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Walk With God Ministries

15 08月

引越し   坂 柚実子   8月12日


引越し (その2)

家を買い手に受け渡すのは45日後と決まりました。45日間で私たちの新居を探さねばなりません。
よーいドンで、不動産屋のキャシーさんに連れられて、あちこちの売りに出ているマンションを見て回る毎日がはじまりました。売り手から買い手に立場が逆転したわけです。

ハワイのオアフ島はなんせ小さな島です。気候がいいのでパラダイスといわれていますが、住宅事情が庶民には厳しいことは前にも書いた通りです。でもきっといい所を主は与えてくださるという信仰と希望を胸に抱いての出発でした。キャシーさんも熱心なクリスチャンですので、「主が用意してくださっている素晴らしい所を見つけよう!」という点で3人の息はぴったりでした。

主人と私は映画や音楽の趣味も全く違うのですが、マンション選びでも意見が違うことがすぐに判明しました。主人は「眺めのいいところ、特に海が見えるところ(愛知県の海のそばで育ちました)」が一番の条件で、私は「花の育てられるベランダがあるところ」が第一条件でした。そこは聖書的にお互いの気持ちを尊重して、できるだけその2つの条件が具わったところをお願いします、とキャシーさんに伝えました。

海に囲まれた小さな島だったら、どこからでも海が見えそう、、、と思うのは勿論幼稚な考えで、海が見える場所というのは一等地となってそれなりのお値段になります。一月以上オアフ島を探し回りましたが、気に入る物件がありません。明け渡しの日にちは迫ってきます。いよいよホームレスか、、と教会の友人たちも心配し始めました。仕方なくソルト・レイクという地区のマンションの貸し部屋にとりあえず6ヶ月入る契約を結びました。その部屋は日系の牧師夫妻が自分たちが引退したときの住居にと購入しておいたものだそうでが、ご主人がアメリカ本土で牧会中に亡くなられらたので、この部屋はずっと人に貸しているというお話でした。

ところが、賃貸の契約書にサインをした翌日、キャシーさんから連絡があり、ハワイ・カイという地区のマンションに売り物が出たとのことでした。持ち主はフロリダに住んでいて、部屋は長く貸し出していたのでかなり入れが必要だけれども、その代わりに格安で売りに出ている、という話でした。賃貸の契約をしてしまった後でしたが、私たちは早速ハワイ・カイまで見に行きました。

    この写真の白い建物が私たちのマンションです。水が見えるのは海からの入り江です。


それは、エスプラネードという洒落た名前のマンションで、施設が非常に整っているのには驚きました。プールは勿論のこと、ジャクジ、テニスコート2面、ミニ・ゴルフ、ジム、集会所、そして船がつなげるマリナまであります。売りに出ている部屋は3階で、残念ながら海は見えないのですが、山が見えて、かなり狭いながらベランダらしきものもついています。確かに少し荒れてはいますが、私たちの手でどうにか修理できる範囲です。それまでに30ほどもあちこちのマンションを見てきましたから、この物件が掘り出し物だということがよく分かりました。そこで、すぐに買う手続きを始めてもらうことにしました。

そして普通なら一月はかかる売買の手続きを、特急で一週間でしてもらい、無事、前の家からこのマンションに直接引っ越すことができました。これは普通ではあり得ない、全く神様のなさる御業でした。本当に神様のタイミングはスリル満点です。

ソルト・レークの賃貸の契約は、次の借り手が見つかるまでは私たちが家賃を払い続けるというものでした。ですからその覚悟もしていたのですが、まだ次の借り手が見つからないにもかかわらず、先方の好意で半月分を払えばあとは免除してもらえることになりました。これも本当に感謝なことでした。(続く)

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10 08月

実を捜したヨシュアとカレブ  ビル ヨント   8月10日


実を探したヨシュアとカレブ

 ビル・ヨント


民数記13:20b 「あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取ってきなさい。」 その季節は初ぶどうの熟す頃であった。

