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Walk With God Ministries

22 06月

傷ついた心と父の愛          坂 達也   6月22日


傷ついた心

特にここ数年のことかもしれませんが、日本に行きますと、少し気になることに出くわします。それは日本のクリスチャンの間で「自分は誰々に傷つけられた」とか「深い昔の傷を何とかしなければ」と言うことを、まるでクリスチャンが皆、そのような傷を持っていることが当たり前であるかのように言い、それへのカンセリングが少し大げさに言えば「もてはやされている」ことです。

 そもそも「傷つく」とか「傷ついた」とはどう言うことでしょうか。それは人間の罪の性質から生じる「肉の行い」であることはガラテヤ5:20,21等を見れば明らかです。それを具体的に羅列してみると、敵意 争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・分派、ねたみ、紛争・不和、殺意 憎悪、悪く言うこと、批判、虐待、いびる、非情、謀反心、反抗、虚栄に走る、等々…があります。そしてその結果として:感情を害する、不快になる、侮辱されたと思う、赦せない、反感・反目、立腹、怒りを感じ、憤る、憎しみを持つ、うらむ、人間関係が冷たくなり、愛が冷え、疎遠になる、…のではないでしょうか。
この現象をひっくるめて「傷つく」「傷ついた」あるいは「人間関係が傷ついた」と言い、その多くは「プライドが傷つく」ことでもあると思います。

 そこで私が気がつくのは、もしこれをクリスチャンが大問題にしているのなら、一体私たちが受け入れて信じたはずの「十字架」はどこへ行ってしまったのかと言うことです。
 イエス・キリストが私たちのためになぜ十字架についてくださったのか――それはまさにこの「傷つく」ことを私たちに替わってイエス様ご自身が「傷つかれ」その報いと根を処理してくださったのではなかったのでしょうか。
 1ペテロ2:24,25に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ここにこそ私たちがクリスチャンになった最大の理由があり、私たちの信仰の根本ではなかったのでしょうか。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言うみ言葉を日常よく使っているマチュアなクリスチャンなら、少なくとも自分の「心の傷」は「いやされた」と言う「信仰」に立つことがそんなに難しいことなのでしょうか。

ガラテヤ5:24には、 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や、欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。
ロマ書6:6-7でも、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と過去完了形で書かれています。
 罪とその性質から来る上記のような諸々の問題から完全に開放されるには「自分に死んでしまう」つまり、「自分の肉を十字架につけてしまう」以外に解決方法はないのです。もしそれ以外に解決方法があるのなら、イエス様は敢えて私たちのために十字架につくことはされなかったと思います。

そのことを端的に言い表わしているのが1コリント1:18です。「十字架のことば(ロゴス)は、滅びに至る人々にはおろかであっても、救いを受ける私たちには、神の力(ドウーナミス)です。」つまり、十字架のメッセージを本当に自分のものとするときに、それは奇跡を起こすような「力」が及んで、肉と罪の性質から来る一切の「傷つき」を払拭できるのです。これこそクリスチャンとしての最大の特権であると思います。どのようなカンセリングにせよ、それを受ける前にもう一度あなたの内におられる聖霊様から「十字架のメッセージ」をお聞きし、真に理解することによって、あなたの心の傷がいやされる力を受けることが大切であることを私は強調したいのです。
  私たち霊に生まれ変わったはずの、十年選手のベテラン・クリスチャンが、いつまでも肉の性質を十字架にかけようと努力しないで、それを「わがままに」放置したまま、「いつまでも傷ついている」ことを何か新しい大問題かのように取り沙汰していてよいものでしょうか。

