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Walk With God Ministries

05 02月

心の目を開いてください     坂 柚実子       2018年2月5日


心の目を開いてください

 

                   坂 柚実子

 

黙示録22:18、19「私は、この書の預言のことばを聞くすべてのものにあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」

 

マタイ5:18「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。すべてが成就されます。」

 

私たちは聖書の言葉を変えることは神が禁じておられることだと教えられています。これに反して讃美の歌に関しては、「主にむかって新しい歌を歌え」と詩編の中に何度も書かれていますし、またイザヤ書や黙示録にも「新しい歌」という言葉が出てきます。

 

イザヤ42:10「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。」

 黙示録5:9「彼ら(四つの生き物と二十四人の長老)は、新しい歌を歌って言った。」

 

聖書の御言葉は永遠に変わらないもの、一方歌はどんどんと新しい歌を歌ってよい、いや、歌わねばならない、ということに私は興味を持ちました。讃美は私たちの霊や魂から出るものです。慣れ親しんだものだけではなく、その時の私たちの心から出る讃美を主は喜ばれるのだと思います。その最たるものはスポンテニアス(即興的)な霊歌でしょう。又その時代に新しく作られる曲は、その時代に沿ったものとなるのも当然だと思います。

 

私は「心の目を開いてください」というテーマの歌が3つあるのに気がつきました。

 

1.まず 新聖歌38番で、クララ・スコット(Clara Scott により1895年に作詞作曲されたものです。

 

わが目を開きて さや(明)に見せたまえ

今まで知らざりし みふみの真を

我今しずかに 我が主を待つなり

主よ 与えたまえ 悟りを

 

 

Open my eyes that I may see

Glimpse of truth Thou hast for me

Place in my hands the wonderful key

That shall unclasp and set me free

Silently now I wait for Thee

Ready, my God, Thy will to see

Open my eyes, illumine me,

Spirit Divine!

(私のためにあなたが与えてくださる真理を垣間見ることができますように、私の目を開いてください。私を解放し自由にする素晴らしい鍵を私に与えてください。今私は静かにあなたを待ち望みます。私の神よ、あなたの御こころを切に求めます。聖なる御霊よ、私の目を開けて、悟りをお与えください。)

 

これは詩編119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」からテーマを取っているそうですが、主の御前に静まり、主の真理と御こころを知るために霊の目を開いてくださいと願っています。讃美歌や聖歌の古い訳は、私を含め古い年代にとっては非常に歌いやすく、優れていると思われるのですが、若い人には難解なのでしょう。また英語の歌詞を日本語に訳す時は、散文とは違い、曲の中に収めねばならないので、全部の内容を訳しきれないことが多く、元の歌詞と較べると確かに抜けている部分がありますが、すばらしい訳になっています。深い内容であり、さっと表面的に歌ってしまうのではもったいないものです。

 

2.次に1976年に ボブ・カル(Bob Cull)が作詞作曲したものです。

 

開いてください 心の目を

さらに深く 主を知るために

開いてください 心の耳を

さやかな御声を 聞き取るために

Open our eyes, Lord

We want to see Jesus,

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes, Lord

We want to see Jesus

(主よ、私たちの目を開いてください。イエス様を見たいのです。主に手を伸ばし、ふれて、「愛しています」と言いたいのです。主よ、私たちの耳を開いて、聞こえるようにしてください。主よ、私たちの目を開いてください。イエス様を見たいのです。)

 

ボブ・カルは、1960年代末から70年代はじめにかけてカリフォルニアで起こったジーザス・ムーブメントの中で救われ活動した作曲家です。ジーザス・ムーブメントは堅苦しいキリスト教という宗教を見捨てた若者たちが、シンプルにジーザスを求めたムーブメントでした。ベトナム戦争やウオーターゲイト事件が起こる中で、本当に信頼できるものを彼らは求めたのです。

ボブと妻のジョイは1976年にハワイに移住し、ジーザス・ムーブメントをハワイにもたらしました。ハワイの若者たちがボブのメッセージに心を開かなかったとき、彼は苦しみ、その苦しみの中から生まれたのが、「Open our eyes, Lord 開いてください、心の目を」だったのです。ボブは若者を自分の言葉で説き伏せるのではなく、彼らの心の目を主が開いてくださるようにと祈ったのです。難しい理屈ではなく、彼ら自身が 主を見て主の御声を聞くことこそ、真の救いの鍵であることを彼は悟ったのです。「心の目を開いてください。イエスを見て、ふれて、愛を告げたいのです。」というシンプルで熱い思いが歌われています。

 

3.次に2000年にポウル・ベロシュ(Paul Baloche)が 作詞作曲したもので、かなり乗りのよい曲になっています。

 

わが心の目を 主よ 開いてください

主イエスを見るために

高く上げられた 栄光に輝く

主イエス あなたに

愛をささげるため

Open the eyes of my heart, Lord

Open the eyes of my heart

I want to see you

I want to see you

To see you high and lifted up

Shining in the light of your glory

Lord, pour out your power and love

As we sing holy holy holy

(私の心の目を開いてください、主よ。私はあなたを見たいのです。私はあなたを見たいのです。高く上げられ栄光の光に輝くあなたを見たいのです。主よ、私たちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌います。今、あなたのちからと愛を注いでください。)

 

ポウル・ベロシュは、数々の賞を取っているシンガー、ワーシップリーダー、ソングライターです。教会のワーシップのためにセミナーを開いたり、指導書も出版していて、

教会のワーシップが霊的に高められために力を注いでいる人です。この歌は栄光に輝く王なる主の姿を人々に示し、聖なる畏敬と共に強い敬慕の念を表現しています。

彼はワーシップに関して「it‘s simply about intimacy with God.それは神との親密さに尽きます。」と言っています。

 

