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Walk With God Ministries

08 09月

神の御国と教会のビジョン  リック・ジョイナー 9月8日


神の御国と教会のビジョン

リック・ジョイナー  

数週間前のことですが、私がここ数年来経験したことがなかったほどの、非常にパワフルなヴィジョンを二つ見ました。 一つは、この世を造られたときの主の御心を示すものであり、もう一つは現在主が最も切望しておられるのは何であるかを示すヴィジョンでした。それによって、神の御心の切なる願いとは、主の花嫁なる教会に対するものであることが私はわかったのです。神の花嫁に対する愛は非常に強いものであって、教会が神の御国のために存在するのではなくて、御国が教会のために存在するのだ、という真理を、私は二つのヴィジョンを通して深く理解したのでした。
これは、私の考えに新たな方向付けを与えるものであり、今まで2年間私の御国に関する学びを聞いてくださっていた皆様にも、それをお分かちしたいと思います。

神の御国について私がこれまでお話してきたことを、変えるわけではありませんが、何を一番にするかというプライオリティーが変わりました。主は被造物を愛しておられ、地球を愛しておられます。主はすべてのすずめを愛しておられるゆえに、一羽でも地に落ちたら気がつかれます。しかしながら、主がご自分の花嫁に対して抱いておられる愛に比べられるものは、何もないのです。私は二つのヴィジョンを主から見せていただき、教会は主の花嫁となる備えをせねばならないと、固く心に思ったのです。

教会がその目的を果たすためには、まず自分がどのように崇高な召しを受けているかを認識せねばなりません。確かに現実的には問題が沢山あり、それらについても言及せねばなりません。しかし、もっとも重要なことは、教会が主から離れては生きていけないほど、主を恋い慕うようになることなのです。婚姻の用意を調える花嫁は、主を愛するゆえに準備するのであって、自分の目標を達成したいという野心からではありません。勿論、花嫁は自分の目的を知りそれに喜びを見出すことは必要ですが、それは主の栄光を見ることにくらべれば、とるに足らないことです。

言うまでもなく、宇宙のどこを探しても、神よりも愛すべきお方はおりません。主の道は私たちがもつ最高のものよりも、はるかにずっと崇高なので、たとえほんのわずかであっても主を知れば、私たちはそれによってトランスフォームされます。ですから、教会が召された姿にまで成長するための鍵は、主を見つめることなのです。私が油注ぎをいただきたいと何にもまして望んでいるのは、このことです。即ち、私が主を指し示すと、主を慕い求める思いで花嫁の心が一杯になる、という油注ぎを求めているのです。勿論、先ず自分の心の中に主に対するそのような思いがなければ、人にもそれを分け与えることはできません。神を愛することは、私たちの一番の崇高な召しです。最も崇高な召しを達成する者とは、主を最も愛する者です。

私が今までの書いてきたものを読んだ方は、私が常に教会を大切にしてきたことがお分かりになると思います。私が書いたり説教したりするときは、いつも、すべてのクリスチャンは地域の教会に所属するべきであるという考えを伝えてきましたが、それは私がクリスチャンになってすぐに与えられた一つの信念によるのです。その信念とは、クリスチャンが真に成熟するためには、生き生きとした真摯な教会生活が必要不可欠であるということです。私はますますこの信念を深めていますが、それと同時にそれを与えることが出来る教会が非常に少ないことも知っています。教会と個々のクリスチャンが、それぞれ与えられた目的を果たすためには、両者が変わらねばなりませんし、必ずや変わっていきます。

しかしながら、たとえ不十分な教会であっても、教会にまったく属さないよりはずっといいのです。実際のところ、問題のない教会に属するより、まだ完全でない教会に属するほうがずっといいのです。私たちはキリストに似た者となるように召されていますが、そのためには教会生活の中で多くのフラストレーションを感じたりイライラさせられることが必要なのです。誰でも完全なものを愛することはできるでしょう。しかし、不完全なものを愛し助けるために忍耐の限りを尽くすことこそ、主がこの地上を歩かれたときに示された御性質です。今というシーズンは、私たちは未成熟なものといるほうが自分が成熟できるのです。もしキリストのからだなる教会がチャンとするまでどこにも属さないで待っていると、教会はどんどん進んでいってついにあなたは追いつけなくなってしまうでしょう!

