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Walk With God Ministries

19 11月

秋の日本旅行で感じたこと   坂 達也    11月19日


2006年秋の日本旅行から帰って

9月26日から5週間にわたり日本の各地の教会(主に聖霊派)を回って参りました。
今回の旅行で感じたことは、今は神の御国をいただく最高の時に来ているということでした。ルカ12:32に 「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。
日本の教会といえば、教会員が100名を越すところは見渡しても数えるほどしかありません。みな小さな群れです。その小さな群れがそれぞれ何とかして「大きな群れになりたい」と苦心し、その方法を一生懸命模索しながら色々なことを試しておられる様子が痛ましいほどよく分かります。

そこで思い出すのはマルタとマリヤのお話です。ルカ10:38-42に「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

私はこの話を今の教会に当てはめてみることが出来ると思います。つまり、マルタが私たちの今の教会の姿であると言うことです。
イエス様を喜んで家に迎え入れたのはマルタでした。しかし、マルタはイエス様のご臨在の中で「いろいろなことを心配して、気を使って」忙しく働いていますが、イエス様のお話は聞いていませんでした。その気になればマルタは、マリヤと同じように先ず座ってお話を聞くことが出来たと思います。それによって食事の用意が少し遅れたとしてもイエス様はお怒りにならなかったと思います。あるいは、必要なことをしながらでも、主のお話に耳を傾けることは出来たかと思いますが、マルタはそうしませんでした。その気が無かったように思えます。

そこで、もし私たちの今の教会がマルタのようであるならば、イエス様は私たちに、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」とおっしゃられると思います。
そのポイントは、私たち教会が真っ先にしなければならないことを私たちはしていないと言うことです。私たちはマリヤが選んだことをすべきなのです。マリヤは、イエス様を待ち受け、イエス様のご臨在される時には、イエス様の前で集中して主を見つめ、聞き、そして礼拝しました。
マリヤは本当に一つのことだけを求めました。しかし、この一つのことだけを求めた人は他にもおります。それはダビデです。ダビデは叫びました。

わたしは『一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。…… あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。』(詩篇27:4,8、口語訳)

クリスチャンであるならば、私たちも同じように常にイエス様を親しく求め、イエス様の御声を聞いて、主と交わりつつ一日を過ごすべきではないでしょうか。なぜなら私たちの救いはイエス様個人にしかないからです。本当に頼れる人はイエス様しかおりません。ちょうど3-4歳の子どもが常に母親の足にまとわり付くように、私たちがいつもイエス様の御そば近くにいれば恐れるものは一つもありません。イエス様が道であり、真理であり、命です。(ヨハネ14:6)

それには毎日少なくとも時間を決めて、マリヤのようにイエス様を個人的にお迎えし、イエス様と親密な時間を過ごすことが、クリスチャンとしての必須最低条件であると思います。そしてそのイエス様と共に一日を歩むのです。これを英語でintimacyと言います。
思い出してください。私たちはボーンアゲインして、既に霊に生まれ変わった者であることを。私たちの実在は霊の存在であり、肉で生きているこの世の存在は、もはや仮の一時的な姿でしかありません。つまり「霊の人間」が「霊の主」と直接「霊で交わる」ことをしなければ、全く、どだい、話しにもならないのです。

私たちクリスチャンが皆そのようになる時に、私たちの「教会」に対する考え方が変わってくると思います。と言うのは、私たちが所属し奉仕している教会とは、実は、イエス・キリストが唯一主であり、ただ一人の師である「天の御国教会」と言う「霊の教会」であるからです。
今こそ私たちは、天におられる私たちの唯一、真の牧師を仰ぎ見て、その牧師と深く交わり、その牧師から総てを教わる時が来ています。そのために主は私たちの内に聖霊様を送られました。
私たちがこの世にいる目的とは何でしょうか。それは、私たちが「キリストのからだ」として建て上げられ、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられる」教会(エペソ1:23)になる霊的な弟子訓練を受けるためです。

そうであるとすれば、たまたま私たちが現在地上で属している地方教会とは、聖霊様によって振り分けられ配属された「天の御国教会何々支部」兼「弟子訓練教習所」とも言うべき、「兄弟姉妹の地上集会場」であると言うことが理解できると思います。

