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Walk With God Ministries


15 04月

カイロス タイム          坂 達也      4月15日


カイロス・タイム

 私は最近、今までにはなかったことを経験しております。それはやらねばならないプロジェクトが4つ、5つある時に、それぞれに「それをする時がある」ことを神様が私にはっきりと示され、教えられていることです。例えば、このホームページは、アメリカの使徒的・預言的なメッセージを選んで翻訳し紹介させていただいておりますが、それと共に、自分自身も主から与えられたメッセージを書くつもりで始めました。ところが、今年の正月から3ヶ月の間、書こうとしてもどうしてもまとまらず、不思議なぐらい書けないのです。勿論礼拝用のメッセージは、必要に応じて十分あり余るように与えられるのですが、書くこととなると、どうしても文章にならないのです。それが4月に入ってから又書けるようになったのです。そして、そうされたのは神様であったことがよく分かりました。

又、別の例(方法)によっても、物事には神様の順番があり、神様の時があり、私たちがそれに従う時に大きな祝福があることも今回はっきりと教えられました。その例というのは、私たちは今一年以上かかってかなり大掛かりな家の改修を行っておりますが、専門職に全部依頼するのではなく、自分で出来ることは家内の手を借りてでも自分でするようにしております。(だから時間が掛かっているのですが)私は以前家を建てる仕事をしていましたから、具体的に何をするかを先に先にと考えつつ進めて行くことには慣れているつもりでした。ところが今回、次に何をどのようにしようかといくら考えても、よいアイデアが出て来なかったり、出て来ても心に迷いがあるのです。しかし、自分には行き当たりばったりとしか思えないのですが、直前になると、「これをやろう。」と心が定まり、その朝になるとスーッとよいアイデアが浮かんで「これだ!」と納得がゆく方法が与えられ、うまく行くのです。
しばらくは、それは歳を取ったので頭の回転がにぶくなった性かと思っていましたが、どうもそればかりではないようなのです。結局気がついたことは、「神様に総てを委ね、神様の方法と、神様のタイミングで総ての事を進めたい。」と日頃祈り願っていながら、つい自分で考えてやってしまっている私に、神様が実際、具体的に「神に委ねる生き方」を指導して見せて下さったと言うことが分かったのです。そして神様の「時」を待つ重要性を改めて学んだのでした。

「時」と言えば、ギリシャ語で「クロノスの時」と「カイロスの時」があることが最近よく話題にされます。クロノスの時とは、一般的な時間の経過を表わす人間が持つ時の流れです。一方カイロスの時とは、神が定めた時、神の時間表、あるいは霊的な時間と言うことができそうです。
さて、時と言えば伝道者の書3章を思い出されるでしょう。

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時/保つ時、放つ時 裂く時、縫う時/黙する時、語る時 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。」(伝道3:1-8、新共同訳)


 これは、自然界において、人間を含めた生物の営みには、何事にも創造者が初めから定めた季節と時があることを表わしております。それでは人間が日常生活をどのように生きているかといえば、二つの生き方があると思います。
一つはほとんどの人がそうなのですが、何事も自分の考えで事を運ぶ生き方です。自分で計画し、時間の流れとしての「タイム・テーブル」を自分で設定してそれを実行しようとします。これはクロノスの時で生きる人間的な生き方です。
もう一つの生き方は、クリスチャンとして神様に総てを委ね、神様の方法とタイミング(時)を待って事を行う生き方です。勿論、神様は人間が後者であることを望んでおられます。これがカイロスの時(神様の時)の生き方であると思います。
 
そこで後者の場合ですが、神様の進め方と時期とは、私たちの考えることとあまりにも異なる、つまり神様のすることは予測がつかないことを経験していない人はいないと思います。それはまさに、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」(ヨハネ3:8)の御言葉の通りではないでしょうか。多くの場合に聖霊様のなさることは予測がつきません。「慌てる乞食はもらいが少ない」と言うことわざがありますが、私たちの傾向では、とにかく神様の時を「待てない」のです。「待つ」ことは訓練されなければなりません。「主の時を待つこと」を会得された方は霊的成長の完成が近い方です。

そこで気がついたことがあります。「何事にも時がある」と上記伝道者の書に書いてありますから確かにそうなのでしょうが、でも「時が定められていないこと」もこの世の中にはあるのではないかと思ったのです。その意味は、定まった時に何かをするだけはなくて、「常にその時である」と言うこともあると言うことです。
その一番よい例は「十字架」であると思うのです。十字架とは「苦しんで」「死ぬ」ことを意味します。人間は生涯の初めから終わりまで、どのような時も常に「自分に死ぬ」ことを神様は望んでおられるからです。死ぬことにおいては、時もシーズンもない、私たちは常に「自分の十字架をかついで」生きることを要求されています。

