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Walk With God Ministries

01 11月

後悔からの開放    チュック・ピアース   11月1日


後悔からの解放
チャック・ピアス


私の妻であるパムが最近グローリー・オブ・ザイオンで「後悔」に関する素晴らしいメッセージをしてくれました。パムは後悔を次のように定義しました。「起こったことに関する悲しみや自責の念。何かをしてしまったとか、しなかったとか、なくなった物とかいなくなった人に関する悲しみ。」 このような悲しみは、もし正しく取り扱われないと心の傷となって残ります。 後悔には2種類あります。一つはあなたがしてしまったことに対する後悔であり、もう一つは誰か他の人があなたにしたことに関する後悔です。パムは後悔のいくつかのレベルを説明してくれました。

1.クリスマスとかのお祝いで食べすぎて太ってしまったとか、洋服を買ったらそのすぐ後でそれがセールで安くなっていたとかいうもの。 あなたの人生に深い影響のない一時的表面的な後悔。

2.自分の健康に十分気をつけなかったとか、退職後の生活に関して賢明な計画を立てなかったというような後悔。

3.誘惑に負けてしまってよくない選択をしてしまったというようなことで、あなたの現在と将来の人生にそれが悪い影響を与えてしまったという深い後悔。

4.神に自分の人生をお捧げするのが遅すぎた、とか、なくなった親戚や友人に福音を伝えなかった、という後悔。

5.あなたの神との歩みや人々との関係に影響を与えるような霊的後悔。

どのように重大なものであれ、また小さいものであれ、すべての後悔に関して一つのことが言えます。 敵はそれを使って私たちを必ず攻めてくることです。パムは後悔に打ち勝つ方法を語ってくれました。

1.後悔は罪の当然の結果であることを認めること。何かをしてしまったときも、するべきをことをしなかったときも。

2.敵が後悔の念をつかってあなたをなじるとき、すぐに敵に「その通りです」といいなさい。あなたが後悔の念の中ですごしているなら、あなたの良心が聖霊に敏感に生きているということです。

3.後悔を悔い改めへと転換しなさい。自分の罪を認め父なる神の赦しを受け取りなさい。ヤコブ5:16を読みなさい。「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」 私たちが後悔する事柄は、往々にして根底にある罪を暴露します。

4.ロマ書8:28を思いなさい。「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを(後悔さえも)働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

5.堅く立ちなさい。信仰によって敵にむかって「私のすべての過去はイエス・キリストの血潮によって覆われている。私のしたこと、また出来なかったことのすべては神によって贖われている。」と宣言しなさい。

とどのつまり、最後に問題となりえる後悔はただ一つだけです。それは、あなたが敵の偽りを信じてしまい、信仰による歩みをやめてしまうことです。なぜならば、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づくものは、神がおられることと、神を(熱心に)求める者には、報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。 (ヘブル11:6)」とあるからです。

今は「長引いた期待」を打ち破るときです。箴言13:12には「期待が長引くと心は病む。」と書かれています。何かを損失したことによって打ち負かされてはいけません。 確かに損失はあなたを揺さぶります。しかし、損失が喜び、変革、復活の力をもたらす可能性があることを忘れてはいけません。私たちには敵を縛り上げる力が与えられています。私たちを告発する者を縛るのです。告発者はあなたがしてしまったすべての失敗に対してあざけることでしょう。 しかし、あなたは自己憐憫、疑い、不信を打ち破らねばなりません!

トラウマや失敗から抜け出す

トラウマは記憶の中に刷り込まれています。また、脳の組織(プロセッサー)の奥深くに吸収されてあなたの思い(こころ)に影響をあたえます。トラウマはあなたがまわりの世界を見るためのスポットライトとなり、あなたが何をどう見るかに影響を及ぼします。 トラウマは正しく処理されないと、その事件を原点にした物の見方であなたの世界を形成してしまいます。トラウマによって、恐怖心、失敗を恐れる心、心配、不安にさいなまれるようになり、身体の器官(脾臓、腎臓、すい臓)に負担がかかります。

トラウマを捨て去りなさい! トラウマが敵によって使われると、どうせ失敗するだろうとか、混乱して物事をはっきりと把握できないとか、鈍感、無感覚、絶望、無関心、無感動というような状態に私たちを追いやってしまうからです。(終わり)



