WWGM

Walk With God Ministries

22 07月

預言的な家族を育てる鍵 デモンテ・エドモンズ 2019年7月22日


預言的な家族を育てる鍵

 

          デモンテ・エドモンズ(Freedom 4 the Nations)

 

   健全で力ある地域教会を立て上げキリストのからだに活力を与える道の一つは、力ある家族を立て上げることです。家族こそが社会の土台となる核です。歴史的に見て、家族の力が弱くなった社会では、道徳の廃退と崩壊が起こりました。神はアダムの助け手としてイブを造られたとき、地上で最初の家族を制定されました。

 

聖書の内容はほとんど「家族に関すること」だと言っても過言ではないと私は思います。旧約聖書の大部分は、アブラハムが約束の子イサクを通して家族と家系を得るであろうという約束を土台としています。そして次には、ヨセフと兄弟たちが和解し回復されたこと、イサクが超自然的に妻を見つけたこと、

モーセ、ミリアム、アロンがイスラエル解放に用いられたことなど、神は家族の出来事に目を注がれています。

預言的な家族を建て上げることは、神の聖なる性質を映し出して神と共に働く家族を建て上げることです。即ち家族一人ひとりが地上で与えられている預言的な目的を果たすことが出来るようになるのです。そのような家族を建て上げるために親として出来ることを、自分の経験から学んだことをお話したいと思います。

 

重大発表

 

最近出産前に行われるようになったあるイベントがあります。それは「 性別発表 The Gender Reveal」です。家族や友人たちが妊婦のところに集まってお腹の中にいる赤ちゃんの性別発表に参加するのです。大抵の場合、妊婦は医者のところで超音波で性別を調べて貰ってはいますが、その結果の紙をまだ開いておらず、そのパーティーで皆と一緒に開けて、喜び祝うのです。

しかし、それとは違うもう一つの「重大発表」があります。まず、私たち夫婦に3人の子供が生まれる前に起こったことをお話しします。私たちが結婚したとき、神が「生まれてくる子供たちに関して話したいから紙とペンを用意するように」と言われました。私がペンを持つとすぐに、神が一人ひとりの子について明瞭に語るのを聞きました。子供たちの特徴、召し、性格、特徴等を神が教えてくれたのです。妻は子供たちに関して私が神から聞いて書いた預言を読んで大喜びしました。

 

この預言は実際に子供たちが生まれてきた時にさらに意味深いものとなりました。ある日私たちは今まで受けたいろいろな預言を読み返したのですが、主が言われたことが一人ひとりの子に全く正確に当てはまっていることを見出しました。子供たちが生まれる前に神は私たちに「重大発表」、即ち地上における彼らの目的を教えておいてくださったのです。

多くのクリスチャンは(牧師でさえ)「子供たちの目的、使命を教えてください」と神に願うことをしません。しかし、私たちはエレミヤ1:5の言葉、「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、」という言葉を忘れてはなりません。神は「わたしはあなたの子供をあなたが知る前から知っています。わたしは彼らがあなたの家に生まれる前に彼らのための計画と目的を持っています。」と言われています。私たちは自分の子供たちに対する神の目的を出来るだけ早く知るように祈るべきです。

 

子供の賜物を開発する

 

神から子供についての情報を予め教えてもらうことは、「子供の人生の天のブループリント」に沿って彼らを育て教育するための道具として用いることができます。それは彼らが神から与えられている賜物や能力を見極めるのを助けます。例えば神は、私たちの娘の一人が「憐れみの賜物、慈善を行う賜物(ローマ12:6−8)」を持ち、世の中の不正に対して我慢できない性格だと言われました。

家で誰かが病気になると、真っ先に直るまで看病をするのはその娘です。5歳の息子が悪質な菌で腹痛になったとき、4歳だったその娘は、妻に「大丈夫よ。私がずっと部屋で看病するから。もし何かあったらお母さんを呼ぶからね。」と言いました。

 又ある時、マーケットで車いすの人を見ると、励ますために彼の背中を撫で始めたこともありました。私たちは彼女の憐れみの賜物が育つように助けて、それは素晴らしいことだと励まし、「あなたは親切すぎる」などとは決して言いませんでした。もしあなたの子供がいい声で歌が上手ならば、その賜物が主に捧げられるように祈るといいのです。

また、神からの賜物を、ヴォイストレーニングやクワイヤーや楽器を習わせたりして発達させることもできます。生まれつき運動神経がいい人も、たゆまない適切な訓練によってのみ最高の運動選手になるのです。それは霊的な領域においても同じです。

ダニエルは王や統治者たちに仕えることになりましたが、若い時から御国の権威に立つ訓練を受けていました。ダニエル1:17には「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」と書かれています。ダニエルの賜物と才能は王の宮殿に住んだときに開発されていったのです。

あなたの子供の中にある神から与えられた可能性を見て、それが発達するようにしてください。

 

夢と幻の重要性

 

神が自分のこどもに関係した夢や幻を与えることがあります。ある牧師の話ですが、彼はある夜、自分の息子が酷い事故に遭うヴィジョンを見ました。彼は息子の安全のためにすぐに祈り始め、神が「もう止めていい」と言われるのを霊で感じるまで祈り続けました。

翌日、息子から電話があり、悪天候の山の中腹をモーターバイクで走っていたことを話してくれました。大きなトラックや車が曲がり角でスピードを出していたので、彼は身の危険を感じました。それは父親が夢を見て祈るようにと示されたのと同刻でした。父親は祈りを通して息子を守ったのです。

妻はある時夢の中で神から「サタンはあなたの息子をどもるようにし、彼が自信を失って話さなくなるようにするだろう」と言われました。妻がそれを私に話したとき、息子はまだ赤ちゃんだったので私たちは驚きました。

何年も経ったとき、ある日突然息子がどもったのです。それまでは何の問題もなく話していたのですが、急に起こったことでした。私たちは夢のことを思い出しました。そして神は私たちが信じて祈るならば、どもりはなくなると約束してくださったのです!

