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16 10月

四つの風と三本の柱(その2)  リック・ジョイナー 2013年10月16日


四つの風と三本の柱(その2)

   -モーニングスター・ハーベスト・カンファレンス 9月29日

     日曜礼拝でのメッセージ -

 

リック・ジョイナー        

 

歴史家はペテロ、パウロ、ヨハネの三人を称してクリスチャン教会の三本の柱( あるいは柱石)pillarと呼んでいます。ペテロは主から天の御国のかぎを与えられました。私はそのペテロは御国のかぎを使って御国における色々なドアを開けた中心人物であったと信じます。そして、その後にパウロが現われました。私はパウロがキリスト教を確立するための最も卓越した力の変革者であったと思います。しかし彼らが去った後に、最後の言葉を残したのはヨハネでした。

教会の歴史を振り返って見ますと、ペテロは支配的な立役者として多大の影響を与えました。ペテロはエバンジェリストでした。彼は信じられないような信仰の行為を実践した結果、信じられないような功績を挙げたのです。その例の一つは、最後には溺れそうになって助けられましたが、彼は水の上を歩こうとして舟を離れ、数歩でも歩いたのです。勿論彼は数々の大きな間違いをしましたが、間違いを恐れず、それは大きな成長・進展につながったのでした。主は「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と彼を誉めました。(マタイ16:17)そして、彼に天の御国のかぎを与えました。(16:19)しかしその5分後に、いや、2分後かもしれませんが、主から「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。」(16:23)と叱責されました。彼は天の父から直接に啓示を受けた(16:17)その直後に、地獄(サタン)からも直接の啓示を受けたのです。(16:22,23)私たちも、重大で大きな預言を主からいただくような時には、直ぐその後に敵の攻撃が来ることを学びました。

私たちも気を付けねばなりません。と言うのは、そのような時にしばしばプライドが持ち上がるからからです。御国のかぎを与えられたペテロもそうでした。主が十字架に着く前の夜、イエスが弟子たちに「今夜あなたたちは皆つまずいてわたしを否む」と言われたのに対して、ペテロは「あなたは間違っている、たとえ他の皆がそうするとしても私だけは絶対にそうしない」とイエスに口答えをしたのです。考えてもみてください。相手が他ならぬ神である御子イエスに対して、「あなたは間違っている」と言い返したのです。余程のプライドが無い限り神に対してあなたは間違っているとは言わないでしょう。そして彼はイエスから「あなたは今夜三度わたしを知らないと言う」と言われました。

又、ペテロは弟子の中でも最も勇気のある者の一人でした。彼はイエスを捕らえようとしてローマ軍一隊の兵士、当時の一隊とは800人ですが、それだけの兵士に立ち向かって剣を抜き、兵士と共に来ていた大祭司のしもべの一人の耳を切り落としたのです。しかし彼はその勇気の力がどこから来ているのかを気が付きませんでした。それが証拠に、朝が来る前に捕らえられたイエスを前にして、イエスの弟子であると咎められた時、イエスを知らないと打ち消しました。これから見てペテロ自身が本当の勇気を持っていなかったことが分かります。

 

私たちクリスチャンはしばらくクリスチャン生活をしていると、宗教的になり独善的self righteousに陥る傾向を誰でも持っています。それは大変危険なことであり、自分へのプライドを持つことには本当に気をつけなければなりません。又、私たちは宗教的な決まり文句をさえ言えば神のめぐみ graceに与れると安易に考えてはならないのです。私たちが本当に神のめぐみに与りたい、あわれみ mercyに与りたいと願うならば、機会がある毎に、先ず自らがへりくだって、他人にめぐみとあわれみを与えると言う種まきをすべきです。イエスを見て下さい。彼は罪人に対してはあらゆる種類の忍耐と許容力を持っていましたが、自分は正しいと高ぶる独善的 self righteousな宗教的リーダーに対しては全く許容範囲を持ちませんでした。

 

