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Walk With God Ministries

06 03月

天国への門   ジョン・ポール・ジャクソン  3月6日


天国の門

ジョン・ポール・ジャクソン

神の現われを愛し心からそれを待ち望んでいる者たちに、主はご自分を喜んであらわしてくださいます。

神のすばらしい奥義の一つは天の門の存在です。 そのドアや通路を通って私たちは天に出入りすることが出来ます。天の門の入り口に立つと、天が開いているような感じがします。
天の門というのは、天からの光の通路で、天使や天にいるものたちが、悪霊に邪魔されずに自由に出入りできようにと神に守られている場所です。神はその門を、第三の天からはじまり、第二の天を通って地上で開いているようにつくられました。

聖書の中には何箇所もこの天の門、通路のことが書かれています。

詩篇24:7 「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」
詩篇78:23 「しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、」

箴言8:34 「幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」

ヨハネ1:51「そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

黙示録4:1-2 「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」 たちまち私は御霊に感じた。…」

黙示録に書かれている「門」は、神が私たちを天の領域へと招きいれてくださっていることを示しています。主は私たちを友と呼んでくださり、天の門を開いて多くの天の軍勢がかつてなかったほど頻繁に地上に訪れることを望んでおられるのです。

ヤコブは天の門を発見した

ヤコブは父祖アブラハムが「主の御名によって祈った(創世記12:8)」場所で一夜を過ごしました。彼が契約の石を枕にしたとき、天の門が開いたのです。ヤコブは天の使いがはしごを上り下りする幻を見ました。彼は目を覚ましたときに次のようにいいました。

創世記28:16-17 「ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

ヤコブは天のはしごの正確な位置を印すために、枕にした石を記念の柱として立て、この場所を「べテル、神の家」と呼びました。この後数度、主はヤコブに「べテルに戻れ」と指示され、そこでヤコブに語られたのでした。

主はどこででも語ることができるお方なのに、どうして「これこれの場所で私はおまえに語るから、そこに行け」といわれるのかと、不思議に思ったことはありませんか。

神がエリヤに語られたとき、主はホレブ山(シナイ山とも呼ばれる)に行くようにと彼に告げました。そこで主はエリヤにもっと詳細に語られたのです。(I列王記19:11-18)

天へと続いている門は、現在も地球上に存在しています。エルサレムの町は天の門です。 実にエルサレムは地上で一番主要な天の門なのです。ダビデやイザヤが、エルサレムは地の中心であると言った理由はそこにあります。 何故敵が躍起になってエルサレムを占領しようとしていると思いますか? それはこの天の門を塞いでしまおうとサタンがしているからなのです。


リック・ジョイナー師が証していることですが、ノース・キャロライナ州のモラビアン・フォールにある彼らの地所で、彼や彼のスタッフは天使の訪問を幾度となく受けているそうです。そこはかつてジンゼンドルフ伯爵とモラヴィア兄弟団によって所有されていた地所で、モラヴィアン兄弟団が100年以上祈り続けてきたゆえに、そこには数個の天の門が存在しているのです。


ニューハンプシャーのサトンという所に私たちのストリーム・ミニストリーズに与えられた90エイカーの土地があり、そこには一つの天の門があります。明らかに敵もそのことを知っていて、この門を私たちに使わせないように妨害し、その門が第二の天までしかとどかないようにしているのです。私が地所の中で一番高台になっている所に行くたびに、必ず魔女たちによって作られた悪魔の祭壇を発見するので、いつもそれを打ち壊してきました。魔女たちはこの地所に無断で入ってきては、神がかつてご自分をあらわされたことのある場所を汚していくのです。神はこの悪魔の「高きところ」を私たちが取りもどし、神の天使が邪魔されずに行き来することができるようにせよ、と今私たちに命じておられます。

ニュー・エイジに入っている人たちの多くが、この門の存在を知っているのですが、悲しいことに彼らは第二の天までの門しか知りません。彼らの多くは、自分は神から聞いていると思っていますが、実はにせものにだまされているのです。


バビロンで預言者ダニエルは主権と戦った天使に出会いました。しかしながら、ペルシャの君が国を支配していたので、第三の天の門は閉ざされていて(キッチンの流しがごみでつまってしまったように)天からの力の流れが止められていたのです。しかし、主はそれらの天の門をこれから大いに用いようとしておられ、私たちの間に天使が自由に出入りできるようになるように、その場所を敵の手から奪いかえすようにと私たちを召しておられるのです。

