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Walk With God Ministries


18 06月

あなたの中におられる栄光に目覚めよ   チャック・ピヤース   6月18日



あなたの中におられる栄光に目覚めよ

チャック ・ ピヤース

先週末のペンテコステの集まりで主から一つのことばが与えられました。それは「わたしはスプーンを取り上げ、アメリカの中心部分であるインディアナ州、イリノイ州、アイオア州の泥をかき混ぜる。」と言うものでした。その後雨が降り始めました。そしてフランシス・フランジペイン師からの知らせでは「アイオア州、特にシーダー・ラピッツ市の周辺、その中でも特に市の中心部は歴史的に5百年に一度起きるか起きないかの洪水に襲われている……」と言うものでした。

以前にダッチ・シーツ師と全米を廻って各州で主からいただいた預言の言葉を本にしましたが、それを紐解いてみると、ウイスコンシン州での主のことばは「この州はわたしの川々(の水源)がある州である。これらの多くの川の水位が上昇するときは警戒せよ。」と書いてありました。


私は最近、創造主なる神の創造の力の大きさについて考えていました。私たちのまわりがたとえ混沌とした状況であっても、聖霊なる神によって覆われ、主の声が発せられるならば、混乱の力と闇は打ち破られ、そこに新たな秩序が創られるのです。
あなたがまだ主をご存知ないのでしたら、主があなたをある目的をもって創造されたことと、主があなたと交わりたいと願っておられることを覚えてください。主こそ地球の最高司令官です。

これは理解していない人が多いのですが、私たちの人生に起る総てのことは主の(ご計画と目的の)為に最善なこととして起るのであり、その起る総てを私たちが主からのものとして従順に受け入れ、神を賛美するならば、総てのことが究極的に私たちにとってすばらしい益となるのです。 あなたの人生に起ることは総て神の創造の力によるものであると、神のなさることに合意一致すればするほど、あなたはあせったりいらいらしたりすることが減っていくでしょう。 自分の心と霊の深みを探り、主の声に耳を傾けてください。主のされることは、すべてあなたのためなのです。
主の声に耳を傾ける時、あなたは人間的に得られるどんな平穏よりもより深い平安を得ることができるでしょう。

私たちは極度のストレスを溜め込まないように、自分を守らねばなりません。私たちの健康上の問題の多くは、ストレスと心配に由来しています。たとえあなたの周りに混乱があり、激動があり、混沌としている状態であっても、あなたがしっかり主に聞き従うならば、創造主なる神はそこに秩序をもたらし、あなたは主に一致した人生を送ることができるのです。

私たちは、喜んで主のみこころを行うようにしなければなりません。「落胆」という言葉をあなたの辞書からとり除いてください!そうすれば、性格的な欠点や低い自己イメージが、神があなたに計画された最高の性格とセルフイメージになるように変えられて行でしょう。そしてあなたは自分の目標に到達するための力を得ます。それは人間的な理屈、自分の評価とか判断によっては決して得られない力なのです。今こそ、あなたの中に主が与えて下さっている最高のものを、あなたが見つけるシーズンです。

今週の火曜日の祈りのときに、主は詩篇16:5-11を与えてくださいました。

「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」


あなたのうちには主の栄光がおられ、主は今、それが現われるように召し出しておられるのです。あなたのうちなる栄光を大いに喜ばせ、それによってあなたの家系の罪が逃げ出すのを見張っていてください。(終わり)


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14 06月

現在のリバイバルの経過と未来(パート2) リック・ジョイナー 6月14日


現在のリバイバルの経過と未来(パート2)

リック・ジョイナー

アメリカのいろいろな場所やヨーロッパからも知らせが入ってきていますが、みな同じことを報告しています。それは、癒しや奇跡が、今まで見なかったような高度なレベルで起っているということです。今は神が神の民を訪れてくださっているすばらしい時です。しかし、これは、もっと偉大な神の働きが生まれ出る時―それは今年の9、10月に起ると私は思うのですが―のために私たちを備えるための霊的陣痛に過ぎないと、私は信じます。
私たちには9月21日(2008)が大切な日になると示されています。しかし、私たちは「一部分を見」、「一部分を預言する」(第一コリント13:9参照)のですから、その日に実際起きるのかどうかを宣言することができませんが、それがアメリカのリバイバルに関しての重要な日になることは断言できます。

今までの2ヶ月間は、神が奇跡をなさる方であるという信仰は劇的に大きくなりました。そして主はその信仰に応えてくださる方です。信仰が増すにつれ、神がもっと動いてくださり、それによって信仰がもっと増えていきます。その結果、主がもっと偉大なことをしてくださるのです。これを続けていこうではありませんか?

