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13 01月

プレイズとワーシップの相違点   ボブ•ソージ    2020年1月13日


プレイズとワーシップの相違点

 

ボブソージBob Sorge Ministry)

 

 

プレイズとワーシップの幾つかの相違点を明確に把握することは、私たちの助けになると思います。多くの場合、この二つは違う領域で機能します。しかし、時にはこれらを区別することがほとんど不可能なこともありますし、同じ礼拝の中でこの二つが別々の人々によって同時に行われることもあります。

 

私たちが手を上げて主の御前で踊るとき、プレイズをしているのでしょうか、それともワーシップをしているのでしょうか? それはどちらでもあり得るのです。というのはプレイズとワーシップの外面的な姿は、多くの場合、全く同じだからです。

 

プレイズとワーシップを切り離すのは、魂と霊を切りはなすほどに難しいことです。魂と霊は人間の持つ二つの異なる面ということは確かですが、その違いをはっきり区別するのは簡単ではありません。自分の内に一つの感情が生じたとき、それが「霊由来のもの」、あるいは「魂由来のもの」と決めつけることが私たちにできるでしょうか? 魂と霊を見分けるほど鋭いものはただ一つだけであり、それは神のことばです。(ヘブル4:12)私たちは自分自身の内にあるものの違いさえも判断できないのです! 同じようにプレイズとワーシップは二つの違うものですが、切り分けられないことがよくあるのです。

 

祈り、感謝、プレイズ、ワーシップという4つ表現は、非常に深く関わっています。これらの4つは互いに互いの領域と重なって存在しているからです。

プレイズとワーシップの違いは、ほとんど「仮に違いがあると想定するならば」と言ってもいいほどです。しかし、この仮説ともいえる相違点を調べることによって、私たちはワーシップのエッセンスをもっとよく理解することができると思います。

 

1.まず第一に、神は私たちのプレイズを必要とされません。私たちに「神をプレイズする必要」があるのです。神は私たちに「プレイズせよ」と命じておられますが、それは「神がそれを喜ばれるから」とかではなく、それが私たちのうちに良い変化をもたらすからです。私たちが神と正しい関係となり、神の御前にへりくだるためのプロセスの中でプレイズは必要なステップなのです。

 

神はあまたの被造物からありあまる賛美を受けておられるので、私やあなたが賛美することを拒んだとしても問題はありません。しかし御父はワーシップをする者、ワーシッパーを心から求めておられます!(ヨハネ4:23)ここで、神が求めておられるのは「礼拝 ワーシップ」ではなく、「礼拝者 ワーシッパー」であることに注意してください。神は私たちのワーシップを必要とされるのではなく、ワーシッパーとしてのライフスタイルと思考態度を身につけた者たちを熱心に求めておられるのです。

 

2.2番目に、プレイズをする時は、主と自分との距離があまり近くない場合もありますが、ワーシップのときは主との親しい交わりがあります。プレイズをするとき、その人の心が神の近くにある必要はありません。私は飲んでどんちゃん騒ぎをしながら神を賛美し始めた男たちの話を聞いたことがあります。

 

ワーシップはそれとは違い、私たちを神のこころに引き寄せます。神との関係はワーシップには必須です。なぜならば、ワーシップは一方通行ではなく両者の間を行き来きして、受け取ったり与えたりするものだからです。プレイズは一方通行で上に上っていくことができますが、ワーシップには親密な交わりと communion が伴うのです。

 

3.次に、プレイズをすると、それは常に目に見えたり聞こえたりします。しかし、ワーシップは傍目には分からないことがあります。ワーシップがプレイズと同じようにはっきり傍目に分かることもありますが、いつもそうではありません。

 

ワーシップをしている人が主の御前に謙虚に自分をすべて注ぎ出すとき、まるで死んでいるかのように見えることもあり(黙示録4:10、11に出てくる長老の姿を参考)ですからワーシップをしているかどうかを外見で見分けるのは難しい場合もあります。賛美は目で見えるので、賛美をしているかどうかを判断することはできるかもしれません。しかし本当にワーシップをしているかどうかを判断できるのは、ただ一人のお方、神だけです。

 

4.4番目に、プレイズはその目的においてほとんど水平方向のものですが、ワーシップは縦の関係に動くものです。私たちがプレイズするとき、水平に多くのことが起こります。互いに主のことを語ったり、互いに主への賛美を宣言したりします。しかしワーシップはもっと個人的なものであり、三位一体の神にもっと集中してかかわっていくものです。ワーシップには少しは横の要素もありますが、それが主となるものではありません。

 

プレイズは多くの場合、ワーシップに入る準備になります。完全にワーシップに入る前にプレイズをまずするようにと、神が教えてくださることがよくあります。それは、自分の内なるすべてをもって主を賛美することを会得するならば、そこからすばらしいワーシッパーへになって行くのがたやすくなるからです。

 

しかしながら、私たちが賛美するとき抑制されていて解放されていないならば、ワーシップにおいても縛られていることになるでしょう。ですから心からのプレイズはワーシップへの入り口と考えていいでしょう。多くの場合ワーシップよりもプレイズのほうが始めやすいでしょう。ですから、もしワーシップへ入るのに困難な時は、プレイズから始めればワーシップがもっと楽に流れ出すでしょう。私たちはプレイズに入るようにと歌い始め、そしてワーシップに入るためにプレイズをするーしかし歌うことが必ずプレイズに入っていくという保証はなく、又プレイズをすることが必ずワーシップへ入っていくという保証もありません。

