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Walk With God Ministries

18 09月

天国に住む リック・ジョイナー                    2018年9月18日


天国に住む

 

リック・ジョイナー

 

 

 私は自分が今まで経験してきた天国の様子をお話しておりますが、決して私の経験だけが天国のすべてを説明していると言っているわけではありません。

現に、私の見て来た天国とは異なる話も沢山読んだり聞いたりしてきました。しかし、天国は非常に膨大であり、又多様な面があるので、そのような私と違う経験をされたことを私は信じることに全く問題はありません。私たちすべての天国の経験を全部集めたとしても、天国の1%すら表現できないと思います。

主は宇宙を常に広がり続けるものとして造られましたが、それと同じく主は天の霊的領域も拡大し続けるように造られたのだと私は思います。

 

 私たちの神は、私たちが一生かかっても到底理解できない非常に大きなお方であり、神の創造も(物質的創造、霊的創造のいずれも)非常に大きいのです。それはただ大きいというだけではなく、イザヤ9:7に「その主権は増し加わり・・」と書かれているように、神の主権は永遠に増し加わり続けることを、私たちは信じてよいのです。「永遠」は決して退屈な時間ではなく、常に魅力的で畏敬に満ちています。

 

主が私を連れていかれた霊的領域では、一カ所を除いて、天国にあるすべてのものは生きていて、石や水、そして他のすべての物が生きていました。それらは皆、自分がその物として造られたことや、自分と異なる他の物との交わりがうれしくてたまらないという様子でした。奇妙に聞こえるかもしれませんが、天国ではそれがとても自然で当然のことのように思えました。そこには死がないばかりか、すべてのものに命がありました。

 

私は天国でも引力があるかのように地上と同じように普通に歩いたこともよくありましたが、又引力がないかのように宙に浮かぶこともできました。遠くに行きたいときは、そこまで飛んで行くこともできましたし、又そこに行きたいと強く願うだけで瞬時にそこに行くこともできました。

 

天国で感じる感情は、今まで経験したものよりずっと深く広く強いものでした。そして何かのことや誰かのことをじっと考えていると、それに対する感情はどんどん増していきました。

地上で私が感じた最もすばらしい平安も、天国で感じた平安に比べれば、ほんの小さなものでした。それは喜びの感情でも同じでした。

 

私たちが五感で感じる能力が地上では抑制され制限されているのと同じように、私たちの感情も地上では抑制されているのだと思います。しかし天国では五感も感情も全く制限されていないようです。

 

一度の例外を除いて、霊の領域や天の領域に私がいるときは、御使いかイエスがいつも一緒についていてくれました。一度の例外というのは、それまで私が天国で一番素晴らしいと思っていた場所に、主が私を一人で行くのを許可してくださった時のことです。

しかし行ってみると、そこが最早楽しい場所ではなかったばかりか、私はもう決して一人の経験はしたくないと思いました。この経験は、どれほど深い交わり(コイノニア)こそが「天国で生きるための酸素」であり、 コイノニアの交わりに成長するならば、私たちがどれほど天を地にもたらすことが出来るかを教えるために、主が私にさせてくださったのでした。

 

それはまさに、人と関係を結ぶこと、人と交わりを持つことがどれほど重要であるかなのです。神が天地万物を創造されたとき、最初に「良くない」と言われたのはアダムが一人でいるのを見られたときだったのは、まさにこの理由です。真の愛は、一人で淋しい人を見つけ出し助けます。その時私たちは彼らの内に、彼らのまことに家、即ち天国、を慕う思いの種を蒔き始めるのです。

 

私は「天国にはゴルフや野球、サッカー等のスポーツはあるのですか?」と人々からよく聞かれます。私はそれを見たことがありませんが、前述のように私の天国のすべての経験を合わせても天国のほんの少しの部分を見たに過ぎません。

天国でスポーツの試合を見たと言う人たちもいますから、多分あるのでしょう。

個人的には私はスポーツの試合や競争は大好きですが、天国では「誰かに勝ちたい、誰かを負かしたい」という気持を持つことは考えられません。

 しかし、聖化され高められた形のスポーツが天国にあると信じることはできます。地上にある「良きもの」はすべて天国にそれに相応するものがあるからです。

神学に「最初の言及 」に関する原則があります。「ある事柄が聖書で最初に言及された箇所は、普通、その事柄の究極的な目的を示す最も重要な啓示である」というものです。

聖書が「神の家」に 最初に言及したのは、ヤコブが天に届くはしごと神の使いたちがそのはしごを上り下りしている夢を見たときのことでした。(創世記28:11−19参照)

 