それは黙示録13:8に根拠が示されております。英語のKJV欽定訳と、日本語訳では新改訳の「別訳」として下段の付記の項に書かれていますが「世の初めからほふられた小羊」が存在していると言う事実です。これは何を意味しているのでしょうか。それは、世の初めからイエスの十字架が存在していると言うことです。

  「イエスが十字架にかけられて死ぬ」ことはこの世で一度だけ起こる必要がありますが、霊的に言えば、世の基の出来る前から父と子の心の中には十字架が常に存在している、と言うことです。なぜそうかと言えば、神様は時間の無い世界におられるからです。難しく聞こえるかもしれませんが、十字架の業は先ず「永遠」と言う時間の無い神様の世界で「決意され、初めから実行された事実」なのです。

それはどう言うことかと言えば、神に似せて造られ、自由な意思を持つ最初の人間アダムとエバにおいて、人間が神を見捨て、自分中心に生きると言う罪に堕ちることを、神様は見通しておられたのです。神様はご自分が 創造するものを本当に愛するがゆえに、罪に堕ちた被造物のために先ずご自分が苦しみ、そしてご自分が死ぬことによって総ての被造物をあがない(redemptive)救い出すご計画を初めから決意し、持っておられたのです。ですから神の愛とは最初からあがないのredemptiveな愛です。

「苦しんで子を生まねなければならない」と言う罰を与えられたのは、最初に罪を犯したエバでしたが(創世記3:16)、その前に、かわいい自分の子どもたちを生んで育て上げる(創造する)ことに、先ず「死に至るまで苦しむ」ことを決意し、実行されたのは創造者ご自身でした。それは神である父と子だけではありません。同じ神である聖霊様も罪だらけの人間の中に入って私たちを霊的に育て上げるのに、どれほど忍耐と努力をしておられるか、これが神様にとっての「産みの苦しみ」をされていることでなくて何が苦しみでしょうか。

  同じように罪を犯したアダムの受けた罰は「苦しんで食を得なければならない」(同3:17)でした。霊的な食物を得るために、罪のないイエス様ですらどれだけ祈りに時間を費やされたかを見れば、私たちが霊的食物を得るのに苦労しなければならないことは当たり前なことが分かります。本当にどんなに感謝してもしきれないことですが、私たち人間が苦労することで創造者が苦労していないことは一つもなく、又、神様が私たちのために先ず実行して見せないことは一つも無いのです。(ヨハネ5:19,20)みな安心してイエス様の後を追うように配慮されています。それが恵みであると言えないでしょうか。

神様は罪に陥って苦しんでいる人間に対して、「救いたい」と言う強い願いとあわれみの心をいつも持っておられます。ですから、私たちが救いを求める時はいつでも「今は時ではないから又おいで。」とは言われずに、常に救いの手を差し伸べておられるのです。救いの時とか時期はないのです。
総ての神の創造の中心には「あわれみの愛」と「イエスの十字架」と「赦し」があり、総ての創造はそれを土台にして存在しているのです。それは時間のない神様の「ご性質」そのものをあらわしています。
一方、私たちが本当にあがなわれ、救い出されるためには、私たちも又霊的に常に「自分に死ぬ」ことを要求されています。私たちは自分の肉に死ななければ永遠のいのちに入れません。

 間もなくイースターを迎えます。イースターとは、十字架の死からよみがえられたイエス様をお祝いする日です。イエス様が先ずよみがえられた、この「よみがえり」と言う霊的な状態こそ、私たちのためにイエス様が道備えをして下さったものです。私たちは霊の人間に生まれ変わり(ボーン・アゲイン)、霊的な成長のプロセスを通ってこの「よみがえりのいのち」すなわち「永遠のいのち」を既に生き始めているのです。
 この世で「永遠のいのち」を生きるとはどう言うことでしょうか。それはこの世に生きていながら、自分の肉に死んで、霊に生きること、それが「よみがえり」の生活であると思います。「よみがえり」の世界とは、もはやクロノスの時の奴隷となって人間的・この世的に生きるのではなく、神の時間と空間の中に入り込み、そこで得た神の御心を神に導かれてカイロスの時で生きるのです。

私たちは時間の経過の中に住んでいますから、総てが移り変わりますが、時間のない神様は変わりようがありません。まさに「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブル書13:8)とある通りです。そこには永遠に変わらない神の愛が満ち、永遠に「赦し」と「回復」が存在します。そして「よみがえった」私たちにとっては、常に神を礼拝する状態が「時の過ぎない時間」であると言えないでしょうか。私たちはこのよみがえりの世界にある不変の「神のご性質」に出来るだけ早く到達しなければなりません。

