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Walk With God Ministries

15 4月

カイロス タイム          坂 達也      4月15日


カイロス・タイム

 私は最近、今までにはなかったことを経験しております。それはやらねばならないプロジェクトが4つ、5つある時に、それぞれに「それをする時がある」ことを神様が私にはっきりと示され、教えられていることです。例えば、このホームページは、アメリカの使徒的・預言的なメッセージを選んで翻訳し紹介させていただいておりますが、それと共に、自分自身も主から与えられたメッセージを書くつもりで始めました。ところが、今年の正月から3ヶ月の間、書こうとしてもどうしてもまとまらず、不思議なぐらい書けないのです。勿論礼拝用のメッセージは、必要に応じて十分あり余るように与えられるのですが、書くこととなると、どうしても文章にならないのです。それが4月に入ってから又書けるようになったのです。そして、そうされたのは神様であったことがよく分かりました。

又、別の例(方法)によっても、物事には神様の順番があり、神様の時があり、私たちがそれに従う時に大きな祝福があることも今回はっきりと教えられました。その例というのは、私たちは今一年以上かかってかなり大掛かりな家の改修を行っておりますが、専門職に全部依頼するのではなく、自分で出来ることは家内の手を借りてでも自分でするようにしております。(だから時間が掛かっているのですが)私は以前家を建てる仕事をしていましたから、具体的に何をするかを先に先にと考えつつ進めて行くことには慣れているつもりでした。ところが今回、次に何をどのようにしようかといくら考えても、よいアイデアが出て来なかったり、出て来ても心に迷いがあるのです。しかし、自分には行き当たりばったりとしか思えないのですが、直前になると、「これをやろう。」と心が定まり、その朝になるとスーッとよいアイデアが浮かんで「これだ!」と納得がゆく方法が与えられ、うまく行くのです。
しばらくは、それは歳を取ったので頭の回転がにぶくなった性かと思っていましたが、どうもそればかりではないようなのです。結局気がついたことは、「神様に総てを委ね、神様の方法と、神様のタイミングで総ての事を進めたい。」と日頃祈り願っていながら、つい自分で考えてやってしまっている私に、神様が実際、具体的に「神に委ねる生き方」を指導して見せて下さったと言うことが分かったのです。そして神様の「時」を待つ重要性を改めて学んだのでした。

「時」と言えば、ギリシャ語で「クロノスの時」と「カイロスの時」があることが最近よく話題にされます。クロノスの時とは、一般的な時間の経過を表わす人間が持つ時の流れです。一方カイロスの時とは、神が定めた時、神の時間表、あるいは霊的な時間と言うことができそうです。
さて、時と言えば伝道者の書3章を思い出されるでしょう。

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時/保つ時、放つ時 裂く時、縫う時/黙する時、語る時 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。」(伝道3:1-8、新共同訳)


 これは、自然界において、人間を含めた生物の営みには、何事にも創造者が初めから定めた季節と時があることを表わしております。それでは人間が日常生活をどのように生きているかといえば、二つの生き方があると思います。
一つはほとんどの人がそうなのですが、何事も自分の考えで事を運ぶ生き方です。自分で計画し、時間の流れとしての「タイム・テーブル」を自分で設定してそれを実行しようとします。これはクロノスの時で生きる人間的な生き方です。
もう一つの生き方は、クリスチャンとして神様に総てを委ね、神様の方法とタイミング(時)を待って事を行う生き方です。勿論、神様は人間が後者であることを望んでおられます。これがカイロスの時(神様の時)の生き方であると思います。
 
そこで後者の場合ですが、神様の進め方と時期とは、私たちの考えることとあまりにも異なる、つまり神様のすることは予測がつかないことを経験していない人はいないと思います。それはまさに、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」(ヨハネ3:8)の御言葉の通りではないでしょうか。多くの場合に聖霊様のなさることは予測がつきません。「慌てる乞食はもらいが少ない」と言うことわざがありますが、私たちの傾向では、とにかく神様の時を「待てない」のです。「待つ」ことは訓練されなければなりません。「主の時を待つこと」を会得された方は霊的成長の完成が近い方です。