多くの人は今自分が属する地方教会に失望し、指導者に不満を抱いています。ある人たちは良い教会探しに余念がありません。しかし考えてみれば、この世では未だ完全な教会は一つもないのです。なぜなら私たち自身が完全でないのと同じようにどの教会の先生方も指導者も完全ではないからです。主ご自身がそのことを一番よくご存知です。だからこそ主は、私たちが至らない者同士助け合い、お互いを建て上げ、「組み合わされた建物全体が成長し、主にある聖なる宮となる」(エペソ2:21)ことを望んでおられます。

教会が今のような肉の人間の集団である限り、決して御国の教会にはなりえません。しかし、今こそ、真の御国の教会を求めるべき時が来ました。そ
17 11月

イラク戦争は神の御心であったのか 坂 達也  11月17日


イラク戦争は神の御心であったのか

 今回のアメリカの中間選挙では、民主党が共和党を抑えて圧勝し、両院とも過半数を勝ち得ました。今回の選挙はブッシュ大統領に対する、ひいてはイラク戦争に対する国民の判決が下ったと言うのがメデイヤ一般の見方です。

ブッシュ政権がイラク戦争に踏み切ったことは、国益に反して間違いであった、という判断をアメリカ国民が下したことは、それなりに理解できます。しかし、それでは「イラク戦争は神の意思には反した行為であったのかどうか」ということを、この際私たちクリスチャンは改めて問う必要があると思います。皆さんはクリスチャンとしてどう思われますか。

創世記を読みますと、イラクを含むアラブ諸国がどのようにして生まれたかが書かれています。アブラハムには二人の子どもがおりました。最初の子は、主の約束が待ちきれなくて、人間的な判断と方法でサラの女奴隷ハガルに産ませた子どもであるイシュマエルです。そのいきさつは創世記16章に書いてあります。その14年後に、主は約束通りにサラから奇跡の子イサクを生まれさせました。

勿論アブラハムは父としてどちらの子どもも愛しておりました。神の愛の偉大さはここにあります。神は、アブラハムとサラの信仰の至らなさのゆえに神の御心ではなく生まれて来たイシュマエルに対しても、同じように愛と憐れみを持たれたのです。神はアブラハムに忠実な方であられたので、イシュマエルの子孫も大いなる国民にすると約束されました。(創世記17:20,それに21:12,13、18)
勿論総てのことに神は最初からご計画を持っておられますから、アブラハムとサラが待ちきれないで人間的な子どもを先に生むことは当然知っておられました。このアブラハムの子、イシュマエルは主の御使いによって次のように預言されました。
「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」(創世記16:12)
この預言はイシュマエルに対して与えられましたが、それは彼の子孫に受け継がれて行きました。これによってアラブとイスラエルが後にお互いに相容れない怨念の仲となっていることは皆さんよくご存知のことです。この宿命的確執は初めから神のご計画であり、今までの歴史ではその通りになっています。

しかし、人間として生まれてくる者がみな救われることを神様は望んでおられ、イエス様は総ての人間の罪を赦すために十字架にかかられました。それにはアラブ人も含まれ、神は彼らが悔い改めるのを待っておられます。
そうであれば神は、彼らに西洋諸国と同じようにその悔い改めのための福音を聞く機会を与えたいと計画しておられても当然であると思います。
しかしながら歴史的に見て、今まではそのような機会があまり与えられてはいないように見受けられます。とすれば、この終末の時が押し迫る現在において、今こそアラブ諸国に大々的なリバイバルの機会が与えられなければおかしいと言う気がするのです。つまり、アラブ諸国にも他の国と同じようにリバイバルが来ないままで世の終わりが来るとはとても考えられません。

その意味において神は、その福音の使者としてアメリカを、特にブッシュ大統領を先駆けとして起用されたと私は信じております。イラクはフセイン大統領と言う悪魔的な暴虐専制君主によって長い間抑圧されておりました。この専制弾圧政治から国民を解放することが歴史的に見てどれ程重要なことであったかは、これからの歴史が証明すると私は確信します。それは単に大量破壊兵器が発見されたとか、されなかったからと言うような議論のレベルの問題ではないと思います。 

