どれほど奇妙なことなのでしょうか。

 

 イエスの言葉を信じるためには、古い考えを捨て、新しい考えを受け入れることが必要です。イエスが教えてくれた言葉は、世間的に見れば無意味なことのように思えますが、イエスは「私たちはこの世のものではない」と言っています。私たちはこの世にいますが、この世のものではありません(ヨハネ17:16)。

私たちは、イエスが神の国の法則と呼んだ、別の法則の中で活動しているのです。神の国とは、神が住んでいる領域のことです。

 

 

異なる領域  異なるルール 

 

  神の国の法則は説明できません。それは、物質的、物理的なレベルではなく、創造の基礎となる、より高い原理に基づいているからです。創世記第1章には、神が御言葉によって目に見えないものを存在させたことが記されています。言葉目に見えない振動は、明らかに物質を顕在化させたり変化させたりする効果があります。

  説明のつかないこれらの法則を、あなたはすでに経験しているかもしれません。

あなたは信仰に基づいて経済的な種を蒔いたことがありますか?10ドルを寄付して、100ドル、1000ドルと豊かになることができるのはどうしてでしょうか。この原理がどのように働くのか、数学的に説明することはできません。しかし、神の国の原理がどのように働くのか、イエスはまさにこのように教えておられるのです。···」

 

 以上は Annette Capps  アネット·キャップス師の小冊子の一部から取ったものですが、私はこの方のことを近いうちに出版予定の私の3冊目の本で紹介しています。

 何故この部分だけを引用させていただいたかといえば、実は、今は天に召された私の家内の柚実子が、地元ニューヨークの教会で、今となっては最後の機会をとらへて、一〇1献金がどれほど大切かを皆さんに訴えました。それが私にとっては彼女の遺言であったような強い印象を持ったのです。彼女もこのアネットさんの小さな一文を読んでいたと思いました。

 どうぞ皆様、10いち献金の尊さを、柚実子からの遺言としてお受け取りくだされば幸いです。

 

主にあって      坂 達也


31 05月

なぜ復活されたイエスは弟子たちではなく 女性たちに現れたのか?     WWGM 坂 達也


なぜ復活されたイエスは弟子たちではなく

            女性たちに現れたのか?

 

                WWGM     坂 達也

 

 

Faith Life 社のスタッフジェス·ホランド

        とマシュー·ボフィ氏の書いた記事のご紹介

 

 

 土曜日、彼女たちは休息していました。しかし、日曜日の早朝、女性たちは行動を開始しました。愛に突き動かされた彼女たちは、イエスの身体を称えるために香辛料や香料を集めました。彼女たちは、日曜日の朝が人類の歴史の中で新しい一日を迎えたことを知らなかったのです。神は、すべての時間の中で最も偉大なニュースを伝えるために、小さな女性のグループを選びした。なぜですか?

イエスは違っていました。

まず最初に、福音書の中での女性の役割と、イエスが女性とどのように関わっていたかを大まかに見てみましょう。

すぐにわかるのは、イエスが女性を大切にし、尊敬していたということです。例えば。

イエスは母マリアを愛し、十字架の上で死にかけているときでさえ彼女の世話をしました(ヨハネ19:26-27)。

井戸端で出会った女が自分に価値を見いだせなかったときも、イエスは親切に対応されました。(ヨハネ4:1-42)。

弟子たちを叱りつけ、高価な香料をイエスの頭にかけた女性を弁護し、その信仰と謙虚さを尊重しました。(マルコ14:1-11、ルカ7:36-50)。

また、福音書からは、イエスの従者の多くが女性であったことがわかっています。彼女たちは、弟子たちと一緒に旅をし、彼らの働きを経済的に支え、できる限りイエスに仕えました。

その後すぐに、イエスは神の国の良い知らせを宣べ伝えながら、町や村を回って行かれた。12人はイエスと一緒にいたが、悪霊や病を癒された女性たちもいた。マグダラと呼ばれるマリヤは、7つの悪霊がいなくなっていたし、ヘロデの家政婦チュザの妻ヨアンナ、スザンナ、その他多くの人たちは、自分の財産を使って彼らに仕えていたのです。(ルカ8:1-3)。