天の門を開く鍵は私たちの心の働きの中にある

ペンテコステの日に天の門を開いた鍵は、信徒たちの一致でした。彼らは共に集まって「一つになって(in one accord)」いたと聖書は言っています。 その時、突然、天の門が開いたのです。激しい風のような天からの音が家全体に響きわたりました。超自然的な炎が彼らの上にあらわれ、彼らは聖霊で満たされました。(使徒行伝2:1-4)
聖霊の力ある油注ぎと、かつてなかったような天の軍勢の訪れを、神が与えようとしておられる時代に私たちは今、突入しているのです。(ヨエル2:28-29) この神の霊の新しい波は、大いなる力をもってやってきて、いやしと命を与えるでしょう。それはエゼキエルが幻で見た命の川のようです。(エゼキエル47)

これから来ようとしている神の霊の流れは非常に力強く、大規模な世界的リバイバルを解き放つでしょう。クリスチャ ンは油注ぎを受け、イエスがしたよりも大いなる業をするための力を受けるでしょう。病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせ、神の御国が地上に来たことを宣言するのです。(ヨハネ14:12) これから神は、多くのクリスチャンに彼らが住む地域のどこに天の門があるかを示し始められ、それによって彼らは今までより深い霊的洞察力と神からの啓示を受けることができるようになるでしょう。〔終わり〕



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28 02月

懐かしい      坂 柚実子       2月28日


懐かしい

うちの子供たちはアメリカ生まれの二世で、会話は英語を使います。息子はごく簡単な日本語しか話せませんし、娘は、職場では日本語も必要で使っているようですが、通常は英語を使います。その二人が「懐かしい」ということを言うときは、日本語を使うのです。英語の辞書で「懐かしい」を引くと「fondly remembered」とか出てきて、確かにそうだとは思いますが、子供たちにとっては「懐かしい」という言葉のほうが自分の気持ちにぴったりくるらしいです。

息子はニューヨークに住んでいますが、あるアンティーク・ショップで我が家でずっと使っている琺瑯びきのボールと同じのを見つけて、“It was so natsukashii!”と思ったそうです。でもかなりいい値段がついていたので買わなかったと言っていました。娘は、Tシャツを買っていたら、アップリケのしてあるものがあり、それが娘が小さいときに私が作ったスカートのアップリケととても似ていて”It was so natsukashii!”と思ったそうで、買ってきたのを見せてくれました。

子供たちがそういうことを懐かしく思うということに私は興味があり、感慨がありました。自分たちが育ったときに経験した小さな一こま一こまが記憶の中に織り込まれていて、「懐かしい」という思いが理屈を超えて湧きあがってくるのでしょう。彼らも30代になり、「昔」ができてきたのだとも感じます。

ハワイの気候はバラには適していないにもかかわらず、バラの苗が売られています。それはバラがどうしても懐かしくて、少しでも咲くならば植えたい人がいるからなのではないかと、私はひそかに思っています。花の思い出はその人の生い立ちと深く結びついているのかもしれません。私の花の嗜好も「きれいな花」から「懐かしい花」へと年をとるにつれて変わっていく気がしています。

私たちはあまり昔のことを懐かしがってばかりでは、後ろ向きの人生になってしまうかもしれません。けれども、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。」と詩篇103篇にあります。それは主が「咎を赦し、病をいやし」て下さったことや、また、その他の沢山の主からの小さなプレゼントがあるのではないでしょうか。うれしかったこと、楽しかったこと、美しかったことなどの思い出が沢山あることは幸いなことでしょう。それはすべて「あなたの一生を良いもので満たされる」主が下さったものです。

聖歌687番はこんな歌詞です。
「間もなくかなたの流れのそばで
楽しく会いましょう また友達と
神様のそばの きれいな きれいな川で
みんなであつまる日の ああ懐かしや」

この曲はバプテストの牧師であるロバート・ローリーによって作詞作曲されました。彼は1864年7月のとても暑い日に、疲れて横になっていたとき天国の幻を見たのです。輝く御座やそこから流れる命の川のほとりで楽しく集う聖徒たちを幻で見ているうちに、自然に詩もメロディーも出来てしまったそうです。

