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Walk With God Ministries

10 07月

7月のファースト・フライディ    坂 柚実子   7月10日


7月のファースト・フライディ

7月7日は七夕ですが、我がニューライフ・チャーチでは中華街全体の毎月の行事である第一金曜日の催しが行われました。3,4月はサーフィン・ダ・ネーションズという世界の海でサーフィンをしながらミニストリーをする団体を中心としたユースの集い、5,6月はハワイの文化を中心としたもの、そして7,8月は日本がテーマとなりました。教会のロビーのギャラリーには、日本人アーティストたちによる絵画、魚拓、書、生け花などがかざられました。

そして会場の中のメイン・イベントは「神が日本に残した指紋」というDVDの上映と、それを長い年月をかけて製作したダニエル・キカワ博士による講演がありました。キカワ氏は日系四世ですが、日本を愛し、このDVDは彼から日本人への贈り物だといわれます。

このDVDの主な内容は、神はこの世のどの国をも愛しておられ、その国にイエス・キリストの福音が伝えられる前から、その歴史、文化を通して、必ず「神の指紋」を残しておられる、日本の場合も天地創造の神は昔から示されていた、というものです。

また、サタンはなにも創造する力がないこと、サタンにできるのは神が創造されたものを、奪い、ゆがめ、堕落させることしかない、日本舞踊や茶道に代表されるような様々な日本の文化も、もともとは神が日本に下さったものであり、それを私たちは神のものへと回復させていくことができる、といわれます。

また、彼は福音を世界に伝えるときに、伝える側の文化までも持ち込んではいけないことを強調されます。DVDの中には、キカワ博士が来日された際に、ある教会で彼が土下座をして、アメリカの宣教師が福音を伝えた際に、日本の文化を否定したことを謝罪する場面があります。会衆の多くの方が涙を流してその謝罪を受け入れておられました。

彼は、宣教師がしてきたことは、「私はあなたを心から愛しています。でもその髪型は好きではありません。あなたの服装も駄目です。その歌い方も変です。みんな変えてください。」といっている恋人のようなものだといわれます。それではいくら愛しているといわれても、心を開くことはできないでしょう。

現在ではハワイの教会で普通に行われているフラダンスによる賛美も、ほんの10年ほど前までは、異教の神へのダンスだということで禁じられていたそうです。DVDの最後は、フラダンス、日本舞踊、韓国の踊り、インディアンの踊りなどで主を賛美している各国のクリスチャンが映し出されています。とても感動的なシーンです。

このDVDは、伝道の一つの道具であり、すべての道具がそうであるように、その使い方に注意せねばならないと思いますが、正しく使えば、日本人の心をイエスに向けることができるものであることは、すでに実証されています。キカワ博士の神を愛し日本人を愛する心が、私にはしっかり伝わってきたことでした。(終わり)


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06 07月

アメリカの国家的預言者      坂 達也    7月5日


アメリカの国家的預言者
                      坂  達 也
 

旧約の時代のような預言者が現代のアメリカに存在していると申し上げれば、皆さんは驚かれるでしょうか。アメリカの国家的立場(政治・政策とか憲法)を左右するような重要な事態(特にそれが神を信じる建国の霊的姿勢にかかわるような場合)において、実際に国の政治に介入して事態とその流れを変えるだけの預言と宣言をし、又、国中のとりなし手を動員して「御心を祈る」ためのリーダーシップを発揮する預言者が、今アメリカにおります。そのような国家的預言者は、他にも存在すると思いますが、少なくとも私が現在知っている人ではダッチ・シーツ師がそれです。彼には明らかに神のスポークスマンとしての権威が与えられているだけではなく、国に関する政策において、神からの御ことばを宣言して神のご計画を実現させるだけの権威と力が与えられています。

神は彼の口を通して、先ず、アメリカの霊的空気を変える「ディバイン・シフト・神によるシフト」を叫ばせました。その数年後、彼にイザヤ書22:22にある「わたしはまた、ダビデの家のかぎ(権威を象徴する)を彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」というみ言葉を与え、2000年の大統領選挙で事態が混沌として来た時点で、彼をホワイト・ハウスの前に行かせました。師はそこで神から預かったみ言葉を宣言し、ジョージ・ブッシュ大統領がホワイト・ハウスに入るドアを開いたのでした。

