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Walk With God Ministries

19 04月

望みの門  フランシス・フランジペン   4月19日


望みの門

フランシス・フランジペン

私たちは往々にして、信仰の力は強調するけれども希望の大切さは過小評価してしまいがちです。
しかしながら、「信仰とは望んでいる事がらの実体(ヘブル11:1)」とあります。 ですから、まず神に対して強い希望を抱かなければ、私たちの信仰は役に立ちません。実際、私たちがトランスフォームされるための最初のステップは、私たちの中の希望が目ざめることです。

私たちはキリストを信じた後でもなお、失敗をします。私たちが罪を犯してしまうと、自分は有罪であるという思いに縛られ、その思いが希望の声を窒息させてしまいます。イスラエルがカナンを征服したときの話を考えてみてください。主はカナン人の富でイスラエルを繁栄させようとされました。しかしそのためには、一番初めのエリコの戦いの勝利品はすべて神にささげることを条件とされました。残念なことに、アカンという男が主の命令に背き、金、銀、シヌアルの外套をとり、テントの中に隠しました。その彼の罪の結果として、次の戦いで36人のイスラエル人が小さなアイの町に負かされ侮辱され死にました。

主がアカンが犯人だと示されましたので、ヨシュアは彼と彼の家族を、全財産と共に谷に連れて行きました。聖書に次のように書かれています。「『なぜあなたは私たちにわざわい(trouble)をもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわい(trouble)をもたらされる。』 全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけたーーーそういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。」(ヨシュア7:26,26)

アコルという言葉は「troubling 悩ませる 困らせる」という意味で、一人の人の罪が多くの人の上に困難と苦痛をもたらすことを表しています。勿論アカンにとって一番辛かったことは、自分の犯した罪のために妻と子供たちまでが死に追いやられたということです。彼らが抱き合って恐ろしい刑罰を待っているとき、自責と後悔の念がアカンの心には耐えがたいほどにあふれたことでしょう。

個人的な失敗

後にアコルの谷は、最悪の刑罰を表す象徴となりました。それは死と荒廃の場でした。勿論、今日私たちは罪を犯した者や無責任な行動で他の人を悲しませた者を、石打ちにはしません。しかし、罪にはその結果が必ずあります。 私たちの身体は石打にはなりませんが、公に有罪であると判決を受けることは、石打の刑と同じくらい人間の心を打ち砕きつぶしてしまいます。 事実、私たちの多くの者はアコルの谷を個人的に経験しています。そこでは私たちの不道徳な行為や、賢明でない行動が他の人に苦しみを与えてしまったのです。

もしかしてあなたは姦淫を犯してしまったかもしれません。それはあなたの配偶者や子供たちに非常な苦しみをもたらしました。また、あなたはイライラして不注意な運転をしていたために事故を起こし、他人に怪我をさせたり、最悪の場合は人を死なせたりしたかもしれません。あるいは、あなたがクリスチャンとしてよい見本を示さなかったために、あなたの子供たちが神から離れていってしまったかもしれません。私たちが失敗を犯す可能性は無数にありますが、その結果はほとんどいつも同じです。それは、あなたの人生の上にのろいがかぶさったかのようになることです。

自分の心が自分を責めることだけでも苦しいのですが、あなたの失敗を知っている人たちが、「あなたにはもう希望がない。」と声を合わせてあなたに言うときは非常に辛いものです。あなたに対する世間の反感や冷たい目、批判的な態度は、アカンが肉体に受けた石と同じくらい、あなたの魂に鋭く突き刺さるのです。 確かにあなたの肉体が死ぬことはありませんが、その代わりにあなたの希望が死んでしまうのです。今まで希望と期待をもって将来を眺めることができたのに、今や心痛や後悔があなたの将来への視野を塞いでしまいます。

私たちが真に悔い改めることによって心が清くされ強められることだけが、自責の重荷から解放される唯一の方法です。ですから、失敗や罪、その結果ののろいからあなたが解放される唯一の道は、聖霊によって私たちがトランスフォームされることです。
  
