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Walk With God Ministries

20 10月

四つの風と三本の柱(その3) リック・ジョイナー          2013年10月20日


四つの風と三本の柱(その3)

   -モーニングスター・ハーベスト・カンファレンス 9月29日

     日曜礼拝でのメッセージ -

リック・ジョイナー

 

イエスは祈られました。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(ヨハネ17:26)【新共同訳】

すなわち、父がイエスを愛しておられるその愛が私たちの中にあるように、そしてそれはイエスが私たちの中にいつもいるためにである、と祈られたのです。

ですから私は「父よ、あなたが御子イエスに対して持っておられるのと同じ愛を私にも下さいますように。」と毎日祈っています。前にも言いましたように、イエスの祈りは100%聞かれます。そうであれば私たちが同じことを父に祈れば聞かれるはずです。パウロが、2コリント5:14,15に書いているように、彼はイエスの愛が私たちの行動のすべてを支配する(駆り立てる)ようになることを祈ったのです。彼のその祈りが本当に実現したら、私たちの人生はどんなにすばらしいものに変えられるでしょうか。私たちのするすべてのことの動機が、私たちが唯々キリストを愛するゆえであると言う生き方、それ程に私たちのキリスに対する愛が大きくならねばならないのです。それは御父の御子に対する愛に匹敵する位に大きな愛です。そして私たちがそうなれるように私たちが祈れば、聞かれると信じます。

 

ヨハネは「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(1ヨハネ 5:14)【新共同訳】と書いていますが、私は、イエスの祈りは間違いなく父の御心に適ったものであり、そうであるなら、私たちは、このヨハネ17章でイエスが祈られた信じられないような(すばらしく、重要な)祈りが成就することを祈るべきであると確信します。お互いに愛し合って、父とイエスの間にある一致と同じ一致をもって私たちも歩むべきではないでしょうか。私たちがその域に達する唯一の方法は、御父が御子を愛するのと同じ「父の愛」で―それは人間的感情からではありません―私たちがイエスを愛することであると思います。

 

そしてイエスは「わたしは、あなた(父)がわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも(わたしたち父と子と)一つであるためです。」と祈りました。(ヨハネ17:22)

上記で言う「栄光」とは「わたしたちが一つである」と言う父と子の関係を指しています。しかしイエスがその栄光の関係に私たちを加えるために、自ら十字架に付いて下さった結果として、私たちがその栄光に与れるようになったことを意味します。そうであれば、それは私たちも十字架に付き苦しみの中を通ることを意味します。ですから、もし私たちが、御父の御子に対する愛をもって何事も行なおうとするならば、たとえ他人がどれ程あなたを攻撃し傷つけようと、私たちはその人に対して攻撃し返すことはしないはずです。なぜなら、クリスチャニテイーの基本は「赦す」ことにあるからです。

 

私たちクリスチャンは(大祭司イエスと共にある)祭司です。祭司はかさぶたを持つことが禁じられています。(かさぶたとは完全に癒されいない傷口に出来るものです。)つまり、あなたが他人から攻撃されて傷つき、それが癒されていないのであれば、祭司として失格です。その人を完全に赦していなければ傷は癒されません。ここで気を付けねばならないことは、多くの人は自分を傷つけた人を赦すとは言っても、主がその人を罰する、あるいは仕返しをしてくれることを内心望んでいることです。しかし、イエスは御自分が赦すだけでなく、御父に「その人を赦してください。なぜなら、その人は自分が何をしているのか分かっていないからです。」と祈られたことを忘れないで下さい。

 

あなたのベスト・フレンドと言う人たちがいて、その人たちは、3年半もあなたと共同生活し、あなたに心から尽くして来ました。ところが状況が一変すると、その翌日に、あなたの友人たちは人に尋問された時、皆あなたを知らないと言って逃げてしまい、あなたを裏切ったとします。もしあなたが事前にそうなることを知っていたとしたら、あなた方のうちの何人が、その前の夜にその友人たちの足を洗い、もう一度だけ最後の夕食を共にしたいと心から願うでしょうか。イエスが一番いて欲しい時に、弟子たちはイエスを裏切って逃げてしまったのです。これ程の屈辱を受けたにもかかわらず、イエスは愛をもって弟子たちを赦しました。

 

パウロは、人の行為で自分が傷つく時こそ、真の権威を得るためのよい機会であると言いました。パウロは自分の使徒としての権威が問われた時、使徒として行動した彼の働きには触れずに、彼が負った数々の傷と受けた災難のことに触れました。鞭で打たれ、石で打たれたこと、あるいは難破した時のことを指摘しました。(2コリント11:23-27)彼が受けたそれらの災難と傷が彼の権威を築く機会となったのです。なぜかと言えば、自分の受けた苦難が真の霊的権威の基礎だからです。

しかし、受けた傷は完全に癒されなければなりません。罪を犯したこともないキリストは、ののしられてもののしり返さず、自分の十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。そして「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 

イエスは傷を負ったところで私たちに対する癒しの権威を持たれました。そのことは私たちにも当てはめられます。あなたが傷を負った場所で、あなたはそのことに対して権威を受け取ることが出来ます。他の人があなたと同じところに傷を負った時に、あなたはあなたの得た権威でそれを癒すことが出来るのです。

ですから主ご自身は私たちを傷つけることはなさいませんが、他人によって私たちが傷つけられることを許されるのです。人に傷つけられることを自分の権威の範囲を広げる最もよい機会であると理解して下さい。そうすることによって、次に傷つけられた時に「これを機会に私が霊的に次のレベルに引き上げられるようにして下さい」と祈れるのです。そのために主は誰でも、あなたのベスト・フレンドをすら用いて私たちを引き上げてくださいます。弟子がイエスを置き去りにして逃げましたが、後には彼らとイエスとの関係は前よりよくなりました。

ペテロはその後も大きな間違いを犯し続けましたが、主は私に「義人は七回転んでも起き上がる。あなたが七回転ぶことに対して、わたしは、それを悲しむ以上に、あなたが又起き上がって戦い続けることへの喜びの方がより大きい」と言われました。

どんな大きな間違いを犯しても(ペテロのように)信仰を持ち続けて下さい。皆さんはトッド・ベントレイー(師)が今は前よりもっと大きな奇跡を起こしていることをご存知です。彼は転んでも、転んだままではいませんでした。彼は起き上がりミニストリーを続けました。勿論、彼が又転ばないと言う保証はありません。しかし義人は七回転んでも起き上がり続けるのです。

もし誰かが転んだ時に、私たちがその転んだ人を足で蹴る代わりに、お互いが助け合うとしたら、何が起こると思いますか。ですから、あなたが会う試練を決して無駄にしないで下さい。あなたに与えられる機会を無駄にしないで下さい。

 

主よ、最後にお願いします。ここに朝早く起きて来られた、あなたに飢え渇いている人々が、今これから光と闇の戦いの最前線に帰ろうとしております。どうぞ主よ、主の力ある武器と油注がれた真理によって、この人たちが人間的なマインドをではなく、人々の心に触れることが出来るようにお祈りします。主よ、あなたのすばらしい愛と言う最もパワフルな武器、それは決して失敗に終わるとか未遂に終わることはありません。どうか今週、私たちがあなたの愛を増し加える機会を逃すことがないように助けて下さい。又、自分の十字架をかつぐことによってそれを見た人が永遠の命を受け取る機会を逸することがないように助けて下さい。

主よ、私たちは今こそ、内にいて助けて下さる聖霊を必要としています。どうぞ助けて下さい。イエスの御名でお祈りします。アーメン (終り)


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