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Walk With God Ministries

22 07月


十字架の向こう側

 

ボブ·ジョーンズ(Bob and Bonnie Ministry )

 

(これは1995年のボブ·ジョーンズのスピーチです。彼は2014年に天に召されました。このお話は何度読んでも面白いので、改めてご紹介します。)

 

最後のバッター「恵み」

 

10年前(1985年)の5月21日、それは、ペンテコステの日でしたが、主が野球の試合のヴィジョンを与えてくださいました。

試合は、悪魔のチームと神のチームとの対戦でした。9回の裏で両チームともそれまで得点がなく、神のチームが9回の裏の攻撃を始める時でした。主が最初のバッターを送られました。その名は「愛」でした。サタンが投球し、「愛」がバットを振りました。愛は常に神を喜ばせ、決して失敗しないのです。(Love never

fails)それはヒットとなり、愛は一塁に走って行きました。主は次のバッターを送られました。それは愛と共に働く「信仰」でした。サタンが投球し信仰がバットを振り、ヒットとなりました。信仰は神を喜ばせ、愛と共に働くのです。信仰も決してしくじることはありません。主は次のバッターを送られました。それは「知恵」という名でした。サタンが投球しましたが、知恵はバットを振りませんでした。サタンは次つぎに球を投げましたが、知恵はよく球を見たのでフォアボールとなりました。神の知恵はサタンが投げる悪球に引っかからないのです。

 

神は今、このように愛、信仰、知恵を私たちの人生に働かせ、私たちを成長させようとしておられるのです。3塁に愛、2塁に信仰、1塁に知恵と、満塁になったとき、主は次のバッターを送られました。「わたしはいま最強のものを送る」と主は言われました。それは今まで見たことのないピンチヒッターで、その名は「恵みGrace」でした。サタンが投球し、恵みがバットを振りました。バットが折れるようなものすごいヒットとなりました。しかし「嘘つき」が外野にいてそれを阻止しようとしました。嘘つきのハエは空中にいるのです。教会の中でサタンは悪いうわさやゴシップをはびこらせ、神の栄光を隠していました。「嘘つき」は「まかしておけ!絶対取るぞ!」と叫びましたが、球は彼のグローブを通り抜け、ホームランになりました。4人の走者は全部ホームインして神のチームの勝利となりました。「4」は聖霊のナンバーです。聖霊の働きがこれから強くなるのです。

 

ゼカリヤ4:7「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運びだそう。」

 

「愛」「信仰」「知恵」は人間の働きです。それは私たちをあるところまでは導いてくれますが、ホームインさせるのは 神の「恵み」なのです。

 

ダビデの油そそぎ

 

詩編89:20「わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。」

 

今主は、多くのダビデのような者を見いだして油を注ぎ、恵みを解き放ってくださいます。先ずすべての土台である「愛」が心から主を求める者たちに与えられていると信じます。そして「信仰」が強くされ、サタンに惑わされることのない「知恵」が与えられてきました。

 

教会は今まで「神と一緒に(with God)」ではなく「神のために(for God)」一生懸命働いてきました。今こそ私たちが「神と一緒に」働く時です。モーセではありませんが「神が共に行かないならば私はどこにも行かない、何もしない」と決意する時です。今まで私たちは「神の手」を求めて「下さい、下さい、下さい!」と言ってきました。でも神は「そうではなくて、わたしの心を求めなさい」と言われるのです。ダビデは神の心を持っていましたね。「わたしの心を捜し求めなさい。わたしの心の内を捜し求めなさい。」と主は言われます。

 

神の心に何があるかご存知でしょうか?

それは人々の魂です。神は人々の魂を求めておられるのです。イエスは私たちに救いを与えるためにこの世に来てくださいました。そして私たちの長兄として進んで十字架にかかってくださったのです。イエスのいけにえの代価で私たちは贖われたのです。

 

御父は今もこの世を愛するゆえに、今度は「あなた」をこの世に与えようとしておられます。私たちは皆、十字架の向こう側に行かねばならないのです。十字架のこちら側にいた時、あなたは手をのばして「主よ、下さい、下さい!

