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Walk With God Ministries

28 04月

火のバプテズマ         ショーン・ボルツ  4月28日


火のバプテスマ  
                                     ショーン・ボルツ
  
  私は最近ある都市を訪れましたが、そこで一人の牧師と会う機会が与えられました。彼はこれまで20年間、その地域で開催される多くの重要なカンファレンスを主催したりして、神に大いに用いられていました。また、多くの教派の牧師たちからも、主のために燃えている人として認められていました。彼の牧する教会は大きく、彼のヴィジョンも果てしなく広がっているようでした。 しかし今回私が会ったときには、彼も彼の教会も以前の栄えある姿とは、まったくかけ離れた状態になっていました。彼はその地域の聖会を主催するどころか、もうそれに参加することもしなくなっていました。 彼はまだ牧師をやめてはいませんでしたが、私のような預言者に会うということは、彼にとっては非常に気が重いことのようでした。 しかし、そういう気持ちにもかかわらず彼は私と会ってくれました。

  この神の人である牧師と会う前に、この都市の別のリーダーと話す機会がありました。 彼は私がこれから牧師に会うことを知って、次のように言ったのです。「ああ、彼はもう疲れ果てて幻滅を感じているんですよ。彼はもう落ち目ですね。神様は彼のマントルをもう誰か他の人に与えてしまったと私は思いますよ。」

  このリーダーがどうしてこのような評価をこの牧師に下すか、その理由はよくわかりますが、それは非常に心の狭い、身勝手な考え方だと私は思います。 それは神の御国の考え方ではなくて、西洋的ビジネス界の考え方であり、私にはうれしいものではありませんでした。

  私がこの神の人である牧師と会ったとき、私は主からヴィジョンを見せられました。ヴィジョンの中で私は、おびただしい数の世界中の聖徒たちを見せられました。彼らは神に大きく用いられてはいましたが、約束されているさらに大きなわざ(ヨハネ14:12)の領域にはまだ踏み込んでいませんでした。これら多くの聖徒たちは、かつてないほど困難な、しかし同時にすばらしいシーズンを今通らされているのだと私は信じます。 今という時は、自分の中にある罪を取り除き、キリストのご性格を自分のうちに形作っていくシーズンです。

火のバプテスマのための溶鉱炉


  人が火で精錬されるとき、自分では良いと満足していた外側の部分をすべて焼きつくされ、イエスに愛されている部分だけが残ります。そして自我から解放されます。次の聖句が私に示されました。 
  第二ぺテロ3:14-15 「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。…」

  この火による精錬期間は、時には非常に長期にわたりますが、そのシーズンの中で、神は聖徒たちを真の勝利者となるように訓練し、彼らが知恵と理解を得て、これから神の御国に入ってこようとしている人々の良い指導者になることができるようにされているのです。 主は忍耐をもって御自分の目標を完成させられます。私たちは、ペテロやパウロのように永遠の尺度で物を見なければなりません。そうすれば、私たちも主の目標が達成されるまで忍耐強くのぞむことができます。

  私はここで、罪を犯して不道徳に陥ってしまった人たちのことを言っているのではありませんし、ミニストリーをしていて間違いをおかして堕落した人のことを言っているのでもありません。それとは全く違った事です。ここで言っているのは、教会の中で勝利者となるようにと選ばれている人たちのことであり、今神に愛されているゆえに荒野を通らされている人たちのことです。イエスもこれと同じ荒野と試練を経験されました。これはイスラエルの子たちが不従順であったために受けた荒野の試練ではありません。(試練にはこの2種類があることを理解することは大切です。)

  神が求めておられるのは、キリストの聖なる愛に全面降伏することに基礎を置いている従順さです。これこそ主があらかじめ選ばれた人々の持つ特徴です。彼らはキリストの友であり、自分の日々の生活の中でキリストの十字架と復活を実際に味わっているので、頭だけではなく身体でその実体を把握している人たちです。