今経験していることがすでに全く驚くべきことなのですが、真に聖書的に「あるべきノーマルな姿」に到達するには、まだまだ上に上っていかねばなりません。新しい神との契約を握っているクリスチャンとしては、聖書の中に書かれていること全部が現在でも起ることを期待する権利があるのです。主は今もその時と同じ主であられます。主の名前は「I was」とか「I will be」ではなく、「I AM」 なのです。
使徒行伝の時代の教会にご臨在された同じ聖霊が、私たちと共に今もいてくださいます。すべてのクリスチャンは使徒パウロが持っていたのと同じ聖霊を持っているのですから、パウロを通して働いたのと同じ力を期待することができるのです。

第二コリント3章で、モーセは主の栄光を見て顔におおいをかけねばならないほどでしたが、私たちクリスチャンはそれよりも更にすぐれた栄光を見ることが出来るといっています。
私たちはもっと栄光のある「よりすぐれた契約」を与えられているのですから、今その栄光を見てそれを経験することを当然の権利として受け取る者たちが今起って来ているのです。これこそ主が長い間待ち望んでおられたことでした。
私たちが新しい契約の総ての特権の中を歩むことができるように、主イエスがその代価を払ってくださったのですから、その中を歩むことが出来るのは私たちだけではありません。私たちに適用された神の正義は、私たちが受けるにふさわしいからではなく、主こそが受けるにふさわしい方なのであり、ご自分がそのために最大の代価を払われた新しい契約のすべての特権を、ご自分の民が受けて喜ぶことこそ、主が受けるにふさわしい当然の権利であるのです。

 奇跡を見ることは、人々を力づけます。神が再び動かれ始めたので、人の力を超えた多くの業が私たちの中にいま起っています。それはまさに神の業に違いありません。真理もまた、私たちを力づけます。これらの業をなしておられる聖霊は、真理の御霊でもあられ、今人々の上に真理を愛する心を注ごうとしておられます。それは新しい契約に関する真理から始められ、もうすべて代価が払われているので私たちはすべての特権を受けることができるという真理です。神のもっとも基礎的な義は、神の民が天国の市民としてのすべての特権を受けることにあります。それによって、天の御国は彼らを通じてこの地にこれからももたらされ続けるでしょう。

10人の斥候によってもたらされた悪い報告を信じて来なかった、新しい世代の人々が今持ち場に着こうとしています。彼らはヨシュアとカレブによってもたらされた信仰ある報告に自分たちを合わせました。それは自分たちに与えられた土地を受け継ぐには、巨人がどれほど大きいかとか、自分たちがどれほど小さいかとかには全く関係がなく、神がどれほど偉大であるかと言う信仰にかかっているということです。彼らは今ヨルダン川の岸辺に立ち、川を越えて自分たちの約束の地を勝ち取る準備ができています。


高校生たちが身体障害者、盲人、聾唖者、又不治の病を持っている人たちのために神は必ず癒されると信じて祈り、そして往々にしてそれが起るのを見ることは、いまだに非常な驚きです。幾晩か前のことですが、部屋の後方が騒がしくなりました。見ると、女子の高校生二人が、車イスの若い男性のために祈ったところ、彼は直ぐに立ち上がり歩き始めたのでした。彼は多発性硬化症(MS)で、もう7年間歩いたことがなかったのです。彼はそれから間もなく車イスに戻りましたが、それは病が戻ったためではなく、筋肉を長く使っていなかったので、疲れたからでした。彼のために祈った二人の高校生に話しましたが、
彼女たちは確かに喜んでいましたが、興奮しすぎということはありませんでした。というのは、彼らが祈るときに主がこのようなことをしてくださるのを、今はいつも経験しているからです。超自然的な奇跡が、自然なことである世代が、今現実に起っているのです。

