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08 5月

コロナ・ウイルスのパンデミックで       神が世界中の人間を恐れさせる理由      2020年5月9日                 坂  達 也


コロナ・ウイルスのパンデミックで

         神が世界中の人間を恐れさせる理由

 

                         坂  達 也

 

 

 先週私は、人間の体は絶妙にうまく出来ていること、特に人間の身体には抗体という免疫力が備わっていることに触れました。そして、私たちが「恐れ」を持つ時に抗体不足で病気になる可能性が大きいが、恐れが全くない時は病気にならない、と申し上げました。それは私には、創造主の神の創造がどれ程素晴らしいかを物語っていると受け取ります。しかし、人間が死を恐れる要因がもう一つあることを下記に申し上げねばなりません。

 

 

この地上では人間は死を恐れる

 

 血と肉で造られている人間は、この地上では必ずいつかは死ぬという「寿命」に縛られています。神が敢えてそのように全ての生き物を造ったのです。従って、人間は一生涯「死の恐怖につながれ、その恐れの奴隷となっていること、また、その人間をこの上なく恐れさせる「死の力」を持つ者は悪魔であることが、ヘブル書2章14、15で次のように書かれています。

 「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

 しかし、神は勿論それを最初からご存知です。そのためにイエス・キリストが十字架上で悪魔に打ち勝ち、その十字架の御業を信じる者は誰でも、死から完全に解放するように最初からご計画されていたのです。それがヨハネ3:16に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」と書かれています。その証拠に、その前の14、15節で「モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子もまた上げられねばなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためです。」と書かれています。

 この14節のモーセの話は前に民数記21:9で「最初のパンデミック」としてご紹介しましたので覚えておられるかと思います。

 

 しかし問題は、ほとんどのクリスチャンは教義としてはヨハネの3:16にイエス・キリストが十字架上で死んで下さったので、その主を信じれば「永遠の命」がもらえると保証されているにもかかわらず、それでも死は怖いのです。

 

 何故怖いのか?ークリスチャンは先ず、頭で教義を習いますが、本当の救いの信仰に達するには、イエス・キリストが人間としてどれ程苦しんだか、それを自から味わい、経験するまでは、主が悪魔から勝ち取って下さった「永遠の命」の有り難さが本当には分からないのではないかと私は思います。

 

 そこで私は自分の信仰に問題を感じる時は、多くの場合ヤコブ書を読みます。

 

 ヤコブ1:2「私の兄弟たち。さまざまな試練(内からの誘惑、外からの困難に次ぐ困難に出会うという最大限の逆境)に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐(する力;耐久力)が生じるということを、あなたがたは知っているからである。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

 私は逆境に次ぐ逆境に会うと、それを「この上ない喜びを感じる」とは、ちょうど「死の力を持つ悪魔」を、主イエスが十字架上で滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた私たちが解放される喜びに通じると思うのです。

 これはまた、スポーツ選手の弛まない長年の厳しい苦しい訓練の結果、遂にオリンピックで優勝するのに似ていると思います。その選手たちの味わう喜びは格別なものでありましょう。イエス・キリストもそれ以上の喜びを十字架上で最後に味わった、何にも替えられない「勝利の喜び」を私たちにも分かち合わせたいと願っておられるのではないでしょうか。

 

 要するに教義を幾ら頭に詰め込んでも、主に似て造られた人間に秘められる無限とも思える「物凄い力」は出て来ないのです。それは十字架の喜びを勝ち得たイエス・キリスト(初穂)にだけ備わっている父なる創造主が有史以前から用意した神の「無限の力」「無限の喜び」、それを愛する「子供たち」である人間にも味わせたい、というのが神の元々の計画なのです。

 それには私たちは、自分の十字架を担いで、ひたすら主の後をついてゆく者にならねばならない、何故なら、その人たちだけが味わうことのできる「無限の力=愛の力」であると確信するからです。つまり、教義よりも、イエス・キリストご自身への個人的な親密な愛の関係を持つことーこれが私たちクリスチャンの目標です。