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20 10月

ダビデとエリアブ   ビクトリア・ボイセン  10月20日



ダビデとエリアブ

                                  ビクトリア・ボイソン

ダビデは兄たちのいる戦場に行ったとき、ゴリアテがイスラエルを嘲笑している言葉に憤りを覚え、その事態を何とかしたいと願いました。しかし、ダビデは巨人と戦う前に、自分の兄であるエリアブからの攻撃に打ち勝たねばなりませんでした。
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Iサムエル17:28-30 をお読みください。

私は息子のコールとこの聖書の箇所を読んでいたのですが、私が「ダビデとエリアブ」というタイトルを読むやいやな、彼は「違うよ、お母さん、ダビデとゴリアテだよ!」と直してくれました。確かに私たちはみんなダビデが巨人ゴリアテを倒した話を聞いてきましたが、その少し前に、兄エリアブがダビデを言葉で攻撃してきたのです。 ですから、ダビデはゴリアテと戦う前にエリアブの激しい叱責に打ち勝つ必要があったのです。

ダビデは神の力を信じていました。しかし、エリアブはそうではありませんでした。彼はダビデの言動の動機を疑ってダビデを諌めるのは、自分に知恵があるからだと思ったのです。自分の心におこったダビデにたいする非難の思いは、ダビデの人生を洞察することができる自分の賜物だと勘違いしました。自分は弟が分かっている、と思ったのです。ダビデが生まれてからずっと一緒に暮らしてきました。面倒もみてきたことでしょう。しかし彼はダビデの心を本当には悟ることができなかったのです。

エリアブは、ダビデの神への信頼を傲慢、うぬぼれと誤解してしまいました。ダビデがみんなの前でただ大口をたたいているだけだと思い、怒ったのです。ずっとダビデと一緒に暮らしては来ましたが、父の牧場で羊を飼うしか能のない弟としてしか彼を見ることは出来なかったのです。ダビデが羊を飼っているときに巨人をも倒すことができる勇士として神が彼を訓練しておられたことを、エリアブは知らなかったのです。

Iサムエル17:34-37をお読みください。

誰も知らないうちに神はダビデを信仰の勇者として訓練しておられました。信仰の勇者とは自分の力や知恵に頼るのではなく、神の力と知恵に頼る者です。神はダビデに人間のやり方ではなく、神のやり方で戦う方法を教えました。 神は彼に信仰と石投げを使うようにと教えられました。 人々からよろいや剣をすすめられましたが、ダビデはそれらに慣れていませんでした。(Iサムエル17:39参照)


神による訓練

私たちが望みさえすれば、神ご自身が私たちを訓練し神のやり方で生きる方法を教えてくださいます。神は他の人たちの経験を使って私たちを訓練されることも多々ありますが、神が私たちと一対一になって教えたいと願われる特別のときがあるのです。(ヨハネ16:13参照) 私たちが試練の中を通っているときに、ご自身で一歩一歩導きたいと願われます。主から教えを受ければ受けるほどもっとそれを受けとる力が与えられます。

エリアブは時代にふさわしい勇士になりたいと願ったでしょうし、確かに人々の目にエリアブは立派な勇士と映ったと思います。彼は自分こそ戦いに必要な腕を持っているという自信があり、ダビデでは駄目だと思ったのです。サムエルさえ、エリアブこそイスラエルの次の王として神が選ばれたものだと思ったほどでした 。しかし、神はサムエルに「エリアブの容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。」といわれました。「主は人が見るようには見ないからだ。人はうわべをみるが、主は心を見る。」(Iサムエル16:7)

エリアブは羊飼いにすぎないダビデが、巨人ゴリアテと戦うことが出来ると思ったということだけでも猛烈に腹が立ちました。ダビデが強い信仰をもって語るのはうぬぼれだと思ったのです。兄弟の中で一番年長で背も高い自分でさえゴリアテと戦うなどとは考えもしないのに、一番チビの弟がそんなことを考えるとは、何というあつかましさであろうと思ったのです。ダビデの話はうぬぼれにすぎず、その動機も絶対に悪いものであるに違いないと決めつけました。エリアブはゴリアテに焦点をあて、ゴリアテにかなうものはいないと決論づけました。しかしダビデの焦点は神に当てられていたのです。エリアブはダビデが自分自身を高く評価しすぎていると思いましたが、実際のところは、エリアブこそ主をあまりにも小さく考えていたのでした。


