WWGM

Walk With God Ministries

08 05月

天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び) スティーブ・ウィッツ 5月9日


天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(1)

スティーブ・ウィッツ

「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」 箴言25:2

自然界のミステリー現代の伝説の一つに、ミツバチは本来飛べるはずがない、というものがあります。羽を持つ昆虫のユニークな飛行能力の仕組みを、科学者たちは解明できないでいます。でもミツバチが飛べることは明らかです!これは一種のミステリーなのです。私の家の後には何百羽ものアヒルとカモが住んでいます。そのうちの何羽かのアヒルはうちの小さな池に入れるために私が購入したものです。数年前に、そのうちの一羽を一マイルほど離れた別の池に移したいと思い、大きな白いアヒルを捕まえて箱に入れ、車に乗せて新しい池に連れていきました。

箱から出されたアヒルは、新しい自分の家を見ていぶかしく思ったようですが、大丈夫適応できたように見えました。 私はしなければならない仕事があったので、働きながら時々畑の向うのアヒルをチェックしていました。一時間ほどしてから、アヒルは大分慣れたかな、と思って見てみるとアヒルが見えないので、狐か大きな亀に食べられたかと心配になりました。それであたりをもっとよく見回しましたが、やはりアヒルは消えていました。私はアヒルを失ったことや、アヒルのために払った15ドルを損したことを嘆きながら、そこら中を探し回りました。私は仕事を終えて家に戻りました。妻に今日起こったミステリーを話ながら、アイス・ティーのコップを手にもってリラックスするために裏のデッキに向かいました。すると、放蕩息子の白いアヒルが私の椅子のそばにいるではありませんか! 

アヒルは道路を越え、流れを越え、野原を一マイルも歩いて(太りすぎていて飛べないので)家に戻ってきたのです。これに似た話を前に聞いたことはありましたが、自分の周りに起こったのは初めてでした。 まさにミステリーです。ビールのなぞ去年の夏、私はなぜかビールが飲みたくてしょうがなくなりました。私は日頃ビールを飲んでいるわけではなく、好きでもなかったのです。おかしなことに、私は特定のビールが飲みたくなりました。ギネスビールです。味わったこともないものを、飲みたくてしょうがなくなるということが、一体あるのでしょうか。 でもそれが起こったのです! これは家族の間のジョークとなりました。 

私は実際に買う気はありませんでしたが、数週間の間、ギネスビールを飲みたいという思いは続いたのです。すると、金曜日の朝7時15分に、私の友人のマーク・デュポンが(彼は預言の賜物がありました)電話をしてきました。彼は2008年に関する神の言葉を私に話しはじめました。そして最後に、ある本を読むことを薦めてくれました。私はその本の題名、「時ならぬ預言」を書き留めてから、著者の名を尋ねると、彼は「ギネス、オス・ギネスだよ」と答えたのです。それは不思議な瞬間でした。 これもミステリーです。数日後に私はその本をむさぼり読みました。それは私の人生を変えるような力がありました。神はこのように不思議な言語を使って話されるのでしょうか。飛べるはずのないミツバチがそれでも飛ぶ、アヒルは地図がなくても自分の家に戻ることができる、飲みたくてしょうがなくなったものが、読むべき本の暗号である・・・。主は隠され、私たちは見つけるのです。主は秘密にされ、私たちは探すのです。

人生には多くのミステリーがあります。神ご自身が最大のミステリーであり、私たちの運命もすぐその次くらいにミステリーに満ちています。神がどのようにコミニケートされるかを解くのは、私たちの人生に与えられたチャレンジです。それはわざと難しくしてあるのでしょうか? それは多分、あなたが神をどのような父であるかと見る見方によって変わってくるのだと思います。 見つけやすい場所私の子供たちは今はもうみんな大きくなりましたが、小さいときにはよく私に「かくれんぼ」をしてくれといったものでした。

 彼らは小さい手で目隠しをして、数えはじめます。私はすばやく見つかりやすいような場所に隠れます。大抵は窓のカーテンの後で、足を下からわざと出して立ちます。するとたちまち小さな子供たちは私を見つけ、大喜びでカーテンの外から私に抱きついてきます。愛情深い父親は隠れるのが好きですが、わざとそんなに上手には隠れないのです。見つけてほしいからです!かくれんぼは確かにミステリーですが、そんなにむつかしいものではありません。だれでも参加できて、みんなが勝つことができるのです!神もまた、愛情深い父親であり、同じようになさいます。つぎの聖書箇所を考えてみてください。