 

5.この点に関しては例外がありますが、一般的に言うと、ワーシップは通常ゆっくりした歌によって行われ、プレイズは早めの歌によって行われます。

 ゆっくりしたテンポがいつもワーシップを表して、早いテンポはプレイズだということではありません。そうではなく、ゆっくり目の歌のムードがよりワーシップにつながりやすく、早めの歌がプレイズの性質にもっとよりそいやすいということです。

 勿論、時として例外はありますが、このように考えることは、私たちがプレイズとワーシップの違いを理解するのに役立つと思います。実際のところ、ある歌がプレイズのためかワーシップのためかを見極める最良の方法は、テンポが早いか遅いかではなく、歌詞の内容を見ることです。

 

しかしながら、私たちは次のことを忘れてはなりません。音楽はワーシップの一つの道具にすぎないのです。ある人は「私はワーシップをこのように強調することには全く興味がありません。私は歌うことが好きではないからです。」と言うかもしれません。歌を歌うのが楽しいとかいうことは全くワーシップとは関係ありません。音痴の人も沢山いますが、彼らもすばらしいワーシッパーになり得るのです。

ルカ7章で、イエスの足に油を注いだ女はワーシッパーの最たるものです。回りには何も楽器の演奏はなく彼女も歌を歌いませんでしたが、彼女は最も注目され賞賛されるべきワーシッパーでした。ワーシップは音楽的な活動ではなく心の働き a function of the heart であるからです。

 

6.プレイズとワーシップの相違点の最後ですが、プレイズをするとき、私たちは時に非常に積極的に煽る必要があります。そうすることによって私たちの肉と魂をかき立てて主を賛美することが必要な時も多いからです。

しかしワーシップはそれとは違うレベルで機能するようです。ワーシップは、プレイズと同じようには人間的な努力によって効果があるわけではなく、ワーシップは神の臨在の中に静かに無心にひたるという様なものだと言われます。私たちの霊は喜んでワーシップをしたいのですが、私たちの肉は弱く気が進まなくてしぶるのです。プレイズは肉を通して表現されるので、肉をふるいたたせる必要があります。しかしワーシップは霊の機能なので、必要なのは肉をふるいたたせることではなく、霊のドアの鍵をあけ、霊を解放することにあるのです。

 

以上のような説明で、ワーシップがプレイズよりも優っているとか崇高だと言っているわけではありません。両者ともに同じように重要であり、すべてのクリスチャンの人生やすべての教会にとって重要な役割を果たします。

 

もし私たちが「プレイズよりもワーシップの方がより好ましい、重要だ」と考えるならば、礼拝の中で常にプレイズからワーシップへと早く進んでいかねば、とあせる気持ちが働くでしょう。しかし、しばらくはプレイズに留まっていたり、最高のプレイズを頂点として終わるというのが一番適切な場合もあります。

又、ある人たちは歌詞は誰に向けて書かれているかにあまりにも注意を払いすぎます。即ち「この歌は自分に向けられているのか?それとも私の回りの人にか? それとも神にか?」という風にです。神に向かって語りかける歌が、神について語っている歌より優れているとかふさわしいということはありません。

 

神にとって重要なのは、その歌が一人称で書かれているか、二人称か、三人称かということではなく、私たちが神との麗しい交わりに入ることです。私たちはあまりにも自分の内側ばかりみて「今私はプレイズしているのだろうか?それともワーシップしているのだろうか?」と心配するようなことに陥らないようにしましょう。あなたの焦点を方法や技法にとらわれないで、主への愛を表して主を喜ばせることに集中しようではありませんか。

 

ある人たちは、プレイズは神殿の「外庭」であり、ワーシップは「内庭」だという間違った考えを持っています。プレイズとワーシップの間にはっきりした境を設けるのは不自然で人為的なことです。

 

例えば、プレイズの時に起る身体の動きはワーシップの中でも行われます。私が両手をあげているとき、プレイズをしているのでしょうか?それともワーシップをしているのでしょうか? どちらの可能性もありますし、もしかして両方しているかもしれません。ダンスはプレイズの形だと考えるのが普通ですが、ある時私は主の御前に力をつくしてワーシップの表現として踊ったときのことを覚えています。

叫ぶ、手を叩く、歌う、、確かにこれらはプレイズの外面的な姿ですが、これらもワーシップでも用いることができます。しかし、全く外面的には何の表現がなくてもワーシップをしている場合もあります。

 

 プレイズとワーシップはどちらが高尚なのでしょうか? その答えは、「その時に聖霊が導かれている方が一番すばらしく高尚である。」です。

 

ヨハネ4:23−24

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(終り)


06 01月

2020年を迎えて                坂  達 也       2020年1月6日


2020年を迎えて

 

               坂  達 也 

 

 先ずは謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

 2020年は大変な年になりそうです。世界情勢は混迷の一途にあり、至る所で、ほとんどの人の予想を超えた緊急事態が毎日のように発生しています。

 

 その中にあって、私たちは夫婦は昨年末にお伝えしたフランジペン師の「ニネベの断食」のメッセージは、私たち自身に与えられものであること、加えて、しばらく断食をしていないことに心から「悔い改めの念」が起き、2020年を迎える今こそ断食祈祷が必要であることを深く認識しました。

