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Walk With God Ministries

03 06月

春の日本旅行から帰って  坂 達也   6月3日2008年


春の日本旅行から帰って

今は日本においても「なまぬるい」「通常の」「平穏無事」という時代が終わりつつあることを強く感じました。力のない時代、2テモテ3:5でパウロが言っているような「形だけ敬虔(神のようであること)を装いながら、その実、力がない」時代はいよいよ終わらんとしております。

世の中はますます悪くなって来ました。悪魔があがき始めていることがよく分かります。しかし、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ロマ5:20)とあるように、一方で聖霊がますます顕著に働き始めておられます。

これからは取り残される人、悪魔につかまる人が多く出てくる中で、主を激しく求め、激しく神を愛する者だけが、主を見つけ、主と共に前進する時代が来ております。

聖霊にプロボーク(挑発・刺激)され、聖霊の力によってのみ働く「力の時代」に入る兆候を見ました。クリスチャンが輝き始めたのです。今、見るだけでノン・クリスチャンとはっきり違うことがわかるクリスチャンが出て来ています。

主は今日本に大きく働かれ始めておられることを、各地でひしひしと感じました。多くの方に神が「個人的に」「深く」触れられておられ、神がいかにパーソナルな愛の方であるかがよくわかります。そのような主に今、個人的に飢え乾き、ただただ、ひたすらに主を求める大勢の人たちと今回遭遇しました。これ程励まされたことはありません。

 ある教会をお訪ねすると、教会全体に「赦し、和解、一致」という聖霊の働きが充満しておりました。牧師ご夫妻自らが、先ず夫婦間においてこれを実行し、教会にその模範を示されました。それから端を発し、今は教会全体が輝いて聖霊に満たされていました。主が本当に喜ばれていることが分かりました。真の「へりくだり」がその町にリバイバルを呼び起こしつつあることを見ました。

又、ある教会では二年前に始めたチャーチ・スクールでどうしようもなく悪い子どもであった生徒が二年後に見事に変えられていました。教会のお母様方の愛の奉仕が子どもたちを変えたのです。そして、その変えられて行く子どもたちを見て、教会全体が励まされ、生き生きとした姿に変えられて行くのを今回目の当たりに見て感動しました。

授業後の学童保育をしておられるある教会では、小学生の子どもたちが、思い切って厳しくしつけられ、徹底してマナーを教えられていました。しかし子どもたちは驚くほど素直に言うことを聞くのです。そして満足し、はつらつとしていました。子どもは愛のない家庭で自由に野放しにされたら、どうしていいのか分からないことがこれでよく理解できます。
子どもは愛をもって厳しくしつけるのが本来の聖書的なやり方であることを再認識出来て、本当に恵まれました。今、日本中の子どもたちは真の愛に飢えています。教会にとっては又とないチャンスです。又、増え続ける老人たちを霊的な「姥捨て山」状態に放置してはならないと強く思わされました。

さて、こちらに帰ってからの祈りの中で、これからは、今まで無かったことがどんどん起ることが示されております。異常気象、地震、災害。日本にも大きな地震が起きるでしょう。鳥インフルエンザも近づいて来ました。

私たちは「終末」の敷居をまたぎ、いよいよその「予定表」のうちに入ったのです。ポイント・オブ・ノーリターンの時点が近づいて来ています。
しかし、このような災害の時こそ、主の恵みが大きく現われる時であり、クリスチャンが働くかけがえのないチャンスです。待ちに待った、クリスチャンが光り輝く時が来ました。日本の教会に期待します。お祈りしております。(終わり) 
     

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03 06月

特報: フロリダ州レイクランドで起っている癒しのリバイバル


フロリダ州レイクランドで起っている癒しのリバイバル

 4月2日からフロリダ州レイクランドにあるイグナイテッド・チャーチ(千人収容)で始まったタッド・ベントリー師による癒しのミニストリー集会は、全く予期しないほど膨れ上がり、今では7千人収容できる会場を使ったり、このリバイバル集会のために新たに一万人収容のエアコン付テント会場が飛行場の近くに設置されたそうです。今までに推計14万が集まり、世界40カ国から既に人々が訪れています。
このミニストリーは今全米で注目を浴びており、最近NBCニュースでも報道されました。その様子はGodTVで毎日報道されています。