知恵とは基本的に知識と経験の正しいコンビネーションです。しかし、これから出て来る世代の人たちが持つ知識と経験は、どちらも過去の世代のものとは違ってくるでしょう。私の年代の多くの人たちは、主は今も癒したり奇跡を起されたりすることを一応信じますが、めったにそれらを見ることが出来なかったために、彼らは信仰に対して冷ややかな思いを持つようになりました。そのような人たちの中には、信仰を持っても何も起らない時に失望しないようにという配慮から、台頭する若者たちの信仰にブレーキを掛けるようなことをしている人たちがいます。もしそうであるなら私たちは急いで悔い改めねばなりません。 

主は約束の地に入るように選ばれた人たちにとって妨げとなるような不信仰な世代の人たちを先ず完全に取り除きました。主は今の時代において、もし私たちが同じような不信仰の世代であってよしとするのであれば、そのような私たちを主は取り去られるでしょう。私たちは、敵がいかに大きいかとか、私たちがいかに弱いかで心を煩わされるのではなく、いかに偉大な神であるかと言う信仰によって敵に勝てる決意をしたヨシュアとかカレブになれるのです。私たちが主を本当に信じる時に主が総てに打ち勝って下さいます。

失望は不信仰ほど悪いものではありません。信仰を持つ ように励まし、そして奇跡が起ることを期待してください。これから起ろうとしている世代が持つ経験は、過去の世代が持ったものとは違うでしょう。神を信じることは常に真の知恵です。そして信仰がなくては神を喜ばせることはできませんし、神への真の信仰は決して失望に終わることはありません。失望することを恐れたり、避けようとするような霊を持って生きることは、必ず失望におわります。
 

今ヘリテイジで起っていることに関していくつか興味ある点があることに気がつきました。今ブレイクスルーを経験している人たちにも参考になることかもしれませんので、下記に記します。

一つの傾向

最大の奇跡は往々にして、人がほとんど帰ってしまった後で起きたということがまず第一にいえます。集会後の時間は「残照 残り火の光輝 afterglow」と呼ばれるもので、人々が集会で起ったことを小声で話しているようなときです。主はどうしてそのようなときに力強く働かれるのでしょうか?

人間的なエネルギー、興奮と信仰とは、時として見分けがつきにくいものですが、違うものです。真の信仰は多くの場合興奮を伴い、常に期待感を伴います。しかし、それはいつも同じではなく、往々にして間違いやすいものです。
真の信仰は静かなときもありますし、非常に控えめなこともあります。真の高揚も時として非常に静かで控えめです。また、両者とも大きな声ではしゃぐときもあります。みんな主によって違うように造られているからです。

私がドイツやスイス、スカンディナビア地方でミニストリーを始めた当初は、彼らの懐疑心の深いのには面くらいました。その時主が私に、彼らの懐疑心は悪いものではなく、良いものだといわれました。主に悟りを下さるように願ったところ、良い懐疑心は信じたいからのものであることと、彼らは私をくまなくチェックするから、私が本物をちゃんと持っていることが重要だと、主は教えてくださいました。これは「ベレヤの人々の信仰」であり、彼らはパウロの教えに心を開くと共に、すべてのことを聖書に照らし合わせて調べました。
それとは違い、悪い懐疑心は、疑いの思いが強く、あるかないかの小さな証拠で自分たちの猜疑心を肯定し、それをくつがえす証拠が山ほどあっても受け入れないのです。

良い懐疑心を持つ人たちとは一緒にやっていく価値があります。何度も訪れたときに、私の教えを疑っていたかに見えた人たちは、実はそのことを深く考察していたのであり、何年もたってから彼らは私が昔教えたことを細部にわたって言うことができるばかりか、それを検討し正しいと認めたときに彼らはその教えを実行して生きる人たちとなっていたのです。
これとは反対に、私の話を集会で聞いた時にはもっとも興奮したように見えた人たちで、その集会の直後にすでに何を聞いたのかを忘れて言えないような人にも沢山会いました。何年か後になって、そのような人たちは集会中昔と同じように非常に興奮しますが、その人たちの日常生活には真の霊的成長がほとんど見られないのです。
あなたならどちらの聴衆がいいですか? 興奮して聞いてくれる人に向かって話すのは楽しいかもしれませんが、本当に残る実のために私は深くものごとを考える人を選びます。
もちろん、興奮を身体に表して、しかも深い信仰をもつ忠実な人もいるでしょう。私が言いたいのは、肉によって見えることだけで判断しないで、霊によって判断せねばならないということです。