 ついてはこの新年は何をさておいても、私たち自身の心を一新すべく「3日間の断食による祈り」をもって迎える決心をした次第です。

 その準備として、先ず最初の2日間を2食抜きの一食断食で心身共に整え、昨日の聖日から三日間断食に入りました。

 最初、この断食の祈りをできれば少なくとも1週間、願わくば3週間と思い立ったのですが、家内から高齢と多少の病持ちの私にはそれは絶対無理と言い渡され、やむなく水だけの3日断食祈祷ということになりました。(但し前後を入れれば7日です)

 

 申し上げるまでなく「断食を通しての祈り」をすることの重要性は、旧・新約聖書を通して多くの箇所で示されております。モーセは少なくとも二回、水も絶った完全なる40日断食をしたと言われています。主イエスご自身も「悪魔の試みをうけるため、御霊に導かれ荒野に導かれ・・・」(マタイ4:1−2)40日間の完全断食をされた後に空腹を覚えた時、試みる者・悪魔」が近づいて「あなたは神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」と誘惑しましたが、それに答えて主は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われました。それは申命記8:3他に書かれているマナを指していました。このマナは、神が荒野を旅行中のモーセが率いるイスラエルの民全員に毎朝(6日目は次の日の分を含め2倍)天から降らせて与えた民に必要な「肉の糧」であり、それは神からの栄光を示すものであると出エジプト記16:7、10に書かれて言います。

 しかし人間は元々神に似せて造られ(創世記1:26)、最初の人間アダムは「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」(創世記2:7)以上、人間だけは、神と同じように本質的に「霊の命」(永遠の命)で生きています。従って、肉のマナと同時に霊のマナが絶対に必要であることが上記から明らかです。

 

 すなわち「神の口からでる一つ一つのことば」とは「霊的マナ」であり、それは私たち、特に聖霊をいただいているクリスチャンは今でも欠かさず、主ご自身の口から毎朝、終日このマナを頂かなければなりません。なぜなら、私たちは「主の御心」で常に毎日を生きねばならないからです。

 ここで、注意していただきたいことは、その「ことば」とは聖書を読んで、そこに書かれている文字を通して受けるだけではなく、今も天におられる主ご自身が語られる「預言的ことば」であることです。そうであればクリスチャンは主が語られる「ことば」を聞く霊的な耳を持つことーこれが「弟子訓練」で真っ先にマスターすべき必須訓練です。

 

 それに関してお伝えしたいのは2ペテロ3:6、7「当時の世界(ノアの)は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔なもの共の裁きと滅びの日まで、保たれているのです。」とヘブル書12:27、29「・・・決して揺り動かされることがないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。・・・私たちの神は、焼き尽くす火です。」しかしその前の25節で聖書は「語っておられる方を拒んだり、背を向けることのないように注意しなさい。・・・」と警告を発していることにご注意ください。

 

 従って私はこのことを今年の第一の目標とすることをWWGMをご愛読いただく皆様にお勧めします。すなわち、私たちが毎日行わねばならないことは、何事も自分の考えだけで行わず、先ず主に聞いて、その日その時の主からの「ことば=命令・御心」を聞いて、それに呼応して主に対し自分の気持ちをお答えし、その上で聖霊に助けられ行動を起こすことです。

 

2020年の世界情勢への指針

 

 世界は、上記のみことばの通り、あらゆる地域で揺すぶられ、揺り動かされております。いよいよ終わりの時代に突入していることは明白です。そこでアメリカを中心に世界で起こっていることについて、主がどうお考えになっておられるかを私たちの信頼する預言者の一人ランス・ウオルナウ師から伺いたいと思います。

 

ランスウオルナウ師の預言

 

「2020年はどうなるんですか?」とか、あるいは多くの場合「トランプ大統領は再選されると思いますか?」という質問を、私はよく受けます。しかしながら、2020年の大統領選挙に関して主に訊ねると、主はいつも話を変えてしまわれ、私の質問に答える代わりに、主は「ランス、クリスチャンの教会はわたしの側についているのか?」と訊ねられるのです。

 

ヨシュアが約束の地に入ったとき、彼の前方にひとりの天使が抜き身の剣をもって立っていました。ヨシュアはそれが戦士だ分かり「あなたは、私たちの味方か。それとも私たちの敵か。」と訊ねました。それに対して天使は、「いや、どちらでもない。わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えました。

 

地上での善と悪の戦いに神が介入されるとき、神は敵とか味方としてではなく、その上に立つ最高司令官として来られます。そして私たちに「あなたは主イエス側についているのか、どうか」を訊かれるのです。

 

そこで、2020年に私たちがどちらの方向に進むのかを知りたければ、まず神が既に語られた預言の言葉に留意せねばなりません。それはアモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」とあるからです。そこで過去に主がトランプ大統領について語られた言葉をみてみましょう。

 

2014年2月:キム•クレメント師は、トランプ大統領の衝撃的勝利を預言しました。そして、それによって民主党と共和党はどちらも揺さぶられるだろうと宣告しました。その預言をしながらキムは「神よ、どうしてこのような事をされるのですか?」と叫びました。すると天からは「わたしはどちらの党から出てくるもの(党の人々の考えとか反響)にも不満足だからだ!」という返答でした。トランプ氏は民主党と共和党のどちらからも気に入られてはいなかったからです。するとキム師は知識の言葉を続け「人々は『弾劾せよ、弾劾せよ!(impeach!)』と叫ぶであろう。しかしそれは実現しない。」と言う言葉が彼の口から出てきたのです。それはまさに今起っていることです。

 