申命記30:11-14 「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

神のミステリーは必ず解くことができるのです。目的があるのです。それは目的や計画、戦略、戦術を啓示するためのものです。神はそれを遠いところに隠すことはせず、私たちにそれを解くようにと招いてくださいます。神は「探せ、求めよ、戸を叩け」というような表現を好まれる方なのです。 父を信頼すること私の父も似たようなゲームをしてくれました。 父は玄関のドアの内側に大きな古い水差しを置いていました。毎日仕事から帰ると、父はポケットの中の小銭をその中にみんな入れたのです。バケーションの時になると、みんなでその中のお金を数えて、何か楽しいことのために使うのでした。私が本当に仕事らしいことをしたのは、16歳のときが最初でした。私が初めて給料をもらって帰ってきた日のことですが、私がうきうきしているのを見て、父は私の財布の中に給料が入っていることを見抜きました。父は、「財布の中にいくらあるのか?」と聞きました。私は正確には分かりませんでしたが、「30ドルくらいだよ。」と答えました。すると父は「お前の財布の中身全部と水差しの中身全部を交換してあげよう。」と言いました。こういうことは珍しくなかったのです。リスクの ある事をすばやく判断する訓練を私にするために、父はこのようなことをよくしました。私は水差しを手に持ってみてもいいかと聞きました。というのは、この前いつ中身をあけて使ったかを思い出せなかったので、今はどのくらい入っているか私は分からなかったからです。それは駄目だと父はいいました。私はリスクを取らねばならず、その決断を迫られました。早く決断せねばこの取引の話しはご破算になると父は迫りました。私は水差しを見て、父の目をじっと見、再び水差しを見て、答えました。「取引成立!」私は父に30ドルを渡し、水差しのところに飛んで行き、中身を調べました。 ざっと見て大丈夫だと感じましたが、ゆっくり数えたときにはっきりしました。私は大儲けしたのです。水差しの中には125ドル以上ありました。どうして私が取引をしたか、お分かりでしょうか? 父が私を愛していて、私はそのことを知っていたからです!父が私の益にならないような取引の話は絶対にしないことを、私は知っていました。愛情深い神はご自分の息子や娘をからかったり、だましたりはしません。父と私は長年このような取引を何度もしたのです。 父の愛は私にリスクをとらせる力を与えました。父は私のジレンマを和らげてくれました。それは父が私を愛していたからです。

「・・・しかし、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。」ダニエル11:32b
クリスチャンは全員、「解き明かしのクラス」を受ける必要があります。神に関して、あるいは、人間の目的に関して質問があるならば、その答えを得なければなりません。自分が見た夢や状況をどう解釈すればよいかわからないために、人々が失望、落胆してしまうことはよくあります。神は私たちを発見する人生、ミステリィーを解く人生へと招いておられます。そのクラスを取った者の人生には、主の顕現や栄光ある啓示が与えられるでしょう。多くの結婚が、親密な関係を保つ努力を怠った故に失敗に終わっています。結婚にはミステリィーが満ちていますから、それを探し出さねばならないのです。それには時間もエネルギーもかかりますが、何でも価値のあるものには必ず投資する必要があるのではないでしょうか。現在の社会には恐れの感情が深く蔓延っています。テロリズムへの恐れ、サブプライム・ローンの問題、全般的に不安定な経済、あるいは、モラルの低下などがあり、多くの人々を心配の牢獄につないでいます。アメリカで急成長している製薬事業は、睡眠薬関係です。映画俳優ヒース・レジャーが睡眠薬を複数摂取したために死亡した最近の悲劇的な事故は、現代を象徴しています。人々は安息がないのです。 疑問を抱えています。 安息への道を知り、他の人々にも示すことができるようなパイオニア精神を持つ人を人々は求めているのです。

リーダーシップ・ジャーナルという雑誌の冬の号に、イスラム教徒がキリスト教に改宗する理由に関する興味ある記事が載っていました。その記事はある一つのテーマで貫かれていました。イスラム教徒はクリスチャンのライフスタイルに興味をそそられるようです。「女性を大切にし、神を愛し、愛に満ちた、超自然的な」ライフスタイルは、真理を捜し求めている人たちを磁石のように惹きつけるのです。神は、今まではミステリーだったものを、今彼らに明らかにしています。クリスチャンの生活は、神をイスラム教のように「罰する神」として見るのではなく、「愛の神」として見ることを強調していることを彼らは今発見し始めているのです。今まで多くの人にミステリーだったことを、神はいま明らかにされておられます。多くのクリスチャンが見出してきたこと、即ち、イエスが来られたのは「復讐の日」ではなく「恵みの年」を宣言するためであったことを彼らは発見しているのです。(恵みの)年と(復習の)日の比率は365対1です。イエスは裁きよりも恵みの主であられます。(次週に続く)


Steve Witt 師は新しく教会を設置して行くチャーチ・プランターの仕事を三十年やって来た人で、元々はカナダのヴィンヤード系のリーダーの一人。現在は米国オハイオ州クリーブランド市にあるメトロチャーチ・サウスの牧師を勤めている。
トップへ戻る
01 05月

霊的な生活 ロン・マクガトリン 5月1日 2008年


霊的な生活

ロン・マクガトリン

私たちは、前いた場所に今はいない 今いる場所に将来はいない

私たちが今までいた場所は、人間中心であり、欲と煩悩に振り回された堕落した世界です。これからいくところは、神中心であり、義と平安に満ちた贖われた世界です。
今、私たちは、古い世界から贖われた新しい世界へと移るために旅をしている途中であり、それは時には荒れ狂う嵐に遭遇する長い道のりです。

聖霊は私たちに、「さあ、立ち上がって歩きはじめなさい」と、明らかに語っておられます。なぜならば、今の場所に座ったままでいると私たちは死んでしまうからです。私たちの生活様式の基礎を抜本的に変えなければ、私たちの今持つ弱点が国家を破滅する可能性があります。