  現在のキリスト教会の動きや教えを、これこそ主との深い関係だと思ってしまっているベイビー・クリスチャンにとっては、キリストの十字架と復活は理解できないことかもしれません。成熟した大人としての深い歩みをしているクリスチャンは、聖会とか本とかテレビやラジオのクリスチャン番組とか、さらには教会にも依存してはいません。それらは非常に深く個人的な信仰にとっては、まあ、せいぜい補給剤として少しは助けになるかもしれない程度のものに過ぎないのです。
  神に今成長させられている多くの人たちは、今の教会に真の喜びを見出すことはできません。というのは今の西欧の教会は新しい信者や初心者を引きつけ教えることに重点が置かれているからです。しかし、神は「残りの者」(レムナント)を集めようとされていて、人々を救うだけではなく、もっと主の心の奥深くまで彼らを導きたいと思っておられます。

  多くの教会はこのことに焦点を当ててはいませんが、これこそが御国の焦点です。 神は大人に成長した愛人を求めておられるのです。神はヘブル5:14に書かれている神のご性質という堅い食物を食べる者を求めておられます。

「わたしは深みにいるもの者をもっと深いところへと招いている」

  私は昨年、心の中に主のはっきりとした御声を聞きました。 主は「わたしは深みにいる者たちをもっと深いところに連れて行く」と言われました。 それは、すでに主のこころの奥深いところで主との交わりを持っている者たちを、全く新しいレベルの深みにまで主は連れて行こうとされているのだ、と私はわかりました。
  第二コリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

  教会の中ですでに成長して大人になっている人たちは、今、次のレベルへとトランスフォームされて、もっと栄光に輝くようになるのです。 私たちは栄光から栄光へと変えられていくことができるのです。もし私たちがあるレ
26 04月

アメリカに対する預言         坂 達也   4月26日


アメリカに対する預言

アメリカでメディヤとかカンファレンスを通じて、かなり一般的に知られている預言者の一人にキム・クレメント師がおります。師が最近預言していることの一つに「神がアメリカをこれから四年間、大いに祝福する」と言うのがありました。私がそれを読んだとき、何か私の心に触れるものがありました。下記がその預言です。

「アメリカは今、これから四年間の繁栄に入ろうとしている。この国は決して忘れ去られないであろう。なぜなら、あなたは自分たちの血を流して他の多くの国の門を守ったからだ。だから、わたしがアメリカの地を祝福するであろう。フレッシュで新しい恵みがあなた方の上に来る。大いなる経済的祝福がアメリカの捕われている子どもたちを開放する。そしてアメリカの地は今まで見たこともないようなところとなるであろう。…」

アメリカは中近東の戦争で、今までのどの戦争よりも大きな犠牲を払い続けて来ました。それを指揮して来たブッシュ大統領は私の知っている限り、最も人気の無い大統領です。世界中から非難を浴びせられ、憎まれながらも決してひるまないその姿は、本当にミッションマインド以外の何物でもないという気がします。イラク戦争は果たして神様の全き御心であったのでしょうか。クレメント師は神からのみことばを預言します。

「あなたはわたしがホワイトハウスに真理を信じるクリスチャン大統領を、しばらくの間留どめるのを見るであろう。それは3代に渡ってである。わたしは、ホワイトハウスがわたしを信じない者で汚されることを許さない。なぜなら、わたしがこの国に繁栄をもたらすからである。」

神はイラク戦争を始めた二つの国の指導者である、ブッシュ大統領とイギリスのブレア首相(クリスチャン)を二人とも再選させました。ブレヤ首相はブッシュ大統領に劣らず人気がなかったにもかかわらず、神様は、はっきりそのことを前もって預言した通りに再選させることによって、神が彼らを是認し支持していることを明らかにされました。

アメリカは建国以来神を信じる大統領が多く出ております。初代のジョージ・ワシントン大統領を記念して建てられたモニュメントのことをここでご紹介したいと思います。



Laus Deo
 
しばらく前ですが、上記の写真とそれを説明する下記の歴史情報がポートランドの友人から送られて来ました。これはアメリカの建国の歴史を知る上で参考になるかと思いましたので、先ずはかいつまんでその説明の内容をご紹介します。