欲しいです!」と言いました。でも十字架のむこう側に行ったならば、聖なる御霊が復活の力をもってあなたの内に働き始めます。そしてあなたはキリストの性質を持つ、キリストに似た者となっていくのですその時、十字架のもとに来る人たちに必要なものをあなたが与えることが出来るのです。その時、あなたは「受ける者」から「与える者」にかわることが出来るのです。

 

主はみなさんに「成長しなさい!大人になりなさい!」と言っておられます。私たちが愛、信仰、知恵を身につけるならば、神は恵みを注いでくださるのです。その時に決して試合に負けることはありません!

 

聖霊を招き入れる

 

聖霊はずっと教会の扉を叩いておられます。人々は「聖霊よ、あなたを尊ぶと言っているグループの中で、あなたが本当に働かれるのを見たならば、私たちの教会にあなたをお迎えしてもいいかもしれませんね。でもまずその人たちが変えられるのを見たいのですよ。」と言います。

私はそれが起ころうとしていると信じます。聖霊に満たされた人々の中で主にある真の愛の交わりが具現化されていくのです。そのようにペンテコステが又現われるとき、それを見た人々は聖霊に心を開くようになります。

 

聖霊があなたに語るのを聞いてください。そうすれば私たちが語るときに、神の言葉を語るようになるのです。

私たちの口から出る言葉も神の言葉と同じように、創造の力を持つようになります。詩編115:16には「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」と書かれています。そして今主は私たちが地を主にお返しするのを待っておられます。「わたしが再び地で働く許可を人々が与えるのをわたしは待っている」と主は言われます。(サタンは私たちの許可を必要としません。彼はどこにでも勝手に無断で入っていく盗人です。)すべてのとりなしの祈り、回心の祈りは、神の介入を許可し招き入れるものです。

 

聖霊は教会の扉を叩いて「入れてください。もし入れてくれれば、わたしはあなたの教会の主となります。そして一人の方、即ちイエス·キリストを顕します。」と言っておられるのです。イエスが教会に来られると、一人の方、即ち御父を顕されます。御父は70年前、非常に嘆かれました。それは進化論が人々に受け入れられ、「人類の父は猿だ」と人々が信じ始めた時でした。進化論が「あなたの父は猿だ」と言ったので多くのクリスチャンも混乱しました。御父はバビロン捕囚のときにされたように70年を区切られました。バビロンは「混乱」という意味ですね。御父は70年間、姿を現されませんでした。今、70年が経ち、御父は再び来てくださいます。私のお父さんは猿ではなく、全能なる神です!私は自分が誰かを知っていますし、御父が誰であるかも知っています。家族なのです。

ずっと前に私は神の御心の真ん中は家族であることを発見しました。御父は家族を大切にする方です。御父が来られるとき家族を大切にされます。ご自分の子供たちがお互いの悪口を言ったり、ゴシップをするのを非常に嫌われます。

 

火のバプテスマ

 

御父は新しい土台を造られます。聖なる霊は愛です。あなたが愛に成長するならば、あなたは聖さにも成長するのです。ローマ1:4に「聖い霊(spirit of

holiness)」とあります。私はどうすれば聖い霊が得られるかを主に訊ねましたが、それは聖霊のバプテスマを受けるのと同じでした。即ち、信仰によって受けるのであり、そしてそれは愛が私のうちで働くときに成長するのです。主は愛という土台を築かれておられ、それは決して壊されることはありません。

 

選ばれる者となる

 

イザヤ48:10に「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩み·苦しみの炉であなたを試みた。」とあるように、主はこの10年間、私たちを試煉という熱い炉で練られました。

 

マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。For many are called, but few are chosen. とあるように、すべてのクリスチャンは招待されて、熱い炉に入れられるのです。ある者たちは3週間で、「もう十分だ、ここから出よう。これは思っていたより熱いぞ。私の大事なもの、まだ手放したくないものがどんどん燃えてしまう!」と言って途中で炉から出てしまうのです。人は自分が捧げた分に応じて受けます。ダビデは10年間苦難の炉に中に入っていました。あなたが炉に留まり続けるときあなたは「選ばれる」のです。

 

今御父は、苦難の炉の中から多くの白い石を取り出しておられるのを私は見ます。主はこれらの白い石で土台を築かれます。それは祭司の土台であり、純粋な神の言葉、義と愛で築かれる土台です。

 

火のパプテスマとは聖さの霊であると主が言われました。聖さの霊があなたの生活の中で働き始めると、神の火があなたを燃やし尽くし始めます。私が罪を犯したとき、私は御父から逃げませんでした。かえって私は御父にむかって走っていったのです。そして主が言われることはすべて従いました。もしあなたの足が汚れたならば、天のお父さんのところに走って行き、主の足を掴んでください。神の火があなたの罪をも焼き尽くしてくれるでしょう。(終り)


08 07月

時間   TIME        フランソワ フェネロン


時間   TIME  

               フランソワ フェネロン

 

  時間の使い方は、人生のさまざまな季節に応じて変化しますが、どの瞬間にも当てはまる原則があります。それは「時間を無駄にしてはならない。」です。

 

 どの季節にも、神があなたに課したさまざまな仕事があり、あなたは自分の時間をどう使ったかを神に報告する(義務)があります。創造者の神は、あなたの人生のどの時間(瞬間)も「目的のない」ものとして見ることを望まれません。つまり神は、あなたが神から離れて時間を過ごすことを望んではおられないのです。

 

  重要なことは、神があなたにどのように時間を使って欲しいと願っているかを知ることです。このことは、勤勉さや学校教育、優れた知性によって学ぶのではなく、その人の、純粋でまっすぐな心で、常に神に注目し、神に思いを馳せることによって学ぶのです。

 

 また、自分が何かしたいと思うことが、自己愛(自分中心)からの発想であることに気づいたら、すぐにそれを捨てる。ーー それは「何もしないで時間を過ごす」時を含み、また、間違っていると分かっていることをしているのであれば「時間を無駄にしている」ことになる、加えて、一見「良い」ことをしていると思えても、それが神からのものでなければ、やはり「時間を無駄にして」いることになるのです。

 

  あなたは、神の指示を得るために、常に「神の霊」に頼らなければなりません。 神が何を望んでおられるのかはっきりしない時は、もう一度、神に尋ねてみましょう。そして、あなたに対するその時の神の御心をはっきり理解した時、神の御心をする際に神が下さるものすごい力で前進しましょう。自分が神から離れていくのを感じたら、神に心を戻しましょう。

 

  自分自身を救い主の手に委ね、いつも意識して神が望むことをしようとしているなら、あなたは本当に祝福されているのです。ですから、いつも神があなたに何を求めているかを、決して飽きずに尋ねる習慣をつけましょう。

  それぞれの時間に与えられている責任をその都度果たしてゆく、 神はそのためにあなたを準備しています。あなたがすべき唯一のことは、あなたの気性(例えば怒りっぽいとか)、強い意思・意見、その時の心配事など、あなたの様々な肉的な反応のすべてを、完全に神に委ねることです。 また、その時の自分の外的な仕事量に圧倒されてはいけません。

 

  すべての行動において、「神を称える」ことを求めてください。なぜなら、自分の仕事に個人的に没頭する時、自分の全思考がその仕事を中心に回ってしまう危険があるからです。そのような時には、つい仕事で興奮しすぎたり、落ち込みすぎたりします。

 

  他の人と一緒にいる時間は、あなたにとって非常に危険な時です。そのような時こそ、あなたは神の前に留まることを学ばなければなりません。 あなたと他人との会話の中には、しばしば微妙なものが隠されているからです。