スパイたちが約束の地に送られたのが、初ぶどうの熟す季節だったことは興味があります。12人のスパイ全員が、その土地の巨人にではなく果物に焦点をあてることを、主は望んでおられたのではないかと私は思います。ヨシュアとカレブも他のスパイたちと一緒に偵察をしていましたから、巨人がどれほど大きいか、町の城壁がどれほど高いかを彼らが話すのを、何度も聞かされたに違いありません。でもヨシュアとカレブはそのときに、「巨人がそんなに大きいならば、そこの果物もどんなにか大きいに違いない。」と考えたのではないでしょうか。二人は約束の地で果物を探すことだけに心を注いでいたのです。私たちは、自分が探すものを見つけるのです。そして、男二人が棒でかつがねばならぬほどの大きなぶどうの房を、エシュコルの谷から持ち帰ることができました。

巨人のいる異邦人の地を神は「乳と蜂蜜の流れる豊かな地」と呼ばれた


詩篇27:13 「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。」

私たちが約束の地に入るためには、まず自分の国や政府、都市や私たちが顔を合わせるすべての人々の良いところを見なければなりません!ローマ4:17の言葉を使って、まだ現れていない良いところを、あたかも既にあるもののように呼び出さねばならない場合もあるでしょう。

ローマ2:4「人を悔い改めに導くのは神の慈愛です。」

神はあなたの悪いところではなく、良いところを見てくださっていることにお気づきでしょうか? 放蕩息子がまだ罪にまみれた姿で家に近づいて来たときに、父親は「私の息子が帰ってきた!」といいました。そのとき父親は息子の中に何を見ていたのか聞いてみてください。異邦人が立ち騒ぎ人々の罪が増し加わるのを見るとき、あなたの口からどんな言葉が出てくるかを十分に注意してください。イスラエル人が相続すべき地に入れなくしたのは、10人のスパイの口から出てきた否定的な言葉のせいでした!

今日の私たちもそれと同じです。もし自分たちの口の言葉で受け継ぐべきものを拒むことができるならば、同じように自分たちの口の言葉によって受け継ぐことも出来るのです!ですから、生けるものの地で良いものを見つけ、良いことについて話そうではありませんか!

ぶどうの「房」が約束の地に入る鍵

その後もヨシュアとカレブは、不信仰な「すっぱい」ぶどうたち(彼らはやがて荒野で干からびてレーズンになってしまいましたが)から離れることはなく、一緒に行動を続けました。神はずっと後になってから主のタイミングでジョシュアとカレブを彼らから切り離し、ついに二人は約束の地に入ったのですが、それまでは、二人はみんなと共に過ごし、その過程の中で将来のために必要な訓練を受けたのでした。

イザヤ65:8 「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから。』というように、わたしも、あなたのしもべたちのために、その全部を滅ぼさない。」

神は今、この地上に御国をたてるための総体的なヴィジョンを持っておられます。ですから、私たちはクリスチャンの房の中にとどまり、教会、すべての民族、すべての言葉、すべての国とつながってなければならないのです。なぜならば、神は一つのミニストリーとか一つの教会、一つのホーム・グループの中だけにとどまるにはあまりにも大きな方だからです。新しいぶどう酒はぶどう一粒、即ち一つのミニストリー、一つの教会、一つのヴィジョンだけでは出来ません。「房」につながっていなければ、あなたの人生もミニストリーも必ず干からびてしまいます。

神の手がぶどうの房を押しつぶす

あなたや私が連なっているこの巨大なぶどうの房を、神の手が押しつぶしているヴィジョンを私は見ました。私たちは、そのプレッシャーは敵からか、もしくは同じ房の中の他のぶどうから来ている、と初めは思ったのですが、そうではありませんでした。神の手がこの房をつぶして、最後の、即ち終末のリバイバルの魂の収穫のためにとっておいた最高級の新しいぶどう酒を造っておられるのを、私ははっきりと見えたのです。