上記の写真で白く天に向かって聳え立つ、高さ170mの建物は、アメリカの首都ワシントンD.Cで一番高い塔であるワシントン・モニュメントです。花崗岩と大理石で造られたこの塔のてっ辺に、アルミ製のキャップ(オベリスクの方尖突端部分)がかぶせてあり、その上にラテン語で二語Laus Deo と書かれてあることをご存知でしょうか。

このラテン語の二語は、アメリカ合衆国が創造主の神によって建国された国であるということをよく物語ってくれます。その意味は「Praise be to God、神をほめたたえよ」です。
 建国の父であるご在天の父に向かってこの塔は、アメリカ合衆国が天の神をたたえる国であることを象徴して造られたのでした。

この初代大統領ジョージ・ワシントンを記念する塔は、1848年に建設が開始され、1888年に正式に完成披露されましたが、頂上のアルミ製のキャップとそれに文字を書き込むのに25年が費やされたと言われます。
この塔の設計者ピエール・シャルル・ランファントのオリジナル・デザインでは、この塔を中心にして、北のホワイトハウスから南にあるジェファーソン・メモリアルを結ぶ線と、東に位置する国会議事堂(キャピトル)と西のリンカーン・メモリアルを結ぶ線をもって完全な十字架を描くものであったと言われます。

1848年7月4日の独立記念日にこの建物のコーナーストーン(基石)が設置されたとき、そこにはアメリカ・バイブル・ソサエティー寄贈の聖書が埋め込まれました。この塔の内部には898の階段と50の踊り場があり、その階段を登って行くとき、そこには色々な証とクリスチャン・メッセージを見ることが出来ます。12番目の踊り場にはバルチモア市からの祈り、24番目の踊り場にはニューヨークの日曜学校の生徒からのプレゼンテーション、フィラデルフィアからは箴言10:7、ルカ18:16を彫刻したもの、といったアメリカ市民の願いと神への賛美が至る所に見られます。

このワシントン・モニュメントは、初代大統領のかかげたユニークな民主主義「One Nation、Under God 神の下での一つの国」を記念する建物です。
 そこで参考までに、このジョージ・ワシントン大統領がアメリカ国家のためにどのような祈りをささげたかをご紹介します。

「全能の神よ。アメリカ合衆国が主の聖なる保護をいただけますように切に祈ります。市民の心に政府に忠実に従う精神(霊)を培い、お互いが同朋として愛し合う兄弟愛を持てますように導いてください。最後に、我々総ての国民が正義を行い、憐れみを愛する者とならせてくださいますように。我々の祝福された信仰(宗教)を造られた神のご性質である愛、謙遜、穏やかな心を我々にも与えてください。神に似た者となるように努めることなしに、我々が幸いな国家になることは望めないからです。どうかこの嘆願をお聞きとどけください。我らの主イエス・キリストの御名のよって祈ります。アーメン」

Laus Deo!ジョージ・ワシントンにとってこの二語「神をほめたたえよ!」の意味するところは、詩篇127:1 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」の御ことば以外の何ものでもなかったのです。

 
私はアメリカに渡って44年になりますが、今ほどこの国の「神によって建国された」という根底が揺さぶられている時代はないと言うことだけは、はっきり申し上げられます。アメリカの紙幣には総てIn God We Trust と書かれている通り、誰が何と言おうとアメリカが建国以来神を尊ぶクリスチャン国であることを否む人はいないと思います。

しかし、そのすばらしいアメリカが徐々にリベラル化し始めて200年が経ちました。そしてついには、2-3年前のことですが、これがクリス チャン国かと疑いたくなるようなことが連続して起こりました。堕胎・中絶を広範囲で認め、同性結婚を公に認める州が増えて来ると同時に、自殺希望者を医者が助けることを許したり、又、学校で祈りと聖書研究を禁止して、挙句の果てに裁判所から十戒を掲げた像とかサインを取り外すに至りました。

しかし、このような国民全体が反キリストの傾向を露にしている中で、アメリカはイラク戦争に突入し、中東で多くの犠牲者を出し始めました。ところが国民はその霊的な相関関係に気がついていませんが、国家的犠牲が多くなるにつれ、アメリカに異変が起こり始めたのです。あれだけ進んでいたリベラル化がストップしたのです。そして世論は反転し、キリストを信じると言う人が増え、多くの州で今、中絶問題、同性結婚を許す法律が見直されて、禁止しようとする動きが出て来ています。