マルコ1:15に、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(口語訳)とありますが、この「時は満ちた」はカイロスです。神が定められた救いへの条件と道が整い、時が満ちている今の私たちは、霊的に、既に神の国と言う「時間」と「空間」の中に生かされているのです。それはイエス・キリストの福音そのものの世界であり、私たちは「よみがえり」と言う次元に既に入っているのです。(このみ言葉は未信者にだけではなく信者に対して言われていると思います。)ですから私たち信じる者こそ、そのように神の国に住んでいるように行動しなければなりません。それが「信仰に生きる」ことであると私は思います。

信仰とは超自然のものであり、時間を越えた世界で生きることであると思うのです。創造者の神は、何か心に思う時に既に霊的にそれが存在します。そしてそれを口で言われればこの世に実現します。ですから神に似せて造られた私たち神の子どもも、神の思いに適ったことを信仰で自分の思いとして信じる時、それは霊の世界では神の御心として既に実在していることを取り上げて、神様と同じようにそれを口で宣言することによって、実現させることが出来るのです。ヘブル書11:1に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とありますが、もっと分かり易く言えば、「信仰は、望んでいることが霊的に神の御心として実在していることを確認して、それを目に見える形にこの世に出現させること」であると言えます。

御国に住む私たちのすることとは、総て創造者である神様の存在とその神様が創造したいと思う御旨・御心を私たちが神様に代って実現(創造)することによって、神の存在と御心を証明して見せること、それが私たちクリスチャンの仕事であると思います。

しかし、霊的な人間になったとは言え、私たちが実際に住んでいるのはこの世という時間が経 過している世界ですから、口で命令すると直ぐそうなる時と、時間が掛かって実現する時と、又実現しない時があります。この時間加減を支配しておられるのは神様ですが、信仰の難しさはここにあります。時間がかかっても私たちの心が全く揺れずに変わらない時に、それは必ず神様のタイミングで実現しますが、心がふらふらと定まらない時は実現しないことが多いのです。それを称してイエス様は「信仰の薄い人だ。」と言われました。
私たちも早く時間のない世界に到達したいですね。しかし、神様が今私たちを時の流れの中で信仰によって生きる試練を許されているのは、私たちにその産みの苦しみを経験させるためです。

信仰の訓練とは、この時間の経過 で「心変わり」してしまう信仰を、「心変わり」しない信仰にしていくことではないでしょうか。私たちをこの世に置いて、物事が実現するのに時間がかかるようにされるのは、神様が私たちの信仰をテストし、強めるためのプロセスであると思うのです。私たちは信仰にとってむしろ障害となる「時の流れ」を私たち自身が克服し、それを無いものとして不変不動の信仰に達することを神様は期待しておられます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)

「よみがえり」の世界は信仰だけで生きる世界です。しかし、この世で「よみがえり」の世界に生きる時にこそ(それは可能です。)クロノスの時の経過の中で生きていても、総てにカイロスの時で行動出来るのです。それこそが時を征服し、時に勝利した生き方と言えるかも分かりません。(終わり)


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01 04月

ヨシュア記に示された「祈りの歩行」と言う霊の戦い   坂 達也     4月1日


ヨシュア記に示された「祈りの歩行」と言う霊の戦い

ヨシュアに引き入れられたイスラエル人はヨルダン川を渡り、約束の地に入りましたが、この「乳と蜜の流れる約束の地」とは「神の御国」を指していると思います。
しかし、その地を本当の「御国」にするためには、先ず、今までそこの先住民を虜にして君臨して来た「この世の王」と戦い、その地を勝ち取る必要がありました。

そこで主が、勝ち取るために最初にイスラエルに与えたのが要塞堅固の町エリコでした。イスラエル軍は主の戦略とその命令に忠実に従った結果、堅固な城壁が奇跡的に崩れ落ちました。そこでイスラエル軍は町になだれ込み完全に攻略しました。その時に受けた命令は、町にあるもの総ての住民と家畜をことごとく剣の刃で「聖絶」することでした。しかも、聖絶のものを一切個人的に自分のものにすることは禁じられました。この「聖絶」の意味は最初の町を「初物のそなえもの」「いけにえ」として主にささげる意義があります、又、勝ち取った総てのものは「主のもの」「御国のもの」であることを示しています。


その地の「住民を聖絶する」ことを今の時代に霊的に当てはめれば、サタンやその手下が人々に及ぼしている力を取り除くことによって、今まで敵に縛られてきた民を解放して全員「生きたいけにえ」(ロマ12:1)としてクリスチャンにすることであると思います。

この「ヨシュアの戦い」とは、まさに今私たちがしようとしている「私たちに与えられた町、エリコ」を攻略することではないでしょうか。この世を御国にするためには、先ず自分たちの町(市)を勝ち取ることから始めなければなりません。それが王国の戦士である教会の使命です。そのための戦いとは祈りの歩行をすることであると私は信じます。

エリコを攻めるに当たって、ヨシュアは「抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っている…主の軍の将」(ヨシュア記5:13、14)である主イエスご自身と出会いました。御国建設のための祈りの歩行には、まさに主ご自身が全軍の総司令官として私たちの先に立って歩いて下さることを常に念頭に置きましょう。