聖霊は今、「強さと力と知恵を得て、世界が進む方向を変えよ。」と、私たちに語っておられると信じます。

ホーム・チャーチなどで、教会のやり方を少しばかり変えたとしても、それで最終的にうまくは行かないでしょう。選挙で違う政党を選んだにしても、それで世界を変えることはできません。税金をもっと少なくしても、多くしても、あるいは、もっと低い利息でもっとお金が借りれるようにしても、それで私たちの経済の危機を救うことはできません。現実的に見て、私たちの国家や世界がどんどんと下降線を辿っているのを変えるために、肉の人間ができることは何一つないのです。どんどんと悪くなっていく世界を回復するために肉の人間が考えつく最高の方策でさえ、愚かなことなのです。生まれつきのままの人間では、私たちが今どこにいて、何が起こっているかを全く理解できず、ましてや解決方法など分かるはずがないのです。自分は賢いと主張はしますが、現代の肉の人間の思いはむなしく、心は暗くなってしまいました。

ローマ1:21-22「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、」

第一コリント2:14-15「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」

御霊により知恵と力が現われ、超自然的に地球上の生命を基礎から変える

高いプライドを捨てさり、へりくだって自分たちの父祖の道から天の父の道へと御霊によって変えられていく聖なるレムナントを、神は今召し出されておられます。聖霊の助けにより地上のあらゆる分野で神の栄光を輝き出させる聖なる人々は、史上最大の収穫をもたらします。神はこれらの聖なる人々(年寄りも若者)と共に、あるいは彼らを通して、国家や世界の進む道を変えるように超自然的に働かれます。御霊により私たちはすべてのことが可能なのです。すべての被造物を支配しておられる神の愛と力と栄光が、キリストの御霊を通して流れ出るのです。

あなたがうなじのこわい神の民であるならば、御霊があなたの上に臨んでくださり、あなたの暗くなった思いをキリストのリアリティーで超自然的に満たしてくださるまで、神の御前に顔を地に伏せて昼も夜も泣き叫びなさい。

神の御前で長い間地に顔を伏せて聖霊を豊かに受けた者は、今立ち上がり御霊によって歩み、神が御霊によって示された力ある業をしなさい。御霊によって聞いたり見たりしたことを御霊のうちにしなさい。

父なる神の愛に包まれて、砂場ではしゃいでいる者は、もうふざけるのをやめて立ち上がり真剣になりなさい。おもちゃを捨てて道具を手にとりなさい。あなたが手にした道具は、聖霊によって力を与えられた動力機具となる。信じればすべてのことは可能だ。神にむかって子供っぽい応答をするのを神は喜ばれない。しかし幼子のような信仰と信頼は神を喜ばせる。

人々よ、我々は再び全く新たな日を迎えているのだ。それは偉大な力と光に満ちた日であり、夜をすばやく昼に変え、愚かな人々を闇から光へと呼ぶ。神のおられる天を見上げ、礼拝し信ぜよ。なぜならば、多くの者にとってこれが最後のチャンスだからだ。あなたは過去の霊的未熟さを早く捨てて、神が人間に対して初めから定められた最終目標の域に入らねばならない。その目標とは、あなたが召された仕事に神の愛と知恵を注ぎ込むことである。

御霊に歩む聖なる主のレムナントに注がれる神の大いなる力は、リバイバルという言葉では表せないほどに力強い。その力はどんどんと爆発的に大きくなり、神の栄光は邪悪な者の上に注がれ、聖なる者はきよめられる。

そこには喜びで満ち神の栄光にあふれるきよく心地よい平安がある。そこには偉大な光と共に偉大な闇がある。人間の歴史上最も極端な時代がもうすぐやってくる。

イザヤ60:1-2「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。」

過去を忘れなさい。あなたの将来のための自分勝手な計画を捨てなさい。神の栄光が来ようとしている。他のことは問題ではない。これは過激という以上のものであり、私たちの想像を超えたものである。地上が騒がしいときに完全なる平安がある。人々の心は恐れで震える。しかし、物事が激変する嵐の中でも完全な平安がある。

神は聖である。悪によって建てられた高いプライドの城、愚か者たちは立っていることはできない。高慢な宗教と高ぶる者の塔は、粉々に砕かれる。プライドの高い者は消えてなくなり、きよい聖なる火が人の邪悪な愚かさの刈り株を燃やし尽くす。

イザヤ2:11-18「その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。 まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。 高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。 偽りの神々は消えうせる。」
イザヤ5:15 「こうして人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる者の目も低くされる。」
イザヤ26:5-6「主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。」
貧しい者と乏しい者の足が踏みつける

木、藁、刈り株は火で燃やされる。しかし、神の宝石は神の栄光を映し出して輝く。地には平和、人にはめぐみがある。イエスの死と復活は無駄ではなかった。それは、全地が神の栄光で満たされるからだ。

第一コリント3:11-13「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」

マラキ4:1-3「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。・・万軍の主は仰せられる。・・しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。・・万軍の主は仰せられる。・・」

マラキ3:17「「彼らは、わたしのものとなる。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」

弱い者に強いと言わせよ。立ち上がって神の力強い息子となるように準備せよ。世界の定められた終末が今あなたの前にあるからだ。あなたはこのために生まれてきた。先に来て神の都を探すために命を捧げたすべての者が、成熟した神の息子達が立ち上がり力強い主と共に地上の御国、贖われた世界へと入っていくのを待ち望んでいる。御国の力と天の軍勢は、へりくだって立ち上がり、大きな叫びとともにキリストのからだである花嫁として、かしらなる天と地の王、キリスト・イエスに迎えられ、完全に一つとなる時を待つ者達と共にいる。主の御名に栄光あれ!主はすべての栄光を受けるにふさわしい。 ハレルヤ! 主の偉大なる御名に栄光あれ!