以上ですが、皆さんが一番親しまれたのは、どれでしょうか。

三つとも「心の目を開いてください」と真摯に主に願っていることに心打たれます。「私たちは見える」と主張しない者は幸いなのです。目を開けて頂くことによって何を見たいのかが、少しずつ変化しているのが非常に興味のあるところです。製作された年が1895年、1976年、2000年と離れていて、それぞれにその時代の教会の姿を映し出していると思います。伴奏も、恐らくオルガンからギター、そしてドラムの入ったバンドへと変遷してきたのではないでしょうか。

私の信仰生活はこの3曲が代表するいろいろな時代の讃美を知り、愛し、歌ってきました。それは私にとって大きな財産です。長く歌い継がれているものは、そこに主の息吹が吹き込まれているからに違いありません。ヘンリー・グルーバー師は、「天で今行われているワーシップを聞き、それに合わせなさい。」と常に言われています。それこそがワーシップの究極の秘訣ではないでしょうか。(終り)

 


29 01月

  リック・ジョイナー師のフェイス・ブックから    リック・ジョイナー   2018年1月29日


2018年1月26日の

    リック・ジョイナー師のフェイス・ブックから

 

                    リック・ジョイナー

 

リバイバルがやって来る

 

 もうお聞きになったかもしれませんが、今世界中にリバイバルが起きようとしています。アメリカでもその気配を強く感じています。今年2018年は世界中で大きなリバイバルが、また2019年には更に大きなリバイバルが、そして2020年には地域を一掃するような広大かつ圧倒的なリバイバルが起こるでしょう。

 私はこのところそれを声を大にして云っていますが、間もなくリバイバルと同時に、大きな「霊的覚醒」が起こります。それは歴史始って以来三度目の過去最大のアウェイクニングとなるでしょう。リバイバルは通常平均して2−3ヶ月、長くて英国ウエールズ地方とかアズサ・ストリートで起こったもので1−2年しか続きませんが、霊的覚醒は30−50年という長期に渡るものです。

 今年は皆さん、ぜひ期待し見張っていて下さい。アメリカ、特に私たちのサウス・カロライナ州地域でも、早ければ今年、多分来年には必ずリバイバル起こると予期しています。

 

 この数週間私は地が揺れる振動を感じて来ました。それが最近のアラスカ地震で現実となりましたが、私は今、西部沿岸、特にロスアンジェルスと、シアトルにshaking(地が震われると同時に霊的な震いも起こる)ことを祈っているところです。ロスに起これば、前回のアズサよりもっと大きな(過去に起こったジーザス・ピープル・ムーブメントのようなものも含む)ものに発展し、それがヨーロッパから世界に向かって大きく波及することが十分考えられます。

 つまり世界中でこのリバイバルの波と大アウェイクニングが起こるのです。皆さん、CATCH THE WAVE ぜひその波を見逃さず、キャッチし乗って下さい。

 

 

獅子の口を閉ざさせたトランプ大統領

 

 先週は、ダボスで恒例の年一回開催される世界経済会議が開かれました。これには世界のエリート経済人と共に、今迄世界を支配しようとして来たグローバリストを含む各国首脳政治・経済人の蒼々たるメンバーが集まっておりました。

 これにトランプ大統領が出席し、公式の場でのスピーチは僅か15分余でしたが、それが世界から集まった著名人の頬を平手打ちする程に圧倒したのでした。これを例えるなら、世界を制しようとする世界の獅子たち(特にグローバリスト)の口を完全に封じ込んだといえるのです。

 というのは、世界各国、特にヨーロッパの多くの国は今大変な危機の中にあります。彼らの問題は、深刻な経済の行き詰まりとか伸び悩みだけでなく、この数年間取って来た全く無責任な放任主義の「移民政策」のツケが廻って来て、今やテロを含む移民犯罪者を取り締まることができない程の深刻な問題になっています。例えばドイツでは警官を襲う暴徒の犯罪だけで一年に3万5千件に達するという、考えられないような(無政府状態的)危機に陥っています。

 

 一方そんな中で、アメリカはどうかといえば、過去最高の経済ブームに入っています。例えば、株式証券取引面だけ見ても、最近の株価値上がりによる価値上昇額は総計で8兆億ドルに達するといわれます。一方失業率を見れば過去最低という数字を示し、しかもそれは移民して来た少数人種の人たちの失業率でもそうです。加えてアメリカ企業への巨額の投資ブームが起こり、それに最近国会を通過したタックス・カット(減税案)の影響により、何と250万にのぼる民間企業会社が既に減税を見込んだボーナスの支払いを発表し、賃金値上げが続々提示されているというのですから、今アメリカは歴史始って以来、空前の経済ブームに湧いているといって過言ではありません。

 

 ところが一方で「フェイク・ニュース問題」も世界に広がりつつある深刻な状態にあり、むしろヨーロッパの方がアメリカ国内を超える程フェイクニュースが氾濫しています。従って多くのヨーロッパの国々の要人たちはアメリカの真の状態を知らされていませんでした。それについて私は25年前に警告(預言)しましたが、アメリカの報道会社CNN EUROPPA の画策がヨーロッパでのフェイクニュースの氾濫に大きく貢献して来ました。

 しかしそのフェイクニュースが嘘であることが最近人々に知れ渡って来た結果、今回のトランプ大統領のダボス参加に多くの人たちが関心を持ち集まって来ました。しかもこの大会でトランプ大統領が演説する時には多くの反トランプの人たちが退場するだろうといわれたのですが、実際には誰も退場しませんでした。今となっては多くの人が真実を知って、ヨーロッパを去る人さえ出始めていると云われます。