ブッシュ大統領と言う人は、最近聖霊のバプテズマを受け、毎朝仕事に着く前にひざまづいて長く祈るその姿は、ホワイトハウスで大統領に近い人たちには周知の事実です。私は、彼自身が戦争の責任者であると同時に、自分自身の人気を捨てて、犠牲者になることを甘んじて受ける覚悟はできていると信じます。あるいは神は愛するがゆえに彼をいけにえにするお考えがあるかもしれません。それは十分にあり得ると思います。しかし、だからと言ってそれはブッシュが神の怒りに触れるようなことをしたからではなく、むしろ彼が主に忠実に仕える者であるからこそ、国家のために主がそれを許されるのであると思います。

皆さん、クリスチャンの兄弟として、ブッシュ大統領があくまで主に忠実を通す勇気をいただけるように、ぜひお祈りください。(終わり)


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20 04月

イースターに思う      グラハム・クック     4月20日


イースターにあたって  
                    グラハム・クック

世界中のクリスチャンが毎年イースターに祝う十字架の奇跡は、私を驚嘆させてやみません。それは、私たち「キリストのからだ」である教会が持つ、信仰の真の根拠であり土台です。そして、それは私たち人個人にとっても、同じように大きな力を持っています。

私たちは、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛するようにと召されています。イエスはこのすべてを包括する愛を、私たちの模範となるように十字架の上ですでに示してくださいました。イエスは私たち一人一人を、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛してくださっています。主のその愛は十字架の業において明らかに証明されているのです。

イエスの私たちに対する御心は疑う余地がありません。主の御心は、私たちへの愛で満ちております。主は私たちが「よい子」 の時でも「悪い子」のときでも、全く変わらない愛で愛してくださいます。事実、私たちがまだ罪の中にいた時に、主は私たちのために死んでくださったのです。
主は、私たちが、その主の愛に果たして応じるだろうか、と案じてはおらられません。主は私たちのためにご自分を犠牲にすることだけに心を注いでおられました。そして私たちへの愛を2000年前に十字架の上で表してくださったのです。

父なる神も、思いを尽くして私たちを愛しておられます。エレミヤ29:11にあるように、神は私たちのために想像もつかないほど素晴らしい御思い、御計画を持っておられるのです。また、ダビデも詩篇の中で、神の愛を次のように詠っています。

「わが神、主よ。 あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」 (詩篇40:5)
「神よ。あなたの御思いを知るのは、なんとむずかしいことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数が多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」 (詩篇139:17,18)


ダビデは自分に対する神の愛の思いを悟ったのです。それは彼に大きな平安を与え、その愛は彼の思いの中に反映されました。

イエスはまた、私たちを精神(soul)を尽くして愛してくださっています。イザヤ53:10で、イエスのいのち(soul)は罪過のためのいけにえとされた、と書かれています。イエスが十字架にかかられた暗黒のとき、神はご自分をイエスから引き離され、それによって、私たちが決してイエスから引き離されることがないようにしてくださいました。

主はまた私たちを、力の限り愛してくださっています。私たちが直面するあらゆる問題というものは、それから主が私たちを必ず救い出し守ってくださる方であるという主への信仰を強めるために与えられるものです。

私は、このことをよくあらわしている夢を見たことがあります。私は夢の中で、私が以前主と共に歩いていなかったとき、即ち、主に反抗し不従順であった頃に戻されていました。それは20年以上も前のことでしたが、私はひどい状況の中にいる自分の人生を再び夢の中で繰り返したのです。
私の目の前で、私が罪を犯している姿が映しだされましたが、そのとき、信じられないようなことが起こりました。あたかも神が時間を止めてしまったかのように、すべてのものが動きを止めました。まるで映画がある場面で突然止まってしまったようでした。

  するとイエスがその場面に現れて、私を見ました。私は自分が罪を犯している場面にイエスが来られたので、びっくりし、また恥ずかしくもありました。でもイエスは私に伝えたいメッセージがあったのです。

