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Walk With God Ministries

07 02月

夢と計画が実現する年ー2007年 ボブ・ホッチキン 2月7日


2007年―夢と計画が実現するように
ボブ・ホッチキン


2006年―自分の考えが死なねばならなかった年

最近私は、主が2007年に何を計画されているのかを尋ね祈っていました。そして主が、今年は「夢と計画が実現する年である」と言われたように感じました。
2006年には、多くのクリスチャンは、主が私たちの心に与えられたことを祈りに祈り、宣言に宣言をし、信じに信じてきました。しかし、多くの者にとっては期待したように物事が起こらず、その経験は様々な疑問や苦しみをもたらす結果となりました。 彼らが、きっとこのようになるだろう、と想像し期待したようなことは起こらなかったのです。

けれども、落胆してはいけません。神は私たちを無視されたのではありません。私たちを忘れたのでもありません。私たちを捨てたのでもありません。主はご自分がどのような方であるかを示す、より大きな啓示を受けられるように私たちを整えておられたのに過ぎないのです。もっと大きくて素晴らしいものを受けられるように、私たちを準備しておられたのです。

2006年は、私たちが「神はこのようにされるであろう」と考えていた自分勝手な思いが死ぬのを、神が許された年だったのです。
私たちが信じるように主が与えてくださった夢や計画が死んでしまったのではなく、ただ、主はこのような方法でこのようにしてくださるだろう思い描いていた「自分の考え」が死んだのです。それは主がもっと大きくて素晴らしいことをなされるためです!

しばしば、自分の計画や約束が実現しないとき、その約束は反故になってしまったと私たちは思ってしまいます。そうではありません。それは、私たちが神をもっと偉大な方として見ることができるようにと、神がそのように事を動かしておられるのです。神は私にいつももっと大きな規模で神は事をなすことを期待するようにといわれますが、それが「どのような方法で」、「どのように実現するか」を自分で決めてそれを期待してはならないといわれます。とかく私たちは、神はこのようにすべきだとか、いつそれをすべきだ、とか知っているように感じてしまうのです。

「神はこういう方である。」、と私たちが決めてしまって自分自身を閉じ込めてしまっている箱の中から、私たちを解放して、主はとてつもなくすごい方であり、無限な方であることを、主は私たちにもう一度知らせたいのです。なぜならば、ただ単に神の約束が実現することではなくて、神が約束を実現してくださるとき、それによって神ご自身がどれほど偉大な神であるかを知ることが、私たちの心の奥からの真の願いであると、主は知っておられるからです。

主は私たちを驚かすのが好きなのです。主は約束されたことを、ご自分がどのような方であるかをもっともよく表す方法で実行したいと思っておられます。私たちが「主の道は我々の道より高い」ことを知って信仰にとどまり、祈りと賛美をもって神を敬い続けるならば、2007年こそ「夢と計画よ、出て来なさい!」と主が叫ばれるのを聞く年となるのです。そしてその現われ方は、神の素晴らしい新しい一面を私たちに示すものであり、それによって私たちは以前にも増して、主を称え、愛するようになるでしょう!

ラザロの復活

ヨハネ11章にラザロの復活の話があります。ラザロとその姉妹マルタとマリヤはイエスの親しい友でした。主は何回も彼らを訪れています。マルタはイエスのために料理をしました。マリヤはイエスの足元で主をあがめて座っていたり、また、香油をイエスに注いで自分の涙と髪の毛で主の足を拭いこともありました。この家族は心から主を愛していたのです。そして彼らは主から愛されていることも知っていました。実際、ラザロが病気になったときイエスのもとに遣わされたものは、「あなたが愛しておられる者が病気です。」といいました。(ヨハネ11:3)

彼らは、主を愛していたばかりではなく、主をよく知っていました。彼らは主がメサイヤであることを知っていました。主が神であることを知っていました。そして、彼らに助けが必要なときには、主は必ず来てくださることを知っていました。ですからラザロが病気になったとき、マルタとマリヤは、私たちと同じことをしました。祈ったのです。つまり、主に言葉を送ったのです。彼らはイエスが自分たちを愛しておられること、主が癒し主であること、主がよい方であり神であることを知っていたので、マルタとマリヤは主がすぐに来られて助けてくださると期待しました。