  他の人と過ごす時間にこそ、神があなたを用いて、彼らによい影響を与えるお話しをされることが多いのです。 覚えておいて欲しいのは、あなたの言葉は、大きな善をもたらすこともあれば、大きな害をもたらすこともあるということです。

  さて、何もしなくてよい「空き時間」は楽しいものです。しかし、その時にこそ、日頃あまりできない、神との親密な時間を過ごす秘訣を学ぶために、自分の霊的な力を増進する貴重なチャンスでもあるのです。 主をよく知っている人は、そのような空いている時間を楽しみに待っています。(終わり)

筆者・坂 達也の後書き:

 この文章は1テサロニケ5:17にある「絶えず祈りなさい」をいみじくも説明してくれています。本当に私たちは、文字通り「絶えず祈る」=主と霊的交信・実行をする必要があるのです。


25 06月

「神の計画への服従・降伏」  十字架を抱きしめる     フランソワ・フェンロン


「神の計画への服従・降伏」

 十字架を抱きしめる             

            フランソワ・フェンロン

 

            

                                                    紹介と解説:        WWGM  坂 達也

 

    最初に著者であるフランソワ・フェンロン Francois de Fenelon をご紹介します。彼は1651年に生まれ、1715年に63歳で天に召されましたが、特筆すべきことは、同じ時期に、三人の主イエス・キリストとその十字架を愛する著名なフランス人が出ている事です。

 その一人は「霊的な導き」を書いたミカエル・モリノMichaeru Molinos 師、もう一人は 私が特に傾倒するジャンヌ・ガイヨンJeanne Guyon 夫人、それに、フェンロン師を加えての三人です。私はたまたまこの三人の残した著書を持っていますが、いずれも心から「十字架を抱きしめる」ことを最大の目標としていることにおいて共通しています。

  さて、この17世紀後半から18世紀の初めといえば、フランス史上最長といわれる、悪名高いルイ14世の時代と重なります。フェンロン師はこの文章を読まれればよく分かりますが、真に「自分に(魂)死んだ見本」のような愛の人で、ルイ14世の孫息子=彼は手の付けられないような荒々しい気性の激しい子供で=ほとほと持て余したルイ14世は、この子供の養育をフェンロンに委ねました。フェンロンはこの孫息子を見事に教育し、その功績を称えたルイ14世は、フェンロンに対して、当時の法王を通してカトリックの大司教の地位を与えました。しかし、この孫息子はフェンロンが死ぬ3年前に亡くなり、ルイ14世の後継とはなりませんでしたが、彼は死ぬまで、フェンロンを尊敬・崇拝したと言われ、フェンロンもガイヨン夫人もこの孫息子が後継王にならなかったことを大いに嘆いています。

 

 ついては、私自身の3冊めの本の「はじめに」で、私はパウロが書いた1テサロニケ5:16−18に触れ、特に17節の「絶えず祈りなさい。」の意味をご紹介しましたが、その折に、父と子を代表する「聖霊の神」は「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)を引用し、私たちが真のクリスチャンになれば、聖霊が、私たちの心の中に入って来られ、私たちと共に生きてくださり、毎日色々指示して下さることが実現する。すなわち、私たちクリスチャンは、「絶えず祈る」ことによって、すべて主の言われることに従っていれば、たとえ世の中がひっくり返ろうと、安心して「「いつも喜んでいられ、すべてに感謝しておられる」と説明しました。

 

 ガイヨン夫人の「イエス・キリストの奥深い経験をする」という本によれば、

(上記の)「絶えず祈る」ことによって、私たちがどんな状態で、どこにいて、何をしていても、常に神の臨在の中で生きることを経験し続けることができる、と言われます。

 

 ところで、ルイ14世と言えば、ジャンヌ・ガイヨン夫人を悪名高いバステイーユ牢獄に裁判無しで閉じ込められ、そこで夫人は6−8年過ごしたと言われますが、この間にフェンロンはガイヨン夫人と密接に連絡を取り、励まされたと言います。