また、福音書の記述によると、イエスに従っていた同じ女性たちが、イエスの十字架刑に立ち会っていたことがわかります。David Rhoads氏はこう書いています。

語り手であるマルコは、『マグダラのマリヤ、若いヤコブとヨセの母マリヤ、サロメ、その他多くの女性たち』がイエスに仕え、ガリラヤでイエスに従い、イエスと一緒にエルサレムまで行ったと伝えています。

実際、これらの女性たちは、弟子としての役割を続けています。イエスの母マリアとヘロディアスを除けば、これらの女性たちは名前が挙げられている唯一の女性であり、12人と同様に、短いながらも物語の中で継続的な役割を担っています。

彼女たちは、磔刑の現場に居合わせたり、墓場に行ったりして危険を冒し、香辛料を買ってイエスに油を塗ることで奉仕の意思を示します。特に女性の脇役たちは、12人の失敗や不在の中で、弟子としてのあり方を模範としています1。

しかし、なぜイエスは12人の弟子ではなく、彼女たちに現れたのでしょうか?

 

 

意外な情報源

 

なぜイエスが男性ではなく女性に最初に現れたのか、聖書にはその理由が書かれていないので、確かなことはわかりません。しかし、その理由を推測することはできます。

まず、4つの福音書すべてが、空っぽの墓を最初に見たのは女性であり、天使に出会ったと断言していることに注目してください(マタイ28:5-8、マルコ16:1-8、ルカ24:1-8、ヨハネ20:1ff)。マタイとヨハネは、これらの出会いの後、イエスが女性たちの前に現れたことを認めています。

このように細部が一致していることは重要です。すべての記述が一致しているのです。

しかし、もっと重要で、実際には不可解なのは、イエスがなぜこのようなありえない情報源をニュースを広めるために女性を選んだのかということです。

 

古代の世界では、女性の証言がほとんど重視されなかったことはよく知られています。

法廷から女性が排除されるのは当たり前で、法廷は男性が男性のために作るものでした。バビロニア、エジプト、カナンの女性は法廷に出ませんでしたし、ギリシャの女性は後世になっても出ませんでした。ローマの女性は法廷で証言することはできても、遺言書の証人になることはできませんでした2。

ジョエル·グリーンはルカの注釈書の中で、女性の証言に対して弟子たちが不信感を抱いた理由として、この点を肯定している。否定的な反応は、女性を証人として認めることに偏見のある世界で、報道をしているのが女性であるという事実によって説明されます3。

では、なぜ福音書記者たちはこのような詳細を記載したのでしょうか?福音書の読者も同じような反応をするのではないでしょうか?そして、なぜイエスが最初に男性の前に現れ、彼の復活の証言がより広く受け入れられるようにしなかったのでしょうか?

それはおそらく、福音書が捏造されたという非難を封じ込めるためであったからでしょう。

 

 

信じられないほどの信憑性

 

もし使徒たちが復活を捏造したのであれば、女性が最初に目撃したとは書かなかったはずです。4。

マイケル·リコナが詳しく説明する。女性の出現や空の墓が歴史的なものであることを主張する主な論拠は、初期のキリスト教徒がこの物語を創作しなかったということである。Bauckham氏は、グレコローマン世界では、教養ある男性が女性を “宗教的な問題に騙されやすく、特に迷信的な空想に陥りやすく、宗教的な行為に過剰になる “と見なしていたという証拠を示しています。ユダヤ文化における女性観の低さを示す多くのユダヤ人の資料も同様に引用できるが、タルムードからのものは後世のものであることは認めざるを得ない。また、ルカの福音書24章11節にも注目したい。