 ベントレー師はこのリバイバルの特徴は、集会に来た人が主からの栄光の油注ぎを受けて持ち帰ると、主のいやしを世界のどこででも行うことができることであると言っております。イギリスから来たある牧師が本国に帰って集会を開き、最初の夜に100人が癒され、集会は今でも続行されているそうです。
又、集会に来た二人の学生が持ち帰り、リック・ジョイナー師のモーニング・スター・ミニストリーへも飛び火しました。ジョイナー師もめざましいこのリバイバルの働きは真に神の御業であると認めております。
今は全米各地で飛び火した癒しの集会が行われており、このホノルルでもディーン・フジシマ師のラウリマ・ミニストリーにより土曜日を除く毎夜集会が持たれています。

詳しくは又報告しますが、その様子はhighlights@god.tvとか、Sid Roth師のサイト
http://www.sidroth.org を開いてその中のSid’s interview with Todd Bentley<<
を見て下さい。取り急ぎご報告します。  坂 達也


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31 05月

神からのチャレンジ ― あなたは何を見ているか? キャシー・ウォルター 5月31日


神からのチャレンジ ― あなたは何を見ているか?

キャシー・ウォルター


あなたは何を見ているか?

今日、あなたに一つの質問をしたいと思います。そしてこれは神があなたに質問しておられることだと信じます。実際、神はエレミヤにこれと同じ質問をしたのです。さあ、用意はできましたか?

まず、少し背景を説明しましょう。エレミヤが活動を始めたときには、彼はすでに確立されたミニストリーを持っていたわけではありません。つまり、大きな聖会のスピーカーとしてイスラエル中を駆け回ったり、セミナーを開いていたわけではないのです。彼は未だ子どもというか、せいぜいティーンエイジャーにすぎませんでした。

神がエレミヤを説教者として最初に召されたとき、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを国々の預言者と決めていた。」と言われました。それを聞いてエレミヤはびびってしまいました。それは前にも聞いたことがあることだったのです。なにせ彼の父親は説教者でした。でも私たちは往々にして、「それはずっと先のことで、私がもっと成長したときのことだろう。」という具合に思ってしまうのです。

エレミヤは主に答えて、「ご冗談ですよね。私はまだ子どもです。まだ何もできませんから無理ですよ。」と言いました。これは私の訳ですが、聖書にはそう書いてあります。「そこで、私は言った。『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。』」とあります。(エレミヤ1:6) 

神は、「自分は役に立たない子どもにすぎない」というエレミヤの思いを無視され、「そう言ってはならない。わたしは、わたしの言葉を既にあなたの口に与えてあるのだから。」と言われました。そして、神は非常に重要な役目をエレミヤに与えました。
「エレミヤよ、さあ、聖書学校に入って一生懸命勉強せよ。そうすれば、やがてあなたは成長してわたしの働きができるようになるであろう。」と神は言われましたか?違います!神はこのティーンエイジャーに、「わたしはあなたを国々に遣わす。国々や多くの王国の上に任命した。あなたは引き抜き、あるいは、引き倒し、あらゆる力ある業をすることができる。」と言われたのです。神はエレミヤに人々の顔を恐れるな、と告げられ、「わたしはあなたとともにいる。」と約束されました。

エレミヤがその召しを承諾するかどうか応えるのも待たないで、神は突然「エレミヤよ、あなたは何を見ているか?」と聞かれました。エレミヤの父は祭司でしたから、彼は神に関することには慣れていましたが、その時は面食らいました。神は「エレミヤよ、あなたは何を見ているか?」と言われたのです。エレミヤはすばやく自分の信仰を働かせねばなりませんでした。つまり、信仰で見なければならなかったのです。エレミヤ青年はその時、幻を見て、「アーモンドの枝を見ています。」と答えたのです。