愛を追い求めなさい。愛は決して絶えることがありません。(終わり)


トップへ戻る


No Response Filed under: 未分類
24 04月

 栄光の宮  フランシス フランジペン 4月24日


栄光の宮 

フランシス フランジペン

神殿に主の栄光が満ちるときソロモンが神殿を主に献げたときのことを調べると、神が教会に何を求めておられるかを知ることができます。神殿が完成したとき、それは壮大な祝典のうちに主に奉献されました。ソロモンは、牛2万2千頭、羊12万頭をいけにえとして捧げました。 そして、王が祈った直後に、神の栄光が人々の目前に顕れたのでした。それまで400年以上もその様な事はありませんでした。
 「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと数々のいけにえとを焼き尽くした。主の栄光がこの宮に満ちた。」と書かれているとおりです。(第二歴代誌7:1)

建物に過ぎない神殿を捧げたときに、主が目に見える形で御自分の栄光を顕してくださるならば、主の生ける神殿である教会の上に、栄光ある御臨在を顕したいと、主はどれほど願っておられることでしょうか?しかしながら、主の栄光が顕れるには、いくつかの条件が整っていなければなりませんでした。まず第一に、ソロモンの神殿が多くの部分を完全に繋ぎ合わされ金で覆われて100%完成したときに、はじめて主の栄光が顕れたことです。それと同じように、私たちの中に主が完全に顕され、それを見て世の人々がキリストを信じるようになるためには、私たちが「完全に一つになって」共にキリストの神殿として建て上げられることが必要です。

次に必要とされる条件は、ワーシップに関することです。主が顕れてくださったのは、歌い手、ラッパ奏者、祭司たちが声を上げて賛美し礼拝したときでした。 私たちが神をワーシップする者でなければならないことは、強調し過ぎるということは決してありません。 現在でもすでにいくつかの教会の礼拝では、主の御前に立ちのぼるまことの(純粋な)ワーシップの故に、微かではありますが、生きている雲のような輝く主の栄光が顕れ始めています。
しかし、神の栄光が顕されるためには、もう一つ別の領域での準備も整っている必要がありました。この必要条件はリーダーたちに関するものです。 「祭司たちが聖所から出て来たとき、・・列席したすべての祭司が各組の務めの順序にかかわらず身を聖別した。…そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(2歴代誌5:11-14)

祭司たちの組分け(Divisions)は、家系やそれぞれ与えられた任務に従って神によって定められたものでした。それは妬みや争いから生まれた肉的な分裂分派(Division)ではなく、役割り、機能、順序に従った組分けでした。しかし、祭司たちが聖所に入るときは、彼らが「各組の務めの順序にかかわらず身を聖別する」ことを神は命じられました。(11節) 言い換えるならば、神殿を建てて聖所に入るときは、祭司たちはそれぞれの務め(それはある意味で彼らを分けていたものですが)よりも、神の栄光を求めることを優先しなければならなかったということです。そしてそれが彼らを一つにしたのです。 まさにこの時、即ち、彼らが「組に分かれていない」時に、神の栄光は顕れたのです。

今日においても、神は一つの都市に存在する複数の教会に対して、それぞれ異なった働き、恵み、能力を与えておられます。それらは、その都市にある多様な文化的背景の必要を満たすためにすべて必要なのです。そして、教会がそれぞれに異なりユニークであるということは、教会同士が分裂しているのではなく、キリストのからだがそれぞれの働きをもって(一つに)完成されるということなのです。 しかし、もしも神の栄光が教会にもどることを私たちが望むのであれば、各教会に与えられてそれぞれ違う任務よりも、御霊による一致を優先させねばならないのです。
今日、集会、カンファレンス、祈祷会、あるいはコーヒーを飲みながらの一対一の交わり、また、教会の祭壇の前、町全体の伝道集会などという様々な場所で、「組分け(教団教派等の)に関係なく」キリストのもとに帰ってくるクリスチャンが、ますます多くなっています。 実際、ここ数年で何万人もの牧師たちが神に飢え乾き、自らを神のために聖別し服従することを新たに誓っています。彼らは神の栄光を求めているのです。その結果、何が起こったでしょうか? キリストのからだなる教会は「組み合わされて成長し・・・主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたもともに建てられ、霊の働きによって、神の住まいとなるのです。」(エペソ2:21-22)と聖書に書かれている姿へと組み合わされつつあるのです。

「組み合わされて fitted together 」「ともに建てられ built together」ということばに目を留めてください。まことの主の家は、「所属する組に関係なく、ともに組み合わされる」ときに、現われてくるのです。そうなったときに初めて教会は主の神殿、即ち「神の御霊の住まい」として真に姿を現わします。栄光の源「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:22-23)