古代における女性観の低さを考慮して、女性たち、特にマグダラのマリアの姿を、恥ずかしさという基準で歴史的なものと見る人が多いのです。福音書記者、特にマルコは、最初の伝承で記憶されていたことと違うのであれば、女性を復活したイエスの最初の目撃者とするために、既存の証言を捏造したり、調整したりすることはあり得ないと思われます。多くの人にとって信じがたいイエスの復活の報告を捏造し、女性を最初の目撃者として加えることで、その困難をさらに増大させる理由があるでしょうか?もしマタイが女性の弟子たちへの出現の話を作ったのであれば、復活したイエスを最初に見たのは男性であると描いた可能性の方がはるかに高いと思われますし、特にマルコが自分の福音書にそのような出現を書かなかったのであればなおさらです。サンヘドリンのメンバーであるアリマタヤのヨセフを挙げて、女性の問題を完全に避けたのではないか?このように、バウカム氏が評価しているように、1世紀に報告書が信用されなかった理由は、21世紀になっても信用される理由になっている。これらの物語は、当時、説得力を持たせるためにうまく作られていないように見えるので、歴史的に、つまり、今日、歴史的に批判的な考え方を持っている人々が信じることができる可能性が高いのです。 したがって、復活の物語に女性の目撃者が含まれていることの最も妥当な説明は、その伝統の記憶があまりにも強く、広く浸透していたために、それを含めなければならなかったということです。5。

 

 

 以上の記事をご紹介した理由は、復活された主イエスは、12弟子(皆男性)の前にではなく、数人の女性の前に現れました。何故でしょうか?ーこの事実を皆様どのように解釈されますか。歴史的に見ても、クリスチャンですら多くの人が訝る事実です。

 

 

 私、坂 達也は、目下3冊目の本を書き終えつつあり、出版の準備に入ろうとしている最中です。

 この本では「なぜ神は、この終末の時代に至って、パンデミックのコロナウイルスを世界中に蔓延させているか」ーーというテーマを取り扱っています。

 

 実は、その本の4章「神は人間を男と女に創造した」で、私は聖書の創世記2:21−24に書かれている下記の掲題:

 「神はなぜ、最初の人間·男のアダムの肋骨の一つを取り出して、それから女· エバを造ったのか

 を取り扱わせていただきました。

 そして、特にこの重要な問題について、世界的に有名な女性の宣教団体「アグロー」を率いておられるジェーン·ハンセン·ホイト師が書かれた「神が男女を創造されたときの計画とは·マスタープラン」という本をご紹介しています。

 

 従って、この章を通して「なぜ復活されたイエスは先ず男の12弟子ではなく、数人の女性の前に現れたか」の答えを書かせていただきましたので、ご期待下さると共に、私の新しい本の出版に関してもお祈りいただけますようお願い申し上げます。(終り)


20 05月

聖書の終末観を知る重要さ(下) マイク·ビクル


聖書の終末観を知る重要さ(下)

 

マイク·ビクル

 

 

神学的にも終末の世代について知ることは重要です。聖書はアダムとイブの時代以来のすべての世代の中でこの世代について最も多く語っています。どうしてでしょうか。主は「それがどれほど重要か、あなたは知っていますか?」と言われるのです。その時代がいかに栄光に満ちているか、そして同時にいかに惑わしに満ちているか、いかにパワフルであると同時にいかに危険に満ちているか、、。このような時代に生きた世代は未だかつでありません。この時代にどのように生きればよいかを示唆できる世代はないのです。

 

驚くべきことに、聖書の150以上の章の主たるテーマは主が帰ってこられる終末に関する記述です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を合わせると89章になります。90章近くがイエスが初めに来られたときの記述です。しかし再臨に関しては150章あるのです。主が再臨されたとき、どのようにリーダーシップを取られるかについてです。終末に関しては興味がないと言われる方に申し上げたいと思います。あなたは福音書のイエスと同じイエスがこの世をどのように治められるのか、興味がないのですか?イエスの地上でのご計画について興味がないのですか?同じ聖書の中の、同じ聖霊が書かれたイエスに関する記述です。どうしてそれを無視するのでしょうか。

 

私は61歳ですが、私の世代を見てみますと多くの人が終末に関して学ぶことを避けています。そしてその結果、若い世代にそれを教えることができていません。それは非常に問題であると私は思います。なぜならば、今私たちは現にその終末の世代の始まりにいると思うからです。一世代がどれほどの長さであるかはわかりませんが、この150章に関して教え始めるのは、決して早すぎることはないのです。今教会ではこれに関して教えるのはポピュラーではありませんが、私はそんなことは気にしません。今20代の人が終末に関して知らないならば、恐れやつまづき、混乱、妥協、背教の危険にさらされるのです。