告発者から遠ざかれ

ダビデのような立場に立たされことがありますか? あなたの意図したことは良いことであり、動機も正しかったのに、周りの人があなたの言動を誤解するというようなことです。あなたが神に全幅の信頼を寄せているのを、「それはプライドだ。」といい、あなたに自分の分をわきまえるように忠告しなければならないと彼らは思うのです。 エリアブがダビデにおまえはただの羊飼いにすぎない、と言ったようにです。「荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。」(Iサムエル17:28)


エリアブのような人は、自分の口に疑いや不信仰を語らせてしまいます。「神からの召命をあなたは決して成就することはできない。」と、様々な理由を駆使してあなたに伝えようとします。「神が約束されたものをあなたは決して手に入れることはない。」と、彼らは自信をもって言うのです。エリアブは自分はダビデを熟知していて、彼に何か特別な才能などない、と信じ込んでいました。しかし、ダビデが野原で羊の番をしていたときに神がダビデの心を主のこころにかなうように形作り、彼の信仰を建て上げていたのですが、エリアブはその場にはいなかったのです。


ダビデが人生の中でもっとも重要な決断の一つをしたのはこの時でした。彼はエリアブに背をむけて他の人に話しかけたのです。


敵は、私たちはミニストリーをする力もなく適してもいないと考える人たちを私たちの回りに探して、彼らを使って私たちの人生の目標を台無しにする言葉を話させます。彼らを使って私たちがどれほど力不足であるかを指摘させ、大したことは絶対できないという理由の数々を述べ立てさせるのです。

しかし、神もまた声をもっておられるのです。主は私たちの将来や心の動機を見通すことができます。私たちは耳を主に向けねばなりません。そうすれば主からのすべての命令に聞き従う勇気を主は私たちにくださいます。 今まで私たちが一緒にいた人から離れて自由になり、神の与えてくださった使命の中を私たちが歩きだすのを主は待っておられます。


あなたは巨人を倒せる

愛する皆さん、神はあなたを巨人を倒す勇者として見ておられます。 主はあなたを勝利者だと見ています。主はあなたにやってみなさいと薦めておられます。敵の偽りには耳をふさいで、主があなたを見ているように自分を見てください。主はあなたのユニークさをキリストの身体を立てあげるために用いたいと思っておられるのです。


神はあなたの人生の目標は非常に偉大であることをあなたが確信するようにとずっと働きかけてこられました。しかしそれと同時にあなたの周りの人たちはあなたは大した器ではないとみなしていたのです。彼らはたしかにあなたには油注ぎがあることは認めても、神があなたのために立てている大きな計画を想像することはとてもできないのです。彼らにあなたの人生のゴールは絶対に見えないのです。ですから彼らにわかってもらおうとするのはやめなさい。それはあなたと神との間のことなのですから。主は御計画が実現してくるまでは人には秘密にしておきたいのです。


もしダビデがエリアブの言うことを聞いていたならば、ゴリアテを倒してはいなかったでしょうし、王にもなっていなかったでしょう。私たちの人生目標がうまれ出るのを待っている間、人の意見に背を向けて神の声を聞かねばなりません。神はダビデにイスラエルの王座をすでに約束されていましたが、ゴリアテを倒すまではダビデは人々にほとんど知られていませんでした。ダビデが信仰でこのように一歩踏み出したことにより、神は彼の名を広めました。やがて王になるための基盤を神が与えたのです。信仰と主に従順なる行動の一歩一歩が主によって与えられた目標へと私たちを近づけるのです。ここでデビデが一歩を踏み出していなかったならば、イスラエルの王座には着かなかったかもしれないのです。

今あなたの人生の中でのゴリアテは何でしょうか。神はあなたに何をせよといわれていますか。それが何であれ必ずや「おまえには出来るはずがない」、と責め立てる敵の声が聞こえてくるでしょう。 敵は主が備えられたあなたの人生の目標を壊したいのです。負けてはいけません。敵があなたを落胆させようとしたならば、かえってそれによって勇気づけられなさい。敵はあなたがその目標を達成することが出来ると思うからこそ、わざわざ時間をかけてあなたを失望させようと攻撃してくるのですから。

次のように祈りましょう。

愛するお父様、敵の声ではなくあなたの声が聞けるように助けてください。私のヴィジョンを変えてください。あなたが見てくださるように自分を見ることができますように。他の人たちをあなたの恵みの光の中で見ることができますように。私のまわりのすべての人の中にあなたのご計画を見ることができますように。(終わり)