 それでは以上でフェンロン師の紹介を終わり、以降は彼の書いた「神の計画への服従・降伏ー十字架を抱きしめる」の本文に入ります。

 

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 みなさんが色々なトラブルに陥っている事を、私は本当にお気の毒に思います。しかし、そのトラブルが、神様は必ず皆様のためにお働きになっておられる証拠であることを私は知っています。

 それは、神様があなたを心から愛しているからであり、それゆえにあなたが苦しむのをを惜しまないということを忘れないでください。

神様はあなたを愛しています。それゆえに、イエス・キリストの十字架をあなたの上に置いてくださっているのです。

 

   あなたがどんな啓示を受けようと、どんな感動的な体験をしようと、それがあなたを正しく導くものでなければ意味がありません。

どんな啓示を受けようと、どんな感情的な経験をしようと、それがまさに現実的で絶え間ない「自分に死ぬ」という実践に結びつかなければ、価値はありません。すなわち、自分自身の「自己中心の性質」に死ぬことを、現実的かつ継続的に実践しなければ意味がないのです。残念なことに、苦しみなしに「自分に死ぬ」ことはできません。

 そして、自分中心の性質がまだ少しでも生きているなら、「自分は完全に死んだ」とは言えないことは確かであるのです。

 

 神があなたにもたらす「自己死」は、あなたの心の奥底にまで突き刺さり、あなたの霊と魂を分断します。

  神はあなたの内面に、あなた自身には見えないものをすべて見ておられ、特に致命的な打撃を与えるべき場所を正確に知っておられます。

 神は、あなたが最も諦めたくないものに真っ直ぐに向かって来ます。痛みは、生命があるところでのみ感じられるものです。そしてこの状況では、その生きているところこそが まさに死を必要とする場所なのです。

 

  あなたの父なる神は、すでに死んでいるものに切り込むことで時間を無駄にしません。もし父があなたをそのままにしておきたいのであれば、必ずそうされるでしょう。父は、あなたの古い罪の性質を 破壊しようとしておられるのです。それはあなたの生きているものに切り込むことによってのみ達成できるのです。

 

 しかし、あなたが最初に神を信じ、自分を捧げたときに永遠に放棄したはずの、邪悪な欲望だけを神が攻撃するとは思わないでください。むしろ、神はあなたが感じている素晴らしい自由の感覚とか、今、あなたに精神的な安らぎを与えているもののすべてを取り去ることで、あなたを試すかもしれません。

 

  あなたは抵抗しますか?それへの答えは絶対にノーです。神のなさる すべてを受け入れるのです。「あなた自身の(魂の)死」を自ら率先して志願してください。なぜなら神は、あなたが神にそれを許す範囲でのみ、あなたが必要とすることがらを神は実行されるからです。神があなたの人生に起こそうとしている霊的な進歩を拒否すべきではないのです。

 

  今、神が喜んで下さるその喜びのために、あなた自身が頼っている神の喜ばないすべてのものを、放棄してください。それは霊的なものを含めてです。

 

信仰の薄いあなたたちよ!何を恐れているのですか?

 自分のよいと思っている力を奪われたとき、神がより良いご自分の御力をあなたに与えないとでも恐れているのですか?

あなたが持っている小さな力をなぜ主は取り去ろうとしているのか、分からないのですか?それは神があなたの全面的な供給者となるためであるからです。

 

 霊的なレッスンは痛みを伴うかもしれませんが、主はあなたの信仰を浄化し、神があなたのために用意した「神の仕事」を完遂するために必要な最もよい完璧な「神の手段」を用意したおられるのです。

  私は、クリスチャンの教会の「なすべき仕事」を前にしてあらゆるこの世的な助けの手段を神が遮断するのを、見て来ました。

 神は嫉妬深い神です。神はあなたに必要な最高のものを用意される方です。

 

  主のご計画に一切身を任せましょう。神は、あなたを連れて行こうとするところに、あなた自身が導かれることを、あなた自身に期待し、それのみをあなたに待ち望んでおられます。