これは地上の神の家である「教会」の主たる目的の啓示であり、それは即ち「天に届く通路になる」ことです。まことの神の使いたちは絶えず天の領域に上り、そして天のリアリティーと主権の証拠となるものを地のすべての問題や状況の上に持ち帰るのです。

 

ヨハネ1:51にあるように、イエスは私たちが天に上るための「ヤコブのはしご」です。私たちは主がどのようなお方であるかという啓示を一つひとつ受けて上っていくのです。私たちの目的は「イエスと共に天の所にすわること」です。(エペソ2:6参照)

 

この教義は「ただ信じればよい」という以上のものです。すべての教義は頭で信じるものではなく、私たちが生きるべきものです。ですから、クリスチャンなら誰でもキリストと共に天の所に上ることができるのです。実際すべてのクリスチャンはいつでも常にそうしているべきであるのです。

 

このようなことを経験するのを恐れている人に申し上げますが、もし一回でもその経験をするならば、今度は地上に戻ってくることの方をもっと恐れるようになるでしょう。

主の統治される天の領域で主と共にあって経験する以上の平安と喜びはありません。 天の領域のものは非常に素晴らしく、地上の最上のものであってもその影にすぎませんし、天には悪は一つもないのです。

 

天国は今すでに私たちの住まいであるはずなのです。それはあるいにしえの人が「新しく造られた者(クリスチャン)」について次のように言っている通りです。「私たちは、たまに霊的経験をする人間として召されているのではなく、たまに人間的経験をする霊的な生き物として召されているのです。」

 

すべてのクリスチャンは、目に見える世界よりも霊的領域にいるほうがもっと自然でリラックスできるはずです。

天の御国が全地に宣べ伝えられるのは、実にこのような「天国に住み天国を具現する人々」によるのです。(終り)


10 09月

希望の喜び ビル・ジョンソン(ベテル教会)         2018年9月10日


希望の喜び

 

ビル・ジョンソン(ベテル教会)

 

(訳者注:ベテル教会のあるカリフォルニア州レディングの周辺(Shasta とTrinityという二つの群)は、2018年7月23日に始まった山火事により、大きな被害を受けました。8月30日にようやくコントロールされるまでに23万エイカーが燃焼し、1000戸以上の住宅を含む1600の建造物と8名の命が失われました。ベテル教会は被害を免れ、救援物資の供給所として用いられました。この山火事はCarr Fireと名付けられましたが、 カリフォルニア州で史上6番目に大きなものでした。以下のジョンション師のメッセージは9月2日に語られたものです。)

 

 

イザヤ35章に私は長く親しんできましたが、今朝新たに気がついたことがあります。それは「喜び」が「希望」と非常に密接に関係しているということです。希望がないところには、喜びはありません。大いなる希望があるところには、大いなる喜びがあります。人がどれほど希望を持っているかは、その人がどれほど喜んでいるかによって測ることができると思います。希望(hope)という言ばは、現在は「願い」という意味で使われています。「I hope ~」と言えば、「~だといいんだけど...」という意味で使われています。

けれども聖書が語る「希望、hope」は、それとは全く違い、「良い事が起こることを信じる喜ばしい期待 joyful anticipation of good」なのです。即ち「祈っていることを得る前にすでに感じる喜び」であり、答えを得たときに感じる喜びに匹敵する喜びです。真の「希望」は、雲を掴むような根拠のない期待ではなく、神のご性質に土台を置いているものです。あなたの人生への神の御ことばに土台を置いていて、神の御こころや思い、神の御性質、神の深い慈愛に土台を置いている希望です。ですから何が起こっているのか理解できない時でも、私は常に希望をもって生きることができるのです。

 

私が今直面している多くのことは、私を突然襲い、私を驚かせました。でもその中で神が何も知らなかった、驚いたということは一つもありません。ですから、私はどんな時でも、いつでも、確信の場所に戻ることができます。私はそんなことが起こるとは知らなかったけれど、私の神との関係は「希望hope」という場所に私を立ち続けさせ、私を「希望を持つ人」にしてくれるのです。そして答えが来る前に、そしてそれがどのような答えか知らなくでも、その答えを喜び称えることができるのです。これこそが真のクリスチャンのライフスタイルです。

 

私たちの責任は、周りの人にも伝染していくような影響力のある希望の人生を送ることです。悪いことや現実を見ないようにして楽観的に生きる「うその信仰」というものがあります。しかし本物の信仰は問題があることを否定はしません。ですから、人間関係に問題があることや、医者の診断、請求書の額などが現実であることを受け取ります。そして自分が直面しているそれらの問題に対する答えは知りませんが、「私の天の父は答えを知っておられる。」ことを知っています。イエスは十字架につかれた時、「私が全生涯に直面するすべての問題」を100%考慮に入れておられました。イエスは私の代わりに私のすべての罪を負われました。主は愛を極限まで実践されました。私のすべての罪は覆われたのです。

