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Walk With God Ministries


29 06月

主のご臨在と共に生きるには    坂   達 也       2017年6月29日


主のご臨在と共に生きる

 

                                                坂     達  也

 

   私たちはこの二年間、田の字型の四連棟住宅の一角に住んでおりますが、その左隣にはアンデイーとジュデイーという共に81歳になる一組の老夫婦が住んでいます。私たちが引っ越して来て最初にお会いした時、彼らは、隣にクリスチャンが引っ越して来ることをずっと祈っていたと言い、私たちが隣人になったことを大変喜んでくれました。それ以来親しくして来た人たちです。夫のアンデイーさんは元バプテスト系の牧師でしたが、10年程前から心臓疾患による歩行困難が進み、この一年半程は近くの療養所に入っておりました。そしてジュデイー夫人がほとんど毎日そこに出掛けて、夫に付き添うという生活を送っておりました。

先週の木曜日の朝、ジュデイー夫人から電話があり、アンデイーがこの二日間食事も取らなくなったことを報告してくれました。そこで私たちは何が起こっているのかを察し、その日の午後一番に彼が入っている病院付属の療養所に駆けつけました。私たちが病室を訪ねると、彼はいつもと違って顔の血色もよく、のどかな高いびきで寝ていて、私は吃驚し嬉しくなりました。どう見ても死期を迎えた人には見えません。そこで私が祈り始めるといびきが止み、彼は細目を開けて私を見ましたが、又すやすやとやさしいいびきに戻って行きました。

 

そして二日後の日曜日の朝(6月25日)でしたが、私が主の御前に出た時、直ちに、いつに無い豊かな主のご臨在につつまれました。そこで私は、そのすばらしい愛と平安にひたることができたことを主に心から感謝しました。

 

祈りの後しばらくして、礼拝に出掛ける準備をしていますと、玄関のベルが鳴り、ドアーを開けると、そこにジュデイー夫人が立っていて、ご主人が前日の午後に昇天したことを伝えてくれたのです。

 

そこで私は、その朝の祈りで、いきなり濃い主のご臨在を感じた理由を理解することができました。主が私に「アンデイーは無事、わたしの元にもどって来て今ここに、わたしの側にいるよ。今は全くすべての痛みとか拘束から解放され、すっかり喜んでいる。その喜びを分かち合いなさい。」とおっしゃっておられるような気がしたのです。そして教会の礼拝に出た後も、その日終日私は、絶えず主の臨在を感じて喜びに満ちて過ごしました。

 

その日の礼拝メッセージの中でベンジャミン牧師が、ロマ書12:1

*「・・私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。・・」*

を引用した時、私はすかさず、神が喜ばれる真の*「霊的な礼拝」*とは、

 

「いつも主の栄光を見上げて、主の御顔を拝し」

「聖霊のご臨在と共に毎日を生きる」

 

ことであることにハッと気が付いたのです。それは、私たちが生きる毎日の生活のすべてが「霊的な礼拝」でなければならない、そのためには、私たちが自分をいつも

 

「神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげる」*

 

ことが前提となることです。それ以外のメッセージはあり得ないという確信を持ちました。

 

実は私はその前の週に、今の私たちは、ニューヨーク移転の日取りが決まらない事や、私が書こうとしている本の原稿も思うように進展しないことを含め、どこを向いても八方ふさがりであるように思えたとき、私は分かっていながらも、一瞬強い焦りを覚え、上を向いて大きなため息をついたのです。

 

私自身「主を見つめて待つ」というモットーをいつも自分に言い聞かせておりますが、自分のしたいことが「待たされる」時ほど「自分に死ぬ」ことの必要性を感じることが他にあるでしょうか。皆様の中にもそのような経験をされた方があるいは大勢おられると思います。私は「すべてを主に委ねて生きること」の難しさを過去に数えきれない程感じて来ました。しかし主は、その度に、私たちのミニストリーに Walk With God Ministries =「主と共に歩く」という名前を付けて下さったことを思い起こさせて下さり、それが励みとなりました。この世で生きる私たちの人生とは、まさに「信仰の霊的訓練」に尽きることを今回も改めて教えられると共に、その人生を主が聖霊を通して共に生きてくださる愛と恵みに心から感謝した次第です。