 しかし、「自分に死ぬこと」によって「心の傷」を取り去ることが難しいからこそ、聖書ではそのことが繰り返し言われているのも確かです。心の傷がいやされることは「傷つけた人を赦す」ことに深く関係していますから、本当に難しく並大抵なことではありません。ですから私は「聖霊様からカンセリングを受ける」ことを基本とするクリスチャン・カンセリングのやり方が悪いと申し上げているのでは決してありません。イエス様は忍耐強く、やさしい方ですから、私たちが「心の傷」の問題を正直に提起すれば、聖霊様を通して主は解決のためのカンセリングをていねいにしてくださいます。(もっともそれが、人間的なカンセリングを人間的に受けて解決しようとするカンセリングであるなら、多くの場合、未信者のように古い自分を生かしたままで何とかしようとしますから、本当の解決にはなりません。)そこで、私はもっと良い方法を提案したいと思います。

 それは「父の愛」に私たちがもっともっと触れることです。溢れるような父の愛、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様の愛を毎朝、主の前に出てふんだんに受け取ってください。私がいつも提案している「毎日、主と個人的に親しい交わりを持つこと」とはこのことです。そして、一日中父の愛を思い起こしてはその大きな愛に包まれて生きる時に、新しい傷を受けにくくなり、又過去のどのような傷も、たとえ傷跡は残っているかもしれませんが、その傷はもはやうずかないでしょう。
 
よみがえったイエス様の手と横腹には傷跡がありました。私たちがイエス様にお会いする時に、その傷跡をイエス様は私たちに見せてくださるでしょう。イエス様の十字架の傷跡は永遠に残ります。しかし、それは完全にいやされた栄光の痕跡として残るのです。私たちはそのいやされた傷跡の永遠の証し人になるように選ばれた人たちではありませんか。

本日は私たちに与えられたすばらしい溢れるばかりの父の愛に感謝したいと思います。天の父は、私たちにご自分のひとり子のいのちさえも惜しまずに与えてくださった愛を今日も又、ふんだんに与えてくださろうとして待っておられます。その父の愛を今受け取ろうではありませんか。
今回お訪ねしたある教会で、教 会の建物の至る所にセント・フランシス・アシシの祈りのことばが標語として張ってあり、その祈りの一部にこう書いてありました。

憎しみあるところには、愛を
傷あるところには、赦しを
疑いあるところには、信頼を
絶望あるところには、希望を、
闇あるところには、光を
そして、悲しみあるところには、喜びを
もたらすものとさせてください。

聖なる主よ。
慰められるよりは、慰めることを
理解されるよりは、理解することを
そして、愛されるよりは、愛することを
求められますように
与えることによってこそ、真に受け取ることができ
赦すことによってこそ、真に赦され
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれることが
できるのですから

このことばをモットーとする教会とは父の愛を豊かに受けている教会の一つであるに違いありません。

私は以上のメッセージをこの父の日に与えられました。(終わり)


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16 06月

カナの婚礼における主の奇跡


カナの婚礼における主の最初の奇跡

 今回の日本旅行の終わりに近い頃、ある教会でメッセージをしておりました。すると突然、今までにあまり経験しないことが起こりました。それは、全く準備もしていなかった、思いがけないことを自分が話しているのです。急に私の口からヨハネ2章にあるイエス様による最初の奇跡のお話が、これから起こる私たちクリスチャンの個人的・あるいはキリストの身体(教会)としてのトランスフォーメーションを預言するものであると私が言っているのです。そう言っている自分に驚きながら、水がワインに変わるお話をしていました。しかも内心私は、もしかして私の「口から出任せの、とっさの思いつき」の話を見破ったその教会の牧師にひんしゅくを買っているのではないかとひやひやしているのでした。
 
しかし、その話をして間もなくホノルルに帰って来たのですが、その「とっさに出て来た言葉」にその後少しずつ肉ずけがなされていきました。そして、私が口にしたヨハネ2章に対する「新しい解釈」が単なる「思いつき」ではないことへの確信が強まって行ったのです。
私は今回の旅行の主なメッセージである、「キリストの身体である私たち教会が先ずトランスフォーメーションされなければならない」と言うテーマの例として、三人の弟子たちの見ている前で、イエス様が輝く栄光の姿に変貌したマタイ17章のお話は、まさに私たちが真に栄光の「キリストの身体」に変貌(ここで使われている原語はトランスフォーメーションと言う英語に当たる)しなければならないことを、私たちを代表する三人の弟子にあらわして見せたのだ、と言う形でお話しました。ですからこのカナでの奇跡は、それと同じように弟子たちにして見せた「キリストの身体のトランスフォーメーション」を意味するものであると言う思いが日毎に深まり、そのことを今朝主から最終的に確認されたと言う思いに至りましたので筆にする次第です。