そして、ヨシュアは戦いに入る前に、全員に「割礼」を施しました。これは、私たちも「霊の割礼」を受けてから祈りの歩行と言う霊的戦いに臨まねばならないことを意味していると思います。ここで「霊の割礼」とは、自分の肉の声に従わないで、「主の御声に聞き従う」ことと深い関係があることが次の御言葉からよく分かります。

「イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。」(ヨシュア記5:6,7)

祈りの歩行と言う戦いに出て、一緒に歩かれている主の御声(指令)を常に聞きながら戦うことの重要性がここに強調されています。
しかし、主の御声を聞くことは、日頃からその訓練がされていなければ、祈りの歩行中にだけ聞こうとしてもそれは難しいと思います。

私たちが主から与えられた約束の地に入る大前提として、ヨシュアとイスラエル人がしたように、洪水のように溢れるヨルダン川を、私たちは主の箱を先頭にして歩いて渡らねばなりません。この霊的な意味は、私たちが完全に全員水の洗礼を受け、「自分に死んで、よみがえった」クリスチャンになることが要求されていると言うことです。

この点を強調する意味で、主は一つの大きな教訓を私たちに示しておられます。それはヨシュア記7章に出てきますが、取るに足らないような小さな町アイを攻めた時に、敵の要塞エリコを勝ち取って意気揚々としていたイスラエル人は「まさか…」と思われる予期しなかった敗北を経験したのです。それはユダ族のアカンが、こっそり聖絶のものの一部を自分に取り込むと言う罪を犯したからでした。主は一人の罪も見逃されませんでした。ここに主の厳しさがあります。
ここで私たちが厳粛な気持ちで学ばねばならないことは、「キリストのからだ」である教会からは、主は一人でも密かな罪を犯す者が出ることを許さないおつもりであると言うことです。そして、一旦この世から主の御名で奪回したものは、総て御国に属するものであり、「王である主のもの」であることです。

これからの時代のこの世をサタンの手から取り返す最後の戦いにおいては、私たち教会は徹底して「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」(ロマ書8:4)者でなければなりません。このみ言葉が、戦いの前に霊的な割礼を受けることの重要さを示しております。
「割礼」とは、主イエスと主の御霊に「全き信仰と信頼を持つことによって義と認められる」こと、言ってみれば、御国の王に忠誠を誓って王との契約関係に入ることです。

確かにサタンと戦って、王国を取り返すことがどれ程厳しいことであるかは、先述のアイの町の教訓からしてもよくお分かりになると思います。しかし私たちはそれで決してビビッてはならないのです。私たちには内に聖霊様がついていて下さるのですから、私たちが「御霊に従って歩む」限り、たとえ万が一肉の誘惑に負けることがあっても、主の聖霊様に心から悔い改めることによって赦していただけるのです。ダビデが「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである。主が罪を認めない人たちは幸いである。」(ロマ書4:7,8)と言っていることが心に割礼を受けた者の特権であるのです。
ですから、へりくだってはいても恐れることなく、安心して私たちに与えられた町エリコを、「祈りの歩行」と言う戦略によって今こそ勝ち取ろうではありませんか。主は言われます。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)ハレルヤ! (終わり)


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25 03月

神は今新しいことをなさろうとしている  坂 達也  3月25日


神は今新しいことをなさろうとしている

 イザヤ43:18,19 「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

 神様は今新しいことをなさろうとしています。そして主は「あなたがたは、それを知らないのか。」と詰問されています。
 この聖句の意味は「過去のこと、昔起こったこと(出エジプト)をもはや思う必要はない。なぜなら、それ以上にすばらしいこと(抜本的出エジプト)をわたしは、これからしようとしているからだ。荒廃した地球(荒野)をわたしが復興させるのだ。」ではないでしょうか。

皆様は聖書をどのように読まれているでしょうか。直接的にはここでイザヤが預言していることは過去に既に起こったことですが、同じことがこれからも起こると言う意味で、この預言が将来の私たちに当てはまると信じて、私はこの聖句を引用しております。そのような聖書の読み方、見方を皆様はしておられるでしょうか。
 
伝道者の書1:9に 「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。」とあります。これは、「わたしは過去に起こったことを又起こらせるから、その意味では新しいことは一つもないが、これから起こすことは今まで起こったこととはスケールが全く違う」と神様が言われているように思われます。

ロマ書15:4には「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。」又、1コリント10:11には「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とありますから、私たち終末に生きるクリスチャンは、今こそ昔書かれた旧約聖書で起こったことを自分たちのこととして注意して読み、私たちの将来への教訓としなければならないと思います。

私たちの神様がどう言う神であるかをこの際改めて再認識してください。イザヤ46:9に 「いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。」