 確かにトランプ大統領は今回、グローバリストという獅子が群れる檻の真ん中に放り込まれたかに見えましたが、逆に彼こそ真の愛国者のチャンピオンだと称えられたのです。

 

 それでは最後に改めて申し上げます。いよいよリバイバルの時が来るのです。それぞれの国、それぞれの場所でリバイバルへの用意をして下さい。そしてリバイバルが起こったら、すかさずその場所を訪ね、その波に乗り、その燃える火を持ち帰って下さい。リバイバルは燃え広がる炎です。(終り)


22 01月

預言の召し       ビル・ジョンソン                2018年1月22日


預言の召し

 

ビル・ジョンソン

 

 訳者注:最初にお断りしておきますが、今回のジョンソン師のお話は(師の礼拝時のメッセージです。)今の時代のクリスチャンに最も必要なものであると判断し、特に重要な部分を下線を付けさせていただきましたことをご了承ください。

 

すべてのクリスチャンは、 預言をし、その機能の中で生きるようにと召されています。勿論、預言者の働きに召されていることと、預言的に生活するのとは違いがあります。しかし、もしあなたが神から預言者の働きに召されていても、名刺は作らないでくださいね。バプテスマのヨハネのことをイエスは一番偉大な預言者と言いました。しかしヨハネが「あなたは預言者か」と訊かれたとき、彼は「違います。」と答えました。人びとは今度はイエスの所に行き「ヨハネがその預言者か」と訊くと、イエスはそうだと答えられました。これは面白いですね。歴史上最高の預言者が自分の肩書きを知らずに、ただ神から与えられてた任務を果たしていたのです。どのような肩書きで呼ばれるかよりも、あなたがどのように働くのか、どのように機能するのかの方がより重要です。ヨハネは「私は荒野で呼ばわる声だ」と言いました。肩書きが悪いわけではありませんが、あまり重要なことではありませんね。

 

民数記11:24「ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊が留まった。—彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。—彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」

 

私はこの箇所がとても好きです。私たちが契約によって他の人びとと繋がっているとき、彼らが受け取るものを私たちも受けることが分かるからです。ある種の相続は個人にではなく家族に与えられるのです。70人の長老は幕屋の回りにいましたが、2人の長老はなんらかの理由で、宿営に留まっていました。神の霊が70人の上に下り、彼らは預言し始めましたが、それと同時に宿営の2人も同じ霊の油注ぎを受けて預言したのです。

 

どのようにそれが起こるのかを私は知りませんが、すばらしいことだと思います。あなたがある人と関係を結んでいるならば、その人に打ち破りが起こると、それはあなたのものでもあるのです。

トム・ジョーンズ師は、数年前にブラジルで主とものすごい出会いをしました。それは何時間にも及ぶもので、聖書に書かれている出来事のようなレベルのものでした。彼の人生はその出会いによって全く変えられました。そして彼は全く知らなかったのですが、丁度同じ時に彼の奥さんはフロリダの高速道路を運転していて、その時主とのものすごい出会いが起り、運転を続けることができず、車を道の横に止めねばならないくらいでした。何が起こったのでしょうか。これは人との繋がっている恩恵であり目的です。私たちは人との繋がりから退いて人間関係を結ばないという自由は与えられていないのです。ベテルの学校の学生たちの夫や妻は、毎日学生がクラスルームで受けとる分与を同じように受けるのです。

 

28節「若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。『わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』しかしモーセは彼に言った。『あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればいいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』」

 

旧約聖書では、ほとんどの場合、聖霊が下った者は誰でも主のことば、預言を語りました。即ち、聖霊に満たされたというしるしは、預言を語ることだったのです。パウロが聖霊の賜物について語ったとき「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」と言ったのは、これが理由だと思います。皆さんは「預言」と聞くと、集会中に行われるものだと考えると思いますが、それは預言の働きの5%くらいです。預言とは私たちの生き方、機能の仕方、考え方、見方、コミュニケーションだと思います。それは「主が言われます」という言葉で始まったり終ったりする必要は全くないのです。それはある状況の中で、時に適った言葉を語ることであり、それが主からのものであるならば、人びとの人生に実を結び、彼らは主に栄光を帰すことでしょう。言葉は「宗教的」に発せられる必要はないのです。主の言葉が発せられたとき、それは霊的空気を変えます。世界はそのような人たちを必死に求めています。

 

今、世界では宗教の霊(religious spirit)と政治の霊(political spirit)がはびこっていて、それによって神のことばは薄められ、歪められています。ですから正確ではっきりした言葉、力ある言葉が世界の国々、町まちに届けられることを主は願っておられるのです。

 

私たちは毎日、うそ偽りを語られています。もし何かしらのメディアを聞くならば、そこに含まれる偽りを聞くことになります。(フェイク・ニュース)それは意図的な嘘というよりは、「自分の信じるところを是非伝えたい」という気持からのことが多いかもしれません。しかし、その人の視点が間違っていると、すべてをそのレンズを通して見てしまい、結果としては真実な報道は出来ないのです。

何年も前のことですが、あるサタン崇拝者が救われ、牧師が彼を経済的にサポートしました。メディアはそれを聞きつけて、牧師がこの男を用い、「サタン崇拝者を救った牧師」としての名声を保持しようとしているのだと報道したのです。

そして「この元サタン崇拝者は、牧師からの金でゴルフコースが見えるマンションに住み、ゴージャスな車を運転している」と報道しました。これは本当のようですが、全く本当ではありませんでした。牧師が彼にお金を与えたのは、彼が必要としていたカウンセリングのためでした。彼は虐待を受けて育ったので、傷が深かったからです。ゴルフコースを見下ろすマンションというのは、ただのアパートで、ゴルフコースというのは、ミニチュアゴルフでした。車もすごく古いものでした。ですからすべて「本当」でしたが、まったく真実ではなかったのです。