ヨハネ2:1では、先ず「それから三日目に」と言う言葉が出てきます。これは一日を千年と考えれば、3千年目に入った今の時代を指していないでしょうか。つまり、カナでの婚礼とは主ご自身が私たち、キリストの花嫁との間で行われる「婚礼」を意味する預言であったと解釈できます。ですから「弟子たちも、その婚礼に招かれ」ていたことが書かれていることに意味があると思います。
そして、宴会の「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません。』」とイエス様にうったえました。それに対してイエス様は「わたしの時はまだ来ていません。」と言われましたが、確かにそうでした。しかし窮状をうったえられたイエス様は、手伝いの人たちに外に置いてあった六つの水がめに「水を満たしなさい。」と命令されました。この石の水がめには80-120リットルの水が入ると書かれておりますが、この水の量はちょうど人間の身体一人分に当たります。そして六つのかめの六と言う数字は人間をあらわすと言われます。しかもこの水がめは「ユダヤ人のきよめのしきたり」のために用いるものでした。つまり、キリストの花嫁である私たち弟子は信者同士が清め合い、又、未信者をも清めるための水であるはずなのです。しかもそこの置いてあった水がめには、水が使われたからなのか、それとも全く始めから入っていなかったのか、水があまり入っていなくて、イエス様は縁まで一杯に水を満たしなさいと命令されました。これはキリストの身体になる人たちが満杯になるまで集められたことを意味すると考えられないこともありません。
そして、イエス様はその水であるキリストの弟子をワインに変質(トランスフォーメーション)されました。ワイン、特に良質のものであれば、人が飲めば誰でも非常に喜び、それを提供した主人・花婿を賞賛し、栄光を返さない人はおりません。(11節)
私たちキリストの身体にふさわしい弟子とは、元々人を清めるための水なのですが、それが人が喜ぶ最良のワインに変えられるのですから、これこそ主がこれからなさろうとする、キリストの身体を完成すると言う主にとって最も大事で、最もすばらしい奇跡の御業と言えないでしょうか。
しかも主は良いぶどう酒を終末の最後の時まで取って置かれます。(10節)私たちは今そのような時代に生かされているのです。主にふさわしい花嫁に早くトランスフォーメーションされようではありませんか。

ところで余談ですが、数日前に手にしたダッチ・シーツ師の「祈りの権威」と言う本を読んでいましたら、シーツ師がチャック・ピヤース師とアメリカの50州を回っている時の話が載っていました。テキサス州での集会で、シーツ師が話をしている時にピヤース師が突然壇上に現れ、主からのことばとして、唐突に「もし我々が祈れば、サダム・フセインが7日以内に捉えられる」と預言した後「こんなことが口から出てくるなんて信じられない。とにかく後を頼むよ。」と言う驚きの顔をしたピヤース師がマイクをシーツ師に渡して引き下がったと言うのです。後を引き受けた師は、一瞬ためらいましたが後は力強い祈りと宣言をしたそうです。そして3日後にフセインは逮捕されました。その時のことを回想して師は、ピヤース師が主からの預言の啓示を受けた時、もしそのことを言う前に自分で「考えてしまっていたら」恐らくそのフセインの預言を口にはしなかったかもしれないと言っていたと語っています。
勿論ピヤース師の場合は、私の場合と比べ物にならないほどレベルが上であることは言うまでもありません。しかし、主から啓示を受ける時とは、突然のこともあり得ると言うことにおいて、私はなるほどと思い、一つ勉強しました。確かにとっさに受けた啓示を口にしてしまうのは勇気が要り、危険が伴います。しかし、一方で預言的であるためには、そのようなリスクも主は敢えて私たちに踏ませて訓練をされるのかもしれないと思った次第です。(終わり)