その上、神様はアモス3:7 で「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われるのですから、すべて神様のなさることは前広に預言者を通して発表されているのです。言い換えれば、聖書に書かれてない新しいことが起こることは何一つないのです。ですからクリスチャンである「あなたがたは、それを知らないのか。」と主はおっしゃったのです。

もっともここで聖書が教えていることは、パウロが「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」(1コリント15:46)と言っているように、昔(旧約の時代)肉の形で起こった事が、後の時代(終末)には霊の形で同じことが起こると言う警告でもあると思います。このような聖書の読み方をわきまえ知ることが、今の(新約の)私たちにとって特に必要である訳です。

今年ほど世の預言的なリーダーたちがその年に対する預言を数多く公表している年を私は経験したことがありません。しかもほとんどの預言が「今年は特別の年」、「新しいシーズン、カイロスの時に入った」と言うことにおいて共通しております。
皆さん、クリスチャンとしての人生はすばらしい、エキサイテイングな人生ですか。それとも何も起こらないから少々退屈しておられますか。
もしそうであるなら、いよいよすごいことが始まる時が来ましたから、「眼を覚ましなさい、私たちクリスチャンの人生はこれから面白くなって来る」と多くの預言者が語ってくれているのです。私は今年という年に大いに期待しております。

さて、ここで気が付かれると思いますが、聖書をどう読んだらいいのか、聖書とは何か。―聖書とは神様の教科書であると思います。しかし、その教科書はかなり膨大な内容なので、どんなに一生懸命読んでも、それが肉の形で、つまり頭でただ読むだけでは、あまり実用性がなく、有り難味もない、興奮もしません。
私は聖書とは宝物がぎっしり詰っている宝物蔵に夜薄暗い時に明かり無しで入るようなものであると思います。そこにはすばらしい宝物が並んでいることは分かっていても、暗闇の状態では、そのすばらしいはずの宝物がよく見えません。しかし、そこに主が現れて、主が特定の宝物に光を当て、私たちに示して説明して下さる時にはそれがよく分かります。このような聖書の読み方が「霊的な読み方」であり、「主から御言葉を聞く、あるいは示される」とも言います。
教科書と言えば、学校の教科書はそれをただ読めばそれで全部分かると言うものではない事を私たちはよく知っております。教科書は先生が教室で私たちに教えるための道具です。同じことが聖書にも言えないでしょうか。

聖書は教科書ですが、それを書いた先生であるイエス様が直接私たちに教えて下さる為に書かれてあることをこの際改めて認識する必要があると思います。
長い間主は沈黙を守っておられましたが、今、その教科書を書かれた主が大いに語られ始めました。そして、これからはますます誰にでも「聞く耳のある」人には語られる時代に入ったのです。皆様は主と親しくお話されておりますか。

ところで、皆さんはボーン・アゲインしたクリスチャンですか。Born again とはどう言う意味であるか、ご存知ですね。
ボーンアゲイン・クリスチャンとは肉の人間から霊の人間に生まれ変った人のことです。クリスチャンとは肉体を一時的に上に着ていますが、実質は「永遠のいのち」をいただいた霊の存在で、神様に通じた神様の思いで生きることが出来るのです。
 間違いないで下さい。ボーンアゲイン・クリスチャンは神と同じクラス、部類に属する者であるのです。神に似て造られているから 神に似た者であるのです。そしてイエス様の後をついて行き、イエス様の力でイエス様がこの世でなさったことがすべて出来る、そうしなければならない人間なのです。あなたは本当にそうですか?癒しの力、奇跡を起こされていますか。
 そのためにクリスチャンの中には聖霊様が宿っておら れます。つまり私たちは神が住まう「神の家」であり、もはやこの世の時間と空間で制限された、力のないただの悩みの多い、弱い人間ではないのです。
私たちが自分の頭を使って自分で何とかしようと悪戦苦闘することをやめ、自分の思いの中に永遠の命を持つことを、主は期待しておられます。

もう一つ質問します。私たちは聖書を読むために神学を学びます。「神学は真理でしょうか。」神学とは、あくまで人間が考えた学問ですから、その人の考えと都合で、どうにでもなり、極端に言えば間違いだらけであることに気が付いておられますか。
一つの例を言えば、「クリスチャンは大艱難を通るか、通らないでその前に「けいきょ」によって天に上げられる」と言う質問です。これへの答えは、後者が20世紀では大変人気があり、圧倒的に風靡しました。皆さんはどう思いますか。私は、クリスチャンは大艱難を通るとはっきり申し上げられます。

 ここで本論に入りたいと思います。私たちクリスチャンはほとんど忘れかけておりますが、創造主の神は決して忘れていない大事なことが一つあります。何でしょうか。それは神が人間を造った最初の目的を私たちが未だに果たしてないということです。