聖書の中で、イエスは水の上を歩くというような偉大な奇跡を、ほんの少人数しか見ていないところで行われました。大きな癒しの奇跡のあとには、誰にも話してはいけない、ただ祭司のところにいって神の感謝をささげよと言われました。どうしてイエスはみんなに話してもっと多くの人たちが自分を信じるようにされなかったのでしょうか?

ここに特異な真理があります。神はご自分を信じさせるために人を癒されたことはほとんどないのです。多くの場合、主を信じていた人たちだけを癒されました。もし神が、人々が信じるようになるために奇跡を起したいのであれば、ただ病人や盲人を癒すよりももっと大きな奇跡をされたことでしょう。ユダヤ人は天からのしるしを求めたのはそれでした。彼らは、太陽を止めるというヨシュアがしたような天のしるしをイエスに求めたのです。太陽を止めたり、ご自分の名前を天に星を並べて書くことによって誰も主を否むことが出来ないようにすることは、今日主にとって容易いことです。しかし、主がされようとしているのは、そんなことではないのです。

主が大きな奇跡をされた後、多くの者はその御業のゆえにもっと心をかたくなにし、もっと激しく主を迫害しました。彼らは心がかたくなで、主が死人をよみがえらせたときに主を殺そうと心に決めたのでした。偉大な奇跡や信仰は、人々をイエスへの信仰に呼び寄せるのではなく、大抵更なる迫害を起すのです。これと同じことが使徒やステパノに起ったことが使徒行伝を見ればわかります。

今主がしておられることを見て主を信じる人が大勢起されることは予測できますが、それは必ずしも奇跡が直接的な原因ではなく、聖霊の力を受けて大胆にされたクリスチャンが語る福音のメッセージによると思います。伝道は奇跡により頼むのではなく、聖霊が人々の罪を示し、彼らが十字架の贖いを必要としていることをはっきり悟らせることが真の伝道の方法です。勿論例外もあるでしょうし、奇跡を見てとか、病がいやされたから主を信じるようになった人を知っているかもしれませんが、それは主に仕えるようになった人の中では非常に少ないケースだと思います。10人の癒された盲人のうち、一人だけが主に感謝するために戻ってきました。主は人々を愛する故に今も癒しの業を行ってくださいます。しかし、最大の奇跡であっても、一人の主の後を追って仕える者を生み出さないこともありえるのです。

神は人を愛するゆえに癒しを行ってくださいます。人々が苦しむのを見ることを好まれません。神は私たちが奇跡を必要としているので、奇跡を起してくださいます。癒しのミニストリーには憐れみの心が絶対に欠かせない理由がここにあります。それは人間的な憐れみではなく神の憐れみであり、人間的憐れみとの区別をつけることを私たちは学ぶ必要があります。
人間的憐れみからとか、あるいは奇跡をもって主を証ししようとする人たちは、多分シロアムの池のまわりにいた総ての人を癒そうとしたことでしょう。しかし、神の憐れみはイエスにただ一人の人を癒すように導かれました。イエスがその男の
09 06月

聖霊による新しい力を得るには  坂 達也   6月9日


聖霊による新しい力を得るには 
―2008年のペンテコステの日曜日に際して―


イエスがヨルダン川でヨハネからバプテズマを受けた時、天が開いて聖霊がイエスの上に下りました。イエスはこの地上での御国を打ち立てるミニストリーを始めるに先立って、父が聖霊を送って下さることによって力を得られました。

イエスが昇天された後、使徒を含む120人が心を一つとして、アパー・ルームに集まって熱心に主を待ち望みました。そしてペンテコステの日に聖霊が下り、キリストの弟子たちは大いなる聖霊の力を得ました。その使徒たちを通して、ものすごいリバイバルが起きたのです。
又、このペンテコステの日に事実上、御国の教会が誕生したと言うことが出来ます。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒行伝1:8)
それ以来二千年間、主は地域と時に応じて、聖霊の力を私たち教会に下され、それによって世界中にリバイバルが起きました。  