ところが解放後のイラクは、今内乱によってその民主化安定政権の誕生は一見絶望的に見えますが、実際は報道陣の報道以上に民主化は進んでいると言われています。少なくともイラク国民がどれ程デモクラシーを望んでいるかは、選挙の投票に多くの民が命の危険を犯して参加したことからもはっきり見えたと言われます。又、あまり報道はされませんが、福音が一般市民の間で伝えられ始めております。
安定政権樹立の道は決してなまやさしいものではないにしても、世界が忍耐を持って支援をし続けるならば、かならずイラクの民主化は成功すると言う信念を持つブッシュ大統領の政策は、神のご計画にそって行われていると信じるクリスチャンも少なからずおります。その一人がリック・ジョイナー師です。

彼は神の御心についてイザヤ書19:19-25を挙げています。この預言は歴史的に未だ実現していないと師は言われますが、多くの聖書学者も同意見です。
「その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。 そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。 主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。
23(節) その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。 万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」


先ずエジプトについての預言がなされ、最後の23-25節ではエジプトとイラクがハイウエイで結ばれ、真ん中のイスラエルと共にこの三国が主の御名を共に称える時が来ることが預言されています。ここに出てくるアッシリアとは現在のイラクです。しかも歴史的に見てイラクこそ文明の発祥地であることも注目に値すると思います。
ここにおいて、神がアブラハムに約束された「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)が実現されるのではないでしょうか。
この預言が実現するためには、今こそイラクの民を独裁政治から解放することが神のご計画であると言っても、それは充分納得できるように思えます。

世界、特にアメリカ
16 11月

一番良いもの    ラリー・オケーシオ   11月16日


一番良いもの

ラリー・オケーシオ(Other Side Ministries モーニングスター・ジャーナル誌Vol.16、No.4)


イスラエルの2つ半の部族が神の約束の地にゆくことをやめて、ヨルダン川の東側に定住することに決めてしまった事は、聖書の中で最も悲しい出来事の一つではないでしょうか。(民数記32:1-33)確かにその土地は彼らの生活に適する良い地ではありましたが、それは、神の約束の成就ではありませんでした。「良いものは一番良いものの敵である。Good is the enemy of best.」という古いことわざがあります。これはまさに真理です。私たちも神様が約束された「一番良いもの」を求めてヨルダン川を渡ろうとしないで、ただの「良いもの」で妥協し満足してしまうことが、あまりにも多いのではないでしょうか。

人間は、心地よさや気楽さ、苦労しないで満足を得ることを好む傾向がありますから、神から与えられる一番良いことが何であるのかを見極めることは、聖霊の助けがなければ非常に難しいのです。今の社会は、何が最高のものであるかを、ブランド名やタイトル、又は貨幣価値で決めてしまおうとしています。しかし、これはなにも今始まったことではないのです。イスラエルがカナンの住民を追い出して約束の地を勝ち取ろうとしたとき、主は彼らがただの「良いもの」を「一番良いもの 」の代用にしてしまう傾向を知っておられましたから、「あなたは一生、彼ら(アモン人とモアブ人)のために決して平安も、しあわせも求めてはならない」(申命記23:6)という警告を発せられました。


しかし、悲しいことにイスラエルの民は何度もこの警告を無視しました。そしてそれは私たちも同様なのです。度々私たちは、自分にとって一番良いことは何かという答えを、神にではなく神以外のものに聞いてしまうという罠に陥るのです。この世が最良とするものと神が最良とするものとは往々にして正反対であることを、私たちは、何故かなかなか理解できないのです。

このポイントをよく表している話が旧約聖書にあります。それは第一サムエル記に出てくるハンナのことですが、彼女は主からの特別な召しを受けました。(Iサムエル1-3章)ハンナの夫はエルカナといいましたが、その時代の習慣で彼にはもう一人ペニンナという妻がおりました。エルカナはこの二人の妻を愛しておりましたが、特にハンナを愛していたことがうかがわれます。

Iサムエル1:4-5

イスラエルの当時の時代背景を考えますと、不妊の女ということがハンナにとってどれほど辛い重荷であったかが分かります。不妊の女は神にのろわれているとみなされていたのです。その上ハンナは絶えずペニンナに嫌がらせをいわれ、苦しんでいました。

Iサムエル1:6-7

この箇所を読んで私たちは、ハンナにとってペニンナは神からおくられた「一番良いもの」では決してありえない、と決め付けてしまいそうになります。しかし、もう少し掘り下げて考えてみると、興味深い真理が見えてきます。ペニンナという名前はヘブル語でルビーという意味なのです。そうです、女性の好きなあの宝石です。しかしこのペニンナというルビーはハンナにとっては宝石どころか、ただ悩みを与えるだけのものの様に思えます。しかし、本当にそうだったでしょうか。聖書によると、ハンナはペニンナから絶えず苦しみを受けた故に、追い詰められてついに神にすべてを打ち明け、明け渡す決心をしたのでした。