 

モーセから学ぶ主の「ご臨在」の大切さ

 

聖霊のご臨在がどれ程すばらしく、また重要なものであるかは、先ず旧約聖書から学ぶことができます。出エジプト記33:7に、モーセが率いるイスラエルの民が荒野を旅行中に宿営するときに、モーセは「会見の幕屋」(新共同訳によれば「臨在の天幕」)という天幕を必ず宿営から離れた所に張り、誰でも主にお伺いを立てたい者ははそこに行けるようにしました。特にモーセがそこに行く時は、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセがその幕屋に入る迄見送りました。彼がその天幕に入ると雲の柱が降りて来て、その入り口に立ち、その中で、主はモーセと語ります。すべての民は、外に立つ雲の柱を仰ぎ見て伏し拝んだと書いてあります。

そして、主は、人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセに語られました。その後、モーセは主に懇願して「主ご自身が、これからの道を、モーセと民と共に行って下さる」という約束を取り付けました。しかし、もし主のご臨在が民と共に行くのでなければ、私たちをここから上らせないでくださいと、モーセは主に念を押したのでした。そしてその後モーセは主に主の栄光を見せて欲しいと改めてお願いしたのです。

 

後にモーセの幕屋が造られたときには、聖所の前の庭には「全焼のいけにえ」を絶やすことなく主にささげる祭壇が設けられました。それが出エジプト記29:42、43に書かれています。下記をご覧下さい。

 

 「これは、主の前、会見の天幕の入り口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことの無い全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会い。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」

 

私たち霊のイスラエルこそが、「代々にわたって絶やすことの無い全焼のいけにえ」であると私は解釈できると思います。

 

 

 

私たちのからだが聖い生きた供え物となるには

 

他人の臓器移植を受けると元の人の性質とか嗜好が移植した人に持ち込まれることが多いそうです。英国である中年の女性が、オートバイ事故で死んだ18歳の男性から心臓と肺の臓器移植を受けた所、その女性は突然今迄無かった嗜好としてビールが飲みたくなり、チキンの唐揚げが食べたくなっただけでなく、モーターバイクに乗りたい強い気持ちになったそうです。これら三つの嗜好は彼女自身が持っていた嗜好ではなく、その臓器の持ち主から移植されて受け継いだものであったというのです。つまり、人間の身体はその人の生きた歴史を生物学的に記録するというのです。

 

又、感情がその人の生理機能に大きく影響を与えることは誰しも経験します。恥ずかしいことをしたとか、急に怒り出した人の顔が赤くなることや、恐ろしさに手が震えたり、あるいはストレスが身体に大きな影響を与えることはよく知られています。それだけではありません。ボーン・アゲインして霊的なトランスフォーメーションを経験をした人は、実際に「神がその人に移り住む」変化が起きるそうです。すなわち、「聖霊がその人の人体の細胞に影響を与え」名実共に2コリント5:17に書かれている「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」が生理学的に起こると、生理人体専門学位を持つ神学博士のジェン・クラーク師は指摘します。

その一例として、クリスチャンになれば、キリストから霊的な平安が与えられ(ヨハネ14:27)日常生活でその平安と愛を多く経験しますが、一方で、多くの人は、クリスチャンになった後でも、昔経験したネガティブな感情から来る古傷がトラウマとなって残っています。これらは、その人が過去に経験した感情が細胞の上に記憶として残した人生記録の一部ですが、私たちは、聖霊の臨在によってその傷を完全に癒すことができると、クラーク師は言われます。

 