 自分で人に助けを求めるときは注意が必要です。

  神があなたに与えるようにとその人に与えるものしか、彼らは、あなたに与えることができないことを忘れないでください。

   蛇口から水が飲めなくなったからといって、なぜあなたが困るのでしょうか?あなたは今「永遠に流れ出る泉」からふんだんに飲むように導かれているのです。(続く)


11 06月

神は私が呼ぶとき答えて下さる     バジレア·シュリンク


神は私が呼ぶとき答えて下さる

 

             バジレア·シュリンク

 

 

 

 詩篇50:15「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたは私をあがめよう。」

 

 この御言葉は、聖書に示されている終末的様相をますます帯び、多くの苦悩が心をむしばもうとする現代に生きる私たちへの、神からの力強い呼びかけです。

 悩んでいる人は誰でも助けを呼び求めます。子供は母親を呼び求め、大人は自分にとって親しい人を呼び求めます。しかし、その助けを求める叫びが聞かれぬままに消えてしまうことを、しばしば経験するのではないでしょうか。自分を愛してくれる人々や、とても親切で世話好きな人であっても、ほかのことに心をうばわれていて、私たちの叫びが聞こえないことがあるかもしれません。

 あるいはまた、私たちの問題に対して、どうやって助ければよいかわからないこともあるでしょう。

 

 こうした時、主なる神が「わたしを呼び求めなさい!と呼びかけておられるとは、何とすばらしいことでしょう。誰かが「どんな時でも電話をかけてきなさい。相談にのりましょう。私にまかせなさい!と言って助けの手を差し伸べてくれる時、それは私たちにとってどんなに励ましになるでしょう。私たちはその時、あらゆる苦悩と心配事の只中にあっても、安心していられるのです。

 しかしいま、このような呼びかけが天と地を造られたお方、私たちをあがなってくださった主イエス·キリストからなされているのです。主はその愛ゆえに私たちの心が悲しみに満ちていることを、また私たちがあれこれの問題に対処できないでいるのをすべてご存知です。愛に満ちたまなざしで、イエスは私たちの心にあるすべてのことをごらんになります。主お一人が私たちの心をわかって下さるのです。なぜなら、主は苦しみを受けられ、私たちと同じように試みに会われたからです。しかし、それだけではなく、主は、私たちがどのような悩みの中にあっても助けを備えて下さり、すべての問題を解決できる唯一のお方なのです。

 

 

 それでは、イエスという名にはどんな意味があるのでしょうか。イエスとは「神は救いたもう」という意味です。神は助けであり、救いであられます。

  言いかえるならば、主イエスが私たちを助けず、救い出さないことなどあり得ないのです。主のご性質とみわざは、愛と救いによって特徴づけられます。なぜなら、イエスは愛そのものであられるからです。主は、憎しみをもって敵対した人や、主をいやしめ、あざけった人のためにさえも、苦しみに耐えられたお方です。それゆえイエスが私たちを愛して下さっていることを決して疑うことはできません。

 人間の愛は、すべて主イエス·キリストの内にある愛の炎と比較すると、はかない小さな花火でしかありません。イエスが私たちに惜しまず与えて下さるのは、この燃えるような神の愛です。多かれ少なかれ、だれもが悩みの中にある今日、イエスは救いをもたらす神の愛を、かってないほど私たちに体験させたいと願っておられます。

 しかし、主イエスの助けは自動的に受けられるものではありません。イエスは生ける主であられ、その愛を押し付けることはなさいません。主はご自身を呼び求める者にのみ、近づいて下さるのです。それゆえ私たちは、このように主イエスをほめたたえましょう。

 

 主イエス様、

 あなたは「しかり、アーメン」なるお方です。あなたを信じる者はあがない

 を体験します。

 あなたは救い主であられますから、私を罪の鎖から必ず救って下さいます。

 あなたのもとに来る者は決して滅びることはありません。

 「わたしを呼び求めなさい!」と主が招いておられる時、私たちは実際にそ

 うしなければなりません。くり返し起こる災害、殺人、暴力、暴動、戦争の

 脅威、キリスト者に対する迫害といった毎日のニュースの接する時、私たち

 はこれらから思いが離れない、という危険にさらされます。しかしそれで

 は、意気消沈や苦悩、恐れから脱することはできません。イエスを呼び求め

 るとは、いわば「自分自身から飛び出す」ことです。

 