神は私たちが「主は必ず助けてくださる。」、と期待することを望んでおられます。主は信仰に報いてくださる方です。しかししばしば、主の方法とタイミングは私たちにとって初めは理解しがたいときが多いのです。
イエスはこの家族を愛しておられました。主が私やあなたを愛しておられるのと同じように、完全に永遠に、そして熱情をもって愛しておられたのです。ヨハネ11:5には「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とはっきり書いてあります。 主は彼らを真に愛しておられた故に、彼らが助けを求めたときに(主が彼らの祈りを聞かれたとき)主はすぐには来られなかったのです。(ヨハネ11:6) これはちょっとおかしいのではないでしょうか。私たちにも、マルタやマリヤにとっても不可解なことでした。しかし、神にとっては「全くよいこと」だったのです。


イエスはマルタとマリヤを心から愛していたからこそ、彼らの祈りに対して彼らが予想したような対応をされなかったし、また、彼らがいいと思うタイミングにはされませんでした。主は彼らを愛していたのでラザロがこの病気で死んでしまうまで待っておられたのです。それがマルタとマリヤにとって(勿論ラザロにとっても!)大変な事態であることを主はご存知でした。彼らが予想し期待したのとは全く違う事の展開であることも知っておられました。主のご計画は、彼らが主とはどう言う方であるかを、もっと深く知るための啓示をもたらすことにあったのです。

神は、このように私たちが困難な苦しいときを経験することを許されるのです。主は私の祈りを聞いてくださらなかった、答えてくださらなかった、信じてきた主の約束は死んでしまった、と感じる苦難のときです。それは、主が私たちが想像もしなかった方法で現れてくださり、主が私たちにとってどのような方であり、どのようなことをしてくださるかをもっとよく知らせるためにそうされるのです。

マルタとマリヤは、イエ
03 02月

愛の道具   坂 柚実子  2月3日


愛の道具

私はインターネットで楽天家庭農園のサイトを見ています。ハワイに来てから畑をしているので参考にさせてもらっています。畑で野菜や花を作っている人たち同士の会話は、お天気や土つくりの話等で、ややこしくなく心が和みます。人が土や野菜と語りながら時間をすごくことは、心のバランスを保ってくれるようですね。

私の母の畑は、花や野菜と共に、雑草も同じように愛されて大きな顔をしているような畑でしたが、私たち5人の娘(私は末娘です)はみんな花を愛し土と親しむことを教えてもらったようです。
先日一番上の姉からこんなEメールが届きました。

「 おはようございます。
この花は教会へ行く道に咲いている素心蝋梅(ソシンロウバイ)
です。もちろん知っていますよね。とてもよい香りです。
教会に行く時、立ち止まって見ていたら、その家の方が
枝を切ってくださいました。教会に持っていって、ピンクの
チューリップといっしょに花瓶にさしました。
その日は寒かったのですが、会堂の中は春が来たようでした。」




      


姉がこの花を何分立ち止まって見ていたのか知りませんが、お家の方が気がついて枝を切ってくださったなんて、本当に素敵ですね。
ちょっと映画の一こまのような、ほのぼのとした気持ちになりました。

これで思い出したのが、オレゴンの友人夫妻のことです。
彼らは自分たちの家の農地のように広い敷地に野の花の種を沢山蒔きました。花が一面に咲いたころ、柵に「Make Your Own Bouquet どうぞご自由に花束をお作りください。」という看板をかけ、花ばさみもかけておきました。その道を通る人たちが大喜びで好きな花束を作っていきました。そして多分誰かが持っていってしまうだろうと思っていた花ばさみも、なくならなかったそうです。彼らの純粋な心が人々にも通じたのでしょう。

「小さなかごに花をいれ さびしい人にあげたなら
 部屋に香りみちあふれ くらい胸もはれるでしょう
 愛のわざは小さくても 神の御手がはたらいて
 悩みの多い世の人を  明るく清くするでしょう
                    グラント・テュラー」

マザー・テレサは「小さなことを大きな愛をもってしなさい。」といわれたそうです。花は愛の道具として神様が作ってくださったのかもしれませんね。(終わり)


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01 02月

主の剣のシーズン―勝利へと前進せよ! ボビー・コナー 2月1日


主の剣の年―勝利へと前進せよ!