Iサムエル1:11

この後、ハンナにはサムエルという子供が授けられ、誓い通りに彼は主にささげられました。サムエルは成長してイスラエルの大預言者、祭司、士師となりました。ハンナが神からの一番良いものを受け取ることを止めてしまう危険があったのは、皮肉なことにペニンナではなく、ハンナを心から愛していた夫のエルカナでした。エルカナはハンナの重荷を少しでも軽くしようと一生懸命彼女を慰めました。神がハンナに「一番良いもの」を求めさせようとしておられたときに、図らずも彼は「良いもの」で満足するようにと彼女を諭してしまったのです。ハンナが神の約束を求めるのをやめさせようとしてサタンは狡猾にもエルカナにこういわせました。

Iサムエル1;8

これはとても優しいエルカナの言葉です。しかしこれは実はハンナやサムエル、ひいてはイスラエルという国家に対する神のご計画を台無しにしようとする敵が彼に言わせたことなのです。エルカナの「私は十人の息子以上の者ではないのか?」という質問に対して、私たちは、「いや、違う、絶対に違う!」と叫ばねばなりません。

たとえそれがどんなに素晴らしい夫であっても、どんなに立派な家であっても、またどんなに素敵な車であっても、それらは神が私たちの人生のために用意していてくださる一番良いものと比べ物には絶対にならないのです。私たちが今緊急にせねばならないことは、聖霊との交わりを深く持つことです。何故ならば聖霊の助けによってのみ、自分の人生の中のペニンナとエルカナを識別していくことが出来るからです。彼らはあなたの人生の中に必ず存在しますが、彼らを識別する知恵は私たちのうちにはないことを知ってください。


邪悪な敵は、私たちが神からの一番良いものを求めないで、それ以下のもので満足するようにと惑わす機会をいつも狙っています。敵は「それで十分ではないか、満足しなさい、感謝しなさい。」とささやきます。神がもっと素晴らしいものを用意していてくださることを、信じて期待をすることは欲張りであるという罪悪感を私たちに抱かせようとします。敵が「あなたにとって私は十人の息子以上の者ではないのか。」とささやくのが聞こえますか?

神からの一番良いものとはなんでしょうか。それはあなたの人生に対する神の御計画が完全に成就することです。そしてそれは、すなわち、主に栄光をおささげできるように私たちのうちにキリストが形作られることです。この地上でそれ以上に良いものや価値のあるものは絶対にないのです!(終わり)


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14 11月

クワイヤー誕生    坂 柚実子  11月14日



クワイヤー誕生

数ヶ月前、私たちの教会に一人の新しい人がきました。
小さな集まりでお互いに自己紹介をしました。

主人 「たつやとゆみこです。2年前にオレゴンから来ました。」
ティム「ティムです。 ワシントン州から来ました。ところで、たつやさん、オレゴンのどこですか?」
主人 「レイク・オスエゴです。マウンテン・パークという教会に行っていました。」
ティム「えっ、私はその教会で歌を歌ったことがありますよ。」
主人 「へーっ、そうですか。」

集会のあとでまた話しました。
主人 「ところで、ティムさんの苗字はなんですか?」
ティム「ショルツです。」
主人 「そうですか、私たちはルー・ショルツという方を知っていましたが…」
ティム「えっ、それは私の母です!母をオレゴンに訪ねて行ったときにその教会で歌ったのです。」

主人と私は本当に驚きました。私たちとルーさんは以前同じ教会のメンバーで、しかも、同じ小グループに属していました。その上ルーさんと私はクワイヤーでいつもとなり同士に座って仲良くしてもらっていました。その息子さんとハワイのこの教会で出会ったのです。本当に神様のご計画は不思議です。ルーさんは少し前に病気でお亡くなりになったそうですが、天国できっと喜んでいてくださると思います。

ティムさんは音楽の先生で、学校で教えたり教会のクワイヤーを指導したりしている方です。彼はハワイに来て一年になりますが、今まで教会をあちこち探した挙句に、私たちの教会に決めたのだそうです。今まではいつもクワイヤーのある教会を探していたのですが、今回は何故か神様が小さな私たちの教会に彼を導かれたのでした。