今フロリダ州レイクランドの一教会の集会(タッド・ベントレー師による)から端を発した「いやしのアウトポアリング」(噴出、発露)は、サウス・カロライナ州のリック・ジョイナー師のモーニングスター・ミニストリーを始め、世界中に飛び火しつつあり、私の知っている限り、オレゴン州でもこのハワイにもその火が燃え始めました。これは明らかに、神が聖霊を下されることによって起こるリバイバルの前触れと言って差支えないと思います。

私たち世界中に散在する、力のない弱い教会は、今こそ聖霊が下って得られる力、第二、第三のペンテコステを必要としているのではないでしょうか。
もし、レイクランドに起りつつあるリバイバルが、世界に広がることを主が初めから意図されているとすれば、多くの人が「私もそれに参加したい」、「どうしても火を持ち帰りたい」「乗り遅れるべきではない」と言う思い(一見人間的な感情のようですが)を持つのは、あるいは主のご計画であるのかもしれません。
総てのことは主がなさっておられるのですから、本当に主から示されたと信じる人は、ぜひ信仰を持って燃える火元を訪ねて下さい。ついては、私はそのような人が真の火付け役、真の聖火を運ぶ人になるために、次のことを申し上げたいと思います。

それは、この「リバイバル的な出来事」を私たちは単に「現象」として捉えてはならないと言うことです。それでは、どう捉えたらよいのか―それは神が起されるものすごいサイン&ワンダーを、現象としてだけ見るのではなく、それをされているのは誰であるかをはっきり認識し、火を起こされている天の父と御子をもっと近く寄って見つめるということです。これはちょうどモーセが燃えているが燃え尽きない柴を見て、それをもっと見ようと近づいたのと同じです。

エリシャはエリヤに二倍の分け前を要求しました。それに対してエリヤは、私が取り去られる時にあなたが私を見ることができれば、それがかなえられるとエリシャに言いました。(2列王記2:10)その後一台の火の戦車と火の馬が現われ、二人を分けましたが、エリヤはたつまきに乗って天へ上って行きました。
このたつまきと言うのは、ちょうどイスラエルの民をエジプトから荒野へ導いた「雲の柱」と同じで、主の臨在を表しています。タッド・ベントレー師のフロリダでのミニストリーにおいても、そこには毎夜濃厚な主の臨在が満ちていると言われます。
エリシャは、主ご自身が来られてエリヤを天に取られるのを見ていました。戦車と火の馬に目を奪われるかどうかがテストされましたが、エリシャはあくまでエリヤを見つめていたのです。

それはヨハネ14:12でイエスが「…わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」と言われ、主イエスが父のみもとに昇天されるのを弟子たちが見ていた(使徒1:9)ことに通じると思います。

リバイバルを起されるのは、総て父と子と聖霊による神の救いの御業であることを忘れてはなりません。聖霊が下って主が顕著にご臨在される時、一度に多くの人が倒れたり、震えたりします。そして一度に多くの人がいやされたり、救われたりするのですからマス・プロダクションであり、人間的に見ればこれは確かに顕著な「現象」に見えることは否めません。しかし、実際にはいかなる救いのみ業であっても、あくまで神と人間とのパーソナルな関係においてなされるのであり、個人的に起ることとして捉えなければならないと思います。
神は人間と違い、一度に何百人の人に同時に個人的にお話が出来る方です。その意味でリバイバルはあくまでも個人ベースで起っていると見るべきでありましょう。

十字架についた父の愛、ひいては、実際に肉の形で私たち個人のために死んで下さったイエスの愛は、人間一人一人をとことん個人的に愛する愛です。概念ではありません。父にとって、人間一人一人がかけがえのない、愛して止まない息子であり、娘です。そして、父の愛を受ける人とは、父に「選ばれた人」であるのです。

私は今回の春の日本旅行で色々なメッセージを取り次がせていただきましたが、その中心となるものは天の父の愛についてでした。
父の一人子である小羊イエスが、私たちのために約二千年前に十字架でほふられたことはクリスチャンなら誰でも知っている事実ですが、その前に有史以前から、天の父ご自身が「ほふられた小羊(父)」であることを黙示録13:9「地に住むも者で、世の初めからほふられた小羊…」(新改訳*別訳、英語欣定訳等)と言う聖句から説き起こしました。
何故なら、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができない、父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19)と書かれてあるからです。御子は父が「十字架にかかった小羊」そのものであることを見て知っていたからご自身も同じようにされたのです。