神の恵みにより、若者に聖書の筋書きを教えようではありませんか。しっかりと計画をもってシステマティックに教えて行こうではありませんか。一回のセミナーとか夏期講習で網羅できることではありません。

 

また、終末に関する聖書を知る重要性は預言的な理由もあります。今がどのような時代であるかに関してイエスは幾つかの出来事を示しておられます。主は「あなたがこれを見たとき、終末の世代にいることを知りなさい。」と言われました。クリスチャンは自分がその世代にいることがわかるということです。使徒たちもいくつかの終末の出来事を挙げています。旧約の預言者たちもいつくか挙げています。100以上の事柄がありますがそのうち2つだけを述べたいと思います。

 

マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされて、それから、終りの日が来ます。」ここで「すべて国民

all the nations」と言われているのはギリシャ語ではエスノスで、エセニックグループ、すべての民族ということです。世界には3千以上の民族がありますが、ミッション活動のリーダーたちは、福音は3千すべての民族に歴史上初めて2020年までに伝えられるであろうと言っています。いままで2千年のあいだ、そのように言われたことはありません。イエスはそれが起こったあと、終りの日が来ると言われたのです。これは非常に重大な終末のしるしであるにもかかわらず、キリストのからだの大部分は「それはいいね。」くらいにしか捉えていないのです。

 

次に、使徒2:17に「終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」とあります。教会時代の最初の200年は聖霊を受けることは当然のことでしたが、その後1800年間は聖霊は片隅に追いやられていました。1920年頃には百万人くらいの人が聖霊を受けていましたが、その50年後には6千万人となり、使徒行伝の時代以来はじめて聖霊を受けることが標準的なこととなったのです。それと「福音がすべての国民に伝えられる」こととが重なっているのは、決して偶然ではありません。イエスが言われた終末のしるしの殆どすべてのものは、世界的にどんどんと加速し増大しています。すべての事柄が揃ってきているのです。キリストのからだの一部はそのことに注目していますが、全く無視している人達も大勢います。

 

次に社会的な終末のしるしを二つ挙げたいと思います。まずイスラエルの民が祖国にもどったということです。1948年のことです。イスラエルは殆ど2千年のあいだ国がなかったのですが、聖書はイエスの再臨の前には彼らが祖国に帰っていることが条件だと言っています。1948年まで聖書教師たちはそれに関して「何のことがわからない。」と言って、そのようなことが起こることはあり得ないと考えていました。ところが突然一日にしてイスラエルは国家となったのです。これは世界に衝撃を与えましたが、一番驚いたのは聖書教師たちでした。「聖書の言葉は文字通りだったのだ!」と衝撃を受けました。私たちは歴史上かつてなかった時代に生きているのです。聖書の預言はイスラエルが再び建国されるまでは成就されなかったのです。でも今はそれが起こる可能性のある時代です。これは全く新しいシーズンが始まった合図でした。

 

マタイ24:33に非常に重要なイエスの命令があります。これはただの招きではなく命令です。「そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」「これらのこと」とはイエスが終末のしるしとして語られた事柄であり、実際に今世界規模でそれらが起り始めています。それらを見たときには再臨が近いことを「知りなさい」というのは、ぼんやりとではなく、確信をもって知りなさい!という命令です。そして34節で「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代(generation世代)は過ぎ去りません。」とあります。一世代は百年続くかもしれませんが、もっと短いかもしれません。そして36節に「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」とあるので、聖書教師たちは「その時は全く予測できない」と解釈してきました。しかしイエスは、もしあなたが終末の世代に生きているのならば、それを知りなさい、と言われました。日と時はわからないけれど、その世代は分かるのです。イエスが終末に起こることとして示された事柄は、すべてではないにしても殆どすべてが現在起こり始めています。今、聖書の筋書きに注目する時ではないでしょうか。父の世代が子の世代に教え、子が次の世代に教えていく時ではないでしょうか。多くの者は今聖書の筋書きを教えられていません。その結果は混乱と恐れと惑わしに陥り、つまずいてしまいます。そして大いなる背教が起こるのです。そのようなことが皆さんや皆さんが導いている人たちに起こらないようにしようではありませんか。