そこで気がついたことがあります。「何事にも時がある」と上記伝道者の書に書いてありますから確かにそうなのでしょうが、でも「時が定められていないこと」もこの世の中にはあるのではないかと思ったのです。その意味は、定まった時に何かをするだけはなくて、「常にその時である」と言うこともあると言うことです。
その一番よい例は「十字架」であると思うのです。十字架とは「苦しんで」「死ぬ」ことを意味します。人間は生涯の初めから終わりまで、どのような時も常に「自分に死ぬ」ことを神様は望んでおられるからです。死ぬことにおいては、時もシーズンもない、私たちは常に「自分の十字架をかついで」生きることを要求されています。

それは黙示録13:8に根拠が示されております。英語のKJV欽定訳と、日本語訳では新改訳の「別訳」として下段の付記の項に書かれていますが「世の初めからほふられた小羊」が存在していると言う事実です。これは何を意味しているのでしょうか。それは、世の初めからイエスの十字架が存在していると言うことです。

  「イエスが十字架にかけられて死ぬ」ことはこの世で一度だけ起こる必要がありますが、霊的に言えば、世の基の出来る前から父と子の心の中には十字架が常に存在している、と言うことです。なぜそうかと言えば、神様は時間の無い世界におられるからです。難しく聞こえるかもしれませんが、十字架の業は先ず「永遠」と言う時間の無い神様の世界で「決意され、初めから実行された事実」なのです。

それはどう言うことかと言えば、神に似せて造られ、自由な意思を持つ最初の人間アダムとエバにおいて、人間が神を見捨て、自分中心に生きると言う罪に堕ちることを、神様は見通しておられたのです。神様はご自分が 創造するものを本当に愛するがゆえに、罪に堕ちた被造物のために先ずご自分が苦しみ、そしてご自分が死ぬことによって総ての被造物をあがない(redemptive)救い出すご計画を初めから決意し、持っておられたのです。ですから神の愛とは最初からあがないのredemptiveな愛です。

「苦しんで子を生まねなければならない」と言う罰を与えられたのは、最初に罪を犯したエバでしたが(創世記3:16)、その前に、かわいい自分の子どもたちを生んで育て上げる(創造する)ことに、先ず「死に至るまで苦しむ」ことを決意し、実行されたのは創造者ご自身でした。それは神である父と子だけではありません。同じ神である聖霊様も罪だらけの人間の中に入って私たちを霊的に育て上げるのに、どれほど忍耐と努力をしておられるか、これが神様にとっての「産みの苦しみ」をされていることでなくて何が苦しみでしょうか。

  同じように罪を犯したアダムの受けた罰は「苦しんで食を得なければならない」(同3:17)でした。霊的な食物を得るために、罪のないイエス様ですらどれだけ祈りに時間を費やされたかを見れば、私たちが霊的食物を得るのに苦労しなければならないことは当たり前なことが分かります。本当にどんなに感謝してもしきれないことですが、私たち人間が苦労することで創造者が苦労していないことは一つもなく、又、神様が私たちのために先ず実行して見せないことは一つも無いのです。(ヨハネ5:19,20)みな安心してイエス様の後を追うように配慮されています。それが恵みであると言えないでしょうか。

神様は罪に陥って苦しんでいる人間に対して、「救いたい」と言う強い願いとあわれみの心をいつも持っておられます。ですから、私たちが救いを求める時はいつでも「今は時ではないから又おいで。」とは言われずに、常に救いの手を差し伸べておられるのです。救いの時とか時期はないのです。
総ての神の創造の中心には「あわれみの愛」と「イエスの十字架」と「赦し」があり、総ての創造はそれを土台にして存在しているのです。それは時間のない神様の「ご性質」そのものをあらわしています。
一方、私たちが本当にあがなわれ、救い出されるためには、私たちも又霊的に常に「自分に死ぬ」ことを要求されています。私たちは自分の肉に死ななければ永遠のいのちに入れません。