残念なことに、敵は多くのクリスチャンを不信と自責の思いの中に閉じ込めてしまっています。彼らは自分のしたことが悪かったことは自覚し、そのことを憎んではいますが、その罪の意識の重荷から自分を解放することができないでいるのです。私たちの贖い主はとりこの解放を宣言するために来られたことを思い出してください。(イザヤ61:1参照) 主は監獄に入っている人たちのことだけを言っておられのでしょうか? そうではなく、主は過去の失敗のとりことなってしまっているすべての人のために来てくださったのです。神は私たちが過去の失敗から学ぶことを望んでおられますが、そのとりこになることは望んでおられません。イエスは、アコルの谷に夢が埋もれてしまっている人たちを解放し回復するために来てくださいました。

個人的な悲劇

私たちが負っている重荷は、自分の道徳的な失敗の故ではなく、人生のなんらかの惨禍から来ていることもあります。

人間の魂が受ける最大の試練の一つに、愛する者の死があります。そのような損失は非常な重荷を私たちに与え、私たちを過去のとりこにしてしまいます。アブラハムの父、テラの物語は、愛する者の死から離れられなかった人物を深い洞察をもって描いています。

テラには3人の息子がいました。アブラム、ナホル、ハランです。聖書には「ハランは父テラの面前で彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。(創世記11:28)」とあります。息子を失うことは非常な痛みをもたらします。特に自分の腕の中で息子が死ぬのを見るのは、全く打ちのめされるような経験です。

その後しばらくして、カナンに新しい土地を見つけようとして、テラは家族をつれてカルデヤ人のウルを離れました。 しかしその途中で、テラは死んだ息子ハランと同じ名の町を通らねばなりませんでした。テラはカナンへの旅を続ける代わりに「ハランに着いてそこに住んだ。(31節口語訳)」のです。

愛する者の死を悼み、その人を慕わしく思うのは当然です。しかしながら、人生の中で起こる悲劇は、その痛みを忘れるのは誠実ではないという誤った忠誠心で私たちを縛ってしまう恐れがあるのです。飛行場でチラッと見た他人の顔やラジオからふと流れてきた歌で、その人の心は何
13 04月

使徒の時代の再来  キャシー・ペルトン  4月13日



隔ての塀をこわし架け橋とする

キャシー・ペルトン

初代教会の人々の生活

先月のことですが、私は幾晩かにわたり、ぴったり2時44分に目を覚ましました。毎晩それが起こるので、主がそのことを通して私に何かを語っておられるのだということに気がつきました。その意味を祈り求めたところ、主の御霊が使徒行伝の2章44節に私を導いてくださいました。
「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有していた。」

この言葉を読んだとき、私の心の中に、他のクリスチャンたちともっと親密で個人的な交わりを持ちたいという強い願いがわきあがってきました。 主が私と引き合わせてくださった同じ町に住むクリスチャン達と心からの交わりを持ち、彼らの人生と関わりを持ちたいという願いが私の心に湧き上がってくるのを最近しばしば感じていました。私は他のクリスチャン、特に教会に来てはいても孤独を感じている人たちに対して同情心や憐みを感じ、そのような人たちともっと時間を共に過ごすようになってきていました。

人を知り、人に知られる大切さ

使徒行伝2:44には、彼らはすべての物を共有していた、とありますが、それを読んで私は、ただ所有しているものを売って分け与えるというだけではなくて、(確かにそれも大切ですが)、物質的なこと以上のことを考えました。 イエスが弟子たちと一緒に旅をして生活を共にしていた時のことを、私は思いめぐらしました。 すると神様は、私が周りにいる人たちと人生を分かち合うとはどういうことかを示し始めてくださいました。ローマ人への手紙12:15には、「喜ぶ者と喜び、泣くものと共に泣きなさい。」とあります。

共に旅をしてすべてのものを共有することは、その人々の喜びと悲しみをも分かち合うということです。キリストの身体である教会の中には、私を知ってほしい、という深い願いがあります。私はいままでの数ヶ月の間、周りにいる多くの人たちとゆっくりと交わる時間を持ちました。その中で彼らが先ず第一に言ったことは、周りにいる人たちを知り、自分も知ってほしいという願いを彼らが持っていることでした。知られるということは、即ち大切に思ってもらうということです。

イエスはご自分の弟子たちをよく知っておられました。彼らと旅をしながら共に食事をし、夜は共に寝ました。彼らが何かに成功したときや、また、失敗したときにも主は彼らを愛されました。主は一人ひとりと親しく交わりを持たれました。主は私たちにもそのようにしてくださるのです!ですから私たちも主と同じように、周りの人たちと個人的に親しく交わらねばならないのです。