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15 06月

不都合なときの主の招き  フランシス・フランジペイン  6月15日


不都合なときの主の招き

フランシス・フランジペィン

神を信じる人は数多くおりますが、真に神を礼拝するものはわずかです。真の礼拝者たちは、神をあがめることを一番の喜びとします。彼らの礼拝はかぐわしい香りとして立ち上り、それは日曜の教会での礼拝の時間だけではなく、彼らにとって不都合なときにさえ、彼らは主を礼拝するのです。

真の礼拝者は、朝、仕事や学校に行く前に早く起きます。主と静かな時間を過ごすために、家族よりも早く起きるのです。 何かで待たされるときにも、イライラしないで、かえってその困難な事態や待たねばならない時こそ神を讃える機会として用います。
例えば道路が渋滞しているとき、あなたの隣の車の中に真の礼拝者が座っていて、プレイズ・ソングに合わせて賛美しているかもしれません。

真の礼拝者は不都合なときにも神を礼拝する奥義を習得した

私も、自分にとって不都合なときに神を礼拝するようにと、主に導かれることがあります。一人で書き物をしていたり、重要な仕事をしているときに、急に私の霊の中で何かを感じ、主が近くにおられることに気がつきます。けれども、主は私に礼拝することを命令されるのではなく、静かに招いてくださるのです。礼拝する時間は10分か15分くらいのときもありますし、もっと長いこともありますが、とにかく私は自分がそれまでしていたことをやめて、ギターを手にとって主を礼拝し始めます。

正直なところ、私はギターが上手なわけではなく、コードをいくつか知っているだけなのです。でも私が賛美するとき、天におられる王がそれを喜んでくださることが私にはわかります。主は私が御前に出ることを許され、不思議なことですが、私が歌うとき主は私の歌だけを聞いていてくださるという思いを、私に与えてくださるのです。

主からの招き

礼拝するときは自分のすべてをささげ切りたい、と私も思います。しかしながら、私が克服しなければならない最大の障害は、主が礼拝するようにと招いてくださるときは、私にとって都合が悪いことが多いことです。まるで主は私が大切な仕事に集中するのを待っておられるかのようです。しかもその仕事は主が完成せよ、と言われたことなのです。又あるときは、夜遅く、私がまさに眠りに落ちようとするときに主を賛美する機会が訪れることがあります。
しかし、私が不都合な時間にもかかわらず主の招きに応じることそれ自体が、事実、私の賛美をもっと純粋で甘美なものにするのです。
日曜礼拝の賛美は楽器の音や周りの人に助けられることがあることは確かでしょう。そこには礼拝できる雰囲気がありますから、私の賛美は純粋に私のものではなく、他の人たちから受けたものという可能性があります。それと違って、主が不都合なときに来られ、私がそれに応じるならば、私の礼拝が真実であり、私の人生で神が一番大切なお方であることを証することになります。

主が前触れもなく訪れてくださるときのもう一つの大きな喜びは、主は大掛かりな礼拝を期待されてはいないということです。日曜の礼拝は確かに素晴らしいものです。しかし、主はプロの歌ではなく、私の心からの賛美だけを求めておられるのです。

もう一つの祝福は、私が主を礼拝し始めると、多くの場合、妻もそれに気づいて一緒に賛美してくれることです。私が礼拝していると、後から妻の声が聞こえてくるのです。彼女も私とおなじように主の臨在の中に浸っています。彼女はその時何をしていようともそれを止めて、主の前にひざまずくことを愛しています。そして、二人での礼拝は真に甘美なものとなります。

