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Walk With God Ministries

07 03月

この木なんの木    坂 柚実子   3月7日


この木なんの木

日立の企業シンボルである樹齢100年を越すモンキーポッドの木をはじめて見にいきました。先週日本から遊びにきていた高校3年生の小西響児(きょうじ)君が見たいということで、出かけたのです。
それは、うちから15分くらいのモアナルア・ガーデンにありました。確かにとっても素敵な木です。次々に日本人の観光客がバスやリモジンでやってきます。響児君が言うように、これが日本ならば、入り口で入場料を取ったり、木の前には立て札が立ち、お土産屋が並び、もしかしたら木のまわりは注連縄で飾られるかもしれません。でもここには何にもありません。ただ木があるだけですから、あまりすることもなく、みなさんそんなに長くはいないのですが、みんな一様に写真をとり、木の肌を触り、とっても嬉しそうにしています。



ハワイの住民はこの木がそんなに日本人に人気があるとは誰も知りません。モンキーポッドの木は島中に何百本もあるのですから無理もありません。でも最近日立がこれから更に10年間、独占的にこの木を広告に使うという契約を年間40万ドル(5千万円くらい)で庭園の持ち主と結んだということで、地元でも報道されました。庭園の管理は年間60万ドルかかるそうですが、この庭園は入場料はなく、誰でも自由に入れます。

響児君が、「ハワイの観光地で日本人しかいないのは、多分ここだけだろう。」といいました。うーん、なるほど。日立の木の周りに吸い寄せられるように集まる日本人。勿論日立の広告をテレビや雑誌でいつも見ているからでしょうが、それと共に大きな美しい木を愛でる思いが日本人は特別深いのかもしれません。まことのいのちの木なるイエス様の周りに日本人が沢山集まっている姿を思い浮かべたことでした。(終わり)


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02 03月

心の聖い者  キャシー・ペルトン    3月2日


心のきよい者
キャシー・ペルトン


「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。マタイ5:8」

過去数ヶ月、この聖句が私の心に何度も響いてきました。私は主に「心のきよい者とはどのような人のことですか?」 と尋ねはじめました。

しかし、本当はそのような質問をするのではなく、素直に「主よ、きよい心をどうか与えてください。」と主にお願いするべきだったのです。しかし、神は常に誠実であられ、私たちが自分の思いを口にする前にすでにご存知な方です。 主は私がきよい心を持ちたいと願っていることをわかってくださり、すぐに私の心を取り扱い始めてくださいました。ほとんどの人がそうだと思いますが、私も毎日の生活の中にストレス、問題、苦難を歓迎したいとは思いません。しかしながら、それが私の心をきよめるための熱い精錬の火として、まさにその時必要なものであったということが、後になってわかるのです。私たちが大きな艱難を通るときには、自分が内に持っている最高のものと最悪のもの両方が、たちまち表に現れてくるようです。

人生のプレッシャーがきよさを生じる

私は最近、様々なところを通らされてきましたので、それをお話したいと思います。それらの体験は私の心に侵入してきて、私の神を見る視野を塞いでしまったのです。

過去6ヶ月のうちに、私の身辺で多くの変化とチャレンジがありました。まず私たち家族は主の導きに従って、カナダでのミニストリーを後にしてカリフォルニアに戻りました。主からそのように示されたのですが、その理由ははっきりとは告げられませんでした。カナダからアメリカに国を超えて引っ越し、主人はミニストリーではない普通の仕事につきました。私は二人の子供をホーム・スクールで教えながら、ミニストリーで海外にも出かけていました。そういう時にいろいろな事件が起こり始めたのです。私は肺の病気になり、2ヶ月間はかなり重い症状でした。(今もまだ治療中です。)次に、私たちのとても親しい友人が自殺をしました。そして3週間前には私たちの家が家事で燃えてしまいました。確かに試練の火は非常に熱く、きよめがすばやく起こったといえるでしょう。