 

 

クリスチャンに絶対必要な神からの知恵

 

 その後ヤコブ書1:5で「あなたがたの中に知恵が欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わず、信じて願いなさい。そうすればきっと与えられます。・・・」そして12節で「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、命の冠を受けるからです。」と続きます。これがまさに「永遠の命」です。

 私はこのヤコブの手紙から12部属を生んだヤコブの信仰とその気迫を感じます。それは彼が2:14で「自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と問うているからです。

 私はこのパンチの効いた、決して「ぬるま湯」的な信仰ではないのが大好きで、読む度に励まされます。私たちクリスチャンが霊的に真にマチュアになるためには、神からの知恵が毎日絶対に必要です。

 

 具体的な例を一つ申し上げれば、預言者のボブ・ジョーンズ師が常日頃言っていたように、多くの人が病気を癒して欲しいと願って祈ってもらいに来るが、その人を単に癒すだけならともかく、聖霊の言葉で祈ると、聖霊から知恵を頂いて、その人の病気をその時癒すだけでなく、その病気が2度と再発しないように、その人の体質、食事ばかりでなく、その人の霊的ライフスタイルを変える知恵をいただけることを強調しました。それがなければ、その人はまた同じ病気になるのです。聖霊は愛を持ってそれを阻止する知恵をくれる、そして使徒パウロが誰よりも異言で(聖霊の言葉で)祈るのは、それが理由であると説明しました。

 それは病気ばかりでなく、日常すべてのことで私たちは私たちが気がついていない間違いを繰り返すことのないように聖霊の導きで祈ることを強調したのです。そのような「上からの知恵」については、ヤコブの3章で触れています。また、4:13ー16では「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。・・・信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたのなら、その罪は赦るされます。ですから、あなたがたは互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。癒されるためです。・・」と書いてあります。

 

 

人間が自分の自由意志で自分の永遠の将来を決める

 

 最後に思い出していただきたいのは、ヘブル5:8−9に書かれている「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれましたそして完全なものとなられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、・・・」の聖句です。

 

 全知全能で100%愛の神は、人間にしてもらいたいこと、もらわなければならないことは一つもありません。あったら全知全能で完璧な神とは言えないはずです。従って、人間は何も心配せず、何にも恐れず、唯々神のいうことに100%従順であり、すべてを安心してすべてを神に委ねることが私たちのためになるのです。そして、人間に生まれたキリスト・イエスにもそれを徹頭徹尾実行することを要求しました。

 その結果、一人の何の罪もないイエスご自身が、私たち全人類の罪の身代わりとして十字架で死ぬという償いをした結果、そのイエスを信じれば、その人は無罪放免、永遠の素晴らしい天の楽園で過ごせるという見事な人間救出計画です。

 天国において「永遠の命」で愛の神と永遠に過ごす楽園の生活がどれ程素晴らしいか、想像を絶します。でも天を訪問した人の話はたくさんあります。

 しかしそれ程素晴らしいことを残念ながら多くの人は悪魔に騙されて知らないのです。そこで人間に与えた自由意志で、そのイエスを最後まで拒み、あくまで自分のしたいことを選ぶ「自己中心」で生きたい人は、そういう人を集める場所(地獄)で永遠に悪魔と住むことを自分で選ぶことになります。残念ながら、自分のしたいことをする人たちだけが一緒に住むと、どれ程の酷い地獄の沙汰になるか、その人たちは分からないのです。

 

 人々に死を恐れさせることは、それによって人々が唯一人の救世主イエス・キリストに目を向けさせる機会を神が用意しておられることを意味しています。また、既にクリスチャンになった人は、一人でも多くの家族、あるいは友人の未信者をキリストに導く最大限の努力をすべき、最後のリバイバルの時に今突入しつつあるのです。(終わり)


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