使徒行伝2:46-47には次のようにあります。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」
どうして毎日多くの人が救われたのでしょうか? それは、クリスチャンたちがイエスがしたと同じような言動をとっていたからです。彼らはイエスの手足となっていたのです。彼らはお互いに親しく、毎日生活を共にしていました。一人ひとりが神からだけではなく、お互いにみんなと個人的に親しく知られていましたから、そこには大きな喜びがありました。彼らは「山の上の町」となり、「暗やみの光」となり、飢え乾いて人から愛され理解されたいと願っているこの世へ「愛」となったのです。

隔ての塀

私たちが個人的に親しく知られたいと願っているとすれば、どうしてキリストの身体の中にこのように多くの不一致があるのでしょうか。その一つの理由は怒って腹を立てること(オフェンス)です。 敵はキリストの身体を分裂させるために、人々が腹を立てるようにといつも働きかけます。非常につらいことが起こって痛みを覚えているときに、そばに来て共に悲しみ、愛を示す人が一人もいなかったとしたら、その人はきっとキリストの身体全体に対して腹を立ててしまうでしょう。

最近、私は短いヴィジョンを見ました。そのヴィジョンの中で私は一人ひとりのクリスチャンが木の塀に囲まれて孤立している姿を見ました。そして「O fences be removed! オー、塀(フェンス)よ、取り除かれよ!」と言う声が聞こえました。 主が立腹(オフェンス)について語っておられることが分かりました。次に、多くのクリスチャンを取り巻いていた塀が取り除かれるのが見えました。立腹の塀に使われていた板が、一人ひとりの前に置かれ、教会の中に生じた裂け目や破れの上の架け橋となりました。
この短いヴィジョンが終わったとき、私は自分にむかって「オー、塀(フェンス)よ、取り除かれよ!」と宣言し始めました。そして主に、私の人生の中のすべての立腹の板を取り除き、その板を亀裂を修復し回復させる架け橋として使ってくださるようにとお願いしたのです。

イザヤ58:12「あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。」

イザヤ58章を是非全部読んでみてください。この章がキリストの身体に一致を回復し、救いを求めている人々の魂を収穫するためのかぎとなる章ではないかと、私は思います。

新しい音

Iコリント13;1「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」

2年前のことですが、私はアルバータのエドモントンでの「ライズ・アップ 立ち上がれ」という集会に参加していました。集会中のある夜、何百人というクリスチャンが、私がそれまでに経験したことがないような全く純粋な美しいワーシップの中に入っていくことができました。このワーシップの中で、聞こえてくる響きに私は畏敬の念を覚えました。それは神の民が主を切に求める響きであり、また、同時に神が神の民を求める響きでもありました。それはまことの愛の音響でした。

そのワーシップでは、既成の歌は一つも歌われず、すべてその場で生まれた歌(スポンテニアス・ソング)で神への思いが歌われました。そのとき、私たちのチームのメンバーの一人であるステイシー・キャンベルが、静かにステージに上がり、私たちに聞こえていた「音」について語り(預言し)はじめ皆は心打たれました。彼女は主の御手御足に釘を打ち付ける槌の音について語り、それを「熱望の音」とよ
06 04月

エルサレムにあるテンプルマウントと神殿の関係  4月6日


テンプル・マウントの外に神殿が位置していたことを発見した新たな研究

2007年2月11日 WorldNetDaily.com より© 2007 WorldNetDaily.com

1866年に英国の探検家によって作られた地図と、ユダヤ教のミシュナの一節を用いて、イスラエルの考古学者でヘブル大学の教授であるジョセフ・パトリッチ氏が、ユダヤ教の神殿が建っていた正確な位置を突き止めたと発表した。神殿は古代に2度建設されたが、2度とも破壊されている。

この神殿は紀元前10世紀にソロモン王によって建てられ、その後バビロンから帰還したユダヤ人によって紀元前5世紀に再建されたが、多くの学者はその神殿があった位置は現在イスラム教の岩のドームが建てられている場所であるといっている。しかし、ジョセフ・パトリック教授はその推定は間違っており、正確な位置を示す考古学的な証拠があると言う。