心の中の不純なものというのは、道徳的な罪だけではありません。人生上のストレスや困難は、往々にして私たちの心の中に不信仰、落胆、失望という思いを起こさせます。このような思いは神をはっきりと見るための私たちの視野を塞いでしまうので、それを神は非常に案じておられます。これらの否定的な思いは、道徳的な罪(根本的な心の問題を解決しないときに起こることが多い)と同じように私たちの心の目を塞いでしまうのです。

私の場合、カナダのミニストリーを引き上げたことは、私が持っていた自分のアイデンティティーの問題を浮き彫りにしました。私はキリストにしっかりと根ざしたものではなく、個人的にどれだけ事を成し遂げたかとか、自分の仕事を人がどのくらい評価してくれるか、というところに自分のアイデンティティーを見出していたのでした。また、ホーム・スクールは私の完全主義を露呈し、私は自分や周りの者をコントロールしようとしてしまいました。親しい友人の自殺は、私の心の中に残っていた失望感、罪悪感、絶望感を新たに浮かび上がらせました。そして家の火事は、キリストの身体なる教会に対して私の心にしのびこんでいた批判の思い、裁く心を表面化させたのです。

霊的な目をくらませる根

皆さんは、火事がどうして教会に対する批判(裁き)の心を呼び起こすのかといぶかしく思われるかもしれません。恐れとかパニックなら分かるけれど、どうして批判を呼び起こすのか、と。その理由はこうなのです。

ミニストリーに携わっていた数年の間に、ある人たちが非常な困難の中で緊急に助けを必要としているにもかかわらず放っておかれているのを見てきました。そして深い悲しみを覚えていました。困窮生活を送っているシングル・マザーを助けようとはしないで、巡回してきた預言者に何千ドルも教会は献金しているのでした。勿論ミニストリーに献金するのは悪いことではありません。ただ私は、やっとの思いで毎日の生活を送っている主に忠実な人々(往々にして彼らがもっとも献金をしているのですが)がひっそりと孤独を感じているのを見て、悲しみを覚えていたのです。

私が教会に対して幻滅を感じていたもう一つのことがあります。4年間私は祈りの家のディレクターをしていましたが、そこには多くの「祈りのミッショナリー」が訪れてきました。彼らは自分のものを全部ささげて国々のためや失われた人々のために祈っていました。しかし、彼らは十分な献金のサポートを受けることが出来ずに非常に貧しい生活をしていたのです。彼らの母教会は、「残念ながら経済的サポートはできませんが、あなたのために祈っていますからね。」ということが多いのです。

これらのことに対して腹を立てるのは、決して正しいことではありませんが、私の心の中に教会に対する裁きの根が張り始めたのが分かりました。私は教会を裁きの思いを通して見るようになりました。意識的に「裁く」とある時点で決意したというわけではないのですが、裁きの思いが徐々に静かに私の心にしのびこんできて、気がついた時にはしっかりと根を下ろしていたのです。けれども、我が家が火事になったときの教会のすばやい愛の対応により、裁きの思いは私から振り落とされてしまいました。私の心がきよめられるために火事が必要だったのです。

カリフォルニアに引っ越したときも、私はあちこちとミニストリーで旅行をしていたので、大変忙しく、主人も私も借りた家に対して「賃貸人保険」に入ることを不注意にも怠っていました。ですから火事になったときにすべての持ち物に保険はかかっていませんでした。火事から一時間くらいたったとき、私は自分の車の中に座り、ただ涙を流し、神に助けを呼び求めました。

神は助けてくださいました! どのようにしてでしょうか。それは主の麗しい「身体」を通してでした。いろんな教会、町、そして外国からも、火事のことを聞いた人たちが助けてくれたのです。まず数時間のうちに人々は私たちがとりあえず必要なものを持ってきてくれました。毛布、食べ物、水等です。特に長女は火事で持ち物すべてを失ったのですが、人々は彼女を買い物に連れて行ってくれて、新しい洋服を買ってくれました。