話しは変わりますが、私が未だ牧会していた頃に「クリスチャンはよい香りと味の沁み込んだ『聖霊漬け』にならねばならない」とよく言っていたことを覚えています。これも量子学的事実として理解できるのではないでしょうか。それを言えば、もう一つあります。

 

それは10年程前にジェシカ・ジョーンズ師という預言者が書いていたことですが、師は「人間が合唱するとき、よい声か悪い声かは別にして、私たちは皆音声を持って歌います。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と共に、私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったもので、この合わさった声が音の振動を作り、それが天にまで届くのです。私たちすべての人は音から創られました。私たちが話したり歌ったりする言葉には力があります。そして私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があるのです。事実、すべてのものは物体ではありますがそれは音(振動)であるのです。そして、すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、その色が一致するとき白い色になります。白は私たちすべての心、魂、身体が三位一体の神と一致し調和している色なのです。白は義の衣の色でもあります。それはこの世が見るような皮膚の色とは何の関係もありません。音があなたから発せられ、他の人の音と一緒になって天にまで上っていくのを想像してください。そしてこの力が何百万、何千万という人々の力と一緒になり、天にまで広がってゆき、愛、崇拝、感謝、創造の力となっていくのを思い描いてください。その効果はどんなに素晴らしいことでしょうか。天では絶えることのない祈りと天使の働きにより平和があり、すべての民が絶えず喜んでいるので、言葉で表すことが出来ないほどの喜びが満ちているのです。」といわれます。このようにして私たちのからだが神への「聖い生きた供え物になる」ためには、私たちは常に聖霊のご臨在の中で生き、聖霊によって浄められねばなりません。そのことが2コリント3:16−18に書かれています。

 

「人が主に向く(上を見上げる)なら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊(聖霊)です。そして主の御霊があるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

最後に、私たちが「主を見上げて待つ」祈りをする時に経験する最も大事なことといえば、私たちクリスチャンに内在する聖霊の「ご臨在」に出会うことを期待し、それを待ち望むことであると言うことです。すなわち、それは私たちが顔と顔を合わせて主と対面することが霊的に起こることを意味すると私は信じます。それをモーセはシナイ山上での40日間の祈りで経験し、その後下山したとき、彼の顔があまりにも輝いていたので、民がまぶしくて、覆いを掛ける必要があった程でした。私たちもできるだけ多くの時間を割いて主を見上げ、そして聖霊のご臨在に遭遇することが、私たちのからだ全体を主と同じ栄光に輝く主に似た者に変えるのです。それによって、私たちのからだが主への「聖い生きた供え物」となるのではないでしょうか。

 

さて、そこでその「ご臨在の中に入る」のに、どのくらいの時間が掛かるのかと言いますと、グラハム・クック師は普通10−15秒でそうなれるといいます。私の場合はとてもそんなに早くはできません。私がこのコンテンプレイティブ・プレイヤーを始めた頃は祈り始めて一時間も二時間も掛りましたが、今では普通30分以内です。早くそうなれるかなれないかは、どれ程自分が平静で主の平安の中にいるかどうかによります。何かのプレッシャーとか悩み事がある場合はより多くの時間が掛かることを経験しています。それに、普通クリスチャンになれば、聖霊が内在しますが、それだけでは聖霊のご臨在の前に出たことにはなりません。

本物の聖霊の臨在体験とは、例えば、ビル・ジョンソン師が常に願い、命がけで求めて来られた主の栄光に満ち溢れた臨在の体験であると思います。ーそれは、降りて来る「栄光の雲」を待ち望み、その「霊的環境を造ること」にあります。ジョンソン師と彼の教会が主を礼拝する最大の目的がそこにあり、そのような臨在の中でクリスチャンがみな真の礼拝をするとき、癒しはひとりでに起こるといわれます。

しかし、すべての聖霊体験は、クリスチャンがみな、それぞれ個人的に主に飢え乾き、主との顔と顔を合わす交わりに入ることから始まることを忘れないでいただきたいと思います。(終り)