      西を向いているエルサレムにあるテンプルマウ
ントの上に位置するドーム・オブ・ロック

パトリッチ教授によると、神殿や外庭、部屋や門はもっと南東に向いていて、現在のテンプル・マウントに斜に、しかももう少し東よりに建っていたという。これは、神殿は東向きで、現在のウエスターン・ウオール(西の壁)にもっと近かったと主張する他の学者たちの意見とは異なっている。

しかし、この違いこそが、アブラハムがその上で息子イサクをいけにえにしたとユダヤ人が信じ、イスラム教徒はモハメッドがそこから天に昇ったと信じている「ロック(岩)」の上には昔の神殿が建てられていなかったという理由であると、パトリッチ教授は述べている。

パトリッチ教授の神殿の位置についての研究は、1866年に英国の技師であったチャールス・ウィルソン卿が、パレスチナ・エクスポレーション・ファンドのために研究した資料に基づいている。ウィルソンは現在のテンプル・マウントの下のいくつかの古代貯水槽を地図に表したが、その一つに、ローマ帝国によって紀元70年に破壊された神殿の痕跡が保存されていると教授は言っている。

ウィルソンによって地図に表された貯水槽は、幅は約4.5メートル、長さ52メートル、深さ13.7メートルで、テンプル・マウントの南東の隅に位置していたが、南東に面していて北と南にも溝が伸びていた。


北東に面している第一世紀に存在した神殿のパトリッチによる復元図。ヘブル大学の好意によるもの。(スケッチはリーン・リトメーヤー)

「今までテンプル・マウントにある貯水槽の位置とそのユニークな形が、祭壇と聖所の位置と形に由来していることを思いついた人は誰もいなかった。」とパトリッチ教授はYネットニュースに語った。

教授によれば、この貯水槽だけがテンプル・マウントで発見されたユダヤ教のミシュナに書かれているものと一致していると言われる。ミシュナは紀元3世紀に編纂されたラビの口伝集で、神殿の庭にあった祭壇で祭司たちが行った毎日の清めの儀式といけにえの務めについて書かれている。

祭司たちは、いけにえをささげるために祭壇への斜面路を登る前に身を清めなければならなかったが、その清めの水は、貯水槽から水車の原理を使って運ばれ、洗盤に汲まれたことが、ミシュナには記されている。


左図はパトリッチによる第一世紀の神殿の復元図。図中、八角形をしたものがドーム・オブ・ロック。図面は上の方向に向かって東向き。

パトリッチ教授は、水車と洗盤があった位置は、ウィルソンの地図にある南東に向いているこの巨大な貯水槽から割り出すことができ、さらにそこから祭壇や神殿そのものの位置も分かると信じている。

パトリッチ教授は、神殿は他の学者たちが推定している位置よりももっと南と東に寄っていて、テンプル・マウントの東と西の壁に対して直角ではなく斜めに建っていたと結論づけている。また、そうだとすればドーム・オブ・ロックにある「岩」は神殿が建っていた敷地の中には入っていないことになる。

パトリッチ教授は、自分の研究は全くアカデミック(学術的)なものであり、政治的意味合いが配慮されたものではないと言っている。(終わり)


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05 04月

花を咲かせる   パトリシア・キング    4月5日


花を咲かせる

パトリシア・キング



バラの花のヴィジョン

少し前のことですが、私は一つのオープン・ヴィジョン(起きているときに見るヴィジョン)を見せられました。この文章を読んでおられる方の中にもこのヴィジョンの指し示すことが当てはまる方がおられると思います。


このヴィジョンの中の私は、キッチンの窓から見える古い農家を眺めていましたが、そこに沢山のバラが植わっている庭園があるのに気がつきました。いくつかのバラは開いていましたが、ほかは堅いつぼみのままでした。バラ園の上には嵐を呼ぶような大きな黒雲が広がっていました。私は心の中で「もうじき、、」とつぶやき始めたのでしたが、「大雨になるぞ」という言葉を頭の中で考える暇もなく、そのとき天が開いて土砂降りになりました。大雨は降り続きましたが、その中で私は奇妙な光景を見たのです。