 

ダニエル11:33に「民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。」とあります。これは終末の聖書的筋書きを理解している人たちは多くの人を教えることができるという意味です。多くの人とは、何百万、何千万の人だと思います。人々の中に聖書ではどう言っているかを明確に知りたいという飢え渇きが爆発的に起こるのです。その時聖書教師が必要となります。歌い手、ミュージシャン、本を書く人、映画を作る人、ソーシャルメディア、説教者が必要になります。勇敢に聖書が言っていることを様々な手段で伝える人達です。この1、2年、様々な声が巷で騒がしくなってきました。これからの10年、15年はますます混乱してくることでしょう。世界規模で本当の理解を求める飢え渇きが起こります。神は「思慮深い人たち、理解する人たち」を起こされています。私はそのような人たちを「先ぶれのメッセンジャー」と呼びます。神はアジアにおいてそのような人達を起こされています。アフリカで、ラテンアメリカでも、いろいろなミニストリーを起こされています。私たちのミニストリーも他のグループと交わりながら、神が聖書を通してそれぞれに示しておられることから学びあっています。すべてを理解しているグループはありません。お互いが必要なのです。

 

ここに来ておられる皆さんも「理解している人」になることができるのです。何故ならば聖書は誰でもそれを求める人にはその理解を与えてくれるからです。学ぶには少し時間はかかります。ミニストリーでは様々な働きがありますが、それと同時に終末に関する勉強もして行かねばなりません。私は何万人もの先駆けをする人たちを起こしてくださいと、神にお願いしています。世の中で何が起ころうと、それが神のご計画の中でどのように用いられるかを理解し、恐れず確信をもって信仰生活ができるように人々に教えて行かねばなりません。20代の人も80代の人も神は用いられます。ソーシャルメディアで80代のおばあさんでも発信して世界中の何百万人に教えることが出来るのです。

 

最後に私の体験をお話したいと思います。20年ほど前のことで、IHOPを始める以前のことです。私はカンサスで牧会をしていました。私は教会の祈祷室でイザヤ63章を読んでいました。2、30人がそこにはいました。この箇所はキリストの再臨についてですが、少し変っています。あまり知られていませんが、非常に重要な箇所です。私はこのような霊的経験は40年間で3、4回しかしていないのですが、それは私の人生を変えるほどのものでした。イザヤ63章を読んでいると、聖霊の炎と熱が勢いをもって私を包みました。私は「一体何が起こっているのだ、、、」と思いました。又、聖霊の風が私の周りに吹いているのを感じました。それが一時間ほど続いたのです。何かが起こっていることは分かりましたが、それが何であるかは全く分かりませんでした。

 

イザヤ63:1でイザヤは次のように質問しています。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」

イザヤは2700年前にメシアがエドムからエルサレムに行進してくる幻を見たのですが、それが誰であるかは分かりませんでした。エドムは今のヨルダンです。イエスはヨルダンを通ってエルサレムに来られたのです。その衣は紅く染まっている。どうしてでしょうか。エルサレムは異邦人の国々に取り囲まれて攻撃されようとしていました。イエスは再臨のときのエルサレムを救うために来られます。ダビデより、ヨシュアより、モーセより、エリヤより偉大な方がエルサレムの救いをもたらすために来られるのです。その方は「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」と答えます。

イザヤは「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」と尋ねます。3節でメシアが答えます。「わたしはけものを礼拝するものたちと戦い、わたしの衣は彼らの血で赤く染まった。わたしは人間の酒ぶねを踏んだのだ。わたしは彼らをとり除いた。」そして「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。わたしと共にことをする国はなかった。」と言われました。

すべての異邦人の国々がエルサレムに敵対したのです。イエスは「他のどの国も、どの軍隊もわたしと共に戦ってくれなかった。誰ひとりわたしと共に立つものはいなかった。わたしが裁きをもたらしたとき、すべての者はわたしに敵対した。わたしは一人で彼らをすべて踏みつぶし、それでわたしの衣は血に染まっているのだ。復讐の日だったのだから。イザヤよ。」と言われたのです。