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11 10月

主のみ言葉を信じる    JP ジャクソン   10月11日


主の御言葉を信じる

ジョン・ポール・ジャクソン

自分がどのくらい成熟した大人になったかを知りたいならば、問題を一つ見つけて見ればすぐにわかります。 人の徳(新しい性質)というものは、平穏なときにはぐくまれますが、それが真に身につくか着かないかは、問題が起こったときに私たちがどう対処するかにかかっています。誰かに感情を刺激するボタンを押されると、内的感情の温度は急上昇し、私たちは自分の「肉」をどのように扱うかという大変重要な選択を迫られる情況に置かれます。

この選択をせねばならないときには、一人の人が必ず肉に死なねばなりません。 そして、その一人の人とは常にあなたなのです。 あなたは感情の嵐の只中で軽率に行動してしまった後にその過ちを自覚して肉に死ぬか、あるいは、神に従ってその場ですぐ死ぬことを選ぶこともできます。どちらにせよ、あなたは死なねばならないのですから、出来るだけ早く済ませてしまったほうがいいのではないでしょうか。


神と結ばれた心

悔い改めには必ず自分に死ぬことが要求されます。自分が悪かったことを認めて赦しを請うことは、文字通り自分のたましいを死刑に処することです。 ナイフが自分と罪を切り離すために入ってくるとき、私たちのたましいがびっくりして息を止めるのを感じます。こんなひどい仕打ちを受けるようなことをしたのでしょうか、とたましいは泣き言をいい、注意をしないと私たちはたましいをかわいそうに思い、CPRを始め、息を吹き返させようとしてしまいます。 悔い改めは自分が正しいとする権利をとりさり、コントロールする権利をうばいます。それはあるときには不公平だと思えることもあります。あるときには問題の解決から後退しているように感じることもありますが、そうではありません。

自分の成熟度のテストを受けて失敗した場合、神は私たちが成功することよりも、努力をしたことを喜んでくださっているのだということを、私たちは忘れがちになります。失敗したことで自分が嫌になり、イライラし、自責の念にかられ、恥と思い、人から拒絶されたと思ってしまい、神からも見捨てられたように感じてしまうのです。 最悪の場合は自分と神との関係が薄れてしまったかのように考えてしまい、自分がよくならなければ、神は自分に近づいてくださらないと思ってしまうのです。 神は私たちの内に住んでおるのですから私たちが感じることを神も感じておられるのだ、ということを忘れてしまうのです。

主は私たちの感情を感じることができるお方です。主は無感情な神ではありません。主は感情で満ちておられ、私たちのために感情を動かしてくださる方なのです。主は私たちが何をしているかを見られ、物事が私たちの思うように行かなかったり、私たちが傷ついたりすると悲しまれます。私たちがストーブに触って火傷をしたり、友達に笑われたりすると、主は悲しまれます。主はすべてを見ておられ、私たちが流す血の一滴一滴、すべての心の痛みを、私たちと一緒に感じていてくださるのです。

霊的成長を遂げるためには、イザヤ63:9を言葉通りに信じて受け取らねばなりません。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、」とあります。主は私たちの悲しみをご存知なだけではないのです。私たちの悲しみを見て、それは大した問題ではないといって、すぐに私たちに悲しみから立ち直ることを要求する方ではないのです。主は実際に私たちの悲しみを経験されるのです。たとえそれが疫病のように嫌うべきこと、即ち、私たちが故意に犯した罪のための悲しみであったとしてもです。

御ことば通り信じる

私たちが霊的に「うまく」やっているときには、神が愛していてくださることを信じるのは難しいことではありません。しかし、失敗したあとにそう信じるのは困難です。自分が穢れていると感じるときに、主は私を美しいといってくださることを信じるのはほとんど不可能です。敵は私たちの思いの中に侵入してきてささやきます。 自分は人間のくずだ、まったくもう救いようがないほどどうしようもない人間だ、と感じるのです。そしてそのときに又、自分に死ぬかどうかの選択を迫られることになります。

その選択とは次のようなものです。主の御ことばとおりに信じるか、それとも自分の頭で物事を捉えてしまい、「もしかして主は聖書の中に書かれている通りに実際に慈しみ深い方であるかも知れない。」という可能性を無視してしまうか、という選択です。 私たちが自分を愛するようにではなく、「もしかして」主は「わたしはあなたを愛する」 という主の御ことばとおりに私たちを愛してくださっているかもしれないのです。