これは神が夢やヴィジョンを通して語られる多くの例の中の2つの例に過ぎません。神からの啓示に注意を払うことはこどもの命を救うことにもなるのです。

偉大な伝道者であるジェシ・デュプランティス師は、彼が悪い事をすると、母親は必ず霊でそれが見えるのでごまかすことができないといつも話していました。彼の母親は絶えず「霊で見張って祈る」ことをしていたのです。その結果、彼は偉大な説教者となり、世界で何十万人もの魂を救ったのです。

 

耳を傾け学ぶ

 

子供は絶えずしゃべっているので、ついつい彼らの小さな声に鈍感になってしまうことがあります。しかし、彼らが何を言っているか、どんな風に言っているのかに注意を払うことはとても大切です。

ある日私が息子と話していたとき、彼は神が夢の中で何かを話したと告げました。私は「何で今まで言ってくれなかったんだい?」と言いました。明らかに神は時々夜に息子に語っておられたのを、私たちは知らなかったのです。もし私が彼の言うことに耳を傾けなかったらこの大事な時と啓示を逃してしまうところでした。

子供が経験する夢やヴィジョンに注意を払うのは大事なことです。子供の言うことを「空想」とか「ファンタジー」だと言って取り合わないのはよくありません。神が彼らを取り扱い、預言的未来のために彼らを調えておられることがあるからです。

サムエルが神の声を聞いたとき、エリは三度目にそれを悟ることができました。

1サムエル3:8−10

主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きてエリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル、サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

サムエルに対するエリの対応は、主が呼ばれた時にどのようにすればよいかという知恵をサムエルに与えました。それによってサムエルは自分自身、主との個人的出会いを持つことができ、神の声を自分で知り始めたのです。

 

個人的に神を知る大切さ

 

預言的な家族を育てるための次の鍵を見てみましょう。子供は自分自身が個人的に神との出会いを経験せねばなりません。サムエルと同じように、神の声と臨在を子供が知るのは重要です。

両親や祖父母が信じている神を信じ仕えてはいるけれども、神やイエスを自分自身は本当には知らないという友人たちを、私は何人も見てきました。彼らは困難や失望に遭遇すると、往々にして教会から、また神から離れてしまいます。

 個人的に自分自身で神を知ることは、その人の中に土台を築き、つまずいたり敵によって道を逸らされたりすることから人を守ります。又、もし子供がミニストリーに入る召しがあるならば、神がその目的にむかって働かれるのを邪魔しないようにせねばなりません。

多くの牧師やリーダーたちは、 子供も自分のように献身してミニストリーをするようにとプレッシャーをかけてしまい、その結果、かえってこどもたちがミニストリーを嫌うようにしてしまっています。神がずっと前に私に言われたのは、私が家庭でリーダーの模範となり、祈りを導き、子供たちのために祈るならば、後は全部神がしてくださるということでした。聖霊はご自分の方法で、すべての状況と時を巧みに組み合わせて働かせ、私たちをミニストリーの仕事へと召してくださいます。

確認のために親が用いられることはあるかもしれませんが、究極的にはそれは聖霊の仕事であり、聖霊が任命することなのです。

「自分を召したのは神であって、お父さんやお母さんではない」と子供が知ることは、彼らが自信をもって働き困難を乗り越える力を与えます。

 

結論

 

歴史を通して私たちはパワフルな牧師やミニストリーを見てきました。そのようなミニストリーが何倍にもなったらどうでしょうか。家族が一緒になってパワフルなミニストリーをしたらどうでしょうか。親、兄弟、孫等が、神の秩序に従って歩み、それぞれの召しを果たしながら地上で神の栄光を顕して行ったとしたら、なんと素晴らしいことでしょうか。

これが キリストのからだと世界で次に起こる偉大な霊的覚醒と改革のための重要な鍵の一つであると、私は信じています。

どうか一緒に祈ってください。

「神よ、家庭の中で祭司となり擁護者となる力強い父親を、再び呼び起こしてください。神よ、肉の母親というだけではなく霊の母親になり、あなたのために霊の勇士となる世代を育てあげる母親を建て上げてください。

主よ、幼い子供達に夢やヴィジョンで訪れてください。それによって彼らが幼い時からあなたを心から愛するようになりますように。親の心を子に向けさせ、子の心を親に向けさせてください。

子供たち(個人として、また家族の一員として)の人生を通してあなたが強く働かれるとき、どうか彼らを御腕に抱き、あなたの愛で包んでください!

地域や自治体を揺さぶり影響を与えるために彼らを用いてください。」(終り)


16 07月

サタンは暗やみを支配する フランシス・フランジペイン  2019年7月16日


サタンは暗やみを支配する  

フランシス・フランジペイン

 

 多くのクリスチャンは「サタンはこの世にいるのか、それとも地獄にいるのか?」とか「サタンはクリスチャンの中にも住めるのか、それともこの世の中だけか?」というような議論を戦わせます。その答えは「サタンは暗やみにいる」です。霊的な暗やみがあるところには必ずサタンもいるのです。

 

霊的戦いへの備え

 

 多くのクリスチャンにとって(それはあまりうれしくないことかもしれませんが)「霊的戦い」は、今まで経験したことのない領域へと私たちを導きます。悪霊との対決を考えると、私たちは不安になります。私たちはイエスのもとにきた「迷える羊」であって、「戦士」として馳せ参じたつもりは全くないのですから。

 

 ですからある人たちは、実際に霊的戦いを自分の方から仕掛けることは絶対ないかもしれません。しかしすべての人は、サタンの方から私たちに対して戦いを挑んでくるという事実に直面することになります。ですから、私たちが平安な生活を送るためには、サタンの攻撃に対して無防備な領域が自分の中にあるかどうかを見極めることが絶対に必要であるのです。