懐かしいというのは、普通は過去のことに対する気持ちをいいますけれど、ここでは、天国を待ち望む気持ちを歌っています。まだ行ったことはないけれど私たちの国籍のある天国を慕う気持ち、そこで主とお会いし、又、私たちより前に天に召された人たちと再会できる日を待ち望む気持ちを「ああ懐かしや」と日本語で巧みに表現された訳者はどなたでしょうか。(終わり)



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28 02月

超越した命     フランシス・フランジペイン   2月28日


超越した命        
         フランシス・フラジペイン


霊の賜物を伸ばしていく方法とか、人生の目的を発見するための本が、現在、大量に出版されています。そして確かにその大部分のものは注目に値するものです。自分の賜物を知り、神に仕えるためにそれぞれが召された分野において訓練されることは、神の御心です。しかし、その事よりもっと深く基本的で重要な究極的なクリスチャンのゴールがあることを忘れてはいけません。それは「キリストに似た者となる」ために生涯をかけることです。

私たちはパウロの生涯を見るときに驚嘆せざるをえません。彼は多くの書簡をあらわし、何千人もの人をキリストに導き、多くの教会を立て上げ、すべての霊的賜物を受けていました。しかし、彼が一番追い求めたものは伝道という召命ではなく、キリストのようになるという事であり、そのゴールにむかって彼は死ぬまで情熱をもって突き進んでいたのです。ピリピ3:10、11において、パウロは次のようにその気持ちを表しています。

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、
 キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」

自分の賜物やミニストリーを開発し完成させることに力を尽くすあまり、キリストに似る者となることへの追求をおろそかにしてしまった人たちを、私たちは余りにも多く見てきました。 それが私の危惧なのです。自分のミニストリーや賜物から霊的な充足を望むことは、
かえって私たちを霊的飢餓に陥れるのです。

私たちが神から受けている仕事、即ち召命の性質について、ここでもう一度はっきり説明させてください。召命は人生の最終目標の中核をなすものではないのです。確かに召命は私たちにとって大変重要です。しかし、私たちの人生目標の中心点は、私たちが神のために何をするか(召命)に根ざしているのではなく、私たちの心がキリストの心と同じになるということにあるのです。「キリストに似る者となる」というのが、私たちの人生の目標なのです。
霊的賜物やミニストリーは、キリストの身丈にまで成長する道のりを運転している私の車に便乗している道ずれに過ぎないのです。

キリストに似た者になるように私たちは定められている

人生のゴールについてパウロは「なぜなら、神はあらかじめ知っている人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:29)」といっています。私たちは、神の御子のかたちと「同じ姿にあらかじめ定められている」のです。新約聖書で私たちの人生のゴールに触れている箇所は、いつも「キリストに似た者になる」ことを述べている箇所と同じ文脈のなかにあります。神から与えられた仕事、即ち、召命は、例えば牧師や教師、主婦やビジネスマンといったものですが、そのような外面的な務めが何であったとしても、中核となるゴール、つまり自分の外面的な状況がどうあろうと変わらずに追求していくべき定められたゴールは、「神の御子の姿と同じにされていく」ことなのです。

私たちの目指すべきゴールは、神のために何かをなすことではなくて、自分と神との関係をどのように築いていくか、神にとって自分は何になるのか、と言うことなのです。キリストに似る者となることを願いながら生きて行くとき、私たちの神に対する愛はどんどん豊かになり、罪人への伝道は力強くなり、内なる自分は清くされていきます。イエスと同じ姿になりたいという思いで生活して行くときに、そがすべての事に関する霊的な動機、願望となり、そこから力が沸いてくることにあなたは気がつくことでしょう。

私たちは、自分は神のために大切で偉大な仕事をしている、と思うかもしれませんが、キリストから離れていては、「わたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられ、枯れます。(ヨハネ15:6)」とイエス様が言われたとおりになってしまいます。しかし、もしキリストと共にあるならば、どんな葛藤、試練、誘惑の中にあろうとも、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される(IIコリント4:10)」のです。これこそ、まさに、超越した神からの命ということができるのです。

賜物と召命

多くの西洋の神学校では、神学や聖書の解釈にばかりを熱心に教えて、「キリストに似る者となる」ことに焦点を当てていないのは非常に残念なことです。 確かに、聖書に関する正しい知識を得ることは必要ですが、それよりもキリストに似る者になることの方がもっと大切です。また、教会においても、みんなの賜物を開発するための多くの努力をしています。それは勿論続けていくべきですが、私たちは更に根本的で大切な仕事、即ち、キリストの姿となることが人生のゴールであるという考えを、教会員のなかに培っていくことをおろそかにしてはならないのです。