 

「宗教の霊」と「政治の霊」は、共に「疑いの霊」を分与します。疑いの霊は、ある状況を曲げて解釈し、人びとの心に不快感、腹立ちの霊を起こさせます。それは一見預言の霊のように見えますが、じつは偽物です。その霊を受けると、あなたは「このままには放っとけない!どうにかしなくてはならない!何か言わなければならない!」という強い気持を抱きます。しかしその情報のもとが実際は偽りの霊であることが分からないのです。「疑いの霊」は人から人へ分与されて行きます。あなたは間違った情報を聞いて、当然ながら心を揺さぶられます。それが間違った情報だと分からず、その結果、あなたは間違った反応をし、間違った行動をしてしまうのです。(訳者注:今のアメリカはまさにそうです。)

 

レディングの空港に戻ってくると、時々私をののしるクリスチャンに出会います。多分それは、彼らが私に関するインターネットを見たか、人から何かを聞いたからだと思います。彼らの私に関する「確信」は正しいかもしれません。ただ彼らが信じた「情報」が間違っていたのです。彼らの態度から、「私は主のためにこれをしているのだ!」という強い確信があることが分かります。正しい行動だと信じているのです。しかし誰かが偽りを彼らに信じ込ませたのです。

 

預言的で霊的見分けが出来る人たちは「真の預言の油注ぎ」と「疑いをもたらし、自分の意見を通す怒りの霊」とをはっきりと見分けねばなりません。人生の最大のチャレンジの一つは、あなたが愛し仕えている人が持つ怒りと同じ怒りを自分も持ってしまわないようにすることです。それはとても難しいことです。例えば、あなたが貧しい人を一生懸命助けているならば、金持ちに対して腹を立てないでいるのは困難です。もし裕福な人たちへのミニストリーに召されているならば、きちんと働かない人たちに腹を立てないでいるのは困難です。大学生へのミニストリーをしているならば、保守的政治グループに腹を立てないのは困難です。老人にミニストリーをしているならば、若者に腹を立てないのは困難です。インディアンにミニストリーをしているならば、彼らに不正を行ったものたちに腹を立てないでいるのは困難です。

 

私たちの働きの実は、私たちがどれだけ人びとを愛し、折りに適った神のことばを与えることができるかによって決まります。

自分の考えを押しつけたり、自分の益になるからではなく、彼らの益のために100%神から受けたことばを語るのです。そして彼らが持つ怒りを自分は持たないことです。歴史上、私達がどれほどこの国のカルチャーに良い影響を及ぼすことができるかは、私たちが「怒り、立腹」という感情をどれほどコントロールできるかにかかっています。これが真理です。(注:自分に死ぬ必要がある)

 

イザヤ60章は私の人生を変えた大好きな箇所であり、現在の教会のための預言だと思いますが、その一つ前の59章21節は、60章に書かれていることが起こるための舞台を作っています。

 

「『これは、彼らと結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしにことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」

 

「神の御霊が人びとにくだること」と「神のことばが彼らの口にあること」の密接な関係がここでも言われていることに留意してください。神の御霊が私たちに留まっている証拠は、私たちの口から神のことばが発せられることなのです。イエスは「わたしは父の言われることだけを言う。」と言われ、私たちが話すべきことの基準を示されました。地上を歩かれ人の中で、一番すばらしい独自の考えを持っていた人は、多分イエスだったことでしょう。けれども主は自分自身のことばは何も語られなかったのです。

 

ヨハネの福音書7:18には「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。」とあります。自分から語るとは、御父が語られていることに耳を傾けようとせず、自らのことばを語り、それによって密やかに名を上げようとする行為です。

 

使徒行伝3を見てみましょう。2章の聖霊の大いなる注ぎの後のことです。24、25節に「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。あなたがたは預言者たちの子孫です。また神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。」とあります。イザヤ59章はイスラエルに与えられた言葉でしたが、預言的には「贖われた者たち、即ち教会」に対して言われたことばです。そして使徒3:25は明らかに教会へのことばであり「あなたがたは預言者たちの息子、娘です」と明言しているのです。

 

これは「あなたや、あなたの子孫、あなたのすえのすえの口にわたしのことばを置く」という契約の成就です。神が私たちに御霊をくださり、いずれの世代においても地上に神のことばを宣言し解き放つことが出来るようにされたのです。私たちが受け継いでいる相続財産が何なのかを知ることは重要です。まず神が「私たちがどのような身分の者であるか」と言っておられるかを知らねばなりません。自分の「神にあるアイデンティティー」を知るときに、自分の受けている相続財産を用いることができるのです。それは傲慢でもなく、自己中心でもなく、自分に自信があるということでさえありません。神があなたを「預言者の息子、娘である」と言っておられるのです。それによってあなたは「神の御霊を受け」「神のことばを語る」正当な権利があります。この二つは同じことなのです。

 

イエスは肉となったことばであり、神の臨在は神のことばと同じです。神の臨在をあなたが感じる時はいつでもそこに神の声があるのです。そして神の声があるときはそこに臨在があるのです。

 

イザヤ51:12、13「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りをおそれている。」

 

神は私たちが恐れるとき、やさしく慰めてくださる方ですが、この箇所では「わたしが慰めると言っているのだから、あなたには恐れる権利はない!」と厳しく言われています。あまり聞きたくないことばかもしれませんが、時として神はこう言われるのです。

 