2015年9月:キムと私はニューヨークのトランプ・タワーでトランプ氏と会う予定でしたが、キムはその日に急に入院せねばならなくなりました。トランプ氏に関するキムの数々の預言は、主が次の人に渡そうとしておられるリレーのバトンのようでした。というのはその頃、預言的なものが私の骨の中で火のように熱く燃えるようになっていたのです。キムが病に倒れてから2週間が経つ頃には、私が預言をしていました。そして選挙が終わった時点で分かったことは、私たち二人の預言が選挙で4百万人もの人々に影響を与えていたことです。

 

私は次のような預言をしました。

ジョージア州でのトランプ集会において、「トランプ氏はポリティカル•コレクトネス(政治的適正)の霊を打ち砕く重い鉄の玉だ。」(2−3トンもあるビルデイングを破壊するために使う剛鉄球)と預言しました。するとタイム誌などがみな、トランプ氏と鉄の玉を表紙に載せました。私はまた「トランプ氏は一つの布告を出し、現代のクロス王と呼ばれるであろう。」と宣言すると、途端にメデイヤが一斉にその言葉を使い始めました。つぎに私は、メディアがトランプ大統領を病的なくらいしつこく攻撃する人であると予測して、それを「トランプ錯乱 Trump Derangement」と名付けると、すぐさま「トランプ錯乱」という言葉が流行し始めました。

2018年11月:中間選挙の時となり、「赤い(共和党を表す色)勝利の大波が起る」という預言が多くの者によって語られましたが、私はその一人ではありませんでした。私の預言は「トランプ大統領は、丁度リンカーン大統領のように『分裂した家』を治めるようになる。」というものでした。それは、その選挙によって上院は共和党が過半数をしめましたが、下院は民主党が過半数を取り、議会が分裂することを、奇しくも預言していたことになりました。

 

これから選挙までの11ヶ月の間、私は大胆に語っていくつもりです。今は新しい神の言葉が必要な時だからです。

 

2020年に何が起るか?

 

予測 その1:神の鉄玉が教会の中の「宗教の霊」を打ち砕くでしょう! 実際、2020年に入る前からそれは起り始めました。「クリスチャニティー•ツデー(キリスト教雑誌)」が「トランプ大統領は弾劾されるべきだ」という論説を発表したのです。それを機に左翼の政治家やメディアはこぞって「真のクリスチャンはどうあるべきか」という説教を、トランプ支持のクリスチャンに向かって始めたのです。これはまさに教会内の霊的問題に端を発した出来事でした。

 

左翼の政治家やメディアは、クリスチャニティー•ツデーのようなリベラルなクリスチャンを用いて、トランプ支持者が多い州のクリスチャンを分裂させようと躍起になっています。教会は一体どのような位置に立つのでしょうか? 主が私にずっと語られているのは、2020年の一番の争点は、トランプがどうこうではなく、私たち教会が神につくかどうかに掛かっているということです!

 

予測 その2:神は共和党と民主党のどちらにも満足しておられません。神にはご計画があり、一人の人を選ばれたのです。そして神が私たちクリスチャンに今訊いておられるのは「あなたはわたしの側についているのか?」という質問です。私は2016年の選挙の時、「トランプという鉄の大玉が立ち上がる」と、最初に明確に公に預言した者の一人でした。2020年に私は「主の側に立つ」と決意しました。そして可能な限り多くの人たちに「主の側に立つように」と熱心に勧めて行きます。

 

私はこれから大統領選挙までの40週間、テレビ番組を通して大胆に語っていくつもりです。そして勝敗の鍵となる幾つかの州に出向き、積極的にクリスチャンの集会を開く計画です。私はこのキャンペーンを「As One America(一つのアメリカとして)」と名付けました。

その私のヴィジョンとは、何としても教会を霊的に目覚めさせ「政治的争点は私たちの信仰に掛かっている」という現実をクリスチャンに啓蒙することにあります。今年の選挙が決めるのは、どちらのアメリカ、すなわち神側につくアメリカか、つかないアメリカかーどちらが優勢となって浮かび上がるかに掛かっているからです。ぜひお祈りのご支援にご参加ください。(師のメッセージ終わる)

 

 ここでもう一つリック・ジョイナー師の意見を付記します。この記事は昨年の彼の word of the week の中から選んでお伝えするものです。

 

第二のアメリカの独立・市民戦争が起こることはは避けられない

 

 多くの人はこの衝突は政治的な右と左の間で起こると言いますが、私の見た夢では必ずしもそうではなく、むしろ両者の極右と極左とそれに第三勢力が加わり、最終的にはその第三勢力が優勢を勝ち取るというものでした。その点は今でもはっきりしませんが、どうもそれはリバイバルとアウエイクニングから生まれるムーブメントではないかと信じます。

 

 それと実質的にアメリカで起こったと同じような争闘が、全ての国で起こり始めます。それは全ての人を一つのものに統一しようとすることには反対する勢力であって、むしろそれぞれの国の伝統、歴史、文化をそれぞれ尊重し保存しようとする大きな争闘に発展してゆきます。そこで考慮しなければならないことは、神の創造が驚くほど多様性があるように、神の統一とは「多様性の中での一致 unity of diversity」であることです。

 

 ジョージ・ワシントン大統領は、二党政治のシステムはうまくいかないと言っていましたが、それは正しかったのです。彼は政治には政党の必要性はない。なぜなら国民は皆アメリカ人であり、それぞれが意見を述べ合うことができて、それが尊重される限り問題はないからと説明したそうです。

 