アロンの杖はアーモンドの枝でした。それはヘブル語で「目覚めさせる者」という意味を持っています。エレミヤは信仰で自分の将来を見ていたのです。(彼はまだそれを悟ってはいませんでしたが。) 彼は「目覚めさせる者」になるように召されたのです。神は、エレミヤが預言をしてイスラエルの人々に彼らの召しと目的のチャレンジを与えるようにと言われたのです。即ち、神はエレミヤに、イスラエルの人々の目を覚まさせなさい、と告げられたのです。私ならば、誰か他の人を遣わしてください、と神にお願いして、あとは知らんぷりをしていたことでしょう。エレミヤも実はそうしたのです、でも、無駄でした。

ご存知でしょうか?人々は眠りから起されるのをあまり好まないのです。起されてすぐに機嫌のいい人はあまりいません。起されて目を覚ましたとき、あなたは多分うれしくなくて不機嫌でしょう。「目覚めさせる者」というのはエレミヤにぴったりの名前でした。「人気のある者」という形容詞は彼には当てはまりませんでした。
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さて、これが主からのあなたへの質問です。「あなたは何を見ていますか?」 私は肉の目で見えるものについて聞いているのではありません。

ゆっくり時間をとってください。美味しいレストランにでも行き、リラックスして2,3日ゆっくり休みを取ってください。それからイエス様の足元に座ってください。「争う代わりに寄り添いなさい。」とか「もがかないで安らぎなさい。」という言葉が私のお気に入りです。
あなたは安息に入り、聖霊があなたのために何を見ておられるかを教えていただくのです。あなたの教会のためではありません。あなたの夫(または妻)のためでさえなく、あなた個人のためのヴィジョンです。あなたのヴィジョンはまずあなたから出発せねばなりませんよね。自分のために本当にヴィジョンがないならば、他の人のヴィジョンを信じることもできないでしょう。
 
ヴィジョンに関すること

昔のテレビジョンを覚えておられますか? テレビが古くなるとブラウン管が悪くなってきます。ブラウン管が駄目になってくると、どうなるか覚えていますか? 映像がだんだん小さくなっていきます。テレビは当時高価なものでしたから、古いものをなるべく長く使おうとして、最後までそのまま見ていました。縮んで見える映像を一生懸命見たものです。

さあ、あなたは何を見ていますか? 実は、ほとんどの人が縮んで小さくなった映像を見ているのです。夫のデイビットは「クリスチャンの多くは射るべき的を定めないままで、矢を放っている。」と言っています。人は自分が見るものにしか、的を定めることはできません。もし小さな召し、小さな目標、小さなヴィジョンしか見ないのならば、それに的を合わせるしかないのです。

私からのあなたへのチャレンジはこれです。それは即ち、神があなたのために見ておられるものを見ることです。神は大きなヴィジョンを持っておられるのです!私たちは大計画の中の自分の町とか、自分の家族、自分の小さな場所だけを見ています。しかし、神は世界の国々、何も隔てのない一つの大きなエリヤを見るのです。神のヴィジョンには限界がありませんし、あなたのためにも何の限界も設けてはおられません。あなたは自分の信じるものを手に入れることが出来、あなたが信仰で見ることができるものならみんな信じることができるのです。あなたは神の信仰をあなたのうちに持っています。それを信じなさい!なぜならば、「おのおのに分け与えてくださった信仰の量り」があるからです。(ローマ12:3)

あなたの冒険は何ですか ?