開いていたバラの花は、コップのように水で一杯になり、重くなると花は頭を下げてカラカラに乾燥した地面に水をこぼし、また、頭をあげて水を天から受けていました。

固いつぼみのバラの花は、同じ雨の下にありましたが、つぼみの周りに数滴のしずくをつけるだけでした。その時主が「開いている花は雨を受けるけれど、つぼみはしずくだけしか受けられない。」と言われました。


死海はなぜ死んだか

花が開かないでつぼみのままになっている理由は沢山あります。太陽の光が少ない、土に栄養がない、水が足らない、というようなことです。しかし、私の見たヴィジョンでは、すべての条件は調っていて、すべてのバラが同じ雨を受けていました。 同じ環境の下に置かれていたのに、開いている花と開いていない花とがあったのです。 一体何が違ったのでしょうか?

これと同じことが「神様の庭園」の中でも起こることがわかります。ある者たちは雨の中で踊り、ある者は傘をひろげ、ある者は雨を飲み、又他の者は水の成分を知りたがり、ある者は溺れることを恐れ、ある者は旱魃を恐れます。結論は「けちけちしている人」からは何も得られないということです。彼らは豊かなのですが、自分の持っているものをしっかりと握りしめ、それを必要としている人たちに分け与えようとはしないのです。死海が死んだのもそれが理由です。

あふれ出すことの大切さ

ヨルダン川から良いものがすべて死海に流れ込むのですが、そこから出ていくものは何もないのです。それで水は澱み死んでしまうのです。それと同じように、キリストの身体の中でも、霊的水ぶくれは非常に嫌われるべきものです。私たちはすでに生ける水で一杯なった身体でざぶざぶと音を立てながら集会に集い、もっと水を受けようとするのです。乾いている人のためにもっている水を分け与えようともしません。その結果はもっとも悲劇的なものとなります。即ち、つぼみが固く閉じていて、雨を受けることが全くできない状態になるのです。これは自分で飢饉を招いている姿です。


言葉は影響力がある

神の子供たちが花を咲かせない理由はいくつかあります。恐れや、無視されたとか、拒絶された、裏切られた、妨害された、虐待された、批判されたというような経験が原因となります。批判は創造性を殺してしまいます。たった一言のひどい言葉でそれを言われた人の賜物は窒息してしまいます。互いにかけ合う言葉は、その人を育てる肥料になるか、あるいは殺す毒になるかのどちらかなのです。殺す力のあるような否定的な言葉を受けると、私たちは自分を固く閉ざし、やがて干上がってしまいます。

神さまは花は咲くように造られたのです。花は、開くと無防備になり攻撃されやすくなります。その花のすべての良さがあらわになり、隠れたところがなくなります。飢えたひとのためには食糧となり、乾いた人のためには飲み物となり、家のない人のための宿となり、見るに美しく、新鮮な空気を与えます。(実際に植物は炭酸ガスを酸素に変えます)これが主から与えられた私たちの仕事であり、この世でするべきことなのです。

また、私は植物に話かけると良く育つことも知りました。ディボーションのときを持つのはまさにこのためです。神様はあなたに話けられ、あなたは必ず成長します!後の雨が降り始めています。ですからつぼみのままでいないで花を開いてください。(終わり)


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01 04月

リック・ジョイナー師の幻とデイビッド・ウイルカソン師のメッセージ 坂 達也 4月1日


リック・ジョイナー師が見た幻とデビッド・ウイルカーソン師のメッセージ

 私はつい最近、アメリカの代表的クリスチャンリーダーとして預言的な働きをされている著名な二人のメッセージに接することが出来ましたので、ご報告したいと思います。
 二人のメッセージに共通した点は、どちらも教会に対して迫り来る終末への警告と、教会が今なすべきことは何かと言う本質論に触れていることです。最初に、リック・ジョイナー師の記事をご紹介します。