  「グレー(イエスがグラハム師を呼ぶときの愛称)」と主は優しく私に声をかけられました。「わたしを悲しませたのはあなたの不従順とか反抗ではないのだよ。息子よ、それらの罪はもう十字架の上でわたしが処理したのだから。わたしが悲しかったのは、あなたのためにわたしができたことを、あなたがミスしたことなのだよ。わたしがあなたに与えたかったものがあることをあなたは理解できなかった。あなたのためにわたしがしてあげられることをあなたが分かっていたとすれば、あの時の状況はこうなっていたんだよ。」

  そういわれた主は、やさしく私の注意をもう一度夢の場面にもどされました。それからは夢全体が、あたかも私が完全に主に従ったかのように進行していきました。その瞬間に、その場面は本来ならこうなるはずだったのだ、ということが分かったのです。私は心が清められ新しくなったように感じながら目を覚ましました。そしてその瞬間に、私に対する神の愛の深さを悟ったのです。

  この夢を見て以来、自分の置かれた状況の中に神をお招きすることによって、素晴らしい神の力が得られることを私は体験し始めました。どのような状況に置かれていても、神の視点で物事をとらえ、そのときの自分にもっと神のご性質を与えて下さるようにと願うならば、この世で起こることで、私にとってマイナスになることは一つもないことが分かったのです。人生で起こるすべての事態において、それを興味深く、しかもエキサイトしながら受け入れ、そこで私たちが学ぶべきことを神が示してくださることを期待できるのです。

  私がミニストリーを始めたころは、神は私を、神の愛の「高さ」を知る旅路につかせてくださいました。そして神は、想像もできなかったような神の栄光、栄華を私に見せてくださったのです。しかし今の私は、神の愛の「深さ」を発見する旅路をたどっております。これが十字架の真の喜びです。それは、どのような状況に置かれても、主に感謝をささげることができるということです。
  私は今までの私の人生で起こったことを詳細に思い出してみました。私が主にひどく反抗していたり、罪を犯したりしていたときも含めてです。そして神に、私の人生のあらゆる段階において起こったすべてのことを感謝しました。私を傷つけた人をすべて赦しました。私の人生に起こったことで神に感謝をささげられなかったことは一つもありません。

  イースターにあたって、皆さんも私と同じように今までの人生を振り返って考えてみてください。あなたが前進するのを引き止めている事柄を、十字架のところに持っていってください。あなたに対する神の愛の深さを探り求めてください。神が
18 04月

90時間かけて聖書を朗読する   世界のニュース    4月18日


ワシントンD.C.国会議事堂前で、聖書全巻を90時間連続で朗読


聖書朗読マラソンが祈祷週間に先立って行われる

国際バイブル・リーディング(聖書を読む)・協会(IBRA)は、ワシントンD.C.の国会議事堂前で聖書朗読マラソンを4月30日から始めると発表した。これは恒例の行事で今年は17回目にあたる。当日午後8時にフェイス・アンド・アクションの創始者であるロブ・シェネック師によって開会式が行われる。

「神の聖い御言葉である聖書の単純明快な真理へとこの国を引き戻すために、神がこのヴィジョンを用いてくださると信じます。」とピープルズ・チャーチの牧師でIBRAの実行委員長であるマイケル・ホール師は述べています。「すべての関係者―働き人、様々な協会、教会、議員や聖職者たち―は聖書を始めから終わりまでコメントを一切つけず、又中断しないで読むことによって、神の御言葉である聖書にのみ栄光を与えたいというただ一つの目的でみんな集まってきているのです。」
 
朗読マラソンは5月4日(木曜日)の正午から1時の間に、黙示録の最後の2章を全員が一緒に朗読して終了します。 90時間の朗読マラソンの期間中、アメリカのためにとりなしをする人々の祈りの場所も用意されるとのことです。
詳しいことを知りたい方は、www.dcbiblemarathon.org をごらんください。(終わり)