 

ユダの手紙1:6に「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」とあります。

サタンが神に反逆したとき、彼は、聖書が「 穴 pit =hell」(2ペテロ2:4)あるいは暗やみの「束縛 bonds」と呼ぶ場所で、永遠のさばきの下に置かれたのです。サタンと 堕落天使たちは暗やみの中に住むように指定されたのです。

 

この暗やみとは、ただ単に光がない場所をさすだけではありません。聖書が言うところの永遠の暗やみとは、本質的に倫理的暗やみを指していて、それは究極的には本当の暗やみへと堕ちていきます。それは単に光がないだけではなく、光なる神が存在しない場所です。

サタンが追いやられた暗やみは、人間の外側にしかないわけではないと知ることは非常に重要です。しかし、イエスを知らない人々とは違い、私たちクリスチャンは暗やみの圧制からは既に救い出されています。(コロサイ1:13)

 

もし光によって生まれたならば、私たちは暗やみに閉じ込められてはいません。しかし、自分の罪を容認し、その結果生じる暗やみをそのままにして受け入れてしまうならば、私たちはサタンに攻撃の余地を与えるのです。何であれ私たちの中に神の御ことばに対して不従順な領域があるならば、そこに霊的暗やみが生じ、サタンが入り来む可能性が出てきます。

 

イエスも次にように警告しています。「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(ルカ11:35)あなたの中には光があります。

 

「人間の息(spirit)は主のともしび、腹の底まで探りだす。」箴言20:27

 

あなたの霊はキリストの御霊によって明るくされ「主のともしび」となり、 主はその灯りであなたの心を探るのです。

 

実際、御霊に満たされた真のクリスチャンのまわりには聖い輝きがあります。しかし罪を宿すならば、「あなたの中の光」は「暗やみ」となってしまいます。サタンは「暗やみの領域に住む権利」を神から法的に与えられています。ですから、私たちは次のポイントを把握せねばなりません。「サタンは暗やみの領域ならばどこにでも出入りすることができる。それはクリスチャンの心でもそこにまだ暗やみがあるならば入ることができる。」のです。

 

脱穀の時

 

 人間の肉的な部分にサタンが入ることを許された例として、ペテロがイエスを否んだことがあります。ペテロがここで罪を犯したことは明らかです。しかし、私たちが見落とし勝ちなのは、実際に霊の世界で起こったことであり、それは目に見えない部分です。

イエスはペテロが三回主を否むことを正確に預言しました。あの夜のペテロの言動を見た者は皆「彼が主を否んだのは恐れの故であった」と単純に結論づけるかもしれません。しかしながらペテロは性格的にそのような者ではありませんでした。

 

彼はその数時間前にイエスを捕えに来た大勢の者にむかって剣を抜いたような者でした。違うのです、人間的な恐れがペテロに主を否ませたのではありません。ペテロの裏切りはサタンから誘発されたものだったのです。イエスは彼に警告しました。

 

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31−32

 

背後でサタンは、ペテロを麦のようにふるう許可を要求し聞き入れられていたのです。サタンはペテロの心の暗やみの領域に入る許可が与えられたのです。

サタンはどのようにペテロを陥れたのでしょうか?過ぎ越しの食事の後、イエスは弟子の一人が裏切ると言われ、弟子たちは議論を始めました。

 

「そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。」ルカ22:23

そして、それはとても厳粛な時であったにもかかわらず、「彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。(ルカ22:24)」のです。弟子たちはイエスの言葉にまずショックを受け、うろたえたのですが、次にだれが一番偉いかという議論へと移っていったのです!

そして明らかに、水の上を歩き、一番大胆で雄弁なペテロが勝ったことでしょう。弟子たちの間で目立っていたことで、ペテロは優越感を持っていたと想像することができます。それがサタンによって煽られ、誇らしげな態度になっていったのでしょう。ペテロはプライドで高慢になり、それが失墜する要因となったのです。

 

プライドはもともとサタンが失墜した原因でしたし、サタンがペテロを失墜させるために用いた暗やみでもありました。ルシファーは自分自身の経験から、「宗教的プライド」や「妬み」に対する神の裁きの厳しさをよく知っていました。彼は「高ぶりは破滅に先立つ」(箴言16:18)ことを身を以て知っていたのです。サタンは、無差別にペテロを攻撃し破滅させる権利は持っていませんでした。彼はペテロを攻撃する前に「ペテロの主」から許可を確保せねばなりませんでした。ですからサタンはペテロをふるいにかけることを願い、聞き入れられたのです。

 

神に服従する

 

 ペテロを失墜させるためにサタンが用いた罠は、ペテロ自身のプライドの罪でした。私たちも霊の戦いの前には、自分が暗やみに隠している部分こそが、やがて私たちが敗北する領域であることをはっきり悟りましょう。

私たちが直面する戦いは、自分のうちにある暗やみを自らはっきり認めて悔い改めるまでは止むことはないのです。もし私たちが霊的戦いに勝利したいならば、まず自分の心を吟味せねばなりません。私たちはへりくだって神と共に歩まねばなりません。私たちが取るべき最初の行動はヤコブ4:7にある「ですから、神に従いなさい。」であり、次に「そして悪魔に立ち向いなさい。」です。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げさるのです!