私たちが痛みの中で呻いているとき、たとえそれがどのような痛みであったとしても、主はひざまずいて私たちの足を洗い、傷を包帯で包み、そっとキスをして「大丈夫だよ」と言ってくださるのです。
そのときに私たちの徳(新しい性質)が懐妊されます。それは、私たちが完全な時にではなく、「主は私を愛していてくださる!」と心の底からわかったときにです。(終わり)

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05 10月

静まることの大切さ    グラハム・クック   10月7日


静まることの大切さ(Crafted Prayer より抜粋)

グラハム・クック 

静まることこそ天と私たちの間のコミュニケーションのチャンネルを開くものです。私たちはみな絶えず頭の中で何かを話しています。私の友人のイギリスの心理学者ジム・マックニーシュ氏は、これを「頭の中の騒音 ヘッド・ノイズ」と呼んでいますが、それは内部の声であり、私たちの生活のサウンド・トラックです。絶えず流れている一方的な意識の流れ的な会話で、私たちの人生の一時一時にコメントを言っているようなものです。

私が今話そうとしている「静まること」とは、どこか静かな場所に行くことではなく(確かにそれはしばしば助けにはなりますが)、あなたのこの頭の中の声を黙らせることなのです。その声を黙らせるには訓練が必要ですが、神の御心を知るためにはどうしてもそれが必要ですし、主が共にいてくださいますから、あなたにも出来ます。

私たちが性急にとりなしの祈りを始めてしまうと、このヘッド・ノイズをそのまま祈りにしてしまいます。主の御前で「静まる」ことをせずに自分の力で祈ってしまい、自分が直面している状況のプレッシャーやパニック状態の重荷を負ったままで神のドアの前に来てしまうのです。私たちはごちゃごちゃと沢山の言葉を祈り、静かになることはほとんどありません。これは全く神のなさることと正反対なのです。

神はいつも静かにしておられ、めったに話されません。主が私たちのうちで話されること(speak in us)と主が私たちにむかって話されること(speak to us)とは違います。「主が私に語られた。(spoke to me)」という表現を私たちはよく使いますが、実際にはそれは私たちの霊の中に蓄えられた言葉、考え、思い、会話、聖句などの中から神がそのときに選んであなたの意識の中に思い起こさせてくださるものなのです。コンピューターの中にファイルを導入するように、私たちの中にすでに蓄えてある宝を主が引き出してくださるのです。「ああ、本当にそうだ。主が語ってくださったに違いない。」と私たちは思います。それが内なる声(speak in us)です。

神は静まった心の中で時々語ってくださり、主が語られるときは重大事なのです。主があなたに語られる(speak to you)ときには、神はあなたに何かを確かに分与されます。そしてそのとき主の臨在感は深いのです。主が一度話されると地が創造されました。神が語られると確実に何かが起こり、何かが揺り動かされ、何かが創造され生み出されます。主が私たちに語られるとき、主の臨在のダイナミックな剰余が私たちのうちに必ず残り、それは全く特記すべき事件となります。

詩篇46:10で神はダビデに「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」といわれました。困難な状況におかれていたダビデに語られたこの言葉は、深い主の臨在をもたらしました。46篇が地震の描写で始められ、「静まれ」で終わっているのは興味深いことです。神だけが地震の最中に静けさについて語ることができるお方です。あなたの人生が足元からガタガタと崩れていくときに、神だけが「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と語ることができるのです。

神を知ることは平安と静けさを通して与えられます。神は私たちを戦士として戦場に送ることを望まれますが、もしそれに先立って静けさを見出していなかったならば、戦場でどうやって平安を見出すことができるでしょうか。敵に対する一番の武器は安息です。なぜならば安息により私たちは神のうちの秘密の場所に隠れることが出来るからです。サタンは想像を絶するほどの敵意と悪意をもって私たちを憎んでいますが、バカではありませんから、あなたを至聖所の中までは絶対に追いかけてはきません。そこは主の臨在の場でありそこに行けば主と対決しなければならないことをサタンは知っているからです。私たちは主ご自身を避難所、砦、秘密の隠れ場とすることによって、敵が私たちに触れることができないようにする方法を学ぶ必要があります。敵があなたを見つけられなければ、あなたに害を加えることもできないのです。神はあなたのためにご自分の中に秘密の場所を備えていてくださいます。