ぶどうの房から神が新しいぶどう酒を造ろうとされるときは、すぐにそれと分かります。何故ならば あるぶどうの粒たちがぶつぶつ不平を言い出すからです。

隣のぶどうに告げよう

神の手がぶどうの房にプレッシャーをかけると、あるぶどうたちは「ああ、神様、あなたが私と一緒の房に入れたぶどうたちとはもうやっていけません。どうかここから私を出してください!」と叫び始めるのです。主は「そうしてあげるよ。でもわたしのやり方でね。もう少しそこで頑張りなさい!」と答えられます。更にもっとプレッシャーが加えられると、あるぶどうたちは「主よ、私の価値がここでは認められていません。私のすぐ周りにいるぶどうたちは、私があなたからいただいた賜物や召命や夢の実現を阻んでいます。私という人間が生かされていません!」と叫ぶのです。
主は「あなたの人生はわたしのスケジュール通りに進んでいますよ。あなたの皮が破れることは、わたしが今しようとしていることのためには絶対必要なのです。あなたが自分のいのちを失うならば、それをわたしのうちに見出すでしょう!」 このぶどうの房の中にいるもののほとんどが、神が何をされようとしているのかは全くわかっていませんでした。私たちの夢や計画、ミニストリーよりずっと偉大で私たちの理解を超えたことを、神はしようとされているのです。今はあなたの隣にいるぶどうに向かって「神の知恵はあなたや私の知恵よりまさっている!」と告げる時です。

国々の救いのための油注ぎはぶどうの房の上に

神の手がなおもぶどうの房を押しつぶすと、多くのぶどうは粉々につぶれました。そしてぶどうの汁が房から地上に滴ってきて、国々の偉大な魂の収穫のための新しいぶどう酒となったのです。〈終わり〉


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04 08月

教会史上最大の癒しの波がやってくる  ボビー・コナー 8月4日


教会史上最大の癒しの波がやってくる
   

 ボビー・コナー

私は、集会中に突然、会場中が焼きたてのパンの香りであふれるという素晴らしい経験を、今までに何度もすることができました。パンの香りがしたときは、ほとんどの場合、その後で素晴らしい癒しの御業が現れるのでした。イエス様は、癒しは子供のパンだといわれました。(マルコ7:27参照) 病気や痛みのある人のために与えられるパンの香りは、天からのパンであられるイエスのご臨在のしるしです。主は癒し主であられるからです。今、聖霊は大いなる癒しの油を注いでいてくださいますが、それは「キリストのからだ」なる教会に与えられようとしています。

主が私に預言的に訪れてくださったとき、こう言われました。「教会に告げなさい。あなたたちが準備ができていてもいなくても、わたしは今あなたたちを訪れます。わたしは手に贈り物を持って行きます。それは癒しの贈り物です。それは個々の人に与えられるのではなく、キリストのからだ全体に与えるものです。

癒しの素晴らしい賜物がある個人の上にとどまって働くのを、私たちは今まで見てきました。例えば、ベニー・ヒンは癒しと奇跡の大いなる賜物を用いてミニストリーをしています。それは素晴らしいことです。 神の器たちを主が用いて大いなるみ業を彼らを通してなさるのを感謝しています。しかしながら、これから起ころうとしていることは、それよりもずっと偉大です。信じる者すべての上に癒しと奇跡の力ある油が注がれるのです。

ずいぶん前のことですが、私はベニー・ヒンへの預言を主から託されました。私は彼に会いにいき、「間もなくあなたが持っている油注ぎを子供たちもいただくときが来ます。」と告げました。それを聞いたときの彼の言葉を私は忘れることができません。彼は目を輝かせて大喜びで、「ボビーさん、知ってます。主が私にもそのことを話してくださいました!その日が今来るように祈りましょう。」と言ったのです。

私たちは教会史上最大の癒しのムーブメントが今にも起ころうとしている時を迎えているのです。この癒しの油注ぎが起ころうとしている理由の一つは、私たちがそれを必要とするようになるからです。教会の集会で天からのパンが与えられるようにと皆で祈らねばなりません。病人のために祈り、油を塗り、信仰の祈りをし、主が癒しのための天からのパンとして現れてくださるのを期待するのです。