 

サタンは 聖徒たちを滅ぼす許可は決して与えられていません。彼が許されるのは、私たちを「麦のように」ふるいにかけることだけです。すばらしいことに、神は私たち一人ひとりの中に「麦」があることをご存知です。このタイプのサタンの攻撃、即ち神の御こころで許可された攻撃は、プライドのある魂を聖め、よりよい柔和さと透明さを私たちの人生に作りだします。

攻撃を受けたときは苦しいですが、神はそれを益としてくださいます。

私たちの外側の籾殻のような性質が死ぬことによって、新しく創造された者として麦のような性質が生まれ出るようにせねばならないのです。籾殻も必要でした。それは人生の厳しさから今まで私たちを守っていてくれたのです。しかし神が私たちを真に用いるためには、どのような形であっても、必ず私たちは脱穀の時を通るのです。

 

ペテロの籾殻のような性質は、押しが強く高慢なことでした。彼の当初の成功は、野心と自分中心な考えを持たせました。神はプライドが打ち破られていない人には、決して神の御国をお任せにはなりません。プライドは暗やみが身につける鎧そのものだからです。サタンがペテロを攻撃する許可を要求したとき、イエスが言われたのは、「彼をふるいにかけることは許す。しかし彼を破滅させることはできない。」ということでした。ペテロに対する攻撃は激しいものでしたが、制限があったのです。そしてすべては神の目的のためでした。

 

聖霊が私たちに悔い改めるべきところを示されたとき、自分の内に頭をもたげる自己防御の本能を克服せねばなりません。

心の中の暗い押し入れから出て来て「私の依頼人はそんなに悪い人じゃありません。」と弁護する小さな弁護人を、私たちは黙らせねばなりません。あなたの「弁護士」は、あなたが死ぬまであなたを弁護し続けるでしょう。そしてもしあなたが彼に耳を傾けるならば、あなたは決して自分の悪いところを見ようとせず、変える必要があるところと正面から向き合うことをしないでしょう。戦いに勝利するためには、あなたの自己保身の本能を主イエスに明け渡さねばなりません。キリストだけがあなたの真の弁護人だからです。

 

この事実をしっかり信じることなしに、私たちが霊的戦いをすることはできません。事実、ヤコブ4:6には「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」と書かれています。神は高ぶる者に反対されます。これは非常に重要な聖句です。もし神が高ぶる者を退けられるならば、そして私たちが高慢すぎて自分の過ちを認めず、へりくだらないならば、その時神は私たちを退けられるのです。

ヤコブは続けて7節で「ですから、神に従いなさい。そして悪魔に立ち向いなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。」と言っています。私たちがこの節を読むとき、往々にしてこの節だけを取り出し、霊的戦いの記念碑のように見てしまいます。しかし、これは「悔い改め、へりくだり、聖い心を持つならば、サタンは私たちから逃げさる」という文脈の中に置かれているのです。

 

私たちは「なんとなく神に従う」という曖昧な態度を越えねばなりません。

自分の戦いのまさにその領域を主に委ねなければなりません。私たちは、サタンの力に立ち向かうとき、イエスに服従する心で戦わねばなりません。

 

あなたがこれから霊的戦いに勝利するためには、この原理を知り、理解し、適応することが重要です。その原理とは次のことです。勝利はあなたが「イエスの御名を呼ぶこと」から始まりますが、それは「あなたの心にイエスの性質があらわれる」までは成就しません。この規則は霊的戦いのすべての面に適応されます。

 

「 私に対する神の唯一の答えは、私がキリストに似た者になることである」とあなたが真に悟るまで、サタンはあなたの弱い部分を攻撃する許可を得ているのです。あなたがイエスの御名を呼ぶだけではなく、イエスの性質をも現し始めると、敵は退きます。サタンがあなたを滅ぼそうとした計画が、かえってあなたを完全にするために用いられたとき、サタンはあなたへの攻撃を止めるのです。

 

ペテロの経験の結果は、ペンテコステの後、神が足のきかない男を癒すためにペテロを用いられたとき、へりくだったペテロが群衆に語ったことでした。彼は

「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(使徒行伝3:12)と言いました。自分の傲慢さとサタンに対するペテロの勝利は、彼がイエスの御名を呼んだときに始まり、イエスの性質が彼の心に中に生まれたときに完成したのです。ペテロの中の暗やみは光に置き換えられ、プライドはキリストに置き換えられたのです。(終り)


08 07月

砂漠で花を咲かせる キャシー・ウオルターズ 2019年7月8日


砂漠で花を咲かせる

 

キャシー・ウオルターズ (Kathy Walters Ministry)

 

 

  あなたは砂漠に行ったことがありますか?私は以前、エジプトの砂漠にバスに乗って行ったことがありますが、午後1時半頃、バスが故障してしまいました。そこはとても暑くてカラカラに乾いていて、何も生えていませんでした。見渡す限り砂、砂、砂、他には何もありませんでした。有り難いことに、しばらくすると他のバスが助けに来てくれ他ので助かりました。その経験を忘れることができません。

 

神は私を殺そうとしているのか

 

ある時、一人の方が私に預言して言いました。「神は砂漠であなたに語られます。」それを聞いたとき、私はエジプトで経験した砂漠を思い出し「神は私を殺すのだ」と思いました。神は私を砂漠のような荒野に置き去りにして、何ヶ月も何年もさまよわせるのでしょうか。

その預言を受けたとき、私は神のためのミニストリーで忙しくしていましたし、神は確かにそれを豊かに用いてくださり、人々は神にふれられ、私のミニストリーは非常に巧く行っていたのです。ですから神が「砂漠に行きなさい。」と言われた理由は私には全くわかりませんでしたし、少々迷惑でした。神は私のミニストリーの邪魔をしたいのでしょうか?

 

どうして主は砂漠に導かれるのか

 

どうして神は時として私たちを砂漠のような荒野に導かれるのでしょうか? 何かの罰でしょうか? 子供を部屋の隅に立たせるようなことでしょうか?私たちが砂漠で生き残れるかどうか試すためでしょうか? それではまず、砂漠であたりをよく眺めてみることにしましょう。

そうです、何もありません。全くもう、どうしたらいいのでしょう? ちょっと待ってください、あなたの方に歩いて来る人がいませんか?