私たちの教会にはクワイヤーはありませんでした。でも、オダ牧師は、ブルックリン・タバナクルをこの春訪れて、クワイヤーのすばらしさを体験していましたし、みんなの気運も高まって、この秋からティムにクワイヤーを始めてもらうことになったのです。日本からもどって私もすぐに参加しました。

クワイヤーのある教会には、たくさんの楽譜がすでに整っているわけですが、うちには何もありません。ゼロからの出発です。伴奏者もおりません。楽譜の読めない人がたくさんいます。ティムさんは「白い音符は黒いのより長くのばしてくださーい。」とか言いながらやさしく指導してくださいます。私は一応そのくらいはわかるので、みんなから「ゆみこは、すごい!」などと言われるのです。

今はクリスマスにむけての練習です。「久しく待ちにし、主よとくきたりて」 を男性が歌いはじめ、女性が「生けるものすべて、かしこみて拝め」(勿論英語ですが)と途中から入っていきますと、まるで一つの歌のように上手くとけあいます。「なんて素敵なんでしょう。」と私の心は喜びで一杯になりました。私たちの礼拝はいつもはプレイズ&ワーシップの曲で賛美しますが、こんな讃美歌のコーラスも素敵ですよね。

久しぶりに、プロの音楽の先生に指導してもらう幸せをかみしめました。ティムさんを私たちに送ってくださった神様に感謝します!(終わり)


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09 11月

師のようになるための代価  フランシス・フランジパン 11月9日


師のようになるための代価
フランシス・フランジペン

霊的訓練

「クリスチャンは訓練された者とされていない者との2種類に分けられる。」とは、私が最近出会ったある牧師の言葉ですが、この意見に私は全く賛成します。残念ながら多くのクリスチャンは、救われたらそれが到達点で、それでよしと考えてしまっています。確かに救いは一つのゴールではあります。しかしそれは同時に、救われた者がキリストに似る者となるために歩み始める出発点でもあるのです。救われて生まれ変わることは、暗やみから光に入ることであり、そこからあらゆる忍耐、信仰、霊的訓練を用いて真の目標に近づくために歩みを始めることなのです。

主イエスは私達をただ助け出すだけではなく、訓練したいと思っておられることを先ずはっきりと認識してください。そして霊的訓練を受けるためには代価を払う必要があります。霊的成長をするためには、そのために時間を使わねばなりませんし、神に従っていく栄光ある道を会得するためには、いつも従順に主に従うという決意がなければなりません。そうすれば私たちにトランスフォーメーションがおこります。主イエスも次のように言われています。

ルカ6:40 「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」
私の人生の最大の願いは、「完全に訓練されること」です。すべての面において私の師、主イエスキリスト、のようになることを私は熱望しています。

訓練の方法

霊的訓練を受ける方法にはいろいろあります。しかしどの方法を選ぶにせよ、霊的成長を遂げるための根本的な条件は、トランスフォームされたいと真剣に求めるあなたの心です。例えば今この瞬間でもあなたは聖書を手にとって聖霊に教えてくださいと請うて、あなたの霊的訓練を進めることができるのです。イエスが次のように言われたのを思い出してください。

ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

聖霊は私たちを導き、慰め、力を与えてくださいます。聖霊は私たちに「すべてのことを教え」てくださる生涯の友であられます。聖霊をあなた個人のトレイナーとしてお迎えしてください。聖書を開き、聖霊が洞察力や啓示を与えてくださるように、また、様々な力を与えあなたをトランスフォームしてくださるようにとお願いしてください。そして何かの真理や奥義が示されたらそれをすぐに書きとめてください。ベッドのそばにもノートとペンをいつも用意しておいて、寝ているときに主が与えてくださる重要な夢や考えを記録してください。(詩篇127:2)

このように私たちは主に救いだけではなく、霊的な訓練や見分け、洞察力をくださるようにとお願いするべきなのです。霊的訓練を受けていないクリスチャンは、自分の周りで何かが起こったとき、それを霊的洞察力で見分けたり理解したりできません。しかし霊的訓練を受けているクリスチャンは同じ状況の中でも、聖霊によって導かれ、物事を霊的に識別して対処することができ、すべての場面で効果的に働くことができます。