パウロは神の賜物と召命は「取り消されない、変わることがない。(ロマ11:28)」と教えています。 ここでパウロは、イスラエルに対する神の御計画は決して変わることがないことを言っているわけですが、パウロの語っているこの真理は、私たちにも当てはまることです。ですから、私たちが受ける神の召命と賜物は、私たちの心の状態がどうあろうともそれとは関係なく続いていくのです。

牧師は、たとえ彼が重大な罪を犯している時でも、毎週説教をして会衆を感動させることができます。彼の「召命」は、彼の義が今どのような状態であるかということに依存していません。土曜の夜に姦淫を犯したワーッシップ・リーダーは、日曜には会衆を感動的なワーッシップへと導くことができるのです。彼の「賜物」は彼の罪によって取り消されるということはなく、働き続けているからです。前夜飲んだくれていた伝道者は、自分の説教で多くの魂が悔い改めるの見て感激の涙を流し、きっと神は自分の罪を赦してくださったのだ、と勘違いをしてしまいます。しかし、このように聖霊様が教職者の賜物を通して働いておられるときでさえ、罪の中にあるその人自身は非常に危険なところにいるのです。彼は他人には宣べ伝えたにもかかわらず、自分自身は失格者になってしまう可能性があるのです。(Iコリント9:27)多くの教職者たちが罪に捕らわれて二重生活をおくりながらも、彼らの召命、賜物が働き続けていたのを私たちは今までに
20 02月

神の御国のメンタリティー  ブラッド・マックレンドン  2月20日


神の御国のメンタリティー
                                ブラッド・マックレンドン

私たちは神から永遠の命をいただいているにもかかわらず、そのことを忘れがちで、自分の人生をこの時間と空間の中でだけ考えてしまっています。しかし、私たちは、キリストを自分の人生にお迎えしたときに朽ちるものは取り去られ、朽ちないものを着たのです。(Iコリント15:53-54)死ぬものは取り去られ、不死を着たのです。

それには私たちがもはや、堕落した罪の性質から出てくる肉的な思いを持つ代わりに、神の考えやキリストの思いが持てることを含んでいます。キリストの思いに限界はありません。なぜなら神は境界線や規格に縛られる方ではなく、時間や空間に制限されることもないからです。キリストは全知全能の神であられます。主の思いは天国の思いであり、主の心に浮かんだ思いを実行に移すことを妨げる疑いとか不信仰は、主の心には全くありません。神はご自分が語られたことや、又、ただ心で思われただけのことでも、それは必ず成就することをご存知です。私たちもキリストの思いを持つことによって、神の御国の限りない世界を歩き始められます。それは物理的な時間や空間にもはや制限されない世界です。

死はすでに主の足の下に置かれました。(Iコリント15:53-58参照)それによって「死のメンタリティー」も滅んだのです。「死のメンタリティー」は主が決定されたことを阻止する力は全く持っていませんし、私たちも決してそれによって影響を受けてはならないのです。感謝すべきことに、神のこのご性質を我々も受け継いでいるのです。

私たちはもはや、心配で仕方がないとか、人に対して不親切である、というような間違った思いに支配される必要はないのです。神は天から地上の問題を見て、ただ手をもみながら心配しておられるのではありません。ですから、私たちもそうであってはならないのです。神はご自分で対処できない問題は何一つないことをよくご存知です。私たちが主のうちにとどまり主の思いを持つ時に、私たちも天のメンタリティーをもって歩み始めることができるのです。

キリストの身体なる教会は今まさに、この事実に目覚めようとしています。神は私たちの思いが、自分のことや自分自身の必要だけを考えることから解放されて、神の立場に立って神の目的が何かを考えることができるように、私たちの心を覆っているベールを取り去り、心を変革され始めました。目覚めた者は、王座に座しすべてのことを治めておられる主を、まるで自分も主と共に王座に着いているかのようにはっきりと見えるようになります。なぜならば、私たちは実際、主と共に王座に着いているのですから。私たちがもし自分自身を見ているのであれば、このことは達成されません。ただ主にだけ目を向けねばなりません。