聖書には、神のみこころは喜ばしいとあります。「私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇40:8)
神はご自分の願いをあなたの心に入れられます。言い換えれば、あなたが自分の心に従って行うだけでそれが喜びとなり、すばらしいものであり、冒険に富み、神で満ちるようにと、主はご自分の願いをあなたの心に入れてくださるのです。あなたは、ただ聖霊があなたのために見ておられることを教えてくださいとお願いすればいいのです。あなたのために、すばらしくて、驚くべき、大きな人生の目標が定められているのです。

もしあなたが今夜、主に仕えるために何かをしようとしていて、それが喜びでないならば、そんなものは止めてしまいなさい、それはただの業にすぎません。そして、残念ながら、神はあなたの業には何の関心も持たれないのです。主はご自分の業に関心を持っておられるのです。主はあなたの業に油を注がれません。ご自分の業に油注がれるのです。神の栄光はあなたの行いには決して訪れません。栄光は主がなされることの上にくるのです。あなたが努力するのではなく、油注ぎに自分を委ねるということです。

一生懸命努力をして自分で頑張るよりも、委ねたほうが楽じゃないですか? 努力するということは大変困難なことがあります。 神は御国を建てるために、あなたの町を駆けずり回って働き手を募っているわけではないのです。神はご自分の息子、娘が立ち上がって、神の召しにふさわしい者となることを願っておられるだけなのです。あなたはもはや「恵みによって救われた罪人」ではありません。「恵みによって救われた、かつては罪人だった者」であり、今や、全能なる神の息子であり娘なのです。それはあなたが自分で勝ち取るものではありません。その資格は私たちにはありません。イエス様がこの資格をあなたに値なしに相続させてくださったのです。イエス様が死んでよみがえられたときに、もう100%その代価は支払われました。

まず、主を喜ぼう

大事なことを忘れるところでした。あなたの一番の召しは神を楽しむことです。神はまずご自分を楽しむようにと、あなたを召しておられます。もし主を楽しむことがないならば、主のために働こうとしないでください。イエスがあなたに恋しておられることを知っていますか? 主はあなたに首ったけなのです。あなたにがまんしているのではありません。主はあなたを主の聖いご性格で造られました。永遠があなたの中にあるのです。主はご自分の力と義とをあなたに与えられ、麗しい救いの衣を着せてくださったのです。

これが新しい生ける道です。この道を歩いてください。そして主があなたのために見ておられることを見始めてください。(終わり)


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23 05月

主との個人的親密さを生き生きと保つ ウエイド・テイラー 5月22日 2008年




主との個人的親密さを生き生きと保つ

ウエイド・テイラー

主は天に昇られ、イエスの血潮は「とこしえの命の力」となりました。「その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」ヘブル7:16

イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」ヨハネ6:53

私たちが主との親密な真の交わりの中で主のいのちに与り、そして聖餐に与るならば、私たちは「朽ちることのない、いのちの力」を受けるのです。ぶどうの木(イエス)のいのちを枝(私たち)が受けるとき、主が備えてくださった豊かないのちを私たちは生きることができるのです。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10:10

現在のキリストの教会(あなたや私です)を用いて、主は「終わりの時」のための証を世界に与えようとしておられます。今のところこの世は、教会を笑いものにしたり厄介ものだと考えています。しかし、この世は今まさに激しく揺さぶられようとしているのです。終わりの時のために天に用意されていた使徒的権能がまさに解き放たれ与えられようとしています。天には神の御座があり、天のちからは私たちのためにますます備えられています。しかし、その力を受けるためには、ぶどうの枝が木からそのいのちとちからを受けるように、私たちも木につながらねばなりません。

ほとんどの人が自分の人生で今ほど忙しかったことはない、と言うのではないでしょうか。いろいろな用事で私たちは地上のことに心を奪われ、主のいのちとちからを得るために「上に昇っていく」十分な時間がとれないでいます。これは問題です。そういう人は、最後には取り残されてしまいます。というのは、彼らは永遠のものとの関係を築くことに重きを置かないからです。

「花嫁」と言う言葉がありますが、この言葉が今生き生きとして来ております。私たちが主の「花嫁」であるとは、主に服従する関係にあるということです。この「花嫁」は現在の教会の中にすでに存在し、顔を覆っているベールが上げられる時を待ちながら静かに調えられています。私たちが天の花婿(イエス)に全面的に依存し、主にいのちを明け渡すとき、私たちは自分のアイデンティティーを無くして主のアイデンティティーをいただくのです。