イエスは、教会組織の新しい形とか、新しい教義やプログラムを与えるために来られるのではありません。主は、「ご自分の聖徒たちによって栄光をうけ、信じたすべての者の驚嘆の的となられる」ために来られるのです!(第二テサロニケ1:10) 「主イエス・キリストの栄光を得させる」ためにこそ、主は私たちを召されたのです!(第二テサロニケ2:14)

私たちが持っている現在の教会の定義をはるかに超えたものを、神が今すでに建てておられるのですから、それをしっかり見ようではありませんか。神は私たちを共に組み合わせて、まさに主の栄光が顕れる「主の聖なる神殿」を建てておられるのです!次の祈りの言葉をよく考えて見てください。 神殿を建てようと主が私たちを召しておられますが、この祈りはその召しに対する私たちの応答です。各々の特徴、召命はそのまま失うことなく、しかし、教団教派にとらわれずに私たちが共に組み合わされて一つのものを建て上げることができるようにと、神は今私たちを召しておられます。あなたも主の神殿を建て上げた
17 04月

あなたの嵐はどこからきたのか?  ビル・ジョンソン  4月17日


あなたの嵐はどこからきたのか?

ビル ジョンソン

人生に起こる嵐は、奇跡と同じく、私たちが成長するために計り知れないチャレンジとチャンスを与えてくれます。しかし、あなたが面している嵐の種類によって、それには大きな違いがあるのです。ある種の嵐は、それがサタンから送られてくるにもかかわらず、私たちを鼓舞し、すでに自分が握っている神の真理を使うようにと促します。そういう嵐は必ず奇跡を生み出します。マルコ4:35-41に書かれている嵐はそのようなものです。

『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』(マルコ4:35-41)

しかし、これとは違う種類の嵐もあります。次の有名な聖書の箇所に書かれているように、神は私たちが間違った方向に進んでいることを教えるために、嵐を送られるのです。
ヨナ1:4-6 「そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

ここで私たちは、二種類の嵐とその異なる二つの目的を見ることが出来ます。一つは神によって、もう一方はサタンによって送られました。そして両方とも舟の中で眠っている人が登場します。一人はいやな現実から逃げ出す途中で意気消沈して寝ていました。もう一人は御国に住む人でしたが、御国には嵐はないのでぐっすり眠っていたのです。

一体、あなたが面している嵐はどちらの種類なのでしょうか? あなたはその嵐を神が望まれる方法で取り扱っているでしょうか? 過去にあなたに起った様々な奇跡で信仰が強く育まれ、それによってこの嵐のチャレンジを信仰で受けることができましたか?

弟子たちが遭遇した嵐は、彼らを神の御心から離れさせようという目的でサタンが送りました。ヨナの嵐は、御心に彼をもどすために神によって送られました。ある人たちは、神が右に行けというのに左に行ったため嵐に会いました。神は憐れみをもって彼らを引き戻すために嵐を送られるのです。

また、ある人たちは、神の御心の只中にいるが故に嵐に出会います。主は嵐を好まれるわけではありませんが、あなたがすでに与えられている嵐を静めるための道具を使うように訓練したいと思い、嵐を送られるのです。

私たちは嵐の中に立たされると、すぐさま神に介入していただいて、私たちの苦境を変えてくださいと叫び求めるのが、私たちのなすべきことだと思ってしまいます。しかし、それが嵐の目的ではないのです。もし私たちが神に叫び求めるだけだったならば、奇跡の業に参与する特権を私たちは放棄してしまうことになります。神は嵐を静める道具を私たちに与えないで嵐を起されることは、決してありません。神は私たちがそれらの道具を使って奇跡的な結果をもたらすことを望んでおられるのです。

あなたを去年襲った最大の闘いや危機的状況を考えてみてください。少し考えれば、その問題に対処するために神が与えていてくださった道具が何であったかが分かるはずです。神が私たちの人生に問題が起こるのを許されるのは、私たちがいつも神に泣きついてばかりいないで、問題に打ち勝てるようにしてくださるためです。勝つための道具は舟にちゃんと積まれているのですが、敵が恐れの風を巻き起こし、私たちが道具のある場所を忘れるように仕向けるのです。

私たちの多くは、嵐が来ると眠っているイエスに弟子たちが言ったのと同じ祈りをしてしまいます。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか!」と祈るのです。すると、イエスは起き上がって彼らの祈りに答えられました。神が祈りに答えてくださると、私たちはそれで喜び満足します。弟子たちは置かれた状況の中で当然するべき正しいことをしたのだ、と私たちは誉めさえするかもしれません。しかし、イエスは彼らを見て「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われたのです。

「何ですって!」と弟子たちは思ったかもしれません。「私はあなたのところにきてお願いするほどの信仰を持っていましたよ。そしてあなたは私が願ったことを聞いてくださったではありませんか。私の役目は祈ることで、あなたの役目はそれをしてくださることじゃないんですか!」と。