もし私が内向的になり「どうしよう、こんなことになって私の人生はどうなるのだろう。」とつぶやき始めるならば、私は恐れで一杯になってしまいます。恐れは時として自己中心の表れです。それは天を引き延ばされた方を見失っていることだからです。その方が「わたしが慰める」と言っておられるのです。私たちが恐れるのは神を見失った証拠です。この箇所で神は私たちの「人に対する恐れ」を取り扱っておられます。「人に対する恐れがなくなるように祈ってください」と頼まれるとき、私はもちろん祈りますが、人への恐れに対処するためには「神を恐れること」を知ることが必要です。両方を一度に恐れることはできません。

 

人を恐れるとき、あなたは「神への恐れ」を「人への恐れ」と取り替えてしまっています。人への恐れを持ってしまったとき、私たちはその罪を告白し、悔い改めねばなりません。それによって人への恐れから解放され自由になるのです。人を恐れることから神を恐れることへの転換は、直ぐにできることです。

 

15節「わたしは、あなたの神、主であって。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。わたしは、わたしのことばをあなたのくちに置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ。』とシオンに言う。」

 

神はご自分が祝福した者たちを守る方です。祝福した者が敵に食い尽くされるのを見放す方ではありません。祝福し、守ってくださる方です。主は「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた、わたしの手の陰であなたをかばう」と言われます。そしてそれを通して「天を引き延べ、地の基を定める」と言われます。これは「天にあるごとく地にもなさせたまえ」という祈りの旧約聖書版です。神は「天を地にもたらすプロセス」とそのための手段を語っておられるのです。一つの世界(天)にある現実をもう一つの世界(地)にもたらす方法であり道具です。それは即ち「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた」とあるように私たちが神のことばを宣言することに他なりません。

 

モーセは「すべての民が預言者ならよいのに」と祈りました。イエスは、預言者や霊の父祖たちは私たちが見ているものを見たいと切に望んだと言われました。モーセはあなたや私が生きている今という時代、神のすべての民が預言的な油を持つ時代を夢見ていたのです。私たちの預言は第一に自己中心であってはならず、次に人を暴いたり痛めたりするものであってはなりません。それは人のデスティニーを呼び出すためのものです。主を知らない人であっても、私たちの口を通して神がその人の中にある尊い金塊を呼び起こし、その人の人生が変えられてきたことを、私たちはこの数年間に幾度となく見てきました。彼らはそれまで聞かされていた偽りではなく、神の真実のことばを受け取って、方向転換ができたのです。今ここにいる皆さんすべてに対して、神は力強い、ポジティブな正しいことを宣言されています。私たちがそれを聞き、しっかり受け止めたとき、私たちは変ることができるのです。主は私たちが主の御声を聞くようにと召してくださっています。今は「神の声を聞くこと」ほど嘲られていることはありません。しかし私たちは神の御声を聞きながら、それに従って生活するという預言的な生き方ができるのです。それははっきりした大きな御声とか、壁に字があらわれたというものではないかもしれません。しかし、神の臨在、御霊の臨在の中で生きるライフスタイルを始めるとき、あなたは主の思いを思い、主のことばを語り始めるのです。それは頑張って一生懸命に神の御声を聞くというのではありません。実際、私は頑張ると何も聞くことができません。神を聞くことは努力からではなく、降伏することからくるのです。あなたが自分の決意と努力で(即ち肉で)求めるのに疲れたときに、神は語ってくださいます。

 

 

エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」

ここにある「恵み grace」とは神の特別の厚意です。あなたが誰かを励まそうとして口から出したことばを神が承認されるとき、神はその人に恵み、特別の厚意をそそそがれるというのです。

仕事関係の人、或いは近所の人に、何か励ましのことばを語ったり、神がその人の人生にしておられることを告げたり、その人のすぐれた才能を認めたりするとします。そのようにあなたが人の徳を養うことばを口からを出すならば、神はそこに恵みを置き、厚意を置いてくださるのです。

神は「わたしの息子、娘が、わたしからの励ましをこの人に伝えたのだから、わたしは勿論それをバックアップせねばなりません。」といわれるのです。

 

預言的ライフスタイルとは、常に神の臨在と共に歩み、神の思いを自分の思いにしていくことです。そして人びとの徳を高めることばを口から出す時、神がそのことばのバックアップをしてくださるのです。(終り)


17 01月

ニューヨークの私たちの家の証   坂  達 也       2018年1月17日


ニューヨークの私たちの家の証

 

                 坂  達 也

 

 先週末に待ちに待った引越し荷物が着きました。私たちの新居には運送会社の人たちによって二日掛かりで、それぞれの部屋に荷物が運び込まれました。特に前より狭いスペースの私の書斎兼マスターベッドルームは足の置き場も無い程荷物が溢れ、その整理に追われて数日間は何も手に着かず、ついに、皆様への毎週のメッセージを日本の火曜日までにお届けすることができませんでした。

 

 問題の一つは、ばらばらに分解されて来た本棚を元通りに組み立てるのに丸三日も掛ったことです。この本箱は北欧の Ikea 製で、釘類は一切使わず実に巧妙に設計された do it yourself の製品です。分かり易い説明書がついており、器用な人なら恐らく3時間以内に完成しているでしょう。ところが私は前に一度経験しているからという安易で増長した心構えがわざわいして、忠実に説明書通りにやったつもりが二三の手抜きをしていることが判明したのです。それは二日目の夜になって、見るに見かねた家内が説明書と照らし合わせた結果、私が大きな間違いをしていたことを発見しました。そこで翌日もう一度最初から見直し、一、二カ所にねじ釘を使いましたが、やっと何とか使い物になる程度に出来上がりました。