 

イザヤ35は希望の言葉で始まります。随分昔のことですが、私は聖書の中で「水」に関連する箇所を全部調べました。「川」や「流れ」「泉」「雨」とかいう言葉を調べ、それが何を語っているかを調べたのです。「主は流れを砂漠にもたらす」とか、「山々に川が流れる」というような表現が聖書のいたるところに出てきます。それは自然界そのものへの言葉であると共に、究極的には渇いた荒れ地のような人間のこころを神はさしておられ、それに対する解決を示しておられます。

私は水に関する箇所を全部書き出しました。その結果分かったのは、イスラエルが直面している問題が何であっても(例えば、敵の軍隊、自分たちの罪、何代にも渡る背信、疫病等)神の答えは「水」です。

「イスラエルが敵の軍隊に取り囲まれている」ならば、神は「わたしは荒野に川をつくる」と言われるのです。民は「神よ、私たちを救うのは『川』ではないと思います。敵をやっつけてください。」と思ったことでしょう。

 

しかし、私たちは神が用いられる言葉の奥義をしっかりと把握する必要があります。100%と言ってよいほどほとんどの場合、聖書で「水」は聖霊を表しています。ですから問題が何であれ、神は「わたしは聖霊を送ります」と言われるのです。「わたしは大雨を降らせます」とか「荒野に川を流します」というように、旧約聖書を通して水は聖霊をさしているのです。それは、神が聖霊を送られて神の臨在と力を現してくださるという預言、すなわち、すべての問題は聖霊によって解決されるのです。

イザヤ35:1、2「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」

「不毛の地に主が訪れ、豊かに花が咲き、主の栄光、威光が現れる」と言っています。「民が神と親密な関係を結び、自分達への神の計画、人生の目的に確信を持つ故に希望に満たされ、彼らの心からは喜びの泉が沸き溢れ、歌となり、かつては死の地だったところが大いに栄える」ということです。

 

1、2節では神が来てくださったという背景が描かれていますが、3、4節ではその時に私たちがしなければならないことが書かれています。3、4節「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ。あなたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたを救われる。』」

 

これは非常に興味があるところです。神によって希望に浸され希望に満たされた私たちは、希望のない人、弱っている人のところに行きます。もしあなたに希望がないというのならば、それは偽りを信じてしまっているからです。神の御ことばを心から信じる者が、希望がないということはあり得ません。あなたの身に起こったことで、神が知らなかったとか、イエスの十字架で処理されていないことはないからです。聖書にはイエスが「世の初めからほふられた小羊the Lamb who was slain from the creation of the world(NIV)(黙示録13:8)」と書かれています。即ち人間が造られ、罪を犯す以前に、そのために解決がなされていたという驚くべきことです。ですから私たちにとって初めてのことでも、神にとっては初めてではなく、問題の前にすでに解決があるのです。

 

3節に「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。」とあります。以前軍隊に入っていた友人が話してくれたことを思い出します。兵士たちは長距離を走らねばならない時がありますが、ある者は力つきて倒れてしまします。すると他の兵士たちは彼を助けに行きます。一人は彼のリュックを取って自分のリュックの上に担ぎます。二人が彼の両横に行き、彼の腕を取って立たせて引っ張るようにして最後まで一緒に走ります。一人では完走できなかった者を、力のある者たちが助け一緒にゴールインするのです。この箇所はそのようなことを言っているのではないでしょうか。チームが力を合わせて助け合い、神の召しを全うする姿です。

しかし、それで終りではありません。弱っている者に預言をするのです。それはあなたが預言者から何を言えばいいかを聞き、弱っている者にそれを伝えるのではありません。神のご性質や神の約束を知っている者として、私たちは自然に語ることができるのです。私たちは「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」と預言し、宣言できるのです。

どうしてそれが重要なのでしょうか?