その人は何故かあなたの心を惹き付けるのです。あなたはその人に注目し釘づけになります。他のものはもう何も目に入りません。

ホセア2:14「それゆえ、見よ。わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。」

 

そうです、砂漠にいるこの人はあなたの注意を引きました。そしてあなたは少し忘れかけていたような事を思い出したのです。勿論本当に忘れてしまっていたのではないのですが、あなたの人生の奥の方に押しやられていたのです。

 

このひとは誰

 

荒野にいるこの人は、非常に麗しく、特にその目は澄んで美しく燃える火のようで、あなたを貫くように見つめました。そして何という愛でしょうか!彼は非常に優しく、恵み深いのです。思い出しましたね!彼は主イエスです! あなたの心は溶かされて崇拝の霊に満たされて、感謝と大いなる喜びが涌き上がります。

「今までどこに行っていたのですか?」と主があなたに訊かれます。

「えーっと、私はあなたの御国であなたのために忙しく働いていました、、、」

そう言った途端、「それはどうでもいいことなのだ」とあなたは気がつきます。主は「あなた」を知りたいのであって、あなたがしていたことには興味がないのです。主はあなたにだけ焦点を当てています。主は「あなた」を愛しておられるのです。

ホセア2:16で主は「その日、あなたはわたしを『私の夫(ISHI)』と呼ぶ。」と言われます。「ISHI」は預言的に「親しい関係」を意味しています。

 

私の夫(ISHI

 

主はあなたに思い起こさせたいのです。主はあなたとの親密な関係を望んでおられることを。そしてあなたはただ単に「主に仕える者」ではなく、「主に愛されている者」であることを。又次の事も主はずっとあなたに伝えようとしておられました。即ち、新しい方向性、今までその時間はないと思っていた人との関係を再び結ぶ事、今までとは異なる領域のミニストリーの可能性等々。

 

あなたは今砂漠にいるかもしれません。しかしだからと言って自分の中が砂漠である必要はないのです。イエスは「あなたの内に泉が湧き出て永遠のいのちへの水が湧き出る(ヨハネ4:14参照)」と言われました。あなたの内から泉が湧き主への讃美と愛慕が流れ出すのです。そして知らない間にその流れはあなたの周りのものをもすべて潤すのです。あなたは全てのものを違う目で見るようになり、今まで気にも留めなかった人々に愛しさの感情を持つのです。

 

花を咲かせる

 

砂漠にイエスが来られると、砂漠は消えてなくなります。砂漠に花が咲き始めるからです。砂漠に咲く花のことを聞いたことがありますか?

イザヤ35:1、2「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。」

イザヤ35:6、7「そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり

潤いのない地は水のわく所となり、、、」

これはあなたが主に応答し、あなたの中からいのちの水が流れ出るときに起こります。ISHI—親密な関係です。愛する方はここにおられ、あなたの中のいのちの泉にふれておられます。

雅歌2:16「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」

砂漠に麗しいリンゴのような甘い香りが漂ってきました。讃美の花、感謝の花が咲き匂っています。そこは素晴らしい場所になりました。

 

雅歌8:5「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」

 

誰かが愛する者に寄りかかって荒野から上ってきました。誰でしょう!それはとても美しい人です、、それは「あなた」です!(終り)


01 07月

十字架の向こう側 ボブ・ジョーンズ 2019年7月1日


十字架の向こう側

 

ボブ・ジョーンズ(Bob and Bonnie Ministry )

 

(これは1995年のボブ・ジョーンズのスピーチです。彼は2016年に天に召されました)

 

最後のバッター「恵み」

 

10年前(1985年)の5月21日、それは、ペンテコステの日でしたが、主が野球の試合のヴィジョンを与えてくださいました。

試合は、悪魔のチームと神のチームとの対戦でした。9回の裏で両チームともそれまで得点がなく、神のチームが9回の裏の攻撃を始める時でした。主が最初のバッターを送られました。その名は「愛」でした。サタンが投球し、「愛」がバットを振りました。愛は常に神を喜ばせ、決して失敗しないのです。(Love never

fails)それはヒットとなり、愛は一塁に走って行きました。主は次のバッターを送られました。それは愛と共に働く「信仰」でした。サタンが投球し信仰がバットを振り、ヒットとなりました。信仰は神を喜ばせ、愛と共に働くのです。信仰も決してしくじることはありません。主は次のバッターを送られました。それは「知恵」という名でした。サタンが投球しましたが、知恵はバットを振りませんでした。サタンは次つぎに球を投げましたが、知恵はよく球を見たのでフォアボールとなりました。神の知恵はサタンが投げる悪球に引っかからないのです。

 

神は今、このように愛、信仰、知恵を私たちの人生に働かせ、私たちを成長させようとしておられるのです。3塁に愛、2塁に信仰、1塁に知恵と、満塁になったとき、主は次のバッターを送られました。「わたしはいま最強のものを送る」と主は言われました。それは今まで見たことのないピンチヒッターで、その名は「恵みGrace」でした。サタンが投球し、恵みがバットを振りました。バットが折れるようなものすごいヒットとなりました。しかし「嘘つき」が外野にいてそれを阻止しようとしました。嘘つきのハエは空中にいるのです。教会の中でサタンは悪いうわさやゴシップをはびこらせ、神の栄光を隠していました。「嘘つき」は「まかしておけ!絶対取るぞ!」と叫びましたが、球は彼のグローブを通り抜け、ホームランになりました。4人の走者は全部ホームインして神のチームの勝利となりました。「4」は聖霊のナンバーです。聖霊の働きがこれから強くなるのです。

 

ゼカリヤ4:7「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運びだそう。」

 

「愛」「信仰」「知恵」は人間の働きです。それは私たちをあるところまでは導いてくれますが、ホームインさせるのは 神の「恵み」なのです。

 

ダビデの油そそぎ

 

詩編89:20「わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。」

 

今主は、多くのダビデのような者を見いだして油を注ぎ、恵みを解き放ってくださいます。先ずすべての土台である「愛」が心から主を求める者たちに与えられていると信じます。そして「信仰」が強くされ、サタンに惑わされることのない「知恵」が与えられてきました。

 

教会は今まで「神と一緒に(with God)」ではなく「神のために(for

God)」一生懸命働いてきました。今こそ私たちが「神と一緒に」働く時です。「神が共に行かないならば私はどこにも行かない、何もしない」と決意する時です。今まで私たちは「神の手」を求めて「下さい、下さい、下さい!」と言ってきました。でも神は「そうではなくて、わたしの心を求めなさい」と言われるのです。ダビデは神の心を持っていましたね。「わたしの心を捜し求めなさい。わたしの心の内を捜し求めなさい。」と主は言われます。

 

神の心に何があるかご存知でしょうか?