キリスト教が広まった最初の1200年を見てみますと、そこにはペテロの功績が目立っています。信じられないほどのペテロの業績、しかしその後に「下がれ。サタンよ」が来るのです。この悪霊の仕業はどこから来たのでしょうか。それは教会が宗教化して堕落した結果であることは明らかです。ですからその後に現われたマーティン・ルーサーとかカルビンによる宗教改革は、ちょうどパウロがペテロを叱責したことの再来であると言えると私には思えます。マーティン・ルーサー等の改革者がしたことは歴史上最も偉大な征服者が行なった改革以上の大きな変革をクリスチャンの世界に起こしたのでした。神学的調査によれば、宗教改革以降においてクリスチャンが書いた書物で引用された聖書箇所の95%がパウロの手紙からであると言われております。そして今の時代はどうかと言えば、今以上にパウロの深遠な神学が必要とされる時は他になかったと思います。現在のキリスト教界は、多くの全く怪しげな神学とかクレイジーとしか言えないような教義が大っぴらに横行している時代です。今こそパウロが聖書の中で綿密に解き明かした新しい契約、新約聖書の正しい教義が必要とされる時です。

しかし、ヨハネの言葉が最後にものを言う時が来ます。私たちは今もう一つの大きな(神学的)境界設定がなされる時点に近づきつつあると信じます。ヨハネのミニストリーこそ最後に最も必要でかつ重要なミニストリーであり、又メッセージであると思います。しかし、だからと言ってペテロのミニストリーとかエバンジェリストとしてのペテロがもはや必要ではないと言っているのではありません。又パウロの正しい神学的教義の教えが必要でなくなったと言っているのではありません。三本の矢を一つに束ねれば折れ難いように、私たちは今こそペテロ、パウロ、ヨハネの三人が必要であり、それが一つとならねばならないのです。

 

ヨハネのメッセージとは何でしょうか。「神を愛し、お互いが愛し合う」ことです。1コリント13章でパウロが言っているように、どんなに優れた賜物とか知識を持っていても、どんなに大きく完全な信仰を持っていても、どんなに多く貧しい人に与えても、自分の身体を焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立たないと言うのですから、これは本当に重大なことではないでしょうか。私たちはこのパウロのメッセージを本当によく理解しなければならないと思います。

ヨハネはイエスの心臓の鼓動を聞いて(親しく深く理解して)それを書き記した人です。そのヨハネの召しとは何でしたでしょうか。ダビデはイスラエルの「羊飼い」として召され、ペテロは人を取る「漁師」として召されました。ヨハネは魚を取る網を使えるようにする「網の修繕役」として召されたのです。網とはハーベストのためのものです。その収穫が漏れて失われないように彼は網のやぶれを修繕して「使えるようにする役目」に召されているのです。

それを言えば、彼の福音書は他の福音書を一つにまとめ、彼の書いた手紙は新約聖書全体を、そして彼の書いた黙示録は聖書全体を一つに適合して(使えるようにする)「まとめ役」であると言えないでしょうか。私たちは今こそ彼のミニストリーを必要としています。

 

聖書の中でイエスの心を最もよく表している箇所があるとすれば、それはヨハネ伝17章であると信じます。ヨハネは隣席のイエスの胸にもたれかかってイエスのハートの鼓動を聞いた人として知られているように、私はヨハネはイエスの心の内を一番よく知っている人であると思います。そのヨハネが、イエスの父に対する心からの心情と願い(ハート・ビート)を祈りの形で訴えたものをヨハネ伝17章に書き記したのです。この章に書かれていること程イエスの深い愛の心の発露を書いた人は他にいないと思います。

 

聖書に「天は、主の天であり、地は人の子らに与えられた。」(詩篇115:16)と書かれているように、神は人間に与えた地上のことは、人間が祈りで要請しない限り御自分からは何もされません。ですから地上でのイエスは御自分をいつも「人の子」と呼ばれました。そしてイエスは御自分が地上で人間として父にお願いすることは、ある意味では天にいる時以上に力と権威があり、父がその願いに答えて下さることをよく知っておられたのです。