祈りと賛美

祈りと賛美には違いがあります。祈りは、私たちや私たちの回りの世界の必要を神に嘆願するものです。この世は切実で急を要する必要を持つ人々で満ちていて、彼らの願いは天の父が喜んで受け取ってくださり、光に満ちた王座の前で一つ一つ聞いてくださいます。しかし、賛美は私たちの必要を話すことではありません。それは私たちの愛の表現の極致なのです。自分の必要いかんにかかわらず、私たちが神にささげるのが賛美です。

福音書にはイエスに癒しを求めた10人のらい病を患っている人たちのことが書かれています。主が彼らの願いを聞きいれ、癒されたとき、彼らは御前を去っていきました。 しかし、一人だけは引き返してきました。「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17:16)」と書かれています。感謝にあふれて彼は神を礼拝しひれ伏したのです。 皆さん、多くの人は祈り、そして答えを得ます。しかし、引き返してきて主を礼拝するものは少ないのです。

愛する皆さん、私たちの心から純粋な賛美が流れ出すならば、主は私たちを主の臨在の中に度々招いてくださるでしょう。私たちの心の戸口に主の招きは静かに近づいてくるのです。主からの招待は、あなたが「主を愛したい」というシンプルな願いを心に抱く、という形をとって来るでしょう。あなたがその心の思いに素直に従うならば、あなたは主の臨在へと導かれていくことでしょう。
私たちが主を礼拝すると、主は私たちに内なる力と平安を与えてくださいます。感謝をもって主に近づけば、主は私たちを愛と喜びとで満たしてくださいます。 主を真に礼拝する者となる特権をいただいていることを喜びましょう。たとえそのチャンスがあなたに不都合なときにやってきたとしても。(終わり)


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15 06月

日本産のマンゴの話     坂 柚実子      6月15日


日本産マンゴの話

これは5月に、私の友人と日本で会ったときに聞いた話ですので、日本の皆様はもうご存知かもしれませんが、私にはとても面白かったので、ここに書きます。

宮崎でユニークなマンゴの栽培がされています。それは「完熟マンゴ」の生産です。マンゴがまだ青いときに、一つ一つに網袋をかけます。マンゴは網の中で熟して、時満ちて完熟すると、人の手をかりずに自分からポトリと網の中におちます。完熟していないときに収穫され出荷されてくる輸入物とは比べ物にならないほどの甘さ、おいしさだそうです。日本人の研究熱心にはいつも驚かされますね。ちなみに、このようにして収穫されるマンゴは大層高価なもののようです。

この話がどうして私にはとても興味があったかといいますと、ヘンリー・グルーバー師の天国での経験話と結びついたからです。グルーバー師は使徒パウロのように天国に行った経験を持っておられます。ある祈り会の中で、霊が天国に引き上げられ、気がつくと自分は天国の黄金の道の上に立っていました。彼の前に一人の白い衣を着た人が歩いていて、それはすでに天に召されたクリスチャンでした。グルーバー師が見ていると、その人は果物の木の下に行き、果実の下に手を差し伸べると、果実はその人の手のひらの上にポトリと落ち、木は葉っぱを打ちならし、「栄光、賛美、誉が主にあるように。私たちが贖われた者に仕えるのはなんと嬉しいことでしょう。」と歌を歌ったといいます。木は人の食べたいという思いが分かり、自分から進んで実をささげたのです。

グルーバー師はこの話を、私たちの伝道の仕方に適応して用いられることがあります。人々にイエス様を伝えるとき、まだその人が信じる用意がないのに無理に信じさせようとしてはいけない、つまり、青いうちにもぎ取ってはいけない、ということです。神様のその人に対する定められた救いの時には、喜んでポトリと手のひらに落ちてきますよ、その時を待ちなさい、といわれます。