08 05月

世の終わりの宣教とは何か ー  それは マルコによる大宣教命令       坂 達 也


世の終わりの宣教とは何か ー

         それは マルコによる大宣教命令              

 

                  坂 達 也

 

 私たちは今、世の終わりが近づいた「御国の時代」に生かされております。

 

 マルコによる福音書の最後のところで、よみがえった主イエスが十一人の弟子たちに現れ「『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。・・・』」(マルコ16:15−16)と言われました。これがマタイ福音書の末尾にある主の「大宣教命令」と同じであることは疑いの余地がありません。

 しかしマルコでは、この命令に続いて「『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』主イエスは彼らにこう話された後、天に上げられて、神の右の座に着かれた。そこで彼らは出て行って、至る所で福音を述べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:17−20)と書かれています。

 

 ここで気が付くことは、通常私たちが未信者に紹介する救世主キリストによる「救いの福音」とは、上記の15−16節だけで、多くの場合、それでお終い、後に続く17−18節「『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』 の部分を省いてしまうことです。もしそうであれば、15−16節だけが、あたかもキリスト教の最終目的であるかのような印象を与えないでしょうか。しかし一世紀の使徒たちは、イエスにいわれた通り、イエスがなさる業を忠実に見習って超自然の力を用いたパワーフルな福音を実行に移しました。

 マタイ10:7で、イエスが十二弟子を弟子訓練の一環として宣教旅行に出されたときに「『天の御国が近づいた。』と述べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病をきよめ、悪霊を追い出しなさい。・・」と言われました。これは前述のマルコの大宣教命令と同じ内容です。

 そして今は、それと同じ福音をたずさえて私たちが出て行く時です。そこで改めて「天の御国の時代とその福音」とは何かを、その原点にもどって考察してみたいと思います。

 宣教旅行に出る人を例えてみれば、それは行商人のようなものです。私たちの売り歩く「商品」は「イエス・キリスト」とその「天国」です。普通、ある商品を売る時に一番効果的な方法は、その商品の効能をくどくどと説明するよりも、その良さを実演して見せることではないでしょうか。そうであるなら私たちクリスチャンも、人の見ている前で「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病をきよめ、悪霊を追い出す」ことを実演して見せれば、黒山のように人が集まって来ないでしょうか。それがイエスご自身のやり方でした。主は私たちに今それをしなさいと言われています。そのようにして集まった人々に、イエスとその御国の話を説けば、説得力が抜群に出ることに間違いありません。

 もう一つの効果的な方法は預言の賜物を用いることです。そのよい例は「知識のことば word of knowlege」の活用です。ご存知の方も多いと思いますが、ショーン・ボルツ師という方が、全く面識のない人に向かって、その人の家族の状況とか、普通誰も知るはずがない情報を言い当てます。当てられた人は大変驚きます。それと同じように、もしあなたが知らない人に向かって「今あなたはこういう大きな問題にぶつかって困っていますね」とか「あなたは自殺しようとしている」あるいは、その人の誰にもいえない罪を犯している内容を言い当てれば、その人はショックを受けてがぜん聞く耳が出て来るはずです。その時にすかさず「それを救う救い主」として「イエス・キリスト」を売り込めば「買ってくれる確立」は非常に高くなると思いませんか。

 それに反してイエスの弟子であるはずの私たちが「天の御国の福音」を実践して見せずに、聖書の神学的理屈だけを「救いの福音」として長々と説こうとすれば、セールスの実につながりません。私もいやと言う程そういう失敗をして来ましたことを認めます。

 「救いの福音」と「御国の福音」とは同じであるようですが、実は明確に区別して認識すべきであると思うのです。すなわち、キリストが説かれるメッセージの最終目的は、キリストによる「天の御国の福音」であって、「救いの福音」はあくまでその一部、あるいは入口に過ぎないということです。