しかし、「キリストの身体」に連なる人たちの親切はそれだけではありませんでした。火事のあとの家
22 02月

魂の静かな刈入れ  フランシス・フランジペン  2月22日


魂の静かな刈入れ

フランシス・フランジペイン


死に面している人の夢を見た

数年前に、私は今にも死ぬという男の人の心の中に自分がいるという夢を見ました。その人はもうかなり昏睡状態が続いていました。彼の家族はずっと彼の救いのために祈ってきたのですが、彼がキリストを受け入れたのかどうかは分かりませんでした。彼らに分っていたのは、キリストを信じるようにと語る家族の説得に、彼が生涯抵抗し続けて来たということだけでした。

夢の中で、私は彼の心の状態がはっきりと分かりました。彼の考え、感情、葛藤があたかも自分のことのように感じられたのです。彼の目はほんのわずかしか開いておらず、回りをぼんやりとしか見ることは出来なかったのですが、彼の愛する人々がベッドの傍らにいるのは見えました。彼は愛する家族の方に手を伸べようとするのですが、彼の腕は全く動きませんでした。

彼は彼らの名前を呼ぶのですが、彼の唇からは何のささやきも出て来ませんでした。 彼の手をとっていた人が「もし、私の声が聞こえるなら手を握ってちょうだい。」と言いました。彼にそれは聞こえたので、自分の指でその人の手を握ろうとしましたが、実際にはその指を少しも動かすことはできませんでした。彼の手はぐったりとして力の入らないままだったのです。彼に意識はありました。彼らの祈りを聞くこともできましたし、彼らが彼の顔に接吻するのを感じることもできました。しかし、それに対してなんらかの応答を身体で示すことは彼には出来なかったのです。

今までの生涯の間心をかたくなにしていたプライドと防衛心は彼からもはや消え去っていました。肉体の破局が彼を圧倒していました。死が近づき、自分が永遠という時間に直面する用意が出来ていないことを、彼は悟りました。外面的には冷静に見えましたが、内面では彼の魂の激しい争奪戦が起こっていたのです。そしてその戦いは主の勝利に終わりました。神の執拗なまでの愛に征服されて、彼はついに平安を得たのです。彼は入院してから、キリストを自分の救い主として受け入れる祈りを静かにしたのです。彼の身体からいのちが無くなろうとするとき、彼が自分は救われたことを何とかして愛する人たちに伝えようとするのを、私は見ていました。

突然、計器の音が部屋の静寂を破って響きました。彼の心臓が最後の鼓動を打ったとき、私は死んだ男の身体を上から見下ろしていました。病室では看護婦が忙しく立ち働き、家族は部屋の隅で抱き合いながら悲しみ嘆いていました。愛する者がキリストを受け入れないで死を迎えたということが、死そのものよりももっと彼らにとっては辛く耐え難いことでした。私の心は動かされ、そのときに夢から覚めました。しかし目覚める直前に主が、「彼はわたしと共にいると、彼を愛する者たちに伝えなさい。」と私の心に語られたのです。

神は慈しみ深い方

私がこの夢を見てからもう数年が経ちましたが、愛する人がキリストを受け入れないまま死んでしまった、という深い心の痛みを持ち続けているクリスチャンが大勢いるという事実に、私はますます気がつくようになりました。勿論私の見た夢がすべての人に当てはまるわけではありませんが、この夢を通して神が語りかけておられる人々がいるのです。そのような人の心には聖霊がその確証を与えてくださるという保証を私は受けたので、この夢を皆さんにお伝えしています。

そして、この夢を人々に早く伝えなければならないという思いに私は駆られています。主はあなた方に重要な仕事をしてもらいたいと願っておられるのです。しかしながら、あなたの愛する人が救われないで死んだということを敵が使って、あなたの魂に疑いの種を蒔いたのです。あなたは愛する人の死を悩むばかりではなく、神の愛や祈りの力に関しても疑いを持ってしまったのです。その結果、神に対する確信が弱くなってしまっています。しかし家族のほかのメンバーのためにも、今こそあなたが確信をもってしっかりと立たねばならない時です。