 実はここに至る迄、私は何度も主におうかがいし、主が正しいやり方を示して下さることを期待したのですが、主は何もおっしゃらないのです。それが分かるのは、そのお願いをした直ぐ後にまた別の間違いを起こしているからです。そこで改めて主を見上げてみますと、確かに主は私の側におられ、微笑みをもって私を優しく眺めておられるのが分かるのです。私はなぜ主は何もされずに見ておられるのですかと聞きましたが、主は無言でした。しかし私には平安がありました。

 

 そうしている間に私は、年の所為で自分の頭がこれ程迄に著しく融通が利かなくなり、若い頃と比べれば比べものにならない程「激しい能力低下」に陥っていることに嘆くと言うより、むしろ大きな驚きを覚えました。そして実際に何もなさらない主を見上げて、その「何もされない」ことこそが主の御心であり、私のためであることが分かり始めました。

 

 それで主が私に分からせて下さったことは、私が自分の「年相応に衰えていく」ことを主は許しておられる。それも霊的成熟に貢献するためのプロセスであるということでした。確かに人間は年とともに生まれ持った能力は衰えて行きます。しかし、そのようにすべてが衰えるように造られたのは主です。

 しかしながら私たちはクリスチャンとして往々に、万能な主は私たちを若返らせて下さったり、スーパー能力とか奇跡を起こして下さると期待しがちです。確かに主はすべてが可能なお方で、時に必要な際にそのような奇跡を起こさせて下さいます。しかし年を取って衰える過程での私たちには、若い時にはできない、より重要な「霊的成熟の完成」に向かっての「老成した者の若い世代への配慮・注意深さ」とか「円熟さとその知恵」を学ばせるという、より重要な成熟のご計画を持っておられることがよく分かりました。それは人間に「父の愛」を真に学ばせ、私たちが神の家族となる大きな目的があるからであると思います。

 

 従って今回神が「私たちの書籍を入れる本棚」に3日も掛けさせたことは、実際に私に対して「衰えた自分」こそが現実の姿であり、この際それを先ずリアリティーとして甘受すべきであること、その上でそこから必要な知恵をへりくだって学び、周りの人々(特に家族)への対応と見方を年老いた者にふさわしい「老いては子に従いつつ、教えるべきことを行動で示して行く」ことこそ「霊的成熟」に最も必要な「心構え」であることを学ばせるのが主のご計画であったと悟った次第です。

 就いては次のみ言葉を今回学ぶことができました。それは2コリント4:15−17「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。ですから私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は私たちの内に働いて、計り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」

 

 ところで私たち夫婦は、当初、こちらでは「息子家族の近くで別々の家に住む」予定でした。そして私たちがこちらに到着後そのようなコープ Co-OP/コンドを探し始めると、直ちに息子夫婦の買った家の近くに、とてもよい物件が見つかったのです。しかし主のご計画は違っておりました。主は私たちが今回カリフォルニアの家を売った入金を含む財産のほぼ全額を息子夫婦の家のホームローンに投入し、その息子夫婦の家を全額借金なしで買い取らせたばかりでなく、余剰のお金をその古い家の改良資金として息子夫婦に持たせて下さったのです。

 

 そこで、実はこのことで主は私たちへの約束を守って下さったことをお分ちします。その約束とは、私たちがまだハワイに住んでいた頃ですが、私たちは「これからの一生を借金なしで、すべての必要を主にお委ねする」ことを願い出ました。主に全面的に委ねた者が他人から借金して買い物をする訳にはゆきません。その申し出を主は受け入れて下さり、それ以来私たちは家も車も、すべてローン無し、クレジットカードも毎月全額返済できる経済的祝福を主からいただいており、すべてを主に頼る生活を続けて参りました。

 従って将来ではなく今から息子夫婦の家族と同居する形を取らせ、その家も無借金で手に入るようにさせて下さったのです。気が付いてみますと、私たちへの約束を、主は今回も忠実に果たされ守られる結果となったことに対し、私たちは唯唯主を畏れ敬い、「全面的に主に頼ることのすばらしさと尊さ」を証しする機会を与えられて、主への信仰が益々深まったのでした。

 

 加えて申し上げれば、勿論私たち老夫婦は、将来いずれ、二人の孫もいる息子夫婦の世話になることが密かな願いでありましたので、主は私たち家族三代がこの地で共に住むことを喜んでおられることを確信し、それを実現させるのは家内と共に、老いた私自身が、息子家族に対しクリスチャンとしての愛を示す大きな責任があることを今回の本箱組み立てを通してのメッセージであるとを改めて感じた次第です。

 どうぞ私たちの家族のー上に息子夫婦の家族、下の階(半地下)に私たち夫婦が住むーというこれからの生活が、名実共に子どもたちがそれを喜び望むようになり、主の御名をたたえるクリスチャンの名に恥じない神の家族となれますようお祈りください。よろしくお願い申し上げます。(終り)

 


09 01月

新年に神が望んでおられることは私たちが「主と共に歩む」こと     坂  達 也


新年に神が望んでおられることは

        私たちが「主と共に歩む」こと

 

                  坂  達 也 

 

 

 新しい年に入って一週間が過ぎました。この間、前代未聞の猛吹雪と零下18度という極寒を体験しました。そして入居した家の下水がつまっていて、地下のシャワー室の下水口からトイレの汚水が逆噴するという緊急事態になりました。しかし極寒時に主は下水の詰りを修復するプラマーを直ちに送って下さいました。また、昨日は私たちの新居に待ちに待ったインターネットが入りました。

 