 

 バプテズマのヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と叫びましたが(マタイ三:8)その実とは、単にキリストを信じて死後に天国に行けることだけを指しているのではありません。それだけしかいえないならば、他の多くの宗教も「死後の極楽浄土行き」等の空約束とあまり変わりありませんから説得力に欠けます。なぜなら、それが事実かどうかは死んでみなければ分からないからです。

 ですから今の時代に生きる私たちは、キリストの名において、この世で天国と同じ状態を実現してみせるべく「病人を癒し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出す」ことによって、私たち自身の過去の間違いを悔い改め、その悔い改めにふさわしい実を結ぶ宣教をすることを提案させていただきたいと思うのです。その意味で、もし私たち現代のキリスト教会が「天国をこの世で実証できない」のであれば、キリストとかバプテズマのヨハネが罵倒した当時のユダヤの「宗教家」とあまり変わりはないと私は危惧するのです。

 

 もう一つ私たちが悔い改めねばならないことがあります。それはバプテズマのヨハネが「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方(イエスキリスト)は、わたしよりも優れておられる。その方が、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11新共同訳)と言ったように、「聖霊と火」の洗礼があるにもかかわらず、それを受けようとしないクリスチャンが未だ大勢存在していることです。多くのクリスチャンが「それはキリスト教の教義解釈の問題であり、私たちの教派はそれを信じないので行いません」と言うだけでは済まされないと思います。私は聖霊のバプテスマを受けることがどれ程御国のミニストリーに「必要欠くべからざること」であるかがこれからの時代で証明されると信じます。

 

 ビル・ジョンソン師は次にように言っています。「救いの福音は、人々を救いに導いて天国に行かせることに焦点を置きますが、御国の福音は、人々の生き様、住む街々、国々を抜本的にトランスフォーム(変革)することに焦点を置きます。そのために御国に神(イエス)ご自身が(王として)君臨します。それは天の御国の現実をこの地にもたらすためです。私たちクリスチャンは天国に行くのが最終的なデスティニーですが、その前に、この地に神の御国をもたらすために王から与えられた仕事(asignment)をしなければなりません。従って王から命令された仕事をすることと、天に行くデスティニーを混同しないようにしてください。」(2017年3月号カリズマ誌に載ったビルジョンソン師のメッセージより)

 勿論、こう言われるのはジョンソン師だけではありません。今では多くの終末の使徒と預言者たちがそれを強調するようになりました。

 

神の御国をこの世で立ち上げるのは私たち

 

 「神の御国とは何か」を突き詰めれば、それはイエス・キリストが王である神の王国です。この王は、宇宙とそこに存在するすべての被造物を造った創造者として、そのすべてを永遠に統治する全知全能の絶対君主である方です。そして重要なことは、その王は現在、天の御座におられる父の右に座しておられ、未だこの地には帰って来ておられない不在の王であることです。しかし主は地上に神の王国を立て上げる仕事をクリスチャンの私たちに委ねられているのですから、私たちの責任は非常に大きいのです。王は設計者として上から建設現場にいる私たちに毎日細かい指示を出しておられます。しかし、もし私たちが王の指示をよく聞けないとすれば、主のしもべとして本当によい仕事ができるでしょうか。主は私たちが常に主の忠実なしもべであることを期待し、「わずかなものに忠実であったからあなたにたくさんのものを任せよう。」とおっしゃる王です。

 

 私たちは、一地域教会に属する信徒としてその運営さえできていればよいのではありません。王国であれば、王国の経営に必要な政治・経済・教育からあらゆる分野での組織作りをし、適切なリーダーを立て、その下でたずさわる有用で忠実な働き人を育てて配置しなければなりません。従って、私たちが主からの命令と指示を注意深く聞く能力を持つことは絶対に不可欠です。まして私たちは「キリストの花嫁」ですから、主人のキリストと親密なコミュニケーションができていて当然です。