彼は既にその3年前から主からの特命を受けて、何度もホワイト・ハウスに祈りの足を運び、2004年の再選の前にも、同じようにホワイト・ハウスの前で神のみ言葉を宣言しております。又、アメリカの見張り人として、神は師とチャック・ピヤース師を起用してアメリカの50州を訪れさせ、各州において預言ととりなしをさせました。そしてシーツ師は、最近ではアメリカの霊的姿勢に関わる最も重要な役割を果たす最高裁判事の入れ替えのための全国的とりなしのリードを取っております。この一年間に二人の判事が退役し、今リベラル派と目される三人目の判事が近々退役することが予測されていますが、アメリカが堕胎の問題等に関して聖書的信仰に立つ判事が選ばれることによって、アメリカの国策が聖書的に留まるかどうかの瀬戸際に立たされているからです。

その意味でダッチ・シーツ師は、私たちクリスチャンが神から与えられる権威とそれに伴う神の力を信仰で行使し、神の御心と計画を私たち自身が日常生活の中でどのように勝ち取っていくかを語る第一人者であると信じます。以下は彼の最近の書「Authority in Prayer祈りの権威」からの抜粋です。


祈りにおける権威について                                                                           ダッチ・ シーツ

権威のサークル

 私たちの持つ神からの権威のレベルを表わすために、私はそれを「円の中心から広がる権威の原則」と称したいと思います。ちょうど中心に標的の的(まと)があって、その回りを幾重にも円(サークル)が書かれている図を想像してください。この中心の的の部分が私たち個人を表わすものとします。その中心から少し広がったところに一つのサークルを描きます。次にもう少し大きなサークルを描きます。そのサークルが大きくなるにつれ、そこにはより多くの人間とより広い地域が含まれることを想定してください。そこで気がつくのは、円が大きくなるにつれ個人としての権威は小さくなることです。なぜなら権威はそれだけ多くの人と分かち合うからです。中心の的に一番近い最初のサークルは、個人の家族を表わします。次のサークルはあなたの住む町、そして、もっと大きなサークルは国を表わすと言うように大きくなっていきます。もう一度言います。サークルが大きくなるにつれ個人としての権威は減少していきます。

あなたのライフに関する限り、あなた自身が持つ権威以上に大きな権威は誰も持ってはおりません。又、あなた自身のことを祈るのに、あなたより大きな権威をもって祈ることのできる人はおりません。私たちは生まれつき自由意志と選ぶ権利を持っており、大人に成長するにつれその自由は増大します。神に関する限り?誰もその自由を私たちから取り上げる人はおりません。
 しかしながら、そのあなたの持つ自由と共に、権威だけではなく責任も負わなければなりません。

 これは70年代の終わりから80年代にかけてのことなのですが、私の手には多くの、それは確か30-40個にもなるほどのいぼができました。私は色々な医者に相談しましたが、彼らは皆それを切除するのを躊躇しました。というのは、幾つかのいぼは、つめに直ぐ近接して発生しており、あるものは既につめを食いばんでつめの中に侵入していたからです。大量のいぼによって私はちくちく痛みを覚え、人前で非常にみっともないと言うみじめさを味わいました。

 そこで私は主を熱心に求め、主がいやしてくださるように祈りました。いやしに関する聖書の教えのほとんどすべてを試みました。先ず、教会の長老に祈ってもらいました。(ヤコブ書5:14-15)又、手を置いて祈ってもらいました。(マルコ16:17-18) 私のために祈ることに同意した人たちにも祈ってもらいました。(マタイ 18:19-20) そして、いやしの集会にも参列し、特別にいやしの賜物が与えられている人にも祈ってもらいました。(1コリント 12:9-11)しかし、一向によくならないのでした。
 
 そうこうしていると、ある日主が私の心にはっきりと語られました。主は「わたしは(今回は)他人の祈りとか、信仰によってはあなたをいやすことはしないでしょう。あなたはあなた自身の信仰でよく戦い、いやしを自分自身で獲得しなさい。わたしはあなたには多くの年数をかけてしっかりと『自分でできる』ことを教えて来た。多く与えられた者には多くのことが要求される。従って、わたしは今あなたに自分でいやしを獲得することを要求する。」と言われました。これは主が非情でも不親切でもないのです。主は愛のある親なら誰でもが子どもに対してするように、私が成長して自立することを助けようとされたのです。
 