 2014年に私は、主に次期大統領は誰かと尋ねたところ、主はすぐ「誰かという問いには答えないが、代わりに、アメリカが必要としている次のリーダーになる人は、単に愛国者 Patriots であるばかりではなく、一度に多くの方向から立ち向かってくる敵を相手にできる「裏通りでの喧嘩に強い男」である必要があると答えられました。それは、次期大統領は、いつも絶えず数多い相手と喧嘩することになるという意味です。

 その時はプロ・フットボールシーズンがシーズン入りしたばかりの頃でしたので、私はそれ以来 New England Patriots という名のチームがそのシーズンに優勝するかどうかを見張っていました。するとこのチームは、望みは無いと思われたシーズンの最後の試合の最後で奇跡的なプレーによって優勝しました。その勝ち方は、1776年のアメリカ北部13州が母国の英国と戦って勝った、最初の独立戦争と全く同じような勝ち方であったのです。(以上リック師)

 

 私は、ランス師とリック師が上記で言われていることは、これからいよいよ主がクリスチャンを用いて第三のウエークニングとリバイバルが始まることを示俊していると信じます。時は近づいています。皆様の中から主に選ばれたリーダーが出揃い、日本でも各地で大きなウエイクニングとリバイバルが起こることを期待し、お祈りしております。(終わり)


30 12月

ニネベの断食      フランシス•フランジペイン             2019年12月30日


 

ニネベの断食

 

フランシスフランジペイン(Ministries of Francis Frangipane)

 

 

 断食には色々なタイプがあります。あなたがもし長期の断食をしたことがあるならば、それが人生を変革するような経験であることがおわかりでしょう。罪を示されたニネベの王は、その国の貴族や民衆と共に、食物と水を完全に断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、ニネベを滅ぼされませんでした。ニネベの人々は、「断食を伴う祈りがどれほど神の心を動かすか」という見本となったのです。(ヨナ3、ルカ11:32)

断食はリバイバルを活気づけるパワフルな道具ともなりますが、又ただの宗教的な慣習に堕ちてしまい、何の霊的意味も持たなくなることもあります。パリサイ人は週に二回断食をしましたが、それは人々から見てもらうためでした。パリサイ人の断食は宗教的プライドであり、全く霊的価値のないものでした。

 

真の断食とは

 

断食の根本的目的は、私たちが霊的目的地に素早く到達するのを助けることにあり、断食が 「fast (早い)」と呼ばれるのはそれが理由なのです。イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちの飢え渇きは、自分や家族、教会、町、国家の上に義が満ちることを求める飢え乾きです。断食は私たちをその目的地に速く到着させるのです。

しかし私たちは、断食を「自分に課す刑罰」にしてしまってはなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではないのです。断食は実のところ「恵みの賜物」なのであり、主と長時間交わることのできる機会なのです。普段なら食事をして肉体を養う時間を、自分の霊を養うために用いるのです。主ともっと親しくなり、御ことばを読み、暗記し、自分や人のために祈るのです。

 

イザヤ58章には、断食は又、神の愛を人々に示す時でもあると書かれています。

イザヤ58:6−7

「わたしの好む断食は、これではないか。

悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、

しいたげられた者たちを自由の身とし、

すべてのくびきを砕くことではないか。

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、

家のない貧しい人々を家に入れ、

裸の人を見て、これに着せ、

あなたの肉親の世話をすることではないか。」

 

ですからあなたが断食をするときには、不遇な人や傷ついた人を助ける手段を考えてください。食事のための費用を貧しい人々の援助団体に寄付するのも一つの方法です。

 

ニネベの人々

 

ニネベの王に戻りましょう。彼は「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。(ヨナ3:7)」という布告を出し、国民に完全な断食をさせました。

イエスご自身も、ニネベの人々が神の前に真摯に悔い改めた結果起ったことを、「打ち破りの見本」として賞賛されています。

皆さん、今アメリカには打ち破りが必要とされています。そして祈りと断食なしには決して起らない打ち破りがあるのです。私たちもニネベの人々と共に立とうではありませんか。(終り)

 

 

訳者よりの付記         

 

今、打ち破りが必要なのはアメリカだけではありません。クリスチャンであれば誰でも、個人的に主に対する真の愛とその信仰の程が試される時がやってまいりました。そして日本が羊の国になるか、山羊の国になるかも、私たちクリスチャンの信仰に掛かっています。

新年には、主に示された時と方法により、日本とアメリカのために、ぜひ断食を伴うお祈りをしていただくことを切にお願い申し上げます。2020年良いお年をお迎えください。     坂  達也・柚実子


23 12月

権力より愛を選ばれた主 エディー L.ハイヤット            2019年12月23日


権力より愛を選ばれた主

 

エディー L.ハイヤット(Hyatt International Ministries)

 

 

「愛」と「権力」とは水と油のようなもので、混じりあうことはありません。有名な社会学者であるウイラード•ウオーラー氏は、愛と権力には逆相関があることを発見しました。個人的な人間関係において、「愛が増し加わると権力が減少し、権力が増し加わると愛が減少する」という事実に彼は気が付いたのです。

 

彼はこの驚くべき現象を表すために「principle of least interest 最小関心の原則」という言葉を作り出しました。それは即ち、「その関係に最も関心がなく最も気にかけない人が、最も強い権力を持つ」という原則です。

 