それは人々の魂です。神は人々の魂を求めておられるのです。イエスは私たちに救いを与えるためにこの世に来てくださいました。そして私たちの長兄として進んで十字架にかかってくださったのです。イエスのいけにえの代価で私たちは贖われたのです。

 

御父は今もこの世を愛するゆえに、今度は「あなた」をこの世に与えようとしておられます。私たちは皆、十字架の向こう側に行かねばならないのです。十字架のこちら側にいた時、あなたは手をのばして「主よ、下さい、下さい!

欲しいです!」と言いました。でも十字架のむこう側に行ったならば、聖なる御霊が復活の力をもってあなたの内に働き始めます。そしてあなたはキリストの性質を持つ、キリストに似た者となっていくのです。その時、十字架のもとに来る人たちに必要なものをあなたが与えることが出来るのです。その時、あなたは「受ける者」から「与える者」にかわることが出来るのです。

 

主はみなさんに「成長しなさい!大人になりなさい!」と言っておられます。私たちが愛、信仰、知恵を身につけるならば、神は恵みを注いでくださるのです。その時に決して試合に負けることはありません!

 

聖霊を招き入れる

 

聖霊はずっと教会の扉を叩いておられます。人々は「聖霊よ、あなたを尊ぶと言っているグループの中で、あなたが本当に働かれるのを見たならば、私たちの教会にあなたをお迎えしてもいいかもしれませんね。でもまずその人たちが変えられるのを見たいのですよ。」と言います。

私はそれが起ころうとしていると信じます。聖霊に満たされた人々の中で主にある真の愛の交わりが具現化されていくのです。そのようにペンテコステが又現われるとき、それを見た人々は聖霊に心を開くようになります。

 

聖霊があなたに語るのを聞いてください。そうすれば私たちが語るときに、神の言葉を語るようになるのです。

私たちの口から出る言葉も神の言葉と同じように、創造の力を持つようになります。詩編115:16には「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」と書かれています。そして今主は私たちが地を主にお返しするのを待っておられます。「わたしが再び地で働く許可を人々が与えるのをわたしは待っている」と主は言われます。(サタンは私たちの許可を必要としません。彼はどこにでも勝手に無断で入っていく盗人です。)すべてのとりなしの祈り、回心の祈りは、神の介入を許可し招き入れるものです。

 

聖霊は教会の扉を叩いて「入れてください。もし入れてくれれば、わたしはあなたの教会の主となります。そして一人の方、即ちイエス・キリストを顕します。」と言っておられるのです。イエスが教会に来られると、一人の方、即ち御父を顕されます。御父は70年前、非常に嘆かれました。それは進化論が人々に受け入れられ、「人類の父は猿だ」と人々が信じ始めた時でした。進化論が「あなたの父は猿だ」と言ったので多くのクリスチャンも混乱しました。御父はバビロン捕囚のときにされたように70年を区切られました。バビロンは「混乱」という意味ですね。御父は70年間、姿を現されませんでした。今、70年が経ち、御父は再び来てくださいます。私のお父さんは猿ではなく、全能なる神です!私は自分が誰かを知っていますし、御父が誰であるかも知っています。家族なのです。

ずっと前に私は神の御心の真ん中は家族であることを発見しました。御父は家族を大切にする方です。御父が来られるとき家族を大切にされます。ご自分の子供たちがお互いの悪口を言ったり、ゴシップをするのを非常に嫌われます。

 

火のバプテスマ

 

御父は新しい土台を造られます。聖なる霊は愛です。あなたが愛に成長するならば、あなたは聖さにも成長するのです。ローマ1:4に「聖い霊(spirit of holiness)」とあります。私はどうすれば聖い霊が得られるかを主に訊ねましたが、それは聖霊のバプテスマを受けるのと同じでした。即ち、信仰によって受けるのであり、そしてそれは愛が私のうちで働くときに成長するのです。主は愛という土台を築かれておられ、それは決して壊されることはありません。

 

選ばれる者となる

 

イザヤ48:10に「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」とあるように、主はこの10年間、私たちを試煉という熱い炉で練られました。

マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。For many are called, but few are chosen. とあるように、すべてのクリスチャンは招待されて、熱い炉に入れられるのです。ある者たちは3週間で、「もう十分だ、ここから出よう。これは思っていたより熱いぞ。私の大事なもの、まだ手放したくないものがどんどん燃えてしまう!」と言って途中で炉から出てしまうのです。人は自分が捧げた分に応じて受けます。ダビデは10年間苦難の炉に中に入っていました。あなたが炉に留まり続けるときあなたは「選ばれる」のです。

今御父は、苦難の炉の中から多くの白い石を取り出しておられるのを私は見ます。主はこれらの白い石で土台を築かれます。それは祭司の土台であり、純粋な神の言葉、義と愛で築かれる土台です。

 

火のパプテスマとは聖さの霊であると主が言われました。聖さの霊があなたの生活の中で働き始めると、神の火があなたを燃やし尽くし始めます。私が罪を犯したとき、私は御父から逃げませんでした。かえって私は御父にむかって走っていったのです。そして主が言われることはすべて従いました。もしあなたの足が汚れたならば、天のお父さんのところに走って行き、主の足を掴んでください。神の火があなたの罪をも焼き尽くしてくれるでしょう。(終り)


24 06月

主の臨在の中で一日を生きるには    ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談  2019年6月24日


主の臨在の中で一日を生きるには

 

   ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談(WhiteDove Ministries Webinar #34より抜粋)

 

 

ポール•キース•デイビス( 以降 PK ):ブラッドさん、あなたは主の臨在の中に留まるために毎日をどのように始め、どのように過ごされているのですか?