私は神から教わったことを実行に移し始めました。それは主にマルコ 11:23 -24「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」でした。
私たちは山のような困難さに向かって、それが立ち去るように命令することができます。私はこの命令の祈りを約30日の間、一日数回行いました。それは、私の手を見つめて「み言葉によれば、私のいやしのためにイエスが打ち傷を負ってくださったので、私はこのいぼを叱りつけ、私から立ち去るように命令する権威を持っており、その権威によって命ずる。いぼよ、イエスの名によって、私の手から出て行きなさい、と命令する。」と語ったのでした。
 
何か馬鹿なことをしているように思えますか?その通りです。多くの霊的なプラクティスとガイドラインは私たちの人間的な心には、愚かなことを言っているように思えます。(1コリント2:14)しかし私は信仰を働かせて実行しました。その結果が私のしたことが愚かなことであったかどうかを実証してくれています。
 
約二週間後に私の手のいぼが小さくなっていることに気がつきました。その時点からいぼは急速に縮小して行き、二週間後には(つまり計4週間)全く消えてなくなりました。それだけでなく、指のつめに食い込んでいたいぼの後には新しいつめとその根元に新しい表皮ができておりました。

 私がこの証しをお分かちするポイントは、あなた自身のことに関しては、誰もあなた以上に祈りによって神の約束を獲得する権威を持っている人はいない、ということを示すためです。
神は、私たちが霊的に成長するにつれて、他人に頼るのではなく、自分自身の権威と信仰を行使することを要求する方であるということです。

 しかし、私たちが次に大きな輪―それは家族という関係―の中では、私たち個人の権威というものはそれだけ減少して行きます。
私たちの家族に対して神から与えられている権威はどうかといえば、その家族のそれぞれが自分自身に対して持つ権威が与えられていると共に、家族の一員として他の家族に対して祈る責任と権威も与えられています。私の場合、神は私に妻と子どもたちに対して「覆い」あるいは「保護者」となる責任を与えております。この責任に対して私はそれだけ大きな権威も持って祈ることができるのです。

 1970年代の終わりの頃のある父親の証しが、私たちには子どものために祈る権威が与えられていることをよく物語っておりますので、お伝えしたいと思います。この人の娘さんが手に、それはいぼの一種と思いますが、数多くの腫れ物ができて困っていました。ある日、その人が祈っているときに主が力強く語られました。「あと何日間、あなたはあなたの娘の手にできている腫れ物をそのままにして置くつもりなのですか?」そう聞かれたとき、その人は神が少しご機嫌をそこねているような聞き方をされたことに驚きました。神は「あなたは自分の娘を覆って守る権威があり、娘の手から腫れ物を去らせる権利があるのです。それなのにいつまで腫れ物をそのままにして置くのですか?」と咎められたのです。
 このことがあってからその父親は直ちに、私がしたのと同じような祈り、つまり腫れ物に対して娘の手から離れるように命令することを、毎日数回祈り始めました。多くの日数をかけて、その人は主に忠実に従った祈りを実行した結果、その娘さんの腫れ物がいやされたのです。しかもそれは私の時のように徐々にではなく一瞬にしていやされたのでした。それはある日、彼女が自分の着物をクロゼットのハンガーにかけようとして着物を手に取ったときは腫れ物はあったのですが、それをハンガーをかける棒につるす瞬間に自分の手を見たときにはその腫れ物はなくなっていたのです。

 私たちは私たち自身のために祈る権威を持っているだけではなく、私たちが覆いとなっている人のために祈る権威も持っているのです。(責任があります。)