又、伝道の仕方に関してグラハム・クック師も次にように言っています。

「私たちの心の中にある神様の姿こそが、この世の人たちが見てひきつけられるものなのです。神様の愛が私たちから流れ出ていれば、教会に来るようにと人々を説き伏せる必要はないはずです。今教会でしている伝道方法は、人々に教会に来るようにと薦めるのに力を入れすぎています。私はそれを好ましこととは思いません。私は人々がイエス様を見出すようにと願います。彼らはイエス様を見出す過程で自分に合う教会を見つけていくことでしょう。人々を集会に来させることが私たちのゴールであってはなりません。そうではなく、あなたの生き方を見て、人々になにか不思議だなあと思わせ、なにか質問したいような気持ちにさせ、なにか神様をもっと知りたいと思わせることが、私たちのゴールであるべきです。神様の愛は無条件で慈しみ深く、あふれ出て見返りをもとめないものなのです。」

いかがでしょうか。私たちが教会の中だけでなく、仕事場、生活の場でイエス様の愛、知恵を大胆に表わしていけるときが今日本にも来ているのを今回の日本旅行で感じました。イエス様の愛という太陽を受けて完熟したマンゴが落ちてくるのを、忍耐をもって待っている網のような方が、きっと沢山おられることでしょう。ポトリ、ポトリという音がもうすぐ日本中に響いてくることを信じています。(終わり)


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13 06月

ジョイフルサウンド・ミニストリーズ・ニュースレター・14号


JOYFUL SOUND
MINISTRIES

  ジョイフル・サウンド・ミニストリーズ
ニュース・レター No.14 2006年      発行日  2006年6月10日



沖縄レポート2.
「リバイバルへの備え」(霊の畑を耕す働き)


                     アガペ・コミュニティー・チャーチ牧師  根間 民雄

 「私たちの心のうちで燃えたではないか。」これはエマオ途上における主イエスの二人の弟子たちが話し合ったことばです。去った2月14日、グルーバー師を那覇空港でお見送りした直後から、私の心に響いていることばでもあります。まさしく、主がグルーバー師と共におられ、働かれ、沖縄の霊の畑を耕され、大きな障害の石を取り除き、リバイバルへの備えを着々と進めておられることを感じさせられ、リバイバルへの期待がふくらむばかりです。
 グルーバー師は今回27日間滞在され、17教会と3つの団体、そして、多くの個人、家庭集会、病院を訪問し、相変わらず精力的な奉仕をしてくださいました。その中には5つの初めての教会と沖縄実践神学校での講義の奉仕も含まれており、来年はさらに、初めての6つの教会から既に招きがあり、少なくとも5―6週間の滞在が必要とされます。

 さて、はじめに昨年の津嘉山の森のことをレポートさせていただきます。今度も泡瀬バプテスト教会の具志堅牧師と兄弟姉妹、そしてグルーバー師があの山に登られましたが、頂上の拝所がなくなっており、霊的圧迫も誰も感じなかったという証しを聞いて、私は早速、その山に登ってきました。中腹の三大神の拝所はまだありましたが、頂上の拝所は確かになくなっており、さらに昨年までは呪われた地域のように放置されてあった娯楽センターは会社の事務所に生まれ変わり、周囲のビジネスも活性化され、霊的雰囲気も大きく変わっていました。ハレルヤ!今後もますます地域の霊的、経済的、社会的繁栄が拡大され、リバイブされ、主の栄光があらわされ、トランスフォーメーションが期待されます。
(1)
 似たようなケースでは、北中城村の喜舎場でも起こっています。昨年、島袋幸枝姉の案内で姉の住んでいる家やその周辺、その地域を支配している御嶽を祈りの歩行しました。今年行ってみると、近くにあった大きなホテルのビジネスは再開されていますし、その隣の大きなレストランも長年放置されてあったのですが、昨年の地滑りで破壊されたおかげで、新しいビジネスのための建設工事が進められていました。又、島袋姉は霊的圧迫から開放されて、House of Praiseの開拓伝道を始めておられます。ハレルヤ!