これは結婚に問題のある夫婦がカウンセリングを受けるときに明確に現れます。カウンセラーは二人と話すと「愛が少ないのはどちらの方か」をすぐに見分けられるのです。なぜならば、「愛が少ない方の人」は「権力の座」に座って様々な要求を出すからです。本当に愛している方の人は、権力を手放し、結婚を守るために進んで犠牲を払うのです。愛と権力とは、少なくともこの世では、共存しないようなのです。

 

神が人間への愛をこの世に現される時が来たときにご自分の権力を捨てられた理由は、ここにあるのです。パウロはピリピ2:6−7で、キリストが御父と共におられたときの力を捨て、仕える者の姿になったことを書いています。

 

ピリピ:6−7「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」

 

これが神の愛を現すためにこられた救い主が、家畜小屋で生まれ、最初のベッドは飼い葉おけだった理由なのです。そしてこれがキリストが裕福な貴族の家ではなく、貧しい家に生まれた理由です。(ヨセフとマリヤは羊を買う余裕がなかったので、羊の代わりに律法で許されている「山ばと一つがい、或は家ばとのひな二羽」を捧げました。レビ記12:8、ルカ2:22−24)

 

そしてそれは又、イエスがエルサレムやローマのような権力の中心地から遠く離れた小さく名もないナザレで育ったことも説明しています。イエスがヘロデの王座やピラトの権威、或は大祭司の地位に全く興味を示さなかったこともそれは説明しています。イエスは神の愛を現すために来られたのであり、権力を求めながら愛を示すことはできなかったのです。

 

ですからイエスが弟子たちに「権力を求めるのではなく仕える者となるように」と教えられたのは当然のことでした。例えば、ヤコブとヨハネがイエスのもとに来て、御国の2つの権威の座を願ったとき、イエスは彼らの権力への願望を叱責しました。(マタイ20:20−28、マルコ10:35−41)

 

権力は、人々に目に見える外面の行動を強要しコントロールしようとします。「愛」は人々の心にやさしく働きかけて内面を変えます。しかし、間違えないでください。この愛は決してめめしい感傷的な愛ではありません。か弱い自己中心的な愛でもありません。この愛は強靭な耐久力を必要とします。この愛は「相手にとって最高なこと」を望み、それを実現させるために「自分の願うことを自ら進んで犠牲にする」のです。この愛(ギリシャ語の新約聖書では「アガペ」です)の究極的な手本はイエス•キリストに見ることができます。

 

権力にまさる愛

 

この例を考えてみてください。ある父親が反抗的な息子に困り果て、何度も叱責し懲らしめていました。ある日、また懲らしめをしようと息子の前に立った父親は、深い悲しみと嘆きに圧倒され、そのまま息子の足もとに崩れ落ち激しく泣き始めてしまいました。息子は驚愕しそのまま無言で立っていました。しかし、その時から彼は変えられたのです。愛を表すシンプルな行動が、権力や強さを示す行動よりもっと効果的であることがあるのです。

 

旧約聖書では、神はご自分の力を現されました。神はシナイ山で雷鳴を轟かせ、海を分け、軍勢を滅ぼし、太陽や月を留めることさえなさいました。しかしながら、神の民はそれでも反抗し続けました。それはまだ神の愛を見ていなかったからです。

 

ここにクリスマスと十字架の意義があります。神がご自分の権力を捨て、人類に神の愛の深さを現してくださったのです。そしてイエスは弟子たちにも同じアガペの愛の中を歩むようにと召されたのです。

 

ヨハネ13:35−35でイエスは言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し(アガペ)合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたががわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

教会と権力

 

教会は初めの200年の間、キリストの愛を世に現し、その影響を全世界に広めて大きな成果をおさめました。教会は大ローマ帝国を軍隊や剣を用いることなく征服したのです。

 

しかしながら、コンスタンチヌスが教会に権力を混ぜ入れ始めたのです。教会は国家の権力を使って宣教活動を広げ始め、それによって「愛」は逃げ去ってしまったのです。キリストの名において恐ろしい暴虐が行われ、中世の教会は権力を得ましたが影響力は失っていきました。

 

宗教改革は、教会が権力から離れてキリストの福音へと戻る運動でした。しかし、今日の教会には「権力、力」を追い求めている者がまだ沢山います。彼らはその点において、キリストよりもコンスタンチヌスにより近い者だと言えましょう。

 

クリスマスに私たちは、神がご自分の権力を捨てて地に来てくださり、人類への愛を現してくださったことをお祝いします。この愛は十字架において頂点に達しました。なぜならばローマの十字架上にかけられている人の姿ほど弱さを表すものはないからです。

 

私たち教会に「クリスマス」が問いかけるチャレンジはこれです。私たちは権力を捨てることにおいてキリストの手本に見習っているでしょうか? 純粋な愛で歩んでいるでしょうか? それとも、コンスタンチヌスのように愛に権力を混ぜ合わせているでしょうか?