1985年に、神は私の妻のセシの卵巣に出来た嚢腫をいやすために、私の祈りを用いられました。その嚢腫が見つかってから約一年経ったとき、医師から手術によってこれを撤去する必要があると言われました。この医師はクリスチャンでしたから、彼も祈りの力を信じていることを私は知っておりました。そこで、私は彼にしばらく祈らせて欲しいと願い出ました。私は家内の病気が祈りで必ず癒やされると固く信じていたからです。医師はこの腫瘍が悪性のものではないこともあって、「それではあなたに二ヶ月の祈りの時を与えましょう。しかし、あなたの方法でその腫瘍を取り除くことができなければ、次は私の方法で撤去しましょう。」と言いました。私は主を求めて、主にこのいやしを獲得するのに必要なストラテジー(戦術)を請いました。そして主がはっきりと語られるのを聞くことができました。それは、私が毎日妻のいやしのために一時間祈れば、妻がいやしを受け取ることができると言うものでした。私はこれに忠実に従いました。私はどうして主がこの方法を選ばれたかは分かりませんでしたし、又、それは私にとってどうでもよいことでした。私にとっては、主には主の立派な理由があることだけで十分でした。二週間の後、妻の痛みがやわらぎ始め、四週間後にはそれも全くなくなりました。そしてテストの結果、嚢腫も完全になくなっていました。

もう一度言います。私たちの人の輪が大きくなればなるほど私たちの影響力と権威は減少します。その例として、私は自分の町(市)のために祈る権威を持っています。しかし同じ町に住む他の人たちも私と同等の権威を持っています。同じことが、もっと輪を大きくして国というものに対しても言えます。私たちすべての国民は自分の国のために祈る権威を皆、同等に持っていますが、人数が多くなればなるほど一人一人の権威というものはそれだけ少なくなっていくのです。(これによって、地域の出来るだけ多くの人が一致してとりなすことの重要性が分かります。訳者注)


1テモテ6:12に、 「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」とありますが、パウロは既に救われて「永遠のいのち」を得ているはずのテモテに対して、信仰の戦いを勇敢に戦って、永遠のいのちを獲得しなさい、と言っています。キリストにあって既に契約に
06 07月

リバイバルのための悔い改め   フランシス・フランジペイン  7月6日


リバイバルのための悔い改め

フランシス・フランジペィン


真のリバイバルはひとりでに起こるものではありません。主が訪れる(リバイバルが起こる)ためには、その前に人の心の中に必要な条件が整えられなければなりません。

一時的な慰めではなく、解放を求めなければならない

往々にして今日、主の働き手たちは、自分の罪を悔い改めようともせず、又、神の助けを心から叫び求めてもいない人々を、一生懸命解放しようとしています。その結果、祈られた人たちは少しばかりの慰めは受けるかもしれませんが、すぐに又、罪を犯して落ち込んでしまいます。人々に真の解放を与えるための鍵は、その人が心から解放されたいという気持を持っているか、解放される用意ができているかを、祈る前にしっかり見分けることです。彼らは本当に悔い改めているでしょうか?自分の偶像を除いた人たちでしょうか? 心が本当に神に向いているでしょうか?

個人の解放のための神のパターンは、教会や町のためのパターンでもあります。主は私たちが心から助けを求めて叫ぶまで救ってくださらなかったように、多数のものが祈り求めて主に叫ばなければ、多くの教会や町を勝ち取ることはできません。町中の教会が一つとなって祈るようにと、キリストが今私たちを召しておられるのは、全能の主が答えてくださるような正しい心の態度を私たちが持つようになるためです。


神の御前で祈り叫ぶという土台がなければ、解放の業や、「つないだり解いたり」、その他の様々な霊的戦いの業は大幅に制限されてしますます。聖書によれば、人がまず、自分の今の状態を心の底から嘆き、そこからの助けを求めて神に叫びはじめるときに、解放という最終的段階にまでたどりつくことができるのです。

解放者たち

旧約聖書の中には、解放とリバイバルを神が起こされるときのパターンが書かれています。民が苦しみの中で祈り叫ぶのに応えて、主は解放者たちを立てられます。彼らは、苦しめるものからイスラエルを救うために神に選ばれた油そそがれた力ある者たちです。

