WWGM

Walk With God Ministries

29 3月

主により頼む   ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン   2015年3月29日  


主により頼む

 

ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン

(祈り会でのメッセージ)

 

あなたは神に拠り頼んでいますか? イエスを信頼していますか? 本当にそうですか? ではどうして心配しているのですか?

 

お父さんが運転している

 

家族5人でアイダホー州をドライブした時のことを私は思い出します。私たち兄弟三人がまだ小さかった時でした。雪が積もっていたので車が突然滑り出し、道から逸れそうになりました。車にチェインを装備していなかったからです。

両親はすぐに異言で祈り始めましたが、私たち兄弟はけらけらと笑っていました。私たちにとってそれは愉快なことだったのです。子供の私たちにはその時の私たちが非常に危険な状態にさらされているなどとは思いもよりませんでした。「お父さんが運転しているんだから、危険なことなどないに決まっている。」と信じきっていました。子供にとって父は、常にすべてをコントロール出来る人であったのです。「車がつるつる滑って回っても、それはお父さんが何かの理由でわざとそうしたに違いない。危険など一つもない、お父さんが運転しているのだから。」と私たちは信じていたのです。

皆さんは、「それは本当に大変なことが起っていたんだよ。」と言われるかもしれません。しかし、当時の私たちにはそれは面白いことであったのです。

 

あるいは「あなたは私が抱えている問題の大きさを知らないからそう言えるんですよ。」とあなたは言うでしょう。

ではお聞きします。「天のお父さまが運転しているのではないのですか? あなたは神を信頼していますか? 本当にイエスを信頼していますか?」

 

主イエスが十字架につく前、弟子たちに何と言われたか知っていますね。もし私だったら こう言っていたでしょう。

「よく聞くんだよ。とても大変なことがもうじき起ころうとしている。みんなとても悲しむだろうし、それは無理もないことだ。すごく困難な状況になるから互いに励まし慰め合うようにしなさい。」

でも、イエスはこう言われたのです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

あなたが心を決して騒がせないためには、イエスのこのことばに従わねばなりません。

 

主に拠り頼む

 

皆さん、私は今ほとんど不可能に近い3つの厳しい状況に直面しています。同時に3つです。毎朝起きるとそれは私の面前にあります。一日中それは私を苦しめます。寝るときもまた、それはまだ面前にあります。私はこの問題とともに24/7、365日、生きているのです。私は自分の祭壇の前で先週私が語った説教に従うようにと自分に幾度も語りかけています。

この祈り会に来る直前にも、私は一つの状況に関する否定的なメールを受け取りました。私は「ああ、どうしよう。神よ、どうしたらいいか教えてください。」と、とっさに思いました。でもすぐに「待てよ、確か日曜日にそのような祈りは避けるべきであるという説教を自分でしたのではなかったのか...」と思いました。そして「神よ、私はあなたに信頼します。心から信頼します。」という祈りに変えました。

心配する心から発せられる祈りは意味がありません。私は「主よ、どうしたらいいのか教えてください。」と祈るのを止めて、「主よ、あなたに信頼します。どうしてこうなっているのかは理解できませんが、わからなくてもいいのです。理解することが大切なのではありません。あなたを認め、信じ、喜び、感謝します。あなたを信頼します。自分の理解に頼りません。」と祈り始めました。

 

パウロは第一テサロ二ケ5:17で、「絶えず 祈りなさい。Pray without

ceasing.」と言っています。それは神が答えを示してくださるまで祈り続けることを意味しています。答えは来ます。皆さんに保証しますが、神は、私が置かれている3つの状況に対する答えを必ずくださいます。しかしその答えは、私が「神よ、私はどうすればよいのか教えてください!」と叫んだから来るのではなく、むしろ、「神よ、私はあなたを信頼します。」と言い続ける、私の神に対する心からの信頼に対して神が答えてくださるからです。

 

信頼するのは忘れることではない

 

「神を信頼する」ことに関して次のことを知らねばなりません。信頼は恐れないことではありますが、忘れることではありません。多くの人は、神に信頼していると言って頭から心配事を追いやって、もう考えないようにします。もう考えない、という事は、あなたが神に信頼しているということではありません。それは時として「怠惰」であり、時として「無責任」ということです。

信頼とは、しっかり心に留めていて、それと同時に恐れてもいないということです。主の御前で恐れずに考えることです。ことばを代えれば、恐れの心からではなく信頼の心から主に祈ることです。