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15 04月

カイロス タイム          坂 達也      4月15日


カイロス・タイム

 私は最近、今までにはなかったことを経験しております。それはやらねばならないプロジェクトが4つ、5つある時に、それぞれに「それをする時がある」ことを神様が私にはっきりと示され、教えられていることです。例えば、このホームページは、アメリカの使徒的・預言的なメッセージを選んで翻訳し紹介させていただいておりますが、それと共に、自分自身も主から与えられたメッセージを書くつもりで始めました。ところが、今年の正月から3ヶ月の間、書こうとしてもどうしてもまとまらず、不思議なぐらい書けないのです。勿論礼拝用のメッセージは、必要に応じて十分あり余るように与えられるのですが、書くこととなると、どうしても文章にならないのです。それが4月に入ってから又書けるようになったのです。そして、そうされたのは神様であったことがよく分かりました。

又、別の例(方法)によっても、物事には神様の順番があり、神様の時があり、私たちがそれに従う時に大きな祝福があることも今回はっきりと教えられました。その例というのは、私たちは今一年以上かかってかなり大掛かりな家の改修を行っておりますが、専門職に全部依頼するのではなく、自分で出来ることは家内の手を借りてでも自分でするようにしております。(だから時間が掛かっているのですが)私は以前家を建てる仕事をしていましたから、具体的に何をするかを先に先にと考えつつ進めて行くことには慣れているつもりでした。ところが今回、次に何をどのようにしようかといくら考えても、よいアイデアが出て来なかったり、出て来ても心に迷いがあるのです。しかし、自分には行き当たりばったりとしか思えないのですが、直前になると、「これをやろう。」と心が定まり、その朝になるとスーッとよいアイデアが浮かんで「これだ!」と納得がゆく方法が与えられ、うまく行くのです。
しばらくは、それは歳を取ったので頭の回転がにぶくなった性かと思っていましたが、どうもそればかりではないようなのです。結局気がついたことは、「神様に総てを委ね、神様の方法と、神様のタイミングで総ての事を進めたい。」と日頃祈り願っていながら、つい自分で考えてやってしまっている私に、神様が実際、具体的に「神に委ねる生き方」を指導して見せて下さったと言うことが分かったのです。そして神様の「時」を待つ重要性を改めて学んだのでした。

「時」と言えば、ギリシャ語で「クロノスの時」と「カイロスの時」があることが最近よく話題にされます。クロノスの時とは、一般的な時間の経過を表わす人間が持つ時の流れです。一方カイロスの時とは、神が定めた時、神の時間表、あるいは霊的な時間と言うことができそうです。
さて、時と言えば伝道者の書3章を思い出されるでしょう。

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時/保つ時、放つ時 裂く時、縫う時/黙する時、語る時 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。」(伝道3:1-8、新共同訳)


 これは、自然界において、人間を含めた生物の営みには、何事にも創造者が初めから定めた季節と時があることを表わしております。それでは人間が日常生活をどのように生きているかといえば、二つの生き方があると思います。
一つはほとんどの人がそうなのですが、何事も自分の考えで事を運ぶ生き方です。自分で計画し、時間の流れとしての「タイム・テーブル」を自分で設定してそれを実行しようとします。これはクロノスの時で生きる人間的な生き方です。
もう一つの生き方は、クリスチャンとして神様に総てを委ね、神様の方法とタイミング(時)を待って事を行う生き方です。勿論、神様は人間が後者であることを望んでおられます。これがカイロスの時(神様の時)の生き方であると思います。
 
そこで後者の場合ですが、神様の進め方と時期とは、私たちの考えることとあまりにも異なる、つまり神様のすることは予測がつかないことを経験していない人はいないと思います。それはまさに、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」(ヨハネ3:8)の御言葉の通りではないでしょうか。多くの場合に聖霊様のなさることは予測がつきません。「慌てる乞食はもらいが少ない」と言うことわざがありますが、私たちの傾向では、とにかく神様の時を「待てない」のです。「待つ」ことは訓練されなければなりません。「主の時を待つこと」を会得された方は霊的成長の完成が近い方です。