彼らがイスラエルを解放するのに成功したのは、彼ら自身の素質とか資格によったのでは全くないことに、目を留めることが重要です。彼らは確かに神によって送られたのですが、そのタイミングはイスラエルが悔い改めたときと同時だったのです。悔い改めがなければ解放もありません。イスラエスが神に叫んだとき、解放者が立てられ、聖霊の力の油注ぎを受けました。
この旧約時代のリニューアルのパターンのポイントは、今の私たちにも当てはめることができます。実際に「解放者」が現れるのが見えないかもしれませんが、深い祈りと悔い改めが広がっている町では、リバイバルが起こってくるでしょう。

イスラエルを見てみますと、国家的な罪が敗北をもたらし、他国による支配が起こりました。それにより、悪魔礼拝がもたらされ、イスラエルの心は敵によって完全に惑わされてしまいました。イスラエルが神の律法を公然と無視したので、国の経済的、文化的、物質的崩壊がやってきました。神の祝福を民が受けていた国の上に、今や絶望と悲惨が訪れたのです。

このような状態におかれて苦しんだ国民が、心から神に泣き叫んだとき、神が解放者たちを起こされたのです。解放者たちは、悔い改めたイスラエルを圧制者から救い出し、勝利へと導きました。真の礼拝が回復されたとき、国家の平和と繁栄が始まりました。

リバイバルへの道のりは、決められた予定表に沿って進むのではないことに注意してください。はっきりとスケジュールが決められているのではありません。神の裁きがどのくらい続くのか、人が罪を悔い改める深さがどのくらいになったら神が満足されるのか、それは誰にも予測できません。しかし、次のことだけは確かです。
リバイバルが起こるまでに要する時間は、私たちが予想するよりいつも長いということです。 それの決定要因は、人々が罪を認め、神に顔を向けるということです。国家の中心的人々がしっかりと神に顔を向けたとき、その国の癒しが始まります。

ネヘミヤは国が解放されるまえに起こる悔い改めの型について語っています。彼はこのように祈っています。

ネヘミヤ9:27
「そこで、あなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなるあわれみによって、彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。」


私たちはこのプロセスの途中であせったり、また祈りに主がすぐに応えてくださらないからといって、いらいらしてはなりません。 主は国家が反逆の罪に押しつぶされるまで待っておられるのです。けれども私たちは次のことにおいて、勇気をあたえられます。

私たちのとりなしそのものが、全能の神に国家が悔い改めをするようになるための初穂であり、間違いなく国家の悔い改めは起こるということです。

時々は少しばかりの聖霊の働きがところどころで見られるかもしれませんが、国家のリバイバルが起こる前には、必ず神への叫びが国中で起こらねばなりません。この時は「苦難のとき」とよばれ、これは数年の間主に叫び求めることなしには成就されません。

人の嘆き、神のこころ

士師記には、このパターンが何度も繰り返されています。イスラエルが罪の深みに陥っていくとき、その罪の重荷とその報いの結末によってイスラエルがへりくだるのを神はじっと待たれました。彼らをご自分のところに呼び戻すために待たれたのです。

しかし、主はイスラエルの悲しみを遠くから眺めておられる方ではありませんでした。民が反逆しているときにさえ、神は彼らの苦しみを感じておられました。主がこれ以上「イスラエルの苦しみを見るのに忍びなくなった(士師記10:16)」時、主は解放者を送られました。イスラエルの悲惨、絶望が彼らを神に立ち返らせたのです。


これと同じパターンは出エジプト記にある主とモーセとの出会いの中にも明らかです。

出エジプト記3:7-8
「 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上ら せるためだ。」


主が民の苦しみを見られたことに注目してください。主は彼らの叫びを聞かれたのです。主は彼らの苦しみをご存知でした。神は人類の窮状から遠くはなれたところには決してないのです。事実、主は私たちの社会の悲惨さを負ってくださっているのです。

私たちの悩みは主の悩みであり、私たちの苦しみは主の悲しみなのです。

出エジプトの中で、神が聞かれたのは祈りだけではないことに注意してください。主は彼らの泣き叫びも聞かれました。私たちの必要を祈ることも大切ですが、涙を流すことは、もっと深いことです。神は悲しむ者をこそ慰めてくださるからです。
主は彼らの苦悩、苦しみを知っておられました。神が応えてくださる祈りとは、絶えざる叫びであり、それは多くの場合、苦痛と苦しみの中から
生まれてきます。今日においてはアフリカやアジアの地域でそれは起こっています。