違うのです。じゃま物に向かって「出て行け!」と命令するのは、私たちの責任なのです。ほとんどのミニストリーがしていることは、神にお願いしてどうにかして地上の問題を解決していただくことです。しかし、本当は私たち自身が嵐に「静まれ!」と命令すべきなのです。私たちは周りの状況を天の御国の視点で見て、主の御ことばを宣言するのです。後はそこに天の支配が来るのを見ていればよいのです。

私はとりなしの働きに対して、絶大な愛と尊敬を抱いておりますし、私の妻は素晴らしいとりなし手です。しかし、多くのとりなし手たちは、うめいたり嘆いたり泣いたりして、絶えず重苦しい気持ちでいることを「とりなし」と呼んでいます。彼らは祈るときに、決して信仰に立つことをしません。私はそれがどういうものか知っています。というのは、私の人生の中でも、とても長い時間、すごく真面目に、すごく勤勉に祈っていたときがあり、もし祈った時間を記録していたならば多分みんな感心するくらい熱心だったことがあるのです。神は私が真心からそうしていたことを御存知だったので、私
11 04月

預言的ワーシップ(2)  ローレン・サンフォード  4月11日


預言的ワーシップ(2)

ローレン・サンフォード

第一コリント14:24-25 「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」

預言的ワーシップは私たちを祝福すると共に、私たちの心の中に秘められたものを明らかにすべくかき乱すので、そこから逃げたいという思いを起させます。それは罪が示されるからかもしれませんし、また、私たちの中にある聖い願いを明らかにするからという場合もあります。私は1996年にトロントで行われた「キャッチ・ザ・ファイヤー」というカンファレンスに出席しましたが、そこではデイビッド・ルイス師が5000人ほどの人のためにワーシップを導いていました。そのワーシップには預言的なものが多分にあって、神は私の心の中をかき回し、引き抜いたり植えたりされました。

預言には私たちの願いや意図の中にある良いものも、又、悪いものも明らかにする働きがあります。その頃私は自分の教会の状態について大層惨めな気持ちでおりました。私の両親はインナー・ヒーリングに関しての素晴らしい働きの先駆者として有名です。私の教会のメンバーのある人たちは、両親が実際に何を教えているのかはよく理解せずに、教会を巨大なカウンセリング・センターのようにするという期待を私に押し付けてきました。そして両親の教えを誤って適応した結果、メンバーたちは自分の内面ばかりを厳しく見つめる、病んで何もできない人たちの集まりのような教会にしてしまっていたのです。

カンファレンスでのワーシップの時、主の御霊が私のうちに流れこみ、私はこう叫んでいました。「主よ、あなたの民を牧し、あなたに仕えたいと思っていましたが、それが一生同じ人々の手を取り、同じ人々を何度も何度もカウンセリングし、そして彼らが自分にばかり焦点をあてて自分の臍ばかり眺めているだけならば、主よ、私をもう御許に行きたいです。死なせてください。もう十分です。」と。 私は本気でそう思っていました。それに対して主ははっきりと答えてくださいました。「あなたは何がしたいのですか?」と。そして私は本当に初めて「私は預言的伝道者になりたい。私は魂を勝ち取りたい。」という自分の気持ちがはっきりと分かったのです。この啓示を受けて、私は涙を流しながら妻に倒れこみました。彼女は私に何が起こったのか全くわかりませんでした。

続けて主は「それならば、家に帰って教会の人々に『私を両親の油注ぎから開放してください』と告げなければいけません。」と言われました。 そして、私はその通りにしたのです。教会の人たちは自分たちの態度と焦点を抜本的に変え、それによって数ヶ月後にみんながトランフォームされるリバイバルが起こりました。未だにそれは続いています。預言的ワーシップは、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えさせるのです。端的にいえば、あなたをかく乱するのです。私の人生を変革するあの出来事が起こってから2年あまりの間に、私は全く別人になりました。そして私はそれを喜んでいます!

預言的かき乱しが始まったとき、たとえ心の中の泥が沢山かき混ぜられるように感じても、そこから逃げたり、心を霊的、感情的に閉ざしてしまいたいという誘惑に負けてはいけません。池というものは、掃除を始めるまでは本当に澄んでいるように見えるものです。でも掃除を始めると、コンクリートの底にたまっていた泥が水を濁し、随分汚れていたことが分かります。その泥を見て混乱してはいけません。私たちの中に隠されていたものや汚れた根が引き抜かれるときに泥が出るのです。それは神があなたの池を掃除されていると言う意味なのです。そうなったら最後までその過程をやり通してください。十字架のもとに行き、イエスに近づくのです。あなたの中の解決されていない罪をかき立てる力が働いていたのです。その力はあなたをその罪から解放するためにも働いてくださるのです。あなたの罪がかき立てられたのはそのためであり、あなたを自由にするのが目的だったのです。罪の根を引っこ抜くことができる力は、又、植えることもできます。それが預言の働きでありプロセスなのです。

1998年に、神は私の中に新しいレベルのワーシップに対する解放(自由さ)を与えてくださいました。自由に踊ること。自由に表現すること。主の歌を歌うこと。これらは私に対する預言のことばの結果として起きたことではありませんでした。自分でそうしようと思って起こったことでもありません。それはその年に私たちの上に注がれ始めたある種の預言的ワーシップの結果生まれてきたのです。それは私の中に新しい何かを植えました。それは私の中で眠っていたか、あるいは存在しなかったものを建て上げました。預言的ワーシップには他にはない特別の次元があります。その油注ぎのもとにいて変えられないでいるというのは不可能なのです。