さて主が今、私たちクリスチャンのしていることのすべてを、改めて根本から見直すように仕向けておられることを、先週に引き続き、改めてひしひしと感じていることをお伝えします。それは、すべてのクリスチャンが今迄にして来たことが「人間業による偽物(フェイク)」であること、それを「霊的な本物」に取り替え改革するプロセスが急がれていることの証拠であるように思えます。

しかもそれは何一つ新しい考えによるものではありません。すべて初めから聖書に書かれていることの元々の意味に立ち返ることであり、そのためには先ず、私たちが長い間に少しずつではあってもどれ程大きくずれ落ちて「人間的になってしまっているか」に気が付く必要があります。

 

そこで申し上げられることは、神は「今の私たちクリスチャンがフェイクであること」を、最高の聖人君子のようなクリスチャンに言わせるのではなく、こともあろうにトランプ大統領のような、過去に多くの罪を犯し、無数の傷を持ち、言うことなすことがどう見ても「一見フェイクに見え、最もクリスチャンらしからぬ毒舌家」を立てて「フェイク暴露」に挑戦されたことです。しかもその真実を、最もフェイク・クリスチャンの多いアメリカで、全く腹の立つような方法で暴き出させたのですから、この世の中、今では世界中がおもちゃ箱をひっくり返したような喧々囂々の大騒ぎとなりました。しかしよくよく考えてみれば、そのこと自体が神でなければ絶対にできないことではないでしょうか。

トランプ大統領は恐らく世界有数の罪人のチャンピオンであったとしても、その彼は、そのことを神の御前で悔い改めました。そして、見せかけは最もまずい「よちよち歩きのベービークリスチャン」であるかもしれない彼が、その前の三代の大統領が国の立法府が承認しているにもかかわらず「エルサレムにイスラエルへの大使館を移す」という「世界で最も正しい、すべきこと」を実行できなかったことを自分はすると世界に向かって宣言したのです。クリスチャンとは正しいことを正しいと言い、それを愛をもって実行する勇気を持たねばならないことを、私たちはトランプ大統領から学ばねばならないと思います。

それを言えば、聖書の中で最も影響力のある人物とか王で、この人こそ「聖人君子」であると言える人が一人でもいるでしょうか。アブラハムにしてもダビデ王、またソロモン王にしても皆キズものの人間ばかりです。それ自体、神が聖書を通して「真の人間の正体」を暴露しているという厳粛な事実であるのです。

 

そこで「私たちがクリスチャンである」ことを最も端的に表す尺度が何であるかを考えてみたいと思います。私はそれは、クリスチャンにとって最も重要な行為である「祈り」がどのようになされているか、ひいてはその祈りが聞かれているかどうかーにあると信じます。私たちと神との間でなされる「祈り」とは「親しい会話であり」その「祈りの関係」の実態が、クリスチャンたる私たちと神なる父との関係を如実に表していると思うからです。真のクリスチャンとは、神と最も親しい親密な(人間)関係に入っているか、否かが真っ先に問われます。

就いては、その「私たちの祈り」について、カンサス州にある IHOPに所属するサムエル・ウィットフィールド師が最近書いた下記のメッセージを先ずご紹介させていただきます。

 

祈りの真の秘訣    サムエル・ウィットフィールド師

 

ルカ11:1−4にこのように書かれています。

「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終ると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこでイエスは、彼らに言われた。『祈るときは、こう言いなさい。父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 

このルカ11章において、私たちは、イエスと弟子たちの間の親しい会話の様子を垣間見ることができます。イエスが祈っていた時、弟子たちはイエスと御父との会話に感銘を受け、祈り方を教えてくださいと頼んだのです。彼らへのイエスの答えは驚くべきものでした。

イエスは弟子たちの願いにやさしく応答し始めました。主は、ご自分の御父への祈りの生活は、自分が御子である故に「わたしに特有なもの」と簡単率直に答えることもできました。又、彼らの弱さ、罪、未熟さの故に自分のように御父との親密な関係はとても持つ事はできない、と言うことも出来たでしょう。しかし主は弟子を叱責したり、御父と弟子たちの関係は「そんなに親密ではない」などとは言わずに、シンプルで深い祈り方をやさしく彼らに教えたのです。

 

その祈りの初めの部分は、私たちが どのような期待をもって祈り始めればよいかを示しています。

 

ルカ11:2

そこでイエスは彼らに言われました。「祈るときはこう言いなさい。『父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように』」と。

ここで主がいわれた言葉ですが 、私たちはこの「主の祈り」に実はあまりにも慣れ親しんでいるので、ついその重みを十分に理解しないまま通り越してしまい勝ちです。しかし主は、神に近づく時は、私たちも主と同じようにしなさいと教えてくださったのです。即ち、正しく祈るためには、神の御前で私たちはイエスと同じ「確信」をもって祈らねばならないということです。

 

祈りを学びたい時、私たちは祈り方に関していろいろな方法や教えを見つけようとします。どのような言葉を使えばよいのか、何をどのように祈ればよいのかと、正しく祈るためのフォーミュラ(法式とか定則)を必死で得ようとします。しかしイエスはそのようには始められませんでした。イエスは「関係」から始められました。祈りで用いる言葉や内容よりも、 祈る相手に 「確信」を持つことの方が余程重要であることを、イエスは知っておられたからです。

ほとんどの人は正しい祈りの方式とか型を見つけ出そうとしています。しかしイエスは、そのような態度で祈りに近づいてはならないと警告しておられるのです。

マタイ6:7−8

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

祈りは「正しい言葉使いとか、その言い回しの決まり文句を唱える」ことから始めなければならないのではなく、「祈る相手に対する親しい関係を表す確信」から始めることが重要であるのです。神を、真に愛に溢れる善き父として見上げるならば、それは私たちの祈り方を革新的に変えます。私たちの祈りは心からの、正直なものとなり、なんでも包み隠さず言うようになる、そうして初めて、御父との親しい信頼関係を土台にした祈りとなるのです。