ボビー・コナー


過去12年間、贖いの日(the Day of Atonement)に毎年主イエス・キリストが私に現れてくださいました。主とのこの預言的な出会いによって私は世界に起ころうとしている出来事に対する洞察を与えらてきました。

勝利に向かって進む

去年の贖いの日、私は静かに主を待ち望みはじめました。突然、大きなヒュッヒュッという音で静けさが破られました。すばやく私は右肩越しに振り返って見ますと、そこには非常に強烈に輝く光があり、目がくらみました。
真昼の太陽よりも強い光でした。この光の中に主が右手にキラリと光るかみそりのように鋭い抜き身の剣を持って立っておられるのが見えました。主は剣を頭上高く掲げ、主の口から力強いはっきりした命令が放たれました。

「進撃!勝利に向かって前進せよ!」主の声には大変な力があったので、天と地が揺るがされました。

 神の御霊は、私たちが霊的なまどろみから目を覚まして立ち上がり、持ち場について前進するようにと鼓舞しておられます。前進とは、前に進むことです。真理の御霊は私たちが進むべき道をはっきりと示してくださいます。私たちが目指すところは「キリストに似た者となる」ことであることを先ず理解せねばなりません。主のご性質を十分に頂いたとき、初めて私たちは苦しんでいるこの世界を愛することが出来るのです。この愛によってのみ、私たちが主の弟子であることをすべての人たちが知るようになるのです。

ヨハネ13:34-35「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

正義と裁き

真理の御霊は「主の剣」に関する洞察を与えてくださいます。万軍の主を仰ぎ見る備えをしなさい。

ヨシュア5:14「すると彼は言った。『いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」」

又、御霊は神の義、神の裁きについても理解を与えてくださいます。

さて、ヴィジョンの続きをお話しましょう。主が剣を高く上げられているのを見たとき、主が正義と裁きを実行しようとされておられることは明瞭でした。しかし、主の意図されるところが何であるのかは分かりませんでした。私の心臓があまりにもドキドキするので身体中が震えました。一人の人が身体を様々な縄やチェインで縛られているのが見えました。主が彼に近づかれるのを私はじっと見ていました。私は直観的にその人が今の教会を現していることを悟りました。剣を高く上げ、主は今にもその人を打つように見えたので、私は思わず大きな声を出してしまいました。

「おお、主よ、今はあなたの大いなる裁きのときなのですか?」と私が叫ぶと、主は力のこもった確信のある声で、「いや、そうではない。私は剣を抜いて正義をもたらそうとしているのだ。剣は罪の束縛の縄を断ち切り、神の民を解放し、戦場に馳せ参じるようにするのだ。」といわれました。

主の剣と剣の主

私たちは今すでに、主と御霊の剣のシーズンに入っていますので、数年前に私が経験した預言的な出来事をお話したいと思います。この主との出会いを思いだす度に、私の心は、もっと親密に主と歩みたいという願いで掻き立てられます。なぜならば、主が私たちの人生に最高のプランと目的を持っておられるの私は知っているからです。私たちは心からの祈りは、「主の剣と剣の主に関するもっと深い理解を与えてください。」というものであるべきなのです。

カリフォルニア州サン・ジョゼにいた2001年2月22日の未明のことですが、私は鮮明な夢を見ました。それは非常に生生しく強烈だったので、衝撃をうけて私は目を覚ましました。時計を見るとキッチリ2時22分でした。かなり長い間その夢について思いを巡らしていたのですが、やがてまた深い眠りに落ちました。本当に驚いたことには、5時55分にまた、全く同じ夢を見たのです。前にもましてそれは強烈でした。

全く同じ夢を2回見たという事実に私は衝撃をうけました。非常に驚いたので、ノース・キャロライナにいる預言者仲間のボブ・ジョーンズに電話をして、夢の話をしました。ボブは私の電話に少なからず驚いたようでした。そして「信じられないと思うけど、私もほとんど同一の夢を昨夜見たんだよ!」というのです。

神が同じ夢を複数の人に与えられるときは、それに注意を払うことは非常に重要です。神の御霊が同じことを語っておられるからです。聖書には、すべての事実は二人または三人の証人の口によって確認されると言っています。(IIコリント13:1)