主がまだ私たちの祈りに答えてくださらないのは、私たちの祈りがまだ「祈り会の予定時間の範囲内で終わるような」祈りをしているからです。私は1970年のカリズマティック・リニューアル・ムーブメントのときにキリストを信じました。
このムーブメントは、何百万という母親たちの昼夜絶えることのない叫びから始まりました。単に一時間祈ったから起こったのではないのです。自分の子供たちがドラッグをしたり反抗的になっているのを深く嘆いた母親(父親も)たちの絶え間ない叫びの中から生まれたものでした。それは宗教的に整った祈りではなく、彼らの存在の心臓の鼓動そのものでした。「霊的戦いはこうあるべきである」というような高尚な方法ではなく、彼らの途絶えることのない涙と嘆きが神の御前に届き、神は彼らの子供たちを救ってくださったのです。

現在リバイバルが遅れているのは、私たちは確かに問題を感じてはいますが、今の社会の状況に本当に苦しんではいないからではないでしょうか。悲しんではいますが、まだ涙を流してはいないのです。

しかしながら、しだいに多くの神の民がキリストの憐みの心を受け取りはじめています。彼らのとりなしの祈りの中では、人々の必要だけではなく、人々の痛みをも負っています。彼らは自分の評判を捨て、仕事も捨て、そうです、彼らの命さえも捨てて、私たちの社会の罪が清められるのを見たいと願っているのです。

まだまだ少数ではありますが、これらのとりなし手たちは、自分の住む町の苦悩を心の中に抱いているのです。 圧迫されている人たちの叫びを彼らは聞くのです。母親のお腹の中にいる子や生まれてきた子の苦しみを知っています。神は彼らの祈りに応えようとしておられます。彼らの苦悩というお腹の中から解放が生まれでてくるのです。

祈りをする教会はとりなしの祈りのための時間を制限するべきではありません。神は祈りで貫かれた人生を求めておられるのであって、ただ一時の祈りのシーズンでは不十分なのです。もし時間が来たからといって私たちがとりなしの祈りをやめるようならば、私たちのこころは神が介入されるほどには、まだ十分な準備はされていないということが明らかです。

これらのことがリバイバルとどう関係があるのでしょうか。霊的リニューアルだけが私たちの町や国を救うものであり、神に助けを求めて絶えず叫ぶすべての者たちに対する神の答えなのです。

祈り
主よ、私たちが真の解放ではなくて、ただの慰めを求めていることをお許しください。 あなたの完全な御心ではなく、近道をもとめていることも。 主よ、あなたの心は苦しむ者の心からの叫びを拒むことは出来ないことを知っています。あなたのは民の悲惨さを見るのに長くは耐えられないで、必ず手をさしのべてくださることを知っています。ですから、主よ、今日私たちはあなたに叫びます!あなたの臨在の雨をもう一度降らせてください。私たちが安逸をむさぼり、無関心になっていることから、どうか私たちを聖めてください。リバイバルをもたらしてください。あなたの栄光のために祈ります。アーメン (終わり)


【日本は今トランスフォーメーションへの関心が高まりつつありますが、私たちは常にリバイバルの基本と原点に返らなければならないというフランジペイン師の今回の指摘は非常に的を得たものであるという気がします。 現状の理性的でなまぬるい自分には満足できない、どうしても先ずそのような自分が変えられなければならない、主よ変えてください、という心からの悔い改めの願いから始まり、主の心の内にある熱い愛を知って、地域、町の人たちへの救霊の情熱がほとばしるような泣き叫びのとりなしへと変えられていきたいと願ってやみません。坂 達也】

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29 06月

二種類の主の臨在      ウェイド・テーラー   6月29日


二種類の主の臨在 

ウェイド・テイラー 
(階段の秘密-雅歌による霊的成長の手引き から抜粋)

主の臨在には二種類あることを知らねばなりません。

第一のものは、救われた者すべての内に来てくださる「内住の臨在 abiding presence」です。イエスを救い主として受け入れさえすれば、聖霊は必ず与えられます。すべて救われた者にとって、聖霊の内住は現実のものであり、私たちはそれを確信することができます。聖霊は誠実であられ、私たちの救いを保ち、イエスというお方を私たちに活き活きと示してくださいます。