「先ず自分に死ぬ」と言う十字架にかかった父の愛(の御性質)こそが、総ての宇宙の創造の原動力となりました。父は総てを子のため、私たちのために、とてつもなく大きく、とてつもなくすばらしい宇宙(究極の天国・パラダイス)を創られたのです。

私たちがその燃えるような父の愛のリバイバルの火を運ぶ人(今回のリバイバルだけでなく、将来 においても)であるならば、その人が先ず聖霊に触れられてキリストに似た愛の人に変えられる必要があり、神はその人を圧倒的な聖霊の臨在の中で取り扱われ変えられると思います。

その意味において、火を運ぶ人にとって気をつけねばならないことは、あくまでその人は「へりくだる人」でなければならないことです。リバイバルが起っている現場に行けば、その人は濃厚なご臨在の中で、神から大きな聖霊の「油注ぎ」を受けます。
確かに私たちは何をするにも神からの油注ぎが必要です。この油注ぎは主の命令を実行するための特別の力です。しかし、それ故に持ち帰ったところで火が点くとしても、その燃える火が大きくなるにつれ、自分にそのような特別の力「能力」があると受け取ってしまう危険性があることです。それがプライドとなった時に過去において多くのリバイバルは止まりました。リバイバルが起ったところでは、往々にしてそれが終わったあとの状態は、リバイバルの前よりも悪くなると言われます。

主の元で主に従って働く私たちには、重ねて言いますが、絶対に「へりくだり」が必要です。それは父の十字架の愛を運ぶ私たちが、イエスがされたように、先ず自分自身を十字架につけなければならないことを意味します。

主のいやしは、リバイバルの時でなくても身の回りで多く起こっています。又、過去においては多くの場合、いやしの賜物をいただいた人を通して起されました。しかし、イエスに育てられた使徒たちがあれだけのいやしの器になれたのは、彼らが単にその賜物をいただいたからではないと思います。彼らの内に愛が成熟し、イエスに似た者となって十字架の愛と憐れみの心を持つようになったから、彼らは永続的に人を癒す器として用いられたのであると思います。

私もこの二、三年、日本の教会を廻るに際して、何とか癒しが起ることを願って主に祈り続けて来ました。それはいやしの賜物を下さいという祈りからではありませんでした。私たちが「キリストの弟子」として成熟するにつれ、主の愛の力の発露の管として主が用いて下さる「弟子」になりたいからです。今回の旅行でも各地で信仰によって癒しを祈り、信仰で確かにいやされたと信じ、その確信をもって今でも感謝し続けております。

そこでペンテコステの時のように圧倒的な聖霊の力が下る条件とも言うべきものは何であるかを考えてみたいと思います。

イエスが地上での宣教を開始された時、イエスはあくまでも父の全き御心のみを行う決意をされておりました。もう一度その御言葉を引用します。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができない、父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19)そして、総てにおいて父を見上げ、父の指示を待ちました。そのイエスの上に目に見える形で圧倒的な聖霊が下りました。
そして、使徒の時代のペンテコステの日に、主だけを待ち望む使徒たちの上に大いなる聖霊の炎が下りました。

イエスが弟子に教えられたことも、極論を言えば、この「愛する父に忠実な者となること」だけであったと言えます。
聖書は初めから終わりまで「神の御声に聞き従う」という忠実性を要求しております。そのためには私たちは主を見上げ、主の指示を待たねばなりません。自分のアイデアとか考えで事を運んではならないのです。
それが「日毎に自分の十字架を担ぐ」あるいは「自分に死ぬ」ことの意味であり、キリストの真の弟子であるクリスチャンとは「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)を実行する者になることです。

そのような主に個人的に飢え乾き、待ち望む人を今主は真剣に求めておられます。これがペンテコステの聖霊が下る条件であると信じます。

それ故に、主を見上げ主の御心を行うことだけを願って止まない人の上には、必ず個人的に、あるいはリバイバルと言う形を通して、これからは波状的に聖霊の大いなる「油注ぎ」が下ると信じます。何故なら主の忠実な働き手が「父のビジネス」を実行するには、その特別な「圧倒的油注ぎ」が絶対に必要であり、今こそ働き手を必要とする、大いなる最後の収穫の時が迫っているからです。