主に服従していくときに、私たちはバプテスマのヨハネのように、主のいのちを顕し、その証人となることができます。「彼は言った。『私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいる者の声です。』」ヨハネ1:23

今主がしておられることを表すもう一つのものは「神の息子たち」という言葉です。「息子」であるということは、主と「協同」あるいは「協力」関係にあるということです。
「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。私たちは朝早くからぶどう園に行きましょう。」雅歌7:11-12a

このレベルに達するコミットメントをした者たちを用いて、主は今の世に主のいのちと力を表されるでしょう。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたは、みな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」ガラテヤ3:28

教会において、「油注ぎの元では」男性とか女性の区別はありません。私たちはみな、全く性別に関係なく、主によって「力を与えられて」機能することができるのです。男性とか女性は主との関係のタイプを表します。私は「花嫁」として「主に依存し」、イエスと「一つ」となります。

また、「息子」として主と「協同」関係になります。そして、私は地上のものより「上に昇り」ます。私は「勝利者」ですから、主のいのちが私の人生を通して流れはじめます。そのとき、私の人生は主のいのちの「証」となり、主のいのちをこの世に表現する(あらわす)ものとなるのです。

私たちは終わりの時に近づいています。それは即ち「教会の時代」の幕が閉じられる時であり、国家に対する大艱難時代における(最後の)裁きの時、そして「神による神権政治」によって人類のすべてが治められる千年王国が設立される時です。
「そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。」マタイ25:10

主といっしょに「婚礼の祝宴」に行く用意の出来ていた者たちは、「新しい歌」を歌うことができます。「彼らは新しい歌を歌って言った。『・・・私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」黙示録5:9a-10 (終わり)


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17 05月

天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(2) スティーブ・ウィッツ   5月17日


天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(2)

スティーブ・ウィッツ

天国のトリック

神は明らかにパズルがお好きです。どうして神はミステリーを用いるのでしょうか。 私の近著「声:天国の言語を理解しそれに応答する」の中で、私はこの点を探求しました。
第一章に、息子が2歳だったときのことを書いています。彼はどの2歳児でもそうであるように、エネルギーにあふれいつも誰かと遊びたがっていました。私が仕事から帰ってリラックスしようとしますと、彼は私がソファから立ち上がって遊んでくれるのを待っていました。私はソファに座ったままで、彼を呼び、ハグしてくれるようにたのみます。でも彼は「いやだ!」といたずらっぽく言うのです。私はおっくうなので、息子を私のところに来させる方法を考え出し、部屋の向うにいる息子にむかって「ジョシュ、カム セグ モイ ヤム」と言いました。そしてこの意味不明のことばを何度も繰り返したのです。息子は「なんだろう」と思い、少し近づいて来て、私の唇をじっと見て、お父さんが言っていることを分かろうとしました。そしてついには、彼は私のすぐ前に立っているのです!

ミステリィーの罠にかかって私の膝に乗ってしまったことを知らない息子を、私はくすぐりはじめます。彼は悲鳴をあげて母親のところに行きます。このように、ミステリーはあなたをひきつける力があるのです。神はそれを私たちが神に近づいて神の計画を知るために用いられます。あなたは天の「カム セグ モイ ヤム」というような言葉を聞いたことがありますか? 私たちの多くは、時間をかけて声を探すという代価を払うことをしようとしないことが多いのです。