 

ピリピ2:5−8でパウロは、私たちがどのような態度や道を取るべきかをはっきりと述べています。

 

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリストイエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまでも従われたのです。」

 

正義は必ずなされる

 

愛は私たちを無抵抗で傷つけられやすくするので、人から利用され傷つけられるのを恐れて「愛によって歩きたくない」という誘惑が来るときが私たちにはあります。そのような時、「正義」は愛には欠くことのできない本質的な要素であることを忘れてはなりません。神は正義の神であり、誰もそれを避けることはできません。

 

ですから、主が再びこられる時、主の権威、力は全面的に現されるのです。次は主は家畜小屋の赤児としてではなく、宇宙の力ある主権者として来られるのです。主の愛を拒んだ者たちにとって、それはうれしいことではありません。ヨハネは人々が山や岩に向かって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:16)」という姿を見たのです。

 

テサロニケの教会が激しい迫害の中にいたとき、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように務めなさい。(1テサロニケ5:15)」とパウロは励ましました。

しかし彼は同じテサロニケのクリスチャンに次のようにも言っているのです。

「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(2テサロニケ1:7−9)」

 

クリスマスにあたり、私たちは全能の神に仕えている者として権力を追い求める必要がないことを忘れないでください。そうではなく、互いに愛を示し、今日神の愛を受け、来るべき神の怒りを受けることのないようにしてください。

(終り)


16 12月

マリヤのようになる (その2) マイク•ビクル             2019年12月16日


マリヤのようになる (その2)

 

マイクビクルIHOP Kansas)

 

 

 博士たちが帰ったすぐ後、天使が夢でヨセフにヘロデによるイエス殺害の企みを知らせ、エジプトに逃げるようにと警告しました。想像してみてください。若いマリヤは妊娠中、親戚や友人たちから恥を受け汚名をきせられました。

そして今度は、王が自分の幼子を殺すというので、外国の地へと逃げねばならなかったのです。これが神に祝福され厚意を受けていることなのでしょうか?

 

神のすばらしい約束を心から受け取り、神が示される通りの道を歩いていても、時としてこのように全く予期せぬ困難に出会うことがあるのです。

この後、マリヤの人生は更に困難になっていきます。

 

ヨセフはイエスが12歳のときにはまだ存命でしたが、その後何年かして亡くなり、マリヤは寡婦となりました。マタイ13:55−56によると、イエスには4人の弟と数人の妹がおりました。夫を失った女性が7、8人の子どもたちをどのようにして養ったのでしょうか?

夫を失くした痛みと悲しみに加えて、マリヤはたくさんの子どもを抱えた寡婦として大きなプレッシャーに耐えねばなりませんでした。

 

イエスが30歳になったとき、彼は6週間大工仕事を休んで荒野で断食と祈りをしました。そして聖霊の油注ぎを受けて家に帰りましたが、イエスが育ち愛した町の人々は彼を退けました。

イエスは最も信頼に足る若者であり、評判もすばらしくよかったのです。しかしユダヤ会堂の長老たちは、イエスの「自分はイザヤが預言したその者である」という言葉に激怒しました。怒りのあまりイエスを崖から突き落とし殺そうとしたこともあったのです。(ルカ4:29)

 

マリヤは息子が町の長老たちにひどい取り扱いを受けるのを見なければなりませんでした。その後もイエスがミニストリーをしていた間、マリヤは信仰により自分の心を神の約束に合わせ一致させる必要があったのです。ガブリエルは「イエスは偉大な者となる」とマリヤに言いました。ですからどうして町の長老たちがこれほどまでイエスに反対するのかと、マリヤは訝しく思い悩んだのではないでしょうか。

イエスがミニストリーを始めらてからも主の兄弟たちは主を信じませんでした。(ヨハネ7:5)ということは、マリヤがイスラエルの神を敬うように育てた子どもたちは、若者になってからも「イエスを信じなかった」のです。イエスのミニストリーの期間中、マリヤは自分の子どもたちの霊的状態に苦慮していたに違いありません。親しい友人や家族の中にもイエスの言動を見て「彼は気が狂ったのだ」と思っていた者たちがいました。(マルコ3:21)

 

ユダヤ教の最高指導者たちは、イエスは悪霊に憑かれていて人々を惑わす危険なカルトのリーダーだと結論づけました。(ヨハネ7:47、8:48)彼らはマリヤがイエスをみごもった時の「不品行の噂」で、主と主のミニストリーの信用を傷つけようとしました。(ヨハネ8:41)

 

端的に言えば、イエスの生涯とミニストリーはガブリエルが約束したような「偉大なもの」とは全く見えなかったのです。多くの点で、それはまるで正反対に見えました。マリヤは「神の約束を信じ神の正しい導きを信頼する」ことを、くり返し何度も決意し直す必要があったのです。

数年後に、マリヤは息子がイスラエルから拒絶され十字架で死ぬのを見ていました。ユダヤ教の指導者たちの企みで、群衆はイエスではなくバラバのいのちを求めました。三年半のイエスのミニストリーは何も実を結ばなかったように見えたのです。

イエスは何千人もの人を癒しましたが、復活後に主を信じて祈りの場に集まって来たのは120人だけでした。(使徒行伝1:15)マリヤは神の召しに従い神の導きを信頼して人生を送りましたが、人々からの誤解や予期せぬ苦しみを耐え忍ばねばなりませんでした。

そして息子の地上でのミニストリーは終了しましたが、息子は王として称えられるのではなく、国から拒絶されたのです。

神の約束はなかなかやって来ず、そればかりか成就するのは不可能にさえ思えました。しかしマリヤは初めから神を信頼していましたし、この時も恵みによって神を信頼し耐えることができたのです。

マリヤは約束の成就の全貌を見ることなく死にました。彼女はガブリエルを通して与えられた神の言葉により、聖霊によってみごもり、神の御子をこの世に誕生させました。

しかし、ガブリエルはマリヤに「息子は偉大な者となり永遠に治める」とも言ったのです。イエスが地上にいる間、多くの者からさげすまれ、兄弟や故郷の人々、そして国の政治家や宗教の指導者たちから拒絶されました。イエスは罪人に救いをもたらすために苦しみ死なれたのです。