神の御国はやってきます。御心が天で行われるように、この地でも行われるようになります。地上に打ち立てられる神の御国は、言葉では言い表せないほど栄光に満ちた素晴らしいものです。この地は最初に創造されたパラダイスに回復されます。しかし、教会にはそれよりも崇高な召しがあるのです。教会は天国の領域へと召されています。主と共に御座に座り、主と共に支配し治めるのです。 教会はまた、主の聖なる御性質をも持つことを許されます。霊的な人たちは人からよく「彼らは天国のことばかり考えていて地上では何の役にも立たない。」というお叱りをうけますが、実のところ、地上のことで心を満たしているクリスチャンは、地上でよい働きはできません。本当に天国が私たちの家にならなければ、地上でできることはあまりないのです。

主は過去20世紀の間、私たちクリスチャンに「御国が来ますように。」と祈らせてきました。けれども、主の花嫁の準備が整うまでは、御国は来ないのです。ですから、御国を来たらすために私たちができる一番効果的なことは、教会が召しにふさわしいものになるように助けることです。花嫁は天で主とともに座し、地上にいるよりも主の御そばこそ自分のいるべき場所であると感じるのが、その召しなのです。

この社会をトランスフォームしようとしている人たちを、私は感謝します。しかし、いろんなアイディアをもってなされるトランスフォーメーションは、教会を通して成し遂げられるのでなければ、非常に限られたものです。教会は山の上の光となるように、つまり、それを見るものが、その光の源は一体なんだろうと、どうしても探求したくなるような偉大な社会に教会がなるということです。教会は地上で神の御国になるようにと召されています。即ち、それは天からの社会、文化であり、堕落した世の中とは全く違う姿で大胆に立ち上がり、自分の王であられる神の知恵とご性質を世に表していくものになることです。ですから主のからだなる教会の中で人がコ
08 09月

引越し その3 坂 柚実子  9月8日


引越し その3

早いものでこのマンションに移ってから、もう2ヶ月がたちました。
しばらくは引越し荷物の整理に追われる毎日でしたが、夜になってプールで泳ぎ、ジャクジに入って空を見上げると星が輝いています。こんな素敵なところを与えてくださった神様に心から感謝しました。

このマンションは24時間体制で5人の警備員がいるのですが、その人たちとも仲良しになりました。周りの部屋の人たちとも少しずつ顔なじみになってきています。

私は朝散歩をするのが日課となりました。歩いて25分くらいのところにハナウマ・ベイがあります。日本からの観光客も沢山くる、スノーケリングで魚を見るのが楽しいところです。私は泳ぐのではなく、湾を上から眺めて帰ってきます。主人は夕方散歩に出ますが、マンションの斜向かいの高校のグラウンドで、少し走るようにもなりました。一度私も見にいったのですが、走るといっても歩いているのか走っているのかわからないほどの「走り」でした。でも長い間走ったことがなかったそうで、これは彼にとっては画期的なうれしいことのようです。

二人で散歩しないで別々にするのは、それぞれが「主と共に歩く」時間を楽しんでいるというとことかもしれません。夕方主人が出かけている間、私は残ってピアノを弾いて歌を歌ったり、掃除機をかけたりします。でも週末には二人で一緒にちょっと遠いところにハイキングに行ったりもします。

道では、散歩している人や走っている人に会いますが、両者の体型がはっきり違うことがわかります。走っている人は筋肉質で、スマートだということです。それに反して歩いている人は(私も含めて)少し太目な人がほとんどです。専門的なことはわかりませんが、歩くのと走るのはすごく違うらしい、というのが私の観察です。毎日の散歩で少しも体重が減らない私は、これは走るしかないか、と思っているところです。