私と一緒に次の祈りをしてください。
「神よ、御霊が教会に言っていることを聞く耳をください。そしてあなたの召しに喜んで応える心をください。」

夢の内容

私は大勢の人の中に立っていました。それは空港の中の通路のような広い通路でした。人々はお互い同士挨拶をしたりお喋りをしたりしていました。そこにいるだけで十分満足している様子で、そこからどこかに行くことは頭にないようでした。
突然、13メートルほど向こうにイエス・キリストが現れました。人々は主が近づいてこられるのに全く気づかず、無関心で、くだらないお喋りを続けていました。主は決意に満ちた様子で、大きな輝く栄光の剣を右手にもって私のほうに歩いてこられました。剣は真っ赤に燃えるように輝き、かみそりのように鋭いものでした。主は私の真ん前まできて止まりました。剣を頭上高く振り上げて「剣に口づけをするときだ!」とはっきりと言われました。
これは強い指令であり命令でした。こう言いながら主は剣を顔の高さまで下ろし、ご自分の唇につけられました。

そして、「剣に口づけしなさい!」と命令されました。私は顔を近づけて、剣に口づけする用意をしました。剣はイエスの唇に平らにつけられていました。私が前かがみになって剣にキスしようとしたとき、主は剣の向きを変えられて非常に鋭利な刃が主と私の唇に当たるようにされました。私はその鋭い剣の刃に唇を近づけるのをためらいました。主は私のためらいを察して、「わたしの恵みはあなたに十分である。あなたに代わって私が痛みを負った。」と言われま
31 01月

2007年への多くの預言をどのように受け取ればよいか 坂 達也 1月31日


2007年への多くの預言をどのように受け取ればよいか

 今年2007年に対する預言を、私たちのインターネットHPで今まで4つ5つご紹介させていただきましたが、年頭に今年ほど多く預言がなされた年は、私としては今まで見たことがありません。今までご紹介したもの以外に今私たちの手元には少なくとも後10程あります。
これ等の預言は皆少しずつ内容が違いますが、それぞれ預言的な方たちが主から個人的にいただいたものであることを私は疑いません。個人的に受け取ったものであれば、その人その人で置かれている状況が異なりますから、主からいただく預言が違って当たり前です。しかし、多くのことで共通しておりますのでそれをまとめてみますと三点あります。
一つは今年は天変地異、地震、大風あるいは大きな災難が起こるという預言。一つは、今年も昨年に続いてより激しい変化・変革が起こり、前進の年であるという点。もう一つは、今年はクリスチャンとして非常に期待の持てる「すばらしい恵み、約束が適う年」であると言うことです。ある預言者たちは「昨年はどうしても出来なかったことが今年こそ実現する」と言っています。
私はこれら多数の預言を見ているうちに、新年も日が経つにつれ私の「霊が騒ぐ」と言いましょうか、いよいよ、風雲急を告ぐ時に入ったという緊迫感が強まって参りました。そして主から示されたのはバプテズマのヨハネのことでした。

マタイ11:12 でイエスは「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と言われましたが、この表現ですと御国が敵によって激しく攻められているように受け取られます。確かにそうなのです。しかし、イエスの言われたのは、その意味も含みながらも、実は天の御国とはそれを激しく求める人たちによって勝ち取られて行くもの―イエスの御国とはそのように激しく求め、激しく戦う人たちによってのみ築き上げられる王国であると言う意味です。言葉を替えれば、キリストの王国の弟子とは「なまぬるいクリスチャン」とは似ても似つかない、徹底して聖く激しいラディカルなクリスチャンなのです。その「聖さ」「激しさ」を身をもって紹介したのがバプテスマのヨハネである訳です。

11節でイエスは「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(新改訳)と言われました。ここで言う天の御国とはイエスの(メシアニック)王国のことです。ヨハネはイスラエルの人たちに、イエスがメシアでありその王国が来たことを正式にアナウンスしました。彼はイスラエル人がイエスを信じ、イエスの王国の弟子となることを勧め、その人たちは「イエスの花嫁」になる人たちであると説明すると共に、自分自身を「花婿の友」と呼びました。(ヨハネ3:29)
しかし主は、ここでヨハネを紹介者ではあっても王国の外にいる〔それ以前の〕人間と位置付けております。その意味でヨハネは人間の中で誰よりも優れた者ではあっても、イエスから直接訓練を受けて王の「花嫁」となる王国の弟子たちとは比較にならないことを明言されたのです。その意図は、キングダム・メンタリティーも持った「王国の弟子・戦士」あるいは「キリストの花嫁」になる人たちの優秀性をイエスが強調されたのであると思います。これは大変なことです。私たちがこれからどんな厳しい訓練を受けるか、又、受けねばならないかがこれから容易に想像出来るからです。