そこで気がついたことがあります。「何事にも時がある」と上記伝道者の書に書いてありますから確かにそうなのでしょうが、でも「時が定められていないこと」もこの世の中にはあるのではないかと思ったのです。その意味は、定まった時に何かをするだけはなくて、「常にその時である」と言うこともあると言うことです。
その一番よい例は「十字架」であると思うのです。十字架とは「苦しんで」「死ぬ」ことを意味します。人間は生涯の初めから終わりまで、どのような時も常に「自分に死ぬ」ことを神様は望んでおられるからです。死ぬことにおいては、時もシーズンもない、私たちは常に「自分の十字架をかついで」生きることを要求されています。

それは黙示録13:8に根拠が示されております。英語のKJV欽定訳と、日本語訳では新改訳の「別訳」として下段の付記の項に書かれていますが「世の初めからほふられた小羊」が存在していると言う事実です。これは何を意味しているのでしょうか。それは、世の初めからイエスの十字架が存在していると言うことです。

  「イエスが十字架にかけられて死ぬ」ことはこの世で一度だけ起こる必要がありますが、霊的に言えば、世の基の出来る前から父と子の心の中には十字架が常に存在している、と言うことです。なぜそうかと言えば、神様は時間の無い世界におられるからです。難しく聞こえるかもしれませんが、十字架の業は先ず「永遠」と言う時間の無い神様の世界で「決意され、初めから実行された事実」なのです。

それはどう言うことかと言えば、神に似せて造られ、自由な意思を持つ最初の人間アダムとエバにおいて、人間が神を見捨て、自分中心に生きると言う罪に堕ちることを、神様は見通しておられたのです。神様はご自分が 創造するものを本当に愛するがゆえに、罪に堕ちた被造物のために先ずご自分が苦しみ、そしてご自分が死ぬことによって総ての被造物をあがない(redemptive)救い出すご計画を初めから決意し、持っておられたのです。ですから神の愛とは最初からあがないのredemptiveな愛です。

「苦しんで子を生まねなければならない」と言う罰を与えられたのは、最初に罪を犯したエバでしたが(創世記3:16)、その前に、かわいい自分の子どもたちを生んで育て上げる(創造する)ことに、先ず「死に至るまで苦しむ」ことを決意し、実行されたのは創造者ご自身でした。それは神である父と子だけではありません。同じ神である聖霊様も罪だらけの人間の中に入って私たちを霊的に育て上げるのに、どれほど忍耐と努力をしておられるか、これが神様にとっての「産みの苦しみ」をされていることでなくて何が苦しみでしょうか。

  同じように罪を犯したアダムの受けた罰は「苦しんで食を得なければならない」(同3:17)でした。霊的な食物を得るために、罪のないイエス様ですらどれだけ祈りに時間を費やされたかを見れば、私たちが霊的食物を得るのに苦労しなければならないことは当たり前なことが分かります。本当にどんなに感謝してもしきれないことですが、私たち人間が苦労することで創造者が苦労していないことは一つもなく、又、神様が私たちのために先ず実行して見せないことは一つも無いのです。(ヨハネ5:19,20)みな安心してイエス様の後を追うように配慮されています。それが恵みであると言えないでしょうか。

神様は罪に陥って苦しんでいる人間に対して、「救いたい」と言う強い願いとあわれみの心をいつも持っておられます。ですから、私たちが救いを求める時はいつでも「今は時ではないから又おいで。」とは言われずに、常に救いの手を差し伸べておられるのです。救いの時とか時期はないのです。
総ての神の創造の中心には「あわれみの愛」と「イエスの十字架」と「赦し」があり、総ての創造はそれを土台にして存在しているのです。それは時間のない神様の「ご性質」そのものをあらわしています。
一方、私たちが本当にあがなわれ、救い出されるためには、私たちも又霊的に常に「自分に死ぬ」ことを要求されています。私たちは自分の肉に死ななければ永遠のいのちに入れません。