 

私はこの箇所を読んでいたのですが、一時間ほども聖霊の炎と熱に包まれ、聖霊の風が周りに吹いてました。主の言葉が私に来ました。「わたしが裁きのために来るとき、(それは愛を阻むすべてのものを取り除くためです)あなたはわたしと共に立ってくれるのか?」と。それは主から私への個人的な言葉でした。「多くの者はわたしがあわれみと共に正しい裁きをするとき、わたしにつまづくのです。誰もどの国もわたしと共に立ってはくれない。あなたは立ってくれますか。」と語られました。私は泣いていました。イエスとの激しい出会いでした。「主よ、私はあなたと共に立ちます。」と私は申し上げました。「世間からどのように悪く言われようとも、多くのクリスチャンから嫌われても、あなたのご計画に従います。」と。

 

その時祈祷室にいた一人の人が私のところに来て肩を叩き「私はヴィジョンを見ました。」と言いました。私は「今はお願いだから邪魔しないでくれ」と心の中で思いましたが、彼は次にように言ったのです。「主は今あなたにイザヤ63章について話しておられます。私は天使があなたに炎を注いでいるのが見えました。天使の羽根が風を起こしているのも見えました。」私は驚いて何も言えずに彼を見つめていました。非常に強烈な経験でした。彼は「主はあなたに一つの質問をされました。あなたはイザヤ63章の深紅の衣を着たイエスを人々に説きますか。

人々に受け入れやすい説教だけをするのではなく、血染めの衣を着たイエスを語りますか?と主は問うておられます。」彼はそう言ってから去っていきましたが、私はそのまま泣いていました。

 

その日、私は主と契約を結びました。「主よ、私はあなたの裁きがどのようなものであるか、理解はできません。終末に関する150章を理解はできていません。2、3の事は知っていますが詳細は知りません。でもあなたの問いに対して私は『はい。』とお答えいたします。」

 

どうか皆さんも血染めの衣を着た主の問いに「はい。」と答えていただきたいと思います。(終り)


15 05月

聖書の終末観を知る重要さ(上) マイク·ビクル


聖書の終末観を知る重要さ(上)

 

マイク·ビクル

 

 今日は聖書の「終末観」を理解することが非常に重要である理由をお話したいと思います。ある人達は「私はそのようなことに関心はありません。」と言います。しかし聖書にはその重要性が書かれていますし、今は聖霊がその重要性を語っておられる時です。人々の預言とかではありません。聖書そのものに書かれていることを把握することです。今人類の歴史に大きな嵐が襲おうとしています。聖書はそのことを明らかに語っています。大きな嵐がすでに襲い始めていて、世界の問題が急速に増大しています。最早1990年代の世の中に戻ることはありません。もっと暗やみが深くなっているのです。暴力、悪魔の力、性的倒錯が増していきます。しかし、それだけではありません。神の栄光も増し加わるのです。神は、教会を建て上げて、神の栄光を現す場所とします。今の深い闇の中にご自分の栄光を現わされるのです。

私は皆さんによい知らせがあります。歴史は栄光へと向かって進んでいます。暗やみの中にすばらしい栄光が現れるためです。私たちは麗しいリーダーであられるイエスに従っている者です。主は非常にすばらしご計画を持っておられます。

 

終末のことを語るとき、私は「ユニークなダイナミックス」という言葉を使います。人間の歴史の中である一つの世代が、他のどの世代とも違ってユニークだからです。その世代には最も強烈なネガティブなものと、最も強烈なポジティブなものが同時に起こります。そのような時代を経験した者は今まで一人もありませんでした。人類にとって始めての経験です。最大の悪魔の暗躍がすでに始まっていて、しかもそれが急速に増大しています。しかし聖霊の最大の傾注もすでに始まっています。使徒行伝を越えるようなリバイバルが世界中で始まります。それは「24/7の祈りのムーブメント」によって支えられています。祈りと賛美が地上から立ち上り、打ち破りとリバイバルが起ります。