最新号のモーニングスター・プロフェティック・ブルティンに、リック・ジョイナー師が最近見た幻について書いていますので、それを手短に要約します。

彼が幻の中で一つの道が二つに分かれる分岐点に立っていると、そこにトーチを掲げ生きた「自由の女神」のような人がいることが分かりました。しかしその灯は弱々しく、顔は困惑と混迷に満ち、歩いている足はほとんど前に進んでいませんでした。彼女は分岐点からどちらの道に進めばよいかで迷っておりました。道の傍らに標識があり、それには「一方の道を進めば国は益々弱まりやがて破局を迎えるが、もう一方の道を選べば国は強くなり、前よりももっと輝く将来がある」と書かれていました。問題はどちらの道がそうなのかが書かれていないことでした。その標識には又、「この分岐点に長く立ち止まって迷えば迷う程、間違った道を選ぶ可能性が強まり、その道が強いられる」とも警告されていました。そしてこの自由の女神のような人は今にも間違った道を選ぼうとしていることが明らかでした。

よくよく見ると自由の女神がそこまでたどり着いた道には多くの過去の偉大な国とか帝国が歩いた足跡があり、この分岐点で皆立ち止まり、そして皆が間違った方向に進んで行った足跡が見えました。しかし、もう一方のもっと繁栄すると言われる道には誰の足跡を見ることが出来ませんでした。そこで間違った道の方をよく見ると、その道には次の曲がり角までは道がよく見えるように街灯がつけられていて、この道こそが正しい道のように思えて来るのでした。それに反し片方の道は暗くて狭く険しい道のように見えました。

迷っている自由の女神のような人は、弱り切った手に持ったトーチが重そうで、今にも掲げているその手を下ろしそうでした。そしてかろうじて掲げているそのトーチの光は非常に弱々しいものでしたから、明るい街灯がついている道を選んでしまう誘惑に勝てそうもありませんでした。それを見てたまりかねた私は、彼女の側に駆け寄り、今にも落としそうなトーチを掲げている手を握りしめ、もっと真っ直ぐ上に掲げるのを助けました。すると弱々しかった光が輝きを取り戻し、暗い道に光が当り始めました。

私は次に彼女がもう一方の手に抱えてはいるが今にも落としそうな書き板(タブレット)をしっかり持ちなさいと励ましました。今の彼女に必要なものは確かなビジョンと自信と決意(やる気)であることが私にはよく分かりました。

私は彼女がここまで到達するために過去にやってきた業績を称え、これからも道を間違えなければ、今までどの国もどの帝国も成し遂げたことのない輝かしい将来に進むことが出来ると言って彼女を励ましました。彼女はそれを聞くと顔を明るく輝かせました。しかし、彼女はどちらの道に進むかの決断を躊躇しており、それが間違った道への選択に彼女を追いやらんとしていることが明らかでした。

この幻の解き明かしとして、ジョイナー師は自分が見た幻は明らかにアメリカを指し、アメリカは今、国の興亡に係わる重要な分岐点に立っていると言います。そして幻に現われた彼自身は、現在の教会を代表しているような気がすると言っています。以下はジョイナー師の文章の要約です。

「それはちょうどアロンとフルがアマレクに勝つためにモーセの挙げている手を支えた(出エジプト17:12)のに似ていて、今のアメリカに必要なのは教会が国家のためにもっと祈りとりなしをすることです。又、この国が今必要なのは預言であり、それによってアメリカが将来に対する確固たるビジョンを得ることです。それによって、険しくて孤独ではあっても勇気をもって正しい道を選ぶことが出来るからです。そのために自由のトーチを掲げているのであって、今こそそのトーチを高く掲げなければならない時です。

アメリカは神の御国ではありません。又神との特別な約束(契約)の関係にある国でもないので、国が滅びないという保証はありません。神が特別の契約をしている国はイスラエルと教会(ホーリー・ネイション、神の御国)の二つしかないのです。

しかしながら、アメリカは建国の時に建国の父たちによって主に捧げられた国であることにおいて、他の多くの国と違います。神に捧げられたものは総て聖いので、アメリカが神の名を冒涜するような国になるのであれば、神はそうなる前にアメリカを滅ぼされるでしょう。又、神に捧げられた聖い国であるがゆえに、他の国がそれをしても神の怒りを逃れられることでも、アメリカがすれば許されない場合が多いのです。

神はアメリカを神に捧げられた「聖い国」として扱われるので、それだけ厳しい懲らしめを受けねばなりません。しかし、そのことはむしろ喜ぶべきことであって、神が懲らしめるのは神に見捨てられていない証拠です。

そのことがヘブル12:7-13に書かれています。『訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。』

主はこれから益々アメリカを厳しく懲らしめるでしょうが、それ
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