主は、すべての人が自分の肉的な思いの中で恐れや疑いや限界を感じながら生きるのではなく、神の思いの中に入って生きるというご計画を持っておられます。私たちが自分の頭を使って自分で何とかしようと悪戦苦闘することをやめ、自分の思いの中に永遠の命を持つことを、主は望んでおられます。神が人間を最初創造されたときに意図されたように私たちが再び歩み始めることが、主の今の御計画です。それは、神に似せて造られた人間が考えや思いも神に似るということです。私たちは神の民であり、主の先ぶれとして神の御国は現実のものであることをこの世に示すように遣わされているのです。それには、まず私たちが神の御国に住まねばなりません。私たちが考えたり行動したりすることのすべてにおいて神に似たものとして歩むならば、私たちが主をあらわす力強い証し人となることができます。次の聖書の箇所はそのことをよく表しています。

マタイ14:22-31「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」


ここでは、弟子たちがイエスに命じられて船に乗ったことが分かりますが、やがて嵐がやってきました。イエスが水の上を歩いてきて、弟子たちはそれが自分たちの救い主だということが分からないほどに度肝を抜かれ、怯えてしまいました。しかし、イエスは彼らを憐れみ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられました。これは非常に力のある言葉です。ここでイエスが示しておられることを私たちがはっきりと理解したならば、私たちに変革が起こることでしょう。私たちが試練の中にいるときもイエスが共におられることを知るならば、どんなに波や風が激しくても、「しっかりする(be of good cheer、元気を出す)」ことができるのです。すべてのことにおいて私たちは主を認め、主が「勇敢でありなさい。(Be of good cheer)わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われたのは真実であることを知ることができるのです。

私たちは今、「キリストの思いを持つ」という目標に向かって歩んでいるわけですが、時には弟子たちと同じように、「神は自分を見捨てられたのではないか」と思ってしまうことがあります。私たちが周りの状況にだけ目を奪われると、恐れの念が生じ、主がまさにその状況の上を歩いてこちらに来られるときに、それが主だと分からないのです。水の上を歩くことはイエスにとっては何でもないことで、弟子が乗 っている船まで行く交通の手段にすぎませんでした。私たちは自分の思いを時間と空間の中に制限してしまいますが、イエスはそうはされません。主は私たちが自分の考えに勝利して、どのような状況においても主と共にその上を歩くことができるというメンタリティーをもってほしいと願っておられます。主は山の上で私たちのために常にとりなしておられ(マタイ14:23)弟子たちに教えられた(主の)祈りを祈っておられるのです。

マタイ6:9-13 「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」

この祈りの中で、主は私たちが主と同じ考え方、物の見方をするようにと祈っておられます。この祈りが成就したとき、神の御国は弟子たちに風と波という形で現れました。それは弟子たちが考える「神の御国」とは全く違うものでした。この嵐という状況を使って神は人間に語ろうとされています。神はご自分を現そうとするとき、私たちは、往々にして「私は苦しくて死んでしまいそうだ。」と感じるのです。私たちは神の御心の真ん中にいても(弟子たちはイエスの御心に従って舟に乗っていました)そのときに困難や障害が起こると、それは神からのものではないと思ってしまいます。イエスが弟子たちに舟で先に出かけるようにと命じられたときに、イエスはやがて嵐が起こることもご存知であり、その時も彼らを決して離れないおつもりでした。私たちもこのことをいつも理解していなければなりません。どのような状況の中においても主は私たちと共におられ、それゆえに私たちは安全であり、主が私たちを遣わされた御用を果たすことができるのです。嵐が起こったとき、私たちは主がどのようなお姿で来られるかをしっかりと見なければなりません。それは、今まで見たことのないようなユニークなお姿かもしれませんが、驚いてはいけません。嵐の中で私たちも「しっかりする be of good cheer」ことができるのです。

この話の中で、イエスは弟子たちに「主はいつも共におられる」 ということを知ってほしかったのです。イエスも弟子たちも周りの状況に左右されないでその上を歩くことができたのです。主は私たちにも同じことを教えようとしておられます。私たちがどのような状況や試練の中にあっても、主と主の業を私たちが見ることができることを望んでおられます。ペテロはイエスが波と風を治める方であると知って奮起させられました。彼はイエスが来いといわれたら、彼も自然やどんな状況も主と共に治めることが出来ることがわかったのです。ペテロは水の上を確かに歩き始めました。しかし、彼は自分の思いを信仰という高い見地から人間的理性へとひき下げてしまったとたんに、水の中に沈み始めました。しかしながら、彼は確かに、ほんの一時ではあっても、水の上を歩いたのです。イエスはこのようにどんな状況の中にあっても、私たちがイエスと共に歩くことを望んでおられます。まことに主の道は私たちの道より高く、主は天におられるだけでなく、この地上でも私たちの内に生きていたいと願われているのです。