それはただ空虚な口だけの励ましではありません。「どうにかして励ましたとい」と自分の頭で一生懸命考えて口から出す言葉ではありません。これは神の恵みをあなたの口を通して解き放つことなのです。エペソ4:29に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とありますが、まさにこのことを言っているのだと思います。私があなたのところに行き、あなたに役立つ徳を養う言葉を話すとき、恵みを与えることができるのです。この恵みはどこから来るのでしょうか?それは神からです。恵みとは神からの特別な愛顧、フェイバーです。

私が弱っている者のところに行き、「恐れてはいけません。神が復讐し、失ったものをすべて取り返してくださいます。私もあなたと一緒にいますから。」と言うのを見て、神は「わたしはあの者に恵みを与えよう。わたしの息子がすでにフェイバー示したところに、今わたしのフェイバーを与えよう。」と言われるのです。

 

これは私たちが「神を操って恵みを与えるようにさせる」というのではありません。すべてのクリスチャンは「慰めのミニストリー」をする権威を与えられているのです。神のご性質を知っている者として、私たちは神がその人に必ずそうしてくださると確信をもって慰めることが出来るのです。

 

2コリント1:3−5「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」

もし私たちが弱っている者のところに行かなかったら、神は「しょうがないなあ、仕方がないからわたしが行くとしよう」とか「天使を送ることにしよう」とか言われるのでしょうか?違いますね。神が私たちに指令を出されるときは、その任務を遂行するための力と責任を私たちに与えられるのです。もしここに弱って倒れそうな人がいるとします。 あなたは「神は来て、失われたものを回復し、あなたを救われます!」と 預言をせねばなりません。

 

5節は「そのとき then」という言葉から始まります。私たちが4節の預言をした「そのとき」に、すべての者は癒され、すべてが回復するのです。

イザヤ35:5−6「そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわきだし、荒地に川が流れるからだ。」

その人の内に聖霊が豊かに沸き流れ出すので、その人は癒され、回復するのです!

数年前、ラスベガスの集会で、ワーシップをしていたとき、建物の中に雨が降り始めました。牧師が屋根を調べるように言いましたが、屋根に穴はあいていませんでしたし、雨も降っていませんでした。雨は3時間屋内で降り続けました。神は時々、私たちのこころを柔らかくするために面白いことをなさいます。渇いたところに川をもたらし、それによって奇蹟が起こるのです。

 

今私たちのレディングの町には、 心に痛みをもって眠りにつく人が沢山います。それは「希望」を持っている人が周りにいないからです。もし彼らが「岩のように堅い希望を持っている人」「神を堅く信頼している人」を一人でも知っているならば、彼らの明日は変ることでしょう。私たちは真の希望を持つ者、そしてそれをもたらす者になろうではありませんか。(終り)


04 09月

エリエゼルの役目 リック・ジョイナー(モーニングスター・フェロシップ)        2018年9月5日


エリエゼルの役目

 

リック・ジョイナー(モーニングスター・フェロシップ)

 

 主イエスはご自分の花嫁を迎えにこられますが、花嫁が「来てください。」というまでは来られません。今日誰でも受けることの出来る最も大きな油注ぎは、「エリエゼルの油注ぎ」であり、「エリエゼルのミニストリー」が最も必要とされています。エリエゼルはアブラハムの全財産を管理している最年長のしもべでした。アブラハムは息子イサクの嫁を捜すためにエリエゼルを遣わしましたが、その結果、彼は輝かしい任務を成し遂げたと思います。彼は遠い地に行き、そこに住む一人の娘リベカを主の導きにより見出しました。そして彼女が生まれてから今まで経験したすべての事やすべてのもの、すべての愛する家族友人を後にして、まだ会ったこともない若者と結婚するために彼について行くことを彼女に承諾させたのです。彼女はフェイスタイムでイサクと話すことも、彼のウエブサイトを見てチェックすることも出来ませんでした。しかしエリエゼルは大いなる主の油注ぎを受け、この娘がまだ見ぬ人を恋するようにさせたのです。彼は沢山のプレゼントを持っていきました。聖書学者たちはエリエゼルは聖霊の働きを最も顕著にあらわしていると言っています。彼はプレゼント、賜物を持ってきますが、それは自分からのものではなく、主人からのものだと告げました。彼はすべてのことが花婿なる主人をさし示すようにしたのです。それでリベカは生まれてからずっと親しんできた環境や家族のすべてを捨て去る決意をするに至ったのです。恐らくもう二度と帰れない、もう二度と家族に会えないにもかかわらず、彼女は決心したのです。

 

エリエゼルの油注ぎは、今私たちにも用意されています。それは花嫁が花婿に恋をするように導くミニストリーです。すべてを捨て、花婿と一つになれるならどこにでも行き何でもするという真の情熱を持つ花嫁を育てるのです。今こそその時が来ています。

主イエスを愛する花嫁について私は主から長年にわたり示され教えられてきました。「これは地上で最も偉大なミニストリーであり、人から人へと伝染し広がっていくものである」と主は言われました。

 

イエスは十字架に架かる前の晩、ヨハネ17:23で「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それはあなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」と祈られました。