罪人と飢えた人のためのパン

出エジプト記16章に、主の民が荒野を旅していた際にパンを求めて叫んだ民へ主が答えられたことが記されています。飢えた民がぶつぶつと荒野の不平を言ったとき、神が天から降らせた白く丸い純粋なパンは、イエス・キリストの前ぶれとも言うべきひな型でした。即ち、それは神が天から下しました。それは純潔を表わす白い色をしていました。それは永遠を表わす丸い形をしていました。また、キリストご自身が自分は天からのパンだと言われました。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)」
イエスという素晴らしい天のパンを下さった神に、私たちはどれほど感謝していることでしょうか。主を食べるときにのみ、私たちは真のいのちを持つことができるのです。私たちは世の光でありいのちであるまことのパンをいただいているので、荒野を旅するときも飢える者は一人もなく、暗やみで躓く者もいないのです。

天のパンを分け与える

今は天のパンを、飢えて傷ついている人々に分け与える時でもあります。この世界は、天のパン、即ち生けるキリストを求めて飢え渇いています。第二列王記の7章に非常に興味のある出来事が記されています。ここに大飢饉の只中に置かれた人々の有様を見ることができます。この飢饉はかつてなかったほどに悲惨なもので、人々は自分の子供の肉を食べるまでに身を落としていました。(6:25-29参照)

このような悲惨な状況の中で第二列王記7:1に記されている預言が神の民に与えられました。預言者エリシャは立って大胆に宣言しました。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる。』」 これは何という大胆な宣言でしょうか!恐ろしい大飢饉の只中で、この預言者は明日には食糧がただ同然で与えられるほど満ち溢れると宣言い切ったのです。

「あなたは主を信頼するならばゆるがされないであろう、預言者を信じれば繁栄するであろう。」と教えられています。(第二歴代誌20:20参照) 第二列王記7:2には愚かな侍従が多くの言葉で、たとえ神の介入があったとしてもそんなことはありえない、と言ったことが記されています。

それに対してエリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」と答えます。この結末は第二列王記7:17-19にあります。侍従は民が神が与えられた食物に殺到するのに踏みつけられて死んでしまいました。この偉大な奇跡を起こすために神がどのような人たちをどのように用いられたのかは驚きに値します。 私たちの弱さの中にこそ完全に神の力は現れることを忘れてはなりません。私たちは弱い者ですが主は強いお方です。

私たちも第二列王記7:9のらい病人のようでなければなりません。彼らは死にかけている惨めな病人でしたが、ある決断をして状況を一変させました。彼らは「どうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろう?」と自ら問うて、立ち上がり、前進し、変革を求めたのです。病状の進んだ4人のらい病人たちが、病に犯された足で立ち上がる姿を想像してみてください。お互いに助け合いながら、弱弱しく震える身体を支え、今の状態よりは何かましなものがあるであろうと未知の世界に足を引きずりながら歩き始める姿が、目に浮かぶようです。

あなたはどうですか? あなたは霊的食物に飢え渇き疲れ果てていますか? あなたは立ち上がって未知の世界に進んで行こうとしていますか? 「私はここにすわってこのまま死んでしまうのだろうか?」と自分に問うてみる必要はないでしょうか? もし現状に満足してしまっているならば、私たちは変化を求めはしません。

エルサレムを包囲していた敵の兵士たちの陣営にらい病人たちがたどりつくと、そこは全員が急いで逃げ去ったあとでした。敵 は恐怖に襲われて、食糧ばかりかすべての持ち物もそのままにして逃げていきました。4人の弱弱しいらい病人たちが手ごわい敵に一体どうしてこのような恐怖心を起こさせることができたのでしょうか? その答えは第二列王記7:5-7にあります。主なる神が、強大な軍隊が攻めてくるような響きを敵に聞かせたのです。ですから4人が到着したときには、敵は一人もいず、ただ食糧と多くの財宝がテントの中に残されていました。

4人は、まず自分たちの空腹を満たしました。すると彼らは別の空腹感を覚えたのです。それは自分たちが見つけたものを他の人たちに分け与えたい、という思いでした。見つけたパンを他の飢えている人々にも分け与える責任を自分たちは持っていることを彼らは悟ったのです。それと同じように、天からのパンをすでに与えられた私たちは、そのパンを他の人たちに分け与えねばならないのです。私たちが、この世の中の傷つき飢え渇いている人々に天のパンを分け与えることができるように、主が大きな恵みを注いでくださるようことを、私の心は切望してやみません。アーメン!(終わり)