愛する皆さん、人生には分からないことが沢山ありますが、分からないことによって分かっていることまで曇らせてしまってはいけません。神は慈しみ深い方です。神は私たちの罪のためにひとり子をこの世に送ってくださった程に私たちを愛してくださっている方です。イエス様は「わたしを見たものは父を見たのである。(ヨハネ14:9)」と言われました。私たちがキリストを見るとき神を見るのであり、神は私たちを愛してくださる慈しみ深い方であることを知るのです。

又、私たちは愛する人を事故などで突然失うことがあり、そういう場合は悔い改めたり神に立ち返ったりする時間は彼らにはないように思えます。しかし、臨死体験をした人たちのことを思い出してください。彼らは、目のまえに自分の人生がすべて映し出されるのを見たといっています。その時には、時間が止まってしまうかのようなのです。突然の死と思われるようなときにさえ、時間は非常にゆっくりと進むのだと私は思います。この特別な状況の中では、自分の人生をじっくりと顧み、決心し、主の名を呼び求める時間さえも与えられることが確かにあるようなのです。

人生には私たちには分からないことがありますが、一つのことは永遠に真実です。それは、神は私たちを愛してくださる父であるということです。神は人が一人でも滅びることを望まず、私たちの救いのために、私たちの死に瞬間まで戦ってくださいます。ですから、重荷を主に委ねましょう。主は心から私たちのことを思ってくださっているのですから。そして私たちの前に備えられたレースを忍耐をもって再び走ろうではありませんか。なぜならば、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:16)」と主は約束されているからです。

祈りましょう。
「主イエス様、私の罪のために死んでくださって有難うございます。主よ、多くのことが私にはわかりません。しかし、あなたが良き方であることを私は知っております。私に理解できないことはすべてあなたにお委ねいたします。私の人生をあなたにお任せし、私の愛する者たちをあなたの御手に委ねます。」〔終わり〕


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18 02月

キリストの思い  フランシス・フランジペン  2月18日


キリストの思い―無私の愛の態度―を持つ
フランシス・フランジペイン

Iコリント2:15,16「しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか』。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」(口語訳)

これは新約聖書の中で最も驚くべき言葉の一つです。私たちが肉的な嫉妬や恐れ、不信仰というような思考から解放されて、その代わりに「キリストの思い」を持つことが実際に私たちに可能である、とパウロは語っているのです。この論理は非常に深く素晴らしいものです。主に関して教訓的な教えや真理を教わるということと、実際にキリストの思考を持つのとは、実際、全く違うことです!
パウロは次のように言っています。

Iコリント2:11-13「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。」

私たちが新生したとき、自分の霊の中に神の御霊を受けます。霊的な人というのは、その人の中で神の霊が優勢になった人のことです。霊的な人はすべてのことをわきまえるdiscern、あるいは見極めるappraiseことが出来るとパウロは言っています。いくつかの聖書はこの言葉を「裁く judge」 と訳していますが、それは非常に残念なことです。というのは、ある人たちは、ここに「裁くjudge」という言葉があるので、批判的になってもいいと受け取ってしまっているのです。そしてそういう批判的な態度こそが霊的であると思ってしまっているのです。

神は私たちが人を裁き批判的になることを喜ばれません。そうではなく、私たちが物事を識別し見分けることを望んでおられます。実際のところ、霊的な人とは、批判的な態度を捨てて、その代わりに人を赦し人の罪を贖っていく態度を持つ人のことであり、それこそがキリストの思いなのです。イエス様はいのちをどのように考えておられるでしょうか? この世界の不完全さをどのように見ておられるのでしょうか?