私は現代のクリスチャンであっても、いや終末に生きる私たちこそ、イエスから直接王国の弟子訓練を受け、王の命令を毎日直接聞くことが出来て、総てにおいて王に忠実に従う者にならなければならないと思います。そうでなければ王国の戦士として実戦に出ても使い物にならないからです。
そのような弟子はバプテスマのヨハネよりもっと聖く、もっと激しく求める人でなければならないのではないでしょうか。

ここで見落としてはならないのは、イエスご自身が、事ご自分の御国を建て上げることに関しては、そのような激しく厳しい方であると言う点です。当時のイスラエルの霊的状態と特にパリサイ人を中心としたリーダーたちを、マタイ11:16 ―24でイエスは本当にこれ以上激しい言葉はない程の激しさで責められました。私は今の時代のクリスチャンはまさに当時のイスラエルと似ていると思います。そうであれば私たちは今こそ、この主のメッセージを本当に心して厳粛な警告として受け取らねばならない時であると思います。

特に、昨年まではどんなに宣言しどんなに祈っても起こらなかったことが、今年は実現するという点についてですが、主が示して下さったのは、それは単に手をこまねいていては起きないということでした。本当に夢と幻を実現させたければ、去年の二倍の努力をしなければならないと言うことが私には示されました。

それは先ず、昨年まで一日一時間祈っていた人は二時間、二時間祈っていた人は四時間祈り、熱心に主を求めることです。主により忠実であること、そして、この世的な生き方を出来るだけ排除し、聖く生きることです。そして愛を増すことを示されました。これには相当な決意と「やる気」が必要です。本当に信仰が問われる年であると思います。そうすることによって初めて今年を「やりがいのある年」「何かが起こる年」「勝利の年」とすることが出来ると確信します。

私たちの教会は大人100人余りの小さな教会ですが、祈りを強調する教会の一つであると思います。毎朝二時間以上祈る人が牧師以下、片手の指の数ほどおります。中に毎朝夜明け前の三時から三時間祈る方がおられ、その方は静かに異言で祈るのですが、聞いてみると、内なる聖霊様に「今日は何をすべきか語って下さい」と祈るそうです。そうしていつも主の御声を聞いているそうです。一つの例を語ってくれましたが、或る時、主が今日はどこどこの病院に行って、こうゆう人がいるからその人のところに行って癒しを祈りなさい、と言われたので、行って祈ったら、助からないと言われていたその人が癒されて、今はその人は私たちの教会員になっております。これこそ100%聞かれる信仰の祈りです。私はその方から大変大きな励ましを受けました。

総てが主を求めることから始まります。そして主と親しくなればなるほど、主がより多くより細かいことまで示して下さいます。主の御声を聞く、そのために今年も一層主に近づき、親しく主と共に歩こうではあり
26 01月

2007年への預言  ダニー・ステイン  1月26日


霊の父親の年であり改革・革命・大変動・創造の年、
ダニー・スタイン

天からのメッセンジャー

2006年の12月28日のことでしたが、私が寝る用意をしていると一人の天使が我が家の廊下に現れました。一瞬の間に天使は現れ、又、去っていきました。何か大事なことが起ころうとしているからよく注意してなさいと、この天使は私に知らせに来てくれたのだと私は悟りました。

ベッドに横たわっていると、主が一つのスペイン語を私に語られました。それは「Hecho!」という私の知らない言葉でした。それがスペイン語だということはわかりました。その言葉が私の頭から去りませんでした。起き上がって辞書を調べたところ、少なくとも3つの意味を持つ言葉だと分かりました。そしてそれは2007年のために非常に重要な意味を持っていると私は信じます。

主はこの言葉をスペイン語で語られましたから、スペイン語が使われているコミュニティーで何かが起こり始めるのだと思います。この言葉には「出来事event」、「事実fact」、そして「完成! done!」という意味があります。(これは私のスペイン語の知識から言っているのではなく、神様からの啓示によります。多分私の知らない多くの意味が他にあるかもしれません。)