 間もなくイースターを迎えます。イースターとは、十字架の死からよみがえられたイエス様をお祝いする日です。イエス様が先ずよみがえられた、この「よみがえり」と言う霊的な状態こそ、私たちのためにイエス様が道備えをして下さったものです。私たちは霊の人間に生まれ変わり(ボーン・アゲイン)、霊的な成長のプロセスを通ってこの「よみがえりのいのち」すなわち「永遠のいのち」を既に生き始めているのです。
 この世で「永遠のいのち」を生きるとはどう言うことでしょうか。それはこの世に生きていながら、自分の肉に死んで、霊に生きること、それが「よみがえり」の生活であると思います。「よみがえり」の世界とは、もはやクロノスの時の奴隷となって人間的・この世的に生きるのではなく、神の時間と空間の中に入り込み、そこで得た神の御心を神に導かれてカイロスの時で生きるのです。

私たちは時間の経過の中に住んでいますから、総てが移り変わりますが、時間のない神様は変わりようがありません。まさに「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブル書13:8)とある通りです。そこには永遠に変わらない神の愛が満ち、永遠に「赦し」と「回復」が存在します。そして「よみがえった」私たちにとっては、常に神を礼拝する状態が「時の過ぎない時間」であると言えないでしょうか。私たちはこのよみがえりの世界にある不変の「神のご性質」に出来るだけ早く到達しなければなりません。

マルコ1:15に、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(口語訳)とありますが、この「時は満ちた」はカイロスです。神が定められた救いへの条件と道が整い、時が満ちている今の私たちは、霊的に、既に神の国と言う「時間」と「空間」の中に生かされているのです。それはイエス・キリストの福音そのものの世界であり、私たちは「よみがえり」と言う次元に既に入っているのです。(このみ言葉は未信者にだけではなく信者に対して言われていると思います。)ですから私たち信じる者こそ、そのように神の国に住んでいるように行動しなければなりません。それが「信仰に生きる」ことであると私は思います。

信仰とは超自然のものであり、時間を越えた世界で生きることであると思うのです。創造者の神は、何か心に思う時に既に霊的にそれが存在します。そしてそれを口で言われればこの世に実現します。ですから神に似せて造られた私たち神の子どもも、神の思いに適ったことを信仰で自分の思いとして信じる時、それは霊の世界では神の御心として既に実在していることを取り上げて、神様と同じようにそれを口で宣言することによって、実現させることが出来るのです。ヘブル書11:1に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とありますが、もっと分かり易く言えば、「信仰は、望んでいることが霊的に神の御心として実在していることを確認して、それを目に見える形にこの世に出現させること」であると言えます。

御国に住む私たちのすることとは、総て創造者である神様の存在とその神様が創造したいと思う御旨・御心を私たちが神様に代って実現(創造)することによって、神の存在と御心を証明して見せること、それが私たちクリスチャンの仕事であると思います。

しかし、霊的な人間になったとは言え、私たちが実際に住んでいるのはこの世という時間が経 過している世界ですから、口で命令すると直ぐそうなる時と、時間が掛かって実現する時と、又実現しない時があります。この時間加減を支配しておられるのは神様ですが、信仰の難しさはここにあります。時間がかかっても私たちの心が全く揺れずに変わらない時に、それは必ず神様のタイミングで実現しますが、心がふらふらと定まらない時は実現しないことが多いのです。それを称してイエス様は「信仰の薄い人だ。」と言われました。
私たちも早く時間のない世界に到達したいですね。しかし、神様が今私たちを時の流れの中で信仰によって生きる試練を許されているのは、私たちにその産みの苦しみを経験させるためです。

信仰の訓練とは、この時間の経過 で「心変わり」してしまう信仰を、「心変わり」しない信仰にしていくことではないでしょうか。私たちをこの世に置いて、物事が実現するのに時間がかかるようにされるのは、神様が私たちの信仰をテストし、強めるためのプロセスであると思うのです。私たちは信仰にとってむしろ障害となる「時の流れ」を私たち自身が克服し、それを無いものとして不変不動の信仰に達することを神様は期待しておられます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)

「よみがえり」の世界は信仰だけで生きる世界です。しかし、この世で「よみがえり」の世界に生きる時にこそ(それは可能です。)クロノスの時の経過の中で生きていても、総てにカイロスの時で行動出来るのです。それこそが時を征服し、時に勝利した生き方と言えるかも分かりません。(終わり)


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