イエスが祈られた祈りは必ず聞かれます。御父がイエスを愛された愛と同じ愛を私たちも受けているのです。私は毎日「御父がイエスを愛された愛をください。そしてその愛が人々に伝染していきますように。」と祈っています。それは私たちが行くところすべての場所で、人々がイエスへの愛で満ちて行き、イエスの花嫁となる願いからです。

 

花嫁は自分自身を整え婚礼の準備をします。けれどもその動機が「しみやしわがあったら花婿に打たれるから。」と言うのでは律法主義になります。「花婿を情熱的に愛するあまり、彼のために完全な花嫁になりたいと切望する」というのが本物です。そして私たちがイサクの花嫁リベカのように主を愛する時が来ているのです。私は自分のためにも、また皆さんのためにもそのように祈っています。エリエゼルのように人々がイエスを情熱的に愛するようにするのです。それが私たちに与えられている最高のミニストリーであり人生の目的であると信じます。

 

単なる訪れ Visitation ではなく主が住まわれている Dwelling になる

 

主はしみやしわのない完全な花嫁を迎えるのにふさわしいお方です。私たちが完全な花嫁になるためにはどのようにすればよいのでしょうか。主を愛してやまない、主のためには何でもしたいと願う者にどうすればなれるのでしょうか。

 

このモーニングスター教会でも「主の訪れ visitation」は過去に何度か起りました。それは素晴らしいものでした。しかし、私たちはその「訪れ」よりももっと高レベルのものを求めています。ふたりの弟子がついてくるのを見たイエスは、ヨハネ1:38で「あなたがたは何を求めているのですか。」と訊ねたとき、二人の弟子は「ラビ。今どこにお泊まりですか dwelling と聞き返しました。これは今の私たちにとっても最も重要な「問い」なのです。神はご自分がそこに住んでおられない事でも祝福はしてくださり、お住みにならない場所にもちょっと訪ねてはくださるのです。この教会で「油注がれたすばらしいワーシップ」や「油注がれた最高の説教」「油注がれたものすごい奇蹟」がなされるならば、人々はここから出て行くときに、「モーニングスター教会は素晴らしかった」と言うのではなく、「主はなんと素晴らしいお方でしょう!」と言うことでしょう。ワーシップや説教のことではなく、どれほど主の臨在が素晴らしかったか、自分がどれほど主をもっと愛するようになったかを話すでしょう。

 

神殿の中に主が住んでおられないならば、人々は神殿の素晴らしさを話すしかありません。しかし主がおられるならば、私たちは神殿のことではなく、主のことを話さないでしょうか。私たちの教会が求めているのは、まさにそれー「主の臨在、主のあらわれ」です。私たちは今までにヴィジテイションを通じて、それを少し味わった経験がありますが、本当に「主が住まわれるところ」になりたいのです。それはこの部屋だけとか、集会のときだけではなく、24/7、常にそうあるべきところです。教会とは24/7常に主の臨在が住まわれるべきところであるのです。なぜなら教会は「私たちが行くところ」ではなく「私たち」が教会であるからです。

人々の神への愛がこれから大いに増し加わってくるのを皆さんは見るでしょう。そのように人々が礼拝に集まって真に主を慕い求めることは非常に大切です。

今夜皆さんはこのように礼拝に集っておられますが、残念ながら世界的に見ればクリスチャンの多くは最早集会に参加しておりません。

しかし間も無く「礼拝にどうしても行きたい!」と人々が切望する時が来ようとしています。この教会でも以前数週間に渡って主の訪れがあったときは、皆が毎晩「どうしても教会に行きたい、主に会いたい」という気持になりました。そこに主がおられたからです。主がそこに住まわれる教会になることが、私たちの切なる願いです。そうさせるのはエリエゼルの油注ぎを豊かに蓄えた、霊的に実った人たちを主が起こされるからです。(以上リック師のメッセージ終り)

 

 

上記のメッセージについての後書き    坂 達也          

 

 ニューヨーク州近辺の5つ、6つの日本人中心の教会が集まって2年に一度の修養会を持っておりますが、私たちは昨日までの3日間、その修養会に初めて参加させていただきました。200人以上が集まりましたが、お招きした講師は、私たちがハワイに住んでいた時に親しくしていただいたホノルル・キリスト教会の関 真士(せきしんじ)先生ご夫妻で、師が語られた題名が「無限に拡がる神の愛」でした。

今回関師が語られたメッセージは、関ご夫妻、特にご主人が育ったご家庭での経験と共に、現在第4期の癌と宣言されながらも癒されつつある奥様の壮絶な闘病生活を通して経験された「神の愛」の深さと、考えられないような素晴らしい奇跡についてでした。まさにその聖霊の実を生きておられるお二人の上に輝く「神の愛」を目の当りに見させていただいたすばらしい集会でした。