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02 08月

引越し   坂 柚実子  8月2日


引越し

このハワイ便りもずいぶんとお休みをしてしまいました。
皆様、お元気でしょうか。
私は何をしていたかというと、引越しをしていました。
引越しの前はずっと家を売りに出していました。
オレゴンの家は7年間も売りに出していましたから、それにくらべれば非常に早く、7ヶ月目に売れました。

家を売るというのは、アメリカ生活ではご存知のように日常茶飯事みたいなところがあります。不動産屋からお客さんを連れて家を見に来るという連絡が8時間以上前に入るので、いざっという感じで家と庭をきれいにします。勿論いつでもきれいにしている人はこんな必要はないわけですが、我が家はそうはいかず、不動産屋からの電話があったら掃除、というパターンで暮らしました。だいたい週に一回くらいで丁度よい間隔でした。

主人と私とで暗黙の了解のもと受け持ち分担して、電話があるとさっと作業にかかります。オレゴンの家のときは、私が家の中、主人が庭という分担でした。というのは、一応庭が一つの見せ所になっていたからです。しかし、ハワイの家の庭はどうっていうことのない庭でしたので(ライチの実がたわわに実ったくらい)主人は寝室(片隅に主人の書斎がありましたので)と付随したバスルーム、私はキッチンと居間、という受け持ちでした。

そして約束の時間の15分前には家を出なければなりません。家の持ち主がうろうろしていては、お客さんも気兼ねして細かいところまで見ることができないからです。私たちは裏山に散歩に行ったりして時間をつぶしました。そして頃合をみて家にもどるのですが、あるときはどう見ても誰も来た形跡がなかったりします。連絡なしのドタキャンです。そんな時はもともと掃除の嫌いな私は「何のために掃除をしたのか!」とおなかの中から怒りがじわっと湧いてきます。でも気を取り直して「家がきれいになって気持ちがいいね。」と自分を慰めたりしたのでした。

こんな生活を7ヶ月して、ある日あっけなく家をとても気に入ってくれた人が現れました。それが5月の半ばでしたが、6月末に家の引渡しと決まり、あわてて新しい住居を探し始めました。(続く)


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27 07月

畑に隠された宝   フランシス・フランジペン    7月27日


天の御国は畑に隠された宝

フランシス・フランジペン

1983年に私はあるフェイス・チャーチ(奇跡、癒しが今もあると強く信じる教会)で牧師をしてほしいとの要請を受けました。 それは私がミニストリーから退いて3年経っていたときでしたし、また、フェイス・チャーチというものがどういう教会なのかもよくは分かりませんでした。 しかし、フェイス(信仰)という概念は十分に聖書的であり健全であると思いましたので、私はその仕事を引き受けることにしました。

その教会は一般的なフェイス・チャーチというよりは、教会の前にサテライト・ディッシュを構えているような教会で、そのディッシュには赤いペンキで、「Jesus Is Lord イエスは主である」と大きく書かれていたことを付け加えるべきでしょう。

私が3年間ミニストリーを離れていたのは、自分は失敗者である、という思いを深く抱いていたことが大きな理由であることを、ここでご説明しておいた方がいいでしょう。前に牧会していた教会の一人の婦人がウイルスに感染し、4日間で完全に身体が麻痺してしまいました。私はずっと彼女に付き添い、断食と祈りをしていました。彼女が5日目に死んでしまったとき、私は無力感で打ちのめされ、私の祈りの力に対する自信は砕かれてしまいました。この経験は私が若いミニスターとして受けたもっとも深い傷でした。

その婦人が亡くなってからの私の心の状態は全く荒れ果てたものでしたが、それをどのように取り扱ったらいいのか私にはわかりませんでした。ですから、あたかも自分の信仰は十分働いているように外面的にはよそおっておりましたが、実際はそうではありませんでした。その後何ヶ月も私は引き続き病人のために祈り、実際に信じている人のようなふりをし続けました。しかし、内なる私の密かな叫びは信仰の祈りとは程遠く、「どうか主よ、私の不信仰によってこの人の病がこれより悪化しませんように!」というような哀れっぽい祈りだったのです。