「然はあれどエホバをまち望むものは新たなる力をえん
 また鷲のごとく翼をはりてのぼらん
 走れどもつかれず、歩めどもうまざるべし」イザヤ40:31

この聖句は広島の中原牧師が、少し年をとってきた主人のために書いてお軸にしてくださったものです。神様は私たちに「走れ!」といわれるときと「歩きなさい。」といわれるときがあるのかな、と思います。主を待ち望みつつ、歩いたり走ったり、主の号令のままに動けるように、霊肉ともに鍛えなければいけないと思っています。

このように私たちは新しい住まいを与えられたことを心から主に感謝し、次の一歩を踏み出そうとしているということで、引越しのご報告とさせていただきます。どうぞハワイにお越しの節はお知らせくださいますように。 (終わり)


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31 08月

団結して戦う   ヴィクトリア・ボイセン   8月31日


団結して戦う

ヴィクトリア・ボイソン

皆さん、敵は教会に対してもっと激しく攻撃をしかけようとしています。けれども神のご計画は、この敵の攻撃を使って、福音がもっと拡大するための扉を開くことなのです。

使徒行伝の教会

使徒行伝12章には、ヘロデ王による迫害が激しくなり、教会が衝撃をうけたことが書かれています。使徒ヤコブが剣で殺され、ペテロは捕えられて投獄され、厳しい監視のもとにおかれました。ヘロデは過ぎ越しの祭りの後にペテロを裁判にかけるつもりでしたが、教会はこの事態に驚いて、すぐさまある行動をとりました。彼らは祈りはじめたのです。

ヤコブを失った彼らは、ペテロをも失うかもしれないという危機に立たされ、よい応えを得るまでは絶対にやめないと決意して必死に祈り始めました。そして彼らは確かに天を動かしたのです。ペテロは奇跡的に天使によって牢獄から解放され自由にされました。教会は彼らの祈りに対する神の応答に圧倒され、ペテロが本当に自由になったことを信じられないほどでした。彼らが祈っていた家にペテロが着いたとき、彼らはあまりにも驚いて彼を天使だと思ったのでした。

主にある兄弟を救うために始められた彼らの祈りの戦いは、それから間もなくして彼らの敵であるヘロデ王の死という思ったよりも大きな結果を生み出しました。

主は今日、同じような出来事をきっかけとして、教会の中で大きなわざをしておられると、私は信じます。最初は、敵が急に襲ってきて、私たちは迫害が激しくなったことに驚かされます。しかし、初めは恐れを持ちますが、私たちは目を覚まし、敵の進撃をこれ以上絶対に許さないという決意の行動を取り始めます。

私たちの信仰は、敵の攻撃によって奮い立たされるのです。私たちの仲間の間になにか意見の相違があったとしても、敵の襲撃の前にはそれらはまったく取るに足らないものとなり、私たちは団結して戦うようになります。 私たちは祈りへと押し出され、防御します。しかし、自己防衛のために始められた戦いは、神の御国を拡大させるための戦いへと進展していくのです。

使徒行伝12章に描かれている教会は、ペテロを救いたいと熱心に祈りました。しかしながら、この祈りの結果は、彼らの敵の死という予想以上のものでした。ヘロデ王は民衆が彼を神だと称えたときにその栄光を神にきさなかったゆえに、主の使いによって殺されました。(使徒行伝12:22-23)そして神のみことばは、ますます盛んになり、教会には新しい改宗者が加えられました。24節を見て下さい。

皆さん、戦いは激しくなってきています。しかし、主は敵を使って私たちが戦うために目を覚まさせ、もっと大きな勝利を与えようとされているのです。

神から与えられている権威

主は、その至高の知恵をもって、恐ろしい状況が私たちの周りに起こるのを許され、それによって受動的で無関心状態の私たちを奮い立たせようとされるのです。小熊を守る母熊へと私たちを変えるのです。主は敵を使って私たちを眠りから目覚めさせ、義憤で満たし、どんなことをしてでも勝利を勝ち取るという、何物にもくじけない自己犠牲的愛を生まれさせます。神は私たちを立ち上がらせ、敵にむかって「それまで!」といわせようとしているのです。眠っている教会の目を覚まし、大胆に「もう十分だ!これ以上はさせない!」と言わせたいのです。