預言的ワーシップとは

使徒パウロはエペソ5:18-19でこれに関して次のように語っています。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」

預言的ワーシップにおいては、それに気がついていないかもしれませんが、 主に向かって語ると共にお互いに対しても語り合うのです。これは、ワーシップ・チームが舞台の上でただパーフォーマンスをしているようなワーシップでは絶対いけないという理由の一つです。ある人たちは「でも、私はただ聞くのが好きなんです」と言って異議を唱えるかもしれません。いいでしょう。しかし、会衆ワーシップというものは、誰かが楽しむためのものでは決してありません。私たちが一緒に歌うときは、互いに語り合い、互いに励まし合い、高め合うのです。あなたの隣の人が歌うのを聞き、隣の人はあなたの歌うのを聞き、そしてみんなの声が一緒になって神の御前に立ち上っていくときに、私たちは歌の中で互いに語り合い、共に主の臨在や、時には主の御ことばをお互いに分かち合うのです。会衆全体のワーシップは預言的な要素(次元)を含むことができますし、また、含むべきなのです。

エペソ5:18-19には、3つの歌の種類が述べられています。最初は詩で、これは、聖書の御ことばをみんながよく知ってい るメロディーで一緒に歌うものです。2つ目は賛美歌です。「何百年も前の古い歌で、多くの現代人を退屈にさせ、その上とても高いピッチで歌われるのでソプラノの人しか歌えないような歌」という賛美歌のイメージをあなたの頭の中から追い出してください。 賛美歌はそれ以上のものです。古いものも新しいものもありますが、賛美歌とはある人の心の中に生まれた詩やメロディーで、教会が一緒に歌うことを学んできたものです。クラシックな賛美歌も預言的ワーシップの中で使うことができますし、今でも私たちに霊の息吹を与えることができます。しかし、私たちのニューソング教会では、おもに新しい賛美歌集にある現代の歌を歌っています。それが、私たちが福音を伝えようとしている人たちに最も適切に語りかけるものだと信じるからです。

主が教会に預言の油注ぎを注いで望まれるときは、私たちが詩や賛歌を歌うときも預言の力は私たちを貫くことができます。ワーシップ・リーダーが主の御霊の指示に従い、詩や賛歌をこのように歌いなさいという御霊の導きのもと、会衆をもっと主の臨在に深く導き、高揚させ、又静まった所に誘うことができます。主が人々の心から情熱を引き出し今までとは違う高いレベルまで高揚されることもあります。ポイントは、今まで数え切れないほど何回も歌ってきた古い歌が、新しい油注ぎを受けて私たちの心を新たに貫き、今まで感じたことがないことを感じさせるのです。その場の空気は神の臨在で満ち、神が主権をもって一人一人を啓示によって取り扱いはじめられるのです。神は私たちを変え、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えるのです。預言的ワーシップは私たちを変えますし、もし私たちが逃げないでそれを許すならば、少なくとも私たちが変わるようにと私たちの霊に働きかけます。

第三番目は霊の歌ですが、これは人間の心からではなく神の御霊から来るものです。(それがある人間の心を通して表されることもあり、その場合はその人の心の色を反映することはあります。) 霊の歌は、私たちが歌ったことがある歌とか、みんなが知っている歌ではありません。神ご自身が私たちのワーシップの流れにより、そのときに霊の歌を誰かに歌わせるのです。それは神御自身が何かを語りたいと思われたり、あるいは、私たちのうちに何か事を成し遂げられたいと思われるからです。それは神ご自身の歌であり、主の歌なのです。

それはある目的をもって発せられるものですから、預言的なのです。その中で、神は何かリアルなことを成し遂げられるのです。ある時には、その言葉は神が会衆の中でその時にしておられることを宣言します。癒しとか招き、また人の霊の中で働く悪の力を打ち破ることなどです。またある時は、空中にいる悪の力に向けられた神の勝利を宣言する預言かもしれません。神を妨害し、私たちをくじくものを叱責する言葉かもしれません。あるいは、もっと神の臨在深くに私たちを引き寄せてくださる招きの言葉かもしれませんし、悔い改めを促す言葉かもしれません。預言的な歌は、度々私たちの生活のある領域に祝福を与えてくれますし、時には、罪やある状況に直接対決することもあります。

霊の歌は、個人的な感情や必要を延々と述べるものであってはなりません。そのようなものは自分の家でしてください。教会でのワーシップは神の民に関するものでなければなりません。

私はワーシップを導いているときに、主の歌が起こってくるのを感じるならば、少しばかりそれに耳を傾ける時を持ちます。その感覚は、まだ実際には聞こえないけれど感じることが出来る歌を心の中で「聞く」という感じです。それはまた、私の内から、私ではないものが湧き上がってくるのを感じるというような形でやってきます。その時にそれが聖霊であることが私にはわかるのです。