今、非常に大きな出来事が起ころうとしていると思います。現在の状態が、「以前はそんな風だったね。」といわれるような全く過去のものになってしまう出来事です。それはすさまじい重大な異変であり、世界の地理・地形を変えてしまう、又、政治や教会のあり方をも変えてしまうようなものでしょう。

このシフトはすでに始まっていますが、これからどんどんエスカレートしていくでしょう。今起きようとしている出来事は、現在の状況、自然界、又それに合った必要なものを変革(トランスフォーム)していくでしょう。上記で「事実fact」という言葉が示しているように、これらの出来事は必ず起こることであり、私たちはそれに備えなければならないのです。また、全地が待ち望んでいることをもたらすものでもあります。(ローマ8:22) なぜならば、自然界のもの、動物や植物も病や死の中で苦しんでいて、この偉大な出来事を待ち望んでいることを私たちは知っているのです。


変革、革命、激動、創造

その言葉が私に語られたとき、ダニエル8:19「そして言った。『見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わりの定めの時にかかわるからだ。』も私は聞いたのです。私たちは地上で多くの「カイロス」の時を経験してきましたが、これからはそれがもっと起こるようになり、到達したと思った地点はただの入り口にすぎなかったことがわかるでしょう。

今まで教会において神様がして来られたこと、それは新しいと思われたことも含めて総て私たちが通って来た処は、これから起ころうとしていることを私たちが理解して受け入れられるように主が設けてくださったほんの入り口にすぎないのです。これから私たちが大股で歩むようになる神様の目的に達する道程は、今まで歩いて来た道程の10倍、100倍に相当します。ですから単に「変化」などという言葉では表すことができないほどの大きなことが起こるのです。

それは変革、革命、激動、創造というような言葉の方がぴったりでしょう。創造主なる神は、ただ「方向を変える」だけではなく、新しいことを力強く実行されることによってご自身を現されるでしょう。

民数記16:30「しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」

イザヤ42:9「先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」

聖霊が風と火のように下ったり、アナニヤとサッピラが裁かれたり、異邦人にも福音が伝えられたり、死人がよみがえったり、使徒の影で癒したが起こったり、家々で集会がもたれたりというような多くの初代教会の出来事は、その時代のクリスチャンにとっては「新しいこと」であり、それは驚くべき実を結びました。

それと同じように、今年キリストの教会に「新しいこと」が起こり、同じように驚くべき実を生らせていくのです。出来事のあるものはポジティブであり、あるものはネガティブでしょう。しかしいずれにせよその実は、創造主なる神が新しいことをされていることを証明するものとなるでしょう。


政治的闘争に入る人たちは、人々の心が変化するので旧態依然とした古いものを民衆が支持しなくなることを知るでしょう。人々は今までの政治家たちを古い型の人間とみなし、新しいリーダーが今までとは違う方法で物事を解決していくのを期待するでしょう。一部の政治家の心に真に臣民を思う王の愛が入り、すべての人がそれを愛と認め歓迎するでしょう。実際、それは効果を示していくので、政党を超えて多くの人々によって支持されるようになるでしょう。これは反キリストの霊ではなく、神と共に歩く神の子供たちによるものであり、彼らは愛をもって着実に導いていくでしょう。

教会に新しいものが与えられる

教会においては、「形式」から「力」へという大きな変化があるでしょう。神の民は、人の手によって水増しされた信仰や人間が作った教義に対して黙っていなくなります。彼らは目覚め、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になっているからです。こういう人々を避けなさい。(IIテモテ3:5)」といわれている人たちに対して大胆に語るようになるのです。その結果として、神が安息されるところを提供するかわりに、神の民に安息の場を提供する人々のところでは、大きな摩擦が起こるでしょう。

いろいろな大組織が持つ建物は、ほんの一握りの人たちに残されてどうにか運営しようとしますが、やがて、不正な者たちに渡されます。しかし、彼らにはその建物の使い道がないので、教会にそれを運営すべく手渡します。最後に笑うのは主です。主の臨在を拒む者も主の力を見ることになります。神は侮られる方ではありません。そして主の教会も笑いものにはならず、主の民は、聖さ、力、愛を持つようになります。

私は次ぎに、「南からくる嵐が、北の金かすを飲み尽くす!」という声を聞きました。南からの風というのは、「暖かさ」がやって来ることを示しています。南風は主の 力をあらわしています。神の力は神の愛の暖かさに方向づけられています。主の愛は北に満ちて、周りに静けさをもたらします。この静けさは「小休止」 となり、このことが、それ以外に今年起こることを引き離して特別に意味深い「出来事」となります。