 

主が帰ってこられるのを経験する世代に特有のことがもう一つあります。その世代に生きている人の数は今までのどの世代よりも多いということです。聖書ではその世代に関して、他のどの世代に関するよりも多く語っています。

どうしてでしょうか? それはその世代がユニークであり、重要であり、栄光に満ちたものであるからです。それは危険であり、恐ろしく、ものすごいのです。

 

私は今まで40年以上牧師をしてきましたが、教会は今、終末に関する知識が非常に希薄になってきています。今世界が何に向かっているかを理解していないのです。私の知っているクリスチャンは皆イエスを愛していますが、殆ど終末に関心がありません。私は「聖書に書いてあることをよく見てください。」と彼らに言います。「もう一度よく見て、考え直してください。」と。なぜならば、終末に関する聖書の言葉を知らないままに、その時代に突入するならば、非常な混乱と恐怖がキリストのからだを襲うことが絶対に避けられないからです。

 

イザヤ60:2を見てください。「見よ。やみ (darkness) が地をおおい、暗闇が諸国の民を覆っている」とあります。悪魔的なもの、性的倒錯などすべての闇です。しかしそれが話の結末ではありません。それと同時に主は御力をもって主の民の上に来られるのです。暗やみが最も深い時に、主の栄光が人々の目の前に現れるのです。

 

「これから世の中はよくなりますか?それとも悪くなりますか?」と私は多くの人に訊かれますが、その答えは「どちらも」です。悪魔が暗躍する暗やみもますます深くなり、御国の人々と御国を受け入れる人々の上に輝く栄光も大きくなるのです。それが同時に起ります。ハガイ2:6を見てください。「まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。」神が空中を揺り動し、地を動かすとき、海と陸が揺り動くのです。さら7節には「わたしは、すべての国々を揺り動かす。」とあります。国家の政治が揺り動かされ、国々の社会構造が揺り動かされるのです。どうしてでしょうか?7節の続きに「and the Desire of All Nations shall come (そして彼らはすべての国々の望みである方が来る)」とあります。すべてのものが揺り動かされるのは、人々が今まで拠り頼んでいたものを揺り動かすことによって、彼らが救いを他に求め、すべての国々の希望(Desire of All Nations)であるイエスの麗しさと栄光を見て、彼こそ自分の希望であることを悟るためです。

 

イエスは人々が切に願うものとなります。イエスの麗しさを人々が見出す時となるのです。私は一億の人が主のもとに来ると信じます。ものすごい数の人たちが全世界で救われてきます。ニューヨークとかロンドン, ベイジンのような大都会では何百万人といる人が救われるでしょう。今まで想像もしたことのないような魂の収穫が起こります。主は人間が拠り頼んでいたものを揺り動かして、人々が真の拠り所を捜し始め、イエスの麗しさを発見するようにされるのです。そして次に「わたしはこの宮を栄光で満たす」と主は言われます。主が戻られる前に、使徒行伝を越えるようなことが起こると私は信じます。それは私たちの肉にとっては困難な時となりますが、霊的には栄光ある時となるのです。イエスを愛する者が生きるのに最高の時代となるのです。しかしイエスを否むものにとっては、最も危険で困難な時となるでしょう。

 

あるミニストリーは「艱難」にだけ焦点を当てて、栄光の希望について話しません。また、あるミニストリーは偉大な終末のリバイバルについて話しますが、艱難に関しては話そうとしません。ポジティブな事だけ話したいからです。私もポジティブでありたいですが、それ以上に正確でありたいのです。聖書は「艱難の中で栄光に輝く教会」を語っているからです。両方を語っていない終末論を受け入れないでください。それは聖書の言っていることではないからです。

 