私は今アメリカを中心に起り始めているリバイバルの前触れが、その昔使徒たちの上に下ったような激しい聖霊のアウトポアリングに発展するかどうかはまだ分かりません。しかし、必ず来ます。何度も何度も段々激しくなって、最後の頂点では今までのリバイバルをはるかに越えた「聖霊の圧倒的働きの時代」になると信じます。

よみがえりの主が昇天するのを見た使徒たちのように、私たちも霊的に主を見ることが出来ます。今こそ、彼らのように主を見上げ、主を熱心に待ち望もうではありませんか。(終わり)

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05 06月

現在のリバイバルの経過と将来 (その1) リック・ジョイナー 6月5日


現在のリバイバルの経過とその将来 (その1)

リック・ジョイナー

非常にすばらしい神の動きが、今、アメリカで起っています。フロリダ州レイクランドで始まったリバイバルは目を見張らせるほどすごいものであり、しかも急速度で進展しています。私たちのミニストリーであるサウス・キャロライナ州フォートミルにあるヘリテイジ(Heritage International Ministries)の本部でも、同じようなリバイバルが起っていて、それは、ある意味では、今までの私たちのすべての経験をはるかに超えたものです。ここでも神の動きはますます激しくなってきているようで、多くの人々が神を体験するために遠くから訪れ始めました。霊のレーダーには、他の場所での神の動きに関するニュースも次々に入ってきております。

これは一体どういうことなのでしょうか? どこに向かって進んでいるのでしょうか? そして、どのような実を結ぶのでしょうか?これらの質問に答えることは、たとえ今はまだ部分的にしか答えられないとしても、大変重要なことです。私たちは一部分だけ見ることができ、一部分だけを知り、一部分だけ預言をします。確かに私たちは一部分しか把握していないことはわかっていますが、道をあやまらないためには、その一部分をしっかりと理解し、悟る必要があります。今起っていることを理解すればするほど、私たちはもっと前進することができ、より大きなインパクトを与えることができるのです。

私たちが今までに経験したことだけでも、すでに十分驚くほどすばらしいことなのですが、実はこれはリバイバルのほんの胎芽期にすぎないのです。今起り始めたことは実に、リバイバルを超えたもっとすばらしいものになる可能性を持っています。これはアメリカの次の「大覚醒 Great Awakening」、即ち、アメリカ全土に衝撃的なインパクトを与える国家的霊的リニューアルの始まりかもしれません。もし私たちがコースを踏み外さなければ、この国に神の御国を到来させる道備えが出来るのです。この覚醒なくして、アメリカは今までのような大国家として生き延びることはできず、スーパーパワーの抜け殻のようになってしまうでしょう。ですからアメリカに覚醒が起きるのは非常に重要なのです。

真のリバイバルは、ある教会が一週間の集会を計画することとは比較にならない程大きなものです。リバイバルはよみがえりの力であり、再び命を与えることであり、それこそがまさに今アメリカの教会が必要としていることです。アメリカで一番よい教会であったとしても、その教会には少なくともリニューアルや聖霊の新たな動きが必要です。しかし、ほとんどの教会は実際にリバイバルを必要としています。なぜならば、多くの教会は死んだ状態から生き返る必要があるからです。リニューアルであれ、リバイバルであれ、私たちは今神が送ってくださっているものをへりくだって感謝して受け取らねばなりません。その謙虚さを見て、神は私たちにさらに恵みを与えてくださるでしょう。

私たちはこのリバイバルをどうやって受け取ったらいいのでしょうか? レイクランドやヘリテイジ、またはどこでも神の動きが起っているところに行ってください。真のリバイバルは伝染していくものです。今ヘリテイジで起っていることは、レイクランドのリバイバルに行った二人の学生によって引き起こされました。彼らがレイクランドに行ったときの体験をバイブルクラスで話していたときに、竜巻のようなものがその部屋にやってきたのです。たちまち私たちの二つの学校と、そのスタッフ、そして学校に子どもを迎えにきた親たちまでもが、今まで経験したことがないと程のものすごい主の臨在の中にまき込まれていったのです。