イエスは恵みをもってペテロを引き上げ、疑いが信仰に及ぼす影響を一言注意されました。そして、イエスはペテロを舟に引き入れ、その時風が凪いだのです。イエスはここで疑いや不信仰の危険性を教え、私たちが主と常に一つになるという密接な関係になることを望んでおられます。主と一つになるとき、人間的な理性という風は止み、人は神の安息に入ることができます。

私たちが「御国のメンタリティー」を持つとき、どんな状況や試練の中でも主が働いていてくださることを理解することができます。それはまさにイエスが十字架に向かうときに理解されたことでした。私たちがすべての物事を自分の理解ではなく神の理解を通して見るようになるとき、私たちは神の口から出る(神の御心から出る)一つ一つの言葉によってのみ生きたいと思うようになります。他のすべての言葉は、私たちに何の影響も及ぼさなくなります。イエスはすべての状況で真理であられます。これこそが私たちが持つべき「御国のメンタリティー」です。イエスは真の王であられます。(終わり)

[この記事はThe Morning Star Journal 誌より取りました。マックレンドン師はMorning Star Fellowship 教会の牧師です。]

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18 02月

二種類の人間    坂 柚実子    2月18日


2種類の人間

人間を二つに分類するにはいろいろな方法があります。
私の勝手な分類の仕方には、畑人間か釣り人間か、というのや
テニス人間かゴルフ人間か、等があります。
これはただ趣味が違うというだけではなく、深い性質の差があるように私には思えるのですが、いかがでしょうか。

これはどこかで読んだ分類の仕方ですが、
“There you are!”人間と、
“Here I am!” 人間があるのだそうです。 
直訳すると、
「あなたがそこにいるのね!」と
「私、ここにいますよ! 」 となりましょうか。

“There you are!”人間とは、
自分ではなくて、相手に注目する人。
“Here I am!”人間とは、
相手ではなく自分に注目してほしい人、ということでしょう。

これは一応“There you are!”と、自分より相手を中心に考える人間のほうがいいと思われます。自分の必要より相手の必要を考えられる人なわけです。

私がオレゴンで最初からずっと仲良くしてくださり、お世話になったメリーさんという方は、そんな人でした。 会うと必ず、「ゆみ、そのブラウスはとっても素敵よ。」とか「今日の髪型はとても似合うわよ。」とか、何か私を励ます言葉を言ってくれるのです。電話をすると「What can I do for you? 何かお役に立てるかしら?」と聞いてくださるのでした。これはただ「アメリカ人はそういう物の言い方をする」という以上の、彼女の心そのものでした。私のアメリカ生活はメリーさんによってどれだけ助けられたかわかりません。彼女は周りの人のことをいつも考えている人だったのです。

ベタニヤのマリヤはイエス様のお気持ちを考えて、静かにイエスの足元でお話を聞いていました。これは“There you are, Jesus.”という態度だったでしょう。 マルタは自分だけが忙しく立ち働いていることでイライラしましたが、これは“Here I
am!“と自分を主張したことだったかも知れません。

でも、私たちも“Here I am !”と言っていいときがあると思うのです。今冬季オリンピックの真っ最中ですが、長年の厳しい練習を重ねての晴れ舞台で、選手たちが「今こそ実力を出しきるぞ。」という気迫で氷や雪の上に立つ姿は“Here I am !”のすばらしい瞬間だと思います。

クリスチャンとしても、晴れ舞台に立つ機会を与えられることがあるでしょう。いえ、これからは、どんどん社会の中でもクリスチャンが活躍し、輝いていくときだと預言されています。そのとき、主と親しく交わり主から特訓をうけたクリスチャンたちが“Here I am in Jesus!”と主にあって輝くことになるのだと信じます。いずれにせよ、つねに主のうちにあるならば、「自分の思い」ではなくて、「神の思い」の中で、自意識から解放されて生きていく道を与えられている私たちはまことに幸いだと思います。(終わり)


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