 

しかもこのジョイナー師のメッセージは、図らずも修養会直前に家内が選んで訳したものでしたが、その内容が「たまたまではなく」あまりにも関先生が語られたメッセージと一致していました。そして語られた関ご夫妻の上に起こったすべてのことが有史以前から、神がこの日に語るために用意された「本日までの人生の証し」の集大成でした。創造者の神が人間のために計画された一人ひとりの人生は、「神の子供に対する神の無限の愛を分かち合う証し」ができるように造られていると私は確信します。従って私たちの人生は、どんな惨めな荒野を歩く人生であっても、いやそうであればあるほど、神はそれにも増して、そのどん底から完全に回復できるに充分な「めぐみの力」を与え備えてくださっていると信じます。従って私たち人間は信仰によりどんな惨めな人生からでも回復できることを証しする責任を持っていることをひしひしと感じされました。(イザヤ書60:1、2をご参照ください。)すなわち神の無限の愛とは、人間をそのように造られた創造者の御業そのものであることに私は改めて驚いた次第です。

 

それに加え、実はリックジョイナー師は、この9月20日から4日間、師の教会で終末の時代に最も必要な上記の「エリエゼル」を養成するための「使徒的リーダー」を育てるための集会を計画していて、私たちも招待されました。

それは終末の時代に、イエスとの深い個人的交わりを共有した複数の信徒が「コイノニア」の関係を持って聖霊の助けを受けた信仰の行動をする「スモール・グループ形成」を目的とした訓練のセミナーです。それが「主と共に歩む」ことであるとリック師は言われます。私たちのミニストリーは出発当時に主から「神と共に歩く WWGM」という名称を与えられています。そして私たちはリック師の教会のパートナーメンバーですから、その集会にぜひ出たいと願っております。しかし折から私は1週間ほど前に、医師からMRI検査の結果として軽い脳梗塞が起きていた事実をいい渡されました。加えてその前に再発した帯状疱疹の影響が未だ顕著で、回復しながらも、身体全体が免疫力が落ちて弱っている状態にあります。ぜひ皆様のお祈りをお願い申し上げる次第です。(終り)


27 08月

あなたは本来、預言の賜物を持っている! ジョン・ヴィール         2018年8月27日


あなたは本来、預言の賜物を持っている!

 

ジョン・ヴィール

 

1コリント14:1「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」

 

ご存知かどうかわかりませんが、もし御霊に満たされたクリスチャンであるならば、あなたは本来預言的であるのです。「本来」とは、「基本的な性質として備わっている」ということです。預言の賜物はあなたが人々を祝福するようにと、神が与えられたものです。

 

預言の賜物はあなたの遺伝子の深い霊的レベルの中に文字通り埋め込まれているのです。それはあなたに属し、あなたの中に存在し、あなたからスーパーナチュラルに無理なく天然的に流れ出るべきものです。神から与えられている自分の中の預言的賜物をずっと知らずに放っておくと、それは発達せずに忘れさられてしまいます。

 

預言の筋肉を活性化する方法

 

主のことばを預言的に話すことは、「預言者」だけがすることではなく、神がすべてのクリスチャンに与えておられる正当な特権です。預言者や預言的な人のそばに長く留まると、あなたもその影響を受けるのです。

 

そして彼らと真近に接触すると、あなたも預言をするようになります。預言の霊は人から人に簡単に伝染することを私は見てきました。すべての人の内には預言の霊によってだけ埋められ完成されるのを待っている一つの空間があるのです。私たちすべての内にある予見者の種が、預言的活動によって水を与えられるや否や、発芽し始めます。

 

預言的遺伝子を働かすためには、それを活性化し使わねばなりません。あなたの内にすでにある預言の賜物を、刺激し揺り動かして活性化すればよいだけなのです。これはウエイト・トレーニングによって筋肉を鍛えるのに似ています。

 

ある筋肉にウエイトを長くかけるばかけるほど、その筋肉はもっと発達し強くなります。預言の賜物もそれと同じように反応するのであって、使えば使うほど強くなるのです。

 

活性化はこのプロセスで一番重要なものであり、それは賜物を大きくするだけでなく、その鋭さや強さをも増し加えてくれます。預言の賜物の活性化は、あなたが誰かに頼るのではなく、自分自身で神に聞くことができるようにしてくれます。あなたが持っている「自分で神に聞く本来の能力」を増し加えます。そしてあなたの霊の耳を主の周波数に合わせ、あなたが本来持っている預言的性質にアクセスできるようにしてくれるのです。