第二のものは、主が知性、意志、感情を持ったパーソン(人格)として来られる臨在です。主は私たちの霊の小部屋にはいることを切望され、そこで私たちと語りあいたいと願われるのです。そして、そこから更に私たちを主の部屋につれて行ってくださり、 主の御計画を打ち明けてくださいます。このような主の訪れは「顕現的な臨在 manifest presence」 と呼ばれ、これを受けるには条件があります。主が私たちの霊の扉をたたかれるときに、それを識別する力と正しく応答する力とは、私たちが自分の「霊的感度」や「霊的姿勢」をどれだけ訓練し発達させているかにかかっています。ですから、私たちはいつでも自分の霊が主にしっかりと向いているようにし、主が私たちと交わりを持ちたいと願ってこられるときには、それをすぐ察知できるようにしていなければなりません。

イエスはヨハネ福音書で、ご自分を現されるときに必要な私たちの条件を明らかにされています。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 ヨハネ14:21

私たちの主を愛する気持ちが大きくなるにつれて、主が訪れてご自身を現わして下さるのを期待しながら待つようになっている自分に気がつくでしょう。私たちは主が来られたとき、自分の霊の戸をどうやってあければいいかを学ぶ必要があります。

新生したとき私たちは霊に生まれ、「新しく造られた者」となります。肉体の感覚が成長とともに徐々に発達するように、私たちの新しく造られた霊的感覚もどんどんと発達していかねばなりません。この内なる霊的感覚によって私たちは主の現われを察知するのです。

黙示録3:20a
「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく…」

主との友情を心から願う人たちは、すばやく私たちの霊の戸をたたく主に応答して、自分の霊の小部屋へと主を招き入れます。この部屋は私の内なる人の中にあり、主と交わりをする場所です。それは私が主とふたりきりになるための特別の私の部屋であり、又、主が私とふたりきりになるための主の部屋なのです。というのは、私が一緒に食事をしてください、と主を私の部屋に招きいれると、主はそこから私を主の部屋への階段を教え、導いてくださり、そこで私は主とともに食事をするのです。そこで私は主のいのちに与り、主と一つになるのです。

雅歌5:2-3では、花婿が花嫁の都合の悪いときに訪れようとしましたが、花嫁はそれに答えませんでした。花嫁が「部屋の戸」を開けるのを躊躇したので、花婿は落胆してそこを去ります。しかしながら、彼は花嫁に「賜物と祝福」 を残していきましたが、それが「主ご自身の現われ」のすばらしさに比べれば、全く価値のないものであることを、彼女がはっきりとわかるようにしたのです。イエスは私たちが主を「祝福を与えてくださる方」としてのみ知るのではなく、「一人のお方」として主ご自身を知ることを熱望しておられるのです。

雅歌の時代には、家の戸の取っ手は内側にありました。ですから、戸を開けるためには、小さな穴に手を差し入れて中の取っ手をはずさねばなりませんでした。主は花嫁に会いたいと熱望されて、戸の穴に手を入れて取っ手をはずそうとしましたが、開けることはしませんでした。私たちの心の小部屋の戸は、私たちがコントロールしていて、私たちにしかあけられないのです。主がこのよう手を差し伸べられたことは、花嫁の心をかき乱しました。

箴言5:4
「私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心はあの方のために立ち騒ぎました。」

主は決して私たちのプライバシーを侵害することはありません。私たちが戸をあけなければならないのです。主があけることは決してありません。この原則は聖書の中にはっきりと書かれています。主は外に立ち、戸をたたいて私たちが戸をあけるのを待っておられるのです。もし、戸をあけなければ、主は去っていかれます。

黙示録3:20b
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって…」

花婿の手が取っ手のほうに伸ばされるのを見て、花嫁は彼の思いを知り、やっとそれに応答して戸をあけます。

雅歌5:5-6
「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。私が愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。」