主と共に歩むためには、あなたはパニックになってはいけないのです。主と共に歩むためには、心配したり不安になったりすることがあってはなりません。秘密の隠れ場が私たち一人ひとりのために用意されています。たとえどんなことが起こっても、主とともに生きることができる場所を、主は愛であるゆえに愛をもって備えていてくださいます。主はそれがどこにあるかを私たちに教えたいのです。なぜならば神の子たちが秘密の場所に入ったならば、その時こそ人生を心から楽しむことが出来るからです。どんな困難が襲っても彼らはそのチャレンジに立ち向かうことができます。静まることなしには私たちの神の経験は限られたものになります。(この神の前で)静まることは主に安息するための先駆けとなる準備であり、それは主の臨在の中に絶えずとどまるための霊的訓練を意味します。この安息、この静けさ、この神のうちにある秘密の隠れ場こそが、主との絶えざる交わりを与えてくれます。これが聖書のいう絶えざる祈りなのです。(終わり)


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30 09月

戦士の民(2)    リック・ジョイナー    9月30日




戦士の民——–新しい教会のリーダーシップ(2)
  
リック・ジョイナー 渡橋喜代佳訳



新しい音

現在教会リーダーのほぼ90%が男性であるにもかかわらず、教会が女性的になったため
に、大半の男性が教会内で居心地の悪い思いをしたり、退屈に感じたり、教会にはあまり
関係したくないと思ったりしている。男性が教会に参加しているのは、義務感からしぶしぶそうしている場合が多い。自分の居場所を教会内に見いだせないと感じているからだ。そのため、教会出席者の圧倒的多数が女性なのである。男性は、主を愛し神に用いられたいと思っている者でさえ、多くの場合教会が好きではないし、教会に行かなくてすむならどんな事でもしようとする。一般に、今日の教会は、男性のもっとも基本的な必要の多くにきちんと答えていないのだ。これが教会の外で起こった男性たちの運動が非常な人気を博した一因である。

私たちが本来召されているような教会になるためには、現在の定義や組織を根本から変え
ていく信仰をもたなければならない。女性的でもあり男性的でもある教会となって、男女
両方の必要に答え、その必要を満たすためである。男女両方ともが、教会内で居心地よさ
を感じるべきだし、自分たちがどのように教会に組み込まれるのかがすぐにわかるべきで
ある。教会とは、本来もっとも刺激があって、喜びと活気を与える魅力的な集まりである
べきであり、近いうちに再びそうなっていくだろう。

これからの新しいメガチャーチ

教会がその真の召しに喜んで応じ、その真の性質を示し始めるなら、この地上でもっとも
尊敬される、望ましい共同体となるだろう。現在とは著しく異なった姿になり、教会
は国々の中に打ちたてられる一つの国とみなされるまでになり、実際、そうなっていくであろう。そのような変革を成し遂げた教会は、人数が急増していくので、何十人の上に立つリーダー、あるいは何百人、何千人の上に立つリーダー達が必要となってくるであろう。

自分たちがどのような者として召されているのかという本質を妥協せずに保ちつつ、今ま
で経験したことのない膨大な数の人々に仕え、彼らを受け入れる備えをしなければならない。
これは非常に難しいことであるから、聖霊によってのみ実行可能となる。人間的な
どんな組織によっても、また、どんなリーダーによっても不可能なことである。主が
教会のかしらとなられるため、かしらである主の主権に無知であったり、その主権
に服従しようとしない人々は、これからの時代には長続きしないだろう。

教会はまもなく主が計画された本来の姿に変わっていく。そうなると、この地上でもっと
も魅力的で注目される社会、すなわち、来たるべき神の国を示すものとなる。家庭崩壊がこの
時代の最大の問題の一つであるが、教会は、本来召されているような家族になっていくだ
ろう。そのとき、クリスチャンの家庭も本来のあるべき姿に変わり始める。これから訓練
やしつけが大いに強調されてくるとともに、人間関係もまた大いに強調されるようになる
だろう。それは、とくに、家庭を強固なものにし、家庭に対するあらゆる攻撃に抵抗する
ためである。