神はこう言っておられるのです。「いつまで敵の図々しい攻撃を我慢しているつもりか? 敵はお前が身動きがとれないほどの窮地に追いやっているではないか。お前のためにも、敵によってお前を苦しめるために使われた人たちのためにも、立ち上がるときだ。 お前を苦しめた人たちにむかって真理を語れ。彼らの報復を恐れるな。」

親が断固として「やめなさい!」というまで悪さをする子供のように、サタンは私たちが本気で「やめろ!」というまで攻撃してくるのです。私たちは今までサタンをなだめて譲歩しようとしてきましたが、実際に必要なのは、神から与えられている権威をもって堅く立つことです。堅くたって戦わないならば、私たちは敵に敗北するでしょう。なぜならば、敵は私たちがやめさせるまでは攻撃を決してやめないからです。

サタンよ、これでお前は終わりだ!

自分の愛する人たちが苦労していたり、人からひどい扱いを受けているのを見ることがあります。私たちはそれを見て心が痛みますが、それに関わることをしません。これは私たちを無関心にして人の事に巻き込まれたくないと思わせる敵の策略なのです。 彼らになにかアドバイスをしたり、どうしてそうなってしまったかを教えたりすることは簡単にできます。しかし、神が私たちの望まれるのは、彼らのために破れ口に立つことであり、彼らと共に敵と戦い、権威をもって「それまで!」と叫ぶことです。私たちは団結して勇士らしく共に戦わねばなりません。団結するとき、私たちは強いのです。

クリスチャンである私たちは、もはや自分のために生きるのではありません。今こそ他の人たちを自分よりも先にする、即ち、他の人の信仰を強めるために、自分の信仰を用いて彼らのためにとりなしをするときです。私たちが情熱を持ち続け、あるいは常に目を覚ました状態にいるためには、この信仰の戦いが必要なのです。 私たちの信仰が休眠状態になり、なまぬるい状態になると、敵の思わぬ襲撃にあうでしょう。

私たちの祈りには力があり、又常に祈ることが必要なのです。祈りによって守られます。サタンは祈りなど効果がないと私たちに思い込ませ、私たちを祈らせないようにして来ました。サタンの攻撃はここから始まることが多いのです。私たちに武器を放棄させることに成功すると、敵は私たちが無防備なときに襲撃することができます。私たちはどうでもいいようなことで忙しくするように惑わされ、攻撃されやすくなるのです。

私たちは戦うことに疲れてはいけません。神は私たちが武具をつけて戦いに備えることの重要性をご存知なので、私たちにその力を与えるためにはどんなことでもしてくださるのです。敵は教会に対する攻撃を増してきています。しかし、神のご計画は敵の攻撃を使って教会にもっと大きな勝利をもたらすことなのです。

敵の攻撃が続いても、恐れずに神が私たちに与える力を受けねばなりません。私たちは敵よりも力があり、敵をやっつけるのが神のご計画です。なぜならば「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よ り力があるからです。(Iヨハネ4:4)」敵は激しく攻めてくるかもしれませんが、私たちへの戦いに勝つことはできないのです!

このように宣言してください。「神は私を愛しておられる。主は私を緑の野に導き、私のたましいを生き返らせる。私のすべての必要を満たし、わざわいから守ってくださる。主は敵の策略を教えてくださる。私は主に聞き主の御心に従う。神は私を敵に勝利するものとしてくださる。私は主の声を聞き主の導きについてゆく。私は生き、主の言葉を宣言する。キリストにあって私は強く、私は勝利する!」