詩篇78:26「神は、東風を天に起こし、御力をもって、南風を吹かせられた。」
ヨブ37:14-17「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。 あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。 あなたは濃い雲のつり合いを知っているか。完全な知識を持つ方の不思議なみわざを。 また、南風で地がもだすとき、あなたの着物がいかに熱くなるかを。」

天においては「終局」が用意されるでしょう。これから主がもたらすことの多くは、「主が間もなく出されようとしているご馳走」を載せるために「テーブルの上(に載っている今までのもの)を片付ける」ためです。このことは私が何年も前に見たヴィジョンを思い起こさせます。そのヴィジョンの中で、主は教会の中の熱いものと冷たいものとを最終的に分ける決意をされると言われました。そして、その主の決断はすばやく、はっきりと、感情ぬきでされるのを見たのです。


若いクリスチャン達のヴィジョン―すべてのものが参加する仕事

1990年代の初めに私はもう一つのヴィジョンを与えられたのですが、その中で若者達が劇的な救いの回心をするのを見ました。ヴィジョンの中で、私は当時私たちが使っていた倉庫の中にいました。その中の人たちは3つのグループに分かれていました。

最初のグループは外に出かけて、「ベービー」を集めて手押し車に乗せて来ました。彼らは手押し車一杯の赤ちゃんを床に上にドサッとあけました。赤ちゃんは床に落ちるやいなや、すくっと立ち上がって若い女性や男性となり、「完全に訓練されている者」となりました。2番目のグループが彼らの世話をし、訓練する人たちだったのです。

第三のグループはとりなしと癒しのグループで、外に出て行くもののためや、イエスを信じるようになったもの、また、新しいクリスチャンの世話をする人たちのために熱心に祈っていました。キリストの真の教会では、傍観者は一人もなく、すべての人が働くのだと主は言われました。クリスチャンであるということは、「機能する」ということであり、ただ信仰団体に属しているだけではないのです。やがて倉庫は若者であふれるようになりましたが、彼らは若いにもかかわらず成熟していることがはっきりわかりました。彼らはこれから起ころうとしている「イベント」のために用意が完全に調えられておりました。そのイベントによって主の名はこの世に存在する何よりも誰よりも有名になるのです。若者たちが出て行く前に「小休止」がありました。

そのヴィジョンはマンガの形で見せられたのですが、主イエスがすべてのことが調えられているのを見て微笑んでおられるのが分かりました。

主の食卓は調えられた

主は、主の民を養われる食卓を調えられています。ヨハネ4:34-36「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」

神の民の食物とは、肉の食糧ではなく、天の実なのです。主の食卓は私たちに食糧を与えるものではなく、実に子羊の大宴会…それは永遠に続くもの…なのです! 神からのいのちと繁栄の約束は、私たちの心の中に宣べ伝えられたみ言葉なるキリストに聞き従うことです。天からの声が「これが道である。これに歩め。」
と響いてくるのです。

最も大事なことは、私たちが主の語られるのを聞いて、その声にただいつも従えばよいのです。主が私たちの前に食卓を調えてくださるとき、聖霊が私たちに言われる促しの声に耳を傾ける時がきたのです!

申命記30:14-20「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、 きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。私たちがしなくてはならないことは、神が私たちの人生に与えてくださった召しと目的を放棄しないことです。

II歴代誌13:10-11「しかし、私たちの場合は、主が私たちの神である。私たちはこの方を捨てなかった。また、アロンの子らである祭司たちが主に仕えており、レビ人が仕事をしている。 彼らは朝ごとに夕ごとに全焼のいけにえを主にささげ、かおりの高い香をたき、並べ供えたパンを純金の机の上に整え、金の燭台とその上のともしび皿には、夕ごとに火をともしている。私たちは、私たちの神、主の戒めを守っている。それに反し、あなたがたはこの方を捨て去った]

私たちは神へのささげものを神からのものではないものとごちゃ混ぜにしないで、清い純金の机の上に置かねばならないのです。イエスが神殿で両替人の机をひっくり返したのは、神殿を清めて「祈りの家」にするためでした。
光と暗やみは共存することはできません。光は暗やみを照らしだし完全に追放します
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