 創世記1:27,28に「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」その意味は、神に似た人間(イエスのようなクリスチャン)で地を満たし、その人間によって地を従えよ」と神は言われているのです。
 つまり、神が最初に造られたアダムには、神が造られたこの地球上の全被造物を神の代理人として支配する権威と責任が与えられました。しかしそのアダムと妻のエバが罪を犯して以来、この最初の人間に与えられた神からの使命へのミッションは挫折してしまいました。そこで神はご自身の御子イエスを罪のない人間(第二のアダム)として地上に送り、この人間が果たすべき使命の遂行に改めて着手しました。それは言ってみれば人間を「第二のエバ」として新生・回復させ、この第二のエバ=「教会」がイエス(第二のアダム)の下で元々の任務を成就させるご計画を進めておられる訳です。これこそが、私たち人間が造られたそもそもの目的であり、元々の神からの大命令は今でも厳然と生きているのです。その教会とは「イエスのからだ」「キリストの花嫁」とも言われ、真のクリスチャンの集合体です。

 ですから、私たちはもはや個人として行動するのではなく、「キリストのからだ」として集団で行動する時代に入ったのです。
 イエス様は宣教を開始して以来、徹底して「御国」(キングダム、神の王国)のミニストリーを説かれ、実行されました。この御国のミニストリーとは、神(王)が人間を用いて直接すべてを支配される「アダムへの命令」の回復・実行・成就以外の何物でもありません。

巨人が目をさました

ダニー・ステイン師は1982年に、小さな田舎の白く塗られた教会の建物の中で眠っている巨人の夢を見ました。主の手がおりてきて、巨人の肩をつかみ、彼を眠りからさましました。巨人は立ち上がり、その小さな教会の建物は粉々に砕けてしまいました。そのとき主が私に言われました。「教会が立ち上がる時には、もはやいかなる建物の構造(宗教的なもの、教派、その他の構造)でもそれを中に収めることはできないのです。」

 今まで私たちはすべてのことを個人的、自己中心的に考えて来ました。個人が救われ、聖書を勉強し、祈りながら霊的に成長することがクリスチャン生活であると考えて来ました。そして、教会と言う建物に引きこもり、未信者を教会に連れ込んでは改心させようとして来たのです。この世はサタンの支配する王国、クリスチャンは小さくなって、サタンとかかわることを避けながら自分たちだけで暮らそうとして来ました。しかし、その時代は今、終わろうとしています。なぜなら、この元々の大命令があり、それを人間が何とかしないといけないからです。しかも終末の時代もかなり進んで、もう余り時間が残されていません。

この世が悪魔の王国なら、それを神の王国にしなければなりません。そのためには、この世の中に出て行って、イエス様がされたように、貧しい者に福音を伝え、癒しの必要な者をいやし、神の国の福音を見せて、囚われている人たちを解放する、そして悪魔の王国を打ち破り、この世をイエス様の王国にする命令です。(ルカ4:18,19)

それを私たち教会が集団行為として一致して行う時に、主が私たちを大いに祝福し、主が必要ないやしと奇跡と私たちを通してなさると約束されているのです。
そのために聖書はエリヤとエリシャのことが書かれ、私たちはエリシャとして二倍の油注ぎを受ける時代が来ました。それは使徒の時代を上回るものすごい奇跡が起こる時代です。

同時に大艱難がやってきます。その目的は明らかです。私たちが困難迫害を通ることによって、キリストのからだが頭であるキリストと一致し、王である主の御心だけを行う訓練を受ける必要があるからです。又、クリスチャンが集合体として一致団結して生きる時に、真の力が現される、そのためです。

この世を神の王国にするためには、教会が一致団結して、その地域の政治、経済、文化活動の一切をキリストの御心で行うように積極的にこの世の組織に介入し、王国のすばらしい福音を説き、神の力を発揮していかねばなりません。主である王がそのためのすべての業をしてくださるのです。これがトランスフォーメーションです。

私は今までの地方教会がなくなって一つの大きな教会になれと言っているのではありません。それぞれの教会が教派の考え方を超えて、主の御心を行うと言う目的とやり方において一致し、皆で力を合わせて、この世を神の御国にして行くのです。
この二千年と言う長い間、私たち教会はあまりにも力のない、人間的、ぬるま湯につかって来ました。それが当たり前と思っておられたら、聖書では全くそう教えてはいないことをこの際抜本的に認識すべきです。
 クリスチャンと未信者と見分けがつかな過ぎる、そんな時代を終わらせ、私たちがいよいよ真の王であるイエス様を代表する力を示す本来のクリスチャンになる時が来ました。
世の中で困っている人に本当に神の力で助けてあげることが出来なくて何が福音でしょうか。イエス様がしたように私たちも病人をいやし
01 01月