 

霊の目で主を見つめることの大切さ

 

 そのために必要なことは、先ず、私たちが霊的な「見る眼」と「聞く耳」を持ち、超能力の源である霊の領域に目を向けることではないでしょうか。そのために次の聖句をご覧下さい。

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22ー23)

 この御ことばは、私たちが霊的なものに目を向けることがどれほど重要であるかを強調しています。又、2コリント3:18もそうです。

 

 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」

 特にこの聖句は「主を見上げる」ことによって、主の「霊的な栄光の光」が見上げる人の目を通して身体に入って来ることを学ぶことができます。そして、その人の内部が栄光から栄光へと主と同じ姿に霊的に変えられるという大変重要な目の働きを教えてくれます。

 重要なことは、私たちは肉の目を通して、霊の世界も見ることができることです。それは主がエリシャの要請に応えて、エリシャの召使いの目を通して霊の世界に起こっていることを彼に見せました。(二列王記6:17)これによって人間は、肉の世界と霊の世界の両方を見ることができることが分かります。

 又、私たちは幻とか夢をよく見ますが、これも目で見る、あるいは「心の目」で見るのであると思います。そしてもう一つ重要な聖句があります。それはヨハネ5:19、20です。

 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。・・・」

 この御ことばが意味するところは、主を見つめていると「主がなさっておられること(御心)が見えるようになる」ということであると私は信じます。

 そうであれば、私たちは願望と信仰を持った「熱い目」で、極力多くの時間を「主を見上げる」ことに費やすことが、私たちの霊性を高めるためにどれ程大切であるかがご理解いただけるのではないでしょうか。

 

どうしたら霊の世界が見えるようになるのか

 

 結論から先に申し上げれば、それは訓練と経験を積むしかないということです。弟子訓練ということばがありますが、その英語は discipleship であり、その動詞のdiscipline は「訓練・しつけ」を意味します。そうであれば弟子訓練とは、学校に行って「頭の知識」だけを詰め込むことではなく、むしろスポーツ選手のように毎日血の出るような激しい「訓練と実地経験」を積み重ねることが必要です。さうでなければ本当に「自分のもの」にはなりません。多くの人は途中で諦めてしまいます。

 オリンピック選手になるには毎日人の二倍三倍のたゆまぬ訓練をする必要があります。有名なピアニストであり続けるには一日五時間の練習を欠かすことはできないそうです。バレリーナもそうです。それと同じように、普通のクリスチャンであっても信仰の訓練を重ねれば、誰でも超能力に到達できるのです。

 

 霊的訓練の最たるものは、40日間水も飲まない断食を行ったモーセに見られるのではないでしょうか。しかも彼はそれを二度続けて行ったのです。

 驚くべきことに、これ程長い間、水も飲まずに顔と顔をつき合わせて神を見つめたモーセはその断食では死にませんでした。これは、主の御前に出ている限り死も不可能もないことを証明していないでしょうか。彼がその直後に山を下ったとき、民はモーセの顔があまりにも眩しく輝いているので顔に覆いを掛けてくれるよう頼んだ程でした。

 これは私たちの霊的成熟の究極の目標が「神なる主と常に顔と顔を会わせて」いつも主のなさりたいことが「見える」「聞ける」親しい関係に入ることであることを示していると思います。そうなれば、私たちは毎日、主と親しくコミュニケーションすることによって、主から託された仕事の指示を忠実に実行できるようになります。そうすれば主は喜ばれ、アモス3:7にあるように「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」つまり、私たちが最愛の妻とか最も親しい友人には何でも話したい、話さずにはおられないのと同じように、主は信頼できるお気に入りのクリスチャンには何でも語ってくださるようになると思います。