聖徒のみなさん、共に立って力強く叫ぼうではありませんか。

「サタンよ!お前はこれまでだ!」と。               〈終わり〉


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25 08月

ヴィジョンの復活    アル・トーマス    8月25日


神がいわれます。「ヴィジョンが復活する準備をせよ。」

アル・トーマス


神がいわれます。「まず死が先にこなければならない」

「ある者たちは、自分のヴィジョンがどうして達成できないか、どうして成果が現れないかが理解できない。 また、自分のミニストリーが考えていたように成長していかないのを不審に思う者たちもいる。しかし、ヴィジョンを達成するためには条件があるのだ。」

「復活が起こるためには、まず死が必要であることを忘れてはならない。自分のヴィジョンや願い、夢がわたし(神)からのものかどうか確信がないならば、それをひとまず地の中に埋めて、そこから立ち去れ。もし、それがわたしからのものであるならば、わたしがそれをよみがえらせる。」

「自分のヴィジョンを完全に埋めたかどうかはどうやったら知ることができると思うか? 何かが死んだかどうかを判断するのは簡単だ。死んだものは動かない。お前があれこれと様々なことをしてみても効果がなかった(実がならなかった)ならば、わたしは『お前のヴィジョンに死ね。』と言おう。死ねばわたしはお前を復活にむけて調えることができるからだ。もしお前が自分のヴィジョンを死なせることができるならば、(そしてそれがわたしからのヴィジョンならば)それは墓の中にとどまることはない。(Iコリント15;36)

 わたしが『ヴィジョンを埋めてしまえ。』と要求する理由は、わたしよりもヴィジョンのほうを大切にする者たちがいるからだ。ヴィジョンが彼らの偶像になってしまっているのだ。お前がヴィジョンを持っているのか、それともヴィジョンがお前を所有してしまっているのか?ヴィジョンはいかに偉大であったとしても、ヴィジョンを与えたわたしより偉大であることはありえない。 『自分の心を満たすためにミニストリーは必要ではない。』ということが、お前にわかるようになるだろう。お前に必要なのは、わたしなのだから。」

待つことの大切さ

「草は一夜にして育つが、樫の木が育つには何年もかかる。ある者たちは、わたしを待ち望まなかった故に、太陽(プレッシャー)が照りつけると草のように萎れてしまった。しかしわたしは、わたしを待つことを学んだ者を義の樫の木(イザヤ61:3)としよう。わたしの御心ではないことや、わたしのタイミングではないときに早まって事をなすことがないように心せよ。(伝道者の書3:1,7)」

「往々にして、わたしのスケジュール表はお前のものとは異なる。わたしの道はお前の道とは異なることをお前は知るだろう。(イザヤ55:8-9) わたしの臨在の中に座すことによってのみ、お前はわたしのタイミングを知ることができる。わたしの道を選択すれば(詩篇25:4)、物事を力まかせにコントロールしたり、強引に征服する必要がないことをお前は知るだろう。何事でもそれを始める前にはわたしの前でじっと静まることをお前は学んできた。行動を起こすタイミングはおのずと明らかになる。そのときにお前は動くのだ。わたしの前に静まることによってのみ聞くことができるわたしからの指示を、お前に与える。(詩篇46:10) わたしから『聞く』まえにわたしのためだと考えて『行動する』ことは間違いであることをお前は悟るであろう。」

「人々から『お前は何もしていないではないか。』と批判された者もあるであろう。人々はお前の信仰はもう死んでしまったとか、ミニストリーをもう放棄してしまったに違いないと思うのだ。しかし、お前とわたしは知っている。お前の信仰は死んだのではなく休止しているだけだ。やがてすぐにわたしは「続行・プレイ」のボタンを押すであろう。そうだ、わたしは突然(使徒行伝2:2)動くことができる。 それは待つという時間(使徒行伝1:4)をあなたが過ごしたからだ。わたしは決して走らない。わたしをのろまと呼ぶ者もあるだろう。多くの者が、わたしが愛であるゆえに(Iヨハネ4:8)ゆっくりしているのだということを悟らずに、わたしのタイミングを誤解する。愛が働くペースは異なり、それは内なる速さなのだ。わたしがゆっくりしているのは、お前がスローダウンしてわたしとの交りが可能になるためであり、わたしがお前に追いつくためではない。ある者たちは成功するために早いスピードで走る癖がついてしまっている。わたしはゆっくり動くが、(IIペテロ3:4)多くの事を成し遂げることができる。」