 今年の離島ミニストリーは伊江島でした。伊江島タッチュー〔山〕、アメリカの従軍記者の記念碑、土地闘争、千人洞穴、湧出(ワジー)、ユリ祭りなどで有名な島です。総面積23Km2の33%が米軍用地で、残りの土地に5,400人の住民が住んでいます。その島に28年間自給自足で伝道牧会を続けておられる野村牧師ご夫妻の伊江島キリスト教会があります。その教会の姉妹たちと沖縄本島から参加された比嘉球英牧師、大城啓子牧師、他三人の姉妹たちと教会でのオリエンテーション後、野村牧師の案内で祈りの歩行がなされました。アラウタキで始まり、タッチュー、湧出、芳魂の塔、千人洞穴、アニーパイル碑等々次々と祈りの歩行がなされました。ここでは代表的な場所として伊江島タッチューでの歩行のことだけを報告致します。
 そのタッチューの中腹まで車で行き、そこから徒歩で登りましたが、入り口の所に城山御嶽(グスクヤマウタキ)があり、そこで先ず祈りました。通常の登山経路と違って、その山を一周するような古い小路を通りながら、その道沿いにいくつもある拝所の総ての場所で霊的打ち砕きと十字架の血潮の祈りと勝利を宣言し、喜びと感謝と賛美に満たされました。頂上からは360度の視界でコバルトブルーの海、その向こうには島々眼下には平坦な畑や家々と絶景です。しばらく頂上で祈り、すばらしい景色を楽しんだ後下山しました。この島の最高峰が霊的に奪回されたからには、今後の主の御業が大きく期待されます。

 もう一つの山登りの歩行は、北部チャペルの大城啓子牧師の案内による今帰仁城跡の裏山でした。その山はユタの三大修練所の一つと言われるところです。頂上に着くまでには、ここでもたくさんの拝所があり、途中からはロープを頼りに30分ぐらい登らなければならない険しいところです。頂上付近は風が強く吹き飛ばされそうで、急な岩場をしっかりつかみながら登りました。頂上からは何とすばらしい見晴らしのこと。青い美しい海の向こうに伊江島や他の島々が見え、眼下には今帰仁城跡の全景が見えます。
グルーバー師と北部チャペルの兄弟姉妹たち8人の一行は、このような敵の重要な要塞が今回の歩行で奪回された勝利の喜びに満たされつつ祈りの歩行を終えて、夜の集会へと
導かれ、そこでも又すばらしい恵みの時が与えられました。過去にもリバイバルを経験したこの今帰仁の地に再びリバイバルの炎が燃やされることが大いに期待されます。
(2)

 アガペ・コミュニティー・チャーチによるオープン・ミーティングでは、イラン出身のイスラム教徒の夫妻がはじめてクリスチャンの集会に導かれ、キリストの良き知らせを知り、祈りのミニストリーも受けました。感謝、感謝を連発しながら帰って行きました。この夫人の弟はイランに住んでおり、クローン病という難病で医者から見離された状態でしたが、グルーバー師の祈りを境に、日ごとにいやしのきざしが見え始め、手術出来るほどに回復し、その手術のための祈りのリクエストもありました。ハレルヤ!
 いのちの水のキリスト教会による祈りの歩行では、いつもは入ることの出来ないお寺の境内に入ることが出来、建物の奥まで入って祈りの歩行が出来たことや、沖縄リバイバル・チャーチでは300-400人の集会で主の不思議な臨在と平安と喜び、その地域にあるいくつもの霊場での勝利等々、不思議としるしの証しは尽きることがありません。

== 数々のいやしの奇跡が起こる ==

 次に、今回すばらしい数々のいやしの御業が起こった証しをご紹介します。

金武バプテスト教会
 城間正人兄(50歳)はグルーバー師が来られる3日前に電気のこぎりで左手の親指の付け根をほとんど切断してしまい、手術を待っていたところ、病院でグルーバー師を見つけたので追いかけて行き、祈ってもらいました。師は後遺症もなく、傷は完全にいやされるようにと祈った上で「もう大丈夫で
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