 皆さんの中には既に神との関係で「主のお気に入り favorite」になられた方が大勢おられると思います。それは牧師とか教会のリーダーでなくても、クリスチャンなら誰でも、主と個人的に親しい intimacy の関係に入れますし、そのような人はみな立派な「主のお気に入り」です。私も長年主との関係がそうなるように務めて来ましたが、やっと最近、主の御声がよく聞こえるようになって来ました。私は文章を書くのが仕事ですが、筆の進みが遅いのでいつも苦労しています。ところが最近、よく主を礼拝したり、主を見上げる時間を長く過ごしたような日の翌朝は、私がお願いする前に、主は待ちきれなかったかのように、私が書くべきことをどんどんと語ってくださいます。

 

主から個人的に弟子訓練を受ける

 

 一世紀のキリストの直弟子たちは、何もかも捨てて主の家に住み込み、毎日主と向き合って暮らすという、本当にうらやましいような弟子訓練を受けました。しかし考えてみて下さい。私たちも彼らと同じ状況の中で、今でも主から直接毎日訓練が受けられるのです。それは主が聖霊を通して私たちの中に既に住んでおられるからです。御存知のように、私たちも天にある主の右座が私たちの座るべき席であり、そこにはいつでも行くように招かれているのです。キャット・カーというご婦人はつい先日、ジョイナー師のカンファレンスに招かれていましたが、彼女は毎日のように、時には一日二度も天の御座に行くそうです。

 そして、前述の2コリント3:18のところでご紹介したように、いつでも「主を見上げて主を見つめる」ことによって主の前に出られるのです。私は今のところそれ以外の方法を知りません。しかしモーセがシナイ山上で主に向き合って主とお話したのですから、私たちもできないはずはありません。ですから私たちも同じように、個人的に主と向き合い、見えるようになる迄、とにかく主を見上げるしかないというのが私の今迄の経験から学んだことです。そして、主は「信じる者にはどんなことでも出来る。」(マルコ九:二三)と保証しておられるのですから、それを続けていれば霊の世界が見えて来る、聞こえて来ると、私は信仰で信じて実行しています。そして希望の光が見え始めて来ています。

 

 とは言っても、これは確かに大変なチャレンジです。しかし聖書が説く「強い信仰」「真の愛」「自分の十字架を担ぐこと」等はどれをとっても楽にできるものは一つもないではありませんか。みな、とてつもなく激しく、執拗で諦めない強い意志と情熱を要求します。それはまさにマタイ11:12に「バプテストのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく・・攻める者たちがそれを奪い取っています。」と書かれている通りです。

 

 主と親しくなって「見る、聞く」という基本ができるようになれば、後の超能力の訓練については、どうすれば得られるかを直接主にお聞きください。それはまさに「信仰の訓練」です。主は必ず皆さんのデスティニーに適ったよい方法を教えてくださいます。

 最後に申し上げたいことは、単に外国から超能力を会得した使徒や預言者たちを呼んでのカンファレンスに出て話を聞いたり、祈ってもらうだけでは、主と個人的に親しくなれるとは限らないということです。今神は、私たちが誰かを通して預言を受けるよりも、自からが神と親しくなり、神から直接預言を受けることを何よりも望んでおられると思います。 (終り)


28 03月

「WWGMのみなさんに伝えなさい。」      坂 達也     3月28日朝


「WWGMGMのみなさんに伝えなさい。今は主の前に出るときであると。」

今朝、主の御前に出ていると、主からこれを伝えるようにといわれましたのでお伝えします。主は語られる主です。主を見上げて御前に出てください。主は今、語られます。主の御声をお聞きください。 喜びにひたり、主をほめたたえてください。ハレルヤ!   坂 達也


09 03月

日本の皆様、エステル記に書かれたプリムのお祭りのための断食祈祷にご参加ください        坂  達 也


日本の皆様、エステル記に書かれたプリムのお祭りのための

断食祈祷にご参加ください

                 坂  達 也

 