求める心が必要

モーセは荒野で40年を過ごしました。彼の人生は燃える柴から聞こえてくる声により、あっという間にひっくりかえされました。聖書には、彼は「あちらへ行って(turned aside)、この大いなる光景を見ることにしよう。」といい、次に「主は彼が横切って(turned aside)来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。」(出エジプト3:3-4)と書かれています。この場面では、単なる「あちらへ行ってturned aside」という行為が啓示を受ける戸口になったのです。燃えつきない柴というミステリーは、ほんの少しの時間を使って考えることによって解けたのです。神はそれを見られ、応答されました。多くのミステリーを解くためには「意図的に解こうとすること」が必要でしょうか? もし私たちがちょっと立ち止まって理解したいと望むならば、人生のミステリーは解けるのでしょうか? 私たちの多くはいらいらして、「もし、神が本当に私にそうしてほしいならば、はっきり示してくださるはずだ。」と言います。福音書をちょっと読んでみれば、イエスの弟子たちはイエスの意図が何であるかに関して、多くの場合混乱していました。「そして彼らは主の言われることがわからなかった。」という箇所がよく出てきます。イエスは、主が去られ、聖霊が来られる(ルカ24:49)というような、次々に展開する神の御計画の次の段階を知らせることに関しては、なぞめいたコミニケーションで弟子たちの好奇心を高めています。

使徒行伝2章では、イエスはすでに去られ、弟子たちは忍耐をもって…ミステリーの到来を待っていました。120人が屋上の間に集まり、わくわくして、心を合わせ、そして多分何が起こるかと興味津々で待っていたのです! 聖霊が特別の顕れとともに力を伴って来られました。キリストの弟子たちは、炎のような舌を経験し、酔ったようになり、17の異なった言語で話す能力を与えられました!神の御国の新しい時代のミステリーが明らかになったのです。

二つの重要な問い

初代教会に起こったこの歴史的な日は、二つの重要な問いをもたらしました。「これは一体どういう意味なのか?」と「私たちは何をしなければならないのか?」という二つの問いです。

ミステリーが起こったときには常にこの二つの問いに対して教会は答えなければなりません。今日も、人生に起こるすべてのミステリーに対して人々はこれと同じ二つの問いをいだくのです。

現代の社会に教会が与える影響力の大きさは、教会がこの質問にどれだけ答えられるかによって決まります。 質問に答えるためには、知恵が要りますが、深いレベルではやはり預言的な人が必要となります。神から聞くことができる人々が最後には治めるのです。彼らは光となり、道しるべとなるでしょう。今日の社会には多くのジレンマがあります。西洋医学がいいのか、東洋医学がいいのかという論争は、ますます激しくなっています。オーガニックな食料が記録的に増えていますし、いろいろな代替治療法が紹介されています。環境保護とビジネスが一つとなって問題に取り組んでいます。以前は両者が敵対していましたが、今は共に協力してミステリーを解こうとしています。

福音派と聖霊派の壁もだんだんに消滅してきて、区別がつけにくくなってきました。過去20年間、記録的なペースで多くのミステリーが解かれてきました。教会こそが、革命的な様々な発見の最前線にいる必要があります。天国の声を聞ける人々はどこにいるのでしょうか? 神は人生の謎を解くようにと私たちを召してくださっているのです。ネヘミヤはエルサレムを再建するための計画を持っていました。ダニエルは王と王国の未来に関する啓示を受けました。 ヨセフは飢饉のときエジプトを救い、ユダヤの民を守りました。最近の「Evan Almighty」という映画は、聖書の話を現代に置き換えたものです。それは21世紀にノアのような召しをうけた新国会議員エバンの話です。ユーモアがありますが、同時に預言的でもあります。人生に対する神の御心を理解すればするほど、エバンは物事が明確に分かるようになります。私たちも神からのコミニケーションを聞いて解き明かし、現在の自分の人生に用いていくのでしょうか? 長い間耳を澄まして待ち、「あちらへ行ってturn aside」」、天の声に応答するでしょうか? この質問にどう答えるかで、私たちの未来が決まるかもしれません。ミステリーの中には、それを解明するのにもっと長い時間を必要とするのもあります。今日、そのチャレンジは非常に複雑で、それを解くためにはソロモン級の知恵が要求されるものもあります。非常に深いミステリーに私たちはどう対処したらいいのでしょうか?
 私は第一コリントにその答えがあると思います。全く分からない外国語にぶつかったとき、あなたはどうしますか?コリント
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