あまり預言的でなかった人が活性化されることによって預言的になった例を私は多く見てきました。活性化は彼らの中にある預言的賜物を喚起するだけではなく、その活発な動きによってその人が持つ他の賜物にも刺激を与えてくれます。

 

活性化のミニストリーを受けたある女性が、手が熱くなるのを感じたと言いました。それは癒しの賜物のしるしであると思ったので、彼女にそう告げました。そしてしばらくすると彼女は癒しの賜物を用い始めました。このようなことは私が活性化のミニストリーをするとほとんどの場合起ります。預言の活性化から多くの素晴らしい預言的覚醒のあかしが生まれています。

 

使わないものはやがて弱くなる

 

活性化のクラスをしている時、私はある啓示を受けました。一人の女性に手を置いて彼女の預言的賜物を活性化していると、彼女の中に3つの大きさの違う賜物があるのが見えました。実際それらはきれいに包まれリボンで飾られたプレゼントのように見えました。

そのうちの一つが他のものより大きく、それが彼女の一番主な賜物のようでした。すべての人は幾つかの賜物を持っていますが、普通そのうちの一つが主で他のものより大きいと私は思います。彼女に関して言えば、預言の賜物が一番大きいとわかりました。他の賜物、例えば、癒し、信仰、見分け等は比較的小さく、それは多くの場合、全く、或いはたまにしか使われていない結果なのです。

 

このことも又、人間の筋肉と非常に似ています。長い間ずっと放っておくと、筋肉は退化したり小さくなったりします。運動不足で小さくなればなるほど、筋肉は弱くなります。あなたの神からの賜物も、それと同じで、あまり用いないと小さく弱くなるのです。しかし神があなたに与えた賜物は決してなくなりません。

ローマ11:29「神の賜物と召命とは変わることがありません。」

 

主はあなたに何かを与えてから「返せ」と要求するようなことはなさいません。しかし賜物は用いられなかったら弱くなっていくかもしれません。使わないものは何でもだんだん弱くなっていくのです。天からあなたに与えられた能力は、誰かの打ち破りの鍵となるものです。その能力があなたの内にはっきり表れるのを多くの人が待っているます。あなたはすべての人の打ち破りのために召され遣わされるのではないかもしれませんが、ある人のためには絶対に召されているのです。

 

霊の賜物の食べ物

 

預言者になろうとしている人や預言的な人へのアドバイスは、「預言的賜物を出来る限り使いなさい」ということです。使えば使うほど、それは強くなります。考えてみてください。何でも長く続けるほど、上達しますね。あなたの賜物は訓練され強くなるのです!

そしてそれがいつも押されたり引っ張られたりして訓練されると、奥深さを増していきます。あなたの賜物の重さが増し、長い間食べ物を与えられるので賜物は肥え太っていくのです。

イザヤ10:27「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。(欽定訳:

これは牛があまりにも太った(油注がれた)ので、くびきが壊れることを言っています。「御ことばを食べる」のと似ていますが、あなたは自分の賜物を用いる毎に賜物に食物を与えているのです。毎日聖書を読む事を怠ると霊的に弱くなっていくのが分かると思います。

マタイ4:4でイエスは悪魔に「『人はパンだけ生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われました。聖書は神の生けることばであり、私たちの健康を維持し霊を肥やすために毎日食べる必要があります。太ることは重くなるということであり、霊的には良いことなのです。同じように、私たちが一週間食事をしなければ、疲れ、消耗し、気力がなくなります。あなたの預言的賜物の霊的な面と実践的な面との相乗的レベルを保つためには、あなたは肉体的にも霊的にも栄養を取らねばならないのです。(終り)


20 08月

ゴリアテには兄弟がいた フランシス・フランジペイン           2018年8月20日


ゴリアテには兄弟がいた

 

フランシス・フランジペイン

 

このような場面を思い浮かべてください。あなたは病気や鬱と戦っています。あなたは神を求め、神のめぐみがあなたに触れてくださったと感じます。その勝利は誰かの言葉や祈り、また励ましを通して与えられたかもしれませんが、あなたは主ご自身が救い解放してくださったと確信しています。あなたは「5つのなめらかな石」という神のめぐみを用いて、あなたのゴリアテを打ち負かしたのです。

しかし、それから数週間、あるいは数ヶ月か数年経ってから、突然昔の症状がもっと激しく、まるで仕返しでもするかのように、襲ってくることがあります。もしあなたが何かの病いと戦っていたのだとすると、今までで一番ひどい症状があらわれます。もしその戦いが人間関係、あるいはある罪に関することならば、今までの進歩はすべて無に帰し、振り出しにもどったように感じます。