復活させられるのは主のみ

「休止状態になっている多くのミニストリーを、わたしはこれから復活させる。 以前失墜した者や人々から退けられたしもべたちを、わたしは回復させる。彼らの中には、あまりにも多くの機会が与えられるようになり、これは夢に違いないと思う者もあるほどであろう。しかし夢ではない。多くの者にとって遅延は終わった。それはお前が自分のヴィジョンと召命をわたしの手に委ねたからだ。お前はヴィジョンに死んだ。自分の力で成し遂げようとすることをやめた。(権勢によらず、力によらず、、、)どうやったら成長するかを分析したり、成長のために何かをしたり、どのくらい成長するか計算したり、成長度を計ったりという事を一切やめることを、お前は学んだ。そして、成長させるのはわたしであることをあなたははっきりと理解したのだ。(Iコリント3:6-7)」

「お前がわたしを待ち望み、わたしが働くのを許してくれた故に、わたしはお前のヴィジョンをよみがえらせる。お前が自分のヴィジョンからではなく、わたしとの交わりの関係から喜びを見出した故に(詩篇35:9)、わたしはお前のヴィジョンを今まさによみがえらせようとしている。『私は自分のミニストリーよりも主をもっと愛している』という素晴らしい真理が人々の霊の中で鳴り響くようになり、それによって主の軍隊が今まさに興されようとしている。

「よみがえりの備えをせよ。自分のヴィジョンからではなくわたしから力を得ることをお前は学んだ。ヴィジョンではなくわたしに焦点をあてることをお前は学んだ。それこそがお前の光であり(ヨハネ8:12)、お前に道を示す。(IIペテロ1:19) お前に聞こえる物音は、大きな収穫を刈り取るのを今まで妨げていたすべての障害物を、わたしが横に押しのけている音だ。(ヨハネ4:35-36) お前が動かせないと思っていたものも、わたしは取り除く。(マルコ9:23) 今まで偶像になってしまっていたミニストリーのヴィジョンは、今やお前の道具となった。元気を出して、上を見上げ、立ち上がる備えをせよ
21 08月

神の平安による勝利 フランシス フランジペン 8月21日


神の平安による勝利

フランシス フランジペン

真の平安とは、あなたが物事に無頓着で何が起こっても動揺しないということではありません。また、非常に「霊的」であるため、世の中で何が起こっているのか気にもしないので得るものでもありません。平安は、神が私を愛しておられるという確信から生じる実です。第一ヨハネ4:4の「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力がある」という真理をあなたが確信するときに、平安があなたの心に生まれます。平安は自分の手で得るものではなく、神の愛によって保証されるものなのです。

平和の神がサタンを砕く


霊的戦いを効果的にするためには、私たちは自分に与えられている霊的権威を理解し、それを行使せねばなりません。けれども霊的権威とは、自分の権威の下に人を押さえつけるものではありません。あなたが霊的権威を持つということは、かつて葛藤や抑圧で満ちていた場所に、神の平安を打ち立てるということなのです。ですから、あなたが真の権威をもって働くためには、まず自分のうちに平安を持たねばなりません。

使徒パウロは「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16:20)」と教えています。私たちが戦いの最中にも平安を保ち続けるならば、それは恐れとか抑圧をもって責めてくる敵に対して致命的打撃を与えることになります。私たちの勝利は決して私たちの感情や知性で勝ち取るものではありませんし、自分の目で見たことや耳で聞いたことで判断するのでもありません。 それは、神が言われたことは必ず成就すると確信する信仰からくるのです。

キリストの勝利を完全に味わいたいならば、周りで起こる状況に対して人間的にリアクトするのをやめねばなりません。何かに対して本当に権威を持つならば、それを見たときにあなたの心は何の心配も恐れも脅威も感じないはずです。あなたの中の平安が勝利のしるしです。イエスが激しい嵐に対して権威をもっておられた証拠は(マタイ8:23-27参照)、嵐に対してご自分が持っておられた平安を宣言し、それをもたらしたことです。主は嵐と戦うこともなく、恐れることもありませんでした。主は猛威をふるう暴風に立ち向かい、完全な平安の中にある主の権威をもってそれを治められました。

