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15 5月

「主を見つめて待つ」祈りについて              坂  達 也   2020年5月15日


「主を見つめて待つ」祈りについて

 

                       坂  達 也

 

 

 

 ご存知の方も多いと思いますが、私は今迄に2冊の本を出版し、目下三冊目の原稿にチャレンジしております。その最初の本の題名は上記の「主を見つめて待つ」です。

 私はこの本でコンテンプレーテイブ・プレイヤーという祈り方をご紹介させて頂きました。これは15世紀のカトリックの修道僧によって始められ、その後修道院を中心に広まった祈りと言われます。

 

 私の本の中で紹介しましたが、ペギー・ウイルソン師は、クリスチャンがこの「主を見つめて待つ祈り」に目覚めて実行する時、それは人間が救われる時の「ボーンアゲインの経験」に比べられる程の大きな「新しい出発」となると言っています。また、16世紀のカトリック修道院でこの祈りのリーダーの一人であった十字架の聖ヨハネは次の様に書いています。

「純粋なコンテンプレーテイブな祈りとは『受けとる』ことにある。神の最も高尚な知恵と言葉を受け取るには『静かに主を見上げてじっと待つ』霊によらなければ不可能である。この知恵は魂の活動とは一切関係なく伝達される。」

 この神の知識とか知恵は、人間の思い(マインド)での理解を超えるものですから、受け取った時には直ぐにはよく分からないまま霊的に蓄えられると言われるのです。

 

 濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは、先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。

 私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。

 

 勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださるとは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。

 私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5章と6章をお読み下さい)この霊的事実は、信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。

 コンテンプレーテイブな祈りを始めて以来、私は一日中できるだけ多くの時間、特に毎朝の起きた後直ぐに、私の中におられる御霊さまにお声を掛けし、御霊さまに満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。多くの場合、私は無言で聖霊様を見上げます。その時は私の頭は空っぽです。あるいは御霊さまである聖霊ご自身の言葉(異言)で話します。それは主の御声を聞くためでありますが、同時に、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからでもあります。

 

 特にパンデミックで隔離した生活を強いられている今は、ほとんどの日を私は一人で食事をしますから、自分一人の時は絶好のチャンスです。食事の感謝のお祈りをした後すぐ、(父と主イエスを代表する)御霊様をお招きして、御三方と共に過ごす時間として、親密な会話をしながら、あるいは今は天にいる家内とか親しい家族・友人も一緒に臨在してくれていると信じて、家内にも話し掛けます。 私は彼らは死んだのではない、天に移って真に霊の命で「生きている」ことが今は本当にリアルに感じられるのです。

 

 ところで、大分前に一度引用していますが、ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、次のように語っています。

 「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り(交わり)、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」

 いや「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。

 

 さてそこで、実は最近、私たちのミニストリーであるWWGMの愛読者の方からお手紙を頂戴しましたのでお分かちしたいと思います。その方は私の著書「主を見つめて待つ」を読まれて感銘を受け、それ以来、私のミニストリーであるWWGMのメッセージをずっと愛読しておられる方です。そして私が今住んでいるニューヨークから書いているものですから、私の最近の新型コロナウイルス禍の災いに対する信仰の証にとても感動され、不安を持っている多くのご友人にWWGMを紹介してくださっている、と書かれていました。それを拝見して私の方こそ大変励まされました。

 

 そこで私自身、2003年に主が私に書かせて下さった、この「主を見つめて待つ」を久しぶりに読んでみて、正直なところ驚きました。こんなことを言うのはさぞかし高慢に聞こえると思いますが(お赦るしください)本当に「主が書かせて下さった」この本は、すばらしいです。17年前に書いたものではありますが、実際のところ、これから始まる、最後の霊的大アウエイクニングと、それによるリバイバルのために主が用意された、今こそ読んでいただきたい本であると信じます。

 そんなことで、この本をぜひ皆さまにお読み頂きたいと、お勧めします。2008年に改定再販したこの本の定価は一応900円となっていますが、住所を書いてお声を掛けて下されば、直ぐ、残り少ない在庫を預かっていただいている日本在住の姉妹からお送り致します。代金はお読みになってから、価値があると思われる金額だけ幾らでも結構ですからWWGMへの献金としてお送りくだされば幸いです。(終わり)



One Response to “「主を見つめて待つ」祈りについて              坂  達 也   2020年5月15日”

  1. By シェイバース三也子 on 5月 17, 2020 | Reply

    ハレルヤ!主の御名を崇めます。毎回先生の時にかなったメッセージで励ましを受けています。沖縄に住んでいますが、日本、全世界に広がるリバイバルを目の前にしてペンテコステに注がれた聖霊の力にます私自身が日々満たされるよう切に願います。是非とも「主を見つめて待つ」を読みたいです。一冊宜しくお願いします。
    〒901-2225 沖縄県宜野湾市大謝名2-2-7
    シェイバース三也子

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