キリストの態度―無私の愛

パウロはピリピ2:5-8で次のように言っています。

「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」

キリストの取られた態度は単純明快でした。主は人類が堕落し神に反抗している状態を見て、それを救うために必要なことをすべてされたのです。この世は裁きを受けて当然だったのですが、「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」と言われました。(ヨハネ12:47)そして、この贖いのわざを広めるために「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われたのです。(ヨハネ20:21)

神の御子はこの世の必要を見られたので、ご自分を無にしてそれを満たされました。神としての存在、特権、力、地位をすべて捨てて人のかたちをとられました。そして更にご自分を卑しくし死にまで従い、私たちの永遠の救いを確保されました。これこそが私たちが持つべき「キリスト・イエスの思い」なのです。
無私の愛という性質から生まれ出るのがキリストの思いです。私たちは人のためにいのちを捨てるために召されているのだ、ということを受け入れた瞬間に、キリストの思いを持つこととはどういう事かを理解し始めるのです。

霊的な人はすべてのことをわきまえ、判断します。彼は必要とそれに対する答えがわかります。そして救いを達成するために必要なものとその答えとの間の橋渡しとなることをためらいません。霊的な人は識別力があります。彼は人間の心の動きを知り、人は悪魔のたくらみに引っかかりやすいことや、傷つけられたときはなかなか立ち上がれないことも知っています。霊的な人は自分に対して神が恵みを下さったことを知っているので、他の人にも解放が来るように自ら犠牲を喜んで払うことができます。

愛する皆さん、あなたの持っている動機が愛であり、希望によって導かれているならば、また、キリストに似たものとなりたいと望み、へりくだることを愛し、人に対して腹を立てずにいるならば、あなたはきっと神の思いを見つけ出すことでしょう。あなたはキリストの心を勝ち取り、所有しているのです。

祈りましょう。
「主イエスよ、私はあなたと同じような考え方をしたいと、どれほど願っていることでしょうか。主よ、あなたの心を持ち、あなたの思いで動かされたいと願っています。主よ、どうかもっと聖霊様のご性格を受けることをかなえてください。神が私の周りでおきていることをどのようなお心で見ておられるかを私は知りたいからです。
あなたの栄光のために祈ります。アーメン」(終わり)


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16 02月

鈴木さんと乙武さん  坂 柚実子  2007年2月16日


鈴木さんと乙武さん

先週「五体不満足」を書かれた乙武洋匡さんがハワイに来られました。
友人の結婚式に出席されるためだったそうで、奥様とご一緒でした。
私はお会いするチャンスはありませんでしたが、教会の鈴木さんにいろいろと様子を聞かせていただきました。鈴木さんのメールをご紹介します。

「乙武さんの写真です。
彼はいつも写真のようにニコニコしています。
車椅子への乗り降りは自分で、ペンは肩と顎にはさんでサイン、
写真はカメラを肩と顎にはさんで舌でシャッターを押します。
食事もフォークを肩と顎にはさんで自分で、車椅子の操作は
私の手元にある木のレバーに顎を乗せ左右、前後、上下の操作をします。
全く見事です。」




乙武さんと写っているのが鈴木さんです。
鈴木さんはハワイで障害者のためのリムジン・サービスの仕事をされています。
彼は心をこめてお客様のお世話をされ、「彼らが障害にめげずに家族が愛し合い助け合っている姿を見ていると、こちらが励まされます。」といつも言われます。
ハナウマ・ベイのツアーもしておられますが、お一人お一人の身体の状態にあわせて様々な工夫が必要なようです。苦労の甲斐あって海に浮かんで海中めがねで魚を見たお客様が大喜びされるのを見るとき、彼の胸も喜びで一杯になるそうです。
鈴木さんの中にあるキリストの愛にきっと多くの方が暖かいものを感じられると思います。
お客さんたちは帰国するときは、みんな鈴木さんの「お友達」になって帰られるそうです。
素敵なお仕事ですね!(おわり)


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