また、イエスがピラトの官邸で裁判にかけられたとき、そこは地獄の力によって人々が感情的な狂乱状態に陥っていましたが、キリストの周りには聖なる静寂が漂っていました。それは、どのような代価を払おうとも、父なる神の御心に従うことを決意されたイエスから流れ出る平安でした。神の御座の平安と静けさを、イエスの霊は完全に映し出していました。そしてイエスが裁かれていたはずの場面は、一瞬にしてサタンやピラト、また、イスラエルの宗教家たちが裁かれる場面と変えられたのです。

サタンが使う武器の倉庫は、恐れ、思い煩い、疑い、自己憐憫などで一杯に詰まっています。このような武器は私たちから平安を奪い、心を悩みで満たします。あなたの敵はどこから攻めてくるかわかりますか? あなたの周りの人間関係で、平安がないところがありますか? そこからサタンは攻めてくるのです。 逆にいえば、平安があるところには勝利があります。サタンがあなたにむかって火矢を投げてくるときにどれだけ平安を保っていられるかは、あなたがどれだけキリストの勝利の中を本当に歩いているかを示すバロメーターです。

パウロはピリピ1:28で、「また、どんなことがあっても、反対者たちにおどろかされることはないと。それは彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。」と言っています。あなたが平安を保ち、神のみ言葉に堅く立って動かされることがないことこそ、神の御心に服従しようとあなたが心を定めている証拠です。「どんなことがあっても反対者たちに驚かされることがない」という事実は、あなたが敵に対して権威を持っているというしるしでもあります。

平和をつくる者は神の子

平安は霊的な力です。平安は聖霊のもつ特性であり、あなたが平安のうちに歩むとき、あなたは力のうちを歩んでいるのです。平和をつくる者というのは、ただ単に戦争に反対する者というのではありません。それは霊と目的においてキリストに心から服従している故に、神の子と呼ばれるのにふさわしい者です。(マタイ5:9参照)その人が行くところには神も行かれ、神が行かれるところにはその人も行くのです。平和をつくる者は恐れず冷静で大胆です。燃える火が光と熱をまわりに放つように、その人からは平安が流れ出ます。

人生の戦いの中で平安を保つことは、敵をやっつける武器と実際なるのです。揺るがない確信をもって立つあなたの姿は、サタンのうそに決して騙されないことをはっきり表わしています。敵に対して霊的権威を持つための第一歩は、どのような状況に置かれても平安を持ち続けることなのです。イエスは悪魔と対面したときも、感情的になったり恐れたりはしませんでした。サタンが偽り者であることをご存知であった主は、神以外の声に影響されることを堅く拒みました。主の平安はサタンを圧倒しました。そして主の権威はうそを打ち破り、サタンは逃げ去りました。

治める前に安息する

詩篇23:4で、ダビデは「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」と言っています。神と共に歩くときに、わざわいを全く恐れなくなることが可能なのです。ダビデは人生の中で、ライオンや熊や巨人を始めとして沢山の敵に遭遇せねばなりませんでした。この詩篇で彼は「死の陰の谷」にいるときもわざわいを恐れなかったといっています。ダビデは主に信頼していました。「あなたが私とともにおられますから。」といっています。神がともにおられますから、あなたが遭遇するすべての困難は、神に信頼するときすべて勝利となるのです。ダビデは続けて5節で「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」といっています。今あなたが戦っている戦いは、もうすぐあなたの食事となるのです。即ち、それはあなたを養い霊的に立て上げる経験となるのです。

戦いの最中にあなたが肉的にリアクトしてしまうのを鎮めることができるのは、神の平安だけです。神の平安は神ご自身からのみ来るものです。「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。」と黙示録4:6にあります。ガ
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