クリスマスの信仰  坂 達也  12月31日



クリスマスの信仰
 
 主のご誕生をお祝いするクリスマスがやって来ますと、ルカの福音書1-2章に親しむ機会が与えられます。この二つの章は何度読み返しても、その都度新しい真理と恵みが与えられ、そのことを主に心から感謝申し上げます。
 今年私が特に示されたことは、この世で起こった最大のイベントであるイエス・キリストのご誕生が「主によって語られた御ことば」と、それを聞く当事者の「必ず実現すると信じきった」信仰によって実現したと言う事実でした。私はこの主によって語られる御ことばと信仰の相関関係が、私たちの信仰生活を成功させる鍵であると思います。

 先ずイエス様の誕生に当たってルカ1章での登場人物は、ザカリヤとエリサベスそしてマリヤ、それに御使いのガブリエル、その後2章の最初で登場するのが羊飼いたちです。
 
 不妊の女であったエリザベスには子供が無く、長年子供が与えられることを祈って来た夫のザカリヤは、既にかなり年老いていました。しかし「その願いが聞かれた」と御使いに言われた時に、彼は、彼らの肉体的現状にだけ目が向いていて、神の偉大な力を信じることが出来なかったと言うところに彼の不信仰さが現れているように思えます。「祈りは必ず聞かれる」と云うことを信じているつもりでも、実際には「必ず実現すると信じきった」確かな信仰で祈っていないと言う(私も含めて)典型的なクリスチャン像を彼に見ることが出来ないでしょうか。

 神様がご計画を進める時に、そのような信仰の無さは邪魔になります。そこで神様は彼がそれ以上不信仰の言葉を口にしないように、一時的にものが言えないようにしました。これは主による愛の「しるし」であり、又愛の懲らしめ(ヘブル12:10)でありました。これによってザカリヤは悔い改め、無言のままで主に心からの祈りと感謝をささげ続け、彼の信仰は本当のものになったと思います。
 一方妻であるエリザベスは、すばらしい信仰の持ち主であったことがうかがわれます。それがゆえに主はマリヤをエリザベスのところへ送り、三ヶ月ほど時を過ごすことを許されたのであると思います。

 ここで重要なことは、御使いガブリエルが直接現れてはっきりとメッセージを伝えたことです。御使いが話す言葉を聞くこととは神様からのおことばを聞くことです。つまり「神の御声を聞く」ことと同じです。

さて、同じガブリエルから声をかけられた時、マリヤは何のことかよく分からず、とっさに戸惑いましたが、それは不信仰からではありませんでした。ガブリエルがさらに説明を加えたことに対して、恐らく完全には理解出来なかったと思いますが、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(1:38)と答えました。この答えこそが、常に主に従順でありたいと願うクリスチャンの持つべき理想的な信仰の態度であると思います。そこには100%主を信頼し、主に委ね、主のなさることに大いに期待して生きる信仰者の姿があります。

そのことを、聖霊に満たされたエリサベスが「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(1:45)と称えました。まさに主によって語られたこと=御声を聞いて、それが必ず実現すると信じきる信仰によって主はことを運ばれるのです。

私はここに最も重要な信仰の法則があると信じます。それは先ず「主の御声を聞くこと」(主の命令、御心の表示を直接聞く)によって、それが実現することが心から信じられるようになる信仰が与えられると言うことです。

ペテロが水の上を歩いたのも、この法則によるものでした。
[弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:26)


 私はこのお話から学ぶところは非常に大きいと思います。ペテロは水の上を歩いておられる主を見て、とっさに自分も同じように水の上を歩いて主のところまで行きたいと言う思いを持ちました。しかしそれを実行する前に、先ずそのことが本当に主の御心であるかどうかを確かめたいと思ったのでしょう。そこで、改めて主ご自身の口から、「水の上を歩いてここまで来い」と具体的に命じられることを求めたのでした。主から直接みことばを語っていただきたかったのです。

 私たちは日常生活の中で何かをしたいと言う思いがよく来ます。しかしそれが主から与えられた思いであることがかなりの確かさで信じられる時でも、もう一つ確認をしたいと思うことが多くあるのではないでしょうか。そのような時に「もし(この思いを下さったのは)あなたでしたら、今私が実行したいと思っていることを『しなさい』と私にはっきりお命じになってください。」とペテロのように主にお願いすることによって主からの確認がいただけると思います。しかもそれだけではありません。はっきりと御言葉(御声)で命令を受ける時に、それを実行する上で必要な確かな信仰もいただけることを私自身も経験しております。
後はペテロが回りの状況に眼が行って不信仰になってしまったことを教訓として、私たちがあくまでも「疑わない」信仰を持続することです。

 実はこのペテロのお話で主は、マリヤの持つ「主によって語られたことは必ず実現すると信じきる」信仰の実地訓練を弟子にされたのであると思うのです。主からの命令を聞いて、それを「疑わずに」「必ず実現すると信じきって」実行すれば、たとえそれがどんなに超自然、不可能と思えることであっても実現することを、主が先ず肉の形で弟子たちに見せたのです。それは、主が昇天された後、弟子たちが同じことを霊の形で行う、つまり霊で御声を聞き、それを実行するための信仰の訓練でした。(1コリント15:46)