 

イエスに対する約束の完全な成就を私たちもまだ見ることができません。しかしすべての人が、「主は愛と力と恵みとに満ちた偉大な方である」とわかる日がやってきます。マリヤは初代教会のリバイバルにその栄光をほんの少し垣間みたかもしれませんが、それが完全に成就するのは将来のことです。

 

マリヤのこころ

 

マリヤの人生は、神の導きに対する心の正しい応答の形そのものです。完全に理解できない時でも、彼女は神の導きを信頼し続けました。すべてを失うかもしれないような時にさえ、マリヤは「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言ったのです。(ルカ1:38)

 

このようにマリヤが神を信頼し進んで神に用いられ、神を喜びとしたことは一度だけではありませんでした。それは彼女の一生を通しての生き方そのものだったのです。彼女は困難に出会う度に何度も又自らを捧げ直したのです。彼女は神を信頼し、自分の心を神の言葉と合わせ一致させていったのです。

 

状況が厳しくなった時にもあきらめることなく、神の恵みによって耐え抜いたのです。

私たちはあまりにもしばしば、自分の祈りが直ぐに聞かれないと、「神は本当に約束を果たしてくださるのだろうか?」と疑い、信仰をなくしてしまったり、或は、「自分の祈りがあまりに弱くて効果がないのだろう」と結論づけてしまいます。

しかし、私たちの祈りは確かに「人間の弱い祈り」ですが、それはイエスの血潮の力によって充分に効果があるものであり、神の御こころと一致した祈りなので、神のもとに届いていくのです。

自分の祈りが弱くて効果的でないと感じてしまうとき、私たちはどのようにしてマリヤのような信仰を持つことができるのでしょうか? 祈りの効果は、目に見える祈りの結果や、祈った時の感情的高揚の有無で測るのではなく、神が御ことばの中で何と言っておられるかで測らねばなりません。

イエスは「誰でも願い続けるならば受け取る、誰でも探し続けるならば見つける」と宣言しておられます。(マタイ7:7−8)

私たちのすべての祈りは聞かれています。私たちが祈りを捧げたときに何も感じなくてもです。祈ったときにどういう感じがしたとかではなく、その祈りがどれほど神の御こころと御ことばとに一致しているかで判断してください。愛する皆さん、私たちのか弱い祈りは、自分を感動させはしないかもしれませんが、神の心は動かすのです。

 

使徒ヨハネは私たちが祈ったときの感じ方に関係なく、「祈りは聞かれている」と確信してもよいと強調しています。第一ヨハネ5:14で彼は「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と言っています。

 

神は私たちの日毎の行動を、私たちが肉の思いで評価するのとは全く違う方法で評価されます。キリストにある私たちの人生の豊かな栄光は、私たち自身の目や今の時代の人々の目からは隠されているのです。しかし神の栄光やマリヤへの約束の成就は、イエスが再臨される時に共にすべてはっきりと表されます。

 

コロサイ3:3−4には「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」と書かれています。

ここで難しいのは、往々にして、私たちが自分の人生の中に神の栄光を見ることができないことです。神の栄光は、私たちの感情や五感からは隠されているので、私たちはそれを感じたり認めたりできないのです。私たちは自分の人生を、小さくてか弱く、退屈でつまらないものとして見てしまうのですが、イエスは栄光の富というレンズを通して私たちの人生を見てくださるのです。

 

主は私たちには見えないものを見られます。私たちの祈りに関してもそうです。私たちの多くの「小さな従順な行動(祈りも含む)」は神の目には栄光に富んでいるのです。自分の「か弱い祈りの価値」を理解することによって、私たちは自分の祈りを「意味があり適切で力があるもの」として見る力が与えられます。肉の目では弱いものに見えるかもしれませんが、神のみこころに沿ったすべての祈りは、神にとっては大切であり重要であることを私たちは信仰で確信しなければなりません。

神がマリヤを導き用いられた方法は、神の完全なリーダーシップを表しています。神の約束の成就はしばしば遅延し、苦難の中で一歩づつ徐々にゆっくり実現していきます。そのゆっくりしたプロセスの中で、私たちは主にしがみつき、愛と信仰とへりくだりにおいて成長させられていくのです。

 

主のパートナーとなることの大切さ

 

たとえ歴史を変えるような事のために神に用いられたとしても、その人が愛において成長するとは限りません。神はマリヤを召し彼女がもっと偉大な愛に成長するための旅路につかせたのです。

神は敵意に満ちた世の中でご自分の御こころと目的を明らかにされ、敵を用いて神の民(私たち)が愛とへりくだりを学び、神とのパートナーシップにおいて成熟していくようにされたのです。神は、どのような事があっても常にあきらめることなく「はい」と応答し信頼する者たちとパートナーになることを望んでおられます。

 

マリヤのように私たちも神の約束に同意し一致し、困難な状況にあっても神の導きを信頼する必要があります。たとえ遅延や不幸な出来事がおきたときでも神の約束は真実です。主はそれらを私たちの益になるように用いられるのです。(ローマ8:28)

私たち達が約束をしっかり握りしめて困難な中でも神を信頼して喜ぶことを選びとるならば、神は恵みを与えてくださり、喜びをもって忍耐し、愛に成長する力を与えてくださいます。私たちが主の召しに喜んで応答するならば、神はそれに答えてありあまるほどの恵みを与えてくださるのです。(終り)


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