多くの場合、私はそれまで歌っていた歌のコードにしたがって楽器奏者たちにそのまま続けさせます。私が主を待っているときにみんなの気が散らないようにです。私は聖霊に聞きながら、しばらく異言で歌ったりします。イエスの御霊が何を言っておられか、という感覚をつかみ、これから始まるメロディーの少なくとも一端が分かるまでじっと聞いて主を待ちます。また霊の歌の始まりの言葉もはっきりといただくまで待ちます。「主よ、私が感じているものの内容は何ですか?」とお聞きするのです。少なくとも最初にいうことが分かったときに、私は口を開いて歌い始めます。その後は流れるように出てきます。

しばしば、私ではなくワーシップ・チームの中の一人に預言的な歌が与えられているのを感じることがあります。その場合、私は誰かが歌い出すまで待っていたり、誰なのがかわかるときはその人に声をかけます。これは、チームのメンバーがお互いによく知り合っているときにうまくいきます。チームに不和とかつぶやきがあると、このような預言の流れはすぐに止められてしまいます。

このような過程で霊の歌が与えられると、ある場合には会衆がじっと聞けるように一人がソロで歌います。又ある時は、会衆もチームと一緒に歌うようにと招かれます。会衆も一緒に歌うと、その歌の持つメッセージの力がみんなの内に盛り上がり、主の御ことばが植えられ確立されていきます。言葉の節は会衆がついていけるように短く簡単に覚えられるものでなければなりません。みんなでそれを何度も繰り返すと、その歌は私たちの心の中に根を張り、その真理が私たちのうちにリアルになり、みんなが神の力を知るようになるのです。

黙示録15:3に、同じようなことが書かれています。この節には2種類の歌について書かれています。「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌っていた」とあります。

一つは人間であるモーセから来ましたが、もう一つは小羊なるイエスからです。預言的ワーシップは天からのものと地からのものの両方を含んでいます。言い換えれば、この節は、人間の心から生まれた歌と共に、イエスから直接来た歌のことも表しているのです。つまり、詩、賛歌、霊の歌を表しています。

申命記31:19 「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。」

これよりも預言的なことがあるでしょうか? 神が歌を送ってくださり、主のしもべモーセに民に教えるように命じ、この歌によって彼らの罪を示し、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、植えるようにせよ、といわれたのです。

詩篇40:3 < b>「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」

神の預言的な歌は事を成し遂げられます。主ご自身が詩人の口に歌を与えられ、それは預言の力と共に出て行き、人々を主のもとに引き寄せ、彼らが神に信頼し敬うようにさせたのです。詩人はこの歌を多くの人が聞いたり見たりできるように、公衆の前で歌ったことに目を留めてください。外部の人々も神の民による預言的ワーシップに触れる必要があるのです。聖書によれば、預言的ワーシップは預言的かつ伝道的な力強い働きをすることができるのです。

詩篇32:7 (あなたは)救いの歓声(songs)で私を取り囲まれます。

この箇所で言っていることは、私が私の心から出てくる個人的な歌で自分自身を取り囲むのではありません。ここでいう歌とは神の心から出る預言的な歌のことを言っているのです。主よ、あなたが私を取り囲まれます、と言っているのです。そしてその歌は預言的である故に預言的力を持ち、救いをもたらすことが出来ます。その歌はリアルな何かを成し遂げるのです。それは敵を引き抜き、私やあなたを植えつけてくれるのです。

預言的な音楽は、以上述べたようなダイナミックなすべての働きにより、クリスチャンを助けるばかりでなく、未信者のたましいをも勝ち取ることが出来るのです。ボブ・ディランが彼の預言的といわれる歌で世界の若者に影響を与えることが出来るとすれば、聖霊の力を持ってすれば、どれほどの力を与えることが出来るでしょうか。教会に来ていない人たちに理解できないキリスト教の専門用語や表現で満ちた歌ではそんなことは絶対出来ないでしょう。もしもう一度世界に手を差し伸べたいと思うならば、私たちはもう一度人間になることを学ばねばなりません。そしてこの世の人々が理解できる歌詞で、共感できる情熱をもって歌わねばなりません。

端的にいえば、クリスチャン・ミュージックはスタイルでも霊的意味においても大きくシフト(変革)する必要があるということです。 シフトなしには、私たちがしているのは聖歌隊に説教するだけのようなものです。教会全体が喜んで歌える歌を作曲し歌い方をも教えてくれるミュージシャンが召し出されるように私たちは祈る必要があります。少し変わったものとか、創造的、革新的ものをたくみに締め出してしまう今のクリスチャン業界の閉鎖的なシステムが解放されるように祈らねばなりません。これは私たちがしていかねばならないことですし、神が望まれることだと私は信じます。ですから神は必ずそれを達成させてくださいます。

最後に申し上げますが、主は誰にでも、どんなときでも、どこででも、一人一人個人的に、私たち自身の預言的ワーシップを下さると信じます。もし私たちが急がないで、時間をかけてそれにじっと耳を傾けるならば、きっとその力が発揮されるのを私たちは見ることが出来るでしょう。そして、多くの壊れたものが修復され、大いなる勝利が主のために勝ち取られていくでしょう。未信者が主を畏れうやまうようにと招かれるでしょう。それが私たちの戦略なのです。(終わり)


トップに戻る

 Page 152 of 194  « First  ... « 150  151  152  153  154 » ...  Last »