この艱難が持つ危険性は、それが人々を混乱に陥れるからです。多くのクリスチャンは困難が増し加わる時に混乱してしまいます。それに関する教えを受けたことがなく、聖書もよく読んだことがないので、困難に襲われたときに混乱するのです。ですから聖書が語っている筋書きをしっかりと知る必要があります。何が起こっているのか、これからどうなって行くのか、という筋書きです。それが分かっているならば、私たちは確信を持つ事ができます。そういう人はどのような時にも愛に溢れ、動じることはありません。彼らは麗しい栄光に満ちた王のリーダーシップの下に自分がいることを知っています。栄光あるすばらしい計画が進められていることを知っています。大いなる暗やみをも征服する力ある王を信頼して進むことができます。

 

しかし、多くの世の人々は間違った選択をしてしまいますし、クリスチャンであっても多くの人が間違うのです。聖書の筋書きを知らないならば、私たちは必ずこの世の解釈を受け入れてしまうからです。聖書の筋書きを知らないと、いろいろな声が聞こえてくる大混乱の中では、必然的にこの世の筋書きを受け入れてしまうのです。

 

聖書の終末の観点を知る必要性は、牧会上大いにあります。聖書の筋書きを知っている人たちは、神を信頼して確信をもってすべてを受け止めることができます。しかしクリスチャンであってもこの世の筋書きしか知らない人たちは、非常に恐れを持ってしまうのです。恐れが人生を支配してしまうならば、私たちは往々にして間違った判断、決断をしてしまいます。イエスは終末の世代に関して、人々は恐れると言われます。聖書の筋書きを知らないので、何が起こっているのかわからないので恐れるのです。また、あるクリスチャンは、イエスにつまずき腹を立てます。「こんな困難が起こるとは教えられていない。聖書は本当に神の言葉なのか。イエスは信頼するに足るのだろうか。」と。サタンはクリスチャンがイエスに信頼するのではなくつまずくことを願っています。

 

またあるクリスチャン達は、騙され惑わされます。聖書ははっきり言っていますね。終末には偽りの正義が起り、偽りの統一宗教の動きが起り、偽りの愛、偽りの恵みが説かれると聖書は明確に述べています。

ある牧師が「正義、一致、愛、恵み」という言葉を用いて説教をすると、人々は「すばらしい!」と言います。しかし聖書の言葉を用いてはいても、それが正しく聖書が説いている意味で用いられているかどうかを吟味せねばなりません。惑わしは一般社会でも非常に深くなりますが、それは教会の中にも入りこんできます。イエスの終末の教えを調べるとわかりますが、主は艱難に関することよりも惑わしについてもっと多く語っておられます。終末と聞くと、多くの人は艱難とか迫害とかを思い浮かべますが、イエスが教会に警告したのは「惑わされないように」ということでした。

 

第二テサロニケ2:3でパウロは「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起り、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」と言っています。これは非常に重要な預言です。イエスの再臨の前には、クリスチャンの背教がまず起こるのです。これは聖書の預言の中でも非常に厳しいものの一つだと私は思います。クリスチャンの背教が起こることはイエスもパウロもペテロも旧約の預言者たちも言っています。背教はただクリスチャンが罪を犯すというのではなく、彼らが恐怖に陥ったり、イエスにつまずいたり、この世の偽りに惑わされたり、敵が背後にいるムーブメントに引き寄せられたりするからです。多くの者が主から離れて行きます。

 

イエスの再臨は二つのことが起こるまでは起こりません。それは背教と滅びの子の現れです。

再臨が近いことがどうしてわかるでしょうか。それは数日後かもしれませんし、数十年後かもしれませんが、近いことがわかるのです。その一つの現れはキリスト教の伝統の中で育った人たち、主のために燃えていた人たちさえ、信仰を捨てている事実です。もう一つは滅びの子の現れですが、これは反キリストが世界的に現れるということです。これは非常に重大な出来事ですが、それと同じほどに背教がすごい規模で起こるということです。教会から少しずつ人がいなくなる、というような小さなことではなく、世界的に劇的な背教が起こるのです。それは反キリストの現れと同じほどに劇的で大規模なことです。

私は40年以上牧師をしていますが、信仰を捨てる人たちがこの4、5年ほど多いことはありませんでした。これは他の牧師たちもそう言っています。数年前には祈祷会でリバイバルのために熱心に祈っていた人が、信仰を捨てていくのです。今は背教の時代の始まりだと私は信じます。(続く)


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