 

つまり次のように祈るのです。「主よ、私はこの問題をあなたに差し出します。私はあなたに感謝し、この件についてあなたを信頼いたします。それはあなたの御手に中にあります。あなたが私のために答えを持っておられることを感謝します。そしてあなたにとってそれは難しいことではありません。私が不信仰に陥ったときは、それはとても難しいことに思えました。でも信仰の中にいるとき、『私の天のお父さんが運転しているのだから、この車は絶対に道を逸れない』とわかります。私は心からあなたに拠り頼み、自分の理解に頼みません。」

信仰で祈るとはこういうことです。神が答えをくださるまで、この問題から目をそらしません。そして私の祈りのテーマは「答えをください!」ではなく、「主よ、あなたに信頼いたします!」というものです。

 

今あなたの心を悩ませているものが何であったとしても、今主に明け渡しましょう。主に明け渡すというと、主がそれを取り去ってくださると考えがちです。でもそうではありません。自分の夫や妻のことで悩んでいる人がいるでしょう。神はあなたから配偶者を取り去ることはありません。配偶者に関する重荷は取り去ってくださるかもしれません。あなたは問題を主の御前に差し出し、答えが来るまで主の臨在の中でそれを支え続けることを学んでいるのです。それを訓練してください。

箴言3:5に「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」とあります。今あなたの心があなたに何と言っているか注意してください。もしあなたが心を悩ませているならば、あなたは主に拠り頼んでいないことがわかるのです。

 

愛において成長する

 

パウロは、エペソ4:15で「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためです。」と言っています。

しかし、ほとんどのクリスチャンは愛においてではなく、恐れにおいて成長しています。恐れにおいて成長するとは、あなたが恐れで訓練されるということです。毎日、あなたがすでに恐れていることについて新しい面を発見するのです。私たちは恐れから本を読んだりインターネットで調べたりして、もっと完全に恐れることができるように学んでいるのです。

完全な愛はすべての恐れを取り除きますが、完全な恐れはすべての愛を取り除きます。少しでも恐れが忍び込むと、すべての愛を追い出してしまうのです。しかしあなたが恐れで一杯になっていても、ほんの少しでも完全な愛が入ってくれば、すべての恐れは追い出されるのです。

「主よ、今、私たちはあなたの完全な愛に心を開きます。恐れではなく、聖い愛において完成されるようにします。」と祈りましょう。

 

一時的無神論者

 

心配とは、神は不意打ちを喰らったと考えることです。

心配とは、神はそれを知らなかったと考えることです。

心配とは、神にはご計画はないと考えることです。

心配とは、神はどうしていいかわからず、答えもなく、この状況を取り扱う力はないと考えることです。

 

神にとって難し過ぎることがあるでしょうか?それがあなたに問われていることです。詩編14:1に「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」とあります。クリスチャンが一瞬にして無神論者になってしまうのは興味深いことではありませんか。つまり心配とは、状況によって一時的に無神論者になることであるのです。

私たちは心配を始めると愚か者になります。イエス・キリストを信じる者として出来る一番愚かなことは、心配することです。心配は私たちを愚か者にします。

 

どうすることもできなくなると、「神はいない」と言う。行き詰まると、「神はいない」と言う。今の状況に答えがないと、「神はいない」と言う。癒しがないと、「神はいない」と言う。悲しみが癒えないと、「神はいない」と言う。

 

このように思うとき、心の中で神はいないと言っているのですから、私は愚か者になったのです。私は頭の中では言わないかもしれません。でも心の中で言うのです。頭が「神よ。私はあなたがおられることを知っています。」と言ったとしても、もし私の心が恐れ、心配しているならば、頭が必死で求めている真理を私の心は拒み打ち消しているのです。心で主に拠り頼んでください。

クリスチャンの多くは頭の中だけで信頼しています。「私は主に信頼する」と頭で考えても、自分が考えているように心が従っていないのです。

信頼は究極的に「考え」ではなく、「心のあり方」です。

今あなたの心を主に明け渡してください。今あなたの愚かさから抜け出してください。あなたは恐れの中をあまりにも長く歩んできました。そのような無神論的愚かさから抜け出してください。心を信仰にもどしてください。

 

「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、今肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3:1−3)

今は肉を抜け出して霊に来るときです。肉の心配から抜け出して、霊で確信する時です。不信仰を捨て去り、信仰にくるときです。声に出して宣言しましょう。(終り)


Post a Comment