 イスラエルではプリムのお祭りが、今年は3月11日夕方から12日夕方迄行われます。御存知のように、エステル記によれば、王妃エステルはユダヤ人の一大危機を救うために死を覚悟して王に会いに行くことを決意し、そのために自分も含め回りの人たちに三日三晩断食することをモルデカイに要請しました。

 

 今年のプリムの祭りが近づいたとき、二人の女性がルー・イングル師(コールの主催者)に「断食祈祷の集会」を呼びかけて欲しいと要請して来ました。それを受けたイングル師自身がその直後に一つの夢を見たのです。それは「今のトランプ政権を襲っている強力な悪霊の死の力を打ち破るにはこれしかないという、国を挙げての一大断食祈祷のムーブメントが起こる」という夢でした。

 そこでイングル師は直ちに、現在アメリカを襲い、又これから起こる「反ユダヤの霊によるハマンの一大陰謀」を阻止するために、プリムの前日の3日間(3月8日夕刻から11日の夕刻迄)断食祈祷することを呼びかけたのです。従って、先程ご報告したオハイオ州における「 POTUS Sield 祈りの集会」と同一の主旨による(どちらもイングル師が関係しています)祈祷会ですので、ぜひとも日本の皆様にもお祈りにご参加いただけますよう、取り急ぎお願い申し上げます。(終り)


09 03月

トランプ大統領のために祈ってください     坂  達 也    2017年3月9日


トランプ大統領のために祈ってください

 

                   坂  達 也

 

 本日から三日間(3月9日ー11日)オハイオ州キャンフィールド市で、トランプ大統領のために祈るとりなし手が全米から集まり「 POTUS Sield 祈りの集会」を持ちます。( POTUSとは President of the United States の略, Sield は身をかばう楯の英語です)この祈りの会を主催している人たちには、リック・ジョイナー師、シンデイー・ジェイコブ師、ルー・イングル師、それにアルベーダ・キング夫人等多くの著名人が含まれています。

 

 ご存知の通り、今アメリカはトランプ大統領が就任して以来、最大の危機に面しております。私たち夫婦は昨夜から祈り始めましたが、今朝、このとりなしの集会の日に当って、大統領への祈りとして詩篇26章が与えられました。

 私は、ダビデ王自身が、この詩篇を通して、トランプ大統領に代わってこの祈りを主にささげていることを強く感じました。皆様もぜひ、トランプ大統領に代わって、このダビデの祈りを声を出してお祈りください。主は皆様のお祈りをかならず聞き届けてくださると信じます。

 

私を弁護してください。主よ。

私が誠実に歩み、

よろめくことなく、主に信頼したことを。

主よ。私を調べ、私を試みてください。

私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、

私はあなたの真理のうちを歩み続けました。

私は、不信実な人とともにすわらず、

偽善者とともに行きません。

私は悪を行う者の集まりを憎み、

悪者とともにすわりません。

主よ。私は手を洗ってきよくし、

あなたの祭壇の回りを歩きましょう。

感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを

余すことなく、語り告げましょう。

主よ。私は、あなたのおられる家と、

あなたの栄光の住まう所を愛します。

どうか私のたましいを罪人とともに、

また、私のいのちを血を流す人々とともに、

取り集めないでください。

彼らの両手には放らつがあり、

彼らの右の手はわいろで満ちています。

しかし、私は、誠実に歩みます。

どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。

私の足は平らな所に立っています。

私は、数々の集りの中で、

主をほめたたえましょう。(詩篇26:1−12)

 

 私が付けました下線の部分は、まさにトランプ大統領に反対し、彼を何としてもおとしめようとするクリントン夫妻グループ、その背後で画策するオバマ前大統領と、それを支えるソロス氏等による莫大なわいろ作戦で買われた多くの国会議員たちと、一部の反トランプ派の国民、それに同調して煽る悪質メデイアを指しているように思えます。

 

 皆様のお祈りを心から感謝申し上げます。(終り)


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