彼女が戸をあけたとき、主はもうそこにはいなかったのです。彼女の応答が遅れたために、主は彼女の部屋の戸口からご自分の「顕現の臨在」をやむなく取り去られました。しかし、主がそこにおられた結果として、取っ手に油が注がれていました。彼女が取っ手に触ると油注ぎが彼女の手にあふれました。それは主が去られるときに、彼女に手一杯の祝福を置いていったからです。以前でしたら、彼女は主がおられなくてもこの祝福だけで十分満足していたのですが、いまは彼女はうろたえ、花婿なる主ご自身の臨在を熱望するようになったのです。

花婿が訪れたときに花嫁がすぐに応答しなかったという失敗の経験は、彼女にとって大切な成長のステップとなりました。彼女はすぐに応答してさえいれば、彼の奥の部屋にのぼっていくことができたという「秘密」を学んだのです。主の「顕現的な臨在」に応答するチャンスを彼女は今回逃がしてしまいました。しかし、その苦い経験を通して、主が自分の部屋をノックされるときは、すぐにそれが聞こえるように、自分が早急に内なる霊的感度を養わなければならないことを学んだのです。また、自分
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29 06月

主との交わり       坂 柚実子         6月29日


主との交わり

私たち夫婦は、ほとんど毎日一緒にいます。主人が家で仕事をするようになった数年まえから、かなりそういう感じではありましたが、ハワイに来てから特にそうなりました。そして、日本伝道旅行のときなどは全く24/7の状態となります。飛行機の中、電車の中、車の中、レストランの中、教会の中、祈りの歩行中、ホテルの中等々すべて一緒です。ホテルの部屋に二人でいて、それぞれが静かな時間を持ちたいときなど、お互いが邪魔なような感じをもったことも以前はありますが、今はそれにもすっかり慣れてしましました。電車の中で空いている席が並んでないときは、やむなく離れて座りますが、どちらかの席の横があくと、もう一人がそちらに移動して一緒になります。(別に一緒にいて何をするわけでもなく、4時間くらいの道中の間、一言も話さなかったこともあります。全く日本的な夫婦ですね。)

主人とはこのようにいつも一緒にいるのですが、では、私はイエス様をどのくらい身近に感じているかなと、考えます。まだ結婚する前に聞いた一つの話を、私はなぜかいつも思いだすのです。それは一人で住んでいるクリスチャンのおばあさんの話です。近所の人が「おばあさん、一人暮らしで寂しいでしょうね。」というと、おばあさんは「いえいえ、私はいつもイエス様と一緒だから、寂しいことなんかありませんよ。」と答えたという、それだけの話です。これを聞いたときは、理解できなかったし、信じられませんでした。つまり、私はクリスチャンではありましたが、イエス様の存在をそんな身近に感じることができるという信仰を持っていなかたし、知りもしなかったからです。

その話を聞いてから40年以上経った今、主の臨在に関して少しずつ理解を与えられていることは感謝なことです。この数日、ウェイド・テイラー師の「The Secret of the Stairs」 という本を読んでいました。サブ・タイトルは「雅歌による霊的成長への手引き」というものです。テイラー師はアメリカで主との親しい交わりを自ら体験し、それを教えることのできる第一人者だと思いますが、この本の中で主の臨在についての説明を書いておられます。

彼は主の臨在には二種類あることをはっきり理解しなくてはならないといいます。一つは、イエスを救い主と信じた者すべてに与えられる内住の聖霊の臨在(abiding presence)であり、もう一つは主が現れてくださる顕現的な臨在(manifest presence)であるということです。 そして、ヨハネ福音書の14章21節後半の「…わたし自身を彼に現します。」(新改訳)、「之に己を顕すべし」(文語訳),「and (I)will manifest myself to him.」(KJV)」はこの特別な主の現れを指しているとのことです。(今週の「主と個人的に深い交わりを持つためのメッセージ」欄に紹介してありますので、ぜひお読みください。)

主の臨在を歌った賛美は沢山あります。それらは、きっと素晴らしい主の臨在を体験した人の霊から生まれた歌なのだと思います。私たちもそんな賛美を歌うときに、賛美の中に住まわれる主の臨在に触れられることがあります。私たちはそれを喜びますが、それだけではなく、もっともっと主を心から求める「主のmanifest presenceを待ち望む者」になりたいと思わせられた本でした。(終わり)


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