 

このようなネガテイブな経験はあなたの心から信仰を少しずつ取り去っていきます。期待と信仰を失い、霊は麻痺してしまい、あなたの魂は生気と自由さを失います。まだ教会には通っているかもしれませんが、信仰は鈍っています。

人の癒しや解放の証を聞いても「彼らもいずれ癒しを失うかもしれない」と密かに心配するようになります。

このような否定的な経験は多くの人の信仰を揺るがし幻滅感を抱かせる結果となります。箴言13:12に「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」とありますが、「心が病む」とは、霊的に病むことであり、神との歩みを妨げ無力にします。思い出してください。信仰は望んでいることがらの保証、実体なのです。もし希望を失うならば、信仰もうつろになり実体のないものになります。もし神があなたの期待を裏切ったのだとしたら、もはやあなたは神を信頼することができるでしょうか。

「私はブレークスルー(打ち破りの勝利を得た経験)を失ったのだろうか、それともただ自分を騙していただけであって本当はブレークスルーなんて初めから無かったのだろうか。」とあなたは訝しく思うのです。

 

愛する皆さん、今経験している困難、苦しみは、あなたが神の祝福を失ったのではなく、全く新しい霊の戦いに遭遇している可能性が大きいのです。新しい戦いは、非常にずる賢く戦略的な惑わしであり、救いを受けた人たちの中にサタンが再びじわじわと入り込もうとする常套手段です。

 

繰り返し起こるこの戦いについて私はずっと祈っていたのですが、ある時聖霊が私の心に「ゴリアテには兄弟がいた。」と語られました。私はすぐにダビデがペリシテの巨人と戦ったときのことを思いました。ダビデが神に信頼しゴリアテに打勝ったことは誰でも知っています。

 

しかし、第二サムエル21章では状況が変っているのがわかります。

2サムエル21:15−17「ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。...」(口語訳聖書)

 

少年ダビデがゴリアテを倒してから長い年月の後、ダビデ王は別の巨人たちと直面せねばなりませんでした。第一歴代誌20:5によれば、ダビデと戦った者のうち少なくとも一人はゴリアテの兄弟であり、4人は彼の子どもでした。

 

1歴代誌20:5「ここにまたペリシテびとと戦いがあったが、ヤイルの子エルハナンはガテびとゴリアテの兄弟ラミを殺した。そのやりの柄は機の巻棒のようであった。」

2サムエル21:22「これらの四人はガテで巨人から生まれた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。」

これらの巨人たちはゴリアテの血筋であり、多分ゴリアテに似ており、高慢で、同じような格好で、同じ臭いを発していたと想像できます。2サムエル21:15には、ダビデがゴリアテの子孫と戦ったとき「疲れていた」と書かれています。

これらの巨人と戦った時、ダビデがどう思ったかについて聖書は何も語ってはいませんが、恐らく彼は「ゴリアテは倒したはずだ。なぜまた戻ってきたのだろう?」と訝しく思っていたのではないでしょうか。しかしゴリアテが戻ってきたのでありませんでした。彼は死んだのです!ダビデは彼の血縁者たちと戦っていたのです。しかしそれはあたかも同じ戦いのように思えたのです!

 

同じように、あなたも今まで多くの勝利を勝ち取ってきたのです。今あなたが直面している巨人は、まるであなたが過去に倒した巨人のように見えるかもしれません。しかし「お前は最初の戦いにも本当には勝利していなかったのだ」という敵の偽りを信じてはいけません!

神のめぐみの力により、あなたは万能の神を信頼し、あなたのゴリアテに勝利したのです。最初の巨人は死んだのです。

 

サタンはあなたの以前の敵に見せかけ、あなたの信仰の盾を通り抜けて、あなたの人生の中へと又入り込もうとしているのです。サタンに抵抗してください。「あなたは決して解放されたことなどないのだ」という偽りを受け入れてはいけません。信仰に立ってください。信仰は世に打勝つ勝利の力です。(1ヨハネ5:4)あなたがゴリアテに勝利するのを助けた生ける神は、彼の兄弟にも勝利する力を与えてくださいます。

 

祈り「天の父よ、今、私はしもべとして御前に出ています。ダビデのように、すでに負かしたと思っていた敵と戦うことに疲れています。しかしあなたの聖霊の力により、『これは以前に克服したはずの敵が再び現れたのだ。』という敵の偽りをあばきます。イエスの御名により、敵を叱責します。主よ、どうか天使がイエスを度々力づけたように、私にも天使を送って超自然的に強めてください。イエスの御名により祈ります。アーメン」(終り)


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