学校や他の領域での戦い

キリスト教主義の学校も、教会のもっとも重要な働きの場の一つとなり、教会や家庭を
むしばんでいる根本的な問題に対する主要な解決になっていく。しかしながら教会と同様に
キリスト教主義の学校もこの時代にあってその目的を達成するためには、数多くの根本的な
変革がなされていかなければならない。

心の形成のために子どもたちをこの世にまかせておいて、彼らの心が一新されることを期
待するのは無理な話だ。調査によれば、実に75%近くのクリスチャンの子どもたちが、大
学に入学して30日もしたら信仰を失っている。ほとんどの短大や大学において、オリエン
テーションの時からすべてのクリスチャン新入生の信仰は、まともに攻撃されることにな
る。大学教育の基本や体系そのものが信仰に反するからだ。ほとんどの者は霊的武具を身に
つけていないため、この猛攻撃にもちこたえることができないでいる。しかし、こうした事態も
容易に変えていくことができるし、また、変えていかなければならない。

大学新入生の信仰をむしばむために用いられる議論は、聖書に対する攻撃から始まる。こ
れがエデンの園で蛇が用いた戦略であり、それによって、彼はエバが神の語られたことば
に疑問を持つように仕向けたのである。そして、それ以来、悪魔はこの戦術を変えてはい
ない。非常に効果的だからだ。ひとたび学生たちに聖書が本当に神のことばであるかどう
かという疑問をもたせたなら、次に悪魔たちは、現在彼らがきわめて優勢な戦いを進めて
いる領域にその学生たちを連れて来る。科学や論証の領域がそれであり、ここでは何世紀
もの間、信仰を弱めることが具体的に計画されてきたのだ。

聖書の信憑性を否定し、クリスチャンの信仰を攻撃するために用いられる論拠は、事実の
歪曲や誇張、完全な偽りであって、容易に否定できるものだが、子どもたちもまた、はっ
きりそれを否定できるように武装していなければならない。護教論がキリスト教教育の真
の土台の一部になる時がきた。「護教論」(apolo-getics)というのは、真理を弁護する
という意味のギリシャ語の単語からとられている。私たちは、敵の投げ矢が貫くことので
きない堅固な信仰の盾を、子どもたちが自分で築くのを手助けしなければならない。私た
ちにはこのための道具があり、今それを用いなければならないのだ。

科学や教育、メディアはすべて、教会が戦って取り戻さなければならない領域である。そ
れらはみな、実際は信仰から生まれた「子どもたち」である。今は反抗的な「子どもた
ち」かもしれないが、やがて家族のもとに戻って来るようになるだろう。科学や教育、メ
ディアは真理を大いに愛するものとなり、信仰の真の味方になっていく—-このことはよ
く注意して、覚えておかなければならない。

「現代教育の父」と称されるジョン・アモス・コメニウスが「すべての真の科学は創造主
にいたる」と言っているが、この預言は、私たちのこの時代に劇的に成就している。もっ
とも優秀な頭脳の持ち主の多くが、また、真に知的に正直な科学者たちのすべてが、科学
的な根拠によって知的デザインによる創造に疑問の余地がないことを認めつつある。今後
この傾向はますます強まり、雪崩のような勢力をもつまでにな るだろう。

ウィルソン天文台の所長であり、かつては宗教的不可知論者だと公言していたロバート・
ジャストロウは、「いわゆる超自然的な力が働いているということは、今や科学的に証明
された事実だと思います。」と語っている。これは、1982年8月号の “Christianity Today”
のインタビュー記事に掲載された言葉であるが、他の多くのすぐれた科学者たちも同じ事
を語っている。ジャストロウは彼の著書『神と天文学者』(P116)で、次のような結論を
出している。

「理性の力を信じて生きてきた科学者にとっては、この話の結末は悪夢のようだ。彼は無知とい
う山を登りつめ、一番高い峰をまさに征服しようとしていた。最後の岩をよじ登ると、なんと
そこには、すでに何世紀もの間そこに座していた神学者たちの一団がおり、彼は彼らから歓迎を受けることになるのだ。」

科学や教育、メディア界にはずっと一つの見解(訳者注:信仰に対する反感)があって、そ
れがこれからも拡大していくことは予想していなければならない。彼らとある地点で一致するために妥協して半分歩み寄ることを私は薦めるわけでは決してない。しかし、理性に反するだけでなく、聖書そのものにも反する教義の誤りが私たちのほうにあるならば、それらを検討して告白する必要は確かにある。このことは、テーマとしてあまりに範囲が広すぎて、ここで取り上げる
わけにはいかないが、真理を愛するというなら、自分たちが真理を歪曲したところはどこ
でも、また、歪曲したときはいつでも、はっきりとそのことを認めなければならないのだ。