 意気消沈している時、私たちは助けを呼び求めることを始めなければなりま

 せん。そうすることによってのみ、憂うつから脱することができるのです。

 しかし、「主イエス様、あなたはともかくも私を助けてくれるでしよう·

 ···」と祈るだけでは十分ではありません。私たちは確固たる信頼をも

 って、主の御名を呼び求めるべきです。その時何かが起こります。なぜな

 ら、この叫びは神のこころに届くからです。神は助けを求める者はだれで

 も救われる、という驚くべき約束を与えて下さっているのです。

 

 神がご自身の言葉を守られるということを私はくり返し体験してきました。

 主の御名は、「しかり」であり、「アーメン」です。しかしながら、祈り

 が答えられるためには、一つの条件があります。それは主の御名を心から

 呼び求めるということです。そしてこれは、子供でさえ理解し、行えるこ

 とです。

 今日、若い人々の間でも、霊魂や悪魔と接触を持つことがごく普通となっ

 てきています。中にはオカルトの講座さえ提供する学校や大学があります。

 その結果悪魔が勢力をふるってきているのです。これは事実です。イエス

 は生きておられます。しかしサタンもまた、今日私たちが体験しているよ

 うに、現実なのです。だれでもサタンと接触を持つ者は、激しい精神的苦

 悩に陥ります。最初サタンは若者を自分の支配下に入れるために、セック

 スや麻薬を使って舞台裏でこっそりと働いていましたが、今や公然と自分

 自身を現しているのです。

  それゆえ「わたしを呼び求めなさい!」とイエスが招いておられるのは、

 何とすばらしいことでしょう。主はサタンと地獄に打ち勝った勝利者であ

 られます。イエスの御名を求める者はだれでも、あらゆる暗闇の力からの

 開放を体験するでしょう。

 

 

 主の御名のちから(という歌)

  

 1.「主の御名のちからわれはあがめん つみのくさりからわれをはなつ

 2.御名が呼ばわれば、やみは去りて、み国のとびらが われに開かん。

 3.主の御名のちから われはたたえん、地獄の支配を うちくだかれん

 4.主の御名はきょうも わが喜び、こころの悲しみ いやしたもう。

 

  私たちにはこのような主がおられるーーこれは何とはかりしれない恵み

 でしょう。死人の中からよみがえり、御父のもとへ帰られて、今や無数の

 天使たちに礼拝されている主イエスは、それで満足されるはずではないで

 しょうか。しかし、主イエスは私たちをあまりに愛しておられるので、そ

 の愛ゆえに私たちの方へと駆り立てられるのです。主は偉大なる大祭司と

 して、神の御座でたえず私たちのためにとりなしておられ、常に魂を救っ

 ておられます。愛ゆえに主は決して休むことなく、暗黒の力から、次々と

 魂を救い出しておられるのです。ーーーこれは何とはかりしれない恵みで

 しょう。私たちは、イエスのこのあがないの力をたんに一度だけではなく、

 たえず新たに必要としています。

 

  私たちはみな先祖から受け継ぎ、私たちの中に深く根づいている罪深い

 性質の特徴、たとえば神経過敏症、不きげん、肉の欲望、うそをつくこと、

 ねたみ、苦々しい思いといった性質を持ってはいませんか。それはまるで

 泥沼につかっているようなものです。そこでイエスは「今わたしを呼び求

 めなさい!」と招いておられます。もし今あなたが呼び求めず、ただ成り

 行きにまかせるなら、あなたはますます深く沈んでしまい、そしてそれは

 自分の責任となります。···

 

