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Walk With God Ministries

29 6月

二種類の主の臨在      ウェイド・テーラー   6月29日


二種類の主の臨在 

ウェイド・テイラー 
(階段の秘密-雅歌による霊的成長の手引き から抜粋)

主の臨在には二種類あることを知らねばなりません。

第一のものは、救われた者すべての内に来てくださる「内住の臨在 abiding presence」です。イエスを救い主として受け入れさえすれば、聖霊は必ず与えられます。すべて救われた者にとって、聖霊の内住は現実のものであり、私たちはそれを確信することができます。聖霊は誠実であられ、私たちの救いを保ち、イエスというお方を私たちに活き活きと示してくださいます。

第二のものは、主が知性、意志、感情を持ったパーソン(人格)として来られる臨在です。主は私たちの霊の小部屋にはいることを切望され、そこで私たちと語りあいたいと願われるのです。そして、そこから更に私たちを主の部屋につれて行ってくださり、 主の御計画を打ち明けてくださいます。このような主の訪れは「顕現的な臨在 manifest presence」 と呼ばれ、これを受けるには条件があります。主が私たちの霊の扉をたたかれるときに、それを識別する力と正しく応答する力とは、私たちが自分の「霊的感度」や「霊的姿勢」をどれだけ訓練し発達させているかにかかっています。ですから、私たちはいつでも自分の霊が主にしっかりと向いているようにし、主が私たちと交わりを持ちたいと願ってこられるときには、それをすぐ察知できるようにしていなければなりません。

イエスはヨハネ福音書で、ご自分を現されるときに必要な私たちの条件を明らかにされています。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 ヨハネ14:21

私たちの主を愛する気持ちが大きくなるにつれて、主が訪れてご自身を現わして下さるのを期待しながら待つようになっている自分に気がつくでしょう。私たちは主が来られたとき、自分の霊の戸をどうやってあければいいかを学ぶ必要があります。

新生したとき私たちは霊に生まれ、「新しく造られた者」となります。肉体の感覚が成長とともに徐々に発達するように、私たちの新しく造られた霊的感覚もどんどんと発達していかねばなりません。この内なる霊的感覚によって私たちは主の現われを察知するのです。

黙示録3:20a
「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく…」

主との友情を心から願う人たちは、すばやく私たちの霊の戸をたたく主に応答して、自分の霊の小部屋へと主を招き入れます。この部屋は私の内なる人の中にあり、主と交わりをする場所です。それは私が主とふたりきりになるための特別の私の部屋であり、又、主が私とふたりきりになるための主の部屋なのです。というのは、私が一緒に食事をしてください、と主を私の部屋に招きいれると、主はそこから私を主の部屋への階段を教え、導いてくださり、そこで私は主とともに食事をするのです。そこで私は主のいのちに与り、主と一つになるのです。

雅歌5:2-3では、花婿が花嫁の都合の悪いときに訪れようとしましたが、花嫁はそれに答えませんでした。花嫁が「部屋の戸」を開けるのを躊躇したので、花婿は落胆してそこを去ります。しかしながら、彼は花嫁に「賜物と祝福」 を残していきましたが、それが「主ご自身の現われ」のすばらしさに比べれば、全く価値のないものであることを、彼女がはっきりとわかるようにしたのです。イエスは私たちが主を「祝福を与えてくださる方」としてのみ知るのではなく、「一人のお方」として主ご自身を知ることを熱望しておられるのです。

雅歌の時代には、家の戸の取っ手は内側にありました。ですから、戸を開けるためには、小さな穴に手を差し入れて中の取っ手をはずさねばなりませんでした。主は花嫁に会いたいと熱望されて、戸の穴に手を入れて取っ手をはずそうとしましたが、開けることはしませんでした。私たちの心の小部屋の戸は、私たちがコントロールしていて、私たちにしかあけられないのです。主がこのよう手を差し伸べられたことは、花嫁の心をかき乱しました。

箴言5:4
「私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心はあの方のために立ち騒ぎました。」

主は決して私たちのプライバシーを侵害することはありません。私たちが戸をあけなければならないのです。主があけることは決してありません。この原則は聖書の中にはっきりと書かれています。主は外に立ち、戸をたたいて私たちが戸をあけるのを待っておられるのです。もし、戸をあけなければ、主は去っていかれます。

黙示録3:20b
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって…」

花婿の手が取っ手のほうに伸ばされるのを見て、花嫁は彼の思いを知り、やっとそれに応答して戸をあけます。

雅歌5:5-6
「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。私が愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。」

彼女が戸をあけたとき、主はもうそこにはいなかったのです。彼女の応答が遅れたために、主は彼女の部屋の戸口からご自分の「顕現の臨在」をやむなく取り去られました。しかし、主がそこにおられた結果として、取っ手に油が注がれていました。彼女が取っ手に触ると油注ぎが彼女の手にあふれました。それは主が去られるときに、彼女に手一杯の祝福を置いていったからです。以前でしたら、彼女は主がおられなくてもこの祝福だけで十分満足していたのですが、いまは彼女はうろたえ、花婿なる主ご自身の臨在を熱望するようになったのです。

花婿が訪れたときに花嫁がすぐに応答しなかったという失敗の経験は、彼女にとって大切な成長のステップとなりました。彼女はすぐに応答してさえいれば、彼の奥の部屋にのぼっていくことができたという「秘密」を学んだのです。主の「顕現的な臨在」に応答するチャンスを彼女は今回逃がしてしまいました。しかし、その苦い経験を通して、主が自分の部屋をノックされるときは、すぐにそれが聞こえるように、自分が早急に内なる霊的感度を養わなければならないことを学んだのです。また、自分
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