 間もなくイースターを迎えます。イースターとは、十字架の死からよみがえられたイエス様をお祝いする日です。イエス様が先ずよみがえられた、この「よみがえり」と言う霊的な状態こそ、私たちのためにイエス様が道備えをして下さったものです。私たちは霊の人間に生まれ変わり(ボーン・アゲイン)、霊的な成長のプロセスを通ってこの「よみがえりのいのち」すなわち「永遠のいのち」を既に生き始めているのです。
 この世で「永遠のいのち」を生きるとはどう言うことでしょうか。それはこの世に生きていながら、自分の肉に死んで、霊に生きること、それが「よみがえり」の生活であると思います。「よみがえり」の世界とは、もはやクロノスの時の奴隷となって人間的・この世的に生きるのではなく、神の時間と空間の中に入り込み、そこで得た神の御心を神に導かれてカイロスの時で生きるのです。

私たちは時間の経過の中に住んでいますから、総てが移り変わりますが、時間のない神様は変わりようがありません。まさに「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブル書13:8)とある通りです。そこには永遠に変わらない神の愛が満ち、永遠に「赦し」と「回復」が存在します。そして「よみがえった」私たちにとっては、常に神を礼拝する状態が「時の過ぎない時間」であると言えないでしょうか。私たちはこのよみがえりの世界にある不変の「神のご性質」に出来るだけ早く到達しなければなりません。

マルコ1:15に、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(口語訳)とありますが、この「時は満ちた」はカイロスです。神が定められた救いへの条件と道が整い、時が満ちている今の私たちは、霊的に、既に神の国と言う「時間」と「空間」の中に生かされているのです。それはイエス・キリストの福音そのものの世界であり、私たちは「よみがえり」と言う次元に既に入っているのです。(このみ言葉は未信者にだけではなく信者に対して言われていると思います。)ですから私たち信じる者こそ、そのように神の国に住んでいるように行動しなければなりません。それが「信仰に生きる」ことであると私は思います。

信仰とは超自然のものであり、時間を越えた世界で生きることであると思うのです。創造者の神は、何か心に思う時に既に霊的にそれが存在します。そしてそれを口で言われればこの世に実現します。ですから神に似せて造られた私たち神の子どもも、神の思いに適ったことを信仰で自分の思いとして信じる時、それは霊の世界では神の御心として既に実在していることを取り上げて、神様と同じようにそれを口で宣言することによって、実現させることが出来るのです。ヘブル書11:1に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とありますが、もっと分かり易く言えば、「信仰は、望んでいることが霊的に神の御心として実在していることを確認して、それを目に見える形にこの世に出現させること」であると言えます。

御国に住む私たちのすることとは、総て創造者である神様の存在とその神様が創造したいと思う御旨・御心を私たちが神様に代って実現(創造)することによって、神の存在と御心を証明して見せること、それが私たちクリスチャンの仕事であると思います。

しかし、霊的な人間になったとは言え、私たちが実際に住んでいるのはこの世という時間が経 過している世界ですから、口で命令すると直ぐそうなる時と、時間が掛かって実現する時と、又実現しない時があります。この時間加減を支配しておられるのは神様ですが、信仰の難しさはここにあります。時間がかかっても私たちの心が全く揺れずに変わらない時に、それは必ず神様のタイミングで実現しますが、心がふらふらと定まらない時は実現しないことが多いのです。それを称してイエス様は「信仰の薄い人だ。」と言われました。
私たちも早く時間のない世界に到達したいですね。しかし、神様が今私たちを時の流れの中で信仰によって生きる試練を許されているのは、私たちにその産みの苦しみを経験させるためです。

信仰の訓練とは、この時間の経過 で「心変わり」してしまう信仰を、「心変わり」しない信仰にしていくことではないでしょうか。私たちをこの世に置いて、物事が実現するのに時間がかかるようにされるのは、神様が私たちの信仰をテストし、強めるためのプロセスであると思うのです。私たちは信仰にとってむしろ障害となる「時の流れ」を私たち自身が克服し、それを無いものとして不変不動の信仰に達することを神様は期待しておられます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)

「よみがえり」の世界は信仰だけで生きる世界です。しかし、この世で「よみがえり」の世界に生きる時にこそ(それは可能です。)クロノスの時の経過の中で生きていても、総てにカイロスの時で行動出来るのです。それこそが時を征服し、時に勝利した生き方と言えるかも分かりません。(終わり)


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