  主を呼び求める時、私たちはイエス·キリストーーー「人の子らにまさ

 って麗しいお方](詩篇45:2)、愛をささげるのに最もふさわしいお方

 との、聖なる交わりに入れられます。それは何と幸いなことでしょう。

 主イエスは贖われた者たちの花婿であり、威厳と栄光をおびてこの地上に

 再び来られる王の王であられます。···この暗い時代に、主を求めるこ

 とができるとは、何とすばらしい神からの贈り物でしょう。···すると

 にわかに私の心は慰めと喜びに満たされます。····以上はバジレア·

 シュリンク師の小冊子から引用しました。

 

 (追記)私、坂 達也は、これこそ、まさにクリスチャンの毎日の生き方

 である「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について、

 感謝しなさい。···」(1テサロニケ4:16、17、18)の意味で

あり、特に「絶えず祈りなさい。」(「主からの御言葉を直接いただく」

の意味するところ)であると信じます。ハレルヤ!(終わり)


05 06月


信仰の言語と量子論と アネット·キャップス

 

                   坂  達 也

 

 

アネットさんは言われます。

 「量子論の仕組みは、あまりにも奇妙で奇抜なため、それを表現する言葉がありません。これが、多くの人が量子物理学に興味を持てない理由の一つです。ほとんどの人にとって、量子物理学は理解できないものなのです。

 

 私たちが住んでいるこのマクロな世界での素粒子の振る舞いの例を見せれば、理解してもらえると思います。しかし、量子ミクロの世界は、私たちが日々観察している自然(マクロ)の世界とは、上下が逆になっているように見えることがあります。

 

 量子物理学を勉強していると、それがとても身近に感じられるようになりました。それは「信仰の言葉」のように聞こえました。私が長年にわたって教えられてきた信仰や告白に関することが、突然、科学的に可能になったのです。イエス様が教えてくださったから信仰で受け入れたことが、まるでイエス様が量子原理の言葉を話しているかのように聞こえたのです。言葉が山を動かすというのは、どれほど奇妙なことなのでしょうか。

 

 イエスの言葉を信じるためには、古い考えを捨て、新しい考えを受け入れることが必要です。イエスが教えてくれた言葉は、世間的に見れば無意味なことのように思えますが、イエスは「私たちはこの世のものではない」と言っています。私たちはこの世にいますが、この世のものではありません(ヨハネ17:16)。

私たちは、イエスが神の国の法則と呼んだ、別の法則の中で活動しているのです。神の国とは、神が住んでいる領域のことです。

 

 

異なる領域  異なるルール 

 

  神の国の法則は説明できません。それは、物質的、物理的なレベルではなく、創造の基礎となる、より高い原理に基づいているからです。創世記第1章には、神が御言葉によって目に見えないものを存在させたことが記されています。言葉目に見えない振動は、明らかに物質を顕在化させたり変化させたりする効果があります。

  説明のつかないこれらの法則を、あなたはすでに経験しているかもしれません。

あなたは信仰に基づいて経済的な種を蒔いたことがありますか?10ドルを寄付して、100ドル、1000ドルと豊かになることができるのはどうしてでしょうか。この原理がどのように働くのか、数学的に説明することはできません。しかし、神の国の原理がどのように働くのか、イエスはまさにこのように教えておられるのです。···」

 

 以上は Annette Capps  アネット·キャップス師の小冊子の一部から取ったものですが、私はこの方のことを近いうちに出版予定の私の3冊目の本で紹介しています。

 何故この部分だけを引用させていただいたかといえば、実は、今は天に召された私の家内の柚実子が、地元ニューヨークの教会で、今となっては最後の機会をとらへて、一〇1献金がどれほど大切かを皆さんに訴えました。それが私にとっては彼女の遺言であったような強い印象を持ったのです。彼女もこのアネットさんの小さな一文を読んでいたと思いました。

 どうぞ皆様、10いち献金の尊さを、柚実子からの遺言としてお受け取りくだされば幸いです。

 

主にあって      坂 達也


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