主の臨在があまりにも強いので、私たちは毎晩集会を続けるほかはありませんでした。今それから一週間以上経ちましたが、臨在は弱まるどころかだんだん増し加わっています。私は多くの超自然的な経験をしてきましたが、現在の集会中は主の臨在があまりにも強くて、すべての者が恐れで一杯になることもあります。

C.S.ルイスはアスランというライオンを、キリストの型として描いていますが、「彼はおとなしいライオンではない」と書いています。集会の中で、油注ぎがだんだん弱くなっていく、と思った瞬間に、油注ぎの一番強い波が押し寄せてきて、私たちをよろめかすのです。チームの者の多くは、今までにも多くのリバイバルやリニューアル、その他の神の動きを経験してきていますが、今回の神の訪れの中で彼らがどれほど怯えているかを見るのは、私にとっても驚きであり畏れを感じさせるのに十分です。建物の中に誰もいなくなった時でさえ、背筋がぞっとするような臨在があります。いままでもこれに似たことはありましたが、これ程ではありませんでした。今回は本当に違います。

ヘリテイジで起っていることも、やはり伝染力があるようです。ヘリテイジで起っていることをEメールで読んだり、又ある場合などは、ヘリテイジのリバイバルの現場からの携帯電話を受けただけで、神の力に打ちのめされ、その人がいる地域でリバイバルが起り始めたという報告が入ってきています。それはちょうど、乾ききった薪の上に真っ赤に燃えた石炭のかたまりを投げ込むようなものです。(終わり)

(以上は4月30日付けで書かれたジョイナー師のメッセージ-<パート1.>の一部ですが、取り急ぎこれを今起り始めたリバイバルの速報としてお届けします。)


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04 06月

フロリダ州レイクランドでのタッド・ベントレー師の癒しの集会について  坂 達也 6月4日


フロリダ州レイクランドでのタッド・ベントレー師の癒しの集会について

大阪堺市鳳の関西ハレルヤチャーチ小山良子先生より下記のすばらしいコメントが寄せられましたのでぜひ皆様にお分かちしたいと思います。

『 坂先生のHPに記載された「フロリダ州レイクランドにあるイグナイテッド・チャーチ(千人収容)で始まったタッド・ベントリー師による癒しのミニストリー集会」・・4月よりゴッド・TVでライヴ映像が流されていましたので注目していました。やはりそうでしたか!主は素晴らしいですね! ……

私もゴッド・TVを観ながら、主がなせる御業に感激し、興奮し、感動しておりました。ベントリー師は御霊の導きに委ねてミニストリーを行われますが、実は、野外でもたれたある日の集会のことが私の心に残っています。その集会は会場全体を包み込むような、それまで以上の深いご臨在で満ち満ちました。いつものようにベントリー師はステージの中央に出てこられたのですが、そのままメッセージも語れず、癒しのミニストリーも始めることができませんでした。幾度も涙をぬぐいながらそのまま更に深いワーシップへと導かれたのです。この日の癒しは格別なものとなりました。主が喜んで訪れて下さったのですから当然のことかもしれません。

あのとき確かにベントリー師はステージ中央に立っておられましたが、その姿勢はミニスターとしてではなく、一人の神を愛する礼拝者としての姿でした。ただひたすら主の御前で礼拝を捧げ続けておられたのです。それは作り上げられたものではなく、ベントリー師の主に対する信仰の姿勢が、そのまま壇上で表されたものだと思います。

ベントリー師のミニストリーには人を魅了するような作り上げたパフォーマンスも、見せ掛けのかっこよさも見つけることはできません。そこにあるのは御霊がキリストを求める人々の上に力強くご自身を現され、主の御業を御言葉通りに成就しておられるという現実だけです。新約聖書「使徒の働き」に、また次の1ページを書き綴っているような気持ちになりました。私は英語が全くできないので残念ですが、それでも霊的にひきつけられ、会場の一員のようになってネットですが集会に参加させていただいています(笑)。主の栄光ある働きを目にできることは大きな喜びであり、次は必ず日本だ!という希望ある信仰に立たされます。ハレルヤ!……』(終わり)


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