あなたが今地上で祈る祈りは、天で祈る以上に大きな影響力を持っているのです。あなたが地上でする礼拝は天でする礼拝以上に、天におられる父の心に触れることが出来るのです。なぜなら、私たちが天に行けば、いつも神の栄光の前にいますから、誰でもいつでも当然のように神を礼拝することになるからです。それに引き換え、今の私たちは地上で色々な困難の中を通され、霊の攻撃にあって多くの失敗を経験しながら、それでも尚且つ主を心から礼拝するのですから、父は心打たれるのです。

ある時、私は天に引き上げられ、天でのすばらしいワーシップを聞いていました。それは地上では経験したことのないすばらしいものでした。その時突然、父なる神がその礼拝を中断するように言われたのです。そして御父は霊的には全くドライな地上の小さな教会の水曜日の祈り会のワーシップに耳を傾けられたのです。これは私の解釈ですが、この事実はすべての闇の支配者たちである主権と力に対する証人となるのです。彼らの時は終わりに近づいて来ました。

最初のアダムの花嫁はパーフェクトで理想的な世界に住んでいたにもかかわらず罪を犯すことを選びました。それ以来サタンは神によって用いられて来ました。神の最高の創造である人間は完璧な環境に置かれても罪を犯すことを選んだのですが、しかし最後のアダムの花嫁は、最も暗黒な時を過ごす中ですべての地獄の悪霊たちによる攻撃の的となる逆境にありながら、それに屈せず花婿に従うことを選ぶのです。そのことを悪魔の軍勢たちはよく知っており、彼らの時が短いことが今証明されつつあると信じます。ですから最終的に花嫁こそが自分たちを治めるにふさわしいと御使いたちが言うのです。(1コリント6:3参照)

暗闇の中に住むあなたにとって今がチャンスです。あなたが通る試練を無駄にしないで下さい。試練の中で主を礼拝して下さい。その中で神を心から信じ、従うことを選び取って下さい。

さてヨハネ17章にもどりますが、イエスは地上で最後の時を過ごしています。もしあなたが明日は拷問の処刑に着いて死ぬことが分っていたら、今日あなたは最後の祈りをどのように祈るでしょうか。あなたにとって最も重要なことと、最も愛している人のことだけを祈らないでしょうか。イエスにとってこれが最後の祈りの機会となるのです。イエスは心の中にある御自分の最も深く心に掛かることをこの17章で祈られました。

最も深くイエスの心にあったこととは17節に書かれている「真理によって彼らを聖め別って sanctifyください。」であったと私は思います。単に真理を信じるのではありません。Sanctify するとは真理を心から信じることによって、彼らを分け離ち、聖めることです。イエスが絶対的に真の救い主メサイヤであることは悪霊たちも信じています。彼等はイエスが神の子であることも、十字架の贖いの意味もすべて信じています。私たちもそれを知識として知ることは出来ます。しかし、あなたの心が聖められ、変えられなければならないのです。それはロマ書10:10にある「人は心に信じて義と認められ・・・」と書かれている通りです。あなたは頭で正確に知ることは出来ても、あなたは本当に心で信じ、それを生きなければなりません。そうでなければ、あなたはさばかれることになるのです。

 

それからイエスが何度も繰り返し祈られたことは、17:21で祈られた「 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。・・・」【新共同訳】でした。これは大変重要な祈りです。イエスは私たちが単に教義的知識において一致することを望んでおられるのではないのです。イエスは私たちが、イエスと御父が一つとなっているのと同じように、名実共にイエスと一つとなる、それはすなわち、御父と御子と私たちが全く一つとなることを祈られたのです。

私はこの御子イエスの父への祈りは、その通りに聞かれ実現すると堅く信じて疑いません。と言うことは、私たちのうちの誰かがそうなる、つまり、私たちがなるのでなくて誰がなるのでしょうか。(続く)


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