 

ブラッド・マクレドン:朝起きて私が先ずすることは、主に「あなたは今日、何を(私と一緒に)なさりたいですか?ー私は今日何をすればよいのでしょうか?」とお聞きすることです。それが最初の質問です。それに対する主の答えは、過去数年間ずっと「今日わたしは(あなたと共に)ある人に愛を注ぎたいのです。」でした。私の心は好奇心で一杯になり「それは誰ですか?その人と私は出会うのですか? それは何処でですか?」とお聞きます。そこから主と私との会話、コミュニケ—ションが始まります。

 

それは私が先ず主にお聞きすることから始まるのです。もし、あなたの奥さんがあなたに話をしてくれないと、あなたは疎外されているように感じますね。でも奥さんと話をして仲良くしていると、とてもうれしくて元気が出てきます。私にとって朝一番に主と会話をすると、そこから一日中絶え間なく続くコミュニケーションが始まります。朝起きてすぐに主の御顔を仰ぎ見ないならば、私の頭はすぐに他のことを考え始めてしまい、主との会話をしないままになってしまいます。すると 私は一日の歩みを主と共にできないことになってしまいます。

 

私はキャサリン・クーマンの人生を調べるのが好きなのですが、彼女は「あなたはどのくらいの時間、神に祈るのですか?」と聞かれたとき、「私はいつも祈っています。I pray all the time.」と答えたそうです。そして「そんな時間をどうやって作るのですか?」という問いに対して、彼女は「ショッピングに行くときも、どこに行っても、何をしていても私は異言などで祈っています。」と答えました。ちょっとクレージーに聞こえますが、私たちはこのようなシンプルさを忘れてしまっているのではないでしょうか。このようなシンプルな鍵があなたを主との親しい交わりという栄光の中に入れてくれるのです。

 

PK:祈り方の間違ったモデルがあるのも問題ではないでしょうか。「祈りとは大声で叫ぶものである。」とかです。確かにそういう場合も時にはあるとは思います。でも夫婦の会話でも「朝ごはんを作ってください。」とかは普通に静かに話しますよね。妻が夫に話すように、私たちも主にむかっていつも普通に会話をすればいいのです。私たちはいつも叫び求めるような乞食ではないのですから。

 

ブラッド:私たちが毎日持つべき主との霊的な生活は、そのようなものです。弟子たちがイエスに何か質問するときに始まる会話は、 私たちの祈りの一つの型です。イエスと弟子たちは共に寝て、朝共に起き、話をしながら歩き始めました。祈りは主と共に生きるライフスタイルなのです。

 

PK:これに関する本で一番よいのは、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯 The Practice of The Presence of God」だと思います。それは意図的に主の臨在を常に意識するということで、無言のときも 多いのです。彼は主の臨在に接続されている、即ち常に主がそこにおられることを知り、それを意識して主とつながっているということです。お皿を洗っているときも、床を掃く時も、何をしているときもその意識を持つのです。そのような習慣の力は自分の内に訓練によって養っていくことができます。

 

ブラッド:もし主が語られるならば、それを聞く用意が彼には常に出来ていたということですね。主はいつか語られることを知っている、でも語られても語られなくても、それはどちらでもかまわい、という境地ですね。

 

PK:私たちは「祈りとは即ち、嘆願だ」と間違って考えているところがあります。一日中主に嘆願し続けることはできませんが、一日中コミュニケートしていることは可能です。主はここにおられることを知り常に主を意識していることです。私は御ことばが大好きです。御ことばによって私は天とコミュニケートします。私たちは24/7、主の臨在を意識するようになれると思います。キャサリン・クーマンはそれをしたのですね。

ブラッド:その通りですね。

私は最近ある人からメールをもらったのですが、それは「今は皆が祈り込まねばならない(プレスインする)時だ。」と言う内容でした。しかし「祈り込む」というと、残念なことですが、ともすればそれは密室の祈りに集中し神に嘆願し続けることだと受け取られてしまい、それによって疲れ果ててしまう人が多いのです。私たちはそのようなマインドセットを変えて行かねばなりません。私たちは主のもとに行き、嘆願に嘆願を重ねて、その結果が得られずに疲れ果てて戻る、というような主との関係にあるのではないのです。そのような祈り方をするとき主の御声が聞こえないのは、私たちが聖霊によってではなく、自分自身の意志によって動かされ祈っているからです。主の祈りに「御こころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、私たちは主の御こころを知らねばなりません。

私はこのことをモレビアンフォールのワーシップ・センタ−に始めて行ったときに学びました。私はそこで大声で激しく祈っていました。(私たちは自分が祈っている声を聞くのを楽しむことがありますね。)その時主が「あなたは何をしているのですか?」と言われたのです。それはまるで主は私がずっと祈っていたことなど、全然聞いておられなかったような感じでした。主は「あなたは、わたしが祈ることを祈りたいですか?」と聞かれました。「そんな機会が与えられているのですか? そんなことが出来るのですか?」と私は心底からびっくりしました。私は「はい、したいです。」とお答えしました。するとそれから3時間、主は一言も話されませんでした。(笑)ですから私もそこに黙って座っていたのですが、主はそれを通して 「自分の意志で祈ること」から私を解放してくださったのです。3時間後に主が語られた時に、私はそれをはっきり聞くことができ、その通りに祈りました。そしてその祈りが聞き届けられたことが私にはわかりました。