科学者は自分の新しい考えを隠さずに正直に公表するようになってきているが、大学はまだそれほどではない。なぜなら、
ほとんどの大学は、自分の専門分野においてさえも、時代の先端を行く知識の蓄積や基礎
的な流れから、現実には何十年も遅れをとっているからだ。顕著な例外はあるに
しても、大学が先端を行く学術研究や制度の革新の主役でありえた時代は、遠い昔のこと
になってしまった。

「実行できる者には実行させよ、実行できない者は教師にせよ。」という言葉がある。教える
ことそれ自体は崇高な召しなのだが、「実行するもの」と立証された者が教えるべきであ
る。今日の大学教授は、概して、何十年も前に自分たちが学んだことを今もそのまま繰り
返しており、真の時代の先端を行く思考からはますます遅れをとっている。今そうした思
考が見いだせるのは、ほとんどの場合、企業においてである。大学や教育者たちからは抗
議の声が上がるだろうが、今やこれは事実であり、日々ますますそうなってきている。最
近大学から生まれた重要な開発か、科学技術か、制度の革新が何かあっただろうか。

私はこうあるべきであると言っているのではなく、一般的な現状を話しているのである。今の教育の場において、真の創造的思考を助長し、奨励するかわりに、むしろそれを損なう力が作
してきた。一般の教育はますます時代と歩調が合わなくなってしまっている。もし、教育が、本来召されているように文明の光り輝く照明のようなものになるとしたら、根本から変わらなければならない。それには、大学や現代教育を生み出してきた教会が、あらゆるレベ
ルの教育に対する権限をもう一度取り戻さなければならないのである。

教会がこの目的のために一致するならば、はるかにうまくやることができる。私たちは、
本来召されているように「世界の光」(マタイ5:14)、すなわち、知識や真理の主要な
源にならなければならない—–しかも、あらゆる分野においてだ!1ヨハネ2:27では、
このように言われている。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまって
います。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことにつ
いてあなたがたを教えるように、—–その教えは真理であって偽りではありません。
—–また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとど
まるのです。」

すべてのことが油注ぎのもとで教えられるべきである。科学や数学、歴史も含めて、まさ
にすべてのことが!そもそも、この世界を創造された方以上に、この世界についてうまく
教えられる者などいるだろうか。教会がこの基本的な真理を回復するなら、私たちは、あ
らゆる知識においてあっという間にこの世を追い越すだろうし、この世は、助けを求めて
私たちのもとに道を急ぐことになるだろう。まず、大学を取り戻すことから始めなければ
ならない。大学は、教会によって始められたにもかかわらず、この世の霊に屈してしまっ
たのだ。私たちは、真理に基礎を置き、油注ぎによって教えていくような、時代の先端を
行く新しい学校を建て上げなければならない。

学校は、教会のもっとも重要なミッションである。宣教師として教師や教
授、理事たちを学校に派遣する必要がある。主の軍隊がその目的を果たし、確実な勝利を
勝ち取っていくためには、長期のビジョンをもつとともに、日々の戦いをしていくことを
学ばなければならない。実際のところ、私たちには千年のビジョンを持つ必要があるの
だ。私たちは、主とその御国の到来のために道を備えるよう、召されている。そして、そ
の備えは、今私たちが御国で生き、この全地にその御国が来るための基礎を築いていくこ
とによってなされる。 

きわめて基本的な形で、学校や政府、産業までもが、この地上におけるキリストの千年王
国の原則にしたがって建てられたり、再建されたりすることができるのだ。これが私たち
にゆだねられたことであり、召しでもある。多くの人々がこのことを悟り始めたし、御国
の福音を宣べ伝えるという、この大目的のために献身する人々も出てきている。

私たちの時代に信仰の戦いを立派に戦うには、明確な焦点と訓練、真の戦士の信仰を要す
るが、今や、ラッパの音が鳴り響き、終末の時代の軍隊が召集されつつある。教会は、真
理の敵を前にしてもう退却することはしないで、本来の召しである真理の擁護者、真の自
由の戦士になるのだ。(終わり)

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