サタンはこの機会を十分に活用して私を食い物にしました。実際のところ私はひどく打ちのめされて、彼女の死は自分の所為だとまで思ったのです。自分はその婦人やご家族、また神ご自身の期待を裏切ったように感じました。 私には自分がエゼキエルが病気の羊を癒さなかったといって叱責している羊飼いの一人のように思われました。(エゼキエル34:4) 私にとって自分に正直に生きるためにはミニストリーを離れるしかありませんでした。

それで婦人が亡くなってからしばらくして、私たち家族はミシガン州を離れてアイオワ州の小さな農家に移り住みました。ミニストリーにもどりたいという願いはありましたが、それは主が再び召してくださるのでなければなりませんでした。

丸3年経ったときに、ついに再び主に仕えるときがやってきました。 このフェイス・チャーチで教えたり導いたりしようとしたわけです。しかし、過去の苦い経験の所為で、私のうちには不信仰という要塞が依然として残っていました。

非常に居心地の悪い月日でした。毎月この教会ではサテライトを使って特別のセミナーをみんなで見ていました。アメリカにいるすべての癒しや奇跡の信仰を掲げる教師たちが、自分の信じる真理を教えてくれました。それはマルコ11:23にある山をも動かす信仰か、あるいは、第三ヨハネ1:2からの繁栄の信仰を基礎にしているかのどちらかでした。

初めは私もまじめに見ているような振りをしていましたが、心の中ではどんどん疑問を持つようになりました。 サテライトからの教えは、偽りかもしくはバランスを欠いた教えであると私は確信するにいたりました。9ヶ月経ったときには、彼らが信仰に関する聖書箇所を間違って使っていると感じて、私は非常にイライラしていました。

プロジェクションTVの明かりがついているだけの暗い礼拝堂の中で、私は主に小さな声で、しかし怒りをもって文句をいいました。「主よ、フェイスを説く説教者はみんなこの聖書の箇所を間違って使っています!」
その途端、稲妻のように聖霊の声が私の心に響きました。「少なくとも彼らはその聖句を引用しているではないか!」

そうなのです。友人の死以来ずっと、それは数年に及びますが、私が教えるときはそのような聖書の箇所を使うのを避けてきました。聖書を読むときにもそこを見ることさえしなかったのです。自分個人の内的な葛藤の故に、神からの偉大な約束を見ても私の心は何も反応せず、その箇所を通りすぎてしまっていたのです。しかしそのとき、私は自分の心にリアルな信仰がなくなってしまっていたことにやっと気がつかされたのです。私の祈りはそれがかなえられることなど全く期待しないで、ただ口を動かしているだけのものになってしまっていたのです。

聖霊はなおも私に語ってくださいました。そして自分を正しいとする私を叱責してこういわれました。「わたしはいつでも不完全な人々を通してあなたに語るでしょう。あなたがそういう人々に対して批判的になった途端に、わたしがあなたに与えるために彼らに与えたものを、あなたは受けることができなくなります。」

その夜私は、自分の不信仰に関してだけではなく、プライドや人のあらさがしをしたことを悔い改めました。すると私の信仰は回復されたのです。それからの一年間は教会で癌の人や耳が聞こえなかった人、神経痛の人たちが癒されました。今でも私は、神がフェイス・ムーブメントを通して私に与えてくださったものを感謝しています。

不完全な人々を通して

主はこの経験を使って私に大いなる奥義を教えてくださいました。それは、私が霊的成長するための学びの多くは神が直接下さるのではなく、不完全な人々を通して神が語られるときに私がどれだけへりくだってそれを聞けるかにかかっているということです。癒しや奇跡を強調する教師たちに行き過ぎはあるでしょうか? 多分あるでしょう。しかし、神はご自分の知恵を色々な人や様々な教派の中に隠すことをよしとされていることを私は発見したのです。私が他の人々に対してへりくだればへりくだるほど、私の神を理解する範囲はどんどん広がっていくのです。

ある人はこう質問します。「不完全な教師からだまされるのが心配ではありませんか?」と。もし教師がまったく間違っているときは、私は直接その人に問い質します。しかし、沢山の聖書学者がこの世にはいて、人々がまっすぐで狭い道からそれないように目を光らせていることを神はご存知なのです。(その人たちをも私は感謝し
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