いつもそのように祈らねばならないと言っているのではありません。けれども私たちが天におられる主の御こころを知り、それをこの地で祈ることができるほどに、主との親密な関係に入ることができることを、主は私たちが知ることを願われているのだと思います。

 

PK:教会が失った霊的遺産の一つに、黙想の祈り(contemplative prayer)があると思います。コンテンプレイテイブするとか、メディテイトする(黙想する)というと、人はすぐに「それはニューエイジだ」と決めつけますが、ダビデはニューエイジの出現よりずっと前にメディテイトしていました。私は「メディテイト 黙想」に関する聖句を14箇所見つけました。「神のすばらしさをメディテイトせよ」とか「神のことばをメディテイトせよ」とか「神のご性質をメディテイトせよ」とかですね。問題は私たちが静まってじっとしている訓練ができていないということです。静かに3時間しているというのはとても困難ですね。私は以前よくコンテンプレイトの祈りをしていました。これからも又、したいと思っています。

ピリピ4:6、7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、私たちはすべての心の思い、願いを神に祈ったあと、平安を頂きます。

その平安の中で「主を待ち望む wait upon the Lord」のです。待つことはやさしくありませんね。これは私が経験した霊的訓練の中でもっとも難しいものでした。ディサプリン(しつけ、訓練)ですね。様々なことが頭に浮かんできてしまうのですが、真にこころが静かになると、生きた御ことばによって「知性、意志、感情、想像」というたましいの部分と霊とが切り離されていきます。

終末の教会が持つべき重要な奥義の一つは、コンテンプレイテイブの祈りだと思います。それによって、ヴィジテイション(天からの訪れ)やヴィジョンを受け、神と一致することができるのです。ブラッドさんのモレビアンフォールでの体験は、まさにそのことだと思います。あなたはこころを静め、神と一致したのです。

 

「コンテンプレイテイブな祈りをどのようにすればいいのか」という質問を受けることがあります。それは一人ひとり違うのです。私の場合は、いつもの椅子に座り、出来るだけ何も考えないようにします。どうしても頭の中にいろいろな思いが浮かんでしまうときは、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」とずっと繰り返します。そう言っていると他の事を考えなくてすみ、私の思いもイエスに焦点が合っていきます。これが私のやり方ですが、そうする必要はありません。どういうやり方であってもコンテンプレイトの祈りをすることによって、私たちは霊的力を受けます。これからこの祈りを人びとに教えて行かねばならないと思います。

 

ブラッド:同感です。私たちは神と一致せねばなりません。不思議なことですが、この祈りに入ると、あなたはすでに主に向いているのです。あなたは意識的に主と向きあうことを選びとったわけです。コンテンプレイトの祈りが終ったあと、あなたは「何も起らなかった」と思うかもしれませんが、実際にはあなたはその中でトランスフォームされたのです。その「実」は後になってからあなたの言動の中で表されてきます。祈りの中であなたは主から何も聞かないかもしれませんが、あなたの霊の中に主が何かをインプットしてくださるのです。

 

イエスとの親密な関係を持つことが、今の時代のクリスチャン生活にとって実に「かなめ」となります。これから起ってくる出来事の中で、自分が主とどのような関係にあるのかを、一人ひとりがキチンと認識せねばなりません。即ち、自分と主との個人的な関係をしっかりと持たねばならないのです。

 

PK:これからはどうしてもある「分離」が起ると思います。聖書にも明らかですが、真理があれば偽りもあります。エデンの園には二本の木がありました。カインとアベルは共に主に捧げものをしたかったのですが、一人は自分の業により捧げ、もう一人は啓示により捧げました。イエスは同じ畑に麦と毒麦があると言われました。 毒麦は麦と同じように見えても、その中に命はないのです。今日ここで話したことの中には、「宗教」とか「伝統」にとっては不愉快なことがあると思います。私たちがキリストの霊とそれ以外の霊とを区別する物差しになるものについて話したからです。

第二コリント11章には「別のイエス 」「異なった霊 」「異なった福音 」と言うことばがありますが、「異なった霊」はまことの霊に対して必ず激しく戦いを挑んできます。それは、黙示録で「ニコライ派の教え」と言われているものであり、聖職者が一般信者をコントロールする霊です。一般信徒がヴィジテイションやヴィジョン、啓示を受けて霊的力を持つことを許さない霊です。必ずこの戦いがありますから、私たちはその備えをせねばなりません。キリストの花嫁はその戦いに備えていると思います。

 

ブラッド:戦いが激しいほど、天からのヴィジテイションも頻繁になると思います。戦いが始まり毒麦が勢いを持つ時、御国がすぐそこまで来ていることを私たちは知るのです。その時天の御使いたちがやってきて、大いなる収穫が始まります。それはなんと栄光に満ちた時となることでしょうか。人間の目には恐ろしく暗い日々のように見えるかもしれませんが、私たちが上にあるものに目を留め続け、神の視点から物事を見るならば、歴史上最高にすばらしい時となるのです。(終)

 

 

訳者注

 この記事は大分前に訳したものです。私たち夫婦はこのポール・キース・デイビス師とは数年前に会って、丁度その時は私たちが日本に出発する直前でしたので、日本に行くミッションと守りのお祈りをしていただきました。

 

   ご存知のように、クリスチャンになる最大の恩恵・特典は、聖霊なる神が私たちの内に住んで下さるように主がして下さることです。全知全能の神がいつも私たちと一緒に住んでいて下さるのですから、毎日主と会話しながら、全てを聞いて毎日を生きることができるし、しないのがおかしいのです。主は私たちと毎日会話することを何よりも望んでおられます。

 主と常に会話しながら生きるーこれほど間違いのない人生はありません。

 

 尚、もし上記の文中にある「コンテンプレイテイブの祈り」にご興味がおありでしたら、拙書「主を見つめて待つ」をお読みください。坂 達也


 Page 4 of 179  « First  ... « 2  3  4  5  6 » ...  Last »