すなわち祈りは、華麗な言葉を用いたり正しい方式で祈るから聞かれるのではありません。神が私たちの父であるから聞かれるのです。

私たちが用いてもよい祈りの助けとなるものがあります。例えば、御ことばを祈るとか祈りのリストとかです。しかし、祈りは先ず御父との親しい関係に対する確信から始めねばなりません。そうでないと、祈りの言葉はただの空しい儀式になってしまいます。イエスはご自分と同じ親しさをもって神に近づくようにと、私たちに教えてくださったのです。

 

もしあなたがイエスなら、祈るときどのように御父に近づきますか。私たちもそれと同じように御父に近づき祈るべきです。あなたが今度祈るとき、イエスが父に対して持っておられるのと同じ確信を持って御父に近づいてください。祈りに関するいろいろな教えは確かに助けになります。しかし、実にこれこそが生き生きとした祈りの生活の始まりとなる、ならねばならないのです。(以上師のメッセージ終り)

 

神との親しい関係

 

上記のメッセージは当然といえば当然なことを言っているに過ぎないー単なる理屈だと思ってはならないと思います。この方が言わんとしていることは、私たちクリスチャンと神なる御父との関係が、本当にすべてを委ねて頼り切っている幼児とやさしい愛に溢れる父親(母親)との間にあるような「信頼関係」になっているかどうかが問われていると思います。

 

そこで私は今回の私たち夫婦が再びニューヨークの家族の元に移り住むために費やした2017年と今年に入っての約一年間の経験を通して私が学んだことを少しお分ちさせていただきます。

それはカリフォルニアに住んでいた約三年半は、落ち着いたクリスチャン生活を送ることに務め、何もない日はほとんど毎夜、夫婦で主の前に出て少なくとも30分から1時間余の時間を祈りに費やしました。そして私が前にも何度も申し上げて来たように、最後にマタイによる「主の祈り」をもって夫婦の祈りを終わるようにして来ました。勿論私たちは、それ以外にもそれぞれ示された時とか必要に応じて、異言を含む色々な形の祈りを毎日して来ました。しかしそれはほとんどの場合、家の中で時間を取ってのお祈りでした。ところが私たちの住まいを売りに出した後の手直し、売却、その後の引っ越し、そしてこちらに着いた後の古くて問題だらけの(それを見越して安く入手した)新しい住まいでの改修工事を始めたばかりですが、この間の年末年始の2−3ヶ月は、いつも家でしていた定番的「祈りのパターン」とか、型にはまった「祈りこみ」ができなくなりました。実はそれによって「祈りが足りないのではないか」という一抹の不安と、それでは「祈りは聞かれない?」という恐れを私が持ったことは否めない事実でした。

 

ところが実際に経験したことは、ほとんど未知の土地で、予測できない行動を必要とする多忙な生活を過ごす時に、逆に主からのとっさの「祈りの指示」がぱっぱっと聞こえてくる、そしてそれを祈ると、火急の場を救うための見知らぬ適任者が現れて適時に事態が処理されるのです。つまり主は私に祈らせ、即時に実行させるーこうした主との祈りの会話で話しが進転するーすべてを主が手配し、私はそれに従って行動しているだけーーという毎日を経験しました。そしてハタと納得したのは「そうだ、これが主と共に歩くことだ」という実感でした。

 ここで毎日を主と共に歩くこととは、歩いていても電車に乗っていても常に主に話しかけ、質問する、あるいは喜びと感謝を気軽に伝え、分かち合うことであると思います。親しい友人になることです。これが自然に身に付けば、一日中何をしていても、あるいは寝ていてさえ主は話しかけてくれるようになり、気軽に何でも答えてくれてどんどん指示が来るようになる、それが私の目標で、その味を今少し経験しております。

 

 

 もう一つの例を挙げます。実は、私は息子が取得した新しい家を訪ねた最初の日にその地を「祈りの歩行」するつもりでしたが、その時は紛れて忘れていました。そして住み始めて2、3日経った時、この買った古い家が予想していた以上に問題だらけであることから、私が息子と打ち合わせ中に、突然恥ずかしいことに感情任せに私がつい声を荒げて息子にどなってしまったのです。(息子をどなったのは何十年ぶりでした。)その時、祈りの歩行をしていないことに気付きはっとし、慌てて私のたちの宅地と数件の隣家との境界線を祈って歩きました。そして私は、主の臨在が戻って来て、息子を怒鳴るという全く恥ずかしい未熟な行為を悔い改めました。その後息子との関係は、すぐいつもの親しい良い関係にもどり、事はうまく進んでおります。

私はクリスチャンとして成熟することへの努力を私なりに努力して来たつもりでしたが、それが少しでも宗教的行為である限り、頭での努力だけでは真の「主との親密な関係」はでき難いことを改めて経験させられました。しかしその一方で私がやってきた「主を見上げて待つ」祈りとか、夫婦での主との交わる習慣、特に「主の祈り」を心から唱えることは、主との親密さを増すことに貢献していることを改めて感じている次第です。

 

最後に、上記のルカによる主の祈りの最後のところは、マタイ6:13によれば「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン)」となっております。それはその前にルカ伝でもマタイ伝でも書かれている「御国が来ますように。」につながっていると私は思います。

それは主をお迎えする前に、私たちがこの世を御国にする責任を主からいただいていることを真に自覚し、終末の最後の時代に生かされて、「主とともに歩みつつ」その責任を果たすことを主が期待しておられるのが「主の祈り」の意味であることに改めて気が付かされました。(終り)


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