もう一つの例を挙げたいと思います。それはマタイ8:5 -13です。
『イエスがカペ
20 12月

神の国の福音とトランスフォーメーション  坂 達也 12月20日


「神の国の福音」とトランスフォーメーション 
 アメリカにおいて、ここ5年位でしょうか、今まであまり聞かれなかった新しいクリスチャン用語、例えば「マーケット・プレース・ミニストリー」とか「四つの壁から出る」とかいう言葉が「流行って」います。また、多くの人が「キングダム」(王国)と言う言葉を強調するようになりました。又、今世界的なクリスチャン用語となりつつある「トランスフォーメーション」と言う言葉も、比較的最近のクリスチャン慣用句であると思います。

そこで考えてみますと、イエス様は常に「天の御国」のことを頭においておられたことが聖書からはっきり分かります。主が宣教を始めて最初に言われた言葉は何だったでしょうか。 それは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でした。そして自分たちのところにイエスをひきとめようとする人たちに対して「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を述べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(ルカ4:43)と言われました。明らかにイエス様はご自分が天の御国の王であることを明確に意識して私たちにお話をされました。

 私たちは今、終末の時代に間違いなく突入しています。それはイエス様がもう一度この世に帰って来られる日が近づいていることを意味します。しかも、今度帰って来られる時は、天の御国の王として来られることを思い出して下さい。いよいよ「天の御国が近づいた」のです。
私は、これからのクリスチャンと今までのクリスチャンとの生き方に何か差があるとすれば、それはこれからのクリスチャンは本当に御国メンタリティーを持たねばならないと言う一点であると言う気がします。

 主は、私たちに祈りを教えられた時に「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように…。」(マタイ6:9-10)と祈るように指示されました。この祈りは明らかに「天の御国の実現」のための祈りです。この地上に神の国が設立され、そこにおいては「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれ」ねばならないのです。

そして「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)と警告されました。つまり天の御国においては、私たち御国の民は徹底して王に従順であって、常にみこころを行うことが要求されるのです。

 そのために私たちはどうすればよいのでしょうか。第一に、「御国に属するクリスチャン」とは一体何者であるかを、私たち自身がこの際、改めて再認識する必要があると思います。
クリスチャンとはボーンアゲインした人のことを言いますが、それは霊が生き返った人と言う意味です。つまり、クリスチャンとは元来霊的な存在で、霊によって神とコミュニケーションをし、神に従っていくように造られています。
 創世記1:26にあるように、人間は神に似せて造られており、神のイメージを持つ者ですから、霊に生き返ったクリスチャンとは元々の神に似た、神と同じクラス、同じ部類に属する者であるのです。
 しかし、私たちは、長い間ぬるま湯につかった様なクリスチャン生活を送って来ましたから、あまりにも人間的になり過ぎてしまっています。神学を頭でこねまわし、人間が考えた教会成長論をふりまわし、伝道方法も神様にお聞きせず、ない知恵を振り絞って教会の人数をふやそうと躍起になっている姿は、神様不在の状態に近いのではないでしょうか。
ですから奇跡も何も起きません。しかもそれが普通で、奇跡が起きないことをおかしいとも思わないのです。クリスチャンが全く情けない姿に成り果ててしまっています。

 クリスチャンがあまりにも人間的で、霊に生まれ変っていない旧態依然の人間を生きているとすれば、その人は未だに「サタンに支配されている者」であることをご存知でしょうか? マタイ16:21-23に 「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(新改訳)
 ここで「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言う部分ですが、ここは英語の新欽定訳のように「 神の思いに満たされていないで、人間的な思いに満たされている状態」を意味しますから、実質的にペテロは神に従属しないで(神に属する者は神の思いに満たされているはずです)、むしろサタンに従属したままの者であることを示すために、イエス様が敢えてペテロをサタンよ、と呼ばれたのであると思います。

 サタンがこの世の支配者であることが次の御言葉から分かります。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(ルカ4:5-7)もし私たちがサタンに対してそのような意識を持っていないとしても、少なくともサタンはこの世は自分のものであると言う意識でこの世に君臨して来たことが、上記の御言葉からはっきり分かります。サタンは初めからその目的で人間を騙し、この地上の支配権を人間から奪ったことを思い起こして下さい。

 それを踏まえて、イエス様はサタンの手からこの世を奪回するために「教会」を建てると言われました。「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。…」(マタイ16:18、19)主は、私たち教会がこの世の敵の門を崩し、サタンからこの世を奪回して天の御国にすることを命じておられるのです。私たちはサタンに対して霊の戦いを挑み、これに勝利しなければならないのです。
 そして、今まで敵の捕われ人となって来た王国
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