聖書には次のように書かれています。

ヘブル5:12-14 「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

14節「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」という言葉に耳を傾けてください。「おとな」「経験」「見分ける感覚を訓練された」という鍵となる言葉があるのがわかります。

未熟で乳飲み子のようなクリスチャンは、効果的に機能することができません。しかし経験をつんでおとなになったものは、「キリストのみこころ」を持ち、すべてのことをわきまえることができるのです。(Iコリント2:15、16) 訓練によって彼らは人生のあらゆる場面で勇敢にうまく機能して働くことができるようになっているのです。


よいミニストリーから訓練を受ける

このように私たちはみんな聖霊から個人的に訓練を受けますが、主はまた他のミニストリーを用いて私たちを訓練され教育されることもあります。神はクリスチャンが孤立するのではなく相互扶助の関係をもつようにと計画されました。私自身も、主から直接教えられるのではなく、他のクリスチャンから教えてもらうように主が計画されることがあることを経験してきました。

コルネリオが神を求めていたとき、み使いはペテロを招いてキリストに関する真理を聞きなさいと指示しましたが、これは非常に重要なことです。どうしてみ使いは自分で直接コルネリオに話さなかったのでしょうか? それは、コルネリオにとって他の人から神のことを聞くことが重要であり必要だったからなのです。私たちはへりくだって神に立てられたリーダーを敬い教えを受ける必要があるのです。

しかし、主は私たちが盲目的に人に従うことを望んでおられるのではありません。まずそのリーダーの心の中にキリスト御自身がおられるかどうかを見極めなければなりません。あなたの牧師の心の中に大牧者キリストの愛が顕われているかどうか見てください。説教者の声の中に大預言者キリストの義の導きがあるかどうか聞いてください。そのリーダーが伝道者、牧師、預言者、教師、あるいは使徒のいずれであったとしても、その人の中にキリストというお方をあなたは見なければなりません。そのときは、あなたは信仰をもってそのミニストリーのプログラムに参加して訓練を受けてください。

あなたはつねに主にのみ目を留めるのですが、主の次の忠告も忘れないでください。
マタイ10:41 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」

「預言者を受け入れたり」「義人を受け入れたり」する者 も彼らの「報い」 を受けると書かれています。ある人を「預言者(あるいは義人)だというので」受け入れるという意味は、その人の持つ霊的権威と彼が神から霊的召命を受けていることを認めることです。つまり、その人はあなたに必要な霊的資質をもっていることを認めることであり、その人からあなたは霊的分与を受けて成長したいという願いを表明することでもあります。(霊の分与impartationは、新約の聖書的慣わしであり、聖霊を通して行われます。マタイの10章に説明されています。ローマ1:11、Iテサロニケ2:8も参照してください。)

リーダーたちは決してキリストの代わりにはなれない

勿論、あなたを訓練するために神が一時的に用いられるリーダーは、決してキリストの代わりにはなりません。ある訓練のために主があなたのためにその人を用いられたにすぎません。ですからあなたが尊敬し教えを受けたいと思う人と出会ったら、主に従うようにその人に従ってください。そしてキリストを見つめ続け、主があなたをそのリーダーを通して訓練してくださるようにと祈ってください。聖書には次のように書かれています。

エペソ4:11-12 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」あなたの目標は人間のあとについていくことではなく、「奉仕の働き」のために訓練され整えられることであることを忘れないでください。

弟子の訓練


マタイの10章にもどりますが、イエスは預言者や義人にむかって次のように言われています。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなた方に告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(42節)

リーダーたちには、毎日多くの責任と仕事が課せられます。 しかしイエスは彼らにむかって「群集の中から真の弟子を見分けよ。」と言っておられるのです。すなわち、まだ霊的に子供(小さな者)であっても、彼らがあなたのところに「一人の弟子として(学びたいといって)」来るならば、彼らのために時間を使いなさい。それによって彼らの渇きをほんの一時でもいやすことができるなら(水一杯でも飲ませるなら)あなたは決して報いに漏れることがないよ、と主は言われているのです。

今は、一つの家に何冊も聖書はあるけれどそれを学ぶ時間は人々には一分もないような時代です。しかし主は、私たちが霊的訓練を受けることを真剣に求めるようにと願っておられます。私たちの年齢や経歴はみんな違いますが、すべての者に次のような主の約束があるのですから。
「しかし、十分訓練を受けたものはみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」 (終わり)


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